変革期が訪れて活気付く一方、大きな諍いとは無縁の、例えば沼淵のような戦を生業とする者にとっては些か退屈な時間がターミナルに訪れて少しの事。 相変わらず冒険旅行は発生するし、中には危険度の高い戦闘任務もありはするが、世界図書館が係わったこれ迄を振り返れば誤差の範囲に過ぎず、常に解決は迅速だった。 何も絶えず戦場に身を起きたい訳でも無いものの、悪夢のような平和の日々だと何処かの世界の戦争屋がぼやいていたのを思い出し、愚かしい事だ――と、何故か己に冷ややかな紅眼を向けた。 世界平和大いに結構。兵はその為に戦うのだから何ら問題は無かろうと。 そんな、ある休日の事。 沼淵は取り立ててする事も無く、自室で立ち尽くし、無為に壁を眺めていた。 聞けば、此処は嘗て父、沼淵康之丞が使っていた部屋だと謂う。その事自体に何の感慨も湧かぬでは無いが、深かったり強かったりといった暑苦しい想いに駆られる程でも無い。 唯、空虚な心でその事を思う度、少しだけ自分が『人』でいられる気がした。 それにしても退屈である。足繁く通っていたあの酒場に久方振りに出向こうかとも想ったが、断酒をした手前、あまり気が乗らない。 彼は、達者でやっているのだろうか―― 「っ!?」 ――激痛が走った。 「あっ……ガア!」 左腕が爆散し、電流の如く全身に駆け巡る心地――幻視痛。 隆々とした漆黒の異形の姿を思い浮かべた直後の事だった。 彼に吹き飛ばされとうに喪われた左腕が、イタイ――全身の血が逆流する――吹き出るなり冷めた汗が不快だ――クスリ――さ――け――酒は! 足が縺れて肩から壁に激突しても微かな痺れを伴うのみ――それ処では。 「アア、酒、サケをっ――!」 咄嗟に室内を見渡す――無い。 簡素な棚に体当たりする――がちゃがちゃと雪崩れたせとものの中にも無い。 そうだろうとも――自明の理とは拷問の最中でさえ容易に自らへ衝き付けられるものだ。 酒など此処には無い。断酒をしたのだからある筈は無い。 愚かな事だ、なんと残酷な、一体誰が、某は――苦痛と禁断症状に見舞われ、沼淵は棚に衝突した弾みで自分が転倒した事すら判らなかった。 「……! …………っ、」 声にならない悲鳴を上げては無様に床を転がった、振り回した右腕で突き飛ばした椅子が机や他のものを派手に散らかしていた、皆が沼淵と一緒くたになって這い蹲りのた打ち回った。 長らく使っていないグラスが目の前に落ちて、割れた。 それが最後に見た全てだった――。 ※ ※ ※ 醒めて広がる既視の情景。 幾度目かの――此処は――医務室――の、天井。 誰――菖蒲殿か? 偶さか様子を見に――済まない事を。 ぼ――それが、しは――ヌマ――ブチ。 紅国陸軍第七十二小部隊隊員、沼淵誠司軍曹。 「……ふん」 朦朧とする中、自己の認識に用いたものはとうに意味を為さぬであろう祖国での肩書き。ロストナンバーになって久しいと云うのに、なんと空々しい事か。 だが、皮肉屋の自身を認め、沼淵は漸う頭に掛かる霞を少しだけ払う事が出来た。 懼らく鎮痛剤を投与されたのだろう、足腰や肩はおろか指の先一本存在しないかの様に何も感じられなかった。 これもまた既視、左腕の欠損が全身に広がったと思えばどうと云う事は無い。 「――気が付いたのかい」 視界外から耳慣れない、しわがれ、くぐもった男の声がした。 首を廻そうと試みたが巧くいかず、足音も近付いて来たので早々に止した。 やがて無機質で退屈な天井しか無い沼淵の視界に、よれよれの白衣を纏う年嵩の影が聳え立った。 やけに首を突き出して此方を見下ろしている様に感じられるのは、男が酷い撫で肩で猫背だからか――薬の所為もあって影になっている顔の判別は難しい――下らない事にばかり頭が廻る己に、沼淵はまた鼻を鳴らす。 それが自嘲に由るものと知ってか知らずか、男――懼らくは老人医師の口元が横に伸びて、僅か吊り上がる。そして云った。 「親父にそっくりだな」 ――なんだと? 「父を。識、って……?」 無意味だと気付く事すら無く反射的に問えば、老人は愉快気に頷く。 「しょっちゅう怪我作って来やがってな。何度診てやった事やら」 何処かで聞いた様な話――だが、父の事とも自分の事とも思えるそれは、何れにせよ他人事の様にしか思えない。 「お前の話もよく聞かされたもんだ」 懐かしそうに語られても、まるで実感を伴わない。 これもまた副作用か? 父に何の感慨も擁かぬ程、己は冷血だったか? 某が辿った道筋は虚ろな模倣に過ぎぬと? 刹那の狭間に明滅した幾つかの疑義に応える余裕は無い。何しろ意識の殆どが霧に覆われてしまっているのだから。 血と硝煙と悲鳴と墓場の生臭い匂いが染み付いた、性質の悪い霧に――。 「だからな、お前さんの悩みも手に取るように判る」 「何、を」 突然そんな事を云われ、沼淵は眉を潜めた。老医師は無遠慮に続ける。 「猫に恐怖を抱くだろう。背丈に苛立つ事もあるだろう。断酒を苦慮する事もあるだろう」 康之丞の子煩悩を聞かされた如きで知り得るとは凡そ考え難い、誠司の内側。 誰にも語らぬ機微の羅列を医師は次々とやってのけ、そして問いで掬ぶ。 「それが情でなくて何と云う」 「……!」 「無いものねだりを繰り返すその性を人と云わず……何と云う」 知った風な口を――反論はしかし、喉元で麻痺した。 卒塔婆を伴う父の背中が脳裏に浮かんだからだった。 だが、それ以上何も無い。血の巡り、その緩急すら覚束ない。判らない。 「そうか……そうだろうよ。お前にとっちゃ記憶の中の親父が一番最初に触れた『人』の『情』そのもの。謂わば象徴って訳だ」 その言の葉は、まるで沼淵の頭の中身を診ているかの如く。 「そっくり同じ道を辿って来た手前、知らず知らずの内に憧れるのも無理はねェ。人間らしく幸せに生きてェのなら人間味ってやつは不可欠だからな」 「……誰が憧憬など、」 「親父もそれを望んでたのかも知れん。しかしよ倅」 老医師は沼淵の言葉を遮って背を向け、器具の片付けでもしているのか、なにやらカチャカチャと物音を立てながら――それは沼淵の濁った意識に酷く突き刺さった――片手間に馴れ馴れしく口を動かす。 「アイツは良い奴だったがね、死人にゃ口無し糠に釘。親が望む姿に子が成らなきゃならねェ理由はねェ」 「何が云いたい」 「判らんか」 否。先刻からこの翁はワカリキッタコトバカリ重ねている。故に真意が見得ぬ。 「子の幸せを望むのは親の勝手、だが子がどう生きるかは子の勝手――そこはお前の道だ、親父の道じゃねェ。お前の為したい事を為せば良い」 「それぐらい判って、」 「本当に?」 老医師がくるりと此方を向く。 室内は耳鳴りがする程静まり返っていた。 間延びした会話に似つかわしくない息の詰まる緊張が、脳への酸素供給を阻害する――沼淵の意識は再び明滅を繰り返す、霧が覆う、帳が下りる。 こつ。こつ。こつ。 やけに足音が響く。 必死に目を開けようとする――云わせてはならないから。 老医師の顔が耳元に近付く――抗うには意識を保たねばならない――何故かそう思い込んで身動ぎを試みても先刻承知の通り身体ごと喪失した己にそれは不可能で――自分は何を恐れているのか――恐れ、恐い? 何がだ。 支離滅裂な思考全体に吹きかけるような息遣いが間近で感じられた。最後だ。 「――お前は、何のために生きてんだい?」 「っ!?」 飛び起き――ようとしてベッドに両手を突いたつもりだった。 当然ながら左腕を空振り、故に僅か上体を浮かせ、崩れ落ちるに留まる。 ――間抜けめ。 平常心を欠いた己へ直ちに毒づく。 そして気が付いた。痛みが引いている事に。 ――やれやれ。 微かに安堵の息を漏らし、改めて身を起こす。 視線を巡らせ、頭を振っても、あの老医師の姿は何処にも無かった。 いつの間に寝てしまったのか。 ――或はまた夢でも観たか。 成る程、夢の産物ならば此方の腹を覗き見る不条理もまた条理。 何のために――か。ふん、要らぬ世話だ。 見た処室内の様子は老人が欠けた他は最前の記憶と寸分違わぬ。麻酔や鎮静剤を投与された半睡状態で視覚が有効なまま眠っている事もあるのだから、それ自体に何ら不思議は無い。 天井、壁、カーテン、ベッド、何もかもが白く染まる殺風景。脱衣籠に畳まれた軍服、原理不明の医療機器類――老医師が触っていたであろう器具もある。 大方この情景に老人の幻覚を重ねたとか、そんな処だろう。 それで、某はいつから夢を観ていた。 ……いつから? いつから、自分は。ゆめ。目的。 臓物が掻き回される心地。首が、肩が、背筋が凍えんばかり。吐き気さえもよおす。血が足りない――否、足りないのは――? ――為すべき事を為せ。 嘗て、世界樹旅団に属していた頃。夢に顕れた父はそう云った。 ――為したい事を為せ。 先程、夢枕に立った老人はそう云った。 何れ夢、ならば何れ沼淵自身の言葉とみて良い筈。 歩みを、思考を、推す――その切欠として自分は夢を通じるのかも知れない。 果たして功を奏したかは定かではないが、これ迄沼淵は確かに己の意思で決断を下して来た。よきにつけ悪しきにつけ悉く明瞭な結果をみたのは間違いない。 それらは「為すべき」と判じた事に他ならなかった。 けれど、戦いが終わった今、己は何を「為すべき」か。 或は――「為したい事」が? 最期迄祖国と家族、仲間を守る為、生かす為に戦った父。 沼淵を生かす為、文字通り身ごとぶつけて来た巨大にして異形たる友。 多くを生かすべき数を率いる上官、数そのものたる部下。 菖蒲殿、永遠の少女、牧師、鳥妖、半妖、鬼面を分つ男女、拳を失くした達人――問いを投げ掛けてきた数多の出会い達。 彼らの果ては満たされていたか。彼らの道行きは今尚満ち行くままなのか。 「っ、」 置き去りにされた子供の様に冷たい焦燥が、胸を焼いた。 何故ならば、居なかったから。 脳裏に、網膜に、浮かんで満ちては消えゆく彼らの中に、己の姿が。 同時に、理由に気付いてしまったから。 彼らと比する想いが塵芥程も湧かなかった為なのだと。 自覚して尚、見当つかずな自身の所在を、情動の一切を、認められぬ事を――。 ――最期だけは倣わん。某は生きて帰る。――必ず。 菖蒲の元で父の軌跡を知った折の決意が白々しく思い起こされた。 だが、それでどうなる――直ぐにいつか竜刻の大地で問われた、また幾度と無く自問した言葉が薄明染みた意識に浮かんで、嘗てのそれを容易く呑み込んだ。 ――何処だ。 始めから無いのか。 いつの間にか失くしたのか。 咄嗟に見たのはぶら下がるに任せた、左の袖。 中には何も遺されてなどいないのに、他に縋るものがなかった。 父でも、友でも、他の誰でもない、己の――生の意味。 そこにある筈の、 「あ――」 望み。 「某は」 出会い別れた者達の影が沼淵の身体をすり抜けて。 持ち寄られた薪のように一なる処を徐々に温め、焦がして焼こうとする。 あたろうと、掴み取ろうと、無意識に『両手』を伸ばした。 だが、此岸の右手と彼岸の左手が包み込む直前―― 「僕、は」 焦点に火は熾らず、故に像を結ぶ事無く雲散し、霧消した。 己の名を続けようとした声は無様に掠れ、じっとりとした静寂に融けて、消えた。 (了)
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