雪を交えた雨が降っている。雪に沈んだ針葉樹の森が風をうけて波に似た音を鳴らしていた。雨は雪を打ち、明日の朝には雪の上に氷を張らせ、流れる風をことさらに冷たく凍りついたものへと変じさせるだろう。 四方を深く閉ざされた森で囲まれた寒村は、ある日、一夜の後に無人の廃村へ姿を変えた。残された家々はそのままに捨て置かれ、住まう者も足を寄せる者も無くなった。そうしてそのまま年月は流れ、村はやがて都市伝説の的となり、途絶えていた来客は再びぽつりぽつりと足を寄せるようになったのだ。 いわく、この廃村のどこかに”霊界への入り口”があるのだという。その入り口はある日突然現れて開き、村人すべてを引きずりこんで再び閉じたのだという。それ以来、この村を訪れて円座を組み怪談を語れば、入り口は再び開き、怪談の語り手たちをそのままさらい飲みこんでしまうのだという噂話が、まことしやかに伝えられるようになったのだ。 ことの真偽はさておき、その噂話に興味を惹かれた旅人たちが村を訪れたのは、雪交じりの雨が降る夕方遅くのこと。空は重々しい濃灰で覆われ、針葉樹の森を縫って吹きこむ風は雪の冷気を含み、底冷えのするものとなっていた。 廃村となって長く放棄されてきた場所ながら、点在する家々の中にはさほど壊れた気配のない家もある。その中でも目を惹いたのは古びた山門の奥にある小さな社と、それに並ぶ社務所だった。 社を覗く。がらんと広がる寂れた空間が広がっていた。さらに奥へ続くらしい扉があるのが見えた。 とにかくも、一同の目的はこの村で怪談を語り合い、果たして本当に”入り口”が開くのかどうかを試してみることにある。そうしてそれを試すためには、ひとまず風雨のあたる場所から逃れる場所を見つける必要があるのだ。 一同は誰からともなく社務所へと向かう。――先人たちのしわざだろうか、ガラスの引き戸は鍵を壊され、容易に中へ踏み込める状態になっていた。※このシナリオはロストレイル13号出発前の出来事として扱います(搭乗者の方も参加できます)。
社務所の中は荒らされ、駄菓子の袋やジュースや酒の缶が雑然と転がっていた。 割られた窓からは雪をまじえた夜風が吹きこんでくる。当然に電気も通っていない。ゆえに暖をとるための手段もない。 ヴィヴァーシュ・ソレイユに声をかけられ同行してきた雨師が部屋のひとつひとつを覗きこみ、薪ストーブが置かれた部屋があるのを見つけた。 外にいるよりはもちろんましなのだろうが、それでも暖がなければ体は冷えてしまうだろう。怪談を語るよりも先に手分けして社務所を巡り、ようやく少しばかりの薪を見つけた。それを手慣れた調子でストーブに入れて火を起こすと、雨師は改めて五人を手招き、丁寧に膝を折る。 薪の数は少ない。雑談するのは後回しでもいいだろう。 そう判じたのか、誰からともなくストーブの周りに腰を落としていった。 心ばかりの暖が小さな音を鳴らしながら赤く爆ぜる。 ◇ 起きているのか眠っているのか分かりにくい糸のような目を撫でながら、桂也乃はゆっくりと口を開く。手にしている眼鏡についた雨粒をざっと拭き取ると、やはりのんびりとした所作で顔の定位置へと戻した。 「古い知り合いから聞いた話なんだけど」 のんびりとした穏やかな声が薄い闇の中にぽつりと響く。 目許に眠たげな空気が漂っているせいか、落とす声も眠たげなものであるように思える。実際に、胡坐で座り、時おり思い出したように小さく体を揺らしながら静かに言葉を継げるその様は、夢の淵に立ちまどろみの中にあるような風でさえあった。 「そいつの友人は小さい頃から体の丈夫なところとか体力があるのが自慢でね。親父さんの影響もあったんだろうけど、野球が大好きだったんだ」 少年の家は酒屋を営んでいた。あまり大きな店ではなかったが、それでも少年の父親で二代目。町の中に溶け込んでいて、酒の他にもちょっとした駄菓子や日用品も並べているせいもあってか、それなりに忙しい店でもあった。 配達や仕入れに勤しむ父親と、夫を支え店番や切り盛りを担う母親。少年もまた物心がつく前から店の中を飼い猫と共にチョロチョロと走り回り、小学校に入学した後は店の手伝いや家の手伝いを任されることもあった。 動物を愛し大切に育てる優しさと、生来の素直な性格もあってか、少年は文句もさほど言わずに両親を手伝い、その傍らで勉強や野球の練習も怠ることをせず、ついには野球の強豪校への推薦入学を手にするに至った。少年の喜びは言うまでもなく、両親や店を訪れる客――周囲の祝福や期待も、並々ならないものであったという。 少年の未来は約束された明るいものであるに違いない。誰もがそう信じて疑うことすらしなかった。――けれど、高校に入学した矢先のこと。そう、不幸は突然訪れたのだ。 高校へ向かう道すがら、自転車を走らせていた少年は、横手から突如現れた居眠り運転の自動車との接触事故を起こしてしまったのだ。 むろん、少年に一切の非はない。運転していた初老の男のミスによるものだった。 けれども少年は軽く飛ばされただけで、怪我の内容としては軽度で済むに留まった。自転車はひしゃげてしまったが、長い通院等を要するものではないと診断されるに留まったのだ。 少年はもとより、周囲の誰もが安堵した。少年の未来のすべてが潰えてしまったのではなかろうかと、誰もが心配したからだ。むろんしばらくの休養は余儀ないものとされはしたが、その後少年は練習にも戻り、一層積極的に己を研磨し始めたのだ。 ――けれど、楽観は次第に雲を帯びて薄暗いものへと変わっていった。 ボールがブレて見える。おかげで打つことも取ることもままならない。それどころか、すぐ近くにあるものを手にするという行為にも難儀するようになってしまった。ついには日常生活に支障をきたすに至ってしまう。――少年の目に細かな傷がついていたのだ。むろん、自動車との衝突事故に由来するものだった。もはや快癒など望めるはずもなく、やがて少年の目は完全に光を失ってしまうのだろう。 誰もが絶望の底へと叩き込まれてしまったのだった。 「ヘェ。それで? その子は野球生命を断たれちまったんだろう?」 息をついた桂也乃に問うたのはダンジャだった。ならば、未来を断たれた少年は絶望の内に自ら死を選んだのか。 「んー。いいや、違うんだ」 しかし桂也乃は頭を掻きながらかぶりを振った。 「そいつはちゃんと大きな大会でも活躍したし、進学も出来たし、そこでもまたえらい成果を挙げてたんだ。俺はそいつと直接話したこともないけど、でも名前はホントあちこちで見たし聞いたよ。……今も元気なんじゃないのかな」 「良い医者を見つけたのかしら」 神無が告げる。桂也乃は曖昧な声を落として首をかしげる。 「それは皆も不思議がってたみたいだった。奇跡が起きたのかとか、よほど凄腕の医者に会ったんだろう、とか。……でもそいつは特別な手術をしたわけでもなかったらしいし、結局理由はよく分からないらしい」 「ヘェ。まんま奇跡ってやつなのかもしれないね」 ダンジャが言う。桂也乃はやはり小さく呻き、曖昧に首をかしげるばかり。 ところで、少年はとても動物が好きだった。小さい頃から猫やウサギを飼っては細かな面倒も見ていた。それは長じても変わりなく、事故に遭った時も一匹の猫を飼っていた。とても人懐こい猫で、少年の友人――桂也乃の知人にとっても見知った猫だった。 少年は高校を卒業し進学を決めた後は実家を離れ一人暮らしを始めていたが、それでも比較的頻繁に実家への帰省を果たしてもいた。友人が少年の家に遊びに行ったとき、そこで目にしたのは、視力のほとんどを失って歩行もままならなくなっていた猫の姿だった。 事故に遭ったんだ、と、少年は言った。自分が事故に遭った後、猫もまた事故に遭ったのだという。偶然なんだと少年は言った。 猫はそれからも変わらず大事にされ、家の中の日当たりのいい場所に置かれた専用の座布団の上でのんびりと寝息を立てていた。そのまま穏やかな余生を送り、静かに天寿を全うしたのだという。 「……それは」 神無が呟く。同時に桂也乃もまた口を開けた。 「そいつが言うには、事故の後、なんだかやけに夜目がきくようになったとかなんとか」 雪を交えた風が窓を叩く。 話し終えた桂也乃は小さなあくびをひとつ落とし、それからしばし静かに口をつぐんだ。 ◇ 続き、口を開いたのは神無だった。 外を流れる冬の音が耳に触れる。 いわゆる百物語のようなものなのだろうが、吹き消すロウソクが用意されているわけでもない。わずかな暖をとるために用意された薪が心もとない光をぼうやりと放っているだけだ。 森が唄っている。その声に耳を寄せながら、神無は静かに語りだす。 「私が故郷で退魔師をやってた頃に、男のひとがひとりでやって来て、高名な音楽家の霊を鎮めて欲しいっていう内容の依頼をしてきたの。……私はまだ駆け出しだったし、それが私がひとりで引き受けた最初の依頼でもあったわ」 向かった先は山奥の古びた廃屋だった。 周りには他に民家と呼べるようなものもなく、一番近い集落まで車で一時間近く山間の狭いアスファルトを走らなければならないような場所だ。それでも電柱などは通っていたし、獣道を進まなくてはならないような環境にあったわけでもない。――要するにちょっとした別荘のような目的をもって建てられたものだったのだろう。 なるほど、高名な音楽家がひとり静かに作業をするために使っていた場所なのだ。こうまで人の気配を断った場所でならば、思う存分に自分の世界を創り広げることも出来ただろう。 平屋建ての、決して豪奢とは言えない造りの家屋ではあったが、それでも質素ながらも品の漂うもので、並べられた瓦も使われている木材も、その隅々にまで静かなこだわりを窺い知ることの出来るものだった。長く放棄されてきた廃屋のほとんどは湿気を吸い風雨に朽ちていくものなのだが、神無が訪れたそれは、まるで眠っているだけのようにすら感じられた。 音楽家はこの中で自殺したのだという。 首を吊り、その死体は誰にも見つかることもなく数日を経て、首は千切れ、自らの汚物の中で目玉と舌を垂らした凄惨な状態で転がっていたらしい。 彼が何を苦に思い自身の命を絶ったのかは知られていないというが、神無に依頼を持ちかけてきた男が言うには、ひどいスランプの中にあったのだという。 神無も依頼を請けた後、ここに足を運ぶ前に音楽家に関する最低限の情報は調べてきたつもりだった。確かに音楽家が自殺をはかった年からさかのぼり二年ほど、新しい曲は発表されていないのだ。ならば、男の話も信憑性はあるのだろう。 玄関と思しき引き戸に手をかける。依頼人の男から合鍵は借りてきているが、いわくつきの場所には招かれざる客人たちが好奇のままに押し寄せるのもありがちなこと。鍵や窓ガラスは無残に壊され、土足のままに踏み入った客人たちが残したゴミなどで有らされているのが、半ば当たり前のようになっている。 しかし、引き戸の鍵は役目を果たしたままでいた。しっかりと施錠されているのだ。 わずかな肩透かしを感じながらも預かった鍵で玄関を開き、錆びた気配のない引き戸をくぐり中に踏み入れた。――その瞬間に感じられる空気の変化。重く、粘り気を帯びたようにさえ感じられる空気の隙間を縫うように歩き進む。 部屋数も多くはない。どの部屋も覗いては見たが、どこもまったく荒らされていなかった。それどころか、定期的に手入れされているのだろうか、最低限の家具類も揃っているようだし、ともすれば生活することすら可能そうだった。 負は負を招き寄せるものだ。悪霊とされるものが住まう場所はひどく荒らされ汚されることも少なくない。少なくともそういった現場ばかりを巡ってきた神無にとって、その清廉さは物珍しくさえあるものだった。 そうして最後に覗いた部屋の真ん中、大きな和琴がひとつ置かれていた。 一般的には箏と呼ばれるものが多く知られている中で、和琴というものを目にするのは恐らく珍しいことでもあるだろう。神無も目にするのは初めてだった。 和琴に惹かれるように部屋を進む。畳床もきちんと整えられた状態で、損壊などはまったく見受けられない。――ただ、和琴を囲むように散らされた紙面が幾枚か。手にしてみればそれは手書きの楽譜だった。 番号が振られているわけでもない。専門家のように譜面を読めるわけでもない。それでも子どもの時分、父の手配で手当たり次第といっていいほどにあらゆる習い事をさせられている。そのおかげで多少なら譜も読めるし楽器もある程度は見よう見真似で触れる程度には身につけてもいた。 拾い集めた譜面を注意深く検めていく。そうしてひとつの曲として成るようにと繋げていった。気がつけば和琴の前に膝を折り、張られた絃と手にしている譜面の束とを見比べていた。幾度か繰り返し検めた後、神無はふと気がついた。 ――記された音が足りていない 確かにこの譜面のままでもひとつの曲としては充分に成るのだろう。けれども神無の感覚から判じたときに、ここに音を置けばきっともっとしっくりと馴染む曲となるだろうと思える箇所がいくつか点在していたのだ。 和琴を前に座り、譜面を並べながら目を閉じる。 粘り気すらはらみ重く沈む空気は、夜の海の得体の知れない奥底を彷彿とさせた。神無はその海の底、音も光も飲まれた闇の中、ゆっくりと絃に指をかけるのだ。 楽譜に足りていないように思えた音は浮かんだ通りに埋めていく。広がる音は空気を揺らし、小さな波をたてて響き渡る。波は沈んだ空気を静かに清め、空気は次第に清廉としたものへと変わっていった。 そうして曲を奏し終えた神無が譜面と絃に落としていた視線を持ち上げると、そこにあったのはおよそ人が住めるような環境にはない雑然と荒れた部屋の風景だった。空気からは粘り気も失せている。――そこにあったのはただの鄙びた廃屋だったのだ。 「なるほど。そうして依頼は完了したんだね」 口を開けたのは春臣だった。 「私も楽器をやるから、すごく興味のある話だったよ。その音楽家も、名前を教えてもらえればもしかすると分かるかもしれないな」 「……守秘義務があるので……」 応えた神無にうなずく春臣を確かめながら、神無は静かに先を続ける。 「その後、私は依頼人を訪れ、楽譜を手渡して次第の報告を済ませました。……音楽家の霊は消えたし、彼が創った最期の曲は依頼人を通して発表されたはずだったの」 でも、と言葉を切って、神無はわずかに眉をしかめた。 音楽家の曲が世に出ることはなかった。依頼人に報告を済ませたその日の夜に、依頼人の家が火災を起こしたのだ。原因は火の不始末。不幸な事故に遭ったのはまさに依頼人ただひとりだけだった。 全焼した家の中、半ば炭化した状態で発見された依頼人の身に何があったのかは分からない。音楽家の霊が結局昇天したのかどうかも分からない。その目的も分からないのだ。彼の望みが何だったのか、それすらも分からないまま。 「これは私の推測なんだけど」 じわりと言葉を続け、神無は目を伏せた。 「すべての真相は”足りない音”が知っているんじゃないかって思う」 ◇ 「うちの祖母は若いころ芸者をしていた人でね。引退した後は三味線弾きを教える側になったんだけど、まぁ、年をとってからも凛とした人でねぇ。背筋なんかもこう、しゃんと伸ばしてね」 言いながら、春臣は自分の猫背を一瞬だけぴんと伸ばして見せた。が、それも長くはもたず、すぐにまた常通りの猫背へと戻ってしまう。 「子どものころ、祖母に預けられていた時期があるんだ。これは祖母の家にいた時の話さ」 数週間前から巷を賑わせていた噂があってね。 ひっそりとした語調で落とす春臣の声は、窓を叩く雪と夜風と近しい律で、闇の中を広がっていく。 夜中に男が界隈を徘徊するようになっていた。時には裸足で、ひたひたと音を引きながら、熱に浮かされたような足取りで。 酒に酔っているのだろうか。けれどもどうもそうではないらしい。声をかければ蚊の鳴く声よりも小さな声で応えるのだという。――……は、どこにいるだろうか? 恐らくは誰かを探し求めて心を病み、寝静まった町中を夢見のままに徘徊しているのだろうと、界隈の人間たちは男に薄気味悪いものを覚えながらも、別段害があるわけでもなし。男はそのまま捨て置かれるところとなった。 春臣の祖母の許に女がひとり訪れたのは、男が夜を徘徊するようになってから、しばらく経った後のこと。 薄く、夢を見たような気がして、春臣はふと目を覚ます。時計を見れば夜中の二時を回るか回らぬかといったころだった。もう一度眠ろうと布団を引いた少年は、遠く近く鳴り響く祖母の三味線の音を耳にする。 惹かれるように身を起こして部屋を出る。パジャマ姿のままで祖母の部屋の襖を開けた。三味線の音は春臣が布団を出て部屋を出たのと同時に止んでいた。 祖母の部屋には見知らぬ女の姿もあった。三味線を抱えた祖母と向き合い座る女は、子どもの目から見ても可憐で美しかった。けれどその整った顔は、何かに怯えたような色を浮かべ、小さくカチカチ震えてさえいるのも知れた。 ――起きたのかい 祖母が春臣を横目に捉える。うなずいた春臣を部屋に招き入れ、自分の後ろに座るように言うと、祖母は再び黙してしまった。 それから数分もたたない内に、家の玄関が何者かによって激しく叩きつけられる音がした。開けろ、ここを開けろ。そこにいるんだろう朱里。おれだ、おれだ。一緒にいこう。開けてくれ。開けてくれ。おい、開けろ。おれだ。そんなことを喚きたてながら玄関を叩き続ける男の声に、女は身を縮めてひどく怯え始めてしまった。怯え身を縮めながらも、どうしてか這うように部屋を出て行こうとする女を、祖母の凛とした声が留める。おやめ、出ていくんじゃない。ここにおいで。留められ、女は玄関を叩く男の声と凛と響く祖母の姿とを幾度となく見比べていた。 春臣は祖母の背に隠れるように座ったまま、食い入るように女を見ていた。 整えた黒髪を掻きむしり、涙で化粧は崩れ、けれど紅を引いたままのような唇はいやに赤いまま、時おりぐにゃりと歪み笑みを浮かべる。 男の声が女を呼ぶ。女はついに部屋の襖に手をかけた。同時、祖母もまた、抱えたままの三味線に撥をあてがった。弾きだされたのは明烏の律。べぃんべぃんと絃が鳴る。 主を思うてたもるもの、わしが心を推量しや 祖母が唄う。女は這いながら廊下を進み、玄関へと至り、鍵されたガラス戸をすらりと引き開けた。 たとえこの身は淡雪と、共に消ゆるもいとわぬが 祖母は部屋に留まり三味線を弾いたまま動かない。 春臣はしばし祖母の顔を眺めていたが、やがてそろそろと立ち上がって女を追った。そうしてそこに見たものは、金属を掻いたような音にも似た声で笑う女の姿と、その女の足にすがり歓喜している男の姿だった。 この世の名残に 今一度、逢いたい見たいとしゃくり上げ 祖母が唄う。三味線の音が闇夜を揺らす。 女は自分の足にすがる男の背を目掛けてナイフを振り下ろした。幾度も幾度も振り下ろし、そうしてやがて恍惚とした顔のままに動かなくなった男の腕を引きずって、どこへともなく消えてしまったのだ。 気がつけば後ろに立っていた祖母が、呆然としたままの春臣の頭を撫でながら深く長いため息をつく。 素人じゃこんなもんかね。 言いながら玄関先へ向かった祖母は、そこに倒れていた見知らぬ男の肩を軽く叩き始めたのだった。 「別の男?」 ダンジャが問う。 「男は女が引きずっていったんじゃないのかい?」 「ええ。……後で祖母から聞かされたのだけど」 応え、春臣は記憶の続きを語りだす。 女は芸者をしていたが、男の甘言にほだされて稼ぎのほとんどを男に渡し、ついには”共に死のう”という男の言葉にも騙され、ひとり死出の道に立ってしまった。男は女につぎ込ませた金を使って遊び呆けたが、やがて女への情愛を抱いていたのに気がついた。もう一度女を抱きたいと願ってもすでに遅く。女を追って死出の途につきこそしたが、その先でも女を見出すことは出来なかった。 もう一度女に逢いたい。その一心で現世に迷い出で、まるで関わりのない男に憑いて町中を徘徊しては女の姿を探し求めるようになったのだ。 女が祖母の許に現れたのは三味線の音に惹かれた故かもしれず。あるいは祖母が弾く新内節に惹かれた故かもしれず。いずれにせよ祖母は女に三味線を聴かせ穏やかな心のままに浄土へ送ってやりたかったのだと告げた。けれど失敗した。女は狂喜の内に男を”呪い殺し”、共に深淵続く救済のない死出の旅についてしまったのだ。けれど、少なくとも女は満足して旅立った。男もまた幸福の内にあっただろう。例えその先にあるのが一筋の光も射さぬ暗礁の底であったとしても。 「祖母は私の頭を撫でて言ったよ。生半な気持ちで女を惑わしちゃいけない。気をつけなさい、ってね」 呟くように落とした春臣の声は闇に吸い込まれて消えていった。 ◇ ヴィヴァーシュが手にしている手鏡の鏡面に、部屋を満たす薄い闇が映っている。仄かに瞬くのは爆ぜる薪の火の粉の赤だ。視線を横にやれば、ヴィヴァーシュからわずかに離れた場所で膝を折り座る雨師の姿が見える。雨師は皆が語る話に深い興味を示し、次に語られるものを待ちわびているかのように目を閃かせていた。 ――深く広がる闇はあまり好きではない。 爆ぜる熱に光を求め、薪に視線を戻した後に、ヴィヴァーシュはゆっくりと口を開く。 「奇妙な、というよりも、前々から不思議に思っていたことがあるのですが」 静かに前置いた後、細い指で鏡面を撫でながら、ヴィヴァーシュは左目の緑色をすがめた。 古代、鏡は御神体として奉られたり、豊作の吉凶を見立てる占術の道具としても用いられたものであったという。その反面で、鏡は妖として列するものとしても知られている。 例えば九十九神というものは大切に使われた物に宿るものであるという。畏敬の念は強い力となって対象となるものに宿り、それを神魔と称されるものへと押し上げていく。ならば御神体として奉られたり、ましてや吉兆を占うものとして使われたものならば、一層強い力を宿しもしたのかもしれない。 歳月を経た現在でも、鏡は日常的に使われるものだ。毎日何度となく姿を映し、鏡面に映る己と目を合わせ、そこに自分というものを見出している。中にはわざと違う動きをして、映った相手を驚かせるものもいるという。 けれど鏡にまつわる怪異な事象はそれだけに留まらない。 例えばふたつの鏡を向かい合わせに置いて合わせ鏡を作る。そうすることでそこに異界への入り口を作り出すことが出来るのだという噂もある。定められた時間に鏡面の前に立つと異界に引きずり込まれるという噂や、やはり定められた時間に鏡を覗くとその端に未来の伴侶の姿が浮かぶという噂もあるのだ。 あるいは、鏡に映る自分に対し暗示をかけることで自らを律したり、逆に精神を瓦解させたりすることも出来るらしい。 いずれにせよ鏡面に映るのが自分であるということを思えば、そこには決して傍観者ではいられないという確たる事実が深く根ざしているということにもなるのだろう。 鏡面に映るもの。それが果たして本当に自分自身なのか。それとも鏡に宿るものが見せているだけのものにすぎないのか。鏡面に映る自分に向かい言葉を投げるという行為にあるのは、自身へ向けた肯定であるのか、否定であるのか。 「壱番世界に白雪姫というおとぎ話があります。継母からいじめられ、命すら狙われる姫のお話です。その継母が義理の娘を憎む原因のひとつに、容姿に関する嫉妬があるのですが」 つらつらと語り続けていたヴィヴァーシュは、そこで一度声をつぐみ、浅く息を吐いた。 「世界で一番美しいのは誰? でしたっけ」 桂也乃が声を挟む。ヴィヴァーシュはうなずき、言葉を続けた。 「一説では、鏡に向かって話しかけ続けたことで、継母の精神は瓦解していたのではともされているようです。その説はなかなか興味深いものだと思うのです」 さておき、と言い置いて、ヴィヴァーシュは手鏡の鏡面に目を落とす。闇の中、こちらを見つめ返している自分が映りこんでいた。 鏡に映る自分が現在の自分とは限らない。昨日の自分かもしれない、あるいは明後日の自分なのかもしれない。数日、あるいは数ヶ月単位の内であれば、そこまで目立った差異はないかもしれない。そもそも、古くは占いのための道具としても使われていたのだ。過去から未来に渡り映したとしても不思議ではない。 「残念ながら私はまだいわく付きの鏡というものに行き当たったことがありません。なので、もしもいつかそういうものを前にする機会が出来たなら、その時にはまず訊ねてみたいことがあるのです」 ――あなたはいつの私ですか? 「返事があっても、それはそれで驚くかもしれませんが」 そう言ってヴィヴァーシュはかすかに口の端を持ち上げた――ように見えた。 ◇ あたしの番だね。 そう言って眼鏡を押し上げながら体を揺らし、ダンジャは周りを見回した。 小さく爆ぜる薪は残り少なくなっている。雨師が頃合を見て上手い具合に火を起こしていた。 「あたしの話は皆ほど怖くない」 すまないねと謝りながら、座る姿勢を整える。初めの内は雨師に倣って丁寧に膝を折り座っていたが、今はすっかり砕けた座り方になっていた。 「あたしはその日ひとりで山の中にいたのさ」 落とした断りに続き、唄うような口ぶりでダンジャはおもむろに話し始める。 ダンジャはその日ひとりで山深い中を歩いていた。獣道との呼べぬ草むらを分け入り、ぬかるみに足を滑らせてまろびそうになりながら、けれどその不安定さもまた面白い。 周りに伸びるのは名もろくに知らない巨木の群れ。天の高い位置にはまだ太陽があるはずだが、巨木に遮られてその姿を見るのもままならない有り様だ。 渡る風が樹海を揺らす。波打つ音が耳に触れ、すらりと伸びた金色の髪が風をはらんでふわりと踊った。その風の音の中、かすかに何かを聴いたような気がして、ダンジャはふと足をとめる。 ダンジャの他には誰もいない。誰の気配も感じない。けれども確かに声がした。呼ばれているようにも思え、ダンジャは伸びた草を分けて見た。 そこにあったのはひどく汚れた歪な石だった。ちょうど人の頭ほどの大きさの石が泥や苔にまみれた状態で転がっている。その石がダンジャに問うた。 ――ひとりか? 声とも違う声で問う石に、ダンジャは笑ってうなずいた。すると石はわずかな沈黙の後、誰に押されるともなくひとりでごろりと転がった。 ――ひとりじゃあ足りないが、この際だ、しょうがない 石はごろごろと転がり、ダンジャの傍を離れようとしない。時にはダンジャの道行きを先導するかのように転がった。 ――こっちだ、おいで 気がつけば転がる石に導かれるまま、ダンジャは山のさらに深くへと分け入っていた。 しばらく進んだ先、一頭の熊がいた。こちらに背を向けている。見つかる前に立ち去ろう。音を立てず静かに場を離れようと試みた。が、その試みは共についてきていた石によってあっさりと遮られる。大きな熊だった。ゆうにダンジャの二倍はあるであろう体格のそれは、向き合うものからあらゆる気力を奪うに相応しい風格すら持っていた。 なるべく熊を刺激しないよう、少しずつ距離を離れていくより他にない。考えて、ダンジャは熊から目を逸らさぬままじわりじわりと後退をはかった。けれどその試みもまたあえなく失敗に終わる。 懸命に離したつもりの距離も、熊の四肢にかかれば間合いを詰めることなどほんの一瞬あれば事足りる。振り上げられた腕がダンジャの頭を狙い定めた。一撃で顔面の肉が削られた。目玉も削がれ、視界が暗転する。こうなっては抗いようのない話だ。転げたダンジャをさらなる追撃が見舞う。見えずとも感覚で容易に知れた。腹が削がれ、飛び出した腸は熊の胃に啜られている。 こうしてダンジャ・グイニは山中深くで熊に喰われ、その生涯を終えるのだ。 ――否 間を置いた後、ダンジャの意識は酷い臭いの中で目を覚ます。腹の底で深々とした息を吐きながら、湿った生温かい壁に手を触れる。 ――ちょいとごめんよ 言いながら、触れた箇所にファスナーを縫い付けた。後はそれを開くのみ。 開かれたファスナーの向こうには夕刻前を報せる空の赤と、地を染める赤黒とが広がっていた。そうしてその赤黒い地面の中に、歪な形の石と、ダンジャの頭が共に楽しげに転がっていた。 ――楽しいかい? 訊ねる。 石はケタケタと笑い転がっていた。ダンジャの頭もケタケタと笑い転がっていく。 ――そうかい、そいつは良かった。でも、すまないね。もう時間なんだ 申し訳ない気持ちをそのまま言葉に変える。 熊は咆哮し、そのまま見る間に朽ちていく。瞬く間に風化して崩れていくその体を、ダンジャは悲しげに見つめ、目を伏せた。 死からの再生を果たし、その後も山中深く分け進み続けていった先で、ダンジャはわずかに開けた場所で天幕を張る一団を見つけ、近付いた。オザーアルの一団だった。見るからに屈強そうな男たちと、風体から呪い師であろうと思しき初老の男がひとり。彼らは山中から現れたダンジャに驚きつつも、温かい食事を用意して火にあたらせてもくれた。そうして己たちの務めを明かしたのだ。 いわく、この近隣にモルユが現れた。山の麓近くにあったユジイルの村の全滅した。モルユは死んだ人間の数だけ命を欲する。ゆえに犠牲は際限を知らずに膨れ上がっていくばかり。モルユどもの影響なのだろうが、山が騒いで仕方がない。ゆえにそれを鎮めるためにやってきたのだ、と。 ――けれど、山中の随所を巡っても、どこにもモルユの気配などない。山もすっかり静まっていて、まるで何事もなかったかのようなんだ、と。 「モルユっていうのは魍魎のことさ。元はただの人間さね。禁足日に山に入って、それで熊に喰われたんだろうってさ。自分が悪いのに熊を逆恨みしてとり憑くなんざ、恐ろしい話もあったもんだよねえ」 そう言って、ダンジャはゆるゆると笑う。それから顔を上げてヴィヴァーシュの後ろに座る雨師に向けて声をかけた。 「ねぇ、入り口ってのは開くかねえ?」 問われた雨師は困ったように笑いながら、小さくかぶりを振るばかり。 ◇ 果たして、怪異は語られた。噂が事実ならばこの廃村のどこかに霊界への入り口が開くのだ。 誰もがひっそりと口を閉ざし、耳に触れる音を逃すまいとする。けれども聴こえるのは雪を吹き流す風の音と、その風に流され波を打つ針葉樹の森の気配ばかり。 ひとしきり揃って黙した後、初めに口を開けたのは神無だった。 「……やっぱり都市伝説みたいなものなのかな」 そう言って小さな息を吐く。 確かにその手の都市伝説を生み出すための場所としての条件は最適だろう。中には村そのものが都市伝説とされてしまう場所もあるぐらいなのだから。 「残念ではありますが、皆さんのお話、楽しく拝聴しました」 ヴィヴァーシュが静かにうなずく。 「もう少し暖かい時期だったら、ここで酒でもっていう流れも楽しいんだろうけどね」 春臣がのんびりと笑う。 「その時には三味線でも弾こうかな」 「いいね。ぜひ聴かせておくれ」 ダンジャが言う。春臣はダンジャを見やって小さな会釈を送った。 雪が窓を叩く。窓の外にはもう夜の闇が広がっていた。 と、それまで押し黙ったまま、あるいは眠っているのではとも思われていた桂也乃がふと顔を持ち上げて口を開けた。 「……思ったんだけど」 「ええ」 雨師が桂也乃に目を向ける。桂也乃は変わらず眠たげな目のまま、ぼうやりとした口調で続けた。 「もしも俺たちみたいな、壱番世界の人たちからすれば特異な位置に立ってしまった連中がこの村に来たとしてさ」 「ロストナンバーがここにっていうこと?」 神無が問う。桂也乃はぼうやりとうなずく。 「何か、こう、ホラーなことが起きて、それを解決して、旅人の外套みたいなものの効果で、こう、すっと消えたりすれば、それってやっぱりホラーになるんじゃないのかな」 「ああ、なるほど」 春臣が深々とうなずいた。 「そもそもあたしら自体が怪異になるんだろうしねえ」 ダンジャが続く。桂也乃もうなずき、そうして再び黙してしまった。 しばしの沈黙。再び風と雪の音ばかりが耳に触れる。 「でもねえ。もしも無念を抱えたものが出て来たら、その時は一緒に酒でも飲みゃあいいと思うんだよ。酒は魂の薬だからね」 「適量なら、ですけれどもね」 ダンジャの言葉に雨師が続く。小さな笑みの声がもれた。 「案外、私たちのようなものが色々な場所に新しい怪異を広げているのかもしれないね」 思いついたように続いた春臣の言葉が、赤く爆ぜる薪の火に乗って広がっていく。 再びの沈黙。 「薪ももう無くなりますね。どうでしょう、怪異は場所を変えて、魂の薬でも嗜みませんか?」 雨師が言う。その言葉をきっかけに、五人はのろりと腰を上げた。 一同の顔を見回した後、雨師はふわりと頬を緩め、消えかけていた薪の火を静かに消した。
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