「産まれそうなんだ」 まっすぐな視線、直立不動の姿勢、煌めく黄金の瞳は強い意志を宿し、ここから一歩も引かない不屈の魂を抱えた男、鷹遠 律志。「一緒に来てくれないか」 だが、今、律志はかつてない緊張と不安とに苛まれつつ、トラベラーズカフェに集まった面々に訴えた。「……は?」 あんたが? いや違うよなもちろん、でも俺覚えないぜ、と突っ込みを入れたのは桐島 怜生。「その傷はどうされたんですか。まだ新しいもののようですね」 穏やかに律志の額の掠り傷を示したのは冷泉 律。「コーヒー、一つ追加」 とにかく、座って落ち着いて話して下さい、と律志の飲み物を追加注文し、向き直るのは相沢 優。「産まれるんだ」「それは聞いた」「怜生、黙ってろ」「あ、ひどおぃ、俺は話を整理しようとしてるだけなのにぃ」「察するに、リエ、でしょうか」「えええっ、リエぴょん、ついに子ども産んじゃう……てえっ!」 大仰に驚いてみせた怜生を、律がテーブルの下で天誅を下す。足を抱え込んで、痛いひどい痛い痛いひどいと騒ぐ怜生を放置して、静かに話を進めた。「リーラさんですか?」「そうだ。花街の中で妊娠しているということだけでも辛いのだが、ついに産み月近くなってきて、彼女の体調が思わしくないらしい」 律志は眉をしかめ、無意識に額の傷に触れ、薄くついた血にまた顔をしかめた。「連絡を受けて、急いでやってきたのだが」 よく見ると、服のあちこちに汚れがあり、どうやら慌てたあまりぶつかったりひっかかったりしてきたのだろう。周囲の視線に衣服を整えるが、心ここにあらず、律志の頭にはインヤンガイに行ってやらねばということしか思い浮かばないらしい。「すみません、カットバンありますか」 優が店員に依頼すると、コーヒーとともに数種類のカットバンが届けられた。なるほど、各種の依頼に出かける面々が集う場所だからこそ、時にこういうものを望む客もいるということか、と妙に納得しながら、優は律志の額にカットバンを貼りつける。切れ者の軍人のはずなのに、まるで小さな子どものようだ、と苦笑した。「あのね、おじっちゃま」 怜生がずるずるとフルーツジュースを吸い上げながら、唸った。「出産ってのは女の独壇場よ? 俺達が行ったところで何ができるって?」 だが怜生のことばは、別のところで律志のツボを突いたらしい。見る見る薄赤くなった律志が茫然とした顔になり、「おじ…っちゃま……」 呟いて惚ける。「ねえ聞いてる? だからさ俺らが行って代わりに産んでやったり後始末したりなんてできないんだからね? わかってる? でっかいのがごろごろいる中で産む気持ちとかって考えてやってって、おーい聞いてねえな?」「いや、そうとも言えないだろう」 律が顎に指をあて、首を捻る。「少なくとも、リエには側についていて欲しいだろうし、その分のリエの仕事は誰かがこなさなくちゃならない。リーラさんが寝込んでいることで滞っている仕事もあるんじゃないのかな」「あ、なーる」 それなら俺できるもんねっ、と怜生が頷いた。「この間、代行やったばっかだし、こつもわかってるし、あっちも知らない人間頼むより便利かも」「リエだって自分の子どもが産まれるのなんて初めての経験だろう」 柔らかく笑いながら優が頷く。「その点、鷹遠さんなら少なくとも出産に関わったことはあるし、父親になる不安もわかるから、リエも俺達より安心して不安を吐き出せるんじゃないかな」 そうだな、俺は、と視線を上げて優は続ける。「台所を任せてもらえれば、出産後の食べ物とか、作り置きしたりレシピを置いてきたりできるな。そっちが手が足りてるなら、外回りでもいいけど」 『紅蓮の虎』が身動きできなくなったと知ったら、ちょっかいを掛けてくる馬鹿が現れそうだ、『金界楼』の金夜叉組とか、と付け加えると、「不愉快ですね」 律が穏やかならぬ光を瞳に浮かべ、怜生は慌てて口を挟む。「あーいやいや律くん、そこんところは俺に任せてくれていいから。せっかくの誕生日に周囲で凄惨な状態になるのは可哀想すぎるから」「凄惨な状態? ならばその前に完全撃滅を」「おじっちゃまは黙ってて!」 怜生のことばに刺激された律志が物騒なことを言い出すのを一気に遮る。「いいじゃん、こんな時ぐらいリエぴょんの父親やれば。おじっちゃまになるのは、子どもが産まれてからでいいじゃん」「……」 律志が胸を突かれたような顔になり、俯いた。「……かたじけない」「ああもうこうなったらほら、乗りかかった泥舟? まあ沈むとこまでいっちゃったら皆で背泳ぎでノープロブレムって奴ね!」 わいわいと訳のわからぬことを言いながら律志を慰める怜生、それを微笑んで見ていた優は、黙って目を光らせている律に気づく。「どうした?」「リーラさんは娼妓、だったんですよね」「……ああ」「体調、保つのがうまくいかないかも知れない」 静かに指摘されて、優もはっとした。「壱番世界じゃなくて、インヤンガイで出産するってこと、ちゃんと考えておくべきだと思います」 医療レベルはかなり低い。出産後母子ともに無事だという保証などどこにもない。戸惑いながらも嬉しそうな律志を見つめながら、律は目を細める。「家族を、作ってあげたいですね」 だから俺は、命を救う為に必要な準備を整えようと思います。 低く吐いた唇が厳しく結ばれた。=========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>鷹遠 律志(ctuh9535)相沢 優(ctcn6216)桐島 怜生(cpyt4647)冷泉 律(cczu5385)=========
「女の子なら、ファハイタン(花海棠)にしようかと」 ロストレイルの中で問われて、名付け親を頼まれた律は微笑む。 それは楊貴妃の美しさを表す花だ。 リエのセクタンは楊貴妃、母親の源氏名が楊貴妃で、律としては単純に楊貴妃の名前から三大美人を連想し、女の子なら、それにちなんだ名前がいいかなと考えたのだが、偶然母親の名前を継ぐ感じになった。 「で、男の子ならホンロン(虹龍)」 怜生は楽しげに口を添えた。 小虎の虎より龍虎という対照から龍。 「中国で龍は縁起物だし、父越え的な意味も込めて、ね。なおかつ怜生(れお)=獅子だし、虎と似てるよね!」 片目をつぶって見せる。血は繋がってなくても、俺も『親』なんだしさ、と笑みが満面に広がる。 「虹は二つの世界を繋ぐ架け橋として考えたけど、中国では龍=虹らしいので、そのまま虹龍。祖父、父、子と繋ぐ橋でもいいかな」 「花海棠…虹龍」 祖父にあたる律志は大きく頷く。 「どちらも素晴しい名前だ」 願うことなら両方つけたいが。 「双子? 一番最初にそれはきついって、おじっちゃま」 怜生の軽口に、律志の顔がわずかに紅潮する。 ロストレイルを降りた面々は、駅で待ち構えていたリオに驚いた。 「皆…優…」 「どうしたんだ、リオ、何かリーラさんに」 素早く近づいた優は、あったのか、のセリフを飲み込む。口に出せば、現実になるような気がして怖い。だが何よりもリオの顔色が悪すぎる。 「ううん、大丈夫、すごく順調だって言われてる、ひょっとしたらお産が早まるかも知れないけれど」 リオはふるふると頭を振って、優を、そして律を、怜生を、律志を見て、ようやくほう、と深い息を吐いた。肩から力が抜け、ようやく顔に血の気が戻ってくる。 「順調だから、怖くて」 掠れた声で呻きながら顔を擦った。 「ここ、インヤンガイだろ、月陰花園だろ、俺しかいないだろ、ターミナルじゃない、治癒魔法も、医療技術もない、皆がいない」 顔を覆ったまま続ける。 「俺のことだったら大丈夫なんだ、何があっても覚悟はできてる、けど、リーラに何かあったら。産まれてくる赤ん坊に何かあったら。俺」 それを、仕方ないって受け入れられるんだろうか。 「ああ…」 思わず優は同じように唸った。 インヤンガイで育ち、ここしか知らなければ諦めもつくことが、他の世界を知り、ましてや不可能を可能にし、奇跡を呼び起こす技を当然のように見せられていれば、悲劇の瞬間に、それらを思い出さずにいられるのは至難の業だ。 優だって、壱番世界で人間ではどうにもできない災害が起こった時、ロストナンバーの仲間達の魔法や超文明的な技術を絶対望まないと言えるだろうか。 「こらこら一人で悲劇のヒーローになるんじゃないよ、ガキんちょ」 「たっ」 同じように不安そうに唇を開こうとする律より早く、怜生はリオの頭を派手にはたいた。 「順調なら安心しとけ。お前が今考えなきゃいけないことは、それじゃないだろ」 金夜叉組は大丈夫なのか。 「!」 突っ込まれてはっと顔を上げたリオの顔が、一瞬にして磨き上げた刃のように鋭く尖った。にやりと怜生が笑い返す。 「だろ? そっちの方も十分考えたお兄ちゃん達がやってきたんだ」 『弓張月』へ案内しろよ。 わかった、と見る見る元気になったリオが先導するのに怜生と律が追う、その後ろから優と肩を並べて歩き出した律志が低く呟く。 「きっと、あれも」 そうだきっと、リエも、どこかで同じ不安を抱えているかもしれない。 「…そうですね」 世界に帰属するということは、その世界の無力に従うことでもある。 優は改めて帰属の意味を噛み締める。 知らなければ諦められることが、知ってしまえば諦めがつかない。 そんな苦しさは想像していなかった。 『弓張月』には既に顔なじみだ。 戸口に立った律と怜生の顔を見て華子達が喜びの声を上げて駆け寄ってくる。続く律志と優の顔を見て、娼妓達が一瞬華やぎ、すぐに納得顔に奥へと誘ってくれ、四人は『菊花月』の奥まった座敷に通された。 それほど大きな部屋ではなかったが、病床を抱える『菊花月』だけに他の病との兼ね合いを考えたのだろう、短い渡り廊下を越えた四畳ほどの間に、リーラは寝かされていた。 板戸を開けて覗き込んだ律と怜生に虎鋭は素早く振り向き、呆気にとられた顔になる。 「来たぜ、リエぴょん」「リーラさんは如何ですか」 「お前ら…」 「…体調は思わしくないのか」 「……」 素早く室内の様子を見てとった律志は軽く眉を潜めて虎鋭を見やる。一つ頷いた虎鋭は立ち上がり、四人を板戸の外へ押し戻した。 「何しに来た」 険しい瞳で睨み返す視線は特に律志に向けられる。 「そりゃないでしょ、リエぴょん、俺達」 口を尖らせる怜生を制して、優が穏やかに笑った。 「花街の見回りを変わろうと思って。リーラさんの出産ならついていたいだろ」 「…余計なことを」 顔を背ける虎鋭の頬に厳しい色が過る。 「いつまでもお前らに頼ってられるわけがねえ」 「勝手に来たんだ、リエ」 律が淡々と口を挟んだ。 「俺達、心配でたまらなかったから、勝手に来たんだよ」 リエが頼ったりすがったりしないってことは重々知ってる。 「けど、リエだけじゃない、リーラさんや赤ちゃんも、俺達にとって大事なんだ」 「……」 虎鋭がちらりと黄金の瞳を上げた。 インヤンガイに帰属して随分大人びて落ち着いたと思っていたが、やはりこういう時には昔の顔に戻るのだろう、触れるもの全てを嘲笑って切り裂くようなその視線を懐かしく感じながら、優は台所へと視線を投げる。 「けど、少しだけ待っててくれ。ちょっと滋養になるものを作っていくから」 「おい、優」 「手伝ってくれるか、リオ」 「あ、はい」 「リオ、てめえっ!」 「……り…え…っ」 「…っ」 噛みつこうとした虎鋭は板戸の向こうから響いた声にはっとして振り返った。四人を振り向く間もなく、板戸を開き、中に飛び込む。 「リーラ、大丈夫か」 「うん……ごめん…ね…呼んだり……して…」 「減るもんじゃねえ、何度でも呼べ」 それで少しでも楽になるのなら。 今にも相手をかき抱きそうな気配で横たわったリーラに体を伏せる虎鋭、その背中にかつての震えるような孤独が滲む。虎鋭に手を握られて少し微笑んだリーラは、息を喘がせながら、痛みの波がやってくるのだろう、何度も苦しそうに顔を歪めて歯を食いしばる。額からこめかみから、髪を濡らして流れ落ちる汗、虎鋭の手に爪をたてようとでもするように力をこめられ、それでも虎鋭はただ必死に握り返している。 「ここは律志さんに任せよう」 優は律と怜生を促した。 「医者は来ないのか?」 頷いて虎鋭の代わりに外へ出て行く律と怜生の二人と、板戸の内側に入り込んでいく律志を横目に、優はリオを伴い台所に向かう。 「一度来てくれている。でも、経過は順調だし、産まれるとしても初産だから、まだ時間がかかるだろうって。夜中か、明け方か…それぐらいにもう一度見に来るって言ってる」 「そうか……出産後に、栄養のあるご飯があった方がいいと思うんだ。一緒に作ろう」 「俺も?」 「料理はいいよ」 一瞬目を輝かせたが、すぐにたじろいだような顔になるリオに優は笑みかける。 「人を元気にするし、体や心を温めたり安らがせたり……見えないところにある傷も治したりする」 「…」 何かを思い出したのか、リオが口を開きかけて慌てて噤む。 それを微笑して見やり、勝手知ったる他人の家、優は『弓張月』の台所で野菜を柔らかく煮込んだお粥、果物のジュースを作った。出産直後では疲労困憊して食べようと言う気がわかないかも知れないと、いろいろな野菜を彩り味わいよく煮込んだスープも作る。 「さて、じゃあ、俺も見回ってくるかな」 このスープはもう少し煮込んだ方がいいから、後は見ておいてくれ、そう言うとリオが大きく目を見開いた。 「け、けど、優、俺」 「リオがちょうどいいと思ったところで火を止めて、少し冷ましておけばいい。頼んだよ」 「う、うん」 まるで刃物を持った男達に取り囲まれたような真剣な顔でスープの鍋に向かい合うリオに苦笑しながら、優は『弓張月』を出る。上空にはオウルフォームのタイムを放ち、周囲の警戒に当たらせる。リーラに何かあったなら、外に居る優達の方が動きやすいだろう、すぐに医者を呼びにいくつもりだ。 「いってらっしゃいやし! 『金界楼』あたりにうろついてる奴が居ますぜ!」 「わかった!」 入れ違った男衆に声をかけられ、優は一転不敵な笑みを浮かべた。 予想通り、金夜叉組は大人しくするつもりがないらしい。 「……お…義父…さま…」 苦しい息の中から律志を認めて、リーラが呟く。 「来て……下さった……の…です…か…」 「気にしなくていい、勝手に来たくて来たらしいから」 「り…え……もう……」 鬱陶しそうな声で唸る虎鋭にリーラが微かに笑い、すぐに苦しそうに眉を寄せて体を強張らせる。 「い…っ……ぅ」 「頑張れ、リーラ」 声をかけながら虎鋭は自分が痛みに灼かれているような顔で彼女を見下ろしている。成長したとはいえ、まだまだ細身の体は押さえつけた緊張と不安を満たして今にも弾けそうな気配だ。 「……」 それを、二人の姿を照らす灯の影のように部屋に佇みながら、律志はここへ来るまでのうろたえ方と一線を画した落ち着き振りで見守っていた。 虎鋭が人の親となる。 (些か早すぎる気もするが、これも花街の倣いか) 時間の彼方に置き去ってきた息子が今、好いた女と連れ添って、次の世代を産もうとしている。今リーラの腹の中で必死に生きようとしている子どもには、紛れもなく自分の血が流れている。 (俺は何一つ父親らしいことをしてやれなかった) 今、この命の瀬戸際に立って、息子がまるでリーラに縋るようにさえ見えるのは、命を背負う真の覚悟を知らないからではないのか。 (お前の何も守れず、ここまで来させてしまった) ゆっくりと金の瞳を伏せる。 滲むのは深い後悔だ。 もっと支えてやるべきだった。もっと包んでやるべきだった。もっと教えてやるべきだった。 再会した時もその後も、リエは十分に成長しているように見えた。親はなくとも子は育つ、そういうことかと淋しさの反面、したたかに逞しく生き抜いた息子に誇りを感じた。 だが今は、それらが幼い息子を手放した親の都合のいい想像だったと思い知る。 なぜなら、息子の背中がこれほどか細く、失う恐怖に震えているのが見てとれる。自分の世界を捨てるほどにかけがえのない相手の命が、今この指から擦り抜けるのを感じて、総毛立っているのを感じ取れる。 この恐怖を越える術を譲り渡さなかったのは、他ならぬ律志の過ちだ。 「虎鋭」 「…」 声に何事か感じたのだろう、リーラの手を握りしめたまま、相手は振り向いた。平板に固まった黄金の瞳は、何も見えていないと告げている。 「お前に父となる覚悟を問おう」 「……」 ふざけるな、と声にならない怒りが応じた。構わず続ける。 「命がけで妻子を守り抜く覚悟はあるか?」 背後の板戸を開いた。渡り廊下の両側に開いた庭を顎でさす。 「手合わせを所望する。得物は使わん。素手と素手だ」 「……りえ…」 「心配するな」 冷ややかな声とともに虎鋭はリーラの手を離し、立ち上がる。冷笑が瞳に湧き上がっている。 「クソジジイに冷や水を浴びせてくる」 『夜になって一段と賑やかだな。そっちはどうよ』 怜生からの連絡をノートで呼んで、律は微笑む。 『意外に落ち着いている。もう少しで「金界楼」だ。油断するな』 『わかってるわかってる。けど、狐面達と正面切って揉めるのやめよーな?』 『わかってる』 絡まれたら別だけど、と思いつつ、へたに揉めて後々争いが尾を引くのもまずいと律もわかっている。 律や怜生はいずれここを離れるが、リエ達はこれからも月陰花園で生きていくのだ。『金界楼』も同じ娼館、こじれて困るのは『弓張月』であり、まとめ役である銀鳳だろう。そういうあたりは律も多少世間擦れしてきた。 『医者の方は見つかった?』 『さっき、一人助産婦さんを見つけた』 花街なら堕胎などを行う闇医者も居るだろうと、見回りついでに情報を集めていたところ、出産せざるを得なかった娼妓達の面倒を見ている『りん』という女がいるのがわかった。訪ねてみると、『菊花月』には薬草をもらいに時々出入りしているとのことで、リーラのことについても知っており、様子を告げると、出産が早くなるかも知れないから、これから出向いて上げようと言ってくれた。 『そりゃよかった……と、お客様だわ。相手してくる』 『金夜叉組か』 『金狐集団ww。笑える』 『すぐ行く』 眼鏡を軽く押し上げて、律は人が増えた花街の中を駆け抜ける。 「お兄さんお兄さん、寄っていかないかい、今夜は干上がりそうでさあ」 「ごめんよ、ちょっと急ぎで」 「急ぎで見世に来る奴がいるかあ!」「およしよ、あれはきっと『弓張月』の」 仲間に窘められてひやりと首を竦めた娼妓に笑み返し、優はゆらゆらと歩く人混みの中を静かに擦り抜けていく。 前に来た時よりも客も娼妓も増えている。灯もそこら中に掲げられ、大きな娼館は変わっていないが、小さな見世も増えたようだ。そして、その賑わいを増した街の中のどこにも、『弓張月』の名前が知られている。 「銀鳳さん、うまくおさめてるんだな」 さっきも見世の娼妓と揉めかけた客の仲裁に入ったが、『弓張月』の客分と聞くと一気に大人しくなったのは驚いた。付け届けをしようとする輩もいたし、密かに『弓張月』を離れてうちに来ないかとの誘いもあった。 活気がある。熱気が溢れている。街全体が淡く燃え上がる炎のようだ。 燃え上がり過ぎて、ようやくやってきた娼妓と心中すると大騒ぎしたのが一人、そこの見世の男衆が間に入ってもなお納まらず暴れ出したので、仕方なしに優が入った。殴りかかるのをひらりと避けて相手の力を利用してねじ伏せ、やんやの喝采を浴びて気恥ずかしく慌てて去った。 「リエとリオは毎日こんな事をやっているんだな」 一日二日ならまだしも、毎日ならば気苦労もあり、疲れ切る日もあるだろう。並大抵の仕事ではない、と一休みした見世で冷たい水をもらい、飲み干しながらリーラのことが気になった。 戻って無事かどうか確かめたい。タイムの視界では『弓張月』にも『菊花月』にも変化はない。問題はない。けれど、中の様子まではわからない。 「いやいや大丈夫」 自分に言い聞かせる。今日の俺はリオとリエの代わりをする為にここに来たんだ。それに、あそこには今律志さんもリエも居るし。 気を取り直して、もう一踏ん張りと紅白粉の薫り満ちる闇に踏み出す。 「っっっ!」 跳ね飛ばされて庭石に叩き付けられかけ、危うく虎鋭は身を翻して体勢を立て直す。 「手加減はしない。紅蓮の虎を侮るのは失礼だろう」 自分を睨みつける目を、律志は静かに見返した。突きも蹴りも悪くない、体を捌いて瞬時に攻撃に転じるのも、以前より数段速く鋭くなった。日々の鍛錬、そればかりではない、止まっていた時の反動のように伸びやかに成長し始めた肉体が、技を注がれ気力を磨かれて、充実の時を迎え始めている。今は身の軽さが災いして拳もまだ軽いが、青年期に入れば、この突きはなまじな者では受け止めきれないだろう。 衝撃をものともせず受け流していきながら、律志は挑みかかる我が子を受け止める。 「ぐっ!」 渾身の力を込めた虎鋭の蹴りが軽々跳ね上げられた。紅蓮の虎の異名を取った男が、拳一つを届かせられず、ほんの幼い子どものようにあしらわれる。技だけではない、隙を作る技術、拙速を導かれる間合い、しかも全身を使った壁のような防御を攻撃に使われて、地団駄踏みたいほどの悔しさを感じているのだろう、虎鋭の顔が歪む。 「こんな、時にっ」 馬鹿馬鹿しい勝負持ちかけやがって! 一刻も早くケリをつけ、リーラの元へ戻りたい、その一瞬の想いが手元を狂わせるのを、律志は見逃さない。素早く詰めた間合い、退くことのできない背後の庭石、そこに追い詰められていたことに気づいた時は既に遅く、虎鋭は一撃をまともにくらって律志の胸に崩れ込む。 「く、そおおおおっっっ!」 馬鹿にするなあああっっ! 激情が叫びとなった。 今さら親の顔をしやがって、てめえが何をしてくれた、俺がどんな想いして生き延びたと思ってやがる、遅いんだ、てめえは何もかもいつも全部遅いんだ、そんなてめえに親の何のと偉そうに言われる筋合いはねえ、こんな勝負意味なんかねえ、てめえが勝手に親面してえだけじゃねえか、そこまで俺が憎いのかよ、そこまで俺がいらねえのかよ、ならなんで産ませた、なんで今さら出てきやがるんだ!!! もがく暴れる、今まで誰も紅蓮の虎のリエ・フーの、こんな悲壮な叫びは聞いたことがないだろう、守ろうとした者の側に辿り着けない悔しさ、それを遮る過去の狂おしさ、それでもまるで大波のように、巨大な山が崩れ落ちてくるように、虎鋭を強くがっちりと抱き締める腕に抗う術なく包み込まれる、その耳に、深く重い声が届く。 「忘れるな虎鋭よ。お前は俺と秀芳の自慢の息子、秀芳と愛し合い生まれた俺の誇りだ」 「っ」 びくんと大きく跳ねた虎鋭の体がなおももがき、跳ね返そうとし、抜け出そうとし、やがて少しずつ動きを止めて。 「ああ……大きくなったな。お前はもう立派な男だ」 感慨深く低く零れた律志の声に重なるように、呻き声が滲み。 その虎鋭を抱きかかえたまま、律志はリーラの呻く部屋に目を向けて思う。 親になれば泣けなくなる。 ならば今俺の胸の内で子供に返り気の済むまで泣け。罵りも怒りもすべて受け止める。今ここで一生分の涙を流せ。 「俺じゃ……だめなのかよ……」 絶望し、掠れた小さな声に律志は静かに首を振る。 「聞こえないのか」 「え…」 「……お前を呼んでるぞ」 「…あ…」 がばっと顔を上げて虎鋭も律志の耳にしたものを聞く。 夜の彼方に飛ぶ鳥のような、山奥深くで鳴る波のような。 密やかな命の産声が、次第に大きく響き渡る。 「だからさー、せっかく賑やかに皆楽しんでるんだし?」 怜生は取り囲んだ狐面に肩を竦めてみせた。 「今夜は射的勝負で決めとかない?」 「ふざけるな」 ゆらゆらと体を揺らせて怜生の周囲を固めながら、金夜叉組は凄んだ声を出す。 「ふざけてなんかないって。そりゃさ、ここで揉めてもいいよ? いいけど、ほらも一人怖い人が来たしさ」 「間に合ったか」 狐面達の背後から律が、それも尋常ではない殺気を撒き散らしながら現れ、さすがに金夜叉組がわずかにたじろぐ。 「ちょうどあそこに見世あるじゃん。あそこで弓の射的やろうよ。俺なんか目隠ししちゃうぜ? それでも怖いとか腰抜け〜?」 「う、うっ」 怜生を見やり、律を眺め、微妙に形勢不利と判断したのだろう、数人が勝負に応じた。喜々として射的勝負に挑んだ怜生、目隠しはもちろん本物だったが、実は密かに飛ばしたオウルフォームのジュゲムの目で的を捉えていた。そこまではわからなかっただろうが、怜生の動きに不審を感じたらしい。たて続けに五人負けたあたりで、 「イカサマだ! こいつらやっちまえ!」 「おいおい、やるの、やっちゃうの?」 知らないよ、俺、と怜生はゆっくりと身構える。 「言っとくけど、俺たちが紅蓮の虎より弱いなんて思ったら死ぬぞ?」 薄笑いをすると、律もギアを構える。それに気を良くして、怜生は明るく言い放った。 「弓張月には『紅蓮の虎』だけでなく、弓の名手な『紅蓮の獅子』と剣の達人な『月光の剣士』がいると知れぇーい!」 「う」 なんちゅう二つ名だ、ともの凄くツッコミたくなったが我慢して、律は飛びかかってくる金夜叉組に向かいあう。動きは最小限、けれども、 「峰打ちです」「ぎゃっ」 峰打ちと言いつつ、ギアで意識だけは断ち切っていく威圧感、ばたばた倒れる仲間にさすがに金夜叉組もやばいと思ったのだろう、ひけひけひけえっ、と慌てて立ち去る。と、その時。 「律! 産まれたって!」 「え、ほんとかっ!」 ノートを見ながら怜生が走り出し、律も急いで後を追った。 産まれたばかりの赤ん坊は、白い肌着に包まれていた。赤くて大きな頭を振り立てながら、細い手足をごそごそと肌着の中で動かして、必死にもぎ離された温かみを求めている。 「う、わ…」 抱かされて律はごくりを唾を呑んだ。 軽い。温かい。強く抱くと今にも潰れてしまいそうだ。 こんなにも命は軽くて脆い。だからこそ、大切に活かす道を進みたい、そう改めて思いつつ、リーラに返した。 「ありがとうございます」 布団に体を起こしてやつれた顔で、それでもにこやかに誇らしげに笑うリーラの横で、虎鋭は赤ん坊の一挙手一投足を見守っている。同じように真剣に、けれど虎鋭よりは案じる顔で、側で律志が赤ん坊を見ている。産湯を使わせ、へその緒を切り、守り袋に入れてリーラに渡して頼んでいた、息災を祈り大事に持っていてくれ、と。 律志はもう所帯を持つことはないそうだ。惚れた女は生涯秀芳ただ一人、その血を継ぐ息子と孫にまみえただけで本望だとも言っていた。 律志、リエ、赤ん坊の顔を見て、ふと律も、家族の繋がり、命の連なりを作りたい、と思った。家族を失ってしまった自分、けれどここに、また新たな絆が産まれている。そういうものを、自分もまた手にしたい。 「花海棠〜かーわいいなあ」 「はいどうぞ」 「え、ええええっっ」 そんな生まれたての子どもを俺になんて無謀すぎるでしょ、そう突っ込みつつ、おっかなびっくり抱っこした怜生は、うんぎゃああああと泣き出されて慌ててリーラに返す。 「すげーな声で泣くな。精一杯生きてますって叫んでるみたいだ……両親も負けないように生きないとなー」 「おい」「まあ」 知らず漏れたようなまっすぐな感想に、虎鋭とリーラが苦笑する。 その二人を見て、それから自分の姿を顧みて、優は一瞬視線を落とした。逞しく成長し変化していく虎鋭、時の止まったままの自分、その差。 だが、すぐに差し出された赤ん坊を笑顔で抱いた。 「……小さい……柔らかい…」 リエの子ども。 こうやって、リエの血はこの世界に組み込まれていく。 「帰属っていうのは、こういう事なんだな」 思わず小さく呟いた。 リエはもうこの世界の一部なのだ。 「おめでとう、リエ、リーラさん」 「…ああ」「ありがとうございます」 生まれたばかりの我が子を、ずっと抱いていたいだろうに次々と仲間の手に委ねてくれる想いに胸が熱くなる。 この世界の一部となった仲間が、またこうやって自分達と絆を結び直し関わり直していく。それはまるで、この世界が、インヤンガイが、優にも手を差し伸べてくれるようにも思える。 畏まって正座したまま食い入るように赤ん坊を見つめているリオに気づいて、赤ん坊を差し出した。 「リーラさんの出産が上手く言って本当に良かったな」 「あ、う、うん」 まだ怖いのだろうか、きょろきょろと不審な動きで周囲を眺めたリオは、促されるような視線におそるおそる花海棠を抱く。 「リオが伯父さんか……」 大切な家族が増えたな、と笑いかけると、ようやく少し笑い返す。 リオが作り上げたスープを、リーラはことのほか喜んだらしい。 (料理も、そうかな) 優の教えた料理がリオの中に注ぎ入って、インヤンガイの中で食べられていく。それは優の魂の欠片がインヤンガイに落ちて芽を出すようなものとも言えないか。 (俺の中の何かも、インヤンガイで受け継がれていく…) 一巡してようやく夫婦の手に戻った幼子を眺め、律志は胸の中で囁いていた。 見ているか、秀芳、俺達に家族が増えたぞ。 嬉しそうに赤子に頬ずりするリーラ、今までこんな晴れやかな顔を見たことがない息子。 弓張月もまた、俺の家だ。 そう強く思った。息と視線が絡んだのに口を開く。 「不安ならば俺を呼べ。いつでも駆けつける」 インヤンガイに帰属するつもりはないが、せめて花海棠が成人するまで、否……虎鋭とリーラに暇を出されるまで弓張月に通い続けようと心に決める。 口に出したつもりはないのに、赤ん坊を手に抱いたとたん、ふいに落ち着いた表情を得た虎鋭がにやりと笑って呼びかけてくる。 「老け込むなよ」 おじっちゃま。 からかい口調のそのことばに、花海棠の明るい笑顔を重ねて、律志は蕩けるように目を細めた。
このライターへメールを送る