檻の中から唾を吐きかけられそうになり、避けた。 避けておきながら少年は、そうするべきではなかったと自省する。自分はこの囚われ人に対して何をした? 自分は唾を吐きかけられて当然なのではないか? 燃えちまえ。 檻の中の人物が言う。 燃えちまえば、みんな灰になる。ただの灰になって終わるんだ。 そう言って彼は笑った。 横から親友が自分の腕を引いた。もう行こう、と言われ、少年はようやくそこを後にした。 これという収穫は無かったな──。仲間の一人が呟くように言った。 冷泉律、桐島怜生、ヌマブチの三人と、武道家のツァイレンが関わって、武装組織フォドゥ(禍斗)のアジトの一つ食肉工場を叩いた事件から二晩が過ぎていた。 フォドゥは人を殺しすぎた。 三人が捕らえた幹部──ビンと名乗っていた男から聞き出した情報を元に、作戦は着々と進んでいた。 *「薬を使ったんでな、少し話が通じにくくなった」 エレベーターの中で、ぼそりとジェンチンが言った。律が捕らえたフォドゥ幹部ビンはもはや廃人寸前だった。 律や怜生が、どうしてもビンに会いたいというので、ジェンチンは特別に時間を作ってくれたのだ。 結果的には有用な情報は得られなかった。自白剤により引き出された情報はほとんどがフォドゥの拠点や幹部の名前、居場所等である。それはすでにマフィア連合たる「虹連総會」では、公の情報として扱われていたからだ。 ビンの様子に顔を曇らせている律。それを気遣うようにしている怜生の横で、ヌマブチは独り、ジェンチンの様子を伺っていた。 二日前、ツァイレンから聞いた疑惑。それを彼は少年二人にまた話していなかった。「兎に角、会わせてもらったこと礼を言うでありますよ」「いや」 ジェンチンはヌマブチに声をかけられると、短く返答しただけだった。彼は傍目にもひどく疲れているように見えた。四十代半ばのはずが、今日は五十代といっても通りそうだ。淡い水色のシャツなどは襟がよれていた。どちらかというと彼は洒落た人間のはずだった。それが今日は気が回っていないようだ。 それほどここ数日が忙しかったということか。それとも──?「実はな、お前たちに話したいことがあってな。俺も話す機会を待ってた」 長い長いエレベーターが地上に向かうまでの間、ジェンチンがふと口を開いた。「明日から始まるフォドゥ殲滅作戦の件だ。それに関わらないで欲しいんだ」 意外な申し出に、ヌマブチだけでなく律と怜生も不思議そうな顔をした。「それは一体どういう……?」「要するに俺たちだけで始末を付けたいってことさ。フォドゥのことは、この地区全体のことになったからな」「ヨソ者の手は借りたくないということでありますかな」「その通りだ」それに、とジェンチンは言う。「これから行われることは単なる人狩りだ。気持ちのいいものじゃ無い。決してな」「なるほど」 相槌を打ち、ヌマブチは暗く光る赤い瞳を彼に向ける。なるほど論理は通っている。が、しかし。「世界図書館にも連絡してある」 少年二人は顔を見合わせ、返事に窮している。その隙にヌマブチがもう一太刀を浴びせる。「ツァイレンにも伝えられたのですかな?」「ああ伝えたよ」 ぶっきらぼうに答えるジェンチン。「彼もそっちの世界に戻ったんじゃないのか」「……」 ヌマブチはその横顔を注意深く見つめていた。 軍人は知っていたからだ。 ジェンチンが自分の娘の救出を優先するがばかりに、他のマフィアの跡取りである女子供たちの虐殺を故意に見過ごしたこと。それが、ゆくゆくは彼の組織の繁栄にもつながること。 そして──ツァイレンが彼を断罪するために、彼の命を狙っていることを。 * 当のジェンチンに関わってくれるなと釘を刺されたというのに、その後の怜生の動きは早かった。 彼と別れてすぐ、ある人物に連絡を取ったのだ。 例の食肉工場の作戦で力を借りた電脳技師、馬頭(マートゥ)である。そのハンドルネームは地獄の鬼の一人の名でもある。「よう、アンタか。オレら今チョー忙しいんだよ、話あんなら早くしてくれよな」 端末の中で、棒のついた馬の頭のアニメーションアイコンが表情豊かに話に応じてくれる。馬頭はランパンのメンバーではなくジェンチンが金で雇ったフリーランスの電脳技師である。それは怜生たちにとっても好都合だった。「いや、今どんな感じなのか聞こうと思ってさ」 怜生は、まるでこれから対フォドゥ作戦に関わるような口調で進捗を尋ねた。「例の“赤印”を9割方、付け終わったところさ。残り一割は連中の人間関係のアルゴリズムから外れた人間だよ。けどよ、そこにも大物が隠れてる可能性があるからな。そこがオレらの腕の見せ所ってワケよ。生き残ってるって噂のリィ=フォなんか、見つけたら数千万だぞ? マジ一生遊んで暮らせるぜ」 怜生は目をパチパチやった。馬頭が何を言っているか分からないのだ。しかしそこはそれだ。彼はしたり顔でうなづきながら、話を合わせる。「へぇー大変だな。あのさ、聞きたかったのはフォドゥの連中を一網打尽に出来る場所とかさ、無いかなと思って」「何言っちゃってんの、お前。バカだろ」 馬頭のアニメーションが指を立てて、こちらを指差す。「連中は街中をばらばらに逃げ回って潜んでるのさ。集まってる場所なんてほとんどねぇよ。だからオレらが連中一人一人のIDに“赤印”付けて、お前らでもトラッキングできるようにしてやってるんじゃねえか」「あ、そうか」 わざとらしく手をポンと打ってうなづく怜生。なるほど段々話が分かってきた。「そのトラッキングできる機器が手元に無くてさ。俺、機械苦手だし。よくわかんねーんだよ」 チッと馬頭は舌打ちをした。「早く戻りてぇのによ、仕方ねえな。おい、この端末を解放しろ。いじってやる」「かいほう?」「あーめんどくせ、いいからしばらく待ってろ」 すると、パッと画面が変わって数秒。次に現れたのはホンサイ地区のマップだ。大まかな道と建物名が記されている中で、無数の赤い点や青や黄の点が付けられていることが分かる。「使い方、分かるよな。細かい路地を見たい時は拡大しろ」「おっ、こりゃいいな。すげー分かりやすいじゃん。ありがとよ、馬頭」 怜生は端末を操作しながら、顔も知らない電脳技師に礼を言う。 要するに、この赤い点がフォドゥの者というわけだ。殲滅作戦に参加する者は街中に散らばったこの“赤印”をひとつずつ潰していくのだ。最後の一点が消えるまで。 しかし、気になることが二つある。怜生は頭をフル回転させ、バレないうちに馬頭に質問を浴びせた。「でさ、この赤い点のところで連中を始末したら、赤印は自動的に消えるのか?」「いんや消えない」 馬頭は早く狩り場に戻りたいがばかりに早口でまくしたてた。「そいつのIDを使ってウェブの深層にアクセスしなきゃならねえ。だがその手順は自動化してある。一人殺すごとに、右下の二重丸のアイコンを押すんだ。次の画面が出たら、連中の指の指紋と目の網膜と血液を登録しろ。血は一滴で認識するから機器を浸す必要はねえ」 まっ、血なんかいくらでも出るだろうがな。馬頭はケラケラと笑った。「ちなみにこの青い点と黄色い点はなんだ?」 怜生はマップの画面を見ながら質問する。これが最後だ。「青印は虹連総會の重要人物。黄印は作戦の指揮を取ってる連中だ。ジェンチンも黄印だぞ。要はそいつらを作戦に巻き込むな、って意味さ」「これはどうやって付けたんだ? そのアルゴリズムで?」「お前ホントにアホだな。黄印の指揮官が手動で青印を付けてるに決まってんだろ。おおかた黄印の近親者だよ」 ピンときた。怜生は黙り込む。 すると、もういいよな、と言い残して馬頭は通信を切って戻っていった。 電脳技師にバカだアホだと罵られても、それ以上に充分な情報が得られた。怜生はこの収穫に満足して、誰ともなく眉をひょいと上げてみせた。 * 律は、暗い川のほとりにいた。 ある人物に呼び出されたからだ。 都会の中にも川はある。川があれば草木が茂る。そこは高い葦が生い茂り、彼を取り囲んでいる。明かりのない場所だが、対岸にそびえる建造物のネオンが月明かり程度の光をその場にもたらしていた。 この場所で間違いないのだろうか。そう思った時、葦をかき分けて相手が現れた。「やあ、待たせてしまったな」 武道家のツァイレンである。いつもの柔和な笑みを浮かべ、律の前に立つ。だが、その服装だけがいつもと違っていた。 まとっている長袍が真っ白なのである。 壱番世界の中国では、白は死を意味する色だ。またインヤンガイにおいてもそれは同じようだった。先日も虹連総會の子女たちの大きな合同葬儀が行われ、皆白装束に身を包んでいたのを律は見ていた。 何か、意味のあることなのだろうか。 律には分からなかった。彼はジェンチンの裏切りも、今ツァイレンが目論んでいることも、この時点では何も知らなかったからだ。 思わず黙っていると、ツァイレンの方が口を開く。「こないだは悪かったね。だが君ならば大丈夫だと思っていた」 いや、と口を濁す律。食肉工場の作戦のことを言っているのだ。ツァイレンはフォドゥ側の人間として振る舞い、律を捕まえた。「それよりも師匠、怪我はもう良いのですか?」「ああ、大事ないよ」 さらっと言うツァイレン。しかし律は、それが嘘だと分かっていた。至近距離で爆発に巻き込まれたのだ。いくら内功に優れているとはいえ人間の治癒力には限界がある。「来てもらったのは、中断していた修行のことが気になってね」なおも律が黙っているのでツァイレンが言う。「君にまだ教えきれていない技がいくつかあるんだ」 時間はある? と言われ律は肯定せざるを得なかった。何も今、インヤンガイで修行をする必要はないではないか。不吉な考えが胸の奥からわき起こり、彼の口が自然とそれを外に吐き出してしまう。「あなたはフォドゥの件で何か──死ぬつもりなのですか?」 ツァイレンは片方の眉を少し動かしただけだった。「君は何も聞いていないのか?」「何がです?」「そうか」 嘆息し、ツァイレンは律から身体をそらし虚空に向かって構えをとった。「師匠」 彼は答えない。強引に話を打ち切るつもりなのだ。「──我が翠円派の武術は短打拳術が主だが、それは相手に迫ることができた時に使うものだ。本来は相手の寝室などに忍び込むための隠身術からなる一連のものだ」 ゆらめくように身体を動かし、ツァイレンは大きく手を開いた構えをとる。「隠身術は君には必要ないだろう。剣や槍の届く間合いに入った時からの技が、君には役立つはずだ。翠円派ではまず、下半身を攻める」 彼はゆっくりと足を上げ、相手の膝を踏み抜くような蹴りを繰り出してみせる。「相手の移動力を削ぎ、逃がさず、接近戦に持ち込むためだ。そのために最も良い標的が膝というわけだ。この技は“翠踏脚”という」「師匠!」 半ば叫ぶように、律は相手を呼んだ。「なぜ私だけ呼び出したのですか。なぜ、話してくれないのです!? なぜ──」 ポンと手が肩におかれた。 ツァイレンが、律を真っ直ぐに見据えている。「悪かった」 彼は言いかけてもう一度間をおいた。「私は、君のよく知っている人物を殺さねばならなくなった。私はおそらく命を落とすだろう。だからその前に──律。君に会っておきたかったんだ」 何となく──何となくだが、律は彼が誰のことを言っているのか分かった。 カジノ、ランパオロンの主。ランパンのボスのことだ。「ジェンチン、ですか」 ツァイレンは微笑んだ。それは肯定の意味と見てとれた。「彼に、この件に関わるなと言われたろう? それについては私も同意見だ」「なぜです」「明日からの作戦でフォドゥの力無き者が、多く殺されるだろう。だがこの状況下でそれを止めることはもう不可能だ。堰を壊した濁流がすべてを飲み込むように。世の中には変えることのできない流れもある」「でも」 しかし律は、ひたと相手を見る。ツァイレンの言葉には理があった。それでも、彼は反論せずにおれなかった。「小さな流れなら変えられる。私にもできることがあるはずです」 ツァイレンは弟子を見つめた。 ひと呼吸もふた呼吸も置いてから、彼はやがて首を横に振った。「これ以上関わると、君は、君の魂を汚すことになる」「構いません」 視線を外さず、真っ直ぐに。ただ律は彼へ眼差しを向ける。「救える者がいるのなら、私は構いません」 ツァイレンは沈黙し、じっと律の目をのぞき込むように見た。それは彼の覚悟を見透かしているような視線だった。律は全く動じなかった。ただ視線を返すだけだ。 ほどなくして、ツァイレンはプッと吹き出すように笑った。「君は強情だな」「あなたの弟子ですから」 つられて律の頬も緩んだ。緊張の糸が切れたように二人は笑いだした。何がおかしいのか分からないまま、二人はただ心ゆくまで声を上げて笑った。 ひとしきり笑って、それが治まった時。 ツァイレンがすっと右手を差し出した。律は自然とその手を握り、握手を交わす。「君の選んだ道をゆくといい」「あなたの無事を祈っています」 そう言葉を交わし、二人は別れた。 *「……あの子がパニックに陥った時は、暗いところに連れていってやってくれ。ああ、そうなんだ。あの子は暗闇にいると、どうやら落ち着くらしいんだ。それから、一緒に鞄を持たせるからその中身も確認しておいてくれ。女物の鏡やネックレスや化粧道具が入っててな。それは俺の……妻が持っていたものなんだが、それがあるとあの子は落ち着くらしい」 彼は電話でそこまで話すと、背後に現れた気配に気付いてビクリと身体を振るわせた。じゃあ、頼んだぞ。短く言って、パッと振り返る。 誰もいないカジノフロアに立っていたのは、ヌマブチだ。 他の誰かだと思ったのか。このカジノの主であるジェンチンは来客がヌマブチであることを認めると、安堵のため息のようなものを漏らし、ようやく通話を切った。「まだ、こっちにいたのか?」「物見遊山でありますよ。自分の関わった作戦がどう展開するのか、人並みに興味が沸くこともありましてな」 ヌマブチは皮肉をひとつ言いながら、歩いてきてスツールに腰掛けた。電話で話していた話題が何であるのか、彼にはすっかり分かっていた。 リウリーである。 瑠璃色という意味の名前を持つ12才の少女。ジェンチンの一人娘で、過去の精神的なショックからか、外界との関わりを断たざるを得なかった哀れな娘である。「自分の娘を、どこかへ逃がしたようでありますな」「ああ。これから先、何が起こる分からんからな」 ジェンチンは鋭い眼差しをこちらへ向け、言う。「しかしあの娘、貴殿を父親とは認識できないような有様では? 貴殿はあの娘に尋常ならざる愛情を注いでいるようだが、当の娘があれでは──」 バン! いきなりジェンチンがテーブルを叩いた。彼の顔は一気に紅潮していた。「俺の娘を侮辱する気か!?」「いやそういうわけでは。単に某は不思議なのでありますよ」 ヌマブチは涼しい顔でそれをやり過ごした。相手を怒らせるのも想定内だったからだ。それに気づいたのだろう。ジェンチンも嘘のように怒りを納めた。「……愛情を注いでも、相手には受け皿が無い。なのに何が貴殿をつき動かしているのか。それが不思議だと思うのでありますよ」「受け皿がなくても、あの子は俺の娘で、俺はあの子の父親だ。ただそれだけだ」 ヌマブチは黙り込んだ。 ツァイレンの言っていたことを思い出す。ジェンチンは娘の命を優先して、他の女子供たちを見殺しにした。たった一人の命が、なぜここまでの大勢の死を招くことになったのか。彼には全く理解できなかった。「……あの子が心を閉ざしたのは、俺が彼女の目の前で母親を殺したからだ」 ぽつりと、ジェンチンが呟くように言葉を漏らす。ヌマブチが黙っていたからだろうか。止まらなくなったように、彼は独白を始めた。「殺し屋に踏み込まれ、妻と彼女を人質に取られた。二人を両方助けることが出来ない状況だった。だから──俺は妻を撃った」 そのいきさつは、なんとなく知っていた。以前、ランパンの者たちが、まるで武勇伝のように彼らのボスの非情さを語っているのを聞いたことがあったからだ。それも誇らしげに。マフィアの世界においては、彼の業はそのまま経歴の重みとなって語り継がれているのだ。「俺は妻を殺し、リウリーの心をも殺してしまった」 笑ってくれ、とジェンチンは身をそらせヌマブチを見る。「二人とも殺せば良かったのに、と俺の中の悪魔が言うんだよ。でも、俺は出来なかった。どうしても出来なかった。ツメが甘いのさ──」「貴殿は」さすがのヌマブチも居たたまれなくなり、無理に話題を変える。「ギャンブルの天才だそうでありますな」 ジェンチンは悲しいとも嬉しいともつかない表情をした。いきなり何を言い出すのか、といった様子でこちらを伺う。「某と賭けはいかがかな?」「何を、賭けるっていうんだ」「某は貴殿が生き残る方に1万で」 なんだよそれ、ジェンチンは笑い出した。ジョークとして受け取ってもらえたのか。相当可笑しかったのか。彼は声を上げて笑った。「それじゃ賭けが成立しねえだろ、しかも1万しか賭けねえのか」「あいにくと手持ちが」 ニヤと笑うヌマブチ。「賭ける側を変えな。俺は俺が生き残る方に100万だ。あんたは俺が死ぬ方に賭けな。掛け金は1万」「了解した」 ヌマブチは笑みを浮かべたまま、席を立った。話は終わりだ。彼は別れも言わずそこを後にした。ちょうど前日の晩にツァイレンがそうしたように。「俺は勝つぞ」 その背中に、ぽつりと言葉を投げるジェンチン。 ヌマブチは軽く手を上げ、暗闇に姿を消した。 * この件に関わるな──。 ジェンチンやツァイレンに、そう言われたにも関わらず、三人のロストナンバーは本当にインヤンガイを離れなかった。 夜が明ける前。まだ空が暗い時間、ショッピングセンターの屋上で彼らは再会した。「こんな話を聞いたことがあります」 得た情報を照らし合わせ、短いミーティングを済ませた後、律が口を開いた。「壱番世界の古い話です。ある民族──ユダヤ人という人々が、エジプトという国で奴隷として働かされ、虐げられていたそうです。そこへ一人の預言者が現れ、彼らを引き連れて海を渡った。その時、海は彼らを祝福するように二つに割れた、と」「出エジプト記ってやつな」 有名な話だ。怜生も口を挟む。「海が割れるわきゃねえけどさ。でも、どうやったら海を割ることができるのか、頭ひねって考えるのも楽しそうじゃね?」「怜生」 律は親友の言葉に勇気づけられたように微笑む。 「ヌマブチさん、我々は海を渡してやるべきなのでしょうか。彼らを……フォドゥの者たちを」 問われたヌマブチは口端を緩め、笑った。「某はその物語を知らないのでな。だが一つだけ言えることがありますよ」 彼は拳をつくって、ひょいと前に出してみせる。「やってもやらなくても、人は誰でもいつかは死ぬ。どっちに転んでも死ぬのならば、好きなことをやるべきでありますよ」 律も怜生も顔を見合わせて微笑んだ。 そして彼ら三人は、拳を軽くこつんとぶつけたのだった。=========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>ヌマブチ(cwem1401)桐島 怜生(cpyt4647)冷泉 律(cczu5385)=========
むきだしの銃を持った二人の男が川沿いの汚い小屋に入っていくのを見て、律と怜生は足を止めた。 そして子供の悲鳴。少年たちが踏み込めば、まさに母親と子供が撃たれようとしているところだった。逃げることもせず、ただ、しっかりと抱き合って。 律の棍が男を銃ごと跳ね飛ばし、怜生の拳がもう一人の腹を打ち昏倒させた。白昼堂々と行われたその暴力行為に、当事者以外、街の誰もが反応をしない。 危険が去ったというのに、女と子供は呆然と律と怜生を見上げている。 二人は秘密結社フォドウのメンバーである。力のない二人がこの後も生き残れるのか、少年たちには分からなかった。 彼らには赤い印が付けられ、虹連総會はそれを見逃さないだろう。彼らにはもうどこにも行く場所が無いのだ。 律に出来たのは、母親に銃を渡すことだけだった。 * 世界図書館から何か連絡が入っていたらしい。 だが、律、怜生、そしてヌマブチにはどうでもよいことだった。 彼らは夜明けと共に別れた。ヌマブチはここショッピングセンター「花神商城」に残り、律と怜生は早朝の街へと飛び出した。 怜生が手にした端末には街のマップがある。そこには無数の赤、青、黄色の点がうごめいているが、見ているうちにぽつり、ぽつりと赤い点が消えていくのが分かる。 フォドウのメンバーが次々に殺されているのだ。 律は、地図のある一点に注目していた。三色の点が少ない場所。作戦指揮官たちの黄印の包囲から逃れている場所があるのだ。 ここに“彼”がいるのではないか。 自身の勘を信じ、律はそこへとひた走った。 そして怜生は途中で親友と別れ、電脳技師の馬頭にコールしていた。地図の画面が切り替わり、馬の玩具のアニメーションが顔を出す。 「リィ=フォを見つけたみたいだ。今、そっちに向かってる」 「マジかよ、どこだ?」 馬が目を見開いてみせた。彼ら電脳技師たちも血眼になってフォドゥの首領、リィ=フォを探していたのだろう。 「賞金半々でいいからさ、教える前にやって欲しいことがあるんだ。あのさ、街頭テレビを少しだけジャックしたいんだけど、できる?」 「お前、誰に向かって話してると思ってんだ」 馬頭は二つ返事だ。「今は非常時だから、いろんなものが俺らに解放されてる。楽勝だぜ」 「じゃ、頼む」 ──リィ=フォでぇーす。今、ボクはチーリン街に来ていまーす ──おいおい、さっきのは俺のニセモノだ。本物のリィ=フォは、ここ七番街にいるぞ ──待てったら、リィ=フォがいるのは泰山ビルだぞ、騙されるな ──つーわけで、一般市民のみなさん危ないから逃げちゃダメヨー 馬頭は、アレンジされた嘘情報を街頭テレビで流しまくった。それは怜生が目的をもって放った情報操作だった。 思った通り、静かだった街がにわかに騒めいてきた。まるで水面に石を投げ込んだかのように。慌しく駆け出してきた者たちとすれ違い、怜生はニヤリと笑う。 と、律が走っていった方向から明るい光が差した。見れば、ビルの屋上から大きな炎の柱が上がっている。 怜生は自分の作戦が成功したことを知り、パチンと指を鳴らし柱を指差してみせた。 * 律は、炎の柱が引いた雑居ビルの屋上に居た。 そこに一人の男の姿を認めたからだ。ロングコートを着た30代後半ぐらいの大柄な男である。 リィ=フォ。古い占書で、美しく散る花火を意味する言葉である。 ニセモノ作戦──。怜生の策が功を奏したのだ。街頭テレビの放送は、虹連総會に混乱をもたらし本物を焙り出すためのものだった。結果、リィ=フォは本物の自分はここにいる、と烽火を上げた。 彼は現れた律に気付くと目を細めた。ふと、彼の両手が明るく光る。どういうわけか手に炎が灯ったのだ。 「待ってくれ。あなたに話があってきた。俺は総會の者じゃない」 律は大きく両腕を広げ、武器を手にしていないことを見せる。 「俺は律という。ビンの肉工場にいた」 ああ、とリィ=フォはすぐに思い至ったようだ。 「一度、電話で話したかな?」 「ああ」 「異世界から来たんだろ?」 「そうだ」 「ジェンチンの命で?」 「違う。自分の意志でだ」 矢継ぎ早の質問に、そこだけはきっぱりと答える律。 「あなたに別の地区に逃れてもらうために来た」 「逃れる? この俺がか?」 初めて、リィ=フォの顔に表情が生まれた。何を言い出すのやらと、彼は目の前の少年に興味を持ったのだ。 「同胞を残して、俺がここを逃れるとでも?」 答えない律を前に、彼は微笑すら浮かべながら言う。 「この街には俺を八つ裂きにしたい連中がゴマンといる。俺の最後の仕事は、連中の目を引きつけることだ。黄印を持った連中をな」 最後に彼は言った。 「──お前が俺だったとしたら、どうする? ひとり逃げるのか?」 律はゆっくりと首を横に振った。 「しかしあなたは生き残らねばならない、と俺は思う」 彼は真っ直ぐにリィ=フォを見上げる。 「先ほど、殺されそうになっていた母親と子供を助けた。彼らはこの街の中でどこに行く場所がない。だから、あなたのような指導者がいなければならないんだ。あなたがいなければ、彼らはどこにも逃げられず、ただ殺されるのを待つだけだ」 大きく、大きく息を吐いて、リィ=フォは無言で彼を見下ろした。 次に彼が何かを言おうとした時。 律の背後の扉が勢いよく開き、銃弾が彼らの話を割った。 左右に飛び退く二人。律は棍を構え、リィ=フォはサブマシンガンを取り出し撃っていた。 「お前の言い分は大体分かった」 襲ってきた敵が身を隠した一瞬の間に、リィ=フォは短く言う。爆音が一気に迫り、ビルの影からヘリが現れた。無論、先端には無骨な機銃が見えている。 「──俺について来れたら、信じてやる」 地を蹴り走り出すリィ=フォ。それは宙を舞うヘリの方向だ。 躊躇することなく、律は後を追った。 * ジェンチンがリィ=フォを確保しろと声を荒げている。花神商城の頂上階のバー、ランパン本部である。様々な情報が飛び交う中、ヌマブチはぽつねんとバーの一席に座っていた。その赤い瞳に暗い色を宿して。 ある人物にノートを使って連絡をとったが、返事は無かった。 賭けの結果を見届けたい、と言えばジェンチンは彼に感心を向けなかった。鼻をフンと鳴らしただけだ。 やがて炎の柱が上がった時、やおら彼は腰を上げた。 律がうまく相手に会えていればいいのだが。そんなことを思いながら、炎の柱を肉眼で見ようと非常階段の方へと足を運ぶ。 窓を覗けば、炎の柱が引くのと同時にヘリが一台突っ込んでいくのが見えた。 「──待つ、のは構いませんよ」 その時突然、背後から声を掛けられ、ヌマブチはピクと肩を震わせた。だが、彼は振り返らなかった。 声の主が誰だか分かったからだ。 「他の者を極力巻き込みたくないのです。これは私の身勝手な行動ですから」 その言葉に思わずヌマブチは苦笑を漏らす。自覚があるのか、と呟けば、相手も笑ったようだった。 「今、ジェンチンを殺せば、その死は他の幹部に利用され更なる血が流れる──。貴方のおっしゃる通りです」 影に潜む男ツァイレンは淡々と言う。少し待って欲しいというヌマブチの申し出を聞いてくれるようだ。 「機を見ているところです。彼一人を狙える瞬間を」 「律が、貴殿のことを案じていた」 ヌマブチは話題をそらす。 「裏切られたことが気に入らんのだろうが、この大量殺戮の原因をつくったジェンチンを殺したとしても、街は元には戻らん」 相手はそうですね、と肯定の言葉を返す。 「私は、ただジェンチンを止めてやらねば、と思ったのです。彼は自らの妻を殺し、自分が手足と使っていた者たちを見捨て、娘一人を助けるために我々を裏切り、他の多くの者を犠牲にした。これ以上生き永らえれば、彼はさらに自分の心を殺し、魂を汚す」 ──友人として、私は彼を止めてやらねばならないのです。 と、ツァイレンは静かに結んだ。 全く、全く理解できなかった。 ヌマブチは沈黙を返す。相手は何かを察したのか、前触れもなく居なくなった。 窓の外を見つめ軍人は小さく息をついた。独り残された彼の胸の中に大きな霞のようなものが生まれている。 友人だから、相手を殺す? ヌマブチは自問自答した。自分が相手を殺すのは、こちらへの損害を防ぐためだ。 彼にはツァイレンの言うことが理解できず、そして信じられなかった。友人だから殺す? そんな陳腐なロマンチシズムで人が人を殺すのか? 単に憎いからツァイレンは相手を殺すのではないか。 後者であって欲しい、とヌマブチは思う。後者ならば理解ができるからだ。 戻るドアを開いた時、すぐそこに女が二人立っていた。ロストナンバーの流鏑馬明日とニコル・メイブだ。 「今の話なんだけど……」 険しい顔をした二人は、ヌマブチを非常階段へ押し戻し、自らもフロアから出る。 「彼と話していたこと、ジェンチンと何があったのか教えてくれないかしら」 正面切って聞かれれば、ヌマブチは頓着しなかった。彼は淡々と自分が体験したこと、ツァイレンが言っていたことを彼女たちに話した。 * 怜生はトラベラーズノートに目を通し、じっと見つめていた。 親友のために、今回は裏方に徹するつもりだった。しかし──。 怜生はフォドウ殲滅作戦を撹乱させて時間稼ぎをしているうちに、気付いてしまったのである。先日、肉工場の事件でジェンチンが何をしていたかを。 馬頭との会話の食い違い。馬頭は、肉工場に娘が囚われていることを最初からジェンチンに伝えていたという。そして抜け道には爆弾など無かった。と、なれば暗闇から怜生たちを撃てた人物はたった一人しかいないことになる。 「今のは気付かなかったことにする」 馬頭は震える声で言う。 「オレはあの人に恩があるんだ。瀕死のオレを凄腕の医者を雇って助けてくれた。金も要らねえ。ただこの件から抜ける」 今回のことを招いた元凶がジェンチンにあったとは。怜生は馬頭の恐怖も理解できた。 「分かった。じゃあ最後は俺がやるから音声だけ繋げてくれ」 ──ジェンチンの娘だけが助かったのはどうしてネー? 馬頭の手を借り、街灯テレビを通して怜生はふざけた放送を流し続けた。虹連総會の手を緩めるためだ。 怒ったジェンチンが馬頭を使って放送を止めるのを確認すると、彼は早々に切り上げて代わりにトラベラーズノートを開いた。 渦中の人物に連絡を取ったのだ。 あんたの怒りの正体が分かった。 その怒りは誰のため? まだ誰も復讐なんか頼んでないだろ。 はい、深呼吸して。 すると、驚いたことに相手からすぐ返事があった。 自分が何を思っているか聞かせると前置いて、ツァイレンの言葉がノートに現れた。 ジェンチンのことを私は親友だと思っていた。 しかし彼は自らの手を裏切りの血で染めた。一度、悪徳に触れれば止まらなくなる。 悪徳が彼の魂を染め上げるのにも時間はかからないだろう。 君ならどうする? 律が、やむを得ず手を染めた悪徳に蝕まれていくのを見たら? 君はそうなった親友を放っておけるのか? 怜生は返事を書かなかった。 * 「あなたは──いつか死体を積まなくてすむ日がくる、と言った」 ヘリからの機銃掃射を二手に分かれてかわす。 「俺はそれを信じる……!」 律はリィ=フォに叫びながら、反射的に身を伏せた。 フォドゥの首領が紙のようなものをばら撒くと、それが勢いよく燃えあがり煙幕を作った。 一瞬だった。ステップを踏みながら、彼は手榴弾を取り出し力一杯ヘリに投げつけた。 それが小さな爆弾とは思えないほどの火力で炸裂する。ヘリはコントロールを失って地上へと墜落していった。 「死体の山を積み上げれば、いずれ崩れる。その時に苦しむのは、守ろうとする一族の子供らだ」 そう言った律に階下からの者たちが迫る。彼は棍を振り払いながら彼らを三人、まとめて跳ね飛ばした。銃弾の気配に、さっとひと跳び。彼の姿を見失った者たちに頭上から蹴りを放つ。 「ビンのように命懸けで慕う部下もいる。あなたは命を大切に思える人だ。だから、殺し合いとは違う道を切り開けるはずです!」 そうまで言っているというのに、リィ=フォは冷たい眼差しを返してくるだけだ。 彼は階段への入口にいた男たちをフルオート掃射で肉塊に変えていた。顔をしかめる律。だが彼が先を行くので、無言でその背中を追った。 リィ=フォは、昇ってくる者たちを情け容赦なく撃ち殺しながら階段を駆け降りる。踊り場で集団に出くわせば、そこへ手榴弾を放った。火力は自由自在だ。 次の踊り場に辿りつこうという時、上から轟音が響いた。 リィ=フォの肩口からプツッと血が飛び散った。彼が撃たれたのだ。 「死ねぇ、リィ=フォ!」 律が先に反応した。彼は一足跳びに階段を駆け上がると、銃を手にした男の胸を棍で突いた。げはっと大量の血を吐き、相手は銃を落とす。 カランカラン……と、落ちていく銃の金属音を聞きながら、ハッと律は我に返った。 相手はすでに瀕死の重傷だったのだ。 そのまま、どうと後ろに倒れる男。その身体はピクリとも動かない。 「行くぞ!」 頭をぶるっと振るい、律はリィ=フォを見る。今はじっくり考えている時間もなかった。彼は踊り場から廊下へと姿を消した。律もその後を追う。 やがて彼らは隣りのビルに跳び移ってから、階下まで降り、裏口から外へと出る。 辺りは不気味なほど静まり返っていた。 路地の様子を伺うリィ=フォ。ふと律を振り返る。 「……よく、着いてきたな。大したモンだ」 「言ったはずだ。俺はあなたを助けにきたと」 律は息を整え、相手の顔をまっすぐ見上げる。 「生き残るフォドゥの者はごく僅かだ。虹連総會は跡取りがほぼいない。今は痛み分けにできませんか」 「痛み分けだと?」 こくりとうなづく律。彼は囁くように自らの意を唱える。 殺す勇気があるなら、殺さない勇気を 死ぬ覚悟があるなら、生き抜く覚悟を あなたを助ける事で戦火が広がるかもしれない それでも、私は信じる道を貫きたい 今、目を背ければ私はきっと一生悔やむ 正しい正しくないは関係ない それを考えるのは、終わった後の人たちだから チッとリィ=フォは舌打ちした。 「お前みたいなキ印、初めてだよ」 俺はどこに行けばいいんだ。と、彼は眉をひょいと上げてみせる。律の心意気とその行動を見て、ようやく彼は律を信じたのだ。 律は深く頭を下げて、礼を言った。 「隣りの街区へ。川を渡ります」 「──そういうことね」 と、澄んだ女の声が話を割った。 はっと棍を構える律。その手をリィ=フォが止める。 「待て。仲間だ」 現れたのは朱色のドレスを着た女だ。話を聞いていたのだろう。彼女は律に向かって微笑みを向けた。 * ジェンチンの様子は哀れだった。 ミンイーと名乗るフォドゥ幹部から娘を誘拐したと連絡が入ったのだった。彼の顔からは一気に血の気が引いた。動転した彼は頭を掻き毟り、うろうろとその辺りを歩き回る。 ヌマブチは彼を後目にトラベラーズノートを取り出した。ミンイーが送ってきた映像の中に連絡を取れる人物の姿を認めたからだ。 彼の行動は早かった。 人知れず、バーを抜け出して花神商城の外で目的の相手に会って交渉する。元々同じようなことを考えていたのだ。交渉が成立すると、彼はビルまで戻った。連れてきた人物を通すには“味方”であるヌマブチがいれば楽勝だった。 彼は二人の人物を連れ、飄々とバーまで戻る。 すると、白い服の少女──ゼロがジェンチンに何やら迫っているようだった。 「娘さんが生きていることは状況証拠になりうるし、ゼロたちはそれを告発することも可能ですー」 「まさか、お前もこの俺を脅迫する気か?」 「お願いをしているのですー」 ヌマブチは、ほんの微かに口元を緩め、自らの銃剣をそろりと準備した。 「──ほほう、結構、結構。同じ考えの者がいるのは頼もしいでありますよ」 驚き、こちらを見るジェンチンたちに、ヌマブチは背後の二人の姿を見せつける。 それは、誘拐されたはずのリウリーと、ベルダだった。 「リウリー!」 「待て、そこを動くな」 鋭い声でジェンチンを止めるヌマブチ。よどみない仕草で、彼は銃をリウリーの側頭部に向ける。 「某はミンイーと一時的な協力関係を結んだでありますよ。我々の、そして彼女の要求を伝える。ああそれから、これからのことは彼女が全て録音していることを伝えておく。某に何かあれば、録音内容は全て他の黄印に伝わるからそのつもりで」 「何をしているの!」 突然の暴挙に、怒ったように明日が声を上げる。しかし軍人は冷たい眼差しをちらりと向けただけだ。 「利用するされるは取引の常。それ故に露呈すれば首を締める事は判っている筈」 と、彼は汗すらぬぐえないジェンチンを顎でしゃくり、「その男は、個の情の為に我々図書館を裏切り利用した。その危険性を知って尚、協力を続ける意味はない」 「でも──」 と、声を上げる明日をニコルが止める。 「ひとまず状況を見ようよ」 改めて、ヌマブチが言う。 「要求は、三つだ。ひとつ、フォドゥに付けられた赤印の解除。二つ、全権を他の者に譲り自分は退陣し金輪際関わらぬ事。三つ、報復行為はしない事」 うんうんと頷くゼロ。 「この三つを全て呑んだら、生きた娘を返す」 間。何かを計算したのだろうか。ククと、ジェンチンは喉の奥で笑った。 「お前は俺に死ね、と言ってるんだな」 ヌマブチは軽く肩をすくめるだけだ。 「どうする?」 答えは無かった。 次のヌマブチの行動は早かった。リウリーが胸元でしっかり抱えた小さなポーチを銃の先で引っ掛けて飛ばすと、それをいきなり撃ったのだ。 リウリーが悲鳴を上げ、床に散らばった化粧品や小物に這いつくばった。それはジェンチンの妻の遺品でもあった。 しかし彼女は辺りを見、父親に目を止めさらに恐怖の悲鳴を上げるのだった。 怖い人がいる! と泣き叫べば、ベルダがそれを抱きしめてなだめる。 「違うよ、リウリー。違う。よく見るんだ。あの人はお前のパパだよ」 ジェンチンは呼吸を整えているようだった。大きく息を吐いて、天井を見つめる。 そして誰かの名前を呼ぶ。部下の一人のようだ。 「聞いただろ? ソン以外の全員を連れてここから出て行ってくれ」 「でも」 「俺に何かあった時は後を頼む」 数秒の悶着の後、部下たちはぞろぞろとフロアから出て行った。一人残った殺し屋風の男だけが立ち上がり、無表情のままジェンチンの傍らに移動する。 ランパンのボスは真っ直ぐに娘を見つめた。 やがて物音が消え、ただリウリーがすすり泣く声だけがフロアに響く。 「答えは?」 と、ヌマブチの声が少女の声を遮った。 知ってるだろ、とぽつりとジェンチンが呟く。こういう時、俺がどうするかを──。 彼が銃を抜き、撃った。 銃は真っ直ぐに、自分の娘に向いていた。 その後に起こったことは一瞬だった。 ヌマブチは反射的に銃の引き金を引いたが、腕に衝撃を受け、軌道を外してしまった。明日である。彼女が咄嗟に彼の腕に蹴りを放ったのだ。銃弾はリウリーを掠め壁に穴をつくる。 誰かが悲鳴を上げた。 撃たれたのはリウリーでは無かった。それは何とツァイレンだった。あのわずかな間に、潜んでいた彼は自らの身を挺して、幼い少女をかばったのだ。 背中に当たった銃弾が白い長袍を血で染めていく。 ジェンチンは銃を下げない。彼の指がもう一度引き金を引く直前、白い影がその手から銃を弾き飛ばした。ニコルである。彼女は傍らの殺し屋に一撃を見舞う。 そしてゼロが一瞬にしてむくむくと巨大化した。 「みんなゼロのポケットに入るですー」 体育座りをした彼女は、いち早くリウリーとベルダをポケットの中に入れ、殺し屋をうまく壁との間に挟み、ギュウギュウと拘束する。 ヌマブチはジェンチンを見た。彼は立ち尽くしたまま、微笑んでいるようだった。 「あの子は、これから幸せになれるかな?」 それは誰に問いかけたものだったのだろうか。 白いものが視界を横切り、ジェンチンの姿が消えた。 大きな物音と共に、彼はコンソールに背中を叩きつけられていた。滑り込んできたツァイレンの仕業であった。武道家は渾身の力を振り絞り、相手の胸に掌打を叩き込んだのだった。 がはっとジェンチンが大量の血を吐き、ツァイレンの腕や足のあちこちから鮮血が噴き出す。 彼は崩れるように倒れていった。 死んだのだろうか──。 ヌマブチはジェンチンの様子を伺い、彼がよろめきながらも立ち上がったのを見る。喉の奥で笑い始めた彼は、振り向いてコンソールに何かを入力し始めた。静かな空間の中で、ジェンチンは狂ったように笑い出す。 やがて、フロアを照らす光の色が変わった。 青く、深い優しい色に。 モニターを埋め尽くしていた点が──全て青に変わったのだ。 誰もがその光景にみとれた。それは目前の広がる海のようで、そして大空のようだった。点は一つ一つが人を現している。今の今まで争っていた全ての色が、青く変わったのだ。 笑い声が消えた。 終わったか、とヌマブチは嘆息し青い点を見つめる。それは悪くない光景だった。 ──100万の価値を認めるでありますよ。 そう呟いて、彼はひとりフロアを後にしたのだった。 * 大きな川の畔で、律は怜生と再開した。 全ての印が青く変わった直後のことだ。端末でそれを確認したリィ=フォは誰ともなく礼を言った。ありがとう、と。 これから深く暗い川を渡るのだ。長い時間がかかるだろう。律は怜生に師のことを託した。 うなづいて、怜生はひと言だけ親友に言う。 「なあ、あのさ。律は変わらないよな」 「何が?」 「なんでもない」 悪徳だなんて大げさな。お前は、変わらないよな。 律が軽く手を挙げ、怜生は無言でそれをパシッと叩く。怜生は心中で問いかけ親友の返事を得なかったが、それでいいと思った。 彼は律を信じているのだから。 そうして、二人は別れた。 怜生は律を見送りつつも、彼がセクタンから得た空気を酸素ボンベ役となってリィ=フォに渡している様を目に留め苦笑した。 別の意味で変わらなければいいがと、思いながら。 (了)
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