インヤンガイへ向かうロストレイルの中で、誰もが黙りがちだった。 リエ・フー、いや、もう楊虎鋭(ヤン フールイ)と呼ばれるべきなのか。 癖の強い黒髪、猫科の猛獣を思わせる黄金色の釣り目。時に意志を、時に哀れみを、そして時には極上の快楽を映し出す輝きは、今窓の外に向けられている。 ターミナルに来た時に着ていたファー付きの焦茶のフライトジャケットを羽織り、襟元を寛げた黒い人民服はいささか手足が窮屈そうに見えるようになった。 胸元でトラベルギアの勾玉が揺れる。母親の形見の勾玉を世界図書館が復元したもの、時には半径10メートルの敵を太極図の結界で呪縛し炎上させ、あるいは音速で走る真空の刃、鎌鼬で切り刻む。炎の虎を召喚・使役することもできる。 数々の依頼で攻防一体の陣としてリエを守り、敵を倒したその技も、もうリエの手から離れる、今はまだ膝に乗っているフォックスフォームのセクタン、楊貴妃(ヤンクイヒ)とともに。 彼の頭上に浮かぶ真理数は、既に濃くはっきりとしてきており、荒れつつあるインヤンガイの嵐の中に降り立つリエの、並ならぬ覚悟を示すようだった。 帰りのロストレイルに、もうこの姿を見ることはない。「せっかくのおにゅー、どうしたのさ?」 沈んだ空気を吹き飛ばすように、ぽん、とアストゥルーゾがリエの隣に座った。「ずいぶんカッコよかったのに」 それなりに気をつかったのだろう、布が重なった塊のように見える姿ではなく、いつぞやのショートボブの黒髪、紅色のフレアスカート、白いタンクトップに羽織った短めの黒ジャケットという出で立ちだ。「間抜けな話さ」 リエが片頬で笑う。「リオを送り届けた時にあっちで早速一暴れして破けちまった。今、リーラが直してくれてんだ」 苦笑しながらも口調は柔らかい。「まだ帰属していないのに、少し身長が伸びたみたいに見えるわ。真理数が見え出すと、体が変わっていくのかしら」 斜め前に腰を降ろしたセリカ・カミシロが、青い瞳を瞬いた。そのツインテールの金髪の上にも真理数が瞬き始めている、リエと同じ数字が。「さあな」 その真理数と、白と黒を基調としたシンプルなドレスをゆっくり眺めて、リエは少し顔を引き締める。「けど、インヤンガイに着いたら、オレはすぐに訓練を始める……『弓張月』を守るための」 すぐに体も変わってくるさ、インヤンガイで生きるのに似合いの、と続けると、セリカは一瞬顔を歪めた。 報告書で互いの真理数が見え始めた経過は知っている。 それは同時に、インヤンガイという同じ世界の中で、違う立ち位置に属するということも理解しているということだ。 祖国を離れた傭兵同士がぶつかりあう状態にならないように願っている、だが、世界に属するということは立場を一つ選ぶということでもあるのだから。「踏ん張りどころだぜ」 リエは微かに笑ってみせた。 女性二人に囲まれた形のリエを、色素の薄い瞳を眼鏡で覆った冷泉 律は静かに眺めやる。 かけがえのない友人だと思った、そうありたいとリエが願った、グレイズを連れ戻すための戦いに、肩を並べたもう一人、小麦色の肌の桐島 怜生も、律の斜め前の座席に脚を組み、リエを見やる。「えらくすっきりした顔じゃん?」 いささか不満げに聞こえた声に、律が振り向く。「リエぴょん、不完全燃焼のとこが面白かったのにぃ」「からかうのに打ってつけだった、と聞こえるが?」 眼鏡を押し上げた律に、怜生は唇を尖らせる。「淋しいのは俺だけみたいじゃん」「人生は動いてこそ、がモットーのはずだろ」「日々これ宝物、なんておさまりかえってないでさ」 怜生はぐい、と拳を差し上げてみせる。「最後に一勝負ってことになんない?」「ならない」 律がさっくり切った。「妙なこだわりを残して帰るな」「いいじゃん、関係が切れるわけじゃないし」 怜生は、な、リエぴょんっ、と声を張り上げ、笑いかける。気づいたリエが、ふ、と唇を綻ばせた。「……いい笑顔してくれちゃって」 ぼやいた怜生がちょっと見惚れた。「へえっ、これが『月陰花園』!」「凄いな」「うわあん、夜に来たかったかも!」「……」 驚きはしゃぐアストルゥーゾ、見回して感嘆する律、大仰にがっかりして見せる怜生、そして無言で目を見開いてきらびやかな館の飾りを見上げるセリカ。「これでもまだ仕事前だからな、静かなもんだ」「お、リエ! 何だ、店開き前から客引きか?」 通りすがりの男が笑いかけてくる。リエの手荷物に気づいて頷き、「ああ……ようやく引っ越しか」「ああ、ようやく。こいつらはダチだ……見送りに来てくれたんだ」「この前のリオみたいにか? リエのダチなら、俺にとっても大事な仲間ってことだよな?」 よろしく頼む、俺は赤蟻って言うんだ。 名乗られ、手を差し出されて、セリカはおそるおそる握り返した。荒れた手、だがしっかりと温かい。「部屋は準備できてるって、リオが言ってたぞ。皆、今夜一晩泊まれるようにしてあるってよ」「そうか、ありがとよ」「じゃ、ちょいと急ぐからよ。夜には『弓張月』に出向くぜ」「待ってる」 笑ったリエはそれからも、通りで幾つも声をかけられた。ごつい男も居れば、しゃなりと細い女、明らかに支度中の姉さん方から、呼びかけられ、会釈され、からかわれる。「……何かすっかり溶け込んでるね、リエ」 アストルゥーゾの呟きに、リエがふ、と立ち止まって振り返った。「俺はこれから此処で暮らす。此処で生きる」 張りのある声、思い定めた道を歩き始めた男の声。 背後にいつの間にか、平屋の家屋があった。看板は『弓張月』と読める、その戸口から、「リエ遅い! 金鳳が何かあったんじゃないかって心配して僕に………あ」 いきなり飛び出してきた少年がぶつかりそうになった面々に立ち止まる。青い瞳、茶色の毛、だが十分に伸びた手足はしなやかで肩幅もしっかりあり、かつてのメイド服姿を想像できない。「……悪ぃ、遅くなっちまって」 リエが自然な口調で謝った。「でも、ちゃんとこうして戻って来たぜ」「うん…おかえり」 『弓張月』のリオは、一瞬アクアーリオの顔に戻る。「……いらっしゃい、ロストナンバーの皆…ターミナルは変わりない?」 今夜はゆっくりしていって? 照れくさそうに笑うリオの隣を、リエがするりと擦り抜けていく。=========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>リエ・フー(cfrd1035)アストゥルーゾ(crdm5420)セリカ・カミシロ(cmmh2120)冷泉 律 (cczu5385)桐島 怜生(cpyt4647)=========
これは別れの宴になる。 誰もがそう理解している。その意味を、その波紋を。 この先の道は重ならない。幾度か交錯することがあっても、また幾度かは笑い合うこともあっても。 いずれ我々はリエを失う。 時間、という大きな波の彼方に。 「……とは言っても、基本的に盛り上げ担当だけどね」 アストゥルーゾは夜の宴に向けて、周囲を手伝いながら一人ごちる。 「何でもできるしなんにでもなれる、パーティーに一人いれば盛り上がること間違いなしだよ」 着替えは準備してある。あの彼が着そうな服。睨みつけるような金色の目と青い髪は自前でいける、擦り切れた短パンと薄汚れたTシャツ、最後まで裸足だったかどうかわからないけど、その方がいいか。 「驚いたり、喜んだり悲しんだり、満足してくれたら化かし屋冥利に尽きるね」 何かのハプニング中があれば、それを利用しよう、そう考えた視線の先を、怜生がうきうきと『弓張月』の面々に話しかけていく姿が掠める。 「そうなんだよ、リエぴょん、ほんとは泣き虫でさ。夜中になると、ママを思い出してくすんくすん泣いてんだよ、可愛い〜っ!」 「荷物の中にアナモゲラ牛のぬいぐるみあったの見た? え、まだ見てないの? いや、リエぴょんの出身地に居た獰猛な牛でさ〜、リエぴょん、大好物すぎて、ぬいぐるみによだれ垂らしてるんだ、あ、でも言っちゃ恥ずかしがるからダメっ」 「え〜っ、知らなかったの? リエぴょんてば、ジツは女になりたくってさあっ、また女装するとヤバイヤバイっ。あ、やっぱりそう思った? ヤバイよねえっ……あ痛い痛い遺体になるからやめて」 「そのあたりにしておけ」 見かねたのか、律が怜生の耳を引っ張る。 「盛り上げるにしてもやりすぎだ」 「え〜、まだまだ序の口でしょ」 唇を尖らせる相手のきらきら光る目に小さく溜め息をついて続ける。 「それで、うまくいったのか」 「へ?」 「皆は協力してくれそうなのか」 「気づいてたんだ?」 「当たり前だ」 「うん、任せとけってさ。えーと、あの銀鳳さん? あの人も笑って参加するってさ」 「……よかったな」 律は微笑み、ずれた眼鏡を押し上げた。 正直、帰属の立会人として自分が相応しいのか戸惑うところだ。あまりまだ帰属者の報告書を目にしていない。それだけに、大役に身が引き締まる思いがする。だが、リエが選んでくれたのだ、全力で応えねばと思っている。 「何それ、デジカメ?」 律が手にしていたものに気づいて、怜生が覗き込む。 「集合写真を頼めないかなと思って。写真は後で届けに来るから、その前に皆の寄せ書きをもらえたらと考えている」 「さっき、セリカもアリッサや司書達からの寄せ書きをリエに渡してたよ」 気ぃ遣ってんだよね、と怜生は肩を竦めてみせる。 「宴の席でリエがあんまり懐かしがったら、ここの皆に悪いだろうって」 「…大丈夫じゃないかな」 律は、ちらりと背後を通ったリエの背中を見やる。仕立てた服が直ったのだろう、背中に輝く金色の虎は、気概に満ちて覇気がある。 「もう、そういう懐かしがり方はしないよ、きっと……でも」 宴の席で、できればそっと尋ねてみたいと思っていた、故郷ではない世界の帰属に踏み切った理由は何ですか、と。長年のロストナンバー生活で家族と死別したのも要因ですか? 「…会わせてやりたいな」 「ん?」 「リエの父親」 「ああ、ロスナンなんだって?」 「今日居ない」 「だね」 「何でだろう」 「さあ……あ、ねえねえ聞いたっ? リエぴょんさあ!」 ちょい、と首を傾げた怜生が、まだ声をかけていない連中を見つけたのだろう、あっという間に飛んでいった。 デジカメともう一つ、律が手にしていたのはナレッジキューブで作ったリエのギアの模倣品。この先は楊虎鋭として生きていく彼、消え去っていくロストナンバーのリエの象徴としてはぴったりかと思ったが。 「先に道はない……選んだ積み重ねが道となる」 写真の寄せ書きを呟きながら考え、その模倣品をきゅ、と握って付け加えることばを思いつく。 『願わくば皆さんの幸せへと続きますように』 ターミナルでリエが築いた絆のように、新たに紡がれる絆が幸福をもたらしてくれるといい。 「わかった、そういうことなら任せとけ」 通りで会った赤蟻が笑顔になって、セリカはほっとする。 「ありがとう」 「リエを驚かせてやりたいのかい、お嬢ちゃん」 湯上がりなのだろう、こざっぱりとした服に濡れた髪を結い上げた娼妓が、くすくす笑って頷く。 「あたい達の誘いに乗らないと思ったら、そういうことかい」 「違います、リエには…」 言いかけてセリカは口を噤む。宴の用意を自ら手伝うリエと一緒に働きながら、静かに話してくれた横顔を思い出す。 『実は今、リーラの足を治す方法を探してるんだ』 あまりにも意外なことばに驚いて、瞬きしながらリエを見やると少し照れたように唇を歪めたが、すぐに生真面目な顔になって頷いた。 『インヤンガイのどっかにリーラの足を治せる名医がいるかもしれねえ。普通に歩ける義足だってあるかもしれねえ。どんなに見込みが薄くても、はなから無理だって諦めちまったら何も始まらねえ』 どんな依頼の報告でも、こんな熱の籠ったリエの声を聴かなかった気がする。こんなに一途に何かを願う瞳を見なかった気がする。上海の街中を愚連隊を率いて駆け抜けた小僧は、たくさんの命と縁を失うことを引き換えに、抗うことができないような運命にも怯まず立ち向かう心を育てた。 『リーラやリオと肩を並べて歩きてえ』 囁くような優しい声、宴の準備で賑わう中、普通なら紛れ込んでしまいかねない掠れた声を、セリカなら見つめることで『聞き取る』ことができる。 『色んな処へ連れてって……色んな景色を見せてやりてえ……』 ほとんど聞こえないほど静かな柔らかな声は、ひょっとすると寝屋の睦言として交わされる類のものなのかも知れない。声音は聞こえずとも、セリカは感じる、リエが微かに尖らせる唇で、その端に堪え切れずに滲む笑みで、細めた目元に落ちる睫毛の影の深さで、そして、一瞬潤む瞳の色で。 『それが今の俺の夢だ』 最後のことばはさっぱりとしていた。 ゆっくり見上げる視線を追って、庭をみやる。ちょい、と突かれて振り向くと、リエが大人びた微笑で見下ろしている。 「あそこに菊を植えたんだ」 「菊?」 「菊は中国の名花で婦人病に効く漢方薬だ。『弓張月』にゃその手の病を抱えた女も大勢くるし、少しでも役に立ちてえ。満開になりゃ酒の肴にぴったしの絶景だろうさ」 にやりと笑うふてぶてしさは、かつてのリエの笑みより数段深い。 ああ、この人は。 「まあまあいいじゃねえか、そこんところはよぉ」 我に返ると、赤蟻が娼妓を宥めていた。 「姉さんがリエを好いてるのは知ってるけどよ、まあここんとこは堪えてくれよ」 「あたいがいつあんな寝しょんべんたれに惚れたってお言いだい?」 娼妓はからかう瞳で言い返す。 「寝小便たれ?」 「違うのかい、一緒に来た、えーと、怜生とかいうほら元気のいい兄さんがいろいろ触れ回ってたよ」 「う、うーん…」 セリカは思わず複雑な顔になる。怜生が一つイベントを考えているのは知っている。セリカが月陰花園をちょっと見て回ってきたいと言った時にも、じゃあついでに夜に来そうな人には言っといてね、とダメ押しされてきた。セリカの計画していたものと重なって楽しくなるといい。けれど、どうやら、怜生はそれ以外にもいろいろとんでもないことを触れ回っているようだ。 「あはは、何考え込んでるの、この子は!」 ぱつん、と娼妓はセリカの肩を軽く叩いた。 「わかってるよ、おふざけだろ、けどそういう絆がある子が、そこを離れて『弓張月』に来てくれるんだ、これは侠気ってもんだろ?」 じゃあ、やっぱりあたいはリエに惚れとこうかね。 「よ、笹宮妓っ!」 軽く片目をつぶって笑った娼妓に、赤蟻が声をかける。 (リエ) 赤蟻と笹宮の会話を聞いていて、セリカは胸の内が甘くなる。 (人と人との絆は何より強いものだ) 改めてそう思った。 歩き出し、離れていく二人に手を振り、ゆっくりと月陰花園を見て回る。 仕事前だからだろうか、建物の華々しさとは裏腹に、入り口出口は閉ざされ、あるいは半開きで、門掃きをしたり建具を磨いたりする子どもや女、湯屋の帰りか稽古行きか、手拭いや鳴りものらしいものを手に出入りする女達、インヤンガイにしては頭上が開いた明るい通りだ。 それでもここで事件がなかったわけではない。むしろ、報告書にもある通り、一歩内側に呑み込まれてしまえば、血で血を争うような出来事、人の欲望が歪みねじ曲がった果ての惨劇、あるいはまた、どうしようもないほど虚しく切ない闇の存在も語られている。 けれど、逆に、それらの出来事こそが、リエとこの場所との絆を作り上げたとも言える。招かれるように、引き寄せられるように、繰り返し繰り返し、互いの人生を絡ませ合って、そうしてリエは彼らと様々な出来事を経た上で絆を結び今ここにいる。 同じことはセリカにもまた起こっている。 (私に今真理数が浮かんでいるのもそのおかげ。一人で生きようとしていた少し前の私では考えられなかった) 一人で生き、一人で死のうとしていたセリカもまた、帰属の道を選びつつある。 (他人事ではない。私も近い内にこの世界に帰属する心づもりだ、それに迷いはない……でもトラベルギアを失ったら無力だ) それが唯一気にかかってる。 セリカはまだ、リエのように迷いなく堂々とした表情はできてないかもしれない。 (…強く、ならなきゃ。もっと) 「お、姉さん姉さん」 一つの屋敷の入り口から出て来た男が、セリカを認めていそいそ近寄ろうとする。 「どちらにいなさるんで。どれぐらいの格でいらっしゃいやす。もしよかったら、ウチの座敷にちょいと上がって見るおつもりはねえですかい」 背後の屋敷は銀細工がちりばめられた平屋、橋型の看板にも花の銀細工が飾られている。とすると、ここは報告書で読んだことのある『銀夢橋』という店なのだろう。さっきの笹宮と呼ばれた娼妓を思い出した。そう言えば、月陰花園の娼妓はそれぞれ呼び方が決まっている。海の名を持つ『幻天層』、鉱石の名を持つ『金界楼』、姫の名を持つ『闇芝居』、宮の名を持つ『銀夢橋』、となると、あれは『銀夢橋』の娼妓だったのか。 「ごめんなさい、私はもう属す場所を決めているの」 「あ、そうでやしたか。やっぱりねえ、姉さんのようなお綺麗な方なら、そりゃそうだ、こいつぁ失礼いたしやした」 男はぺちりと額を叩いて、それでも未練気にセリカを振り向きながら、気が変わったらまたどうぞ、と頭を下げる。会釈を返して歩きながら、セリカはふと笑みを浮かべている自分に気づく。 昔なら、娼妓と間違えられることは不快であったに違いない。 けれど今は落ち着いていられる。ここはインヤンガイのしかも花街なのだ。そんな通りを一人で歩く女なら、娼妓でなければ何だというのだ。 「笹宮……私なら、セリカ宮、かしら」 呟き、セリカは笑みを深める。ほんの僅かではあるものの、自分がインヤンガイに根を下ろし始めた感じがする。 ギアを失い、無力となる。今までの自分のようには生きられないかも知れない。けれど、この街で、元からギアのない女は笹宮のように生きている。そういうものなのだ、インヤンガイで生きるということは、そういうこと込みだと呑み込むことなのだ。 律の写真の裏に寄せ書きをすることになっている。そのことばが、セリカの胸に浮かび上がる。 『あなたのこれから進む道が、幸多きものでありますように』 それは自らを祝すものでもある気がする。 夜の宴は、思っていた以上に人が集まった。銀鳳も『弓張月』あげての大盤振る舞いとし、来るもの拒まずで受け入れた。各娼館から、月陰花園を仕切る元締めへの礼として、かなりの贈り物も次々届いた。 銀鳳も、金鳳も、忙しく料理を運び、酒肴を絶やさないように目配りしているリオも、そして計らいでリエの隣で微笑みながら給仕にいそしむリーラの顔も、どこか柔らかい安堵をたたえている。 乾杯に始まり、運ばれる料理に箸やスプーンがつけられ、おそらくは怜生が混ぜ込んだのだろうが、涙が止まらないほど激辛とか顔が戻らないほど酸っぱいとか歯が抜け落ちそうなほど甘いとか、そういうロシアン肉まんが供された時には、一瞬テーブルが阿鼻叫喚の渦になりかけたが、それもまたお楽しみ……やがて、そろそろと腹がくちくなったあたりで、促されてリエが立ち上がった。 女連中はじっとしてろ、今夜は酒肴の追加は俺と律でやると言い切り、ちょこちょこと動き回っていた怜生も腰を据える。 一瞬、庭を見やったリエが、静かに振り向いて口を開いた。 「俺はインヤンガイの人間になる。もうターミナルにも壱番世界にも帰らねえ」 ばっさりとした宣言の意味を、銀鳳達は全てをわかりかねただろう。それでも、別れの挨拶とだけは伝わって、それぞれに顔を引き締める。 「改めて言うのもしゃらくせえが、てめえらにゃ世話んなった……感謝する」 両手を軽く拳に握り、リエは僅かに頭を下げた。すぐに顔を上げて、銀鳳金鳳、リオ、そしてリーラに視線を落とす。 「今日からここが俺の家だ。用心棒の修行を積んで、早く一人前の男になる………漸く守りたいモノができたんだ」 リーラの髪には乳白色の菊花の簪が飾られている。庭に植えた菊が育って花咲くころになるならば、彼女はそこに込められた想いを感じ取るだろう。自分が守られていると、再び胸に刻むだろう。 ラオンとジャグドも嬉しそうに盃を空ける。ようやく得た安住の地を守るために戦う者がまた一人、切磋琢磨しあう日々を楽しんでいるとわかる顔だ。 「怜生。律。壱番世界は頼んだ」 「セリカ。インヤンガイで生きてくと肚括った同士、何かあったら遠慮なく言ってこい」 「アスト。お前のチェンバーとこの庭、どっちが早く花が咲くか競争だ」 一人一人にことばを投げる。まっすぐに見返す金色の瞳を、一人一人が見返し、微笑む。 「お前達の事は忘れねえ…絶対に」 言い切ったリエが、何か言いたげに足下でうろうろしているフォックフォームのセクタンに眼を止めた。ひょいと抱き上げる、尻尾を振りながら体を揺らす相手に苦笑して言い足した。 「楊貴妃……あばよ相棒。達者でな」 ギアを外し、パスホルダーを取り出し、じっと見つめていた律に手渡す。 「俺はインヤンガイと運命を共にする。この世界が滅ぶなら、一緒に死ぬ。……ただしとことん足掻き抜いた上でだ」 笑みは皮肉っぽいが、口調は軽くない。 「お前達にギアとパスホルダーを託す。俺が居た証として……ロストナンバーとして生きた軌跡として持ち帰ってくれ」 何かの儀式だと思っているのだろう、銀鳳達は無言で見守るのみだ。 「確かに受け取りました」 律が両の掌に載ったそれをしっかり握り、ことばを続ける。 「……色々あったし、色々あるでしょう。その全てが自分と思えるような生き方を、幸せだったと胸を張って死ねる……そんな人生を過ごしてください………はは、面と向って言うには照れますね……」 眼鏡を押し上げる指先が微かに震えている。大切だと思える相手には、きちんと想いをことばにしたい、言わずに後悔したくないから……それでも、こちらを見返す強い瞳の前では気恥ずかしい。 慌て気味に、リエのギアの模倣品を取り出した。 「お守りです。今までのリエさんを表すなら、これが一番かなって」 「…ありがとよ」 くすぐったそうな顔のリエを見つめる。ひょっとすると、これが本当に最後の対面になるかも知れない、そんな気持ちが掠めた。 「これからの事……『弓張月』を守るなら、多くを背負うことになるでしょう」 リエの瞳がきつくなる。 「個人の腕力でどうこうできるものではなくなる。でも、頼ることを忘れないでくださいね」 どうしても、どうしても心が沈んできてしまう。ずってもいない眼鏡を押し上げる。掌のギアもパスホルダーも凄く重いのは、リエの命を引き換えた気がするからだろうか。思わずそっと呟く。 「………もし探偵に依頼すれば、私が来るかもしれませんけどね」 しんみりとしたことばが消え去ろうとする矢先、がばりと怜生が立ち上がった。 「ねえねえリエぴょんっ、最後だしさ、カンダータでの腕相撲のリベンジしない?」 「おい、怜生」 ぎょっとした顔で止めようとする律を振り切って、 「俺が負けたら、『弓張月』で1日働く。俺が勝ったら、『弓張月』で1日遊べる」 ね、ね、ねと持ちかけつつ、律を素早く見た視線に、律ははっとした。 そうか、こいつひょっとして。 「いいのか、こっちへ来る旅費、自分持ちだぜ」 「いいのいいの、遊べたらチャラでしょ。それともリエぴょん、怖いの」 「怖くなんかねえよ」 宴の席でのお遊びとわかっているだけに引っ込みがつかなくなり、リエは怜生の手を握る。小卓が持ち出され、二人が互いに向き合って、むずっと掴み合うのにわらわら周囲に人が集まる。 「負けんなよ、虎鋭!」「頑張ってお兄さん!」 始め、の合図で一気に勝負をつけかけたリエを、怜生は悲鳴を上げつつ倒されかけ、ぎりぎりのところで持ちこたえる。 「リエぴょん、手加減〜!」「させるか、縁起でもねえっ」「いやん痛いっ」「ならさっさと負けろっ」「助けて〜怜生死んじゃう〜っ」「てめえいい加減にっ」「うん、しちゃおうっ」「うわっ」 掛け合いの途中で、いきなり怜生が我に返ったように体を起こした。あわや一気にひっくり返されると見た瞬間、リエがふ、っと怜生の耳を吹く。 「きゃおんっ!」 悲鳴を上げて仰け反ったが、あっさりと怜生は手首を倒された。 「酷い〜っ、リエぴょんっ」 「如虎添翼」 素知らぬ顔で言い捨てるリエに、 「仕方ないな〜っ、勝負は勝負、そのうち1日働きに来るよ」 「だそうだ、せいぜいこき使ってやってくれ」 リエが笑顔で銀鳳に言ったとたん、ぱたぱたと軽い足音が響いた。 「あの、もしジャグド様」 「何だ?」 表から走り込んで来た華子の一人が困った顔で、申し訳ありません、と銀鳳に謝りながら、ラオンとジャグドを見た。 「表にお一人、この間のお坊様が」 「お坊様…? あーあの汚れ坊主な」 よっこらしょと腰を上げるジャグドにリエも顔をしかめて立ち上がろうとする。 「何でも逃げた女房がここにいるとか言ってごねてな。いや見かけが坊主なだけで、中身は坊主でも何でもないんだ。ちょっと行って追い払ってく……おい、リエ?」 「ちょっと見てくる」 「何だ何だ、じゃあ俺達も行こうぜ、律」「あ、ああ」 宴の最中でも、不安げなリーラの顔をちらりと見やったリエがすぐさま出て行くのを、怜生は律を促して追った。 確かに『弓張月』の入り口から、無理に押し通ろうとしている男が一人、破れ放題の衣に、ぼうぼうとした髭と後ろでひとくくりにした蓬髪、ぎょろぎょろ目玉で恐ろしく臭い。 「ええい放せ放さんか、お前ら如きでは話にならん!」 「おいお前っ!」 リエが向き合い声をかけようとした矢先、怜生は大音声を張り上げた。リエの真横で仁王立ちになり、じろじろと相手を見下ろし見上げる。 「何だ一体、ここに何の用だ!」 「お前こそ何者だ、こんな娼館に小僧っ子が」 「うわ、何様っ。迷惑してんじゃんよ、そこの子なんか半泣きじゃんっ! 何、あんた女の子泣かせて楽しいの、ど変態じゃねえの、俺ら小僧でもそんなことぐらいわかるぜ、そんなこともわかんねえの、でっかい図体ばっかで頭に脳味噌詰まってねえの!」 「き、さまあっ」 べらべらべらべら力の限り罵倒し倒した怜生に、律が呆然とし、リエが引き攣る。だがそれでおさまらない。掴みかかろうとした破れ坊主に胸を張り、怜生は堂々と言い放った。 「よし相手しようじゃないか! このリエがな!」「えええっ!」「そいつか、わかった!」「きゃああっ」「ちいっ!」 いきなりリエに丸投げした怜生、律が驚き、男が頷いて突進し、華子が悲鳴を上げる中、リエは小さく舌打ちするとどこからか一枚の人型を取り出した。突っ込む男を躱して背中合わせに擦り抜け、それでもとっさに振り向いて服を掴んだ男の手首を手刀で叩き落とし、身を翻して人型を破り捨てる。と男の背中から何かどろりとしたものが剥がれ落ち、人型に吸い込まれた。同時に男が突然悲鳴を上げて頭を抱え、リエを突き飛ばし、走り去る。 「何だあっ?」「暴霊つきか…」 呆気にとられる怜生に、リエは破った人型を拾い上げた。もう一枚の薄紙を取り出して丁寧にくるみ、懐にしまう。ジャグドの遣う一番簡単な術だが、あの男には効果があったらしい。 「今のは見立てがうまかったな」「レンラ師」 奥からやってきたジャグドが、誇らしそうにリエを見やった。 「気づいておられましたか」「確証はなかった」 「リエぴょん、別人! 怜生悲しい〜」 リエの改まった口調に怜生が眼を剥き、 「体術、体が細いから刀や棍なんかの武器がいいかも知れないな。『弓張月』の女性に学ばせれば、体力もつくし、護身にもなるかもしれない」 律が鍛え方への助言を口にし、 「なるほど、そいつぁ考えてみてもいい……っ!」 リエが頷きかけた矢先、次々と『弓張月』の上に火玉が上がった。息を呑んで空を見上げるリエの目の前で、火玉が一気に闇に弾ける。 どぉんっ! どぉん、どぉんっっ! 「こいつぁ」 驚くリエに、セリカは微笑む。 頼んでおいた花火が夜空に巨大な花を開く。座敷の方でも庭の方でも、『弓張月』以外の娼館からも見えているのだろう、微かな歓声が風に乗って聞こえてくる。 その声に重なるように、朗々とした声が響き渡った。 「リエぴょんほんとはー」「怜生っ?」 ぎょっとしたリエの耳に届く、大合唱。 「「「素直な良い子ー!」」」 それは間近に立つ律やジャグド、銀鳳の口からも聞こえてリエは硬直した。 「…おいっ!」 「だけど、ちょっぴりー」 「「「意地っ張りー!」」」 「て、めえら…っ」 見る見る薄赤くなったリエが、怜生の姿を求めて宴席に駆け戻る。だがそこに怜生はいない。 「そんな君を弓張月はー」 「「「大好きだー!」」」 セリカやアストゥルーゾまで一緒に叫んでいる。もちろん、リーラやリオも。 「怜生、どこにいやがるっ!」 「リエぴょん、ワケありで若年寄です!」 朗らかな声は庭に顔を突き出したリエの頭上から響いた。うろたえて振り仰ぐリエに、楽しげな声が続く。 「甘えるの苦手で頑張り屋さん! でも、ちょっぴり辛い時もあるの! たまには、皆で甘やかしてねー!」 「あのばか…っ」 『幸も不幸も自分次第なりよ! 一度きりだし、満足して生きまっしょっい!』 律の撮る写真の裏にはそう書こう、と思ってにやついていた怜生は、眼下のリエが自分を見上げるのに気づいた。珍しく真っ赤になっているのは、怒りからだけではあるまい。自分の本音を暴かれ晒された狼狽もあるはずだ。 もう一声、と口を開こうとした怜生は、リエの側に近寄った律が掌のものを示すのに笑みを強張らせた。律が淡々と確認している。 「怜生を焼くなら、ギア使います?」「……律っ?」 リエが無言でギアを掴み、次の瞬間、怜生の周囲に火柱が立った。 一晩『弓張月』で泊まり、翌日四人はターミナルの駅までリエの見送りを受けた。 「あなたは…ロストナンバーになって、よかったと思う?」 セリカはリエに尋ねてみる。聞かなくとも答えがわかる問いだと感じた。それでもあえて問うたのは、自分に向けても尋ねていたからだろう。 「ならなけりゃ、会えなかったろ」 リエは苦笑した。 「遊びにくりゃ酒位奢るぜ」 「……寄せ書きは渡したけど、もう一つ、贈り物があるの」 セリカは百貨店ハローズで買ったオルゴール小箱を取り出した。中にはターミナル全景のミニチュアだ。分かるものには、それがどこだか分かるだろうが、話さなければ、珍しい異国の光景ということだけだろう。曲は聞けなかったが、店員に「帰属する方に贈るにはぴったりですよ」とは言われた。 「……いい曲だ」 リエは頷いた。 「この曲、ターミナルのどこかの店で使ってたろ?」 もうずっと、遠い世界のことみたいだ、と呟くリエに、セリカは笑った。 「おめでとう……心から、あなたの帰属を祝福するわ」 そう告げた矢先、リエがぽかんとした顔でセリカの頭上へ視線を送るのに振り返る。 背後にはロストレイルがあった。その窓に、居るはずのない、もうどこにも存在しないはずの少年が冷ややかな笑みを向けて立っている。青い髪で金色の目の少年は、リエに掻きむしるような痛みを与えつつ、 「……じゃあな、そのツラ二度とみせんじゃねーぞ」 吐き捨てて悠然と車内奥へ消えていく。 「……ちっ」 リエは舌打ちをして、しばらくその後ろ姿を眺め、やがて、 「アストゥルーゾのやろ」 苦く笑って首を一振り、顔を上げる。 「言ったでしょ、化かし屋はうそつきなんだ、本心も本性も仮面の下……またあいたいなんて、言えるわけもない」 走り出したロストレイルの中、アストゥルーゾは座席にぐったりと埋まり込んでだまま呟く。 インヤンガイはもう見えなくなった。可愛らしい少女の姿を取る必要もない。布を重ねて中身の知れない、いつもの姿で膝を抱える。 胸の中に、小さな声が響いている。 この旅の終わりは、この僕の終わり。 だからこそ、旅の出会いの全てに感謝を、旅の別れに祝福を。 さようならリエ。 がんばってね楊虎鋭。 その姿が見れないのが、何よりの心残り。 旅が終わった所で幸せなだけじゃないのは分かりきってるから、それでも君が少しでも長い間、笑ってられますように。 だって君は、僕に付き合ってくれたから。 僕を自惚れさせてくれたから。 そのほんの少しの思い出を宝物に、僕はいつか、愛する人の下に帰ってみせます。だから君は、希望を捨てずに、強く生きてください。 「なーんてさ、本人の前で言わなくてよかった」 なんてったっても、興ざめだもんね。 ぼそりと呟いて、膝を下ろす。 「ニヒッ」 小さな笑い声は俯いた口許に消える。 ディラックの空に軌跡を描いて、ロストレイルは走り続ける。 「結構うまく撮れてんじゃん。銀鳳さん、ほんとデジカメ初めて?」 「皆いい顔しているよ」 画像を見ながら、怜生と律は頷き合う。 「……」 セリカは踞ってしまったアストゥルーゾを振り返り、思い直して、もう見えないインヤンガイを思う。 それぞれの胸に別れ際のリエの姿が焼き付いている。 癖のある髪、閃光を弾く黄金の瞳。背中に虎を負った黒い長衫の少年は、青年の時代へ踏み込みながら鮮やかに笑う。 「今生の別れなんて言ったら大袈裟だがよ」 翻る裾、風を巻き、開く花弁は紅牡丹。 「再会の約定として こう言わせてくれ」 その名は後に、月陰花園に鳴り響く。 紅蓮の虎、楊虎鋭。 再見。
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