──話をしたいので、少し時間を下さい。 冷泉律が、師に向けてトラベラーズノートで伝えた言葉はそれだけだった。 書きながら脳裏をよぎったのはあのインヤンガイでの一連の事件だ。武装結社フォドゥと、マフィア連合「虹連総會」との血生臭い抗争劇。カジノ「ランパオロン」のオーナーだったジェンチンの死。律自身が奮った武器により命を落とした、名も無き男。あの光景。 短い間に様々なことがあり、多くの血が流れた。 あれから、数ヶ月が経っていた。 *「ツァイレンさんに会う?」「うん、会おうと思う」 時は少々さかのぼって、壱番世界のとあるカフェ。律の目の前に居るのは親友の桐島怜生である。いつもの何気ない会話からそれは始まった。「えーっと、何で今になって?」「色々と考えていたら、時間食っちゃったんだよ」 親友の言葉に、怜生は両手を頭の後ろに回して椅子に寄りかかった。「ふーん、つまり、自分なりに決着付いたから、会ってみようと思ったってこと?」「むしろ決着を付けるためという意味もあるかな」 律は前屈みの姿勢で、飲み物には手をつけずに淡々と言う。顔に髪が掛かっているのを見て怜生はふと思う。いつの間にか髪が伸びているな、と。「ツァイレンさんと、決着つけて看板手に入れんの?」「ああ、そうか。そういう方法もあるんだ」「え、違うの?」「大分違うよ」 苦笑する律。それはいつもの親友の様子と変わらなかった。「俺が決着をつけようとしてるのは、自分の中での話。人を──殺してしまった事とか、武術とは何かとか」「……。俺、マッハで眠れそうな話題だわ」 ずるずるとイチゴシェイクをすする怜生。すると律はプッと吹き出すように笑った。そうして彼はようやく自分のアイスティーに手を伸ばした。「怜生は、それでいいんじゃないか? うん、それがいい」「へっ?」「人がいれば、その数だけ考え方がある。違いがある。怜生が俺と同じ感じ方をする必要はないからさ」 そう言われてしまうと何だかくすぐったいような変な気分になる。まあ、そりゃそうなんだろうけど。怜生は視線をそらす。「頭では解ってたつもりだった。けど、実際に自分の身に降りかかると全然違うんだよな。でも、おかげで前よりは少しだけ──何かが掴めたような気がする」 律も、じっと地面の一点を見つめながらゆっくりと話した。怜生はそんな親友の姿に目を戻した。何か、とは何なのだろう。言葉にできないことが、もどかしく感じる。「……で、会いに行くとしてどうやって会うんだ?」 仕方なく、怜生はイチゴシェイクを全部飲み干して、話題を先に進めた。「ノートで連絡してみる。話がしたいので、少し時間をくださいって」「それで捕まるのかよ?」「駄目なら別の方法を考える。それより、怜生はいいのか?」 と、律。「いいって、何が?」「頼んでる俺が言うのもおかしいけど、怜生にはツァイレン師と会う理由は無いんじゃないかなと思って」「ああ、まあ」 視線を躍らせる怜生。 彼の中にも、あの一連の事件の記憶は生々しく残っている。一刻を争う時に、渦中の人物からノートへと戻ってきた言葉。彼は返事を書かなかった。「無いっちゃ無いしあるっちゃあるんだけど。でも、律は俺が必要になるかもしれないって思ったから誘ったんだろ?」「うん、まあ、そうなんだけど」「なら、それでいいよ」怜生はニッと笑う。「結局、OKしたのは俺なんだからさ。何か考えてることあるから、俺に声掛けたんだって分かるし」 律も、親友の気持ちが嬉しくて微笑んだ。以前にもひどく落ち込んだ時──そうだ、両親を亡くした時にも、彼のおかげで立ち直ることが出来たのだった。何をしてくれたかなど具体的なことは何も覚えていない。しかし、彼がいたからこそ自分がここにあると、はっきり認識することができる。 それが親友というものなのかもしれない。律はぼんやりと思った。「先にありがとうと言っておくよ」 礼を言えば、怜生はさらに悪戯っぽい笑みを浮かべてみせる。「じゃあ、借りてる金をチャラにし」「──それはない」 さっくり否定する律。せめて言わせて! と怜生が言っても知らん顔だ。「あと、ヌマブチさんにも声をかけてみる」「へー、ブっさんにも?」 意外な人物の名前が出てきて、聞き返す怜生。例の事件で一緒だった軍人だ。あれからゆっくり話す時間が無かったこともあったし、事件のことを話題にしても避けられているような気がしていたのだ。 律もヌマブチのことを思い返している。彼の手にした紙コップには、まだ並々とアイスティーが残っていたが、律はそれをテーブルに置いて、トラベラーズノートを取り出した。「うん、多分、何か思うところがあるんじゃないのかなって」「身長以外に?」「それも伝えとく」「止めて!」 * 武道家のツァイレンは、インヤンガイの現地人であるジェンチンを殺害したことを罪に問われ、「迷いの塔」という施設に一時収監されたという。その後、姿を消した。 彼は背中を撃たれたことにより後遺症が残り、もう武道を駆使することが出来ず、身体を治療する気も無いらしかった。それが風の噂に伝わってきたことだった。 ヌマブチは、律からの誘いを二つ返事で承諾した。 すると三人にそれぞれ返答が来た。 ツァイレンは『洞天福地』と名付けられた無人のチェンバーに留まっているそうだ。そこは以前ロストナンバーだった仙人が作ったものであり、主のいない今は、ただ、ただ、山水画のような世界が広がっている場所なのだという。 尖った岩がそのまま段を成しているような急斜面である。ヌマブチは息を弾ませながらも黙々とそれを登っている。 独りである。 岩には苔が生え、辺りには霧が立ち込めている。白霧が足を進めれば進めるほど、段々と深く濃くなってきているようだ。空気もじっとりと湿っている。 この岩山の頂上で待つ、とツァイレンから返事があったのだ。 やがて傾斜は平坦になったが、道は断崖絶壁に張り付くような細いものになってしまった。どれほどの高さがあるのか、霧が深すぎて全く分からない。 ヌマブチは岩を掴みながら、慎重に足を運んでいく。 ──あれから、幾度となく思考を重ねてみたが、やはり答えは出なかったな。 彼は淡々と、あの事件のことを思い出している。 ツァイレンとジェンチン。二人は友人だったという。それなのに彼らは殺し合った。それも本気で。その在り方が本当に理解できなかった。 殺人とは「悪い事」「咎められるべき事」「否定される事」ではないのだろうか。軍人であるヌマブチには、事態収拾の為に友を手にかけるというならば理解が出来た。 周囲の損害を抑えるため親しい人間を切る、それは所謂悲劇と言うものなのだろうが、合理的で理解が可能であるし、戦場ではたまに起こることでもある。 だが友情を貫く為に殺すとは如何なる事なのか? 友を友として扱うのならば、それを止めようとするのが人の情というものではないのだろうか? 何故、ツァイレンはジェンチンを殺したのか。 ヌマブチは、ふと足を止める。断崖絶壁の道はいつまでも同じで、その道が地面に書かれた絵のような錯覚に襲われたのだ。 かぶりを振り、彼は再度、歩き始める。 ジェンチンもジェンチンだ。あれだけの犠牲を払い助けようとした娘を、状況判断により切り捨てようとした。何故だ? 過去がどうあれ、あれだけの犠牲を払って助けようとした娘であったのに。 ヌマブチはあの時、ジェンチンの娘リウリーを人質に取った。ジェンチンを脅迫すれば事は収まると踏んでいたからだ。相手の首根を完全に掴んでいたと思っていたが、それは違っていたのだ。 正直に言えば、ヌマブチはジェンチンが娘を助けるのではないかと確信していた。親とはそういうものだろうと思っていたからだ。その憶測があの時の明日の攻撃を受けるという不覚を生んだのだろう。 ああも簡単に切り捨てられる存在だったなら、何故わざわざ助けようとした? ──あの子は、これから幸せになれるかな? しかもジェンチンは、最期にそう言ったのだ。何故だ。ヌマブチには全く分からない。切り捨てようとしたではないか。それなのに何故──? 霧の中に赤い門のようなものが見えてくる。道が終わるのだろうか。門をくぐり岩壁を回り込むと、不思議な空間がそこに広がっていた。 象ほどの大きさを持つ一枚岩のようである。それがぽっかりと霧の中から上半分を出しているようだった。上には苔と緑が生い茂り一つの小さな箱庭を構成していた。 隅の方には目指す人物が一人腰掛けていて、こちらに背を向けている。聞こえてくるのは弦楽器の音色だ。 彼が、何か楽器を弾いているらしい。音楽はずっと前から聞こえていたはずなのに……ヌマブチの耳には全く届かなかった。「ようこそ」 曲を終え、彼は振り返った。 ツァイレンだった。 音もさせずに立ち上がり、落ち着いた様子でヌマブチに微笑んでみせる姿は、以前と全く変わらない。「久しく。元気そうで何より」「はは、それは皮肉ですか」 ツァイレンは近付いてきたヌマブチに、手近な岩を椅子に座るように勧めた。「いい庭でしょう。ここに来てから気に入っている場所の一つなんです」 と、ヌマブチが何か言いかける前に付け足す。「……普段はね、このチェンバーの様子を一望できるのです。湖の青と竹林の緑の対照が素晴らしく見えてね。でも今日は霧が濃すぎますね」 まるで、自分の心中のようにな、とヌマブチは口に出さずに思う。「貴殿に聞きたいことが少々あってな」「私もですよ」 言葉少ない二人の中では、すでに会話が始まっていた。「貴殿が、ジェンチンを殺した理由を知りたい」 ふ、とツァイレンが笑った。「それは簡単に言えば、私の独善からです。話すのは構いませんが、貴方に聞きたいことを先に口にしても?」 ヌマブチはかぶりを振った。「貴方は、なぜ律と怜生に、ジェンチンの裏切りについて話さなかったのですか?」 今度はヌマブチが苦笑する番だった。「それは簡単に言えば、彼らに此方側には来て欲しくなかったからでありますよ」 口調を真似され、ツァイレンは尚も笑う。 何故、殺したのか。それは恐らく、何故、生きるのかという問いと同じであるはずだった。 ヌマブチはその答えを知りたかった。己の理解できないもの、そこに人の情の機微があるような気がするのだ。「時間は沢山あります。ゆっくりお話しましょう」 ツァイレンは、楽器を脇に置いた。 * 風は無く、湖の水面は全く揺らぐことがない。 広大な湖は緩やかな円形を描き、岩山と竹林に抱かれるようにそこに存在していた。 暗く濃い藍色の水の中を、独り、怜生は船を漕いでいる。その船だけが、ただ一つ湖の水面を乱すものだ。 船は水面を割り、どんどん前へと進んでいく。 なぜ──自分は船を進めているのだろうか。 ふと、怜生は自問自答する。こんなにも動かない静止した水面を乱しながら、自分が前へと進む理由は一体何なのか。 静止は美しさでもある。進まなくてもいい。乱さなくてもいい。 なのに、自分は前に進んでいる。 ──言いたいことがあるのだ。 怜生は思う。これから会う人物に、言ってやるのだ。あの時言えなかった言葉を。 だから、自分は前に進む。 それでいいじゃないか。 目指す先には、小さな島と、そこにある一軒の東屋(あずまや)が見えている。 そこで、彼が待っていた。「やあ、よく来たね」 ツァイレンは以前のように黒い長袍をまとって静かに立っていた。怜生が船から降り立つのを見つめている。 あのインヤンガイでの事件を忘れてしまいそうなほど、何事も無かったかのように彼は微笑んだ。「おっす。あー、その……怪我は、もう大丈夫なのか?」「ああ、もうすっかり良くなったよ」 彼は手を広げ、東屋の中の椅子を彼に勧めた。そこには温かい茶と菓子も用意されている。「君にはちゃんと礼をしていなかったね。私の今があるのは、君のおかげだ。あの時助けてくれて本当にありがとう」 きちんと礼を言われてしまうと、なんだかこそばゆい。 怜生は、ううとかああとか唸りながら席に着いた。 東屋には扉も何もなく、湖の様子をどこからでも眺めることが出来た。ツァイレンは椅子に座り、無言で彼に茶と菓子を出してくれた。 椅子が三脚あるのに気付くと、ツァイレンが先回りするように言う。「律とは、また別に話そうと思ってね」「ああ、それがいいよ」 怜生は頷いて、茶杯から一口茶をすすった。 湖の水面は元の静止状態に戻っている。乱す者がもういないからだ。 しかし怜生の心の中は、あの言葉に戻っている。 ──君ならどうする? 律が、やむを得ず手を染めた悪徳に蝕まれていくのを見たら? 君はそうなった親友を放っておけるのか? あの時、ツァイレンからそう問われたのだった。 怜生は返事を書けなかった。「あのさ、あんたがノートに書いたこと」 ぽつりと呟けば、ツァイレンは相槌を打ってくる。彼はすでに察しているようだった。「あの時は返事を書けなかったけど、今なら言えるかな。殺しにいく。それはもう全速前進フルパワーでね」「律のことだね」 そう、とツァイレンは頷く。「これ以上ないくらい怒りながら殺すと思うなー。変な話、立場が入れ替わったら、律も俺を殺しにくると思うぜ」「それが──君の答えなのかな」 たぶんね。怜生は、背筋を伸ばしリラックスしたように足を前に伸ばした。「そん時、何を思ってるのか分んないけどさ。でも、これはもしもの話なんだよ。正直、そうはならないと思うぜ」 考えていたことを怜生は口に出す。直感だった。間違っていることを言っているのだろうが何だろうが、彼には関係なかった。 今、自分が考えていること。その答えを口にするのだ。「俺たち、まだまだガキんちょだからさ。お互いのこと腹割って話すのに、ためらったりしねぇんだよ。俺は弱いし、律も弱い。だから、相手を頼る。辛いなら頼る。それはそれで良いって思う。大丈夫だって虚勢張って、ぐだぐだになっちまう方がよっぽど恥ずかしいって思うんだ」「そうだね」 囁くようにツァイレン。相槌は消え入るようだ。「そりゃ、誰にだって情けない姿を見せるわけじゃない。それをしても平気な親友がいるからなんだよ」 律はここにはまだ居ない。でも、彼がなんと言うか、どう感じるかは分かるのだ。「俺と律は、ジェンチンとツァイレンさんとは違う。だから、違う結果を出すと思う」「違う結果か……」 ツァイレンは怜生の言葉をかみ締めるように呟いた。彼も何か思い出したことがあるのだろうか。こちらに見せている横顔に憂いのようなものが浮かんでいる。「私とジェンチンと、君達は何が違うのだろうね。ひとつ言えるのは、私は彼の──ジェンチンの思いを尊重したつもりなんだよ。それがあの結果を生んだ」 尊重? 怜生は眉を寄せる。「そうではなく、友達ならまず止めるべきだとヌマブチに言われてしまった。君ならどう思う?」 ツァイレンは静かに言う。 怜生は首をかしげる。 そしてまずは直感を頼りにするために、茶菓子を口に放り込んだ。 * 師と会って話をしたかった。 あの事件で経験したこと。それを報告して、自分の中で区切りをつけたかった。 竹林で待つ、とだけ返答があった。 細い獣道を歩いていく律。見渡す限り、視界は竹の緑で溢れている。その優しい色に自分の心を解きほぐされているような気がして、彼はゆっくりとゆっくりと歩を進めていった。 どこをどう探せばいいのだろうか。分からず、ただ律は足を動かし道を前へと進んでいく。「……ツァイレン師」 律は歩きながら相手の名前を口にする。「私は、人を殺めてしまいました。貴方の忠告通りでした。私が関わらなければ相手は死なずに済んだ。でも──」 ざざぁっと竹が風に煽られてざわめいた。「人殺しは人殺しです。その贖罪を求めても、答えなどないのですよね」「律──」 背後から声がして、律は振り返った。 そこに探していた人物が立っていた。ツァイレンだった。しかし久しぶりに会ったというのに、いつになく真剣な面持ちをしてこちらを見ている。先ほどの告白が耳に届いたのか。「人を殺してしまったと、君はそう言ったのか」「はい」 静かに律はうなづいた。答える時も彼の心が騒ぐことは無かった。 あれから考える時間はたくさんあった。罪を償うためにどうしたらよいか。人それぞれに答えがあり解決策があるのだと、律はそう考えるに至った。「結局は、自分は自分であり続けるのだと。今はそう思っています」 静かな律に対して、ツァイレンは微かに動揺しているようだった。何か言おうとするも口をつぐむ。 そんな彼の心を代弁するかのように風が竹を揺らし、地に落ちた葉を飛ばした。「私の名は律です。名の通りに自らを律して、一度血に濡れたからといって、血に濡れることを良しとはしません」 律ははっきりと言う。その言葉は師に向かっているようでいて、彼自身にも向けられたものでもあった。「これ以上、血を重ねないようにします。その重さを一度経験したのですから」 間があった。「そうか」 ぽつりと言い、ツァイレンは律のそばへとゆっくり歩いてきた。「君は自分なりの答えを見つけたんだな」 彼の顔には笑みが浮かんでいる。以前と同じ、武道を習っていた時と同じ笑顔だった。でも何かが違っていた。彼が武道を失ったからだろうか。今の律には分からなかった。「少し、歩こうか」 促されるまま、二人は並んで道を歩き始めた。 竹林の奥に消えていく道は、右へ左へと曲がりくねってはいたが、変わらずに奥へ奥へと続いている。 この道はどこまで続いているのだろうか。律はぼんやりと思う。「以前、私が言ったことを覚えているかな?」 すると、隣りでツァイレンが口を開いた。「武術を学ぶことは、すなわち相手の命を奪う術を学ぶことでもある。すなわち、相手を殺すことも含まれているということだ。どんなに避けて通ろうとも、その覚悟を持たねば先は無い、と」「もちろん、覚えています」律は頷いた。「先に行かないのも選択の一つだと、おっしゃったことも」「そうだね。でも君は、もう先に足を踏み入れてしまった」「はい」 二人が踏む落ち葉の音が、会話に静かな伴奏を加えている。「確かに武術は殺害方法ですが、使い方次第で人を活かすこともできるはずです。剣も使い方次第で、生かすも殺すもできる」 ツァイレンは無言で頷き、ただ歩を進めている。 その横顔を律が見つめると呼応するように師は笑みを返してきた。何故だかそれが遠くに見えてしまって、律は一瞬、言葉を忘れた。「それで?」 と、じっと弟子の顔を見下ろし、先を促すツァイレン。「相手を殺すという意味を知った上で、自分は生かす武術を信じたいのです」 無言で師はかぶりを振る。「君の信じる道を行け、と。私はそうも伝えたね。君の心が決まっているのなら、私もここで伝えねばならないことがある」 何だろう。今度は律が相手の言葉をじっと待つ番だ。「翠円派の武術は、人を確実に殺す方法について何千年もかけて追求されてきた集大成だ。最も重要な隠身術は相手に気付かれずに近付くため。あらゆる武器を学ぶのは、その場にある武器で相手を確実に殺すため。相手に対峙したら、まず移動手段を奪うということは教えたね。それは相手を逃がさないためであり、抵抗の手段を奪うためだ。喉骨を砕くのは、助けを呼ぶことを許さずに確実に相手の命を奪うことが出来るからだ」 一気に話すその口調は淡々としたものだった。ツァイレンは一息ついて律から目をそらす。「そんな我が流派に、君は生かす術を見出すことができるのか?」「それは……」 すぐには答えられない。 律はじっと考える。考えながらも、師の顔を見上げた。 おや? と律は気付いた。ツァイレンの目には何か今まで見たことがないような光が宿っている。 自分の答えに期待をしているのだろうか。「いや──いいんだ」 ツァイレンは律の返事を待たずに、自分から話題を変えてしまう。「我々ロストナンバーには多くの時間がある。そうだろう?」 また彼は弟子を促し、竹林の中を歩き始めた。「それに、私は君に人生を楽しんで欲しいと思っている。君には怜生という素晴らしい友人もいるしね」 ──何も進んで闇に近付くことはないんだ。 ツァイレンはそう言って押し黙ってしまった。 竹林の道はどこまでも続いているように見える。 もしかすると歩いていくうちにこの道は二つに分かれるのかもしれない。一つのままかもしれない。 しかし律は自分が以前とは違う考えを身につけたことを知っている。だから前よりはずっと、いろいろなものを見つけることができるはずだ。それが師の言う闇の中にあったとしても、だ。 そうだ。時間はたくさんある。 彼は、竹林の匂いを鼻一杯に吸い込んだ。=========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>冷泉 律:cczu5385桐島 怜生:cpyt4647ヌマブチ:cwem1401ツァイレン:chax5249=========
独善。 それは、独りよがりの考えという意味だ。ツァイレンの言葉をヌマブチは心中で繰り返す。彼は自身の独善により、友人のジェンチンを手にかけたのだという。 何かがおかしい──。 岩に座し、眼下に広がる霧を見つめながら、ヌマブチは思考を進めていく。 以前からずっと、彼は一つの仮定を抱いている。「友情」と口にするが、ツァイレンは、友人のジェンチンが自分の意に沿わぬ行動をしたことが──自分の娘と引き換えに多くの子女を見捨てたことを、許せなかっただけなのではないか。 ならば、それを「友情」というのは、ただの詭弁である。 「──独善、の一言で済まされることなのか」 ようやく、彼は言葉を口にした。 「貴殿は意に沿わぬジェンチンを憎んだ。であれば、あの時友情という言葉は出てこなかったはずでは? 貴殿の言葉をそのまま解せば、殺すことが友のためということになる」 「その理解は間違ってはいませんよ」 ぽつりとツァイレンは応える。 「確かに私はジェンチンを憎いとも思いました。しかしそれが全てではない。──ひとつ、貴方は思い違いをしている」 と、彼はヌマブチを横目で見た。 「友情とは、そもそも人が相互に想うことではありません。一方通行のものです。つまりお互いのエゴイズムでしかないのです。だから私は独善という言葉を使った」 そう、なのか? 判断がつかず軍人は無言だ。 「私はジェンチンのことが好きでした」 構わず、相手は話を続ける。「彼は、あの暗い世界で周りの人々を守ろうと、世界に戦いを挑んでいたのです。しかしそのために彼は少しずつ悪徳に犯されていった」 「悪に沈む前に自分の手で引導を渡してやろうとでも?」 「そうです。しかしやはりそれだけではありません」 ツァイレンは嘆息する。 「彼は既に、自分では止まることが出来なくなっていたのです。私はそれが分かったからこそ、彼の人生を終わりにしてやろうと決意したのです」 自分では止まれない、とはどういう状態なのだろうか。ヌマブチは彼のカジノを思い出す。 「彼は荷を背負い過ぎていた。ランパンの者たち、虹連総会での立場、そして娘のリウリー。例えるなら行軍と同じです。兵の多さと荷物の重さで、道を選べず後にも退けなくなった」 「なるほど」 相づちを打つヌマブチ。その例えであれば、理解はできる。 「それは確かに独善かもしれない。貴殿は殺すことが、重荷を背負った友の為になると思い込んだ訳でありますな。それで──」 続く言葉をふいに飲み込み、軍人は脳裏にある光景を思い出した。ジェンチンは死ぬ直前に独り言のように呟いたのだ。 あの子は幸せになれるかな──。 人でなしの自分にすら分かる。彼は娘の幸せを願っていた。 「──それが幸いした故にジェンチンは我が子の幸いを祈れたと? なら何故、彼は娘を撃とうとした?」 「私を信じたからでしょう。彼は、私が必ず割って入ると賭けたんです。そして勝った」 ツァイレンは即答する。 「彼はずっと娘を愛していたんです。彼の愛情も一方通行のままでしたが」 「しかし──」 続く言葉が出てこない。ヌマブチは沈黙した。 論理には破綻が無いように思える。だが腑に落ちないままだ。 親は子を愛し慈しむのだそうだ。実感が伴わないが、ヌマブチはそう理解している。娘から完全に拒絶されていたのに、ジェンチンは娘の命を守るために他人の子供を見殺しにし、自らの今際の際には、娘の幸せを願った。 死ぬな。 はっ、と目を見開くヌマブチ。 ある言葉を思い出した。自分への手紙とも知れぬ、あの文字。 もしや、同じ── 「しかし人殺しは“悪”であります」 ぶるぶると頭を振り、軍人は気を取り直す。別の思いを振り切るためだろうか。 「彼は大量の人間が殺される事件の発端を作り、貴殿は彼を殺した。しかしジェンチンの生死と殲滅作戦は既に無関係だった。それなのに、彼を殺す事が正しかったと? 命を奪う選択が是だったと? 某は……」 最後の言葉をそっと付け足す。──殺人を肯定することは出来ない、と。 殺人は悪である。ヌマブチは断じる。殺人は、心が欠落した出来損ないの選択肢だ。 そう思うのは自らがそれだと知っているからだ。だが、この違和感は何なのだ。目の前の男は自分と同じように殺人を生業としているはずだ。なのに、人の心について論じている。自分と友人の信念を守るために自らの技を使ったと話している。 それは“正しい”のか? そうですか、とツァイレンは頭を振った。彼の顔には何の表情も浮かんでいない。 「なら、なぜ貴方は、あの時律と怜生の二人に、ジェンチンの所業について話さなかったのですか? 殺人が悪であるならば、彼の犯した罪は重い」 「彼らは“平和な世界”の子供だ」 その問いに、ヌマブチはひどく端的に答えた。「命のやりとりが必須な世界に生きてはいない。平和な世界で生きる事が出来る。彼らの世界は守られるべきであります。ならば、既に線の此方側に居る某が汚れ仕事を請け負えば良い。ただそれだけでありますよ」 「奇妙ですね」 ツァイレンは鋭く口を挟んだ。「我々はロストナンバーで、同じ空気を吸い同じ時間を共有しているのに。貴方は彼らを“子供”扱いしている」 「彼らは、線の此方側へ来るべきではない」 辛抱強く繰り返すヌマブチ。 「それに、律は今回初めて人を殺した」 その言葉で、相手が思わず息を呑んだのが分かった。「初めて人を殺した人間の姿など散々見てきた、声を聞けば判るでありますよ。だが彼はまだ間に合うはず。まだ線の向こう側へ戻れるはず」 “子供”を守るのが“大人”の務めだ。 ヌマブチはそう結んで、また黙り込んだ。場を沈黙が支配する。ツァイレンも横顔を見せ、口を結んだ。 「貴方は、彼らの友情を──彼らの生きる道そのものを美化し過ぎているのでは?」 「美化?」 ふいに切り返され、ヌマブチは思わず聞き返した。 「友情は美しいもの、子供は守らねばならないもの──。理想化とでもいいましょうか。貴方は律と怜生を子供扱いし、ご自分が思う“あるべき姿”に近づけようとしている」 今度こそ、軍人は返答に窮した。その言葉は指摘であり、痛いところを突かれてしまった気がした。否定しようにも言葉が出ない。 結局、ヌマブチに出来たのは軍帽の縁に手を触れ、俯くことだけだった。 「その理由は、おそらく──。そうしたものが自分には存在しないと思い込んでいるから」 しかし隠者は容赦をしない。 「だから貴方は洞窟の壁に映るイデアの影を見る。現実が投影されたスクリーンの中に理想を見出す」 ツァイレンは壱番世界の哲学者の比喩を引用した。 「確かに、現し世にはくだらないものばかりです。世界群から見れば我々は取るに足らない砂粒のひとつ。友情、親子の愛など瑣末なものです」 「貴殿が何を言っているか分からん。矛盾しているでありますよ」 「もちろん」 ようやくヌマブチが口を挟めば、ツァイレンは予想していたように、堂々と肯定する。 「矛盾しているからこそ、この世は面白いのです。その矛盾が道理をつくることもある。……先ほど私は友情は一方通行で独善であると言いました。私は律と怜生の関係についてもそうだと思っています。だが、それがいい」 返された言葉は、さらによく理解できない。隠者はスッと立ち上がった。 「彼ら二人のところに行きましょう。もう少し探してみてもいいと思いますよ」 腑に落ちぬ思いは膨らむばかりだ。 ヌマブチも仕方なく重い腰を上げた。 * 「分かんねえな」 怜生はポツリとこぼす。 「友達は友達だろ? 俺はあんたたちがどんな付き合いしてたか知らねえしさ」 そこは広大な湖にある小さな島の、一軒の東屋だ。目の前にはツァイレンがいて、空になった怜生の杯に新たな茶を注いでいる。 静かだった。たまに遠くで鳥が啼くのが聞こえる程度で、湖はまともな物音ひとつしない。 居心地の悪さに、怜生はもぞもぞと椅子の上で身動ぎする。 ここへ来て、言いたいことは言ってやった。自分と律の友情とツァイレンとジェンチンのそれとは違う、と。でも何が違うのかと聞かれてしまえば、分からないとしか答えられない。 ──知らないのだから。 「けどさ、割といい死に方だったんじゃね?」 と、こぼす怜生。勝手な意見だと知りながらも彼は言う。ツァイレンが、つと目を上げた。 「あいつの立場から見てみたらさ、娘は生きてる、組織も無事、そんで親友だって生きてる。ジェンチンの独り勝ちだろ」 あのインヤンガイの世界に生きていた男の人生を思いおこす。 「そりゃ理想は、自分も生き残りたかったろうけどさ。そこはツァイレンの心の中に生きてる、で大団円じゃねえの」 見れば、隠者は微笑んでいる。 「──でも、俺は嫌だ」 と、言い切って、怜生は強い光を目に宿した。 「これだと最期は親友に甘えてゴメンって謝らなきゃだ。俺はそんなん嫌だ」 「甘え、か」 短く相槌を打つツァイレン。「そうかもしれないな」 「俺は、最期は悪くないって笑って死ぬんだ。……うん、今決めた!」 怜生は思う。違いというならそれだ。 親友に──律におんぶに抱っこで、甘えて、死んで、礼も言えないなんて。自分は絶対そんなことをしたくない。 「俺なら笑って死にたいし、そうして欲しいよ。死んだ後に俺のことで哀しむくらいなら、笑えやゴラァって化けて出るつもり」 舌を出して、手を幽霊のようにブラつかせてみれば、ツァイレンはプッと吹き出すように笑った。 「君が化けて出たら、誰でも笑ってしまうな」 「だろ?」 ニヤと笑う怜生。 「反省はしても後悔しない! 親友のためならいいじゃんか。やることやって、幸せになって……」 言いかけて、親友の顔が脳裏をよぎった。 「律もそうだけど、あんたもそうだよ。もう少しいい加減でいいんじゃない? 俺そう思うよ」 「君は面白いな。本当に」 ツァイレンの笑いは治まらなかった。額に手をやり、くくくと声を出して笑う。その笑いはおそらく怜生の言葉に対する肯定なのだった。 律とツァイレンは似たところがある。そう──真面目すぎるところが。 「知っているかな? 君の世界の仏教では、人に執着心を捨てろと説く。人は何かにこだわり執着するから幸せになれないのだと」 何を言い出すのやら。怜生は首を傾げるものの、ツァイレンの表情は、それこそ何かの仏像のように穏やかだ。 「全てを受け入れ、人や物に執着せず、ただあるがままに生きる。それが悟りを開くという状態だ。君は、我々の中で、もっとも仏に近い存在なのかもしれないな」 今度は、怜生が笑う番だった。 「まっさかぁ!」 「私もそう思うよ」 二人は笑った。静かな湖畔に二人の無邪気な笑い声が響く。 怜生は何だか──初めて、このツァイレンという男のことが少し分かった気がした。本心が分からず、微妙な胡散臭さを感じてはいたが、たぶん、心の底には自分たちと似たような感情が眠っているのだ。ただそれを表に出すことが少ないだけだ。 「そういえば、さ」 菓子にまた手をつけ、茶杯を傾けながら喉を湿らせ、怜生はふと違う話題を振る。 「ツァイレンはジェンチンと全力で殴りあったことある?」 「ああ」 ツァイレンは落ち着いた様子でうなづく。 「こないだの事件がそうだ、と言えるかな」 「あ、そうか。なるほどね……。でもさ、そうじゃなくて、恥も外聞もない素のままの喧嘩だよ」 静かに首を横に振るツァイレン。 「俺はあるんだ。律が引き籠りになってた時にさ」 怜生は律が両親を失って悲しみに沈んでいた日々のことを思い出す。暗い部屋の中から、文字通り「ぶん殴ってでも」連れ出したのが怜生だった。 あれは本気の、素のままの喧嘩だった。 「そんなことがあったんだね」 「ああ。全力でぶつかり合った相手って認められるんだよな。こいつなら大丈夫って。まー、叩くと埃が出そうな大人だとこういうのは難しいんじゃねとは思うけど」 「そうだね。私は埃ばかり出るよ」 「友情ってーなら、これしとけば一発合格じゃねーの? でもあんたやブッさんとは勘弁だな。さっくり殺されそうだし」 「それもそうだ」 怜生の様子に隠者は微笑んでいる。その姿は湖の静けさに溶け込み消えてしまいそうであった。 ああそうだ。 怜生は思い出す。もう一つ言ってやりたいことがあったんだっけ。 「んでさ、あんたこれからどうすんの? 何か知らんけど、突然ふらっと居なくなりそうなんだよな」 「そうかな?」 言葉を濁し茶をすするツァイレン。 「どっちにしてもさー。俺らがせっかく助け出したんだからさ、人生謳歌してくれよな。俺の頑張り無駄骨にしないでね」 「なるほど」 ことり、と彼は茶杯を置いた。 「君は、律が悲しむから……と、そんな風に言うんだろう? 私が本当に心配なのではなく」 う、と言葉に詰まる怜生。図星である。 「悪いかよ!」 「心配は要らないよ」 と、ツァイレンは立ち上がった。 「律に会いに行こう。そしてヌマブチにも。裏表の無い君と話していると楽しいよ。君は実に気持ちのいい男だ。その生き方をこれからも大切にして欲しい」 これは私からのお願いだよ。 隠者は小さな声でそう付け足すと、怜生を小舟へと誘うのだった。 * 竹は風に揺られ、右へ左と振れるが根をしっかりと土に張り巡らせ、決して倒れることがない。 縁起の良い植物といわれる由縁の一つでもある。 律は師と共に歩きながら、その竹の揺らぎをじっと見つめている。 右と左、前と後──。 生きることと死ぬことも真逆のようでいて、その実、何も変わらないのではないか。 「人は生きるために動植物を喰います」 静かな声で、律は切り出す。 「生きることは殺すこと。そうなのですよね」 「ああ」 師は簡素に答える。 「人はもちろん生きるもの全てが、他の命を糧に生きている。だから私は殺人を禁忌だとは思わない。無論、肯定はしないがね」 言いながら微笑む。「ヌマブチは、殺人を“出来損ないの選択肢”だとも言っていたよ」 「あの人らしいですね」 「私も出来損ないだと思うか?」 「いえ」 意地悪な質問だ。律は首を横に振る。 「私はこう考えているよ。翠円派の継承者は、最適化された部品の一部だ。民族の存続のために作られたシステムのね」 律は注意深くツァイレンの様子を伺った。何の話をしているのだろう。 「翠円派を作り上げてきた夏の民族は、国を守るため自らの血を守るために盟約をつくり、継承者を部品の一部としたんだ。だから──」 師の横顔は、悲しそうにも見えた。 「私は人を殺す時、何も感情を抱くことが無い」 竹林が、微かにざわめく。 「古き盟約が、私をただの刃にする。相手が殺すに値する人物かどうか見極めることなど無意味だ。夏の盟約を守る誰かがそう決めただけなのだから。私は盟約により誰かを殺し、盟約に全てを押しつけているからこそ、正気を保っていられるだけだ。良心の呵責など感じない」 「つまり、翠円派自体がそういうものだと?」 師はうなづいた。 「私は──本当は嬉しかったんだ。君が、私の武術を習いたいと言ってくれたこと。だが翠円派とは継承者を盟約で縛り、効率的な殺人の道具にするものだ。私は君をそういった存在にしたくない。遅かれ早かれ、君が思い悩むことになるだろうとは分かっていた」 本当にすまない、とツァイレンは言葉を結んだ。 しかし律は静かに微笑む。彼の心の中は、少しも乱れてはいない。 「生死は表裏一体。そう──ですよね」 謝ることなどないのだ。何も。 「翠円派が相手を殺す術に長けるなら、使用者を生かす術に長けると言えるのではありませんか? 師が今こうして生きているのは翠円派のおかげですよね」 横目でこちらを見るツァイレン。 「人を殺さない強さはあると思います」 「確かに、ね」 その視線は目前の竹林に戻される。「相手を認め、自分の方が退く強さだ。しかしそれは、自分の命を相手に差し出す選択にもなりうる」 律は苦笑した。 「私はそうはしません。自分の命を投げ出すなんてもっての他だ」 答えながら気が付いた。暗に、師は自分に死んで欲しくないと言っているのだ。 「強さを求めればその奥深さを知ることになる。強さには様々なものが伴う。私はそれを貴方に教えていただきました」 だから、と少年は傍らの師をはっきりと見据える。「私は生きて続けて私なりの道を探ります」 「そうだね。──それがいい」 ツァイレンは俯いた。 「私が求めるのは、戦う相手を作らない仲良くなる強さです。誰しも生れた時に持つ赤子の強さ。──でも、赤ちゃんになるのは無理ですよね」 「無心、か?」 「そうです。近付くことなら出来るはずです」 律はきっぱりと言い放つ。 「己を知り相手を知り、敵とせず友とする……。夢物語な理想ですけどね」 「そんなことはないよ」 師の目に心なしか光が宿ったような気がした。先を促され、律は竹の緑を見つめる。 「人にはそれぞれの立場があり、お互いを知ることは単純に殴り合うより余程難しい。でも、私はこの道も探ります。生死が表裏一体であるなら、どちらもしっかりせねば説得力がない気がしますから。私は──」 「翠円派を活人を交えて伝えたい、と思っています」 ツァイレンがふいに立ち止まった。 合わせて律も足を止める。師は言葉もなく、ただ、驚いたように律の顔を見つめていた。彼にしてみれば、思ってもないことだったようだ。 律の口端に優しい笑みが宿る。 「以前からお聞きしたいと思っていました。師は翠円派をどうされたいのですか?」 「……困難かもしれないが」 隠者は歯に何か詰まったような物言いで、続く言葉を中々口にしなかった。「……残してはいきたいと思っているよ」 「そうですよね」 ホッと安心したように律。 「これは私の勝手な考えですが……。翠円派は何千年の殺人技術の集大成ですが、もしかするとまだ完成していないのかもしれませんよ」 「それは、どういう?」 「これからの担い手次第で変えることができると、私は思うのです。活人を伝え次代へと受け継がせていけば、翠円派もいずれ変わるはず。だって、殺すことは生かすこと。──そうなのでしょう?」 それは決意だった。 人を殺め今に至るまでに、律の中に芽生えた強い思いだ。 「もし私に受け継がせていただけるのなら、翠円派も血肉として生きていきます。決してこの技を絶えさせない」 「律──」 いつの間にか、ツァイレンは笑っていた。 「本当に嬉しいよ。君がそう言ってくれて」 彼には珍しい、照れたような微笑みだった。 「なら──」 「いや、でもまだだ」 隠者はひらひらと手を振り、思い出したようにまた歩き出す。竹林の中の曲がりくねった道を。 「私は君を見続けることにする。君の決意が本物か、君の生が如何なるものか。私はこれからも旅を続けるつもりだが、その合間に君の様子を見に行くよ」 「はい!」 何となくだが、律には分かった。今のはツァイレンなりの承諾なのだ。師は翠円派の継承を許してくれたのだろう。はっきりそうと言わないのは、照れくさいからなのかもしれない。 憑き物が落ちたような顔をして、師は肩をゆるゆると回した。いつもの笑みが戻っている。 「そういうことなら、私も怠けられないですね」 「その通り」 自分は暗殺術である翠円派を受け継ぎ、血肉にする。 そうして、殺を鍛えて死を問うのだ。 * 師弟は、その後とりとめの無い話をしながら林をゆっくりと歩いた。 武術以外の話だ。両親や家族の話、異性のこと。怜生やヌマブチのこと。それに世界図書館のこと、チャイ=ブレのこと。話は尽きなかった。 やがて道は竹林を抜け、湖畔に出た。眩しさに目を細める律。 そこに二人の人物が向かい合わせに座り、小さな将棋の卓を囲んで座っていた。ヌマブチと怜生だ。 彼らは湖畔で、将棋を指していたのだろう。こちらの二人に気付くと、怜生が手を挙げた。 「あっ、来た来た! 待ってたんだよ」 と言いながら手元で盤の駒をぐちゃぐちゃに掻き回す。あっ、とヌマブチが抗議の声を上げるも、終わり終わりと涼しい顔だ。 律は怜生の顔を見て、ニッと笑う。その表情一つで、怜生は何があったかほとんど全て察することが出来た。ツァイレンの様子も穏やかだ。 「そのまま消えちまうのは、やめた?」 いきなり彼に問う怜生。隠者はその率直さにプッと吹き出した。 「ああ。たまに壱番世界に寄るよ。律の様子を見に、ね」 「俺も手伝ってやるよ。あんたの武術も知ってて損はないだろうし、体を動かすの嫌いじゃないし」 「何言ってんだよ、怜生」 律が慌てて嗜めるも、隠者の微笑みは変わらない。 「ヌマブチ」 次にツァイレンは軍人に声を掛けた。彼はどこかで、若い二人の話を聞いていたはずだった。その表情はいつもと全く変わらないが。 「“子供”についての考えが変わりましたか?」 「少しはな」 「我々のようなちっぽけな存在同士が、思い、考え、交わり、変わっていくことも良いものだと思いますよ」 ヌマブチは嘆息した。 話の脈絡が分からず、少年二人は不思議そうに問答を見守っている。 「貴方はおそらく一生探し続けるんです。自分の中にあるかもしれない“善”を。そのありかを信じているだけかもしれません。いつまでたっても見つからない。でもそれでいいじゃないですか」 ツァイレンは淡々と言う。 「貴方の中の論理は“許し”も“癒し”も求めていないのですから」 「興味深い分析ではありますな」 ヌマブチは裾を払いおっくうそうに立ち上がる。彼もまた、求道者の一人なのだった。一生探す? 上等だ。それぐらいの忍耐力は持ち合わせている。 「そうそう。最後に、ひとつ聞きたいことがある」 話題を変えるためか、軍人は律と怜生にも目をやりながら尋ねる。 「貴殿は何故、某には言を崩さぬのか。理由があるのでありますか?」 ははは、とツァイレンは笑った。 「それは、貴方とは友達になれそうにない、と思ったからですよ」 苦虫を潰したような顔になるヌマブチ。 「さすがに面と向かって言われると傷つく」 「そう言うんじゃないかと思って」 さらにツァイレンは笑い、律と怜生も大きな声で笑い出した。 対する軍人は軍帽の縁に手を触れる。悔しそうな顔をしつつも、口端に彼らと似たものを浮かべるのだった。 (了)
このライターへメールを送る