「えぇっ!? それ、本当!?」 0世界、紫上緋穂の司書室で、世界司書の緋穂は思わず声を上げた。報告に訪れた数人のロストナンバーが彼女の前に立っている。「うーん……」 導きの書には今のところ特に何もでていない。でも、なんだか気にかかる話だ。 これからあの世界に帰属しようとしているロストナンバーもいる以上、別にいいやで済ませておける話ではない気がした。「報告ありがとう。ちょっと、夢幻の宮さんに話してみるね」 『彼』のことを聞くならば、この世界において彼女の他に適任者はいるまい、そう判断した。 *-*-*「一言で言うと、夢浮橋に行って欲しいんだよ」 緋穂は集まったロストナンバーにそう告げた。一言で言えばそのとおりではあるが、そう願うに至った事情はとても一言では言い表せない。「この間夢浮橋に行ってくれたロストナンバーたちがね、とても重大な報告をしてくれたの。 ――夢幻の宮のお兄さんである今上帝が、都に妖かしがたくさん出現した責任をとって、退位するんだって」 勿論、妖かしたちの件は帝の仕業ではない。帝がまだ東宮であった頃の落とし胤である栄照が、外法に手を染めてしでかしたことだ。 だが、このような不穏な世になってしまったのは、帝に徳がないからだ、今の帝が帝位についたからだ、そう考えるのがこの世界の人々だ。よくも悪くも信心深い。 今上帝の御代に不信を抱き始めた民たち。民達に不安を抱かせた、被害を出させた、国の混乱を未然に防げなかった、そんな責任を取るために帝が退位することはままある。 だが、今上帝の性格を考えると、おとなしく責任をとって退位するとは考えにくい。緋穂から話を聞いた夢幻の宮も何かを感じたのか、様子を見てくると言って一足先に夢浮橋へと向かった。「でね、夢幻の宮さんからノートで連絡が来たんだけど……」 緋穂は言いにくそうに言葉を切る。だが急かすようなロストナンバー達の視線に、思い切って口を開いた。「これは本当にごくごく一部の人にしか知らされていない情報なんだけどね、帝は――内裏に妖かしを呼び寄せていたんだって」 は? と頭にはてなマークを浮かべるロストナンバー達を見ながら緋穂は続ける。「理由はわからない。けれども以前、内裏に妖かしがでた事があったでしょう? あれは栄照じゃなくて帝の仕業だったの。栄照をかばっているわけじゃなく、紛れも無く帝がやったことなんだって」 夢幻の宮によれば、花橘殿や朝堂院に埋められていた陶器のプレート――ニワトコが発見した、植物を枯らせたりする邪気を放っているものだ――それも帝が、術の練習と実験に作り出したものだという。 表向きには今までの騒動の責任を取る形の退位であるが、実際はそれよりも複雑な事情が隠れていたということである。「なんで帝がそんな研究をしてたのか、何のために内裏に妖かしを放ったのか、それは私にはわからないけど……もしかしたら、なにか事情や理由があるのかもしれないね。まあ聞いて素直に答えてくれるかはわからないけど!」 帝が正月に藤壺の女御――冷我国の花凛姫を国に帰したのは記憶に新しい。一時帰国を許しただけにも思えたが、もしかしたらこうなることがわかっていたからではないかと邪推もできる。「それにね、帝は退位を宣言する前……自らの悪行を告白する前に、後宮にいた妃たちを全部実家に宿下がりさせたんだって。巻き込みたくなかったのか、真実はわからないけれど……」 帝には皇子がおらず、数人姫がいるのみだ。嫁いでいない姫は母親である妃と共に宿下がりをしている状況だ。 花凛姫は未だ暁王朝へ戻ってきてはいない。 *-*-* 次に帝位につくのは、順当に行けば現東宮である15歳の少年だ。帝や夢幻の宮、中務卿宮の末の弟である。 添い臥しを務め、東宮妃になるはずだった姫を事故で亡くし、次に東宮妃となるはずだった露姫は鬼にさらわれてしまった。だから自分と関わると不幸になる、ひどく傷ついてそう思い込んでしまった少年。 今は少しだけ心をひらいているようであるが、彼にはしっかりとした後ろ盾がない。夢幻の宮が後ろ盾になる予定ではあるが、彼女は降嫁した姫宮という扱いだ。 東宮には妃もいない。だが帝になると決まれば各家がこぞって姫君を入内させようとするだろう。 だが妃がいないまま帝となれば、権力争いが深刻化し、それが政の支障となることも考えられる。そうならないために、現東宮が東宮妃を迎えて落ち着くまでの間、繋ぎの帝を配置するという案もあるという。ただしそれには自身が繋ぎであることを理解し、余計な野心を持たぬ人物を選ばねばならぬのでこれはこれで骨が折れるのだが。 突然の状況の変化に東宮自身はどんな心持ちでいるのだろうか。 *-*-* 暁王朝の帝が代替わりするらしいという噂は冷我国にもすぐに届いたことだろう。「帝……何をお考えなのでしょうか」 その報告を受けた花凛姫が零したつぶやきに、女官たちが目を吊り上げる。「何をおっしゃっているのですか! これで姫様はあの国に戻らなくても良いということではないですか!」「でも……一度きちんと戻って、正しい身の振り方を聞いて……」「そんな必要はありませんよ!!」 年若い女官たちは姫が暁王朝に戻ることに反対している。それは悲劇の身の上にあった姫を心から心配しているからでもある。それがわかるので、もともとおとなしい姫はそれ以上口を挟めないでいた。「落ち着きなさい」 その時、姫の部屋に姿を現したのは年かさの女官だ。彼女の一言で室内が静まる。「あちらから正式に知らせがあった時に、王が適切なご判断をなさるでしょう。我々はそれに従うのみです」「「……はい、申し訳ありません」」(……、……) 頭を下げておとなしくなる若い女官達。花凛姫はその様子を何処か他人事のように眺めていた。 *-*-* ある程度傷を癒やし、旅に耐えうる体力が回復するのを郊外の小屋で待っていた栄照――昭介と名乗ることになった彼は、本日旅立つことにしていた。旅支度を整える昭介は、ふと手を止める。(帝が退位なさる――) 人が話していたのを耳に挟んだ程度ではあるが、その情報は彼の耳にも入っていた。 帝を退位させる。それは昭介が一番望んでいたことだ。それが実現したのだ。 なのに、なんだろう、達成感や爽快感は全くなくて。不思議と、虚しさだけが胸に広がった。*-*-*-*-*-*※このシナリオはロストレイル13号出発前の出来事として扱います(搭乗者の方も参加できます)。*-*-*-*-*-*
「……皆様方、そのようなことを、本気でお考えですかっ……!?」 その時夢幻の宮は、いつもの穏やかな彼女には似合わぬ大きな声を挙げて、集まった者達を見回した。 *-*-* (今、私がこの世界で出来る事はなにかしら……) 自身に問いかけつつ華月が向かったのは冷我国。ここの都には正月に一度訪れている。改めて見ても、ここは暁京とは少し雰囲気が違っていた。国か違うのだから、当然なのかもしれないけれど。 誰にも見つからないようにこっそりと花凛姫に会いたかった。だが、他国の宮城にするりと入るのは難しくて。とりあえず暁王朝の者だとわからぬように着衣だけはこちらの国のものに改めたけれど、どうやって宮城内の花凛姫の元へ辿り着くか、その答えを導き出すのは難しい。 (……! あれは……) 衛兵に不審がられぬように気を使いながら宮城に入るすべを模索していた華月の瞳に一人の女性が入り込んできた。冷我国に知り合いなど殆どいないというのに既視感を覚える。記憶を手繰ればそれは、花凛姫と共に暁京へ移住した女官の一人だった。彼女は正月に、花凛姫と共に帰国している。その時に華月は彼女と出会っていた。 「ねえ、貴方!」 思い切って女官に声をかける。最初不審げにしていた女官も華月のことを覚えていたようで、隅の方へと華月を導いた。 「あなたは暁王朝からの正規の使者……ではありませんね? 一体ここで何を……」 「お願い、花凛姫に会わせてちょうだい。私は敵じゃないわ。貴方と同じ、花凛姫の事を思う者の一人よ」 「……」 女官はじっと華月の紫の瞳を見つめて、暫く後。 「わかりました。姫様の為にならないと判断したら、即刻追い出します。それでもよろしいですか?」 もちろん、華月は頷いた。 * 「あなたは……! 確か、華月、さん」 「華月、と呼んでください」 浮かない顔をしていた花凛姫の表情が動いた。軽く腰を上げた姫の椅子の側に跪き、そう告げる。姫が縋るように腕を伸ばしてきたから、その手を取った。白く細い指先は血の気を失ったかのように冷たく、小さく震えていた。 「帝の事を聞いたと思うの。その上で、貴方がどう思っているのか知りたくて」 「私……」 姫は不安げに視線を彷徨わせる。けれども華月の肩越しに見つけた、異国まで共に行ってくれた女官が頷いたものだから、ゆっくりと息を吐いた。女官の首肯は人払いは済んでいるという合図だ。 「貴方はどうしたいのか、私に教えてくれる?」 「私はっ……、あの方の、愛情を感じました……」 小さな声で、姫が呟いたのは華月には予想外の言葉だった。 「最初は、私の事など国に帰せば終わりという程度にしか見ていないのかと思いましたけれど……良く、考えたのです。あの方は、私が自由に身の振り方を決められるようにと解放してくださったのではないかと」 「……」 「道具のように戦勝国へ送られたのになぜ、そう思うでしょうね」 華月が言葉を探していると、姫は口元に小さく笑みを浮かべた。気分を害した様子はない。 「……私は親子と言っても問題ないほど年の離れたあの方に嫁ぎましたが……あの方とは、一度も男と女の関係になったことはないのです」 「えっ……!?」 思わず声を上げてしまってから、華月は自分の口を抑えた。姫はいいのですよ、と微笑む。 「もちろん、お渡りはありましたけれど……決して睦み合うことはありませんでした。私の方は、もちろん覚悟していたのですけれど。だから、もしかしたらあの方は最初から、時期が来たら私を解放するおつもりだったのではないか……そう思ったのです」 「もし、そうだとして……貴方は、この国に戻ってこれてそれで満足しているの?」 「それは……」 華月の言葉に姫の瞳が泳ぐ。その不安そうな瞳に見覚えがあった。 (ああ、やっぱり似ているんだわ) 華月の一番よく知っている、あの子に。 「言って。貴方自身のしたい事を」 「私は……戻ってきて初めて知ったのです」 恐る恐る言葉を紡ぐ彼女は、やはり、似ている。 「私は、もう、この国では『暁王朝の者』なのです。『暁王朝の帝の妻』なのです。皆が、諸手を上げて私の帰還を喜んでいるわけではないのです。だから……中には私を、暁王朝の間者だと疑っている者も……」 「えっ……」 「よく考えれば当然のことですよね。人質同然に奪いとった者を国に帰すなんて、普通ならば余程のことがない限り考えられません……。不要になったら、処分して、祖国には病死なり事故なり何らかの理由をつけて死んだことにすればいいのですから……」 政治のことはあまり詳しくない華月だが、花凛姫の言葉が一理あるのは分かる。この姫は、もう一度祖国の地を拝みたい一心で帰国した。けれども、彼女は輿入れする前と同じ立場に戻ることは出来なかった。 表面上は彼女の帰還を喜んでいる者達の中にも、喉に刺さった魚の小骨のように取り除くことが出来ない事実――それは彼女が、暁王朝の帝の近くにいたということ。いくら彼女が愛国心を訴えたとしても、それを頭からまるっと信じては貰えない状況だということ。 「それで、貴方は……今の貴方はどうしたいの? 私は、貴方の力になるわ。話して」 まっすぐ、姫を見つめる。言葉だけでは伝わらぬ思いも、伝わればいいと。 「……なぜ、華月は、そこまで私の事を気に掛けてくれるのですか?」 「それは……」 夫である鷹頼や左大臣家のため、父母であるニワトコや夢幻の宮のため、ひいては暁王朝のためという気持ちが無いと言ったら嘘になる。けれども一番の思いは、一番の理由は。 「こう言ったら失礼かもしれないけれど、私は以前まで、貴方のようだった。だから、貴方が気になるのかもしれない」 内気で、意思も薄弱で、流されるように生きて……けれども華月はいろいろな経験を経て、色々な出会いを経て変わることが出来た。幸せを手にすることができた。だから。 「貴方の力になりたいの。貴方が少しでも幸せになれるように、手伝わせて欲しいの」 だから、教えて――まっすぐに向けられた華月の紫水晶の瞳を花凛姫はじっと見つめて、そして。 「私の希望は――……」 *-*-* (所属する世界は魍魎夜界だけ、どの世界にも再帰属する気はない。だが) 己の頭上に点滅しているはずの夢浮橋の真理数を思い、百田 十三は考えを巡らせる。 (俺は戦いに敗れて死ぬまでロストナンバーでいるつもりだ。だから、数十年スパンであったとしても当面花凛姫の警護を続けても支障はない) 冷我国の『駅』に向かうロストレイルの中。乗車しているのはふたり。目を閉じてなにか思案している様子の十三を窺うようにしていた向かいの席のドルジェは、彼の頭上に視線を移す。自分の頭上にも同じ数字が点滅しているはずだ。 「あの」 「……?」 小さな呼びかけに瞳を開けた十三。この車内にいるのは己と向かいに座る少女のみ。故に声の主は自ずと知れた。 「百田様は、夢浮橋に帰属されるのでょうか?」 「ちょうど今、そのことを考えていた。だが、俺が所属する世界は魍魎夜界だけだと思っている。どの世界にも再帰属する気はない」 「そうで……」 「だが」 淡々と答えるものの、ドルジェは少し寂しそうに見える。その言葉を遮って、十三は口を開く。 「当面、花凛姫の警護を続けても支障はない」 「! それは、心強いです」 「ドルジェはどうするんだ?」 質問したからにはおなじ質問を返されることをある程度予感していたのだろう。ドルジェは一度口を引き結んだが、そののち口を開いた。 「私のような者に真理数が浮かんでいるのは有り難いことですが……私は見た目も能力も夢浮橋の方達から見ると異端の存在。この世界に溶け込めるのか少々不安なのです」 「そういう不安を抱いているということは、本心は帰属したいのだろう? 帰属したくないのなら、溶け込めるかどうか不安を抱く必要はない」 「……! 仰るとおりです」 心を見ぬかれたことに驚き、瞳を見開いたドルジェは少し困ったように頷いて。 「でも……」 言葉を濁すドルジェ。なにか、彼女を縛り付けているものがあるのだろう。だが十三は無理矢理問おうとはしない。 「姫の身の振り方をお聞きしてから、自分の身の振り方を相談してみてはどうだ? ドルジェが仕えたいと思うのは、花凛姫だろう? なにか、光が見えるかもしれん」 「そうですね。まずは姫様が、心やすくお過ごしいただけることが先決です」 車内アナウンスが二人だけの乗客に到着を知らせる。がたん、大きく揺れて列車が動きを止めたことを確認し、二人は立ち上がった。 * 宮城の前で見覚えのある女官に出会い、二人は花凛姫の元へと通してもらうことが出来た。女官は「またですか……」とため息を付いたが、二人に敵意を向けるようなことはなかった。 「ドルジェ! 十三! 二人も来てくれたのね……!」 部屋に入るなり明るい声を向けられて。一瞬聞き違いかと思ったけれど、それは確かに花凛姫の声だった。視線を上げれば姫が二人を見つめている。その顔は心なしか明るいように思えた。 挨拶を済ませ、十三は姫の部屋に以前張った結界の様子を見るために立ち上がり、動き始めた。その間にドルジェは姫の前に跪いたまま、声をかける。 「姫様は今回のことをどうお考えなのでしょうか?」 そう言うだけですべて通じるだろう。ドルジェは不躾と思いつつも姫の顔色をうかがう。 (周りの声に惑わされることなく、ご自身が心から望むことを叶えて頂きたいですが……) 年若い姫に決断を迫るのは酷かもしれない。その場合はそれとなく希望を聞き出し、叶える手伝いをするつもりだ。 「多分、なのだけれど……帝は、私に自由になる機会を与えてくださったのだと思うわ」 「自由……ですか」 姫は先ほど華月に語って聞かせたことと同じことを語る。自分と帝とは正しく夫婦の契りを交わしてはいないこと。この国の者にとって、もう自分は純粋な『冷我国の姫』ではないということ。結界のチェックを終えて戻ってきた十三の耳にもその話は入った。 「恐れながら申し上げます。今上帝が他の方々を全て宿下がりさせた今、暁王朝に姫が戻る必然性はないと考えます。用意周到な帝は、私達如きには真意を漏らさぬでしょう」 「十三には、あの方の真意が想像つく?」 「俺は今上帝という地位こそがあの方の望まぬものであったのではないかと考えます。退位するために策を巡らし、内裏の中の人間関係を強固にしない方策を求め、全てを済ませて姫を此方へ送り返した、と」 今上帝という地位はおろか、東宮という地位すら彼には疎ましいものだったのかもしれない。あくまで想像でしかないのだが……。 「姫なら帝の真意を聞けるかもしれない、あの方のこれから長きに亘る無聊を慰められるかもしれない。それでもそれは姫の幸せには直結しない。次の帝からのお召でもない限り、そしてそれがあるとは思いませんが、姫が戻る必要はないと考えます」 「でも十三、さっきの私の話を聞いていたのでしょう? ……私はこの国に残って、幸せになれると思う?」 「……」 十三はその問いにすぐには答えなかった。彼は結界を見てきたのだ。『結界を破って花凛姫に害を与えようとした痕跡』も見てきたのだ。それをみる限り、宮城が完全に安全とは言えないとわかっている。それでも。 「俺は姫の決定に従いますが……帝は理で動く方、情で動かすは難しいかと。俺も男ですので、帝の考えは何となく分かります」 きっと、帝が求めていたものはただひとつ――。 帝が愛していたのも、ただひとり――。 「姫様」 ドルジェは自分の胸に片手をあて、姫を見つめた。 「帝のご意志を聞きたいのであれば私が帝のもとに参じて直接聞き出します。もし行きたい場所や会いたい方があれば、それが叶うよう手引き致します。責任はすべて私が負います」 真っ直ぐなドルジェの瞳。この身は姫のために――意思の篭った瞳。 「ですから、姫の心からの望みをお教えください」 「姫は姫のお幸せを1番にお考え下さい」 ドルジェの言葉に、十三も祈りを込めた言葉を寄せる。姫が、ふっと微笑んだ。 「あなた達……。そんなに私のことを思ってくれる人は、今の暁京にもこの国にも殆どいないわ。私、選択肢が与えられている事自体、幸せなのだと思うわ」 さっもね、華月に同じことを言われたのよ――そう告げて姫は続けた。 「私の希望は――……」 それは華月に告げたことと同じ内容だ。 *-*-* 夢浮橋に着いてすぐにこの世界でのロストナンバー達の拠点、花橘殿を訪ねたジュリエッタ・凛・アヴェルリーノだったが、女房頭の和泉によれば夢幻の宮は内裏に召されて戻ってきていないらしい。 「ふぅむ、困ったのう」 常であれば彼女が帰宅するまで待たせてもらえば良いのだが、今回は悠長に待っているわけにはいかなかった。栄照――昭介は今日、旅立ってしまうのだ。 「お急ぎであれば、内裏に使者を出しましょう。姫宮様のお耳にご友人であるジュリエッタ様の来訪が伝われば、姫宮様も無碍にはなさらぬはずです」 「おお、そうしてくれるとありがたい!」 和泉の申し出に手を叩いて喜んで、ふと考えるジュリエッタ。 「そうじゃ、わたくしも内裏の外で待機していても良いかのう? 少しでも時間を短縮したいのじゃ」 「かしこまりました。そのように文を添えましょう。その間に、衣服をお改めください」 「かたじけない」 時間が惜しい。内裏に寄った後また花橘殿に戻ってきて着替える時間も短縮したかった。ジュリエッタは以前も借りた墨染めの衣に着替え始める。以前、まだ昭介が栄照と呼ばれていた時に出逢った格好、尼僧の姿にをやつすつもりなのであった。 * 「ジュリエッタ様!」 「宮殿! 会えて良かったぞ」 「ご足労おかけして申し訳ありません」 ジュリエッタが急いでいること、そして用件が香に関するものであることを書き添えたのが良かったのだろう、ジュリエッタが通されたのは香術寮の一室だった。せわしなく働いている寮生を横目に案内された部屋には、作業道具と思しきものが一式揃っていた。 「宮殿も息災で何よりじゃ。こんな時で済まぬが、実はとある人物の香を再現し詰めてほしいのじゃ」 「わたくしの存じ上げているお方でしょうか……」 「実はな……」 声を潜めてジュリエッタは語る。以前、帝との会話で昔心を通わせた女性がいたと聞いたということを。もちろん、栄照のことは伏せて。彼のことが世間に知れたら、帝の座を巡る争いに混乱が生じるどころか、折角新しい道を歩み始めようとした『昭介』の妨げになってしまう。なにより、帝も栄照の母も、そんなことは望まぬだろう。 「もうその女性は故人ではあるがせめて香だけでも捧げようと思うてのう。くれぐれもこのことは内密に頼むのじゃ」 「あのお方にそのような……かしこまりました。今上帝の香でしたら、以前作って寝かせておいたものが、そろそろ時期でございます。持ってまいりますのでお待ちください」 「宮殿に頼んでばかりもなんじゃし桜餅を作ってきたのじゃ。花橘殿にあずけてある。後で食べようぞ」 「はい」 笑顔を向けて部屋を出て行った夢幻の宮を待つ間、ふと、ジュリエッタの頭に浮かんだのは、夢幻の宮の覚醒理由。 (そういえば、香術に関する禁忌に触れてしまったためだったらしいが……一体何だったのかのう) 気になりはしたが、今尋ねている余裕はなかった。 * 道を間違うことはなかった。栄照が郊外で療養せざるを得なかった事件に、ジュリエッタは深く関わっていたのだから。 小屋が見えてくる。本当に最低限雨風をしのげるだけの小屋であり、近隣の村の者に食事などの世話は頼んでおいたが、不自由したに違いない。だがそうしてでもジュリエッタは彼を助けたかった。彼は、もう一度やり直せると信じていた。 ガタ……。 戸が揺れて姿を現したのは、簡素な旅装束に身を包んだ男だった。顔の半面を包帯で覆うその姿はなんだか痛々しい。旅立つところだったのだろう、手には僅かな荷物と笠が握られていた。 「昭介殿!」 「……尼君? いや、ジュリエッタさん……」 包帯に覆われていない方の目で、尼姿のジュリエッタを見つめた昭介。もちろんしっかりとジュリエッタのことを覚えていて、表情を崩してみせた。 「火傷の具合はもうよいかのう? 止むをえんかったとはいえすまなかったのじゃ」 「いえ、感謝しています」 駆け寄ったジュリエッタは昭介を見上げる。彼の美貌は半分包帯で隠れたことで、より際立って見えた。 「私にこうして償いに生きる道を与えて下さり、ありがとうございます」 療養中、考えたと彼は言う。母の本当の望み、自分の本当の望み、そして――父の本当の望みを。 「夢に、みることができました。父と、母と、三人で……普通の家族のように暮らす日々を」 「そうか」 決して手に入ることのなかった日々。二度と手に入らぬ日々。 けれども、生きてさえいれば、昭介がそんな家庭を作ることは不可能ではない。 「帝は退位されるらしいのう……ある意味哀れかもしれぬな、彼も。高貴な身分と引き換えに自由はなく、愛するものと会うことすらままならぬ身というものは」 「帝は……父は母をずっと愛していたのだろうと、そう、思えるようになりました」 昭介の表情は、今は驚くほど穏やかだ。以前ジュリエッタの会った『栄照』はどこ張り詰めていて、穏やかに語ってはいても危うさが同居していたように思える。だが今の昭介は、まるで憑き物が落ちたようで。これがきっと彼の本当の姿なのだろう、ジュリエッタは思った。 「その点そなたはまだ可能性がある。術を使わずともどうかその優しき心と言葉で新しい人生を歩んでほしいのじゃ」 「新しい人生、ですか……。まずは今の私を受け入れてくれる場所から探さなくてはなりませんね」 顔や身体に負った火傷の痕は、きっと彼が新しい人生を始めるにあたり障害となることだろう。けれどもそれを口にしないのは、口にすればジュリエッタが心を痛めてしまうとわかっているから。 「そなたのみちゆきが明るいものであることを、わたくしはいのっておるぞ。……もしよろしければ、これを」 「……これは?」 着物生地の端切れで作られた巾着。それを差し出すと不思議そうに昭介は手を出した。その上に少し重みのある巾着を乗せてやる。そよいだ風に乗った香りがふぅわりと二人の鼻孔をくすぐった。 「帝のまとう香とのことじゃ。いらねばわたくしが引き取るが……」 「……!」 見開かれた昭介の瞳が巾着へと視線を落とす。そっと巾着の乗った手を顔に近づけて、香りを吸い込む。その手が小さく震えているのを、ジュリエッタは静かに見守っていた。 帝に頼んだとしても、文を書いてもらうことは無理だっただろう。帝とて栄照に複雑な思いを持っているだろうが、『いるはずのない』の息子にあてて文など残せるはずはなかった。特に今、帝は事実上軟禁されているという。文が他の者に検閲されずに済む可能性が低いであろうことはジュリエッタにも容易に想像できた。 「これは……遠い記憶にある、母上の香りに似ています……」 「この香を用意してくれた者に聞いたのじゃが、帝がまだ東宮であった頃、突然香を変えられたらしい。どこから仕入れてくるのか、暫くの間その香を使い続け……ある時、香術寮にその香を持ち込み、内密に複製を頼んだそうじゃ。手に入れることができなくなったが、どうしても使い続けたいと」 「……」 「そして、帝は今現在も、その香りを使っておられるそうじゃ」 「……!」 恐らくその香を作って帝に差し上げていたのは昭介の母だろう。帝が今でもその香りを使い続けているというのは、昭介の母を忘れていないという証ではないか。 もしかしたら、帝と昭介の母との間にはなにか約束があったのかもしれない。叶うかわからぬ、だがきっと心からの誓い。 ジュリエッタは皆まで言わぬが、恐らく昭介もそうした事を感じ取っているに違いない。じわりと包帯の目のあたりに涙が滲んでいるのがその証。 「ジュリエッタさん、ありがとうございます」 そっと衣で涙を拭いた昭介は、深く深く頭を下げる。 「あなたのおかげで私は、父と母の愛を見誤らずにすみました。そして、こうして二人の思い出の香りとともに新しい道を踏み出せる。たとえ二度とこの国に足を踏み入れることが叶わぬとも、この香りがあればきっと、私は生きていける」 「……引き取りは不要のようじゃな」 ゆっくりと頭を上げた昭介は、満ちた表情をしている。ジュリエッタの心に広がる温かい思いは、安堵。 彼のこれからの道のりは決して平坦ではないだろう。けれどもそんな彼に、少しでもしてあげられることがあればしてあげたかった。だから、これで安心して彼を見送ることができる。 「昭介殿の無事を、いつまでも祈っておるぞ。たとえ、もう二度と相見える事が叶わぬとしても」 彼は二度と暁王朝の土を踏まない。冷我国へ腰を落ち着けるのか、はたまた別の地へと赴くのか、それは今の時点では本人にもわからぬこと。暁王朝へと便りを出すことさえできぬだろう。だから、これが最後になる可能性が高い。 「私にも、ジュリエッタさんの旅が幸い多きものであることを、祈らせてください」 彼もそれをわかっているのだろう。しっかりとジュリエッタの瞳を見つめ……。 そして、互いに微笑む。 「行ってまいります」 「息災でな」 最後の言葉を交わし、そっと後ろ姿を見守る。後ろ姿が小さく小さくなるまで、ジュリエッタは目をそらさなかった。 これは、彼女がもたらした一つの結末であるのだから。 *-*-* 旅だった昭介は一人ではなかった。どこからとも無く現れたルンが同行すると言い出したからだ。 「お前がどこか行く、聞いた。どこかまで、ついていく。ルン、暇だ」 暇で狩りもしたいという目的から、ルンは護衛がてら昭介に同行することを決めていた。昭介は最初自分が旅立つことをどこから聞いてきたのだろうと不思議がっていたが、ジュリエッタがちょうど旅立ちの日に訪ねてきたことなども鑑みて、誰か見守ってくださる存在が居るのでしょうと結論づけたようだ。元々僧であった彼だ、目に見えぬ縁を大切にしても不思議はない。 「ルンさん、ですね」 「ルンは、ルンだ」 基礎体力のあるルンは昭介の歩みに合わせてもかなり体力的に余裕はある。好奇心旺盛なルンはきょろきょろ辺りを観察しながらも、度々昭介に話題を振った。 「栄照、僧侶辞めたら、何になる? 農夫? 陰陽師? 山賊? 下男? 鬼? もっと他の、何か?」 「私の名前は今は、昭介といいます」 「止めてなくて、追われてないなら。栄照で良い。違うのか? お前の名前、栄照と聞いた。名前、自分で選ぶもの。自分の名前、自分で決めろ。お前は、栄照じゃないのか」 矢継ぎ早に言い募るルンに、少し目を見開いて、彼は笑う。 「……そうですね。栄照で構いませんよ。さっきの質問の答ですが……そうですね、何になりましょうか」 「迷っているのか?」 「迷っているというより、わからない、のです」 ルンにとっては昭介の答えの方がわからない。自分がなりたいものになればいいのではないか。何になりたいかは自分で決めればいいのではないかと思うからだ。 「ルンはこの前、鬼と言われた。鬼ってなんだ? 栄照はなんだ?」 「鬼とは、異形の者の事を言いますね。人は、自分達と姿形の違うものを恐れる傾向があります。それを総称して『鬼』と呼ぶのです。ルンさんの綺麗な金色の髪は、この国の人にとっては珍しいですから、ルンさんを鬼と呼んだ人は驚き、恐れたのでしょう」 「難しい。ルン、怖いか。栄照もルン、怖いか?」 「いいえ、私も一度鬼となった身。こうして言葉も通じるあなたを怖がる必要はありません」 「そうか」 二人での旅は続く。昭介にとっては決して楽な旅ではないけれど、ルンがいることで彼の負担は軽減されていた。野営に適した場所はルンが選定し、火をおこす。獲物を捕ってきて捌く。 旅の途上では食べられる時に食べておかないと、次はいつ食べられるかわからないということがある。ルンは肉食であるがゆえ獣を狩ってきた。対する昭介は元僧侶である。最初は肉食に微妙な抵抗を示した。無理もない、彼は幼い頃から寺で修行を積んできたのだ。ルンは彼が菜食を貫くなら別に料理を用意するといったが、昭介はそれを断った。自分は贅沢言える身分ではない、と。 「……」 だが、二十年ぶり近い肉に最初は戸惑っている様子もあった。なぜ戸惑っているのか、ルンにはわからない。だって、ルンにとっては動物も草も人間も同じ生命なのだ。 「草も生きてる。人のように、叫ばないだけ。人も、草も、動物も同じ。倒れるくらいなら、食べろ。食べて、命に感謝しろ。その方が、ずっと自然。ルン、そう思う」 「……人に説法をする立場だった私が、真理を説かれてしまうとは」 苦笑し、一気に肉にかぶりついた昭介。二人共、感謝の心は忘れない。 * 「お前、なんで冷我国に行く? 暁王朝、暁京さえ離れれば、田舎いっぱい。お前の力で、助かる人もいっぱい。なんでだ?」 道すがら、今日もルンは尋ねる。しかし昭介は禅問答めいた質問にも嫌な顔ひとつせず、丁寧に答えていた。 「今までの自分がとても狭い世界で物事を考えていたことを知ったからです。だからきっと、心が鬼になってしまった。知識を沢山持っていると自負していました。けれども、私など井の中の蛙です。知りたいのです、もっと沢山のことを。まずは隣国から」 「ルン、時間がいっぱいある。だから、お前が落ち着くまで、見てる。ルン、人には見つからない、平気」 奇妙な二人連れの旅は続く。 数年後、昭介がロストナンバーとして覚醒する事を、今は誰も知らない。 *-*-* (帝さんもだけど、東宮さんも心配。夢幻の宮さんもいっぱい心配しているだろうな。東宮さんのお庭、あれからどうなったかな……) 花橘殿に着いたニワトコは、すぐに東宮御所へと向かった。夢幻の宮は花橘殿にはいなかったから、内裏に行けば会えるかもしれない。 ニワトコは夢幻の宮と共にこの世界に帰属する。そうなれば東宮に会う機会はもっと増えるだろう。けれども今、話をしにいかねばと思う。 (ぼくには人の世界のきまり……特に政治的なことについてはまだ良く知らないことも多いけれど、とても大変なことなのだろうというのは分かるし、東宮さんに元気でいて欲しいのはたしかだから) 心細い想いはしていないだろうか。ひとりきりでいるよりは、誰かと一緒の方が、きっと支えられるから、だから。 「ニワトコ、来てくれたのか」 庭に面した階に座り、東宮は顔を上げた。疲れたような声色が彼の心労を物語っている。 「よかった、あれからお庭は荒らされていないんだね」 「ああ。だが少し元気が無い植物も居る。見てもらえると……」 ぽむ。冠をつけていない、髪を下ろしたままの東宮の頭に優しく手を触れて。 「いちばん元気がないお花は、ここだね」 柔らかに、笑んだ。 * 庭の手入れを共にして、小休止。庭に面した室で花を眺めながら、お茶とお菓子をいただく。 「話には聞いているだろう? 兄上……帝の事」 「……うん」 「世間には東宮妃になると不幸になるって思っているのは私だけではなくてな、年頃の姫を持つ貴族やその姫の中にも恐れる者がいたんだ。だが、今上帝の退位が決まったら、掌を返したようにこぞって縁談話を持ち掛けてくる輩が増えた」 当然東宮自身ではなく、放っておいても転がり込んでくる中宮の座が目的である。 (ああ、東宮さんはまた、自分を責めているんだね) 「ぼくは、東宮さんが東宮でなくても、仲良くしたいと思ったと思うよ。むずかしいことはまだわからないけれど、でも、もし東宮さんが忙しくなってしまったら、ぼくが代わりにこの庭を世話するから。そして咲いた花たちを届けるから」 懇願するように、ニワトコは言葉を紡ぐ。 「義理の弟となる東宮さんには、花のことを想うように、ほかのひとたちにも優しくあってくれれば、ぼくは嬉しい。まるで、おひさまのように」 「……!」 はっと目を見開く東宮。告げられたありがとうの後に質問攻めにあったけど、結婚の報告を嬉しそうに聞いてくれた。 ニワトコにとっては兄弟という繋がりは慣れない感覚である。けれども大切にしたい、心からそう思う。 「これからも、万が一私の立場が変わろうとも、こうして親しくしてくれるか?」 不安そうに向けられた問に対する答えは一つしかない。 「もちろんだよ」 太陽のようなほほ笑みで、ニワトコは東宮を照らした。 この世界で大切な人を照らす太陽になれればいい、そう思う。 *-*-* (私は左大臣家の跡継ぎの奥方になる。東宮には後ろ盾がいない。ニワトコ達は彼の事を気に掛けている。私は夢幻の宮達の養子となれた事で左大臣家に嫁げた。彼らの為に自分も出来る事をしたい) 暁京に戻った華月は夫である鷹頼とその父である左大臣に、自分の考えを話した。華月は花凛姫の望みを叶える手伝いをしたいと思っている。政治に疎い華月では、自分のしたい事が駄目なことであるのか判断できない。 「でもお父様も貴方も信じられる人だから……だから、知恵を授けてください」 鷹頼や周囲の者に頼るしかない自分の力のなさが悔しい。だが時は戻せない。これから頑張るしかないのだ。左大臣家の嫁として恥じないだけの知識と教養を得るために。 守りたい、支えたい人達がこの世界にいるから。その為に強くなりたい。もっともっと頑張る。これは、その一歩。 「華月、頭を上げろ。父上……どうお考えですか? 私には一つ、案がありますが」 「私にもあるが……恐らくお前と同じだろう」 男二人が視線を合わせているのを見て、顔を上げた華月は二人の考えがわからずに首を傾げざるを得ない。 「華月、お前もよく知っている方法だ。これを実行するためには義父上義母上と、東宮を説得しなければならない。恐らくお前にしかできない役目だ」 続けて鷹頼が告げたのは確かに華月もよく知っている、だが本当に実行されるなら驚くべき方法だった。しかも、左大臣家にとって悪くはない方法なのであった。 *-*-* こっそりと冷我国の宮城を抜けだした花凛姫と十三とドルジェは、暁京に骨を埋める覚悟のある女官数人だけを伴って花橘殿に身をおくことにした。 姫の望み、それは――暁王朝に『帰る』こと。姫は『帰る』という表現を使った。それは、意志の現れ。 姫が旅の疲れで午睡をとっている間、ドルジェは一人、庭の池の前に佇んでいた。元より花橘殿の結界はほぼ万全であるし、その上十三が側にいるから少しの間離れても問題はない。 (この金の目は見た者に災いをもたらすとされている) そっと取った眼帯の下から現れたのは、金色の瞳。 (私が故郷で仕えていた方達もこれを見てから変貌してしまい、最終的に私は彼らを手に掛けてしまった) ドルジェにとっては何よりも忌まわしいもの、忌まわしい記憶。 (現在トラベルギアでその力は抑えられているけど、それを失ったらどうなってしまうのか。この世界や姫様に災いが及ぶことはあってはならない、けれど……) 思いは募って止まることを知らない。真理数が灯ったと知った時から、それは加速して。 (本当は、ここに帰属したい……私でも、居場所があるということは嬉しくてたまらない) 叶うことならば、花凛姫に仕えて今後も力になりたいと思う。だが、不安は波のように寄せては返す。 (私は、どうすれば……) 水面に映る金の瞳に吸い込まれそうだ。意識が遠のく気がする。ゆらゆら揺れているのは水面だろうか――。 「ドルジェ!」 「!?」 名を呼ばれたとともに後ろからしがみつかれて、揺れていたのは自分だと気がついた。 「早まっては駄目! 私をこの国に送り届けたら、もうそれでおしまいなの?」 「姫様……そんなことはありません」 振り返ればいつの間にか花凛姫がしがみついていて、泣きそうな顔でドルジェを見つめていた。 「っ!」 ハッとして金色の瞳を押さえる。この瞳が姫に災いをもたらしたら、後悔してもしきれ―― 「どうして隠してしまうの?」 「この瞳は、災を呼びます」 「だからずっと、隠していたの?」 「……」 唇を噛み締めたドルジェの手に、そっと姫が触れる。そして、金の瞳を押さえていたその手を取り去ってしまった。じっと、見つめられる。 (姫様まであんなことになっては――) 蘇る記憶と恐怖。きゅっと目を閉じた。 でも。 「――、――」 姫が何かを唱え、そっと瞼の上から瞳を撫でた。そして。 「大丈夫よ、災いは……祓ったわ」 「え……でも」 「心配だったら、ずっと私のそばに居てちょうだい。ドルジェが不安になるたび、私が祓ってあげる」 姫に術の心得があるなんて聞いたことはない。けれども、触れられた部分は暖かくて。浮かび上がるのは熱い雫。 「っ……」 それはドルジェにだけ効く、術であった。 *-*-* 鷹頼と左大臣の考えた『策』をニワトコと夢幻の宮に伝えた華月は、二人と共に東宮御所を訪れていた。最初は少し警戒した様子の東宮であったが、華月が二人の養女であると知って警戒を解いたようだった。 「――というわけなのです。東宮にご決断いただければ、後はお母様が……」 「ええ。わたくしと左大臣様と中務卿宮のお兄様とで、上層部を納得させてみせましょう」 「だが、その姫は納得しているのか?」 東宮の疑問はもっともである。だが、事前に花凛姫にも希望を聞いてみたところ、東宮が拒否しなければという条件付きで承諾を得られたのだ。 花凛姫を夢幻の宮の娘とし、暁京の姫として東宮妃にする。 それが、鷹頼と左大臣の考えた案だ。これならば夢幻の宮達は東宮の確固とした後ろ盾となれるし、左大臣家と繋がっているということが双方にとって良い結果を産むことになる。直接左大臣家の娘を東宮妃にするわけではないから、東宮の立場は中立に近いまま保たれることとなるのだ。東宮妃となれば姫として育てられた花凛姫にも十分な生活をさせてあげることができる。 「冷我国ではね、王様の手がつかなかったお妃様を、次の王様や家臣に嫁がせることがあるんだって。だから、お姫様にも抵抗はないみたいなんだ」 ニワトコの言葉になるほど、と東宮は頷いて思案顔になる。 「姫はとてもおとなしくて穏やかな方で、きっと東宮のお心を温めてくれると思います。お年も釣合いますし……」 緊張した様子で東宮の様子を窺う華月。彼が否といえば、この計画は瓦解する。 「私を気にかけてくれるそなた達の考えだ、悪いものではないだろう。ただし一つ、条件がある」 ごくり、その場にいた者達が唾を飲み込む。 「結論を出す前に一度、その姫に会わせてほしい」 * 東宮と姫の逢瀬は、皆が予想していたよりうまくいき、お互いいい意味で意識しあっている様子が初々しい物だった。だからこそ、夢幻の宮は今、大臣や主だった者達の集まる会議の場にいる。 予想通り、直接左大臣の娘を東宮妃にするわけでもないということで反対はそれほど強くなかった。もちろん、その娘が花凛姫であるということは、左大臣を初めとした一部の者しか知らぬ事実だ。左大臣や中務卿宮が味方をしてくれたことも大きかったし、長年都を離れていた女五の宮であるならば権力への執着は薄いであろうと判断されたようだ。 だが、一つだけ、夢幻の宮も、ニワトコも華月も想像していなかったことが起きた。 「……皆様方、そのようなことを、本気でお考えですかっ……!?」 娘を東宮妃にする条件として告げられたその言葉に、夢幻の宮は珍しく大きな声をあげた。左大臣や中務卿宮が驚いていないところを見ると、彼らはすでに知っていたようだ。 「東宮とその姫の仲が馴染むまでというか、まあ数年の話だよ。その頃には東宮も落ち着かれる頃だろうから」 「でも、お兄様……」 権力への執着が薄いという点を突かれる形となったのだ。だが、ここで彼女が条件を飲まぬと言ったら、すべてのお膳立てが無駄になる。傷ついた心が求め、始まったばかりの恋に水を指すことになる。だから。 「……わかりました。その条件を飲みまする」 夢幻の宮は条件を飲むしかなかった。 *-*-* こうして暁京の時期帝となったのは、先の帝の妹御である女五の宮であった。 数年という期限付きではあるが、早くに嫁がず香術寮で過ごしていた彼女は政治にも明るく、お飾りの帝となることはなかったという。 花凛姫は名を華夜(かや)と改め、無事に東宮へと嫁いだ。 この東宮が帝となるのは、また数年後の話である。 【了】
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