冴え冴えと輝く明るい月が水面に映っている。 闇の空に、それは鮮やかに美しく、手に抱けそうなほど間近に見えて。 手を伸ばした。 けれどそれは、風に立つさざ波に揺れ、落ちる花弁に乱れ。 水の冷たさに初めて知る、憧れとは脆いものだったのだと。 けれどその時にはもう、伸ばした手は深みからの指に爪を立てられ、引きずり込まれるばかり。 誰か助けて。 そう呼ぶ声も儚く消えるのみ……。「インヤンガイでヤン家と言えば、それなりに通る名前だそうです」 鳴海は、小さく溜め息をついた。「その一人娘、リーフォアは屋敷の奥深くで育てられ、両親の愛情を一身に受け、インヤンガイの闇など一切知らぬまま成長しました」 けれど、そういう娘が何を望むかは、少しでも経験があれば察することができるだろう。「ある日、リーフォアは『一生辛気臭い屋敷に閉じこめられて束縛されるくらいなら死んだ方がマシよ! 私は自由に生きたいの!』と言い放って、家を飛び出したそうです」 けれど、待っていたのは束縛よりも惨い現実。 行方不明になり、両親の必死の捜索にも関わらず、影さえ見つからなかった少女は、疲れ果てた捜索の手下が立ち寄った『金界楼』で薔薇雲母妓の名で客をとらされていた。 鳴海が示したのは一枚の絵札、描かれた女はまだ少女と言ってもいいぐらいの華奢な骨格を、淡く透ける衣服に包み、おどおどとした黒い瞳でこちらを見上げている。膝から下の両足を金銀の縫い取りのある赤い布でひとくくりに巻いて、これみよがしに金色のリボンで結んであるが、その部分は、体に比べれば奇妙なほど小さく細い。「酷い話ですが、両足を何度も叩き折られたらしく、一人では身動き出来ない、その脆さが人気だそうです」 月陰花園の『金界楼』は、金さえ払えば何でもできる、というのが店の売りだそうで。 何を想像したのか、今にも吐きそうな顔の鳴海が、必死に『導きの書』の文面を辿る。「ヤン家には昔から彼女の外遊びに護衛として付き従っていた、ギンヤンマと呼ばれる男がいたのですが、この男がリーフォアを騙して『金界楼』へ売り飛ばしたようです。ヤン家はギンヤンマの捕縛を望みましたが、花街へ紛れ込まれては、探偵の力でも辿り着けず、諦めました」 今回の依頼は、リーフォアの母親からで、馬鹿な娘でもたった一人のかけがえのない娘、どうかあの娘を助けてやってほしい、とのこと。「ヤン家は名家だけに、月陰花園に表立って関わることはできないようです」 『金界楼』に薔薇雲母が一生稼ぐ分ほどの金をくわえこませれば、リーフォアの身柄を渡してくれるかも知れないが、ヤン家はそれはできないと言う。「皆さんには探偵ラオ・シェンロンの手引きで、月陰花園へ入り込めますが、リーフォアを連れての脱出に探偵の助けは望めません」 月陰花園の各娼館は、互いのやり方には文句をつけない、そういう不文律がある。『金界楼』が何をやろうと構わない、だが面倒事は持ち込むな、というのも暗黙の了解だ。 言い換えれば、『金界楼』の中でのごたごたは『金界楼』でケリをつけるべし、他の娼館は支援しないということでもある。 よって、今回障害となるのは、『金界楼』の面々とその守り手のみ。「『金界楼』の守り手は、金夜叉組と呼ばれ、金色の狐面をつけて集団で襲ってくるそうです。中には『紅引き』と呼ばれる紐による術を使う者もいるとか。……かなり注意が必要です」 鳴海は案じるように首を傾げ、それでも差し出された二つの手にほっと息を吐いた。「引き受けて下さいますか? ……ああ、よかった」 チケットをそれぞれに手にしたリエ・フーと華月は、互いを見やって頷いた。=========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>リエ・フー(cfrd1035)華月(cade5246)===============※このシナリオは、ナラゴニア襲来以前の出来事として扱います。======
夜闇に羽を広げる黄金蝶。 『金界楼』を遥か上空から見下ろせば、そう見えるだろう。 華月は目の前に聳える金色の建物に軽く身を震わせる。思い出す、親友との別離と惨い再会を。遊郭は人の欲望ばかりが集まる場所。そして人の欲望には底がない。深みにはまればはまるほど、身動き取れなくなる真っ黒な泥沼、呑み込まれて沈み込んで、そのまま自らもその欲望に化身しそうで……怖い。 「…私も何も知らない頃は、リーフォアのように外の世界に憧れていた……外には自由があると思って」 ギンヤンマという男の捕獲も無論だが、最優先はリーフォアを娘を案じる母親の元へ無事帰してやることだ。 「正面突破が無理なら搦め手で行く」 薄く嗤って華月を振り返ったリエ・フーの目元には、紅がさされている。唇も同じ朱紅で彩られ、抜き気味の襟から覗く伸びやかなうなじは少年と思えぬほどの色香だ。 「おいでなさいませ兄様」「お遊びなさいませ姉様」 賑やかに襦袢の上に金色の薄物を羽織って、遊女自らが呼び立てるのは『金界楼』の売り方、誘われた男や女が次々と開かれた朱色の扉の中に吸い込まれるのに、リエと華月が続いていくと、遊女の声が一時止んだ。 「何だえ、あんた達」 扉の内側に控えていたのか、黒い羽織の年増女がずいと進み出てリエを遮る。 「子どもが遊べる所じゃないよ」 「お姉様、誠に失礼ながら、そう呼ばせて頂きとう存じます」 リエは年増女の伸ばした手に逃げるばかりか逆にすがりつき、ぐいぐいと相手を奥へと押しやりながら、金色の瞳に涙を浮かべる。 「一体何のおふざけだえ。『金界楼』の門女、岩妓と知ってのからかいなら、容赦しないよ」 『岩妓』とは『金界楼』の現場を仕切る役目の老女だ。 「お金のためなら何でもします、どうかここで働かせて下さいませ…あっ」 小さな叫びがリエの唇から零れた。岩妓がいきなり衣類の肩を掴み、ぐっと左右に引き下ろしたのだ。不安に戦き仰け反った細い首、さらけ出された薄い胸に震えが走る。切なげに細められた金色の目に通りかかった男の喉がごくり、と動いた。 「あんた、男かい」 「は、い…」 掠れた声で返事をするリエは、その目で喉を鳴らした男の瞳を射抜いている。小さく開いた口に微かに舌を遊ばせて、吸い付けられた男の視線をなお引き寄せるように体を起こした。剥かれた半身、ふらふらと男がすり寄ってくる。 「おいおい、岩妓」 「これはこれは、グォン様」 なじみの客なのだろう、岩妓が慌てて頭を下げる。 「入り口でいきなり花調べとは穏やかじゃないな」 「……ひょっとして、グォン様はこの者がお気に入りでございましょうか」 「名付けをしてやろうじゃないか。異論はあるまい?」 がっちりした体格の男は服の懐から無造作に布袋を取り出し、放り投げた。 「離れを借りるぞ」 押しつぶしそうな気配で、肩を抱き寄せ奥へ入っていく。不安を隠せず見送った華月に、肩越しに振り向いたリエが眼を細める、金の炎のような目を。 「で、あんたもかい」 「は、はい!」 華月は急いで岩妓に向き直った。 「あっちはグォン様のお目に止まったけど、今は下働きが足りないんだ」 あの戸口から入って、仕事をもらいな。 岩妓が指す裏口に、華月は頷いて足早に進む。華月も花街出自、『花調べ』や『名付け』の意味は想像はつく、リエが今から何を引き受けるのかを考えると、足腰が竦むような想いがする、だが。 『金さえ払えば何でもできるのが売りなんだろ? それを逆手にとる』 戸口へ入る前に覗いたトラベラーズノートには、リエからの連絡が入っていた。 『幸い、このおっさん、好き者で力も金もあるようだ。リーフォアも何度か指名したことがあるらしい』 俺と同時にリーフォアも指名させてつなぎを作る。 『逃げ道のあたりをつけといてくれ』 一度逃げた娼妓が連れ戻されたら、どれほど惨い折檻を受けるのかよく知っている。リーフォアを連れ出したら、二度と捕まってはならない。 「……どなたかおられますか」 華月は戸口を潜った。表の華やかさとは打って変わった薄暗い部屋、みすぼらしい格好の女達が手に手に盆を掲げて忙しく動き回っている。 「あんた誰だい」 きつい眼をして髪をひっくくった女が仁王立ちして華月を見た。 「そんな綺麗なべべ来て、ここで何してくれるんだい」 「お仕着せがあるならそれに着替えます」 下働きとして岩妓様にこちらへ行けと言われました。 「ああ、あのくそばばあ、ようやく使えそうなのをよこしたってわけか」 女はからからと笑った。 「あたしは泥女。まあ、ここじゃ誰もが泥女って呼ばれるんだけどさ」 わはははっ、と周囲の女が一斉に笑った。 「お仕着せなんかねえよ、ただ、その綺麗なおべべが煤と埃で汚れっちまう前に、運びをやってくんねえな」 「はい、何なりと」 「何なりと? 何なりとか、いいねえ!」 泥女はまた大笑いした後、眼を据えた。 「貪られた女の始末もあんたの役だ、兄様方姉様方の機嫌を損ねるんじゃねえよ」 『金界楼』に入って数日、店の仕組みも多少それぞれ呑み込んだ夜。 『今夜、グォンがやってくる』 リエからの連絡に華月はどきりとした。華月の仕事は酒肴のお運びと事が済んで身動きとれなくなったり怪我をしたりした娘の手当、中には惨い傷を負わされる者も居て、かなり辛い日々だったが、肝心のリエに付き添うことはほとんどなく、密かに不安が募っていたところだった。 『リーフォアも呼ばせる。酒肴も運んでもらう手はずにする』 それは今夜リーフォアを連れて逃げるという意味だ。 『岩妓は三日に一度、引き夜と称して「金界楼」を離れています。今夜がその日にあたるのは偶然?』 『計算尽くに決まってるだろ』 冷笑するリエの声が聞こえるようだ。 「全く今夜はめちゃくちゃだ」 泥女が溜め息をついて、汚れた食器を慌ただしく盆から払い落とし、黒い手箱を片手に駆け出しながら唸って、側を通り抜けていく。 「何だって兄様姉様方は、今夜これだけやってきなさるんだか」 黒い手箱には娼妓の介抱をする道具一式が入っている。氷枕や熱冷まし、痛み止め、包帯に傷薬、湿布、軟膏。黒い手箱は数個あるが、さっきから次々と泥女達に抱えられて持ち運ばれ、ぼちぼち中身を補充しなくてはなるまい。 それほど手荒い客達が大挙し、しかも長居している理由の一つには、『金界楼』の『朱虎目石妓』と呼ばれて名を売り出したリエが、今夜体が空いたなら、新たな客を通いにするという噂が立ったからだ。 「泥女」 次なる酒肴を整えていた華月のすぐ側から、野太い男の声がした。はっとして見上げる華月を、ちろりと見下ろした顔は金色の狐の面だ。 「ああ何だい、あたしをどうしようってんだい」 泥女が苛立たしそうに広間の戸口から飛び出てきた。 「あんた、これを足しときな!」 放り投げられた黒い手箱を受け取り、華月は急いで中身を改める。汚れた包帯や布を取り出し、新しいものを詰め替え、軟膏の量を確かめていると、数人の男が入ってきた。いずれも金狐の面を被り、ぴったりとした上下、袖無し上着を羽織っている。目立つのは腕に編み上げるように巻かれた紅色の紐、これが金夜叉組かと気がついた。 「今夜の客の出入りはおかしかねえか」 「商売繁盛を危ぶめってかい、金狐」 泥女は薄汚れた顔に嘲りを浮かべる。 「かち合わねえ兄様がかち合い、来るはずのねえ姉様が来てなさる」 「欲しい体があるんだろ」 泥女は派手に笑った。 「あんたも女よりいいもんだってクチかい、金狐」 「俺は『金界楼』の守、餌は無用」 ふ、と相手の視線が向けられた気がして顔を上げる。視線が合った瞬間、背骨の付け根が竦むと同時に理解した。きっと、この人が立ち塞がる。 「…できました」 「ああありがとよ、ありがとついでにグォン様んとこへ入っとくれ」 今度は薔薇雲母と朱虎目石を両手に愛でるとさ! 「わかりました」 渡された盆を手に立ち上がった華月は、背中に張り付く金狐の視線を感じた。 「どうした、もう終わりかい?」 むくりと寝床から体を起こしたリエの唇は薄赤く染まっている。紅だけではない、官能の朱赤、見上げたグォンがもう一度と手を伸ばすほどに妖しい微笑、薄明るい床の灯に照らし出されて瞬きした瞳の金が、ちらちらと零れ落ちる光の雪のようだ。 「一休みしてな…ようやく所望のもんが届いたんだ」 髪を掻きあげて笑うリエの視線の先には、リエとグォンの絡みを見せられて頬を染めながらも眼を見開いている薔薇雲母妓、リーフォアの姿がある。 「絡ませて見物も間に挟んで嬲るも旦那次第。面白え趣向だろ? 食わず嫌いは損だぜ」 煽ったリエのことばに応じ、『金界楼』の美妓は全て俺のものだと言い放ったグォンは、岩妓が居たなら決して許さぬ二人同時の床を望んだ。 「…とはいえ…さすがにもたねえか」 半裸に襦袢をひっかけたリエの背後で、グォンは大鼾をかきだしている。やっぱり体力はこっちの勝ちか、と嘯きつつ、リエは部屋の隅のリーフォアに近づいた。 「さあて、薔薇雲母…いや、リーフォア」 「あな…たは…だれ…?」 相手は驚いた顔で目を見開いた。随分長い間呼ばれなかった名前なのだろう、震える声で尋ねてくる。 「……リエ・フーと言う。ヤン家から頼まれてきた」 リーフォアは震える指先を唇に押し当てた。唸るような呻き声と同時に溢れ出た涙が忘れていないと訴える。 「こうなったのもてめえが世間知らずの馬鹿だからだ。そんな馬鹿でも情けをかけてくれる身内がいるんだ」 「み…う……ち」 「てめえを連れ帰ってくれとよ。てめえの母親は…ずっと心配してる」 「っう…っう、あ」 がたがたと激しく身を震わせ出したリーフォアに寄り添うリエは、情事に上気した体を軽く襦袢で包んだだけ、傍目に見れば娼妓同士が絡み合っているとも見える妖しい図柄、たとえグォンが急に起き上がり、他の人間が飛び込んでも、凝った趣向の一場面に見えるだけだろう。 「おか…さん…っ」 しがみついてくるリーフォアの体を抱き締め、そっとリーフォアの足を包んだ布を開いたリエが一瞬顔を歪める。 「……ひでえこと…されたな」 そこにあったのは肌色の肉塊だった。膝まではかろうじて脚の形をとどめている。だが、そこから先は叩き潰され、変形し、歪曲したまま拘縮した奇妙な二本の肉棒、よく循環障害を起こして腐り落ちていなかった、それだけが幸いというような状態だ。いや、指先が少し、足りないかもしれない。 「失礼いたします」 静かな声をかけて入り込んできたのは華月だった。部屋を見透かし、床でなおも鼾をかいて眠っているグォン、部屋の隅に寄り添うリーフォアとリエの姿を見つけ、するすると近寄ってくる。 「っ」 そこで華月はリーフォアの脚の状態に気づいて息を呑んだ。泣き出しそうな顔で脚を眺め、急いで元通り布に包み直す。 「わたしが…わるいの」 掠れた声でリーフォアは呟いた。 「リーフォア」 「あなたに…こんなことまで…させた…」 リエの胸に指先を当てて見上げたリーフォアが、儚い笑みを浮かべてみせる。その姿にも微笑みにも、どこか作られた媚を満たしていて、この体とこの儚げな仕草と気配に煽られた肉欲をどうやってこの娘に始末させたのか想像したリエは、音高く舌打ちした。 「辛かったね、もう大丈夫よ」 惨い日々にリーフォアが狂っていないかを心配し続けていた華月は、とにかくリーフォアの涙を拭ってやり、部屋にあった衣類を彼女の薄物の上に羽織らせた。同時に音を封じる結界を部屋に張る。頷くと、衣服を動きやすく整えたリエが寝こけているグォンの側に近づいていく。 「グォン? グォン兄?」 「ん…何だ…もっと深い方が…いいのか……朱虎…」 「そうだな、もっとうんと深く」 いってくれ、あっちまで。 「ぐぶっ!」 翻ったリエの拳はまともにグォンの鳩尾に入った。二つ折りになるほど跳ねたグォンが一瞬目覚めた次には白目を剥いて悶絶する。それを確かめて、リーフォアを背負って華月が立ち上がる。 『金界楼』は賑やかに客を呼び込み続けていた。裏口から逃れ出たリエ達はそのままならすぐに見つかってしまうところだ。だが。 「火事だ!」「火事だあっ!」「火事だぞおっ!」 リエの楊貴妃が店の裏手に火を放った。リエが数回鋭く叫ぶ。慌てて駆けつけてくる客や泥女で見る見るごった返す中、リエ達は闇と喧噪に紛れてじりじりと『金界楼』から離れていく。このままうまく逃げおおせるか、そう思った矢先、 「あの騒ぎはお前達の仕業か」 リエの前に、すぐ側の建物の影からにじみ出るように金色の狐面が現れた。野太い声に華月は軽く脚を引く。 「金狐」 やっぱりこいつが立ち塞がってきた、と華月は唇を噛み締める。 「そこの泥女、薔薇雲母は店のものだ」 金狐の背後に二人、またその背後に四人、足音が素早く回り込んで華月達の背後に二人、そしてその背後に四人。 男達の腕に巻かれていた紅紐が解け、するすると地面に垂れ落ちていく。その先が地面に届いた瞬間、ぱちんと弾かれるように跳ね上がって前後左右から一斉に華月達に奔ってくる。 「っ!」 が、紅紐が届く寸前、背後の六人を華月の結界が包んでいた。暗い地面に瞬時に浮かび上がった五芒星の陣、そのまま一瞬にして中空に浮かび上がり、飛ばされた紅紐が弾かれて結界の内側に落ちる。手前の七人も同様の結界で包もうとしたが、金狐を始めとする金夜叉組の動きは速かった。紅紐を飛ばして来ながら同時に飛び退り、紅紐の先がリエの髪を数束切り落とす。 「リエ!」 「させるかよっ!」 だがそれは、リエが相手の動きを見切って踏み込んだからの出来事だった。敵を呪縛し炎上させる太極図の結界、それも見切ってなお跳ねた金狐を除く六人が炎に包まれ、燃え上がった紅紐を互いに巻き付かせて絶叫する。 「結界に結界を被せりゃ単純に防御力も二乗……いや、それ以上だ」 屋根に飛び移り、そこから紅紐を放ちつつ飛び降りてきた金狐と新たな追手から、華月の結界がリエ達を守る。重ねたリエの結界が攻撃をはねつけると、背後から駆けつけてこようとした数人にリエは三たびの結界を張り、今度は真空の刃で切り刻み、追手を一掃する。 「走れ!」 頷いて走り出す華月、背で揺れるリーフォア、それを狙って屋根を走った金狐がなおも両手の紅紐を放ちながら真上に飛び降りてくる。 「華月!」 華月の足下に輝いた五芒星の陣が一気に浮き上がって金狐を弾いた。同時に、弾き飛ばされた金狐の真下に五芒星の陣が煌めき、結界となって金狐を囲む。 駆けつけたリエの腕にリーフォアを委ね、振り向いた華月の紫の瞳が輝いた次の一瞬、手に現れた真っ黒の槍が一気に伸び、結界内で倒れてなおも立ち上がろうとした金狐の腕の紅紐を引き千切り、肩を貫く。 「があっっ!」 散り散りになった紐とともに闇に沈み、ようやく起き上がってこなくなった金色の狐面に、華月は深く息を吐いた。 リーフォアは無事に母親の元、ヤン家に届けられた。 ほっとしたのだろう、ヤン家を辞した後、華月はふらふらと地面に膝を着いた。 「助けられて…本当に良かったわ」 そう呟いた華月の顔に、まだ終わってねえよ、そうリエは応じた。 疲れ切っている華月を先にターミナルに帰らせて、リエは月陰花園に戻り、『月麗祭』で絵札を配っていた男衆に接触した。 「なあおい、頼まれてくれねえか」 「何だ、小僧、こっちは忙しいんだ……あっ」 うっとうしそうに振り払おうとした男衆は、リエを見返して突然笑顔になった。 「お前! ひょっとして、『月麗祭』で『双子月』をやった娼妓じゃねえか?」 男は太い眉を髭面を綻ばせた。 「どこの店に出てんのか探したぜ! 俺は赤蟻ってんだ、今度いつ舞台をやる?」 「あー、いや、悪い、もう出ねえんだ」 「何だそうかよ…」 がっかりした顔の赤蟻にリエは笑みかける。 「けどよ、ちょっと頼みてえことがあるんだ。俺の個人的な頼み事……礼はたんまり弾むぜ?」 「個人的な頼み事? おうよ、任せてくれ!」 赤蟻は満面の笑顔で請け負った。 数日後。 月陰花園に巧みに逃げ隠れしていたギンヤンマが、赤蟻とその仲間に追い詰められてリエの前に引き出されていた。 「てめえがギンヤンマか」 「俺を探してたんだってな。お前みたいなガキが何の用だよ」 ふて腐れて唸る、顔色の悪い、貧相な、どこに魅かれて騙されるのかわからないような風体のギンヤンマをリエは冷ややかに見下ろした。手にしていた固くて重い木の棒を、足を投げ出して路傍の石に座っているギンヤンマの脛めがけて思い切り振り下ろす。予想してもいなかったのだろう、鈍い音が響き渡って、ギンヤンマが座っていた石から転がり落ちた。 「ぅっぎゃあああっっ」 「因果応報って奴だよ。……リーフォアは確かに馬鹿な女だ。でも、その馬鹿な女の純情を踏み躙った男は最低の腐れ外道だ」 棒を投げ捨てて言い放ち、待ち構えている赤蟻に顎をしゃくる。 「じゃ、兄い、参りましょうか、俺達と」 心得て、痛みに呻くギンヤンマを引っ立てながら、赤蟻が楽しそうに笑った。 「ど、どこへ」 「そりゃあ、あんたが災難を持ち込んだ『金界楼』にさ。薔薇雲母妓を失った上、店を焼かれた修羅場、八つ当たりの的は幾つあっても足りねえでしょうよ」
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