嬌声が響く。 夜の闇を通り抜けて、あからさまに男を誘う紅の格子の隙間から。 それぞれの店に掲げた艶やかな灯、華子や下子が、いそいそと通りを過ぎる男達に駆け寄り、微笑みかけ腕を引き、幼い仕草と風情ながら、柔らかな褥を約束する。 その中を擦り抜けるようにやってくる一人の男が居る。 0世界を離れた時は、まだいささか小柄だった。華奢で線の細さが残り、それがきつい黄金の瞳に不似合いなアンバランスさが、妖しかった。 だがしかし、今宵は巡視の合間なのか、地味な黒みがかった灰色の、上下ともにゆとりをもたせた上着とズボン、手に獲物こそ持っていないが、何かあればすぐさま引き抜くであろう刃物の煌めきを体に隠して、楊虎鋭、かつてリエ・フーと名乗っていた少年はやってくる。 もう、少年というのは無礼なのだろう。乱れた髪をかきあげる掌は相応に大きく、肩幅も腰回りも随分がっしりした。擦り抜けるような滑らかな動きは鍛えられた筋肉によるもの、ほっそりと見えるぐらいの仕草、それでも近づけば華月を微かに怯ませるぐらいの、強烈な雄の気配。 「待たせたな」 徐々に見知らぬ存在になっていく相手の耳に、それでも見知ったイヤーカフスを見つけ、華月は微笑み返す。 「迎えに来てくれて、ありがとう」 「慣れたもんだろ、あんたには」 顎をしゃくって中に導くリエの様子に嫌みはない。お互いの氏素性はよく知っている。花街育ち、花街崩れ、娼妓に近かったが、娼妓にはならなかった。 「ちょっと奥になる、付いて来てくれ」 背中を向けるリエが微かに笑みを含ませて呟く。 「リーラが待ちかねている」 その頭上に浮かぶ真理数が、眩しい。 「お待ちいたしておりました」 溢れるような笑顔で、リーラは木の車に乗って華月を迎えた。 「ここに来る前さんざ世話んなった恩人だ。よくしてやってくれ」 リエがさっさと框を上がりつつ命じる。リーラが一つ頷き、承知いたしました、と応じる。それはもう、まるで組み合わされた一つの絵のような情景だ。 「初めまして…今宵は、リエ、いえ、楊さんをお借りします」 「リエで構いませんよ」 リーラは笑みを深めた。 「奥の座敷を準備いたしました。リエが、月陰花園を少し案内したいと言っておりましたから、御席はその後にさせて頂きます」 虎鋭と呼びたいはずだ。華月には、リーラの気持ちが想像出来る。 華月だって、何かしらの事情があるとは知っていても、もし藤原鷹頼のことを、自分が全く知らない名前で呼べと言われたら、不安になり、寂しくなるだろう。 けれど、リーラにはその揺らぎがなかった。 リエと共に暮らしている、それが彼女を支えているのかしら、と思いつつ、ふとリーラがずっと木の車に乗っているのに改めて気づく。確か、報告書にはリエの計らいで義足が誂えられ、それを付けて歩く練習をしているのではなかったか。 「あ…」 からころと優しい音をたてて、こんなところで申し訳ありませんが、とお茶を出してくれたリーラの姿、それとなく腹のあたりを庇う仕草にはっとした。 もしかして。 「あの」 「はい」 穏やかに笑み返す瞳は、以前より遥かに落ち着いている。少女というよりは、むしろこれは、母親の。 胸をどきどきさせながら次のことばを続けようかどうしようかと迷った華月は、とにかく落ち着こうと出された茶を含み、脳裏に過った優しい笑顔に一層胸の鼓動を速めた。 いつか、私も。 いつか、鷹頼の。 「……では、頼むぞ」 「わかりました、虎鋭さん、しっかり見回ってきます」 奥から声が響いて、リエが再び現れる。 「少し暇をもらって来た。一回り、回ってみるか」 「ええ、是非」 辛くて苦しくて哀しくて。 そんな想いばかり詰まっている遊郭だけれど、今宵リエと歩くこの街は、いつもと違う顔かもしれない。 そう思いながら華月はリエに従う。 ここが『幻天層』、ここが『金界楼』。 間に挟まれている小さな家々を通り過ぎ、名だたる娼館の前を華月を伴って通り抜けていくリエの姿は、否応なく目を引いた。 あからさまに睨みつけてくる者、物欲しそうにリエと華月に視線を這わせる者、警戒心を剥き出しに、どういうこったい、今夜は見回られるようなことはしちゃいねえぜ、『紅蓮の虎』と正面切って絡む者。 それらを軽々といなしたり躱したり、なだめたり押し戻したりと、細やかな気遣いをみせながら、リエは月陰花園を歩いていく。 ここが『闇芝居』、ここが『銀夢橋』。 それは月陰花園を仕切る『弓張月』に、誰が君臨しているのかを示すような気配でもあって、昔官憲に追われながら愚連隊を仕切っていたその統率力が、一筋縄ではいかない面々を巧みに納める力となって生きている。 華やかなぼんぼりに片頬を照らされながら、今は華月と身長を並べ、いや少しは越えるようになった背のリエが、懐かしい笑みで笑う。 「これのおかげで自信が持てた」 触れているのはイヤーカフスだ。ブラックガーネットとインペリアルトパーズ。猛々しくもきららかな輝きは、今のリエそのものだと思う。 「これは俺が俺である証。リエ・フーが楊虎鋭へ生まれ変わった証だ」 あの上海。 あの街並に別れを告げ、リエは前へと一歩を踏み出した。 大事な守るべき女性と、大切な失うことのない友人の面影を胸に抱いて。 「私、自分が居たいと思う場所を見つけたの」 華月は喧噪に紛れるように、そっと切り出した。 「好きな人が…できたの」 我ながら声音が甘かった。自分を迎えてくれた鷹頼の笑顔、大きな胸、力強い腕、そして何より、唇で覚えた彼自身のことが脳裏を掠めて、頬が熱くなるのを感じた。 「私が彼の前に現れて良かったと……よく辿り着いてくれたと、言ってくれた」 胸を引き千切られ続けるような生き方だった。必死に灯を見つけようと足掻き続け、戦い続けた人生だった。 だが、その果てに鷹頼は待っていてくれた。 その喜び。 その開放感。 その時感じた、あらゆるものへの深い感謝。 人を愛すること、愛する人と巡り逢える、愛する人に受け入れてもらえるというのは、これほど深い愛情を湧き上がらせるものなのか。 「私は貴方が、羨ましかった」 もう僻みの響きは宿していないはずだ。 「自分の居場所を見つけて、強くあった貴方が」 見つけた真実に突き進むことをためらわなかった、その強さが心底羨ましかった。 「同時に私は、貴方に憧れてもいた」 生きるということは、ああいうことなのだ。 流されて凌いで耐えていくということだけではなく、選び取って掴み続けて信じ続けていくことでもあるのだと。 「私が歩み出せたのは貴方のおかげ………だから貴方にちゃんと報告に来たかったの」 リエもまた、厳しい選択をし続けた。決して平坦な道ではなかった。見知らぬ世界、誰一人自分を受け入れないかも知れない世界へ、それでも飛び込み、獲得した。 「リーラさん…おめでた? ……リエ、幸せなのね?」 私も、幸せになりたい。 「……そうか」 リエは少し、はにかむように笑った。 街の外れへやってくる。 『弓張月』はもう目の前だ。 少しばかり娼館が途切れる場所で、リエはハーモニカを取り出した。 「幾久しく、添い遂げられるように」 唇に当てて吹き始める。繊細な鋭い音は、穏やかで柔らかな旋律を紡ぐことで丸くなる。繰り返されるフレーズは、命を紡いで世代を重ね、時間を越えていくようだ。 「葬送曲じゃねえ。インヤンガイで知った恋歌だ」 覗き込むと、リエは微かに笑って呟いた。 俺はリーラが好きだ。いずれは夫婦になって所帯を持つつもりだ。 ああ、そうか、とふいに華月は目を見開いた。 帰属することは、命の時間が始まるということだ。それはつまり、いつかは命が尽きるということだ。 幾久しく、添い遂げられるように。 添い遂げる、その命が尽きるまで。 その縁を、夫婦と呼ぶのか。 いつか必ず消えてしまう絆、だからこそ余計に、かけがえなく愛しいものとなる。 永遠の命を得るロストナンバーが、なぜ滅びる世界へ、尽きる命へ戻ろうとするのか、それが答えなのかも知れない。 それを選び取ったリエだからこそ、華月はリエを眩しく感じ、憧れるのかも知れない。 「リエ」 「ん?」 「もう一つのイヤーカフは?」 「……もう一回、聞くか?」 薄く笑んだリエはハーモニカを唇に当てる。 その夜は、リエとリーラと小さな食卓についた。 豪勢ではないが、一つ一つリーラが手作りしてくれた料理。 味を気にするリーラ、その隣で旺盛な食欲を見せるリエ、お客様の分まで食べないで下さい、と眉をしかめるリーラに、旨いんだから仕方ねえだろ、と平然とのろけられて、華月は笑った。 夢浮橋に帰属すれば、二度とは来れない異世界。 二度とは逢えない二人。 それでも、華月もまた、選び取る。 耳の奥で、上海で、インヤンガイで、リエの吹いたハーモニカが鳴り響く。 葬送曲から、恋歌に。 死を覚悟して、紡いだ絆。 「さよなら、楊 虎鋭」 ホームを歩み去る華月は、振り返らない。
このライターへメールを送る