イラスト/ピエール(isfv9134)
その日、下駄箱が匂ったのだった。 最初に鼻をヒクつかせ、なんか臭わねえ? と言ったのは桐島怜生だ。その隣りを歩いていた冷泉律は、別に何も? と漂々と答える。2人の高校生は授業を終えこれから下校するところだった。 壱番世界日本の、いつもと変わらぬ日常。2人が他愛もない話をしながら昇降口に来た時、小さな異変があったのだ。 思えばそれがこの「事件」の発端だったのだろう。 「いいや、やっぱり匂う。しかもお前んとこだ」 健康的な小麦色の腕を振り上げ、怜生はオーバーアクションで友人の下駄箱をビシッと指差す。 「失礼な。なんだよ、俺の足が臭いってのか?」 言いながら律は伊達眼鏡の奥から友人を睨み返した。構わず、彼は自分の下駄箱に手を伸ばした。鉄製の小さな扉に指をかけ引っ張る。 「臭いっていうか……」 「ん、何だか堅いな」 律はガコッと音をさせて下駄箱を開けた。途端、辺りに甘爽やかな匂いが広がり二人を包み込んだ。それは複雑だがとてもいい香りで、男子高校生の靴箱から匂うにはあまりに不審な香りだった。 「うっ」 「この匂いは!」 顔を硬直させる2人。驚くのもつかの間、律のスニーカーの上に手紙が載っているのが見えて少年たちは沈黙した。 恐る恐るそれを手にとると、黄土色の蝋で施した封の上に、見覚えのある紋章がしっかりと刻まれていた。 この特徴ある香りは乳香だ。そして紋章も、やり口も全て一人の人物を指し示していた。 「……奴だ……」 「災難だなぁ、お前。ははは」 送り主に思い至って沈黙する律を尻目に、怜生はひきつった笑いを浮かべながら自分の下駄箱を開けた。 ブワッ。その怜生の横顔を香りが直撃する。 泣きそうな顔になりながら下駄箱の中を覗くと、彼の靴の上にも同じ手紙が正座でもするかのように鎮座していた。 「ぬああ!」 「落ち着け、怜生。中身を確認しよう」 頭を抱える怜生の横で、律は冷静に手紙を開封した。文章に目を走らせるとそれは英文且つ正式な招待状の形式で書いてあったので、彼は訳しながら音読してみせた。 「──招待状。親愛なる冷泉律。親善試合を執り行うため、下記指定の場所に来られたし。服装は……全ての武器を許可。バルタザール・クラウディオ」 下記指定の場所には、有名な駅の有名な待ち合わせ場所が書いてあった。 マジかよ、と怜生はがくりと首を落としてうなだれた。律は手紙を持った手を下げ深く溜息をつく。 ──バルタザール・クラウディオ。 少し前に2人が出会った齢約千年の恐るべき吸血紳士である。ディアスポラ現象により壱番世界に転移してきた彼は、この街で活動を始めていた。世界司書に彼の存在を教えられた2人は、彼を0世界へと連れていく役目を担ったのだった。 その時の苦労といったら……! 律と怜生は無言であの時のことを振り返っていた。 オープンカフェで優雅に紅茶を飲んでいたバルタザールは、2人の少年の話を聞くと、この紅茶を飲み終わるまでに自分を立ち上がらせることができたら、お前たちに着いていってやると言ったのだった。 それから5分。時間にしては短かったが、律は肋骨の骨を折られ、怜生は目蓋を切り片目が開かない状態で、何とかこの紳士を席から立たせることが出来たのだった。 「冗談じゃねーよ、誰が行くか」 怜生は吐き捨て、手紙を破ろうとしたがやめてそれをポケットにしまった。 「まったくだ。俺らだって忙しいんだ」 律もうなづき手紙をポケットにしまった。 「女の子からのラブレターだったらともかく、何で俺らがあんなクソオヤジの招待受けなきゃならないんだ」 2人は怒りながらも、向かうはずだった道場ではなく駅に向かった。クソオヤジの話をしながら切符を買い、電車に乗り、つり革に掴まって有名な駅に着いた。 改札口を出て黄昏時の人込みの中に出る。駅前の大きな交差点から空を見上げれば、大きなモニターの中で流行りの女性ユニットが歌いながら踊っていた。 有名な待ち合わせ場所は、その喧騒の少し裏手のところにある。 犬の銅像を見つけ、あったあったと、その前に立ったところで、2人はようやっと異変に気付いたのだった。 「──なんで俺ら来ちゃったんだー!?」 「やあ、ごきげんよう。君たち、元気そうだな」 慌てふためく律と怜生が顔を見合わせると、人ごみの中から、一際目立つ西洋人が姿を現した。 いや、彼はいつの間にかそこに立っていたのだ。回りの人間は無意識にか彼を避けるように歩いていく。 40代ぐらいの長身の男である。ツイードのブラックスーツにシルクのグレーのシャツ。白髪の混ざった金髪を短くまとめ、横の髪を一房だけ黒く染めている。彼はサングラスを外し、手を軽く上げ歓迎するように微笑んだ。 「バルタザール」 うげえと声を上げる怜生の横で、悔しそうに律が言う。彼は薄々感づいていた。あの招待状に魔力があったのだ。触れたのがいけなかったのかもしれない。彼と怜生はこの場所へ引き寄せられてしまったのだ。 「こないだは楽しかったな。君たちともう一度遊んでみたくなってね。こうして来てくれるとは私も嬉しいよ」 「黙れオヤジ、一人で遊べよ!」 「時間は15分間とする」 怜生の罵声を紳士は華麗に無視した。「18時45分にスタート。19時が終了時間だ」 大型液晶パネルの時刻表示を見れば、それはあと3分後だった。 「試合でもしようってのか?」 律の問いに、バルタザールは満足そうにうなづいた。 「ルールは簡単、15分後に君たちが両足で立っていれば勝ちだ。背中が地に着いたり気を失ったりしたらダウンと見なす。ダウンは各々4回まで認め、5回でアウトだ」 自分のペースでどんどん話を進めながら、彼は何処からともなく細く優美な鞘に入ったレイピアを取り出した。その様子に、周りの人間たちも彼を避けるように遠巻きにし始めた。 「トラベルギアは何でも使いたまえ。しかし私が使うのはこのオリバナムだけだ。マジックカードは使わんから安心しろ。君たちにハンデをやらねばならんからな」 「なんだと?」 その物言いにカチンときて、怜生が声を荒げた。律はしかし友人を制し慎重に口を開く。 「一つ聞きたい。なぜこの場所を選んだ?」 「ああ。簡単だよ。君たちが途中で逃げないようにだ。ここには観客がたくさんいるからな」 紳士はそう言うと、悠然と微笑んで見せた。通りすがった男の肩にポンと触れると、その男が声高に言い始める。 「みなさん申し訳ありません! これから15分ほど映画の撮影を始めますので、お気をつけください」 「時間だ」 その簡潔な一言が合図となった。 バルタザールはレイピアを抜く。それはゆっくりした動作だったが、律と怜生は咄嗟に身構えた。鋭い殺気にパスホルダーを手に躊躇なく武器を引き抜く──! ぱしゅっ、という微かな空気音に、怜生は目の前の空気を掴み取るように両手を交差した。その手には肘までの手甲が装備されている。 律は長い得物を抜いていた。棍である。それを自分の前で壁をつくるように回転させると、何かが当たって弾け、あたりにふわりと乳香の匂いが広がった。 バルタザールが剣から立ち昇る香りを、矢のように放ったのだった。 全員が武器を構えたことで、周りの観客から、おおーという歓声が上がる。混雑した駅前広場にぽっかりと広い空間が出来上がっていた。 「関係のない人を巻き込むわけにいかない」 「おう」 律の言葉に怜生が短く応じる。 パッと2人は両側に飛び退き、互いに相手への間合いを詰めた。 棍を手の中で滑らせ、律は三歩でバルタザールに迫る。身体のバネを使って棍を突き出せば、その先にはいつの間にか刃が装備されていた。いきなりグンッとリーチを伸ばした刃は吸血鬼の顔めがけて襲い掛かる。 「フン」 バルタザールは、しかし余裕の態度で上体を後方にそらせただけだった。剣で造作もなく律の棍を脇にはじく。 が、反対側から怜生が迫っていた。彼は地を這うように低くした身体から、伸び上がるように相手の側面に蹴りを放った。 紳士は即座に剣を戻し、鋭く突きを返してくる。時計回りにぐるりと2人のポジションが動いた。怜生は鼻先で剣を交わしもう一度蹴りを放つように見せかけ──左手から氣弾を放った。 目標はバルタザールの胸だ。同時に律も挟み込むように薙刀を突き出している。 ふわりと華麗に紳士は後方へと退いた。そうしなければ直撃を免れなかったからだ。彼の背後に大型モニターと交差点が見えている。 あとは後方の車道に相手を追い込めば──。 2人の少年は互いに目線をを交わした。次は同時に正面から仕掛ける。 律は薙刀を大きく横に振るいながら迫った。武器から氣の刃が何本も現れ、彼とともに相手へと襲いかかる。氣の刃は様々な方向から縦横無尽に夜空を駆けた。 カンッ、キンッという澄んだ音をさせ紳士はそれをレイピアで弾き飛ばす。だが黒い影がぬっと突き出しその剣を叩いた。む、と彼は一息漏らし、空いていた左手を無造作に振るう。 「ぐわっ」 弾き飛ばされたのは怜生だ。が、彼は踏みとどまり、相手を睨み返して地を蹴った。勢いをそのまま生かし、素早い蹴りと拳で攻勢をかける。 律が繰り出す刃の影から、絶妙な間を盗んで怜生が拳を突き出してくる。2人はピタリと呼吸を合わせ、乱れぬ連続技で吸血鬼を後ろへと追い込もうとした。 だが──。 「こざかしい」 まるで怜生の鼻先を吸い込むように、バルタザールの膝が彼の顔にヒットした。さらに横顔に追い討ちの拳を叩き込まれ、声も上げられずに怜生は吹っ飛んだ。 コンクリートの地面に転がり悶える怜生を残し、吸血鬼はくるくるとレイピアを操り、律の薙刀をからめとるように巻き込んだ。武器のコントロールを奪われ顔色を変える律。 それも一瞬。紳士は、律の氣の刃を消すとレイピアを手元に戻しそれをなぎ払った。 ──まずい! 律はその動きを見て本能的に薙刀を胸元に戻した。 間一髪。恐ろしい斬撃を受け、空気が震えたが律は無事だった。が、攻撃はそれで終わりでは無かった。 バルタザールの姿が消えている。 「しまっ……」 次の瞬間、律は腹に強烈な打撃を受けた。彼の身体は宙を舞い、後ろに鎮座していた犬の銅像に激突した。ドガガッという大きな音を立てて、台座の石は何本もヒビを作りようやく少年の身体を受け止めた。 脳震盪を起こし、律は意識を失った。伊達眼鏡が顔から滑り落ちる。 しん、と広場が静まり返った。 「ダウン1回だ。本気で来い」 バルタザールは倒れた少年たちに呟くように言った。彼の愛剣オリバナムが呼応するように長さを伸ばす。この匂い立つ聖剣は意志により形を変えるのだ。 彼は律の方へゆっくりと歩き出した。 「おい、クソオヤジ、服が破れてケツが見えてるぞ!」 そこで無駄に大きな声で吼えたのは怜生だ。ダメージから立ち直った彼は敵の注意を自分に向けようと、背後から一気に間合いを詰める。 バルタザールは言葉に惑わされることもなく、振り向きざまにレイピアを振るった。風を切る音を耳元で聞きながら、怜生は何とその斬撃の下をくぐって紳士に足払いをかけた。 不意を突かれ、バランスを崩すバルタザール。 今だ! 怜生はタッと手をついて相手の背後に回りこむと、拳を耳の下に叩き込んだ。首や後頭部に連続で何発も何発も打撃を加える。いかに吸血鬼といえど、急所は頭や細いところである。 パシッ。が、紳士はその中の一手を拳で掴み取った。 怜生は咄嗟に身体をひねって自分の手を戻した。そのまま退かずに、いきなり地を蹴って自分の頭を突き出す。 それが決まった──! バルタザールの顎に怜生の頭が当たり、鈍い音を立てる。いわゆる頭突きである。 吸血鬼は目をカッと見開いた。効いたか? と怜生が不敵な笑みを浮かべた瞬間、紳士は後方に引いた頭をサッと戻した。 「がっ」 怜生の額に、強烈な頭突きを返してきたのだ。 あまりの威力に、少年は片膝を折ってしまった。頭がくらくらして平衡感覚を保てない。そこへ吸血鬼は無慈悲な追撃を──彼の顔へ膝蹴りを見舞ったのだった。 悶絶し、再度コンクリートの床に転がる怜生。 「──君は、隙をつくのが巧い。しかしそれは小技に過ぎん。技に溺れるな」 「バルタザール!」 淡々と言う紳士に、今度は律が背後から吼えた。 振り向けば、少年は武器を刀に持ち替え真っ直ぐに構えていた。正眼の構えである。 フフ、と吸血鬼は笑った。 「君は様々な武器を使いこなすようだな、いいだろう」 バルタザールはレイピアを両手で構えた。普段は片手で扱うそれに左手を添えて柄を握る。 じりじりと2人は間合いを計るように動いた。街頭に流れる歌謡曲が、この空間に奇妙な味を加える。 先に仕掛けたのはバルタザールだった。洗練されたステップを踏んで突きを繰り出す。足の動きは優美だが、その一撃は洒落にならない威力を秘めていた。 律は剣を受け流すような愚は犯さなかった。さっと身を翻して刀を振り下ろしながら死角へと歩を繰り出す。 シャッ、と返す刀を薙ぎ払えばバルタザールは後方へと退いた。二撃、三撃と加えれば彼は微笑みながら交わしていく。タ、タン! 律は、いきなりタイミングをずらせた鋭い一撃を放った。彼には遊びに付き合う余裕は無く、刀には充分な氣を込めていた。 ──ガキィンッ! 律が切り裂いたのは、吸血鬼が飛び乗った道脇のポールだった。金属製のそれが滑り落ちると、彼はひょいと地上に降り立った。まるで宙を歩くような身軽さである。 だが律はそれを待っていたのだ。 バルタザールが降り立つ位置を予測した彼は、そこに下段からの強烈な斬撃を加えた。力強く踏み出し、身体のバネと全力を込めた一撃だ。 「おっと」 それは僅かに吸血鬼の肩を斬っただけだった。律の全力の一撃はほんの少しの傷を与えただけに終わったのだ。スーツの切れ端を飛ばしバルタザールは笑った。ゾッとするような笑みだった。律は背筋が凍る思いがして──。 次に起こったことは何も見えなかった。 律は顔に衝撃を受けて、もんどり打って倒れた。彼は自分の喉に伸びてきた何かを、本能的に身体をそらせてかわしたのだ。受け身をとらずに倒れていたら即死していただろう。 2回目だな、と手刀を戻し紳士は言った。 「今の君の一撃が、なぜ私に当たらなかったか分かるかな?」 静かに問われ、律は悔しくてギリ、と歯をきしらせた。 「君の攻めは的確で正確だ。しかしそれ故に次の一手を読みやすいのだ」 紳士はそう言うと、懐からわざとらしく金色の懐中時計を出し時間を確認した。まるで待ち合わせの時間を気にするかのように。 「あと5分か。しかし──弱すぎるな君たちは。私の見込み違いか?」 バルタザールは息を吸い込む素振りを見せた。立ち上がった少年2人は、侮辱に怒る間もなく身構えた。何かが来る──! 舞うような気取った仕草で腕を振るうと、そこから衝撃波が生まれた。 止めなければ、回りを取り囲んでいる人々に当たってしまう。律は武器を棍に持ち替えて全身でそれを受け止めた。 「ぐっ……」 彼の服を細かい刃が切り裂いた。律は丹田に力を込めその場に踏みとどまろうとしたが──無理だった。 背中から後ろに倒れてしまう律。しかしすんでのところで衝撃波を上空へ逃がすことができた。 一方、怜生は後方が車道だったため飛び上がって衝撃波をやり過ごしていた。 「小技だなんて言わせねえぞ──!」 紳士の頭上から、彼は勢い良く氣を両手から放った。友人が稼いでくれた時間で貯めた氣をありったけ注ぎ込んだ渾身の氣砲だ。 さすがの紳士も逃げ場がなく、その直撃を食らった。ドオォンッ! 怜生の氣砲は地面のブロックを粉々に破壊し、辺りにはもうもうと土煙が沸き起こる。 ──シャッ! 怜生が目を凝らした瞬間、黒い影が飛び出した。両腕でブロックするも、相手の体当たりを受けて怜生は後ろへ突き飛ばされた。 しかしそれだけで終わらない。至近距離で見たバルタザール──頬をざっくりと切られた紳士はニヤっと笑い、怜生の腕を掴んだのだ。 ぐるんと怜生の視界が一転する。彼は背中から地面に叩き付けられていた。 「怜生!」 ダウンを取られた怜生は友人の声にハッと意識を取り戻す。立ち上がろうとした時、律が風のように駆けてきて、彼を助け起こしてまた跳んだ。 すると、今まで怜生が居たところを乗用車が勢いよく走り抜けていった。 律は車道の真ん中で倒れた怜生を助け、横断歩道を向こうへと渡りきったのだった。 ピポ、ピポ。広場に響く間抜けな赤信号の音──。 大きな横断歩道を挟み、対峙する両者。目の前を行き交う車の向こうで、バルタザールが駅側の歩道の縁に立ち、ハンカチで顔の傷を拭いているのが見える。少年たちはぜえぜえと息を切らし、互いに目を合わせた。 怜生は車の陰に隠れるように氣弾を放った。要はこのまま吸血鬼と距離をとり続ければいいのだ。こちらに来させないように、彼は天才的なコントロールで、バルタザールの手や足を狙い撃った。 紳士は不愉快そうな顔を見せつつオリバナムを振るった。香りの矢を放つが車に当たりうまくこちらには届かない。 そうこうしているうちに信号が青に変わった。 人々が横断歩道を渡り出す──そのほんの一瞬に、バルタザールが姿を消していた。 怜生は唇を噛みしめ、律は目を閉じた。 周りに存在する多くの気配。その間を縫って殺気が一筋──! 反応した律は目を開き、棍を突き出した。 全く気付かず歩いているカップルの後ろで、バルタザールの剣と律の棍が交差する。怜生も紳士の背後に迫った。 しかし律は相手の力を受け流そうとして、はたと手を止めた。その方向に幼い女の子を連れた母親がいたのだ。 律は無理に腕をひねった。 「律!」 友人の声むなしく、彼は腕を起点に一回転し、派手に背中から地面に叩きつけられていた。すぐに身を起こそうとして彼は苦痛の声を上げる。 右腕の肘が真っ赤に腫れ上がっていた。 さらにバルタザールは身体を翻し、背後に長い足で蹴りを放った。それが迫っていた怜生の腹に見事にヒットする。律に気を取られていなければかわせた一撃だった。 あとは同じだ。紳士は間髪入れず跳び、腕で怜生の首を引っかけて背中を地面に叩きつけた。強烈なラリアットだ。 畜生! と叫ぶ怜生。歩行者用信号が点滅し、そろそろ赤信号に変わろうとしている。 もう我慢がならなかった。なぜこんな目に遭わねばならない? しかもこんな往来で。怒りがふつふつと沸いてくる。 立ち上がった時、律と目が合った。腕を折られたのかもしれないというのに、彼は静かな目をしていた。そこに怒りの色はない。 思えば──なぜ律と気が合うのだろう。 ふと怜生は思った。全く性格が違うというのに、なぜだかしっくりくる。よく意見が割れるが、それはそれ。怜生は彼といると楽しかった。 「怜生、力を合わせよう」 足早に歩いていく人波の中で、律が短く言った。 「俺の攻撃は読まれる。でもお前のは違う」 「あのオヤジには氣砲が効かなかったぜ?」 「氣砲だからさ。力を一点に集中させれば──ッ!」 言葉を途中で切り、律と怜生はパッと跳び退いた。バルタザールがその場で剣を一閃すると同時に、車道の信号が青に変わって車が走り出した。 3人がいるのは、まだ車道だ。クラクションを鳴らしながら車が走り出す。 再度、刀を取り出した律はそれを左手に、バルタザールの気取った仕草をわざと真似て突きを繰り出した。細かく、鋭い連撃だ。 紳士は幾分かムッとした様子で反撃しようと踏み込んできた。律は身を引き、走り出した車の陰に隠れる。 車を避けようとバルタザールがステップを踏めば、その足元に怜生が氣弾を何発も放った。 「こしゃくな!」 吸血鬼は高く跳び、車の来ない方へ着地しようとした。それを追うのが律だ。彼は小刀を氣で飛ばしバルタザールのバランスを崩そうとする。 ひらりと華麗に宙で一回転し、紳士は地面に着地した。 しかし──。 「いらっしゃーい」 その背後で、すでに怜生が棍を降りかぶっていた。律が予め放っておいた武器を彼が手にしたのだった。 何っ! とバルタザールは驚くが振り向く時間はない。 今度こそ、全体重と氣を込めて怜生は友人の棍を振るった。棍は見事に相手の背中にヒットし、にぶい音をさせて吸血鬼は吹っ飛んだ。 とはいえ、バルタザールはザザァッと両足を踏ん張り倒れなかった。鋭い目つきで怜生を睨み返す。 「なかなかやるな。だが──」 キキーッ! ドンッ。 バルタザールは最後まで言い終えることなく、車に轢かれた。 道路に突っ伏す紳士の背を、大型パネルからこぼれる明かりが照らした。画面が切り替わり19時のニュースが始まったのだ。 律と怜生は歩道に退きお互いの顔を見合わせた。ニカッと微笑む。 2人は自分の足でしっかりと大地に立っていた。 試合が終わったのだ。 「──君たちの勝ちだ」 いつの間にか彼らの背後にバルタザールが立っていた。服はあちこちが破け、優雅さも見る影もない。 しかし彼は不思議と清々とした様子に見えた。紳士は鼻を鳴らすとくるりと背を向けて片手を挙げて去っていった。 あまりにもあっけない結末だ。 周りの人間たちも、あれだけの戦闘があって様々なところが壊れているというのに、そ知らぬ顔である。都会の人間の業なのか、バルタザールの魔術によるものか。いずれにせよ2人に注目している人間はすでに誰も居ない。 「なぁにが観客だよ」 怜生がそう漏らすと、律はただフッと笑った。犬の銅像のそばまで行き、落ちていた自分の眼鏡を拾うと友人を振り返る。 「帰ろうぜ」 「ああ」 * * * そして後日の放課後。 下校の際、また下駄箱が匂っているのに気付いて、律と怜生は顔をひきつらせた。 戦々恐々と扉を開けてみると、そこには真新しいピカピカのサテンブーツが置かれていて、手紙が入っていたのだった。 中には、こうあった。 ──またやろう。これは私からの贈り物だ。 「誰がやるか、ボケ!」 「要らねー!」 (了)
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