浅葱色の暖簾が風を帯びて揺れている。 0世界の一郭にひっそりとたたずむ一軒の長屋にも似た見目のそれは、便宜上、御面屋と呼ばれている。事実、暖簾の奥には平台があり、ヒョットコ面をつけた店主が手掛けたのであろう、様々な面や根付け、それに駄菓子などが雑然と並べられている。それらにはそれぞれに何らかの効力が備わっているらしい。時おり訪れる客人たちがそれらを試し、それぞれに様々なものを”見て”いくのだという。 けれどその日、暖簾をくぐり中に入った客人たちが見たのは、店主であるヒョットコ面の男ではなく、つるばみ色の単着物に中羽織を合わせた男の姿だった。男は来客の姿を見とめると眼鏡の奥の切れ長の黒い双眸をゆるりと細め笑みを浮かべる。「やあ、いらっしゃい。ちょうどいいところに来ましたね」 言って、男は短めに整えた黒髪をさらりと揺らしながら立ち上がる。 何かあるのかと問うた客人の声にうなずいて、男は畳の上を滑るように歩き、商品の並ぶ平台の端に手をかけた。「百鬼夜行というものをご存知ですか?」 言いながら白く細い指を動かす。平台はカタリと音を立てて持ち上がり、細い通路が出来た。お時間があれば、どうぞ。そう言い足しながら客人の足を促すように腕を伸ばす。「まもなく、奥で酒宴が始まります。ええと……ヒョットコとでも言いましょうか。この一郭は彼が作り出したチェンバーなので、月に一度、この奥にある庭先で満月を見ることが出来るんです」 畳の間の上に置かれた行灯が仄かな光を落としている。男は畳の上にあがるのを戸惑っているような素振りを見せている客人たちに笑みをみせ、奥の襖に手を伸べた。「そうだ。僕のことは雨師とでも呼んでください」 開かれた襖の向こうには板張りの廊下、そして左右に開かれた障子窓と、その向こうに雨戸があった。雨戸の向こうには広くも狭くもない庭がある。「おや、こいつァ皆さんお揃いで」 襖を抜け板張りの廊下に足をのせた一同に、庭の中に立っていたヒョットコ面の男が声をかけた。作務衣の上から羽織をまとい、その手には番傘を提げている。「雨師が皆さんをここへ? へェ、なるほど。せっかくだ、どうでやんしょう? 飯や酒や茶の用意ならありやすし」 面の下、ヒョットコは笑っているようだが、相変わらず表情はうかがえない。 庭を包むのは深々とした夜気だ。見上げれば見事な満月がぽっかりと浮いている。かかる雲もない、穏やかに晴れ渡った夜空だ。にも関わらず、空気は湿っている。今にも雨が降り出しそうな気配が空気を満たしているのだ。「宴席の用意も出来ましたよ」 衣擦れの音と共に廊下の奥から姿を見せた雨師の声がする。雨師は廊下の隅から膳を出してきて、その上に徳利やら猪口やら、湯のみやら急須やら――酒と茶のほかにグラスの用意まであるのを見るかぎり、ジュース類の用意もあるのだろう。 安穏とした笑みをたやすことなく宴席の用意を続けている雨師の横で、ひっそりと音もなく雨が降り出した。庭ではヒョットコが番傘を広げている。 けれども、空には変わらず満月がぽっかりと照っているのだ。「春に降る雨は、あっしなんかのいた世界じゃあ催花雨とも言いやしてねえ。まァ、風流でやんすよねェ」 まあ、ここじゃァ季節もなんもありやせんがね。言いながら、番傘をくるくる廻しヒョットコが空を仰ぐ。「さあ、お座りください。酒も茶もジュースもあります。軽い食事も甘味の用意もあります。それとも庭先に下りてみますか? そろそろ妖怪たちも参りましょう」 妖怪? 訊き返した客人たちに向け、雨師が細い目をさらに細めて笑みを浮かべた。「お疲れでしょう。ひととき、こちらでゆるりとされていってはいかがですか?」
庭に下りようとしたキリル・ディクローズは雨師に名を呼ばれ、振り向いて軽くまばたきをした。鼻先から伸びたひげが小さく揺れる。 「いま、ぼくの名前、名前、呼んだ?」 「はい。春先とはいえ、夜気を含んだ雨はお身体を冷やします。これをお持ちください」 差し出されたのは庭にいる御面屋がさしているものと同じ番傘だ。持つと存外に重量感がある。 「ありがとう。ありがとう、雨師さん」 ふわりと首をかたむけ、視線をゆるめた。その先では雨師が穏やかに笑んでいる。 番傘を広げ、庭に立つ。なるほど確かに、空気は少し肌寒さを感じる程度に冷えていた。 庭の中には梅やしだれ桜、椿。そういった花や名も知れないような緑が、風を受け葉擦れの音を落としていた。 雨は音もなく降っている。細かな粒をうけて、庭の草花はひっそりとした夜の夢の中にあるようだ。 「こういう雨を、小糠雨とも言うんでやんすよ」 うっかりと草花を踏んづけてしまわないよう気をつけながら歩くキリルを、ヒョットコが見ている。その面の下にあるのであろう顔がキリルをまっすぐに捉えているのかどうかは、判じようがないが。 ヒョットコに声をかけられて、キリルは「こぬかあめ」とヒョットコを真似て続いてみた。 辺りには夜の帳がおりている。灯篭のたぐいは置かれていない庭先は、本来ならばぼんやりとしか姿を見せはしないはずだ。にもかかわらず、こうして視界を得ることが出来ているのは、頭上にひらめくあの月が落としている光のせいだろう。 「みゅ」 番傘のずっと上、雨の中ゆらゆらと浮かぶ月を仰ぎ見ながら、キリルはふと口を開けた。 「狐、狐の嫁入り」 「おや、物知りでやんすね」 ヒョットコの声が耳に触れて、キリルは耳に触れた雨の雫をはねとばすように震わせてからヒョットコに目を向ける。 「ぼく、ぼく聞いたことがある。太陽や月が出てる間に降る雨、雨の中の、妖怪、妖怪たちの大行進。たしか、狐、狐の嫁入りって言う、言うときもあるんだった、かな」 「言うようですねえ」 ヒョットコがうなずいたのを見て、キリルは数歩、ヒョットコのそばに近付く。 「ええと、あの、あの、御面屋さん、御面屋さん」 キリルが呼ぶと、ヒョットコは番傘をくるりと廻しながら首をかしげた。 「根付け、ありがとう、ありがとうございました」 「根付け?」 礼を述べ、ぺこりと頭をさげたキリルに、ヒョットコは「さて?」と言って月を仰ぐ。 「クリスマス、クリスマスに、御面屋さんから根付け、根付けもらったよ」 「クリスマス? ああ、なるほど」 思い出したようにうなずいたヒョットコに、キリルはもう一度深々と頭をさげて、ようやく礼を言えたことに対する安堵だろうか。まるで大事な使命をひとつ終えることが出来たかのような表情を浮かべている。 ヒョットコはキリルの頭をやんわりと撫でた後、「ああ」と声を落とした。 「百鬼夜行が始まったようでやんすよ」 庭先でキリルが驚嘆の声をあげている。 雨師から借りた肘置きに軽く身をもたれながら、リエ・フーは猪口をゆるりと口に運んだ。夜気にひらめく金の双眸は、キリルとヒョットコを取り囲むいくつかの影を捉え、笑みのかたちを描いている。 ひょう、と強い風が刹那庭を揺らしたのだ。そして現れたのは数体――数人、と称するべきなのだろうか。大きな骸骨を先頭にした妖怪たちの群れだった。妖怪たちに囲まれて、キリルは驚きと歓喜の声をあげている。 「に、してもだ。季節のないターミナルで月見酒たぁ、酔狂な思いつきだよなあ」 猪口の中、揺れる酒の上に月が浮いている。その月を一口にあおるようにして、リエ・フーは酒を干した。 「同感だ。……ところで君はまだ少年であるように見受けられるが、酒など飲んで良いのか?」 隣に座していたのはアマリリス・リーゼンブルグだ。アマリリスは常身につけている騎士を彷彿とさせる装束ではなく、濃紺地に縞柄の浴衣をまとい、髪は後ろでゆるくまとめている。郷に入っては郷に従えという壱番世界の言葉に倣ったのだという。 「あ? 固いこと言うなって。俺ァ、こんなナリでも八十超えてんだ」 「ほう、それは失礼をしたな。詫びといってはなんだが、手酌ではなんだろう。私の酌はいかがか?」 「ん? おう、じゃあひとつ頼むとするか」 言って、リエ・フーはアマリリスに笑みを見せる。差し出された猪口に酒を注ぎいれながら、アマリリスもふと笑みを浮かべた。視線の先、リエ・フーのセクタンがいる。フォックスフォームをとったセクタンもまた、主に倣い猪口を抱え持っていた。 「君もイケる口なのか?」 アマリリスが声をかけてやりながら酒を差し出すと、横からリエ・フーが口を挟む。 「楊貴妃って言うのさ。そいつもイケる口だ」 「そうか。ふふ、主に似たのだな」 「だろうな。あんたはどうなんだ?」 「私か?」 問われ、アマリリスは青の双眸をまばたきさせた。 「美人の酌の礼だ。俺の酌で良けりゃ、あんたも飲め」 リエ・フーがアマリリスの猪口に酒を注ぐ。アマリリスはゆったりと眦を細め、「いただこう」そう言うと、一息に酒を干した。 その傍ら、鍛丸は緑茶と和菓子を食しつつ、ぼんやり月を仰ぎ見ていた。 雨師が運んできた膳の上には多種な和菓子が並んでいた。わらび餅、道明寺。色彩鮮やかなきんとんを使い花を模した菓子やら、よもぎ大福やちまき。いずれも雨師の作なのだという。鍛丸はその出来栄えに感嘆の意を示し、雨師は眼鏡の奥の目を細め丁寧な礼を述べた。 「ねえねえ、お酒飲まないのー?」 座ったままずりずりと鍛丸の横に寄ってきたのはシャンテル・デリンジャーだ。シャンテルはもうすでに何杯か酒を飲んでいるらしい。ちょっとほろ酔い気味に顔を薄赤く染めている。 「儂は一応、成人しておらんからのう」 「ふーん、そっかー。とりあえず、よくわかんないけど、良い雰囲気だよねー」 言って、シャンテルは間近にあった膳をずりずりと引き寄せた。その上に並んでいる徳利を手にとって中身を覗き込む。徳利の中には酒が波をうち揺れていた。 「せっかくだしさあ、美人さんとかにお酌してもらいたいんだよねえ」 リエ・フーに酌をしているアマリリスを羨ましげに見つめた後、シャンテルはあぐらをかいて座る。 「儂の酌ですまんのう」 膳の上から別の徳利を取り、鍛丸は困ったように笑いながらシャンテルを見上げた。シャンテルは猫のそれに似た瞳をぱちくりとさせた後、弾むような笑みを満面にたたえて居住まいを正す。それから仰々しい所作で猪口を差し出し、ぺこりと軽く頭を下げた。 「ありがたくちょーだいつかまつるでござる」 「また面妖な言葉遣いじゃのう」 鍛丸は笑う。つられてシャンテルもニカッと笑った。 「あの夜行の中に、もしや別嬪がおるやもしれぬのう」 ひとしきり笑い合った後、鍛丸はふと視線を上げて庭に向けた。 百鬼夜行はもう揃っているらしい。キリルは彼らに囲まれ脅されたり笑ったりしていたが、ほどなくしてヒョットコと共に縁側に向かい走り寄ってきた。夜行もそれに続く。 「そういうことであれば、そうですね……あ、いました。二口さん、お久しぶりです」 ふたりの会話を聞いていたのだろうか。雨師が鍛丸の隣に立って夜行に向かい手を振った。 シャンテルは酒を口に運びつつ、雨師の視線を追って検めてみる。そこには和服を身につけた美しい女の姿があった。 「まあ、お久しぶりね、雨師」 雨師に招かれ寄って来た女は雨師に向かい軽くあいさつを済ませると、続いて鍛丸とシャンテルに顔を向けた。 「わたくしの酌でよろしいのでしたら、喜んで。今日は金毛も来ていますのよ」 言って、二口は袖で口許を隠し薄く微笑む。 「金毛?」 訊ねた鍛丸にうなずいて、二口はちらりと振り向き、夜行に戻っていった。 「二口は二口女と言いまして、文字通り、ああして見えている顔の他、結い髪の中にももうひとつ口を持つんです」 雨師が説明をする。シャンテルは「へえー」と目をひらめかせると、ひょいと身を起こし縁側の外へ躍り出た。次の瞬間その体は人のそれから猫のそれへと変じ、艶やかな美しい猫はそのまま二口を追って夜行の中にまぎれていった 「みんな、みんなもターミナル、ターミナルで暮らしているの?」 夜行の中に見つけた狐の子の隣を歩きながらキリルは問いかけた。狐の子はまだ上手に化けられないのだという。キリルよりも幼い人の子の姿に狐の尾を揺らしながら「そうだよ」とうなずいた。 ここで夜行を組んでいる妖怪たちもまたそれぞれの世界を失い、以来、ターミナルで暮らしているのだという。彼らの中には”妖怪”という呼び名のされていなかった者もいるようだが、時どきこうして集まっては宴席を設けているのだというのだ。 雨は降り続いている。見れば、縁側から一匹の猫が走り寄ってくるのが知れた。 「猫、猫だ」 猫を抱き上げようと身を屈めたキリルの前で、猫――シャンテルは再び人の姿へと変じ、そして懐こい笑みを浮かべる。 「あ、ええと、ええと、シャンテル!」 「うん。きみはキリルだっけ。ねえねえ、その子、狐?」 「そうだよ」 狐の子は尾を振る。 「ふうん、そっか。ねえねえ、お母さんとかお姉ちゃんとかいないの?」 「おいら、母ちゃんとははぐれちゃったんだ。でも新しく姉ちゃんができたよ」 シャンテルの問いに応え、狐の子は少し離れた場所を指で示した。その方角に目をやると、二口が若い娘と親しげに話をしているのが見えた。 「そっか、ありがとう!」 言い残し、シャンテルは二口と娘の方に走っていった。 「すごい。すごいね。見た? 見た? シャンテル、シャンテル、さっき、猫だったのに人に、人に変身した」 「みた、みた。あの子も”妖怪”かなあ」 「!! シャンテル、シャンテルも猫の妖怪!?」 狐の子と言葉を交わしながら、キリルは感心したように目を輝かせてシャンテルの背中を追う。 シャンテルはそんな誤解をうけていることなど知るべくもなく、今は二口と娘――金毛と呼ばれている妖狐と戯れていた。 気付けば縁側に腰を落としていたヒョットコや、周囲を囲み酒席を始めていた妖怪たちを横目で見やりつつ、リエ・フーは相変わらず自分のペースで酒を楽しんでいた。 空には望月。庭木を音もなく叩く夜の雨。賑やかな妖怪たち。決して上等な酒ではないのかもしれないが、供されるもの総てが美味い。中には都都逸を唄いだす妖怪もいた。 「酒は足りてやすかい?」 声をかけてきたのはヒョットコだった。常であれば面でその下の顔を隠しているヒョットコも、面があっては酒が飲めないのだろう。面はわずかに横にずらされて、その下からゆらりと笑んだ口許が覗き見えていた。 「ああ、大丈夫だ」 応えたリエ・フーの足もとに、小さな犬のかたちをした妖が一匹、ちょろちょろと動き回っていた。 「すねこすりでやんすね」 「雨の降る夜に現れるってやつか」 「よくご存知で」 「昔、客だった軍人がな。そいつからよく絵草子を見せてもらったんだよ」 「なるほど。あやかしが好きな軍人さんだったんでやんすねェ」 小さくうなずき、ヒョットコは酒をあおる。リエ・フーはそのまましばしの間足もとのすねこすりを見ていたが、ほどなくしてリエ・フーの足に身を寄せて眠ってしまったのを検めると、脇にいる楊貴妃の杯に酒を注ぎいれた後にヒョットコに向き直った。 「あんたもどうだい?」 「いただきやしょう」 笑い、猪口を差し出してきたヒョットコに酌をする。 「あん時ぁ、イイ年した大人が何をって嗤っちまったもんだがな。今思えば、俺たちだって妖怪みてぇなもんさ」 「ほう?」 「だってそうだろ? 永遠に年も取らねぇ、姿も変わらねぇ。普通に老いて死んでく奴らからすりゃ、化け物以外の何者でもねえだろうさ」 なまじ人と同じ姿をしているだけ、余計にタチが悪ぃや。そうごちて、リエ・フーは自嘲気味に喉を鳴らした。 「まぁ、そうかもしれやせんねェ」 ヒョットコは否定するでもなく、しかしうなずくわけでもなく、注がれた酒を口に運ぶ。 シャンテルが二口や金毛と連れ立って縁側に戻って来た。彼女たちは雨師が差し伸べた手拭いで軽く身を拭いた後に縁側にあがり、きゃいきゃいと盛り上がりながら酒席を始める。そこに酒瓶を抱えたアマリリスが寄っていき、場はちょっとした女子会の様相を呈していた。 「そういえば、君は壱番世界の出なのか?」 シャンテルに酒を注ぎいれてやりながら、アマリリスはふと視線を上げて雨師を見た。雨師はアマリリスの顔を見返して穏やかに頬をゆるめる。 「似たような世界ではありますが」 「ほう、違うのか。壱番世界に行ったことは?」 「数度ほど」 「ならば君は見たことがあるのかな。壱番世界は今、春を迎えているようだな。壱番世界の桜は美しいと人伝に聞いたことがある」 気持ち身を乗り出して訊ねたアマリリスに、雨師は「ああ」とうなずき応えた。 「壱番世界の桜は一度だけ見たことがありますよ。僕がいた世界にも桜は咲きましたが、壱番世界の桜も、やはり、等しく美しいものでした」 「君の世界の桜も美しいのだろうな。満開の桜並木というものを、ぜひ一度歩いてみたいものだ」 目を輝かせたアマリリスに眦をゆるめ、雨師は軽く会釈をした後に廊下の奥へと姿を消した。どこへ行くのかと訊ねた鍛丸に、客人が増えたので肴を増やしてくるのだと言って笑った後に。 雨師の背中を送った後、鍛丸は三つ目となる和菓子をどれにするかしばし悩んだ後、口直しのための塩昆布に手を伸べた。 「人とこうして満月なんぞ見るのも、どれぐらいぶりじゃろうのう」 しみじみとした口ぶりでごちる。近くには木の枝を抱え持った、てのひらに乗りそうなサイズの子どもが三人ほど座っていた。子どもは皆同じ顔をしていて、枝をかさかさと揺らしては鍛丸の顔を仰ぎ見る。 「おんしら、名はなんと申すのじゃ?」 訊ねてみるが応えはない。否、正しくは、応えはある。 「おんしら」「名は」「なんと申すのじゃ?」 子どもたちは同じ顔、同じ動きで応えを述べる。だがその声音は鍛丸のものにそっくりだった。 しばし考えたのち、鍛丸は得心したようにうなずいてから笑みを浮かべる。 「おんしらは木霊じゃの?」 訊ねるが応えはない。ただ鍛丸の言葉がそのまま返されるばかり。鍛丸は小さく笑って、桜を模したきんとん菓子をみっつ、懐紙を皿に見立てて用意してやった。木霊たちは互いの顔を見合わせ、それから鍛丸の顔を検めてから、木の枝を抱え持った小さな手で菓子をとりもそもそと口に運ぶ。 「子どもの頃によく遊んだ桜の木は年をとったものじゃったなあ」 言って、記憶の中に咲く桜の花を思い出す。その花霞の中、微笑む女の声が脳裏をかすめた。懐かしく目を細めながら、鍛丸は木霊たちに向けて言を落とす。 「あの桜にもおんしらの仲間が住んでいたのやもしれぬのう」 いや、今も住んでいるのかもしれない。 しかし、木霊たちは応えない。菓子を食しながら「のう」「やもしれぬ」と返してよこすだけだった。 鰯を梅干しで煮たものが並んであるのを見つけて、シャンテルは骨ごとボリボリと食した。膳に並ぶ料理は魚や野菜を使ったものが多いような気がする。魚料理はシャンテルの望むところだ。目に付く魚料理を片っ端から口に運んだ。 食し終えた後、シャンテルはふとアマリリスが着ている浴衣に目を向けて首をかしげた。それから自分が着ている服をぐるりと検めて、何事かを思いついたのか、ぴょこんと立ちあがり雨師を追って消えていった。 ヒョットコを相手に他愛もない会話をぽつりぽつり落としていたリエ・フーは、雨をものともせずに庭の中で酒を飲む夜行たちを見つめて頬をゆるめる。 「仲間ってのはいいもんだ。俺ぁ、役得で客のご相伴に預かったりお袋の酌のせいもあって、酒には随分と鍛えられたもんさ」 「ほう」 ヒョットコはうなずく。リエ・フーの懐古を聞いているのか流しているのか、面の下に覗く口許には変わらず笑みが浮いていた。 「あん時の客もお袋も、愚連隊の仲間もみぃんな死んじまった。長生きするつもりなんざこれっぽっちもなかった俺だけが長らえているのも、皮肉な話だよな」 自嘲めいて口角を吊り上げたリエ・フーに、ヒョットコは「うーん」と喉を鳴らし、口を開く。 「語り継ぐ者がいる限り、誰かの記憶に残り続けていく限り、誰も死にゃぁしねえと、あっしは思うんですがねえ」 楊貴妃が小さな杯を持って首をかしげる。リエ・フーはちらりと横目にヒョットコを見たが、ヒョットコは月を眺めているばかり。リエ・フーのことなど見てはいないようだ。 「みぃんな、いまも、リエ・フーさんのお心ん中で息しているんじゃァねえんですかい?」 言って、ようやくヒョットコの顔がこちらに向いた。リエ・フーは横目にそれを確かめて、ふと笑みをこぼしわずかの間うつむいた。 「中国にゃあ、水面に映った月を掴み損ねて溺れ死んだ詩人がいるんだ。知ってるか?」 「いや、あいにく」 「牀前看月光 疑是地上霜 擧頭望山月 低頭思故郷」 即興で音階をのせてそらんじる。庭の夜行たちが騒ぎを沈め、しばしその声に耳を寄せた。 「その詩人の詩さ。こういうのを覚えてうたえば喜ぶ客なんてのも、中にはいたからな」 「ほう」 ヒョットコは、やはり聞いているのか流しているのか。酒を口に運ぶばかりだ。しかしリエ・フーは気を悪くするでもなく、むしろどこか楽しげに目を細め、猪口の中の月を見る。 「月に焦がれて往生なんてなあ、羨ましい死に様さ。手が届かねぇからこそ欲しくなる。お宝ってなぁそんなもんだろ」 誰に言うともなくそう落とし、月ごと酒を一息に干した。 「君は壱番世界の出身か?」 酒瓶を抱えた浴衣姿のアマリリスが鍛丸の隣に座る。 「む? そうじゃが」 「ほう。ならば桜を見たこともあるのだろうな」 「アマリリス殿は見たことがないのかの?」 「残念ながら、壱番世界の桜にはまだ縁を持てずにいる。さぞかし美しいのだろうな」 アマリリスに酒を勧められたが、これを断り、鍛丸は湯のみを口に運んだ。 「またとない光景じゃ」 脳裏に浮かぶその美しい景色をどう説明したものかわからず、鍛丸はただ簡素にそう返す。だがアマリリスは感嘆の息をもらし、月を仰いで猪口に注いだ酒を干した。 「アマリリス殿の故郷には妖怪やら鬼なんぞはおらぬのか?」 「妖怪や鬼という名の者はいなかったな。翼人と呼ばれる者ならいたのだが」 「ほう。それはどういう者なのじゃ? 妖のようなもんかのう」 訊ねた鍛丸ににやりと頬をゆるめ、アマリリスはわずかに首をかしげた。 「君がいま目の前にしている者も翼人なのだが」 言って、おもむろに背に伸びる白銀の両翼を震わせた。それまでは単に不可視の状態にしていただけなのだが、突然可視にしたことで、あたかも突如現れたかのようにも見えるだろう。 鍛丸は目を丸くして幾度か瞬きさせた後、「おんしも妖怪じゃったのか!」と感嘆の声をあげる。少し離れた場所ではキリルがやはり感嘆の息をついていた。 「天使、天使だったんだね」 「天使というと語弊があるようにも思うのだがね」 肩ごしにキリルを見やってそう応え、アマリリスは悪戯めいた笑みを浮かべた。 「さあ、飲もう。まだゆっくりしてもいいのだろう?」 「一向にかまいやせんよ」 ヒョットコは笑う。 キリルは夜行たちに呼ばれて輪の中に戻り、彼らの語る話に耳をかたむけた。彼らの語る話は彼らの出身世界における思い出が中心となったものだった。どれもキリルには初めて聞く話ばかりで、キリルはみゅーみゅー言いながらいちいちうなずく。 謂われなき罪科を被せられ陰陽師に追われた妖怪の話は恐ろしく、雨のしずくをためた葉が露を払い落とす音にも体を跳ね上がらせて驚いた。 「ぼく、ぼくの話も聞きたい?」 妖怪たちがはやし立てる。キリルはみゅーと首をかしげた後、ふとヒョットコの顔を見つめた。ヒョットコがそれに気付きキリルを見る。口許にやわらかな笑みがあるのを見て、キリルは小さくうなずいた。 「ぼく、ぼくヒョットコさんから、ヒョットコさんから根付けをもらった、もらったんだ」 クリスマスのプレゼント交換で、願をかければ会いたいひとと会えるという効力が宿った根付けが届いた。送り主はヒョットコだった。 目を閉じて空気のにおいを感じる。あの日、うたっていた森の音を思い出した。 「ぼく、ぼく、じいじに会いたいって思ったんだ」 ばたばたと廊下を走る音がして、現れたのは男物の浴衣に着替えたシャンテルだった。その後ろを雨師がついて歩く。 「雨師に借りたの! どう? どう?」 浴衣を身につけるのは初めてなのだろうか。シャンテルは嬉しそうに両腕を広げくるくるとまわる。大きさは多少合ってはいないが、雨師が帯を締めてくれたのだろう。きちんとした着こなしになっていた。 「あなたの浴衣をお借りしましたよ」 「かまいやせんよ」 言葉短くそう交わし、雨師とヒョットコは互いに見合って小さく笑う。 「さあ、肴の追加も用意できました。菓子もまだあります。なんでしたら酒も茶もヒョットコの秘蔵を出しましょう」 言って、雨師が目を細ませた。 「それは楽しみだ。――ああ、そうだ。興のひとつに、こういうものもどうだろう」 言って立ち上がったのはアマリリスだ。アマリリスはやはり酒瓶を抱えていたが、もう一方の腕を空に向けて伸ばし、そして軽く一度指を鳴らす。 歓喜の声をあげたのは誰だっただろう。 満月の下、降る雨が桜の花びらへと姿を変えた。それはアマリリスの手による幻影だったのだが、空から降る数多の花はそうとは見えず美しく、見事だった。 妖怪たちがうたを唄う。長唄であったり、都都逸であったり、あるいはリエ・フーがうたった詩を真似たものだったりもした。 月は花の向こう、変わらず仄かに輝いている。
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