普段は夜にのみ賑わう『月陰花園』だが、今日は違った。 花街を仕切る大門が開かれている。開かれた大門にかけられた五色の布が風に舞い、大門の両側の検分所から色とりどりの花びらが振りまかれている。 いつもなら入れない女子どもがいそいそと中に踏み込んでいくのは、年に一度の祭り『月麗祭』のためだ。『月陰花園』一番の娼館と娼妓を決める祭り、この日だけは無礼講、花街の娘も思い思いに着飾り、店が粋を競って出す小物屋や屋台店を覗いて回る。「花はいらんか、花はいらんか」「はっ」「月はどうじゃ、月はどうじゃ」「よっ」 往来を普段は表に立たない、花街の男衆が揃いの黒衣に金の帯を締め、列を組んで声高に呼ばわりながら踊り歩いていく。中央に武道のような型を決めつつ踊る若衆の一群、周囲を取り巻く年配の男衆は、それぞれ手に店一番の娼妓を描いた絵札を持ち、道行く人に手渡していく。「ずいぶん賑やかだネ」 ワイテ・マーセイレがくるりくるりと瞳を回した。受け取った絵札を一つ一つ眺めていく。『幻天層』の華宇海妓、『金界楼』の金剛砂妓、『闇芝居』の暗闇姫妓、『銀夢橋』の涙宮妓……。「『双子華』の絵札がないネ…」「この辺りにあったはずだろ」 リエ・フーは店構えを確認しながら黄金の瞳を煌めかせ、眉を寄せる。 続く紅格子、狭い畳敷の店前にはいつもなら娘達が並んで媚を売るはずだが、今日はそこには美しい着物や簪、帯に飾り紐、見事な細工の化粧道具などが置かれている。通りすがりの娘達がほれぼれと眺める金糸銀糸、立ち止まる男はつけられた値札に一瞬眉を寄せつつ、小さく溜め息をついて店に入っていく。「今年は『幻天層』だろう」「いやいや、暗闇姫もたいしたもんだぜ」 熱心に話しながら通りすぎていく男達の背後、それぞれの店には人の背の半分ほどある絵姿が貼られている。「『双子華』はどこだ?」 リエの懐には『胡蝶の石』があった。ファミリーの我がまま太太、ヴァネッサの依頼で一旦はリーラから持ち去ったものだが、どうにも納得いかず、ついに『エメラルド・キャッスル』に忍び込んで奪い返してきたもの、自分が持っていても仕方がないとリーラに返そうというのだが、彼女の務める『双子華』の看板が見当たらない。確かに、普段と違い、店構えの飾りも変えられ、同じような店ばかりではあったが、繰り返し関わってきた『双子華』を探し損ねるわけはない。「もう閉めてしまったのかしら?」 リーリス・キャロンがふわりと金髪を舞わせ、オニキスの指輪を嵌めた指を唇にあてつつ、周囲を見回し首を傾げた。視線の先に数人、固まったように動きを止めた男がいるが、それは軽く無視していく。「…」 その隣で厳しい顔になった相沢 優は、以前と比べて頬に鋭い線が浮かぶようになった。柔らかで甘い笑顔に見え隠れする強さ、娘達もそれとなく視線を送るが、優は何か考え込んでいて視界に入っていない。だが、その『男』の気配に上客と踏んだのだろう、通りかかった男衆が手にしていたチラシを渡してくる。「花はいらんか、月はどうじゃ」「あ、いや、俺は…」 断ろうとした優は、そのチラシに目をやってはっとする。「どうしたにゃ?」 黒猫の獣人、フォッカーがちょっと背伸びをしつつ、チラシを覗き込む。「えーと…『月麗妓』招来。今宵『月陰花園』壱番座をお選び下さるのは皆様です。ご贔屓のお店、ご贔屓の娼妓が皆様のお声をお待ちいたしております……ふうん……この街一番を決めるお祭りなんだにゃ……うーん」 何を基準にするのかにゃ、とつぶらな瞳で優を見上げてくるのに、リエはさすがに苦笑しつつ、「一番夢を見せてくれるってとこじゃねえのか。…で、どうしたんだ?」「いや、ここに参加する店の名前が並べてあるんだけど」 優は戸惑った顔でチラシを皆に見えるように示した。「『双子華』の名前がないんだ」「……」 じろり、と冷たい視線で見返すリエに、優は訝しい顔を向ける。「その代わり、こんな名前が」「……『弓張月』だと?」 リエがくっきりと眉を寄せた。「あそこは娼館じゃなかったはずだ。それとも…」「あれエ?」 ワイテが唐突に首を伸ばした。「どうしたの?」 リーリスの問いに、ふうムと唸る。「今そこに、リオと黒服の男が立っていたようなんだけド」「えっ」 優が表情を険しくした。 世界樹旅団のアクアーリオと一緒に居る黒服の男。それはひょっとして、何度も姿を見せかけては捕まらない、パパ・ビランチャという奴ではないのか。「おいら、アクアーリオには会ったこと無いし、リーラの事も知らないけれど、パパ・ビランチャにはどうしても聞きたい事があるのにゃよ」 フォッカーが青い瞳を煌めかせた。銀色の珠を繋いだ玩具『二つの月』が、よからぬことを引き起こしたことを彼は忘れない。妹を愛し守ろうとした兄の切ない想いは、今も胸に引きむしるような傷みを残している。その玩具にパパ・ビランチャが関わっていた気配があるのだ。「これだけの騒ぎだ、いつもと違う顔が紛れ込んでもわからないと踏んだのか」「それとも、新たな企みがあるのか」 リエのことばに続けた優が、二人が消えたあたりの路地へ今にも出向きそうに体を向ける。 そこへ、「あのもし、兄さま方」「姉さま方」 聞き覚えのある幼い声がして、一行は振り返った。赤い前垂れ、そっくりな顔の二人の少女が、優を認めてはしゃいだ顔になる。「ああやっぱりいつぞやの」「いつぞや来て下さったお大尽」「となれば、皆様も」「皆様もお祝いに」「祝い? 何のだ?」 不審そうに尋ねるリエにくすくすと少女達は笑い、「本日は月麗妓招来」「わが月麗妓は『弓張月』に」 お互いを見やるように腰を屈めて笑い合う。「銀鳳さまも」「金鳳さまも」「ご一緒に」「末永くご一緒に」「銀鳳、金鳳も? 金鳳は無事なのか」「体を張って受け取られた命でございます」「心を張って繋がれた気持ちでございます」 双子はかすかに胸を張った。「「わが『双子華』は新たな命を得ましてございますれば」」 見事、天なる冠を頂かれましょう。 楽しくてたまらないように、双子達はころころと明るく笑い転げた。「どういうことだろう」 優が困惑するのに、リエは鋭い視線を、アクアーリオと男が消えた路地へ向け、「リーラを探そう。それから、アクアーリオと陰でこそこそしやがる胆小鬼を見つけ出す」 まずは、『弓張月』へ案内しろ、と双子の華子達に顎をしゃくった。=========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>リエ・フー(cfrd1035)ワイテ・マーセイレ(cyfu8798)リーリス・キャロン(chse2070)相沢 優(ctcn6216)フォッカー(cxad2415)=========
「こちらでございます」「こちらにどうぞ」 二人の華子に両手を抱かれ、引っ張られるようにリエ・フーは祭りで賑やかな街の中を通る。街を彩るのは店が並べる高価な着物や帯の類だけではない。小さな屋台が細い路地にも並んでいる。飴のかかった赤や黄色の果実。金銀が舞う青や緑の飲み物。陶器に盛られた貝や魚の煮物。 「金鳳が生きてるってどういうことだろうな…覚醒したのか?」 リエは肩越しに少し後ろを歩く相沢 優を振り返る。 「ついでに、あのいけすかねえ胆小鬼らしい奴が来てるってことは、旅団が覚醒に関わってた、とかじゃねえのか?」 優は柔らかな笑みを一瞬鋭く翳らせて頷いた。 「…金鳳は死んだんじゃないかと思う。金鳳の身体の一部が、何かの形で銀鳳と一緒にあるんじゃないかと思うんだ」 目を細めて見上げた空には、オウルフォームのタイムがミネルヴァの眼で上空からアクアーリオを探している。 「きっと何かが今日、起こるんだろう……何か、新しい変化が」 共有する視界の中に、街の中をきょろきょろしているマントの竜人、ワイテ・マーセイレの姿がある。人ごみに流されるように歩きつつ、最初にリオ達を見かけた辺りに向かっているようだ。真っ青な焼き菓子を買ってもぐもぐやっている。 『リーラ君の捜索は他の人達に任せるヨ』 『弓張月』への一行に、ワイテは片手シャッフルを繰り返しながら肩を竦めた。 『トラベラーズノートで連絡できるしネ? 会って何か聞けたら教えてネー。あっしはアクア君に聞きたいことがあるんでそっちを探すヨ。ずっと聞きそびれてるシ』 ロストレイル襲撃のときからなんだよネー、とワイテは背中を向けた。 『こっちも会えたら場所教えるかラ。メモ取るふりしてノートに見える目印書くヨ。でもパパさんは怖いんだよネー。困るネ』 『弓張月』は木造の小さな平屋のままだった。だが、以前は静まり返っていたその玄関に華子が待ち、客を送迎しずいぶん賑わっている。 今しも客を送り出してきた黒服の男が、リエ達を見かけて僅かに苦笑した。 「…銀鳳か」 「お初にお目にかかる。いや……無縁ばかりでも、ないようだが」 視線はリエと優の顔に向けられた。 「店じまいって本気か? リーラはどうなる? 脚の不自由な小娘がよその店でここ以上の待遇を受けられるたァ思えねえ」 さっそく噛みつくリエに大きく眼を見開き、やがて銀鳳は満面の笑顔になった。 「金鳳は…生きているんですか」 優の問いに、銀鳳は頷き、こちらへどうぞ、と奥の部屋へ導いた。 「どのような縁なのかは知らぬが……リーラは良き縁を得ているのだな」 通されたのは奥まった一室だった。磨き抜かれた床に、円座が準備される。 「月の茶と呼ぶ。『月麗祭』の間はどこの店でも出される茶だ」 白く薄い磁器に半分ほど注がれた茶をリエが滑らかな動きで味わう。 「報告書を読んだ。あんた、リーラを憎からず思ってるんじゃねえか? だから身を挺して庇った」 銀鳳が目を細める。 「これは俺の我侭だ。リーラが独り立ちできるまで目をかけてやってほしい」 静かに頭を下げるリエに、リーリスが驚いた顔になる。 「売っ払って足しにすんのも飾るのも好きにしな」 押しやったのは布包み、見下ろした銀鳳が布を開いて、さすがに眉を寄せた。 「これは……『胡蝶の石』…」 訝りながら銀鳳が顔を上げた矢先、背後の引き戸が動いた。銀鳳同様の黒服、両目に黄色の帯を巻いた少年が、回る車の音を響かせるリーラの肩に手を置いて、一歩また一歩と入ってくる。 「金鳳…か」 金鳳は銀鳳の隣にぴたりと座ると穏やかに一礼した。 「確かに私は『弓張月』の主、金鳳にございます」 「病で死んだんじゃなかったのか」 リエの問いに、くすり、と暗い、皮肉っぽい笑い声が零れた。 「なるほど、お客様方は、私のことをよくご存知でいらっしゃるんですね」 「…どういうことなんですか」 優は座り直した。 「…私にはお人好しの兄が一人おりまして、この兄は豪胆な男でもございました」 金鳳が意地の悪い口調で話し出す。それでもふっと、柔らかな音色が混じる。 「嫉妬心から兄を憎み殺そうとした弟が病にかかったのですから、打ち捨てておけばよいものを、弟を何とか救おうとして苦肉の策に辿りついたのでございます」 それは、弟の体を実験台に、病を癒す秘薬を見つけ出そうということ。 「実験台……あ…っ」 リエが思い出したのは、金鳳に届けられていた『滋養のある食べ物』。 「花街に病はつきものだ。病が広がれば、娼妓達も苦しみ、客が遠のき、店も潰れる。かといって、おいそれとここに入ってくれる医者などない」 銀鳳が苦笑しながら引き取った。少し前から考えていた。病を封じる薬はないのかと。 「実のところ『双子華』は評判だけではなく、事実、病が広がりつつあった」 だから、病んでいない娼妓は他の店に放ち、源となった店をたたみ、密かに『弓張月』で病んだ娘達と金鳳を養生させていたところ、ついに見つかった。 「『放痛天』と呼ばれる花だ。昔から泡に遊ばせると万病に効く妙薬となると言い伝えがあった。泡に遊ばせるとはどういうことかと悩んでいたら、リーラが」 金鳳が柔らかな気配で背後のリーラを振り返る。リーラが嬉しそうに盲目の相手に微笑み返す。その二人を、銀鳳は静かな笑みで見守っている。 「そうだ、リーラが、花を湯に入れ、煮え立たせるのではないか、と」 なるほど、とリエが頷いて、銀鳳をねめつける。 「じゃあ、あんたはその妙薬を弟で試していったのか」 「そういうことだ」 「ひどい兄貴だ」 金鳳が唇を尖らせるが、以前のように憎々しげなものではない。まるで憑き物が落ちたような明るい顔だ。 「『放痛天』を煮詰めて濃度を調整し、とうとう病を治す状態にまで持ってきた」 リーリスが可愛らしく瞬きしながら首を傾げる。 「でも、そんな娘達が娼妓としてやっていけるの」 「床を同じくしなくとも、男には女が要るんだよ」 銀鳳が豪快に笑う。 「……お話を聞いて差し上げるのですよ」 リーラが微笑み、付け加える。 「苦しいこと、哀しいこと、辛いこと、腹立たしいこと。一つ一つ、一晩中聞いて差し上げる、『そういうこと』を仕事にいたします」 「そうしたら、『弓張月』には噂を聞きつけて『そういうこと』が必要な客がやってきてな。今ここでの一番の稼ぎ頭はリーラなんだよ」 「お恥ずかしゅうございます」 「そんなことはない。お前に俺は教えられた……いや、お客にも、だよな」 金鳳が低い声で続ける。 「俺は世界で一番不幸だと思ってた。けれど、客達の話を聞いてみると、いろんなことで苦しんで悩んで、それでも毎日何とか生きてる…みんなそうなんだ…とわかった…俺は、愚かな弟だったよな、兄貴?」 銀鳳は俯いた金鳳の肩を掴む。 「忘れたのか、俺は『双子華』を任された力量、その俺が『弓張月』を負うのはお前しかいないと言うのだ」 痛み苦しみ、日々傷つき、日々癒されるお前の姿に、客は安堵する。 「俺では足りぬ」 「兄貴…」 甘えたような、優しい笑みが金鳳の唇に広がった。 「リーラ、お前のその行いは天に届いたと見える。『胡蝶の石』が戻ってきたよ」 押しやられた宝石に、リーラはさっと顔を青ざめさせた。 「ああ……本当…本当に……」 これは確かに『胡蝶の石』。 「あなたが、取り戻して下さったんですね」 リエが唇を歪めた。 「持つべき者の所へ帰りてえって騒ぎやがるんだ」 ふいにはらはらとリーラは涙を落とした。『胡蝶の石』をそっと胸に抱き締め、深く項垂れる。 「わたくしはこれを……あの子に…リオに渡してやりたい…」 「……会えるかも知れねえぜ」 リオそっくりの青い瞳、うっすら染まった頬にすがるような笑みを浮かべる。 「なるほど、並みいる美妓には叶わねえかも知れねえが、『弓張月』を売り、リーラを押し上げ、リオを引っ張り出せるかも知れねえ趣向が一つある」 乗るかい? にやりと笑ったリエのことばに、リーラ始め金鳳銀鳳が頷く。 話が一段落ついたあたりで、フォッカーが膝を乗り出した。 「おいらはフォッカーって言うにゃ。よろしくにゃ。ある程度の事情は皆に教えてもらったのにゃ」 フォッカーはリオの顔を知らない。この時に覚えようとばかり、リーラの顔を凝視する。 「にゃあリーラ、聞きたいことあるのにゃ」 「はい、なんなりと」 「最近、リオか、おいら達以外でリオの事知っている人来なかったかにゃ?」 寂しげに微笑んでリーラは首を振った。 「あと二つの月って、知らないかにゃ? 何処で誰が売ってるとかにゃ」 リーラは困惑した顔で瞬いた。 「わたくしはどこで売っているのか、知らないのです」 「…そういや二つの月ってまるで双子の事指しているみたいにゃね。姿の良く似た二つの月。それを繋ぐのは血縁だったり絆だったりする糸…ってどうでもいいにゃね、これは。もし、知ってるなら教えてくれると嬉しいにゃ」 「…そう言えば、兄貴、先日の客が似たようなことを話してなかったか」 金鳳がはっとしたように銀鳳を振り返る。 「お前の所に来た客だな? 屋台で月のようなおもちゃを買い求めようとしたら、連れの男に止められたという奴だろう? 美麗花園で飛び回って人を殺して回ったとか言う因縁話があると」 フォッカーは頷いて立ち上がった。 「屋台にゃ。わかったにゃ」 たいした度胸よね。 リーリスがくすくす笑いながら、受け取った『胡蝶の石』を眺める。 『ねぇリーラ…要らないなら、その石私に貰えないかな? 私、それをリオに渡したいの…その石が貴女たち姉弟を結び付けてくれるように』 いきなり言い出したリーリスに色を為したのはリエだ。 『てめえ、何考えてやがる』 まさかこのまま、そう言いかけたリエの唇をちょんと指で突き、 『やぁだ、リエ・フーったら。良い子のリーリスはそんな悪巧み考え付かなかったわ』 二人のやりとりをじっと見ていたリーラは、銀鳳金鳳をみやったが、二人ともお前の望む通りにすればいいと応じられ、やがてぽつりと言い切った。 『お願いいたします』 「アクアーリオって言うの…知らないかしら?」 「ごめんよ、聞いたこともねえな」 「パパ・ビランチャって知らないかにゃ?」 「知らないねえ」 トラベラーズノートを確認しながら、リーリスとフォッカーは屋台を見回る。 「ワイテはまだ見つけていないのかにゃ」 「優もまだのようね」 くう、と小さく鳴ったお腹に、フォッカーが照れた顔でふかふかの花びらの形に焼き上げた菓子を買ってほうばる。 「あったかくて旨いにゃー」 「飲み物も要る?」 リーリスはさりげにフォッカーの手に触れ、腕を引いて別方向を指差した。ぱちぱち火花を散らす花火を突き刺した青い飲み物が並べられ、『月麗水』と看板が上がっている。 「いや、なんか、あれは止めたほうがよさそうにゃ、本能がそういうにゃ」 でも、お腹は凄くすいてきた、とフォッカーは不思議そうに首を捻る。 「もう一つ、花びら菓子を買ってこようかにゃ」 ふふふ、と笑ったリーリスがそっとフォッカーの手を放す。と、 「あ、あれ」 突然フォッカーが立ち止まって頓狂な声を上げて肉球の指で指したのは、路地に踞るように設営されている小さな屋台。看板は『二つの月』となっている。行き交う人々に邪魔されてよく見えないが、黒い布を駆けた台に、大小様々の銀色の珠が並んでいるようだ。そして、その奥に、黒い帽子の男が俯きがちに座っている。 「ひょっとして、パパ・ビランチャ? あ、フォッカー、待って」 呼びかけに振り向きもせず、フォッカーは人の波をくぐり抜けて、まっすぐ男の方へ歩く。リーリスは人ごみに埋もれていきそうな小柄な姿を急いで追う。 ワイテは新たに買った眼の痛くなるような緑の饅頭に食いついた。 (パパさんなら身長があっしよりでかいし遠目でも目印に持ってこいだよネ。黒い帽子は被ってるのかナ?) 口を動かしながら、人ごみの上に浮かぶ顔を探していく。時々すぽんと高い背の男はいるが、真理数がはっきり見える。さっき見かけた位置はとうに過ぎた。 「近場の路地裏を順に覗いていこうかナ。どこに行こうとしてたか、見た時に向いてた方向も考えテ……」 むぐむぐと最後の一口を食べながら、路地を覗き込んでいく。人目がない所で飛んで、上から通りや路地裏を見て回った方が早いかもしれないが、さすが祭り、これがまた見つからない。 「どうにもうまくいかないネ……おヤ」 溜め息をついて大通りに戻ろうとしたとたん、目の前の小さな駄菓子屋に眼が止まった。色とりどりの飴、ガラス瓶に入った魚の干物、小さく切ったゼリーのようなもの、小箱に入った焼き菓子などがぎっしり並ぶ前に、青いワンピースドレスの少女が首を傾げて魅入っている。茶色の髪、ポケットからはみ出している艶やかなリボンを手持ち無沙汰に弄りながら、物欲しげに眺めている。 「どれが欲しいノ? おじさんが買ってあげようカー」 声の掛け方が間違っている気もしたが、とりあえず近づいてみると、相手がひょいと顔を上げ、目をまんまるに見開いた。 「こんばんハ、アクア君。あ、今回も戦う気はないヨ?」 言いながら、ワイテは一応カードを服の中に仕込む。正面切って単独でやり合える相手でないのは百も承知、かといって、ここで逃がす気もない。 「この飴なんかおいしそーだよネー。あっちのアイスでもいいヨー」 「……アイス」 「わかった。アイス、一個ネー」 「へい、毎度あり」 屋台の男はピンク色のアイスクリームを差し出す。隙を見せまいとするように、少年は横目でワイテを眺めながら、受け取ったアイスクリームをぺろりと舐めた。 「!」 予想外においしかったのだろう。はむはむと急いで食べ始める相手に、ワイテはにこやかに質問する。 「アクア君、予言ってどうやってしてるノ? 急にくるノ ?それとも占いみたいなもノ?」 急いで呑み込みながら、アクアーリオはワイテを見返す。 「襲撃してきた時、予言するって言ってたよネー?」 「ああ…あれ? 園丁達が確実に成功するって言ってたから。アリエーテも」 こともなげに答えたアクアーリオは、最後のコーンを口に放り込んだとたん、ぱっと距離を取った。あっという間にワンピースを翻して走り去る少年を追い損ねて、ワイテは瞬きする。 「アリエーテって誰だヨー…ってか、食い逃ゲ?」 トラベラーズノートにアクアーリオ発見を書き込んだとたん、『パパ・ビランチャ発見』の情報が入った。慌てて地図を確認すると、どうやら『弓張月』近くの路地、そこに行くまでには、かなり距離がある。 「仕方ないネー。えート」 パパ・ビランチャに会えたなら確認したかったことを書き込む。『旅団でどういう立場なのかナ』『ママさんは一緒じゃないノ?』って聞いてヨ。 「とにかく急ごウ」 ワイテは紫色にピンクの縞の焼き菓子を買い求め、ほうばりながら駆け出した。 トラベラーズノートの書き込みは、優にも届いた。 「パパ・ビランチャと、アクアーリオ?」 やっぱり来ていたんだ、と思う反面、なぜここに居たのかと不安になる。しかも、なぜかパパ・ビランチャはアクアーリオと離れて動いている様子、気になる動きだが、絶好のチャンスかも知れない。 リエが手配している舞台『双子月』は、華子達が触れ回って人を集めているところだ。『弓張月』の玄関口を開け放ち、庭にかがり火を灯し舞台に見立て、そろそろ準備が済むことだろう。 パパ・ビランチャに接近しているのはフォッカーとリーリス、ワイテもアクアーリオを見かけたらしいが見失ったらしい。出てくるまでにざっとあたった地図とタイムの視野を照らし合わせていく。 「…じゃ、なかったんだ…」 思い出したのは優しい笑みの友人の牧師だ。彼の気がかりでもあったアクアーリオを何とか助けてやりたい。アクアーリオの身体には部品が埋まり、少年はパパ・ビランチャの言う事を信じているから難しいのかもしれないが、ワイテから来た情報は、少年がかなり軟化していると伝えている。 「アイスクリーム…」 脳裏を掠めるロストレイル襲撃事件、床に散らばった特別製のパフェを見やった瞳の無邪気さ、絡まるエピソードが胸に突きつける痛さは、優にとってひどく切ない。どれだけの友人と、離れなくては、ならないんだろう。怯みかけた心を叱咤し走り続けて通り過ぎかけ、あっと気づいて数歩戻った。 「…リオ…」 小さな薄暗い路地、軒先を触れ合うような狭い空間の先に、何かきらきら光るものがある、それが人だと見極めたのは、戦闘を繰り返す中で培った視力だろうか。 「ひと、おつ、ふた、あつ」 小さな声で歌いながら、アクアーリオはその軒先の石に腰掛けて、きらきら光るものを投げては受け止め、遊んでいる。『二つの月』かとぞっとしたが、そうではなくて、ここへ来るまでにも見かけた、『羽根玉』と呼ばれる鳥の羽毛でつくられたお手玉みたいなものだ。 「みいいっつ、みかけて、よおおっつ、呼ばれて」 一気に近づいて姿を消されないように、優は静かに歩み寄る。近くにパパ・ビランチャはいない。トラベラーズノートに『リオ発見』『パパ・ビランチャ、引き止めよろしく』と素早く書き込み、じりじりと近寄る。 「いいつつ、いつでも、むううっつ、向こうで」 少年が小さく息をついた。その瞬間、微かにアクアーリオの頬のあたり、耳の付け根あたりに、奇妙な影が動いたように見え、優は眉をしかめた。 「な、ななあつ、名前を、やああっつ、灼かれて」 数え歌は続いている。翻る掌、舞う『羽根玉』、近づく優にまだ気づかない。 「ここのつ…ここまで……とおで……とおとお、おーおしまいっ…」 ぽおんと高く放り投げた『羽根玉』を指で受け止めるよりも早く、しゅ、っと伸びたリボンが空中で掴んだ。その少年の頬にまた奇妙な線が入る。まるで、皮膚が突然帯状に剥がれかけたような。 どこかの報告書で似たようなことを見たような不安があった。深呼吸する。はっとしたように振り向くアクアーリオに微笑みかける。 「数え歌? 上手だね」 警戒はしている、だが、逃げはしない。そうか、待っているんだ、と気づいて、少し大胆に近づいてみる。反論してくるかと思ったアクアーリオは俯いた。 「……でも…どんどん……忘れてくんだ…最近」 「何を?」 「何かな……何だろ…」 竦んだような気配のアクアーリオの隣に腰を降ろす。パパ・ビランチャがどこから出て来るかわからない。ワイテの時も突然背後に立っていた。油断はできない。 「いろいろ……忘れてくんだ…」 頼りなげな声、虚ろな気配にぞくぞくする。 「あのさ、俺、君に生きてて欲しいんだよ」 ふわりとアクアーリオが顔を上げる。ついさっき見た、真っ青なリーラの明るい生き生きした瞳とあまりに違う生気のなさにたまらなくなる。 「今は痛くて怖い事ばかりだろうけど…ほんと、これは俺の我が儘な願いなんだけど……それでも俺は君に生きていて欲しい」 依頼に繰り返し参加し、たくさんの出会いと別れを重ね、そうして優は多くのものを得た。 「何があっても、自分の体にリボンを巻きつけちゃいけないよ? 今ここで離ればなれになってもさ、また会おうぜ、きっと」 「……会えるの、かな」 アクアーリオが微かに笑った。見たことのない、気弱な笑みだ。 「それ、よりも、さ」 優をまっすぐに見上げた。 「お祭りなんだろ? もっとおいしいもの、ない? 面白いもの、ない? ……何か楽しいことないかな、もうさ、ずっとずっとずっと忘れないで覚えられるようなものないかな」 「一緒に、行こう」 優は立ち上がってアクアーリオを誘った。ぞくぞくする寒気は戦闘の予感だろうか。トラベルギアを確認する。連れ攫うつもりはないが、パパ・ビランチャの襲撃は想定内だ。一人では対抗できない、けど、今動かなければきっと一生後悔する。 嬉しそうに立ち上がった瞬間、アクアーリオはかくり、と足下を崩れさせた。 「リオ?」 思わず苦手な呼び名を呼んでしまったのに、アクアーリオは食い入るような眼で自分の脚を見つめていて怒りもしない。それどころか、ぎゅ、っと優の手を握ってきた。 「大丈夫」 声が震えた。 「早く、行こう」 フォッカーが駆け寄ったのを気づいていない様子ではなかった。だが、屋台の男は俯き加減で帽子の影に顔を隠したまま、動こうとしない。 「こんばんはにゃ。ここは『二つの月』を売っているのかにゃ」 フォッカーが小さく息を切らせているのは、単に走ったせいだけではない。長い間探し求めていた相手が、今目の前に要るという興奮からだ。 「見ての通りです」 「聞きたいことがあるのにゃ」 男はゆっくりと顔を上げた。50歳ぐらいの男だ。黒い髪は短く、帽子に隠れている。首までも黒いコートは前をぴっちりと止めている。対照的なのは明るく光を放つような青い瞳、強い意志力を感じさせるためか、顔の造作が記憶に残りにくい。 「お前は、パパ・ビランチャなのかにゃ」 「だとしたら、何か御用でしょうか」 表情が微笑んだだけであって、明るい青の瞳は全く笑わない。 「何かの魔術か亡霊を付与した二つの月をシェン、美麗花園にいた女の子に渡したのかを聞きたいのにゃ」 一気に核心を突いたフォッカーのこぶしは既に堅く握りしめられている。 「もしそうだったら、おいらは許さないにゃ」 男は微笑を深めた。 「お気の毒でした」 「っっ!」 踏み込んだ間合いは鋭かった。目の前に並べられている商品を越えるには、小さな背では遠かったが、それでもすぐ側で話していた相手の鼻面には一発あたってもおかしくなかった。事実、相手は体を引かなかったし、フォッカーのこぶしはきっちり相手の頬を抉った。なのに、こぶしは手応えのないまま空間を通り抜け、相手は同じ位置で顔を腫らすこともなく、じっとフォッカーを見下ろしている。 「私からも質問があるの」 リーリスが怒りに目を煌めかせて相手を睨むフォッカーに代わり、トラベラーズノートを開く。 「あなたは旅団ではどういう立場なの?」 「君の問いが司令塔を意味しているのなら、違うと答えましょう」 「ママ・ヴィルジネは一緒じゃないの?」 「滅多に一緒には動きませんね」 男はゆっくりと立ち上がった。まるで、屋台の天蓋を突き破ったような奇妙な錯覚にフォッカーは瞬きする。見上げなくてはならない。それも、通常の大人よりも遥かに高く。まるで大きな樹を見上げるような感覚だ。 「アクアーリオは一緒じゃないの?」 「今、そちらのお仲間と一緒です…いい思い出になるでしょう」 男は目を細めた。 「私も貴方に会ってみたかったの、クランチのお人形さんに。貴方の虚無は機械人形だからかしらって……強制が多い旅団は面倒そうだと思うくらいよ。本質的にはどうでもいいの。クランチや貴方がイグジストを超えられる存在になるなら、協力するのも吝かじゃないわ」 男は軽く首を振った。 「私はそれほどの野望も持ち合わせていません。あなたのおっしゃる虚無の意味はよくわかりませんが、旅団は歓迎するでしょう」 す、っと一歩、男は後ろに下がった。そのまま、それ以上動いた気配がないのに、視界の中で見る見る背後に下がっていく。まるで男の後ろに巨大な穴があって、そこへどんどん立ったまま吸い込まれていくようだ。はっとしたフォッカーが急いでトラベラーズノートで連絡する。優から依頼されたパパ・ビランチャ引き止めは限界だと伝えておかなくてはならない。 「次はペッシも連れて来てね」 リーリスのことばが届いたのかどうか、あっという間に人形のように小さくなった男は、闇に消えた。 『題名は「双子月」。娼館で生まれ育ち運命に引き裂かれた双子の悲劇だ』 リオとリーラの生い立ちを脚色した劇を演じるというリエの発案は、予想した以上に『弓張月』に客を呼び寄せた。 『リオとリエ、名前も似てる。上手くすりゃリオを誘き出せる』 幼い二人の姉弟、体を寄せ合い生き抜いていくいじらしさ、リオの代役を務めたリエは同じような境遇だった利がある、花街の苦しさ切なさ、それでも生きる道を見つけ出そうとする娼妓の世界も熟知しているが故の名演だ。 『折檻で足を痛めた役柄なら立てなくたって不自然じゃねえ』 設定をリーラは見事に生かして演じ切る。中でも、行方不明となった弟を探し回る心情は聞く者の胸をかきむしる。 『台本は白紙だ。てめえの言葉でリオに呼びかけるんだ。奴はきっとここにいる』 「ええ、ええ、もちろん」 耳の奥で響くリエのことばの数々に、強く深く頷いて、リーラは舞台に立つ。 初めてのことば、初めての所作、戸惑えば、リエが導き支えてくれる。 「どうか……リオ…無事で……無事でいてちょうだい…リオ…」 からころ鳴っていた車から滑り落ちたのは演技、再び脚を傷めるかも知れない恐怖よりも、どこかにリオがいるかも知れない、その激情が勝った。 崩れ落ち、倒れ伏し、なおも手を差し伸べる姿に客達が涙する。 そのリーラに走り寄るリエは、艶やかな娼妓姿、リーラの仲間という役どころに成り代わり、いなくなったリオとの二役は鮮やか過ぎるほど人の目を魅く。 「リーラ、無理をしないで、だめよ、もう」 「いいえ、やめない、諦めないわ…リオーっ!」 びくり、とアクアーリオは優の隣で体を震わせた。 「大丈夫?」 「う、うん…」 街中で出会って、そのまま優は『弓張月』にアクアーリオを連れ込んでいる。周囲を見回したが、黒い帽子や黒い服装の男は見当たらない。 いつパパ・ビランチャがアクアーリオを取り返しに来るかわからない、それでもそれまでの僅かな時間だけでも、アクアーリオとリーラを再会させてやりたい。 願いを聞き届けた神は、慈悲深かったのだろうか、それとも非情だったのか。 「リオ…?」 それが眼に入ったのはなぜだろう。舞台では切々たる心情を訴えるリーラ、艶やかな所作をするリエが動いているのに、なぜ優には、アクアーリオのリボンの端が、まるで焦げていくように薄黒くなっていくのが見えたのだろう。 「どうし…」 「もう遅いのですよ」 「!」 絶対零度の声がした。 リオを挟んで向こう側に居た男は、ずっと俯いていた。その禿げた頭頂部がいつの間にか黒々としている、いや違う、黒い帽子を被っている。 「アクアーリオはもう終わるのです」 「どういう、ことだ」 叩きつけられ竦むような感覚で理解する、こいつがパパ・ビランチャだと。震えながら優の手にすがりついているアクアーリオの向こうに、晴れ渡った空のような明るい青い瞳が現れた。 「解けかけているのです」 脳裏を過った幾つかの報告書。視野が一気に暗くなる。相手が静かにアクアーリオの腕を握り、びくん、と大きく少年が震えた。 「リ…ラ…おねい…ちゃ…」 掠れた声がもたらす歓喜よりも、優の胸を絶望が覆う。視界の端で、揺らめくように立ち上がったリボンが、空中で熱い何かに触れたようにちりちりと縮んでいくのが見える。 「元々、安定していなかった。ペッシがついていましたが、モフトピア以降不安定になるばかりです」 命を救うために万全を尽くした医者のような口調でパパ・ビランチャは告げた。 「次に出れば終わりでしょう」 「だから、ここへ連れてきて、自由にさせた、のか」 食いしばった歯の間から、優は呻く。 リボンがぱらり、と解れ落ちる。ふわ、とアクアーリオの胸のあたりの衣服が緩んだ。内側からの圧力に耐えかねたように、表面に無数の線が入る。そのとたん、 「ここでずっと待っています!」 激しい声が舞台を貫く。 「私がずっと、この場所で!」 「聞こえたか、リオ!」 リエがリーラの声を支えるように声を張り上げた。 「憎んで逃げて壊れて呪って、それでちっとはマシになったか。忘れて置き去ってラクになるよかな、地に足付けて生き続ける方がずっと痛くて大変なんだよ!」 ぎくん、と震えたアクアーリオの緩みが止まる。大きく見開いた眼から、まるでそのまま瞳を流し出しかねない勢いで涙が溢れ出す。 「あ…う…」 「リーラ!」「リーラ!」「リーラァアア!」 観客が叫びに応じるその中で、優は強くアクアーリオの手を握った。そのまま一緒にこぶしを突き上げ引きずり上げるように立ち上がり、舞台に向かって叫ぶ。 「リーラ! 俺達はここにいる!」「うおおお!」 周囲の声が吠える中、リーラがはっきりと優を、続いてその手に握られたアクアーリオの姿を見た。 「あ、…あああああっ!」 悲鳴じみた、それでもそれは弾けるような歓喜の声、一転した光を感じさせる声に客が一気に静まる。リーラがまるで、離れた空間に飛んだ魂を抱き寄せるように、柔らかな仕草で自らを腕で包んだ。 「神も仏も…おわしました……今私は…確かに弟の姿を見た……」 低く吐かれた台詞は、きっと台本にはなかっただろう。 人々が席を立つ。ようやく追いついてきたのだろう、フォッカーとリーリス、ワイテが姿を見せる。中でもリーリスが急いで近寄ってきた。 「こんにちは、アクアーリオ。貴方にどうしても渡したい物があって探してたのよ?」 リーリスの声にアクアーリオがのろのろと顔を上げる。優が、握っていたアクアーリオの手を、リーリスの差し出した『胡蝶の石』に導いた。 「これは貴方のお姉さんから。貴方の出自を知らせる石、何時か貴方を家族の元へ導く石…絶対無くしても奪われても駄目よ?」 片手をパパ・ビランチャに取られ、片手で石を受け取ったアクアーリオが、静かにパパ・ビランチャを、続いて優を見上げ、石を胸に引き寄せる。 「あ…っ」 小さな叫びがフォッカーから漏れた。 アクアーリオの胸がまるで無数のリボンを組み合わせていたようにばらばらと解けて開く。その中は淡い金色の光がたゆたう空間だ。 優が血の気の引く想いでそれを見つめていると、アクアーリオは『胡蝶の石』をそっと胸の空間に押し入れた。光に呑み込まれ、体の奥へ沈んでいく宝石、それを再びアクアーリオの外側が、帯状になって巻き付き、包み隠していく。 「手を放して下さい、世界図書館の諸君」 ゆらりと立ち上がったパパ・ビランチャが命じた。 「それとも、今ここで、アクアーリオもろとも交戦に入りますか?」 はっとしたようにアクアーリオが優を見上げる。ワイテを、フォッカーを、リーリスを見やる。遠くへ視線をさまよわせて、今しも奥から、金鳳銀鳳の手を借りて庭へ出てこようとするリーラ、それを守るように支えるリエに向く。 「リオ!」 叫びが届いた。小さく首を振る、アクアーリオが胸を押さえる。 「明天見…」 小さな呟きが漏れた。次の瞬間、優の手を振り切り、パパ・ビランチャにしがみついて、声を絞る。 「明天見!」 高い声がひび割れた響いたとたん、二人の姿は消える。 「リオっ……再見! 再見!……明天見! リオーッ!」 リーラの切ない声が、夜の闇を駆け抜けた。 帰りのロストレイルの中、誰もがことば少なだった。 リーラは見事『月麗妓』となり、『弓張月』は月陰花園壱番座となったのに。 フォッカーはどうしても寄りたいからと美麗花園に出向いていて一緒に戻ってはいない。 『世界を渡る旅人として謝りたいのにゃ』 小さな手で顔を覆ったフォッカーの耳が微かに伏せられていた。 『せめて花だけでも供えたいのにゃ』 心が取り残されて、ずっと抱え込んでしまう依頼がある。ロストナンバーはその世界に所属しない。それでも、時に、こんな風に胸にしこりが残ってしまう、どうしようもない想いが。 「……最後のことばの意味は?」 優の問いに、リーリスとワイテは首を振った。 「再見とは、違うのかい?」 「あした、また会いましょう、だ」 ロストレイルの窓から外を眺めていたリエが低く唸った。 「何が明日だ」 吐き捨てる声は怒りを溜めている。 てめえに明日が来るのか、わからねえじゃねえか。 あした、また、会いましょう。 世界樹旅団の壱番世界侵攻が知らされたのは、彼らがターミナルに戻って数日後。 だがそこに、アクアーリオもパパ・ビランチャもいなかったことを彼らが知るのは、もっと後の事となる。
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