ユーウォンがその店のことを知ったのはつい最近だった。 何でもそこは、客に恐怖を売るらしい。 札を選び、屋敷へ踏み込むと、自分の選んだ札に応じた恐怖が客へと襲いかかるのだそうだ。 怖いもの見たさに訪れるロストナンバーは少なくないそうだが、大々的に宣伝をしているわけではないのもあって、『知る人ぞ知る』といった店らしいと聞いて、ユーウォンは好奇心に駆られた。 自分にとっての恐怖とはなんだろうか。 つくりもの、疑似体験と判って受けるそれは、本当に恐怖たりうるのだろうか。 知識を凌駕して与えられる恐怖とは、いったいどんなものなのだろうか。 そんな興味が止められなくなって、ユーウォンはトコヤミ屋へとやってきていた。 「へえ……ここがトコヤミ屋かぁ。趣深い、っていうのかな? こういうの」 傍らに枝垂れ柳のそびえるそこは、見かけで言えば、古い日本家屋を思わせる、簡素ではあるが広く落ち着いた印象の建物だ。外観だけならば、ではあるが。 「ええと……こんにちは?」 しかし、屋号の掲げられた数奇屋門をくぐった途端、ユーウォンの背筋を、奇妙な冷気が這い上がった。さらに、どこかから、悲痛な悲鳴が響く。何故かその、ごくごくかすかな、わずかに耳に届く程度の叫びに、絶大な恐怖と絶望が含まれていることに気づき、ユーウォンは思わず姿勢を正した。 「聞きしに勝る……みたいな感じかな。今の、すっごいぞくっとした」 辺りを見渡しつつ、中へ踏み込む。 店といっても受付や支払いの場所がある様子はなく、店員の姿も見えない。 勝手に入って、勝手に体験してくればいいのか? などと思っていたら、 「おや……今日も物好きのおいでか。いらっしゃい、トコヤミ屋へようこそ」 先ほどまで誰もいなかったと断言できる背後から、唐突にそんな声が響き、ユーウォンは飛び上がりそうになる。 振り向けば、そこには、肉食の大型爬虫類を思わせる金瞳をした、背の高い男が佇んでいた。 「あ、えーと」 「ここの店主の無月だ。恐怖をお求めかな? どのような?」 無月と名乗った男が友好的にそう言ったので、それで落ち着きを取り戻し、 「そう、おれにとっての恐怖が何なのか、見てみたくて」 「なら、屋敷へ? いろいろ試してもらって構わないが」 「うん。だけど……怖いものを何度も見たいなんてどうかしてるよ。どうせ怖いんなら、一度も見たことがないものを見るんでなきゃ嫌だね」 ユーウォンがまくし立てると、店主はうっすらと笑った。 別に、何ということのない笑みなのに、背筋が凍りつくような思いをしたのはなぜだろう。 「なら、こちらへどうぞ」 案内されるまま、建物をなぞるように歩き、美しく整えられた中庭へ踏み込むと、その隅に簡素な木造りのあずまやがある。木造の小ぢんまりとした休憩所だ。 「えーと?」 確認するように店主を見やれば、また凍りつくような微笑が返った。 彼の指差すほうへ視線を向ける。あずまやの真ん中に据え付けられた台の上に、すべての光を吸収してしまいそうな、艶ひとつない墨の色をした壺があって、ユーウォンは首をかしげた。 何の変哲もないのに、妙に心を奪われるものがあって問おうとするより、 「これならきっと、お眼鏡にかなうことだろう」 妙に楽しげな物言いとともに、背中をとん、と押された。 「えっ」 軽く押されただけだ。 そのはずだ。 それなのに、気づけばユーウォンは、まっさかさまに壺の中へと落ちていた。 「壺……だったよね……!?」 子どもの頭だって入らないような壺だったはずだ。 それなのに、今、彼の手は、思い切り伸ばしても、どこにも触れることがない。何も、捕まるものがない。 咄嗟に開いてはためかせた翼は空を切った。 飛んで這い上がることは、どうやらできないらしい。 「うわ、わ、わ……ッ!」 胃の奥から、気味の悪い浮遊感と酩酊感がせり上がってくる。 風が頬を打ち、びょうびょうという音が耳元で喚く。 背骨の辺りがぞくぞくして気持ち悪い。胃袋が引っ繰り返るような気がして気持ち悪い。 そのまま、落ちて、墜ちて、堕ちて、どのくらい経っただろうか。 「はは、考えてみたら、面白いかも」 特に害がないと判って、ユーウォンは落ち着きを取り戻していた。 ひたすら落ち続けるなどという経験は、なかなか出来るものではない。 仕組みがどういうものなのかは判らないものの、「そういうものだ」と納得してしまえば、いかなる過酷な環境下においても順応できる彼にとって、それはひとつの環境、ひとつの事象にすぎなかった。 しびれるような恐怖感が、慣れによって消えていく。 「せっかくだから、いろいろ試してみなきゃね!」 身体をひねって回転してみたり、翼を動かして身体の角度を変えてみたり、水をかく仕草で泳ぐ真似をしてみたり。身体の向きを変えられるか試したり、それによって落下速度が変わるか試してみたり。 このシチュエーションにおいて、やっておかねば損だという事柄をすべて試し、満足する。 「なるほど。落ちるってのも、なかなか興味深いなあ」 しかし、そろそろ飽きてきたというか、どこまで落ちればいいのか――ここが店として成立している以上、死ぬようなことはあるまいというのがユーウォンの客観的な判断だった――、終わりはどこにあるのかとか、考え始めたらきりがない。 「あっ」 気づいたら、眠っていたらしい。 いつの間に意識が途切れていたのかも判らなかった。 「これだけの速度で落ち続けてるっていうのに、もう慣れちゃってるんだなあ……」 相変わらず、耳元の風はびょうびょうとうるさい。 これだけうるさいのに、これだけの速度で空を切って落ちているのに、身体はすでに順応を始めている。 「ッ!」 また目が覚めた。 いつの間に寝ていたのかも判らない。 どれだけ眠っていたのかも判らない。 空腹は感じなかった。 疲れているようにも思えない。 けれど、時間の感覚にはつながらなくて、 「……眠ったの、何度目だっけ」 自分がどれだけ落ち続けているのかも、ユーウォンには判らない。 「何時間? 何日……何年? まさかね」 こうべを巡らせ、耳を澄ませても、視えるのは暗闇だけ。聞こえるのは風の音だけだ。 誰か、似たような目に遭ったロストナンバーが上から落ちて来ないかと目を凝らしてみても、やはりそこには何もない。誰もいない。 「だ……誰か……」 恐る恐る声を上げる。 声は、風に紛れて消えていく。 何も残らない。 何もない。 いつまで経っても、ここにあるのは闇と静けさだけ。 ユーウォンはいつまでも、たったひとりだ。 果てしなく、どこまでも落ちていく。 終わりなどあるのか、判らない。何も見えないし、聞こえない。 「気が」 狂いそうだ。 沈黙の牢獄に囚われて、魂が壊れていくかのようだ。 「おれは、なんだっけ。だれだっけ」 根本的な疑問が頭をもたげると同時に、いったんは薄れたはずの恐怖が込み上げた。 誰かと、何かと関わることで、ひとは自分というものを認識できる。 ユーウォンは、ユーウォン以外の何か、誰かとかかわることで、ようやく己をユーウォンたらしめることができるのだ。 ここには何もない。 この、完全なる断絶、完璧なる孤独の前に、ユーウォンという『我』は自分を見失おうとしていた。 「ねえ……出てきてよ、お願いだから!」 ユーウォンは叫んだ。 声が裏返ったが、そんなものをきにしてはいられなかった。 自分にとって、この世で一番怖いのが何なのか、今、思い知った。 全身が凍りついたように冷たくなって、身動きも出来ない。 「なんでもいい……誰でもいいから!」 最悪の敵でも、おそろしい怪物でも、自分を喰らおうと手ぐすね引いて待っている悪魔でもいい。死ぬしかない大災害でも、我が身を砕く大地でも、凍えるような水底でもいい。 この果てしない闇から、ユーウォンを逃がしてくれるなら。 この耐え難い沈黙から、ユーウォンを掬い上げてくれるなら。 「お願いだから、誰か! 誰かああああああッ!」 どうしようもない恐怖と絶望に、ユーウォンは絶叫した。 咽喉も裂けよと張り上げたそれは、しかし、風に紛れ、闇の中へと吸い込まれて――…… 「――あ、あれ?」 気がついたら、ユーウォンは、いつの間に上がり込んだとも知れぬ畳の上にへたりこんでいた。いつの間に意識を失ったのか、いつの間に戻ってきたのかも判らないが、どうやら元の世界に帰れたらしい。 泣きたいくらい安堵したものの、身体が小刻みに震えて立ち上がれない。歯がかちかち鳴ってしゃべれない。 「おや、お帰り」 ふすまを開け、無月が顔を出す。 「どうだった、『一度も見たことのない恐怖』は?」 満足げな笑みは、どこかでユーウォンのありさまを見ていたからだろうか? 「あれでもまだぬるい、もっとすさまじい恐怖がほしい、というのなら、こちらとしても提供するにやぶさかではないけれども」 面白がるように言われ、ユーウォンは全力で――必死で首を横に振る。 無月は、捕食者の眼で彼を見ている。 ――心の底から逃げ出したい、と、冷えに冷えた腹の内で、思った。
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