「やべよ、やべって! 今世紀最大の試練だよ、こりゃ!」 トラベラーズカフェの一角でキアラン・A・ウィシャートはこの暑さに歯の根が合わないほどガクガク震えながら大きな声で独りごちると、テーブルの上のアイスコーヒーをゴクンと飲み干し、喉の奥とは違う方へ流し込んでゴホゴホと小さく噎せ返った。 周囲の者たちが何事かと振り返る。筋骨たくましい男が何をそんなに震えることがあるのだろう。そのギャップを不思議に思っているとキアランは呼気を整え、今度はどこか明後日の方向に向かってしきりに抗議の声をあげ始めた。「何で俺に頼んじゃうんだよ! この世に神も仏もないぜ、マジでさ! 本当に俺に依頼して大丈夫なのかっつーか。本気で人選間違ってらぁ」 ブツブツブツ。 大きな声の独り言なのか、それとも周囲の者たちに向かって言っているのか。 そんなキアランに一人の女――ヘルウェンディ・ブルックリンが声をかけた。「どんな依頼よ?」 よくぞ聞いてくれましたとばかりにヘルの顔を見上げるキアランに、どうやら聞いてほしかったんだな、と思いながら周囲も耳を傾ける。「元気が有り余ってるなら、おじさんに力を貸しなさい! お礼にコーヒーなら奢るぜ!」 そうして彼は語り始めたのだった。 事の起こりは数時間前。世界司書に暇そうだなと声をかけられたところから始まる。ロストナンバー救出依頼だった。 場所は壱番世界の廃病院。夜になるとすすり泣く声が聞こえるといういわくつきの廃病院。地元の人間の話によれば“出る”ので有名な廃病院。 そりゃもうロストナンバーじゃなくて幽霊だよっ! と心の底から突っ込んだキアランだったが、世界司書はそれについて何とも素っ気なく答えた。『すすり泣いてるのがロストナンバーかどうかは知らん』 とにもかくにも、その廃病院にロストナンバーがいるから、救出してきてくれということだ。「そりゃ俺一人でも簡単に終わる仕事だぜ! 本当は困ってないんだけどよ。でも、よ。お前さんら暇だろ? 暇潰しに誘ってやってんだよ。バッ! バカヤロー! おじさまももう40だぜ!? ゆ、ゆゆ、ゆユ、ゆゆゆゆ、幽霊なんか怖いわけあるか、ぁ!! 暗いのも、病院も! 廃墟へ、平気にキマッテルダッロ!! と、とにかく! 一緒に来てください! お願いします!! コーヒーにケーキもつけるからっ!」 冷や汗ダラダラで怖いわけあるかと言われても全く説得力がない。目に今にもこぼれそうな涙をためてうるうるお願いされたらほっておけないじゃないか。 というわけで、彼をほっておけなくなった面々が気づけば彼のテーブルを囲んでいた。「廃墟の病院で幽霊退治? 上等よ! お化けなんてちっとも怖くないんだから、私の銃で蜂の巣にしてやるわ!」 と勇ましいヘルに歳が2倍以上も離れた男がマジで切実に本気で本当に頼んでいる。「…………」 そんなキアランを見兼ねたように流鏑馬明日がそっと彼の肩に手を置いた。ポム、コクコクうんうん、と目で語り合う。同士というやつだ。「ゆうれい…幽霊かぁ…実はさ…昔、見た事があるんだ…」 なんて言い出したのはユーウォンだった。それにアルバ・ケラススが手を挙げる。「自分、お化けなんて見たことないからぜひ見てみたいっす!」「み、みミみみ、み゛!? 見たことあルぅ!!?」 キアランの声が見事にひっくり返った。「み、見間違いだよ、だって幽霊なんていないし」 だから見せてあげられないなぁ、と申し訳なさそうな顔をアルバに向けた。そんなキアランに賛同する者がある。「……うん、幽霊は居ない、幽霊は居ない。すべて、人為的なものか、ただの見間違い。特に、壱番世界に於いては……」 まるで自分に言い聞かせるような口ぶりで繰り返しているのは小依来歌だった。アルバが残念そうに肩を落とす。だが。「幽霊退治? あ、違う……。ロストナンバー……なら、きっといい方の幽霊ですね」 まるで、救出するロストナンバーが幽霊と言わんばかりの村崎神無にアルバは目を輝かせ、キアランの目は泳ぎ始めた。壱番世界に幽霊はいないが、ロストナンバーに幽霊がいないとは限らないのだ。「大丈夫、おじちゃんのことはリーリスが守ってあげるわ。リーリスとってもお腹が空いてたの。奢ってくれるおじちゃんは大好きよ」 リーリス・キャロンがキアランを元気づけるように言って、うふふふふと笑った。「おう、遠慮せずドリンクとケーキがセットになったお得なプレートセットから選ぶと良い!」 気前よく言ってキアランはメニューに手を伸ばす。だが彼はメニューを取ることが出来なかった。「ギャッツツ!!! 出たぁあああぁ!!!」 あらん限りの悲鳴をあげてメニューを落としたからだ。「あら?」 とリーリスが目を細める。そこにいたのはシーアールシーゼロだった。「お、驚かすなよマジで!! 勘弁してくれよ!……な、なんてな! お、俺、驚く振りとかスゲー得意だから、逆に嬢ちゃんが驚いただろ!」 半分涙目のキアランには説得力の欠片もない。「うんとね、ゼロには得意技の『白い服に長い髪でいつのまにかいる』があるのでオバケさんに張り合えるのです♪ なので連れて行って欲しいのですー」 ゼロの笑顔にキアランは冷や汗を拭いながら答えた。「出来たら、向こうでは俺より前にいてください。見間違えるからっ!!」「はーい」 元気なゼロにキアランはホッと人心地吐く。「怖がる人の所に怪異は寄ってくるって噂だけど…」 リーリスが屈託ない笑顔でキアランや一部の人間に対してとっても不吉なことを言った。可愛く笑ってるリーリスに返す笑顔はどうにも引きつって仕方がない。「お、おおまえらぁ! びびるんじゃねねねねぇぞぞぞ!!!」 一番びびっているのは一体誰なのか。「そういえば、これ、何?」 話題を変えるように明日はテーブルの上にのっている“それ”に手を伸ばして尋ねた。先刻から気になっていたのだ。「ああ、司書からついでにこの試作品を試してきて欲しいって渡されたんだ。なんでもそれを装着するとアレと仲良くなれる上に交信まで出来るとかって。ん? アレってなんだ?」 “それ”は小さな白い三角の布に白い紐がついたものだった。「バブーシュカには小さいのです」 ゼロが不思議そうに頭に付けている。「…ただの天冠に見えるんだけど…」 明日は何故か痛むこめかみをそっと指で押さえた。「ま、まぁ…使う機会もないだろう。なんてたってゆゆゆユ幽霊なんていないわけだし。はっはっはっ」「…………」「そ、そんな目でみ、見るな、っ! バッ! バカヤロー! おじさまももう40だぜ!? ゆ、ゆゆ、ゆユ、ゆゆゆゆ、幽霊なんか怖いわけあるか、ぁ!! 暗いのも、病院も! 廃墟も、へ、平気にキマッテルダッロ!! で、でもこんなに集まってくれて嬉しいよ。むしろ、ブッチャケ俺留守番でよくねぇ?」「…………」「じょ、冗談だ! 俺も手慣れの何でも屋だ。腹ぁくくるゼ!」 廃病院にレッツゴー! ◇◇◇ 壱番世界の山奥に取り残された廃病院。かつては芝生の庭が広がっていただろうそこは今では誰も手をつけることもなく木々や雑草などに浸食され鬱蒼としていた。 山を登り始めた時はあんなに晴れ渡っていた空は、今にも泣きだしそうな曇り空で辺りは薄暗くなっていた。湿度の高い大気がねっとりと体にまとわりついてくる。滲む汗は暑さのせいか、それとも別の…? 入口の病院の案内板に目を通す。 6階建ての本館は1階にロビーや外来診察室、ERの受付や処置室が並んでいるらしい。2階には手術室とレントゲンをはじめとした各種検査室。3階以降は一般病棟になっているようだ。地下には売店と入院患者が利用するコインランドリーと、それから霊安室がある。 本館の西隣に更に古びたレンガ造りに蔦の這った年代を感じる建物ある。戦前から建つそれは伝染隔離病棟――通称不帰の間。見るからに出そうな風貌のその脇に焼却炉があった。一体何を焼却しているんだろう、もちろん今は使われてもいないし煙も出て……いない。たぶん。 一方、本館の東隣、本館より真新しい5階建ての新館。1階・2階がリハビリセンター。3階以降は精神病病棟。窓には鉄格子。こちらは自殺者の多い病棟だったらしい。 さて、どこから探索を開始する? 手分けをするか? それとも全員で端から順番に回るか? 今はまだ、すすり泣きの声は聞こえてこない。=========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>キアラン・A・ウィシャート(cese6575)流鏑馬 明日(cepb3731)小依 来歌(crwy9438)ヘルウェンディ・ブルックリン(cxsh5984)ユーウォン(cxtf9831)村崎 神無(cwfx8355)リーリス・キャロン(chse2070)シーアールシー ゼロ(czzf6499)アルバ・ケラスス(cnpv5100)=========
■廃病院玄関■ 「ぎぃっやぁぁぁァぁぁぁっ!!」 のっけから景気のいい(誤)男の金切り声があがった。傍にいたヘルがビクッと体を震わせ無意識に胸の辺りを探りながら男を睨みあげる。日焼けしているはずの顔を真っ白にしたキアランの視線の先を辿ってみると白い着物に白い天冠姿の女性が立っていた。もしかしていきなりもう幽霊を見つけちゃったのか!? 「今回のロストナンバーさんを迎えに行くための正装だそうなのですー」 白装束のゼロが無邪気に笑った。 「驚かせないでよ、もう!」 驚いた自分が恥ずかしそうにヘルは頬を赤らめそっぽを向く。 「そそそソそうか、なるほど、なるほど」 キアランはうんうん頷いて真剣な面もちを何かを探すように周囲に向けた。 「誰か着替えを持ってないか?」 持ってるわけがない。それ以前にここに来るまでに気づかなかったのか。キアランは上着を脱いでゼロの肩にかけた。気をとりなおして。 「よ、よぉし! お、お、お前ラぁ準備はい、いぃかぁ…っ!」 時々声を上ずらせながらキアランは言い放った。皆が静かに頷く。眼前に聳え立つは3つの建物。 「うわぁ、雰囲気満点だね。すごくどきどきするよ。わくわくもしてきちゃった」 ユーウォンは子供みたいに目をキラキラさせながら廃病院を見上げた。見るからにいそう、だ。なんでも十数年前医療事故があって閉鎖されそのまま放置されたとか、伝染病の院内感染により患者や医者・看護師ごと封鎖せざるを得なかったとか、いろいろ曰く付きの廃病院。どれほどの人がここで命を落としたのか。 「うんうん! 幽霊さんがいるならなんかお話とかしてみたいっす」 アルバも興奮しているのか両手を握り鼻息が荒い。 「怖くないの?」 私は怖くないけど、と語尾に虚勢を張ってヘルが尋ねた。 アルバは怖いという方が不思議なように首を傾げている。幽霊というものがイマイチよくわかっていないのだ。幽霊というのは怖いものなのか。 「そりゃ…怖くないって言えば嘘になるけどさ。自分より怖がってる人が近くにいると、怖い気持ちって減っていっちゃうだろ。目一杯の怖さを独り占めしちゃってる人がいるんだもん」 ユーウォンの視線が自然そちらへと向いた。それを追いかけたわけでもなかったが、アルバもヘルも何となくそちらを見ずにはいられない。そこでは。 「だっ! ちょ! 今あそこの窓に何かいたぁああぁ~…!?」 と新館の窓を指差しながら、いつの間に結成したのか【お化けダメ同盟】の明日にしがみついていた。 「大丈夫、大丈夫、大丈夫」 傍らの来歌がぶつぶつとおまじないのように呟いている。何が大丈夫なのか窓の方を見上げている風の視点はもはや定まっていない。 「幽霊なんて、怖いと思うから幽霊だと思ってしまう訳で…結果、幽霊は存在しないから、私は怖く無いわ」 よくわからない持論を展開して自分を納得させている明日の頬はいつになく強ばっていた。全くもって説得力があるようには見えなかったがキアランには気休めぐらいにはなったらしい。 「そそソそうだよな。うんうん。俺もそう思ッたんだ」 キアランはうんうん頷いてようやく明日から離れた。その肩を誰かが叩く。 「ぎぃっやぁぁぁ!!」 キアランはそれを振り返って悲鳴をあげた。もちろん、そこにいたのはゼロではない。 「…あの」 天冠を装着した神無が申し訳なさそうに下を向いて小さな声で「すみません」と謝った。驚かすつもりはなかったのだ。というより、自分はそんなに怖いのだろうか、とほんのり凹んでみたり。 「あ、いや、その、それ…なんで付けてるのかなあ?」 キアランは“それ”を指差しながら慌てて取り繕う。別段壱番世界の日本出身というわけではなかったが、いろいろな知識によって“天冠=幽霊”みたいな図式が彼の脳内に出来上がっていたのだ。 「この試作品とやらで彼らの思いを聞けるなら喜ばしいと思って。霊を苦しみから解放したいと思って退魔師の仕事をしてきたから」 神無が答えた。 「なるほど…」 しかし幽霊は存在しないのだから、と続けようとしたキアランより早く神無が提案する。 「全員で回ると効率が悪いので、手分けした方がいいと思います」 「え? 手分け?」 キアランは無意識に後退った。それはつまりこの病院を一人でまわるという事だろうか。いやいやいや、などと忙しく表情を変えていると。 「ゼロも賛成なのです。依頼で何らかの危険があるなら司書さんの予言に何がしかあるはずなのです。危険についての言及は無かったので、もしオバケさんがいてもおそらく無害なオバケさんなのです」 ゼロの言にキアランは視線を泳がせた。とはいえ、何のためにメンバーを集ったと思っているのか…とは言い出せない男40歳であった。すると。 「3人以上一緒なら平気だけど1人はちょっと怖いな」 キアランの心の声を代弁するかのようにユーウォンが言った。キアランは速攻便乗する。 「よし、じゃぁ3手に分かれるか…」 確か9人いるからちょうど3人づつ分かれたらいいと思ったのだ。しかし1人足りない。キアランはドキドキしながら人数を数えなおした。もしかしてこれって最後には誰もいなくなるパターンじゃ…とキアランは生唾を飲み込む。そんな不安をよそに。 「リーリスさんは?」 明日がゼロに尋ねた。 「はばかりにって1人で先に行っちゃったのです!」 「え?」 自分を数え忘れるなんてお約束もなく最後の足りない1人の理由も行き先もあっさり判明したのだった。 その頃リーリスは、新館のエントランスにいた。 魅了は全開だが精神感応は全開ではない。全開にしてやってきたのだが、廃病院に着くなり夏の蝉のようなけたたましいほどの声があちこちから聞こえてきて止めた。全開にしているとウルサすぎて頭が痛くなるのだ。特にあの甲高いヒステリックな笑い声が耳に不快だった。更に言えば、四方八方から聞こえる声に居そうな場所を特定するのは不可能と感じたからである。 だが、それは言い換えれば、ここにはおびたただしいほどの数の“アレ”がいるということであった。 犬も歩けば棒に当たる。 ちょっと歩けば幽霊に当たる。 そこでリーリスが一番出そうな伝染病病棟ではなく新館を選んだのは他でもない。 彼女も見ていたのだ。 キアランが何か動いたと指差した先に動く影を。 リーリスは早速その窓のある病室を目指した。もちろんそれは幽霊かもしれないロストナンバーを救出するため…などではない。そこにあるだろう霊魂を喰い尽くす事。それが彼女の目的だったのだ。 その病室は6人の大部屋だった。窓辺のカーテンが風に揺れている。いや、窓は開いていない。 リーリスは口の端をあげた。 「お前たちを助けてあげる、全ての苦しみから解放してあげる…おいで」 優しく声をかける。それは言葉とは裏腹に捕食者の絶対的な力がこめられていた。 カーテンの向こうから黒い影。 『キャハハハハ』 小さな子どもの影が楽しそうな笑声をあげながら病室を駆け回る。そこには餌としての恐怖の色などない。リーリスはやれやれといった顔で子ども影を追う。ところが子どもはするりと障害物をすり抜けるが、リーリスは抜けられない。 「ちょっ…肉体…邪魔っ…」 思わずつんのめって転んでしまうとポケットに入っていた使い捨てカメラが転がった。パシャリ。 「あ…」 子どもは楽しそうに走り回って床をすり抜け消えた。 リーリスは嫌そうな顔をしながらカメラを拾い上げる。今の角度だと、転んだ自分が写っていることだろう。現像したら1枚目は速やかにシュレッダーしなくては。 しかし、今の子どもは…。 ■廃病院新館■ 結局4人づつ二手に分かれ新館と本館を回って、一番出そうな伝染隔離病棟は最後にみんなで回ることにした。 ゼロとキアランと来歌と明日の4人は新館の入口の前に立った。電気は通っていないため自動ドアは開かない。リーリスはどこから入ったのだろう、と訝しみつつ、入れそうな場所を探して歩くと割れたガラスに開いた窓を見つけた。ここから入ったのだろうか。 中は薄暗く埃っぽい空気は湿気を含んで重苦しいが、ゼロは気に留めた風もなく懐中電灯を点けて歩き出した。 「“これ”の導くままアレのいそうなところに向かうのです」 「いいいや、何言っちゃってるの。あああアレなんていないんだからなっ、“それ”が活躍することもないんだからからなッ!」 キアランは心頭滅却すべく自分に言い聞かせている。 紛らわしいからと前を進むゼロの後にビクビクしながらキアランと明日と来歌が3人横に並んで続いた。 「本当、暗いわね」 廊下には窓があって外からは日の光が入っているはずだった。だが思った以上に暗いのだ。まとわりつく蜘蛛の巣を払いながら明日は小さく息を吐く。 「幽霊ってシースルーだから明るいと透けちゃって見えないのかも? …なんて、な。幽霊なんていないけど」 沈黙に耐えられなくなったのかキアランが無駄な大声を出す。 「それは困るのです。懐中電灯消すのです」 言うが早いかゼロはあっさり懐中電灯を消してしまった。懐中電灯の光に慣れていた目は、薄暗い空間をいっそう暗く見せた。ガラスの割れた窓から入ってくるすきま風がひんやりと3人の頬を撫でる。 「けっ…消さなくていいから、懐中電灯の明かりくらいなら大丈夫だから早く点けましょう、ね」 明日は懇願するように言った。 「懐中電灯は大丈夫ですか」 ゼロは再び電源をONにする。 「ホッ…」 その明かりに安堵の息を吐きつつ周囲に目をこらした。病院の無機質な壁と静かな廊下が続いているだけだ。4人は再び歩きだした。自分たちの足音が長い廊下にやけに大きく響く。 「ゼロはいい方法を知っているのです」 ふと、前を歩くゼロが言った。 「いい方法?」 「味の濃いものを食べると薄い味がわからなくなるのです。だから怖い話をしたら幽霊さんも怖くなくなるのです」 ゼロは自信満々だ。 「そういうものかしら?」 「べべべ別におじさんは怖くないから、だだだ大丈夫だぞ」 「怖い話って?」 来歌が尋ねる。するとゼロはトーンを一つ落として厳かに語り始めた。 「これはゼロがAさんという人から聞いた話なのです。Aさんには一つの癖があるのです」 「癖?」 明日の問いにゼロが頷いた。 「その人は天井の四隅を反時計回りに見上げてしまうのです」 ゼロの言葉に、何となく明日と来歌は天井を見上げる。といっても廊下では4隅はずっと遠く暗くて何も見えない。 「例えばエレベータの中とかです」 「今回はエレベータは動いてなくて良かったなあ」 キアランはわざとらしく大きな声を出して大仰にホッとしてみせた。 「ある日Aさんは怪我で入院してしまいました。消灯後…Aさんはふとトイレに行きたくなり、暗い病院の廊下をトイレへ向かったのです。彼女は用を足しながら、ふといつもの癖を始めてしまいました」 ごくり…と3人は生唾を呑みこんだ。 「Aさんは右前方の天井の隅を見上げました。もちろん暗い天井があるだけなのです。次に左前方の天井の隅を見上げました。やっぱり何もないのです。次に左後方の天井の隅を見上げました。何もないのです。そして最後に右後方の天井の隅を見上げると……」 「ギャァァァァァァァァ!!!」 キアランの悲鳴に明日と来歌が驚いて飛び退った。互いに両手をしっかと握り合い恐怖に顔を歪めながら周囲を見回している。 当のキアランはといえば。 「はっはっハハ! おお驚いただロう!」 などと頬を引きつらせながら豪快に笑っていた。 「……」 よほどゼロの話を最後まで聞くのが怖かったのか、その先を想像して悲鳴をあげてしまったのか、それを明日と来歌を驚かせるためと誤魔化したのか。とにもかくにも目尻に涙を溜め込みながら笑われても、である。 明日と来歌はゆっくり息を吐き出した。安堵のそれにゼロが笑う。 「これでみんな幽霊さんが怖くなくなったのです」 「そうかな?」と来歌。 「結局何が居たのかしら?」などと考えていると、明日は少し怖さが和らいだような気がした。 「幽霊じゃないのは確かね。ここは壱番世界だから」 来歌がきっぱりと言い切るとキアランも頷く。ゼロの話が壱番世界と言及されていないことにはお互い敢えて触れなかった。 「ストーカーかしら」 明日は真顔で言った。本気でそう思っているという顔だ。 「誘拐犯かも」 来歌が言った。そうやって推理を重ねていくことで3人は幽霊を思考から閉めだしたのである。人はそれを現実逃避と呼んだ。だが。 「こっちに“アレ”がいそうなのです!」 ゼロは3人をこっちの世界に呼び戻した。 “それ”の導くままにそこにあったドアを開く。 「待って! ドアを開ける時は注意しなきゃ」 明日が慌てて止めた。“犯人”が潜んでいるかもしれないのだ。彼女はまだ逃避世界にいた。 「もう開けてしまったのです」 ゼロはドアを開けて中を覗いた。カンファレンスルームと札のかかったその扉の奥には大きなテーブルとホワイトボードがあるだけで、残念ながら“アレ”は見つからない。 ゼロは残念そうに扉を閉めかけて何かに気づいたように部屋の中に入った。部屋の奥には別の部屋に続く扉がある。札にはドクタールームとあった。 「こっちなのです」 ゼロはそう言ってその扉のノブを掴んだ。 「どうして?」 明日が尋ねる。 「ここに矢印があるのです」 ゼロの指差した先にはなんと蛍光ペンで進路表示的な矢印が書かれてあった。 「えぇっと…どういうこと?」来歌が眉間に皺を寄せる。 「幽霊さんはこっちにいるのです」ゼロはきっぱりと言い切った。 「幽霊が何のためにこんなものを…」 明日と来歌は顔を見合わせる。何かを確信したような顔だ。 「自分を見つけて欲しいのです」ゼロが言った。 「別の何かを感じるわね」そう呟く明日の表情からは恐怖の色が消えていた。 「ええ。幽霊でないなら、怖くはない」来歌も頷く。 ロストナンバーが我々に助けを求めているかもしれないのだ。 「そそそうか。なら矢印に沿って進むぞ」 助けを求めているとしたら、何かしらの危険が迫っているということかもしれない。何かに襲われそうになっている…その何かが幽霊でないことを祈りつつ。 「一応、途中の病室も覗きながらね」 「ああ」 そうして4人は矢印の方に進みつつ途中の病室も用心深く覗いたのだった。 「……ここも?」 キアランはそのドアを指差して尋ねた。ここは病室ではない、と目で訴えながら。彼の指差すドアには紳士の青のシルエットのプレートがかかっていた。 「当然でしょ。そっちは任せるわ。私たちは女子トイレを見てくるから」 明日は刑事の顔でさらりと言った。男は男子トイレ、女は女子トイレ。 「え? いいいいやいやいや、えぇ!?」 キアランは食い下がろうと試みる。だって男は1人しかいないのだ。だが。 「じゃぁ、お願いね」 女性陣はさっさと女子トイレへ入っていった。 「……」 キアランは廊下に1人取り残された。後を追うように女子トイレのドアに手を伸ばして踏みとどまる。男としてのプライドがぎりぎりのところで彼を男子トイレへと導いた。早く終わらせてしまおう。 「ロストナンバーさーん」 小声。ちらっとのつもりで一応個室の中を覗いた時、ふと、彼の脳裏をゼロの怪談がよぎった。確か天井の隅を順に見るんだったか…。見てはいけないと思いながら、確認しない方が怖いような気がして、キアランは恐る恐る天井を見上げた。右前方から始まって4隅を順に見やり、何も無いことに安堵したその時だ。最初に見上げた天井の隅に……。 「ぎぃっやぁぁあああ!!」 ゼロと明日と来歌は女子トイレへ入った。個室の中まで確認する。躊躇する風の明日に来歌が怪訝そうに声をかけた。 「どうしたの?」 「よくある学校の怪談を思い出しちゃって。でもここ、病院よね」 と明日は個室の扉を開く。もちろん、誰もいない。安堵の息を吐いた時だった。鼓膜を破る悲鳴があがったのは。 明日は驚いて壁で背を叩いた。ビクッ。 傍らで来歌がトラベルギアの単発式対戦車ライフルを展開していた。 だが今の声は間違いなくキアランのものだ。 と、明日は何かに気づいたように辺りを見回した。 「彼女は?」 「ゼロなら、アレはあっちにいるような気がすると言って…」 そこまで話して来歌はハッとした。明日も同じ結論に達している。…なんて人騒がせな、と2人は思った。 2人はトイレの外へ出た。廊下に白装束の少女が1人佇んでいるのを見つけて一瞬ビクッとしたが、すぐにそれがゼロだと気づく。 「彼は?」 「ゼロが廊下に出ると、男子トイレから飛び出してきたキアランさんは走って行ってしまったのです」 ゼロは不思議そうに首を傾げて答えた。 「へ?」 てっきり、彼はゼロを幽霊と見間違えたのかと思っていたのだが。 果たして、彼は何を見たのか。 ◆ 「来ない…」 その部屋でリーリスは彼らが来るのを今か今かと心待ちにしていた。 この前の依頼でお腹がすいていた。おびただしいほどの数のアレがいるなら1つ2つ減ってもバレないと思った。だが残念ながら食事にはありつけそうになかった。 とはいえ。もちろんそれだけが目的でここへ訪れたわけではない。食事が出来ないなら“面白おかしく廃墟探検”し、本人や司書に進呈するため“キアランやみんなのへっぽこぶりを写真に収める”だけなのだ。 だからこうして使い捨てカメラも用意し、コンニャクをはじめとした脅かしグッズで罠もばっちり張り巡らし、怖がる人々のトンデモ写真ゲットのため、待ちかまえていたのである。 迷子にならないよう、ご丁寧にも進路表示までして! 「何で、誰も来ないのよー!!」 もちろんその頃キアランも明日も来歌もそれに同行するゼロも、それどころではなかったからである。 ■廃病院本館■ 本館の入口は新館同様開かなかったが、面会者入口の扉の鍵が壊れていたので、アルバとヘルとユーウォンと神無はそこから中へと入った。 薄暗い廊下にユーウォンが懐中電灯を点ける。こもった空気がどんよりと4人の行く手を阻むように滞留していた。 地下へと続く階段を4人で連れ立って下りる。踊り場を曲がると一層闇は深くなった。夜目のきくオウルフォームのセクタン――ロメオのおかげでそれなりには見えるものの緊張のためか無意識に何度も唾を呑みこんでいたヘルは、ふと思い出したように胸元を探った。 「そういえばこんな事もあろうかとロザリオ持ってきたの!」 地下にあるのは霊安室だ。霊安室と言えば棺桶。そんな連想が働いたのか。首からさげて服の中に仕舞っていたロザリオを胸元に飾る。 「ママのおさがりよ。あとね、聖水入りの瓶でしょ、杭でしょ、玉ねぎでしょ…退魔アイテムごっそり持ってきたの」 ヘルはポシェットの中からそれらを一つ一つ取り出してみせた。 「それってドラキュラ対策グッズじゃないっすか?」 アルバが半ば呆れた調子で言った。 「うっさいわね! ド…ドラキュラの幽霊だっているかもしれないじゃない」 「なるほど」 アルバはあっさり納得したが、ユーウォンはうーんと腕を組んだ。 「確率は限りなく0に近そうだよ?」 「ふん! 出てきても知らないんだからね!」 拗ねたようにそっぽを向いてヘルはロザリオを握りながら何やら呪文を唱え始めた。 「悪霊退散エロイムエッサイム……」 「……」 とその時だ。ヘルの首筋に何かが触れたのは。 「キャー! 出たー!!」 脊椎反射で回し蹴り。更にギアの対魔弾を問答無用で撃ちまくる。壁に張り付いて何とか弾を避けたアルバが白旗を挙げながら言った。 「自分っす…自分」 ロメオがいるから暗闇は平気だが、死角が全くないわけではなかった。そこをついてアルバがいたずらしたのである。 「紛らわしいことしないでよね!」 怒って背を向けるヘルに舌を出しつつアルバが誰にともなく声をかけた。 「でも、幽霊ってどんな感じなんすかねぇ?」 幽霊とやらがどんなものかイマイチよくわかっていないアルバである。ヘルが用意した退魔アイテムで退けられるようなものなのか。 「私が出会ったのは花札がとてつもなく弱い霊だった…向こうが勝つまで成仏して貰えなかったわ」 神無は霊安室とプレートのかかった扉を開きながら言った。暗闇に懐中電灯を巡らせる。 「花札っすか?」 アルバも中を覗いたが、暗くて殆ど何も見えない。ヘルのロメオがその肩に乗って中を覗いた。 「幽霊はこの世に何かしらの未練があるものだから」 神無がそれらしいモノはないと確認するようにヘルと頷き合いつつ扉を閉じる。 それが幽霊というものなのか。死んだ人の霊。死んでも出てくるのだからそういうものなのかもしれない。 「そういえば、何の幽霊だったか聞いてなかったわね」 隣の病理体保管室とやらを覗いていたユーウォンの後を追うように歩き出した神無がふと思い出したように言った。 「普通に人を想像してたっす。でも0世界の住人を考えるとそんな単純じゃないかもしれないっすね」 ここは壱番世界だが、相手がロストナンバーということは壱番世界の人間ではないということだ。アルバ自身ドラゴンハーフである。 「確かにコビトの幽霊だったら…棚の隙間とかにいたら見逃してしまうかも」 ヘルが言った。手探りで中を歩き回るユーウォンに続く。ロメオの目を借りてヘルは隅々まで目を凝らした。 「ゴミ箱の中も一応見とくっすか? おっこちて出られなくなってたら大変っす」 そう言ってアルバがごみ箱の蓋を開いた。だが中を覗いたのは肩の上のロメオだ。アルバがヘルを振り返る。ヘルは首を横に振った。 「逆に巨人なんてのもあるかもしれなわね」 神無が戸棚を開いた。 「犬とか猫とか可愛いのだったら…いいかな?」 それなら怖くないかもしれない、と思ったが、可愛いハウスドッグならともかくドーベルマンとかだったらちょっと怖いかもしれない。 「竜の幽霊もいるかも」 ユーウォンが尻尾を振って見せた。 「なんだか全然怖い感じがしないっす」 アルバが肩を竦める。 「悪霊だったら成仏させてやるだけよ」 ヘルが強気に請け負った。この部屋にも何もいないようで4人は部屋を出る。階段を登って今度は上の階へ。 「なんか燃えてきたっす」 アルバが颯爽と先を進んだ。 「この部屋はなんだろう?」 ユーウォンは壱番世界が初めてで、いろんなものに興味津々だ。先ほどからずっと、あれはなんだろう、これはなんだろう、と独り呟いている。 「手術室のようね」 中に入っていくユーウォンの後に続きながら神無が言った。 「手術室?」 「怪我や病気を薬以外の方法で治療する場所…? あ、魔法や超能力とかもなしね」 厳密には少し違うが、神無は出来る限り噛み砕いて説明してみた。 「へぇー」 取り敢えず納得したのか、ユーウォンは手術室の中を物色し始めた。「幽霊さーん」と声をかけながら道具の隙間を覗きこみ、どけた道具を取り上げて「これ、何するものだろう?」と首を傾げている。 「手術道具だとは思うけど…たぶん。止血するために血管をそれで挟むんじゃないかな?」 神無は曖昧に答えた。廃病院には何度か仕事で来たことがあるが医療関係に詳しいわけではないのだ。 「この棚に並んでるのは?」 ユーウォンが尋ねた。 ガラス戸棚に口広の瓶が並んでいる。中には肉質の赤いものが浮いていた。 「ホルマリン漬け…かしら? たぶん手術で切除した病片だと思うわ」 「へぇー」 珍しげにユーウォンはそれを見つめているが、ヘルは気味悪げにそこから視線をそらせた。レバーは人のものでも人のものでなくてもあまり好きではない。 別の棚を見て回る。 「こっちの棚は薬品が並んでるだけね」 「激物もあるかもしれないから気を付けてね」 言いながら、神無はシンクの方を見て回る。 「これは、何?」 ユーウォンがまた別の新しいものを見つけてきた。 「ああ、酸素タンクと、こっちは窒素タンクね」 神無は答えながらそちらへと足を運ぶ。ユーウォンが「こっちの部屋はなんだろう?」と扉を開いたからだ。 「MRI室だわ。電磁波で体の断面映像を撮影するの」 「断面映像?」 ユーウォンはおうむ返しながら自分の体を見下ろす。 「切るの?」 「まさか。切らなくてもちゃんと断面図が見られるのよ」 「使えないかなぁ?」 ユーウォンは興味津々だが。 「電気がきてないから無理だわ」 神無が言った。ユーウォンは残念そうに俯いたが、それ以前に、電気がきていたとしても動くかどうかは怪しい上に、使い方もわからない。 そんなこんなで4人は3階へやってきた。 「ここは?」 早速ユーウォンが尋ねる。 「ナースステーションね」 各病室のモニタや、カルテなどが所狭しと並んでいる。4人は手分けしてナースステーションを捜索すると、病室の方に歩を進めた。 「そういえば、ユーウォンも幽霊を見たことがあるって言ってなかった?」 ヘルが大部屋を覗く。6つのベッドが並び、それぞれにサイドテーブルがついていた。ベッドを仕切るカーテンは開いている。一通り見回したが捜し物はなさそうだ。 「うん、あるよ。屋敷の廃屋で見た幽霊で、白く透ける人影」 ユーウォンが答えた。 「やっぱ、人型っすか?」アルバが聞く。 「うん」 「怖かったっすか?」 「うーん、どっちかっていうとひどく哀しげだったことの方が強く印象に残ってて…」 「へぇ」 「そうそう、丁度あんな感じ」 そう言ってユーウォンは廊下の先を指差した。 「あんな感じ?」 3人はユーウォンの指差す方を一様に見た。そこに1人の女が立っている。白く透ける人影。憂いを帯びた表情。 「あれが幽霊っすか!? 初めて見たっす」 子どもみたいにはしゃぐアルバとは対照的にヘルがトラベルギアのリボルバーを構えた。それを神無が慌てて制しる。 「待って!! 交信できるかも」 その為に天冠を装着してきたのだ。神無は3人の前へ出た。出来る限り穏やかな優しい声をかける。 「えっと…あの…私たちに敵意はないわ」 「そっすよ。どうせならお友達になりたいっす」 「わ、私もよ」 ヘルはギアを納めた。 果たして幽霊はこくんと頷くと、そのまま3人に背を向けて壁の向こうに消えて行った。 ホッと安堵の息を吐く。 それからはたと気づいた。 「私たち、彼女を保護しに来たんじゃないの?」 「あーーーっ!!」 「ロストナンバーさーん!」 「幽霊さーん!」 「もう1回出てきてよー!!」 だが、幽霊の消えた壁の向こうは外、ここは3階、というのが原因なのか、幽霊は本館には2度と現れなかった。 ■伝染隔離病棟■ キアランは見てはならぬものを見てしまった。何を見たのかは推して知るべし…なのは、キアランがそれを記憶の奥底に閉じこめてしまったからだ。ただ、彼は悲鳴をあげながら走り出した。闇雲に無我夢中に、もう何が何だかわからないまま、鉄パイプを振り回しながら走った。そして彼は1人で伝染隔離病棟に入っていった。(合掌) 「――というわけで、キアランさんを探しに行きます」 明日が言った。 「もちろんロストナンバーの捜索も引き続き行います」 そこにはゼロと来歌の他に、本館の4人組とそれからリーリスも加わっていた。 「…っとに、信じらんない」 リーリスは憤懣やる方ないといった風情だ。せっかくのベストショットを逃しまくった上に、迷子の捜索ときたもんだ。何のための案内表示だったのか。しかもその迷子の先は新館ではなく伝染隔離病棟というのだから、全くもって納得が出来るのもではなかった。どこの方向音痴か。こうなっては全てをかの伝染隔離病棟に賭ける他ない。 とリーリスの気合いの入りっぷりはともかくとして、8人はそれぞれ分担することにした。 まずヘルとユーウォンがロストナンバーを探しに外の焼却炉を覗きに行く。そんなところにいるかしら、と明日は首を傾げたが、コビト(の幽霊)と言われて納得した。 とはいえ、本館でヘルとユーウォンが見たのは、壱番世界の一般女性サイズだったのだが。 かくてヘルとユーウォンを除いた6人は3人づつ分かれて伝染隔離病棟へと足を踏み入れた。2人は後で合流予定だ。 キアラン捜索部隊は残り香の追えるリーリスに加え、明日と来歌の3人が。幽霊もといロストナンバー捜索には“それ”を装着しているゼロと神無、幽霊に会いたいアルバが行くことになった。 ところが。 「彼は4階にいるわ」 そう言ってリーリスは恐怖とは縁遠い笑顔と軽やかな足取りで分かれてしまったためキアラン捜索部隊はあっさり2人きりで進むことになってしまった。 残された明日と来歌。さすがに2人は心細い。新館と違ってレンガ造りの伝染隔離病棟はその雰囲気だけで十分だった。懐中電灯の小さな明かりを頼りにキアランがいるという4階を目指す。さっさと合流してしまおう。彼がいれば少しは心強くなる。たぶん。 2人は互いに幽霊はいないを繰り返し励まし合いながら4階へと階段を上っていった。 4階へと続く踊り場で上から何か物音が聞こえてくる。 「これ…何の音?」 ドタバタと何かが暴れるような音に2人は顔を見合わせた。それに混じって時々鼻を啜るような音が聞こえてくる。そういえば夜毎すすり泣く声が聞こえてくるという話だったことを思い出して明日は腕時計を確認した。壱番世界に到着した時に現地時間に合わせた時計はまだ日暮れ前だ。 「この声、どっかで聞いたことあるような気がするんだけど…」 来歌が呟いた。明日も耳を澄ます。確かに最近よく聞いた声だった。 「キアランさんだわ」 ◆ 一方、幽霊もといロストナンバー捜索部隊。 「こっちなのです」 ゼロが言った。伝染隔離病棟1階エントランスである。廊下は西と東に分かれていた。どちらも薄暗い空間が続いている。1階には治療室や研究室などがあり、廊下を大きな扉の付いた壁が仕切っていた。恐らくその壁から先が病室になっているのだろう。 「私もそんな気がするわ」 ゼロが指差す東側廊下を眺めながら神無も頷いた。 「すごいっす。やっぱり“それ”の力っすか?」 「そうなのです。ゼロは“これ”の使用レポートをまとめるという任務もあるのです」 「自分も付けてくればよかったっす」 アルバが残念そうに地団太を踏むと、ゼロがそれならと浴衣の帯からそれを引っ張り出した。 「もう1個あるのです!」 「やった!!」 アルバは早速装着してみると、エントランスの奥にある姿見で具合を確認する。少し曲がったそれをきちんと戻して準備万端。 そして3人は“それ”の導くまま、いつの間にか3手に分かれていたのだった。 ゼロは何の疑いもなくその病室に訪れた。 どうやら伝染隔離病棟には大部屋というものはないらしい。その性質を考えれば当たり前だった。 スライド式の二重扉を開くと6畳1間ほどの広さの部屋にベッドが1つ、ライティングビューローが1つちんまりと並んでいた。まるで簡素なホテルの一室のようだ。テレビはないが片隅に小さな冷蔵庫。手前にクローゼット。 ゼロは部屋を隅々まで見て回って、更にユニットバスを覗いた。浴槽の中にも何もない。 どうやらここにはいないのか。 「おかしいのです。“これ”は確かにここに気配を感じているのです」 ゼロは首を傾げながら浴室から部屋に戻った。そのまま一瞬足を止める。そこに小さく蹲る小さな女の子を見つけたからだ。先ほどは気づかなかった。確かにいなかったはずだ。いつの間に現れたのか。二重扉は開けっ放しになっているが、誰かが部屋に入ってきた様子はなかった。 ゼロは対抗心が燃え盛った。 女の子に声をかけることなく女の子の隣に膝を抱えて座る。“いつの間にかいる”で張り合おうというのだ。 女の戦いが今、静かに幕を開けた。 アルバがその病室に訪れたのは必然だったのか。はたまた“それ”のなせるわざに過ぎないのか。ゼロの使った東側の階段とは対称の位置にある西側の階段を使って結局彼女はゼロと同じその病室にたどり着いた。 ただ少しゼロより遅かっただけだ。 アルバは意気込んで中へ入ると幽霊を探した。先ほど本館で見た幽霊は透き通っていた。だから見落とさないようにと細心の注意を払う。そして。 「見つけたっす!」 アルバはまるでかくれんぼうの鬼が子供を見つけたような晴れやかな顔で、それらしい白い影を元気よく指差した。 「見つかってしまったのです」 白い影が言った。 「透き通ってない」 アルバは白い影に近づきながら目を凝らす。 「ゼロは幽霊さんではないのです」 ゼロは立ち上がって答えた。 「幽霊はいないっすか?」 アルバはがっかりしたように肩を落として尋ねた。 「ここにい…いつの間にかいないのです」 ゼロは、蹲った女の子のいたはずの傍らを見下ろしながら不思議そうに首を傾げている。 「いたっすか?」 「ここで“いつの間にかいる”対決をしていたのです。でもいつの間にかいないのです。侮れないのです」 ゼロはまだ、きょろきょろと辺りを見渡している。 「いつの間にかいる対決?」 アルバが怪訝な顔をした。 「ゼロも得意なのです」 ゼロは胸を張って答える。確かに、いつの間にかいるのは得意そうだ、と思いつつアルバは聞いてみた。 「それってどうなったら勝ちっすか?」 「いつの間にかいたら勝ちなのです」 ゼロの答えは単純明快だ。 「それってこんな感じっすか?」 と、言いながらアルバはゼロの背後を指差した。指差しつつ、アルバも半ばびっくりしている。 「……!?」 振り返ったゼロが驚いたように女の子を見下ろした。女の子は相変わらずそこに小さく蹲っている。 「すごいのです!」 アルバも頷いて女の子を見下ろした。透けていたはずの女の子がどんどんその濃さを増していく。 「ホンモノさんの技は凄く凄いのですー」 ゼロの賞賛の言葉にしかし女の子は俯いたままだ。 「こんばんはなのです。ゼロはゼロなのです」 とゼロが自己紹介しながらしゃがんで女の子を覗き込む。女の子はようやく顔をあげた。不安そうな顔をゼロに向けている。歳は5~6歳といったところか。白いレースがたっぷりあしらわれたゴスロリ風の服を着ている。 女の子は小さな声で『キルシュ』と言った。 「キルシュさんというのですね」 ゼロが笑みを向けると、キルシュは少し心を許したのか立ち上がる。それにアルバが手を伸ばした。 「アルバっす」 握手を求めるように出された手をキルシュが掴む。冷たいと思っていたその手はどこか暖かかった。ただ、意識していないと簡単に擦り抜けそうな曖昧な感触だ。 『遊んで』キルシュが言った。 「遊ぶのです!」ゼロが応えた。 「何して遊ぶっすか?」アルバが尋ねると、キルシュは2人を促すように壁に向かって走り出した。 『こっち』と壁を半分擦り抜けてキルシュが2人を呼ぶ。 「いや、それは無理っす」アルバは全力で手を振った。 『?』キルシュは不思議そうにアルバを見ている。 キルシュの隣でゼロが壁を撫でまわしていた。 「…これだとせっかく幽霊さんを見つけても追えないのです」 ふと気づくと1人取り残されて神無は慌てた。つい先ほどまで2人の声も2人の気配も感じていたのだ。足音だって聞こえていた。それがまるで忽然と消えたのだ。 「ゼロさん。アルバさん」 呼んでみるが返事はない。 退魔師をしていたのだ。幽霊を怖いとは思わない。だが薄暗い廊下にぽつんと1人佇んでいると、途端に神無は心細くなった。仲間を捜すように手近な扉を開いてみる。スライド式の二重扉の奥には何の気配もない。 どうして誰もいないのか。神無は焦燥感と共に向かいの部屋の扉を開いた。いない。 その時だ。突然バタンと大きな音をたてて背後の扉が閉じたのは。 「キャーッ!!」 思わず上がる悲鳴。先ほど開けっ放しにしてしまった扉だった。神無はその音に驚いて立ちすくみつつも扉を振り返った。人の気配はない。と、自分が掴んでいるドアノブに重さを感じた。閉じようとする扉。しかし閉じようと加えられる力はどこからくるものなのか。 すると扉の向こうの部屋の中のものがベッドからサイドテーブルからあれやこれやがすーっと一斉に部屋の右側へ滑った。 血の気が引く。まるで廃病院が傾いていくような錯覚に息を呑んだ。彼女が幽霊以上におそれるもの。建物の崩落。神無はドアノブから手を離し恐々と後退った。 レンガ造りの建物だ。そう簡単に崩れるわけがない。だが年代ものだった。 「あ…あ…」 無意識に漏れる怯えた声。 早く逃げなきゃ。みんなにも伝えなきゃ。 その時だ、ドスドスという音とペタンペタンという音とカツカツという音が同時に聞こえてきたのは。 廊下の向こうに光が見えた。 「!?」 ◆ ヘルとユーウォンは外回りを終えて伝染隔離病棟の中へ入った。 本館と違って暗さが増しているのは窓が少ないせいだろうか。暗いからといってロメオのいるヘルには関係ない。ただ、お化けがいるかもと思うと少し不安になって、ヘルは怖さを紛らわすために明るいことを考えることにした。 こんな時はコイバナだ。コイバナに限る、とユーウォンを見上げる。しかしコイバナというのはいわゆるガールズトークであって、彼は乗ってくれるだろうか。 「うん?」 自分を見上げるヘルの視線に気づいてユーウォンが首を傾げた。 「怖いの?」 と聞いてくる。 「こっ、怖くなんかないんだからねホントに、でも怖いなら手を繋いであげたっていいわよ、はぐれちゃったら大変だもの!」 そうしてヘルはユーウォンの腕をぎゅっと握った。先ほどは4人もいたが今は2人しかいないのだ。だけど、とふと思う。 「ホントにロストナンバーがいたら…暗闇にひとりぼっち、さぞ心細いでしょうね」 「そうだね」 「早く迎えにいってあげないと」 そう思うと、少しだけ怖さは薄らいだ。 すると程なくして小さな声が聞こえてきた。嗚咽するような、どうかすると泣いているようにも聞こえる。 ヘルはユーウォンと顔を見合わせて足を速めた。他の人の応援を呼んだ方がいいだろうか。確認するのが先か。 心臓の音がドキドキと外にまで聞こえそうなほど大きくなっていく。 ヘルとユーウォンは足音を殺すようにして廊下の向こうをそっと覗いた。思わず悲鳴をあげないように口を押さえたのは、もちろん相手を驚かせないためだ。 「!?」 顔を覗かせた瞬間何かが首に巻きついてヘルが驚く。とはいえ、恐怖や嫌悪はこみあげてこない。抱きついてきた相手が誰なのかすぐにわかったからだ。 「良かったぁ!!」 そう言って神無はヘルの肩口に顔を埋めた。心底ホッとしたように。何があったのかはわからない。 ただヘルは彼女の反応を単純に幽霊が怖くて、と解釈した。物静かで陰気な印象を持っていたが、本当は可愛いところもあるんだなぁ、と親近感が沸いてくる。 「もう、大丈夫。一緒に行こう」 ようやく落ち着いた神無を元気づけるようにヘルが笑いかけた。神無も安心したように少しだけ頬を緩める。 「そういえば他の人たちは?」 ユーウォンが尋ねた。 「どこかではぐれちゃって」 「じゃぁ、探す対象がまた更に増えちゃったね」 少しおどけた風に笑ってユーウォンは2人を促した。廊下を3人並んで歩く。 「ねえ、好きな男の子いる?」 ヘルが唐突に尋ねた。 「え?」 神無が面喰う。いきなり何を聞くんだと戸惑いを浮かべていると、それをいないと解釈したのか、ヘルは更に質問を重ねた。 「じゃぁ、好みのタイプは?」 「……」 神無は言葉を失う。そんなこと考えたこともなくて返答に困っていると、ヘルは自分のコイバナを始めた。 「私の彼はね、ちょっとチャラくてお調子者だけどイケメンな高校教師で、すっごく頼りにな…」 そこで彼女の言葉が途切れる。 「な、何!?」 ヘルは冷気のようなものを感じて身構えた。 「うらめしや~」 という声を反射的に回し蹴りしている。その時には神無も抜刀していた。 ユーウォンが何とも不思議そうに尋ねた。 「何やってるの?」 「いたずら…ごっこっすか?」 ユーウォンの前に突っ立っていたアルバが答えた。 「また、あんたなの?」 ヘルは呆れたように肩を竦める。 「いやあ、遊ぼうって」 アルバが頭を掻く。 「遊ぶ?」 オウム返してヘルはアルバの視線を追いかけた。そこにはゼロがいて、隣には…。 「!?」 『遊んで』 ◆ 少し時間を遡る。 明日は来歌に目配せした。部屋の中から聞こえるすすり泣き…ではなくどちらかといえば号泣に近いそれ。間違いなくキアランのものだ。ただキアランは1人でその部屋にいるようではない。何かが暴れているようなそんな音がするからだ。 明日と来歌はそれぞれに得物を構えた。彼は何かと抗戦中。3つ数えて来歌が扉を開いた。先に飛び込んだのは明日の方だ。そのまま姿勢を低くして背中を壁に預け、その病室にゆっくりと視線を巡らせる。その時には来歌も病室に突入していた。それから2人はぎょっと目を見開き壁に張り付いた。無意識に後退ろうと足が動いたが壁がそれを阻んでいる。 「同士っっ!!」 キアランが明日を見つけて駆けてきた。今にもタックルしそうな勢いだ。 「うわぁぁぁん、こわかったよぉぉぉ」 キアランが明日に抱きついた。 「幽霊って1人じゃないの?」 明日は頬をひきつらせ、キアランをぶら下げたまま聞いた。 「7発じゃ全然足りない…」 来歌は放心状態だ。 幽霊どもがゆっくりとこちらへ押し寄せてきた。まるで津波のように。 「ぎやあああぁぁぁ!!」 キアランの悲鳴を合図に3人は這う這うの態で廊下へ出ると一目散に走り出した。 「違うのっ…あれは違うのよっ…だって幽霊なんてこの世にいないんですものぉぉぉおおお!!」 『きゃははははは!』 と陽気に笑う幽霊集団を見送りながら、リーリスは3人の慌てふためく絵を写真に収めて満足げな笑みを浮かべた。 「うふふ。いい仕事してくれるじゃない」 3人を追っている数多の幽霊。奴らは数多であって実は1人でしかない。 ちょっと頂いてしまってもバレないと思っていたら、幽霊どもは全て一つに繋がっていたのだ。あれらは、本体の一部だった。 リーリスが精神感応を諦めるに至ったあのやかましいほどの声の正体は、その本体がドーム状に貼った結界によるもので、声が乱反射し増幅されていたに過ぎなかったのだ。 まったくもって紛らわしい。 本体の一部がキアランを脅かしてしまったためにリーリスの計画がおじゃんになったわけだが、リーリスは広い心でもって彼女を仲間に引き込んだ。 罠を逐一設置しなくていいからだ。 「ふふふ。今度は誰にしようかな…。そうね。あの3人はあんまり怖がらないから、個別に脅かしてみようかな…」 ◆ 伝染隔離病棟入口。ふりだしに戻る。 恐怖のあまりうつろな顔で明日が呟いた。 「どうせ廃病院なんだから壊しちゃえば? 崩れたら嫌でもロストナンバーだって出てくるでしょ」 何とも投げやりな明日の提案に、だがツッコむ者はない。 「ナイスアイディアだ!」 「そうですね」 壊してしまえば探索の必要もないのだ。木っ端微塵になれば、さすがのロストナンバーも出てくるしかないだろう。ロストナンバーが倒壊する廃病院の下敷きになる可能性なんて3人はこれっぽっちも考えてはいなかった。だって奴らは壁をすり抜けてたんだもん。 3人の心は決まった。もう十二分に肝試しを楽しんだじゃないか。 後はトラベラーズノートでみんなを呼び出すのみ。早速明日はトラベラーズノートを取り出そうとした。胸ポケットに確かに入れたはずのトラベラーズノート…はなかった。 いろんな意味で明日の顔が蒼白になる。 「!?」 肝試し、まだまだ続くよ。 薄暗い通路。まとわりつく黴びた空気。暑いはずなのに背筋を這う冷たい恐怖。 3人は再び明日がトラベラーズノートを落としたと思しき“あの”病室を目指した。足取りは重い。周囲に細心の注意を払えば払うほど小さい物音にも過敏になっていく。抜き足差し足忍び足。病棟内には他の6人もいるはずなのだ。何かの気配を感じても無闇に怖がる必要はない。頭で何度もそう言い聞かせるのだがあまりうまくはいかなかった。 「すんすんすん…」 程なくすすり泣く声が聞こえてくる。 3人はその声に顔を見合わせた。先ほど自分たちを襲った輩のものとは明らかに違う。 もしかしてロストナンバーはこの泣いている声の主で、実は幽霊たちに驚かされて泣いているのでは、という結論に3人が辿りつくのにそれほど長い時間は要しなかった。 廃病院を壊さないでよかった…などと3人はその泣き声の下へ歩を進めていく。 二重扉の向こうからすすり泣く声が聞こえていた。3人はドアをそろりと開いて中を覗く。 そこに白い影が小さくうずくまっているのが見えた。幼稚園児くらいの小さな影だ。 「もう大丈夫よ」 明日は優しく声をかけながら一歩近づいた。 「こんな所で泣いてないでおじさん達と行こう。そしたら寂しくないだろ」 あれほど怖がっていたキアランもここぞという時にはそれなりらしい、一歩近づく。 「ここから出ましょう」 来歌が促した。そうして来歌も一歩を踏み出した時。 「きゃぁっ!?」 最初に悲鳴をあげたのは来歌だった。声をあげて首筋をしきりに払っている。しかし首の回りには何もない。前にいて振り返った明日とキアランが不思議そうな顔をしていた。 どうやら本当に気のせいらしいと息を吐いて来歌は「ごめんなさい」と白い影に向けて謝った。いきなり大きな声を出して申し訳なく思ったのだ。 今度はキアランが再び歩を進める。 「うわっと!?」 何かに躓いてうつ伏せに転んだ。 腕で上体を起こしつつ何に躓いたのかと振り返るが何もない。おかしいなと首を傾げていると。 「っっ!?」 あまりの恐怖に声が出なくなった。息も出来ずにそれを凝視する。それは自分の足を掴む誰かの腕だった。その腕はベッドの下から伸びていた。キアランは生唾を飲み込んだ。今にも泣きそうな顔で。 長い髪がベッドの下から見えたと思ったとき、それはベッドから這いだしてきた。 「ぎゃぁぁぁぁぁ!!」 来歌がペタンとベッドに座った。その首筋に冷たいものが再び。 「いっやぁぁぁ!!」 半ば狂乱しながら来歌は闇雲に対戦車ライフルの引き金を引いていた。7+1発用意した弾はどれも発射されない。レンガ造りとはいえさすがに年代物の建物。対戦車ライフルなどをぶっ放して倒壊してはと事前に抜いておいたのだ…が、そんなことも忘れて引き金を引きまくる。 明日が慌てて白い影に駆け寄った。 「早く逃げましょう」 そうして少女の肩を手に置いた…つもりが空を掻く。 「え?」 少女が振り返った。泣いていたはずの少女はあどけない顔を明日に向けながらどんどん色を失い透き通り消えた。 「……」 現実はともかく、彼女の体内時計では秒針が1周するくらいの空白があった。 「ああ透ける病気なのね。大丈夫? 幽霊と間違われて大変ね」 明日はにっこり微笑んで女の子を促そうとした。 来歌はさっさと病室を出ようとする。幽霊はともかく、何かが首筋にまとわりついてくるのだ。 だがそれを阻むようにパタンと病室の扉が閉じた。 「いや!? ちょっと…何よ!?」 目尻に涙の粒をため込みながらパニック状態の来歌には、扉を閉めた人間にすら気づかなかった。 「あ…あの…」 ドアを開けようとノブをガチャガチャしている来歌に神無が申し訳なさそうな声をかけた。 「すみません」 ちょっとやり過ぎたようだ。 「え…?」 来歌が呆然と神無を見やり後ろを振り返った。 ほぼ白目を剥いているキアランの足を掴んでいた影が立ち上がり、顔を覆っていた髪を掻きあげる。 「ゼロなのです」 「……」 「ばっちりね」 デジタルカメラを手にヘルがカーテンの影から顔を出した。 「おもしろかったっす」 釣り竿にこんにゃくをぶら下げてアルバが後に続く。来歌の首ぶ触れる冷たいものの正体はこのこんにゃくだったようだ。 ユーウォンもベッドの下から這いだしてきた。最初にキアランを躓かせたのはユーウォンのしっぽだったらしい。 「いい絵が取れたわ」 リーリスがどこからともなく1人の少女と現れた。 「ど…どういうことよ…」 明日は力が抜けたようにベッドに腰をおろして尋ねた。 ことはさほど複雑ではない。壱番世界にとばされてきた双子の霊体――キルシュとシェリーは互いにずっと1人だった。よりにもよってこんな廃病院に飛ばされてしまったのだ。 そこへ人がやってきた。 黒いゴスロリのシェリーは明朗闊達な女の子でいたずら好き。廃病院の新館にいた。 白いゴスロリのキルシュは寂しがり屋で泣き虫。すすり泣きの声はキルシュのもので彼女はこの伝染隔離病棟にいた。 新館でまんまと逃げられたシェリーと伝染隔離病棟で再会したリーリスはいたずら好きの彼女と共に、まずは、キアランを脅かし、明日や来歌を驚かした。その後、神無を驚かしているところにヘルとユーウォンがやってきたので、3人を驚かせようと様子を窺ていると、そこにキルシュに遊んでと頼まれたアルバとゼロがやってきて3人を驚かせた。 リーリスは最初5人を驚かせるつもりだったのだが、シェリーが「キルシュ」と言って飛び出していってしまったので、そのまま彼女らに合流したのだった。 まだ遊び足りないらしいキルシュにシェリーがそれなら、と取り出して見せたのが明日のトラベラーズノートだったわけである。 『あー、楽しかった』シェリーが可笑しそうに言った。 『うん』キルシュも微笑む。 「満足したっすか?」アルバが2人に声をかけた。 『うん』 「じゃぁ、行くっす!」アルバが2人を促す。 「それで、結局、2人は幽霊なのかしら?」前を歩く女の子を見つめながら来歌が呟いた。 「だから、あれは透き通っちゃう病気なのよ」明日がきっぱりと言いきてみせる。 「…そうよね。壱番世界に幽霊なんていないんですものね」来歌は納得して後に続いた。 「大丈夫、おじちゃん?」 リーリスがぺちぺちとキアランの頬を叩く。短い失神から意識を取り戻したキアランがふがぁーっと雄叫びっぽいものをあげて身構えるように立ち上がった。しかし、戦う相手はもはやここにはない。 「ロストナンバーの人はもう大丈夫だよ」ユーウォンがにこっと笑った。 「べべべ別におじさんは怖くなかったんだからな! 怖がるフリしてただけだからな!」臨戦態勢を解いて、キアランは嘯いた。 「ええ、迫真の演技だったわね」デジタルカメラを操作しながらヘルが笑う。 「ほら」と見せられた画像にキアランは複雑な顔を返した。とても演技には見えなかったが演技と言ったら演技なのである。 神無は装着していた天冠を外した。霊を苦しみから解放したいと思って退魔師の仕事をしてきたが、苦しんでるわけではない霊もいるのか。もちろんいい霊もいる…とは思うのだが。世界は広い、としみじみ思う。 「まだまだ改良の余地があるのです。完成の暁にはターミナルで量産して普及させるとよいと思うのですー」 いつの間にそこにいたのか神無が手にしている天冠を覗きながらゼロが言った。 退魔師として多くの悪霊を退治してきた神無だが、彼らと交信する手段を持っていたわけではなかった。もしこの試作品が完成したら、霊と交信することが出来るようになったら、ただ退治するのではなく、彼らの言い分を聞いてあげられるようになるのだろうか。 「私もレポート手伝ってもいいかな?」 「もちろんなのです!」 そうして9人と2人は伝染隔離病棟の外へと出た。 今にも雨が降り出しそうだった空に雲はなく、夕日が西の空を茜色に染めていた。東の空から夜が追いかけてくる。だけどもう、夜になってもこの廃病院からすすり泣く声は聞こえないに違いない。 いつの間に用意していたのかヘルが廃病院の案内板の前にあるモニュメントに花を手向けた。 「派手に騒いじゃったけど、ここで沢山の人が死んだのは事実でしょ?」 9人は静かに黙祷を捧げる。 安らかに眠れ、と。 ■大団円■
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