「今回も、やはり己の手で開ける事は無かったか――我が通り名は凶死。貴様を裁く者」 インヤンガイにおいてロストナンバー達に依頼を持ってくる探偵の一人、モゥ。 その彼の口から、今別人の口調で滔々と言葉が流れ出る。 先ほどまで悲鳴を上げ、床をのたうちまわっていたところ、落ち着きを取り戻したと思えばかく語りき、という次第である。 モゥに正対するのはインヤンガイの高層に居を構える、近隣街区の顔役の一人、ユエ=ホウウー。 モゥの側では、手出しするかどうか、互いの顔を見て無言で問いかけあう二人の少女。 何故ここに至ったのか。 それを語る為には少しばかり時を逆巻かねばならない。‡ 壱番世界において神になるべく空を目指した者達は、悉く神の意を受け滅びを迎えたという。 だがこの世界――インヤンガイの地に、神はいない。 あるいは、富者にのみ味方しているのか。 富める者は遥かなる高みにその身を位置し、地べたをはいずりまわる蟻のような輩の汗と血と涙、そして命を金に換えていく。 その彼らにとってみれば、貧者やその類――特に、萬請負業とすら言える探偵のような輩は手軽に使い捨てられる道具にすぎず、その生死に気を配る必要もない、例えるならば鼻をかむための塵紙のような存在だった。 必要な時にあると便利だが、用が済めば顧みず、捨て去るのみ。 自らの手で触れたくない物に、直接触らせる役割を担うもの。「――つい先ほど届いた手紙でな。恐らく脅迫状だろうが……あけてみろ」 そういって、ユエは執事が盆に載せて運んできた手紙を自ら手に取ることなく、モゥへと渡させる。 彼に正対する形で応接ソファに身を沈めていたモゥは、傍らから差し出された手紙を手に取った。 封を開ける前に、背後に立っていたヘルウェンディと村崎神無に対し「少し横にずれていてくれ」と願い、再びユエに向き直った。「いいんですか?」 ただの脅迫状であればいい。 だが脅迫するからにはあんたの後ろ暗い事象が何かしら書かれているんじゃないんですか? そういう意図を込めての言葉だが、ユエは顎を一度しゃくるだけ。 御託は述べず、とっとと開けということだろう。「はいはい、じゃあ開けさせてもらいますよ」 それが、モゥが彼の意志で発した最期の言葉だった。 封を開け、さして興味を抱く事もなく文字の羅列に目を走らせた瞬間だった。 ――! ソファーを後方へ跳ね飛ばす勢いで立ち上がったモゥは、声に出来ない悲鳴を上げ、頭を抱えた。 更にはそのまま倒れこむ。「ちょっと、大丈夫!?」「……これ、呪い……かしら?」 ヘルが慌ててソファを乗り越えて床を転げまわるモゥの側にしゃがみこむと、神無も若干の戸惑いを見せながらそう呟いた。 手紙を開いただけで苦しませる。 気化性の毒でもなければ、何かが塗布されていたわけでもなく、ただ目を走らせたものだけが苦しむ現状においては、それ以外考えづらいものがあった。「ふ、ん。やはりか――私が開けんで正解だったわ」「なっ――!」 倒れ、苦しむモゥを見下ろしてそう一人ごちたユエの言葉は、ヘルの沸点を通過するには十分なもの。 他人の命をゴミ同然に思っている事が容易に聞いて取れるその言葉に、思わず殴りかかるために立ち上がりかけた程だった。 けれど。 しばしのもがきの果て、モゥの身体はゆっくりとした動作で立ち上がろうとしたことで、ヘルはどうにかその行為を思いとどまる。 しかし、モゥの瞳は目前のあらゆる事象を捉えようとせず、表情は虚ろなままである。 未だ魂は幽冥の果てに連れ去られたかのような様相を呈す彼だったが、ただ、言葉だけが小さく紡がれた。「怒ることはない、御嬢さん――こちらの彼は不憫だったが、想定していたのは事実。故に、この男だけでなく、私にも殺害の罪はあると言える」 透き通った、心の内面の襞一つ一つを見通されるようなその瞳がヘルを覗きこみ―その生気の無さにヘルは本能的に腰を引いた。 だがそんなヘルに構うことはそれ以上せず。 助け起こそうとしたまま固まっていた神無に対して、「すまないね」と礼を言ったモゥだったものは、その身を立ち上がらせると、いまだ腰を下ろしたままのユエを睥睨した。「今回も、やはり己の手で開ける事は無かったか――我が通り名は凶死。貴様を裁く者」 淡々と紡がれたその言葉。「ふ、ん。一度目は焔。二度目は手紙そのものが怪鳥となって開封した者に襲い掛かった。それでどうしてわしが開ける事があると思う」 対するユエも、動じる様子はない。 取り出したシガリロを加えて火をつけると、ソファの背もたれに背をあずけ、座しながらにして相手を見下ろすかのような位置を確保する。 そうした動作に、一々違和感がない。 それだけ人を見下す事が身体に沁みついているものと思われた。「――そうとも、貴様はそういう男だ」 モゥ――否、凶死と名乗る男は淡々と語る。「だから貴様は覚えていないだろう。約一年前、雇った娘の精神を追い詰め、自殺に追い込んだことを……その手段として、その娘の祖父母を娘の目前で惨死させた事を。我が術は娘の身内の怨嗟を乗せて貴様を屠ることだろう」 ゆっくりと話す声は、あらゆる感情を排した金属のようになめらかで、温度も湿度も宿さない無機物の声。「――だが、生憎それでは不十分にすぎる」 モゥだったものの後ろでその声を聴いていた二人には、ほんの少し、硬い鉄が溶けだしたように思えた。 黒々として冷たかった金属を朱く染め、溶けださせる程に熱いその想い。 狂おしい憎悪の情が、冷徹な理性によって圧力高く封じられ――故に異常とも言える程に高まった、復讐の炎。 娘の身内とは、この人なのではないだろうか。 神無は不意にそう思った ちらと横に視線をやれば、ヘルもまたその想いを抱いたのだろう。目線だけで、頷きを神無へと返してくる。「故に私は、その娘が死んで一年が立つ明日の夜貴様を屠る事にした。 呪術によるものでは物足りぬ。この拳、この足で貴様をうちのめし、爪をはがし、目をくりぬき、耳を削ぎ、鼻を焼き、舌を裂き、足の先から膝までを寸刻みに切りおろし、皮を剥いでその腐った醜い内面を昇りくる朝日に照らしてくれよう――魂魄をその身にとどめ、意志を保たせ、最後の最期まで苦しんで、心底死にたいと感じたならば、この地に永劫の呪縛を以て縛り付けてやろう。 死にたいと思ったとき、貴様は暴霊となり、存在を保ちながら永劫にその苦しみを味わい続ける運命を与えられることだろう」 男の口から滔々と流れ出る復讐の手妻。 少女二人は――特にヘルウェンディははっきりと眉根を寄せて顔を顰めた。 目前の富豪が悪辣な男であるというのは既にはっきりとしているが、男の宣言もまた悪趣味にすぎる。もっと端的に言えば、流石にやりすぎなのではないか、と感じないでもない。「忘れるな、我が名は凶死。言葉に偽りはない――呪と武、殺人術を極めた私にはなんら問題はないからな……そろそろ、時間か」 不意に呟かれたその言葉に、ヘルウェンディと神無がはっとしてモゥを見やった。 モゥだったものは、二人へと顔だけで振り返ってふ、と笑う。「この男には悪いことをした。どうせ人身御供になるのはこの汚泥の詰まった肉袋に金で飼われている畜生共だと思っていたのでな――まぁ、丁重に葬ってやってくれ。それと忠告しておく」 一瞬、男は口をつぐむと、意志の宿らない瞳のまま、にぃ、と口の端を釣り上げて嗤った。「私は明日確実に実行する――この男を守るというのならば。私の道を邪魔するというのならば。君達の首も、死の神の祭壇に供えられる事になるだろうと、しっておき、たま――え」 ぷつり、と糸が切れるようにしてモゥの身体が崩れ落ちた。 目や耳、口から紅い液体を流した彼の胸はもはや呼吸をすることはなく、瞳孔は開いたまま、話している途中からすでに鼓動はしていなかったのかもしれないと思える程に、その身は冷たくなっている。「ふ、ん――」 後に残ったのは奇妙な、重い沈黙。 それを割ったのはやはりどこまでも傲慢な男の鼻白んだような声だった。「それで、そこの小娘ども」 背もたれに背を預け、自身らの今後の行動をどうすべきか戸惑いを憶えているように見える二人に、ユエは語り掛けた。「既にそこの死体に前金は払ってある。お前らの所属している組織の面々はかなりの凄腕が多いらしいからな――お前らがどこまで頼りになるかはしったことではないが、金の分は働いてもらわねばならん。わかっているのだろう?」 二人、ヘルウェンディと神無はお互いの顔を見合った後、この場では仕方ない、とひとまず頷く事を選択した。 この場にいるのは三人だけではなく、ユエと二人のほかに二十数人の手下達がいて、尚且つ全員が「返答によってはこの場で蜂の巣にしてくれる」と言わんばかりの物騒な殺気を放っていたのだから。「彼の情報がないことには話にならないわね」 対応策を考えるから情報をよこせ、とヘルは言う。 先程の「凶死」と名乗った男の口ぶりからすると、男はその筋では確実に名が知られているのだろうから、と。「『凶死』という名は、数多の暗殺者の中でも最高峰と言っていいものだ」 わずらわしそうに「説明してやれ」と身振りだけで指示をしたユエにかわり、その側近らしき男がその特徴を説明する。「どのように厳重な警備をしていようと、何十人の警護があろうと、奴は目標の場所まで尋ね来る。道すがらに残るのは、その手足で製造された死体だけだ。何人かは呪殺されているものもいるようだが、な――如何なる重火器をも防ぐ体術と装備を持つらしい。弾丸を素手で掴んだだの、目があっただけで恐怖に怯え発狂しただの逸話には事欠かぬ凶手、暗殺者よ。20年近く前には執拗に奴を付け狙った組織が一晩で壊滅させられたという伝説を持つ男でもある」 それだけ説明されて、神無は眉を顰めた。「そんな物騒な輩に、私たち二人だけで立ち向かえと言うの?」「貴様らは足止めをするだけでよい。旦那様はこの屋敷の最深部の部屋にその身を隠し、奴の凶手から逃れる事ができた初めての方となるだろう。その準備が整うまで、貴様らはその手前で奴を引きとめるのだ。本来ならば、そこの死体にもやらせる予定だったんだが、な」 ますます少女二人は眉根を寄せた。 死者に対する畏敬もなければ、命をかけさせる相手に対する敬意もない。「準備って――?」「知る必要はない――凶死は40になるかならないかの男だ。精々色仕掛けでもなんでもして、足をとめるんだな」 硬い声で言い放ったのは主人であるユエ。 お前らはその命に従うのが当然なのだ、とその声が、態度が言っていた。 話はこれまでだ――そう言い置いたユエが席を立って奥の部屋へと姿を消すと、側近のうちの一人がモゥの死体を担いで逆方向へと姿を消した。 部屋の中に残されたのは、二人の少女のみ。 つまりは「手前」とはこの部屋のことであり、「ここから先に、可能な限り侵入者をいれるな」ということなのだろう。「どうするの?」 ヘルウェンディが問いかけた。「どうしようかしら」 神無が、眉根を寄せて考え込んだ。 どちらの魂が腐っているかは言わずもがなだった。 どちらに義があるか――復讐を正当化するかどうかはさておき、だ――も殆ど明らかだった。 だが二人は既にモゥと共に護衛の契約を結んでおり、且つユエはこの街区の顔役でもある。 死んでくれる分にはいいが万一生き延びられたとき、護衛としての役に立たなかったということになれば面倒なことになるのも目に見えている。 予告の時間まではまだ10時間程ある――考えるべき時だった。‡ インヤンガイの下層深く。 穴倉のような拠点で、男は一人、琥珀色の液体で満ちたグラスを傾ける。 見た目は普通の人間と変わらないが、右腕、右足、左目、更には脳の一部が機械化されたその男は、名をリェン=チーシアンという。 別名、『凶死』。 強力な武術と肉体、それとは別に内に秘めた強力な呪力を用いる呪術。 裏の稼業を務めて二十数年になる男――それだけの期間この危険な商売を続けてきた男が、かつて愛した女がいた。 女は表の世界で花屋の店員を務める穏やかな娘。 己の正体を知ることなく、ただ陽光のような笑みを浮かべて彼に語り掛けてくる少女の笑顔に、当時暗殺の為の機械としてのみ生きていた男は人間性を取り戻した。 だが、所詮は裏の世界に髪の先まで詰まった身であるのだから、と。 女が男の弱みとみた敵対者に付け狙われてることを知った時、男は女を手ひどく扱い捨て去った。 狙っていた敵対者は残らず葬り去った。 ――それで、終わったはずだった。 数年の後、男は知る。 産褥の苦しみで死んだその花屋の娘が残した命。 彼の、唯一の娘。 ホァン=フェイヒ、と祖父母に名づけられた少女が、つつましくも明るい陽の下で育っていく様を遠くから眺めるのが、彼の唯一の楽しみとなった。 自分の手の中にあるのは人を殺して得た血塗られた金銭のみであれば、少女の為に使うことなどできない。 どれだけ援助してやりたいと思ったか――それでも彼は、それだけはしてはならないのだと己を戒め、年に数度、少女の顔を遠くから見ることでかつての恋人の面影を追うとともに、少女に暗い影が纏わりつかないか、それだけに気を注ぐことで自己満足を果たしていた。 学校を卒業し、勤めに出る事が決まったころ、凶死――リェンはひどく手間取る仕事に掛っていた。 だから、彼はその時が至るまで知らなかった。 娘が勤める先が、インヤンガイの負の栄光を余すことなくその身にいだき、その性が最低の類に属するものである男の屋敷であることを。 彼が知った時は、既に遅かった。 娘は払暁の中、焼け落ちた娘の家の跡地で祖父母の遺体を掻き抱き、自身の頭蓋を撃ちぬいた後だった。 消し炭の如く焼けた祖父母の遺体は、その状態にあってさえ、焼かれる前に酷い扱いを受けたであろうと容易にわかる痕を残されており。 何があったのかは、わからない。 だが確実に言える事はあった。 それは全て、ユエの指図によるものであろう、ということだった。「レンファ……すまんな」 グラスを傾ける男が机の上において眺めるのは、一枚のホロ。 ぎこちなく笑う青年の腕に絡み、爛漫な笑みを浮かべるかつて愛した女の写真。 何に対しての謝罪か、言葉を重ねることはなく。 静かに酒を呑み続けながら、男は時を待つ。 陽が沈んだ時――それが、復讐の号砲の鳴る時だった。=========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>ヘルウェンディ・ブルックリン(cxsh5984)村崎 神無(cwfx8355)=========
彼女が襲われ、人質とされたこと、犯人が己を狙う存在だと知った時、偽りの幸福は終わりを迎えたのだと知った。 「リェ、ン?」 二十歳を少し超えたばかりの娘が、怯え、呟く。 応えず、ゆっくりと機械化された右腕で獲物の首を縊り、頸動脈を裂き、骨を折り、千切った。 「ひっ!?」 足元に投げ落とされた首に、娘が喉を引き攣らせる。 娘の前に膝をつき、腕をその細い首へと伸ばしていく。 やがて触れた体は冷たく、昨夜己の心を包んだそれと同一とは思えない。 「見られた以上、殺すのが必然。だが、生涯黙すならば見逃そう」 きっと今の己の瞳はただの器物を見るようなそれとなっているだろう。なっていてくれなくては困る。 首を捉えた腕にゆっくりと力が加えられていく中で、小さく頷いたことを認め、解放した。 「私について聞かれても、知らぬと答え続けろ。いいか、忘れろ――そうすれば、生きられる」 咳き込む娘の様子を見ながらそれだけを囁き、立ち去る。 後は彼女の事を知った奴らを潰せばいい。そう、思っていた。 これ以後は再び泥沼の中を歩む日々が続くだけだとも。 『いつか貴方に千本の薔薇をあげるわ』 微笑みと共にそう告げた彼女と歩む事を夢想した。 自嘲する。 底なしの泥池を抜け、花々に彩られた庭園を歩くような日々が来ると、どうして思えたのか。 益体もない未来を思い描いた過去の自分を嘲笑しながら、その場を去って数年。 「そういや旦那、あんた、娘がいるらしいぜ」 下卑た表情を浮かべた馴染みの情報屋がもたらした情報が、新たな転機となった。 「これはまた、大仰な出迎えだ」 右の眼窩に嵌められた霊玉が、隔壁の向こうに息衝く兵の存在をリェンに知らせていた。 ユエへ至るための、唯一の回廊。 入り組んだ高層住宅街の中でも広大な敷地を占めていながら、出入り可能な経路が一つしかない事が奴らしいと思わず笑みを浮かべてしまう。 「最後の夜だ――盛大にやろうじゃないか」 そう呟くと、開宴を告げる号砲を鳴らすべく、リェンの手が目前の隔壁に軽く右腕で触れた。 ‡ 「信じらんない」 梟の形態をとるロメオの視界を経由してリェンの襲撃を確認したヘルが、あまりの光景に首を振ってそう呟く。 セクタンによる警戒でリェンの来訪を察知し、隔壁の中にいるこの屋敷の者達が襲撃をかけるところまでをその近くで見ていたのだ。 吹き飛んだ隔壁。 巻き込まれた者達も数名いたが、残りの面々が通路を埋め尽くすほどの弾幕を張り、更にはとどめとすべく一人の馬鹿がバズーカまでも放った。 「あれで無傷なんて……重火器も防ぐって聞いていたけど。私じゃ、肉弾戦より後衛での補助に回った方がよさそうかも。正直、悔しいけど」 「ヘルさんの安全は、私が守りますよ」 手錠を外さぬままに、鍛えられた刃を抜き放ち、神無が言う。 刃を構える神無にある種の覚悟を感じ取り、ヘルは頷いた。 「ごめんね、我儘言って。ユエは胸糞悪いけど、一度受けた依頼を投げだすのは筋が通らない。それに私、リェンと話してみたいの」 「私もよ。彼と話をしてみたい。彼は『私にも罪がある』と言ったわ。人の命を粗末に扱っているという点では、ユエもリェンも変わらないと思うけど……もし彼が今までの自身の所業を後悔しているなら――償う気があるのか、聞いてみたいの」 二人の少女が互いの意志を確認し、頷き合う。 「――来る」 潜んだロメオの視界を通しての映像は、廊下を悠然と歩いてくる男の姿を映していた。角を曲がり、少し歩けばこの部屋だ。 「私は、契約に従うかどうか、話してから決めたい。もしかしたらヘルさんと意見がわかれることになるかも――でも、どんなことがあってもヘルさんの安全は守ろうと思うの。それだけは、信じてくれる?」 金色の瞳に宿る気配は乱れなく滑らかで。 呼吸は平静。ただその両の掌に携えた刀に意志を宿らせるように、神無は言う。 本来の抜刀術をつかえずとも。 体術では不利だとわかっていても。 未だ、どう対応するかに迷いを抱いていても。それでもあなたの事は守る。その強い想いに、ヘルは一度頷いた。 「馬鹿ね」 言葉とともに浮かぶ笑み。紅玉の瞳が、同色の宝石に託された言葉のように熱く煌めく。 「そんなことも信じられない相手と、こんな危険な場所にいるはずがないじゃない」 ‡ 最初に男と目が合った時、神無がその男の表情に認めたのは死者の如き虚無。 モゥの瞳を通じて得た印象そのままで。 無意識に柄を握る両手が緊張し、背筋に冷たいものが流れるのを神無は感じた。 目前の男――凶死は部屋を一度見渡すと、眉をひそめ、次いで二人の少女と目を合わせる。考えるそぶりをほんの少しだけ見せ、ため息をついた。 「警告はしたはずだがな。あんな外道でも義理を果たすか」 一歩、部屋に足を踏み入れながらそう語り掛けてきた男。 「私たちはあんたと話がしたかったのよ」 ゆっくりと、神無、そして男との間をとるようにしながらヘルは横へと体を移動していく。 「あなたが言っていた『娘』は、あなたの娘なんです、よね?」 神無自身もまた、ヘルウェンディを男から庇うように、身を動かしつつ問いかけた。 そうでなくば、説明のつかないことが多すぎる。彼の技術があればユエの側近を操ってユエを暗殺することも容易いはずだからだ。 男は応えない。それでも、神無は言葉を続ける。 「あなたはモゥさんを――いえ、誰でもよかったのでしょうけど、他人の命を道具に使ったわ。それでも、自分にも罪がある、そう言ったのを聞いたから」 一つ、息をつく。間違っている解釈だとは、思いたくない。 「他者の命を奪うこれまでの行為を後悔しているのではない? 娘さんと共にいられなかったのも。ひょっとして、娘さんが殺されたこともそれが原因なん――」 床が軋み、空気が弾けた。 まだあったはずの間合いを一歩で詰めた男の蹴りが、神無を襲い、寸止めされる。足に乗せられた殺気にあてられ跳ね上げかけた刃を、どうにか圧しとどめる。 「図星、ですか」 「問答が趣味か?」 「あなたは強い。抵抗できず殺されるかもしれないけれど、どうせ死ぬなら納得して逝きたいの」 軸足一つで立ち、片足を神無の眼前に晒しながら不動でいられる重心の操作。 避ける間を与えず一足で間を詰めた挙動。 刃を前に素手で立ちながら些かも揺るがぬその心。 いずれもが、常識を超える達人だと示す。だからこそ、正面からの体当たりで挑む事を神無は選んだ。 目の前の人物に絡め手で挑むのは無駄でしかない。 「あなたが命を奪ってきた人にも、同じように家族がいるはずよ。そんな人達の命を奪った事――娘さんへの想いと同じくらいに、何か思う事はないの?」 「罪は罪だ。生きる為に罪を犯してきた――その業を背負うことも、咎も受ける事にも否やはない。だが娘が殺された事を復讐する権利を封印するつもりも同じくない。私が犯してきた罪を贖わせたいと言う者はいつでもお相手しよう。まぁ、ユエがフェイヒを死に追い詰めたのは、単純に己の色欲を手ひどく袖にされたというくだらん理由だったが、な」 間近で見る男の容貌はほんの少し皺が刻まれ、静寂の湖面を思わせる落ち着きを見せる、中年の域に達しようかという者のそれ。 「年端もいかぬ頃から見守っていた娘だ。血塗れた世界に足を踏み入れることなく真っ当に育った娘さ。私の存在も当然知らん。生死もしらぬはずだ――この手に抱いたのは死んだ後だからな」 蹴り足が降ろされる。同時にぎち、と奇妙な音がして、右の拳が握られるのを見た。 「そう、罪は罪だ。私は私の為に、我を通し罪を重ねよう。それを止めたいと言うならば」 す、と男が腰を落とす。顔の横を、拳が駆け抜けた。風圧か、或いは暗器の類か。頬に、一筋の線が走る。 「君も我を通すがいい」 瞳に秘められた覚悟。 後悔も、犠牲にした者達への哀惜の念も、その全てを飲み込んだ瞳が、神無を見つめた。 「ふざけないでよっ!」 二の手を繰り出そうとした男。思わず刃を切り上げかけた神無。 二人の動きをとめたのは、神無の背後から投げつけられた叫びだった。 男の額にトラベルギアでもある銃の照準を合わせた少女。 「そんなに娘を愛してたんなら、例え血塗れの道を歩ませることになっても! 嫌われても憎まれても最期までそばにいて、死ぬ気で守り抜けばよかったのよ!」 火薬の爆ぜる音とともに放たれた弾丸は、しかし寸前で体を翻した凶死を外す。銃声と同時に切り上げられた神無の刃は右腕の掌で受け止められ、ほんの一瞬、膠着を招いた。 「親は娘の幸せを祈るものだよ――例え、自身が人殺しであってもだ。私の娘だと知られてしまえば、彼女は私を狙う者に狙われてしまう――それは、彼女の責ではないというのに、だ。君はそれでも、共に在るべきだったと?」 軋む刀身。 ありったけの力を込めて右手による拘束を外そうとする神無の相手をしながら、凶死はヘルウェンディを見やり、言葉を放つ。 「知らないわよ、そんなの」 吐き捨てるように少女が言う。 「私にわかるのは、父親が生きてるのに逢って貰えず寂しくてたまらなかった娘の気持ちだけよ!」 二度、三度と鳴らされる銃声。 刀を放し後方へと跳躍した男の足元を数発の弾丸が、襲う。 男の行動を予測して放たれた弾丸は地面に打ち込まれると同時に、織りなす螺旋の結界が踊るように男の下半身に纏わりつき、捕らえ、その動きを封じていた。 「復讐が成功した後の事は考えた? ユエは凶漢に襲われた気の毒な被害者として世間の同情を集める――」 数度放たれる弾丸。身のこなしで躱せなくなった男が見せたのは、右腕により全ての弾丸を弾き飛ばすという人間の限界を凌駕した動き。それこそが、通路を埋め尽くす弾幕からすら生き延びてきた、その理由。 「片やあなたの娘の死は誰にも知られず悼まれず忘れられていく。それで本当に彼女は報われるの?」 それでもヘルウェンディが動揺を見せる事なく言葉を発し、魔弾を撃ち続けるから、神無もまた斬りかかる隙を探し続ける。 「全ては私の我儘だ――私の気が済めば、ユエの評判等気にするほどでもない。死んだ娘はそもそも報われる事はない。例え暴霊となって存在しようとも。そうは思わないか?」 何度目かの弾丸を弾いた男が、ヘルウェンディが必要な弾丸を装填する合間に言う。まるで、生前は交わす事の出来なかった娘との会話を楽しむかのように。 そうだ、と神無は思う。 最初から奇妙だった。 ただ復讐を果たす為に邪魔な者を排除するだけなら、語り合う必要等ない。自分達の気を逸らし不意をつくような必要もないのではないだろうか。 それだけの力があるはずなのに――疑問が湧いた時、男が嗤った。 「どうした、来ないのか」 誘いの言葉。罠だと脳裡で警鐘が鳴らされたが隙を見せているのも事実。 踏込み、切り上げる一の太刀。上体だけで避けた相手を追撃する、切りおろしの二の太刀。避けられることは、想定内。 生きてほしい、と思った。目の前の男の抱く哀しみ。彼が娘への情を抱いているのは間違いない。罪を悔いる気持ちについては正直なところ判断がつかない。それでも少しでもその想いがあるならば、生きて、贖ってほしい。そう思う。 だから、切り下した刀の柄から手を離し、回転させた身体の勢いのままに軸足を右から左へ移し跳ぶ――避けた相手の後頭部を狙い打つ、回転しての踵落とし。 同時にヘルの弾丸が、男の生身らしき部分を捉えたのだろう。緋色の液体が微かに飛び散るのを視界の端に捉えた。 弾丸が直撃しないと見切っているらしき男は、その一瞬で神無の踵をガードする方を選び、右足の一撃をその腕で防ぎ、掴む。 ――想定内だ。 掴まれた足を捻るのも厭わず、神無の放った追撃の左足。右を止められた事による反動に、上半身の捻りを乗せて繰り出される左は守りの腕を超え、後頭部を捉えた。 決まった――そう思った瞬間に、左足もまた、掴まれる。 ‡ 始めは、ただの店員だった。 殺した者は誰かを示す、手向けの花。遺体の横に置く胡蝶の花、それを買うのが彼女の店だった。 「いつものを」「おひとつで?」「あぁ」それだけの会話が日々繰り返されて。 当時所属していた組織は別の組織と抗争中だった。必然毎日花を買う事となる。 三か月が過ぎた頃、彼女が笑みを浮かべ、語り掛けてきた。 「熱心なんですね」 意味がわからなかった。 そんな私に彼女は言う。アヤメの一種である胡蝶花。アヤメの花言葉は「貴方を大切にする」というものだと。 「毎日一輪買って行かれるから、恋人か奥様になのかと思ったんですけど……」 当惑し、思わず間抜けな表情を見せた自分の顔が余程に面白いのか、くすくすと店先で笑い続ける少女の様子が、印象的だった。 その後もその店で花を買う習慣は続き――やがて、それが口実となり、一年も経ったころ、店以外で彼女と会う事が増えてきた。 そんな折、ふと思い出したように彼女が言う。 「知ってる? 花にはそれぞれ言葉があるけど、その数にも意味があるのよ」 ‡ 「神無――!」 もつれ合い、地面に引き倒された少女を見てヘルは駆けだした。 手には愛銃のへルター・スケルター。放った毒の弾丸が男の身体を掠めさえすれば――その毒がまわりさえすれば、体術で神無が上回ってくれる、そうすればとどめをささず見逃すこともできる。 殺さずに、すむ。そんな希望を抱いたがゆえの、手加減だった。 まさか弾の軌道が致命傷にならないことを見越して神無の方に集中されるなんて――! 駆け寄ろうとしたヘルだったが部屋の中央、神無を引き倒した男は奇妙な動きを見せる。 部屋の中央に倒れこんだ男は、蹴るというよりも押し出すような動作でヘルの方へ向けて神無を弾き飛ばす。 同時に数枚の符を二人へと放った。 「動くな!」 符を撃ち落そうとしたヘルに裂帛の気合が浴びせられる。従う道理はない。それでも、動きをとめられた。 符が男の印に従いヘル達の周りを舞い始めるのと同時に出入り口が封鎖されるのを、ヘルは見た。 自分達の周りに結界を張り終えた男が、次いで自身の周りへ結界を築こうとするのを見た。 男を中心に、巨大な呪術の陣が部屋中に現れていく。 壁を覆うようにおろされてきたシャッターに描かれていたのは、何らかの呪陣。 ――足止めをするだけでよい。 ユエの部下の言葉が、ヘルの脳裡に蘇る。倒せ、とは言わなかった。 倒せるとも思っていないようだった。 まさか、自分達の存在そのものが囮だというのか。 自分達がほんの少し凶死の動きを鈍らせ、凶死の守りを撓ませ、この部屋全体に仕掛けられた術により凶死を殺すのが真の狙いか。 毒で動きの鈍った凶死の守りが完成する前に、部屋を縦横無尽の雷が奔る。 網膜を焼く光の中で、男の身体を無数の電撃が襲う様を見た。 「ふざけないでよっ!!」 ヘルの叫びが、白光に溶ける。 ‡ 「私達を護らなければ助かったんじゃないの!?」 訪れた静寂と同時に結界から抜け出した少女が、凶死の横でそう叫んだ。 「何、しょうがない――まさか君の弾に毒が込められていたとはな」 仰向けに倒れた男は自嘲するように笑いながら応える。その声は擦れ、弱々しいもの。 そういうことじゃない、とヘルウェンディが首を横に振るのを見つつ、神無は先ほどふと抱いた疑問の解を、相手に尋ねた。 「ひょっとして、最初から私達ごと巻き込む罠があると?」 ――無言。「そうなのね」と呟く神無の方を見やり、そしてヘルウェンディの頬へ男は手を添えた。 「私を殺してでもという目で見てくれれば、迷わずに済んだ。娘と重ねてしまった私の落ち度だな」 凶手にとって情は毒。 「ねぇ。あんたにこれ以上人殺しはしてほしくないし、もうできそうにないよね。だから、教えて」 何をだ、という顔で見る凶死に少女が語る――男の、人を操る呪術を用いてユエ自身に己の罪を暴かせ、表の世界から失脚させたいと。 「私の仕事は依頼人の命を守る事。プライバシーの保護は契約外よ」 男は更に苦笑を深くした。少女は神無の方を振り向いて、意見を求める。 「思うように」 それだけを言うのが精一杯。「できるかしら?」と男に向き直って問いかける少女。 男が数秒瞑目すると同時に部屋を隔離していた隔壁がゆっくりと上昇を始めた。 おそらくはどこかにあったカメラも壊れ、凶死やヘル達の死を確認すべくユエの部下がやってくるのだろう。 「右の眼に嵌まっている霊玉をくりぬけ――最早痛みは感じん。それは守り石にもなるが、あの男に渡し俺の霊力の影響下とすれば、望む通りにできる。今、そう術を込めた」 そう言うと、男はヘルウェンディと、神無に視線を向けた。 「所詮復讐は自己満足。ならば後は君達に任せよう。迎えが、来たよう、だ」 壁の向こうから迫りくる足音のことではない。男の眼は、二人の背後――天上へ。 「千本の薔薇、約束の花」 既に男の眼は現を映さず、ただ遠き過去に思いを馳せる。 「一本だけを抜き出して、残りは君へ――我献君天尽的愛、君是我唯一」 ゆっくりと天へ伸ばされた手は、ヘルウェンディの頭を少し撫で、地に堕ちた。
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