青い空、青い海、白く砕ける波頭。 ブルーインブルーの海上を行く囚人護送船の航路は、監獄のあるベラ・ウゥル島を目指して順調かつ平和だった。 収容されている囚人の罪科は殺人1名、窃盗6名、強盗4名の計11名。海軍が出てくるまでもない小規模の囚人護送、海辺の小さな街、ロロトの牢屋では収容しきれなくなったから、沖合の監獄島まで運ぶだけの単純な護送で、これまで一度も問題など起きたことがなかった。 なのに。「聞いてくれ! 俺は無実なんだ!」 囚人護送の護衛に雇われたヴァージニア・劉は、ロロト始まって以来の事件に出くわす。「ろくな調べも受けずぶちこまれた奴も大勢いる!」「は?」「体の弱い女房と小さい子供が待ってるんだ!」 口々に訴える痩せこけた、あるいはむさ苦しい男達に囲まれて、村崎 神無は戸惑いが募る。「それにベラ・ウゥルに送られた奴は二度と帰ってこねえ!」「夜中にこっそり海に捨てられたって聞くぞ!」 口々に訴える男達は4名。後の7名はそれぞれの部署を制圧しており、既に船は監獄島を目の前にして、緩やかに速度を落としつつあった。遠からず、島の見張りが気づき、船の異常を調査しにやってくるだろう。「ったくいつの間に暴動なんて起こしやがったんだ?」 あきれ顔のエイブラム・レイセンは楽しげだ。「それとも、暴動、じゃなかったとか」「だりー…」 劉はうんざりしながら、男達の相手を残り2人に任せて船長室に向かう。部屋の外に1人が剣に手をかけつつ立っているのを横目に古びた扉を開くと、正面に初老の船長が腕組みしたまま座っている。その隣で、よく光る剣を喉元に突きつけていた長身の男が静かに振り返った。「よう…ジャンクヘヴンの傭兵」「……うぜー」 そう呼ばれることも好みではない。ジェロームとの一戦以降、この世界で『旅人』の存在はかなり微妙になっている。 そんな状況で、特に手こずりそうにもない囚人護送の護衛にロストナンバーを望んだ船長の意図も気になっているが、この『暴動』とは名ばかりの穏やかな乗っ取りも落ち着かなくて不愉快だ。「何だよ、これは」「見ての通りだ。囚人護送中に暴動が発生した。儂は脅され、武装解除され、人質を取られ、身動きできない。もう少しすれば、ベラ・ウゥルから調査船が来るだろう。それまでの辛抱…実りのないことは止めろと説得していたところだ」 船長の淡々とした説明に、けっ、と吐き捨てた。「どこに人質がいる」「目の前におるだろう」 船長は白い髭をもごもご動かす。「あん?」「ぎゃあっ!」 いきなり外で絶叫が響く。振り返った劉が見たのは、残り2人に詰め寄っていた男達の1人が血しぶきを上げて崩れる場面。「お、いっ」「違う違う」 エイブラムがひんやりと嗤って両手を上げてみせた。右腕がきららかな陽射しにを跳ねる。ゴーグルで隠された両目が、鋭く光った気がした。襟足から伸びたコードを髪を払うような仕草で揺らせ、親指を立てて男達を指差す。「殺ったのはこっち」「本当です、劉さん!」 神無が白い顔に金色の瞳を瞬いて頷いた。「今、この人達、仲間を殺しました!」 危険を感じたのだろう、手錠の両手にトラベルギアの日本刀を持っている。「どういうことだおっさん」 振り向き、船長を睨みつける。「てか、隣の奴に聞いた方がいいのか」 暴動を起こして船を乗っ取ったはず、なのに、その扇動者は薄笑いをしつつ、仲間に囚人の1人を殺させてしまったらしい。「囚人護送は嘘か」「本当だとも」「暴動は」「予定内だ」 ただし、知っているのが何人居るのか、教えない方がいいのだろうな。「5名だろ」 エイブラムが明るく言い放つ。「こいつら、騒ぐ様子もねえぜ」 1名だけが仲間じゃなかった。だからここで殺す必要があった、そういうことだろ?「ご名答だな」「何をする気だ」「ベラ・ウゥルに用があるのさ」 船長は側の男を見上げた。「リコ、もう少し減らしておこうか。帰りが困る」 リコと呼ばれた男は伝声管に口を寄せた。「反撃された。ちょっとでも歯向かうならやれ。パヌマが殺されたぞ」『くっっそお!』 船の下層で叫びと激しい物音が響き、すぐに静かになる。『リコ!』「何だ」『逃げようとしたのを2人始末した。船は動けそうか』「心配するな、すぐに島から離れる」 閉じた伝声管に薄く嗤って、リコは振り返る。「さあどうする、傭兵?」 このまま海へ飛び込むなら見逃してやるぜ?=========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>ヴァージニア・劉(csfr8065)村崎 神無(cwfx8355)エイブラム・レイセン(ceda5481)=========
「生憎だが泳ぎは苦手なんだ」 劉はリコの薄笑みを見返して、ゆっくりと細い肩を竦めて見せた。 「今回の暴動が計画的犯行だとして…目的は何だ?」 収監された仲間の救出か。船長も内通者って事はよっぽど不満があるらしいな。 「話次第じゃ協力してやってもいいぜ、俺の仕事じゃねーけどよ……」 「ほう?」 リコが楽しそうに笑みを広げた。船長の喉元に突きつけた剣はそのままに、 「どういう風の吹き回しだ? お前達はこの船を護りに来たはずだよな?」 「……まあ気まぐれだ」 劉はのろのろと面倒くさそうに唸った。 「本当にそこはそんな酷えとこなのかよ?」 「リコ、外の連中を」 船長の促しにリコが剣を納め、甲板に出て行く。戻って来た時には、エイブラムと神無、それに残った三人の男達が一緒だった。 「船長、このお嬢さんもベラ・ウゥルの話を聞いてみたいそうだぜ」 神無は船長とリコ、劉の顔を順に眺めて小さく吐息をついた。 「私達は監獄への囚人護送の護衛としか聞いていないわ。その監獄がまともじゃないという話を、もう少し詳しく知りたいの。ひょっとしてあなた達は、そこに囚われた無実の仲間を救出しようとしているの?」 黄金の目を眩げに見返したリコが、無言で船長を見やる。 「さっき、『帰りが困る』と言ったわよね。仲間を助け出して連れ戻す、そういうつもりなのかしら」 もし、それが本当なら。 「私も協力しても構わない」 リコがくつくつ笑った。 「……おいおい、そりゃ、あんまり世間知らずなやり方じゃないのか、傭兵」 「俺もそう思う」 エイブラムがひょいと両手を上げてみせた。 「俺達は囚人護送に雇われたんだぜ。それを、何かありそうだからってホイホイ寝返っちゃ、話にならねぇだろ?」 リコが険しい顔になって剣の柄を握り直し、船長が髭を指先で掴む。背後に詰めかけた三人の男ががしゃり、と剣を鳴らして身構えるのに、慌てんなよ、とエイブラムはウィンクした。 「もうすぐ調査船が来るのは確かだよな? この船が制圧されてて船長が人質になってると知れりゃ、人質を解放して投降するように要求してくるだろ? アンタは何を要求する気なんだ、リコ?」 えらいいいガタイしてるから、俺としちゃ結構そそられてるし、事と次第によっちゃ説得されてやってもいいが。 薄笑いとともに盛り上がった胸や張りつめた太腿に舐めるような視線を這わされても、リコは顔色一つ変えない。 「要求が通らなけりゃ、下の船員を見せしめに殺す、ぐらいはやるよなぁ? 要求が通ればどうするんだ。こっから、仲間を乗せてえっちらほっちら、ブルーインブルーのどこかへ逃げ出そうってのか。船長は人質になって最後まで連行されて、ベラ・ウゥルの方じゃ一人の犠牲で済んだってオチか?」 そんなにうまく行くかねえ。 エイブラムはせせら笑う。 「船員の数を減らすのは食糧を保たせる意味もあんのか? もし、調査船側が強硬手段で鎮圧に乗り出したらどうする」 もし、船長に俺らと囚人がグルだって言われたら、嘘だと証明できねぇしな、とこれは寝返りを表明した残りの二人への台詞だ。口には出さないが、この船だけではなく、他の連中と落ち合う算段もありそうだ、と踏んでいる。 「なぁ、ちょっとヤバすぎるって、神無」 緊張した表情でこちらを見返している少女に体を寄せる。 「武器まで渡すなんて無茶苦茶だろ? 信頼なんてできやしねぇ」 耳元にそっと囁いてみたが、依頼以外ではこういう接触におどおどびくびくするのに、今は鋭い視線を返してきただけだ。誘うように左手で細い手首に触れてみると、かかった手錠がじゃり、と鳴る。 「劉? どうしたんだよ、一体」 今度は劉にふわりと体を寄せた。趣味の悪いサイケデリックなシャツに包まれた栄養の足りてなさそうな体に、そっと指を伸ばす。薄く撫でるとひくりと震える、その敏感さを楽しみながらも、左手でついでのように電子の糸を仕込んだ。 「俺ちゃん、淋しいなぁ」 「特大のゴキブリ、ケツに突っ込むぞ」 ぼそりと唸った劉に慌てて手を引く。 「わかったわかったわかった」 降参、と肩を竦めてリコを見た。 「さすがの俺さまもロストナンバー二人を相手には無理無理」 がっかりしたようにオレンジの髪をかきむしってみせる。 「ってことで、俺は海に飛び込ませてもらう。頑張れよー」 言うや否や、身を翻し、戸口を塞いでいた三人の前を擦り抜けるのに、リコが怒声で追い立てる。 「奴を見張れ! ちゃんと飛び込んだか確認しろ!」 飛び込みさえすれば、この辺りは獰猛な肉食の魚も海魔も居る。いくら傭兵でも自分が生き延びるのに精一杯だろう。岸にたどり着いた頃にはこちらも逃げ延びている、そうリコに促されて慌てて甲板へ戻った三人は、少し離れたところでどぶん、と大きな水音がしたのに気づいた。ああやっぱり飛び込みやがった、と波間に揺れた泡を見送る。 その実、落ちたのは中身の詰まった樽で、当のエイブラム本人は光学迷彩を施して透明化しており、劉と神無に仕込んだ電子の糸で繋がり、表層意識のみを読み取りつつ思考通信を始めていた。もう少し劉や神無と楽しい思いができればいいのになあと思いつつ、船長室に戻る三人とすれ違い、ぶらぶらと船倉に向かって降りていく。 「お察しの通り、儂らはベラ・ウゥル監獄から、仲間を連れ出すつもりだよ」 船長は改めて神無と劉に向き直った。側にリコが腕組みをして護衛のように立つ。エイブラムが確かに飛び込んだと報告してきた三人は、もう一度甲板に見張りのために戻っていった。 「儂はロロトで生まれ、ロロトで育った。海辺の貧しい小さな街だ。お互いに貧乏なのはよく知っている。だから、つい最近までは盗みもそれほどたいした罪じゃなかった……ひもじいのには耐えられぬさ」 白い髭を指先で捻り、船長は続ける。 「暗黙の了解って奴だな、乳飲み子がいる女と、漁に出られなくなった男は食べ物を盗んでも罪にしない。代々の長もそこは見逃してきた。その代わり、そういう連中から盗んだ者は罪が重い。皆、ベラ・ウゥルに送られて、そこでいろんな作業をする、街に必要ないろんなものを作るんだ」 ところが、最近新しく長になったバルンゾは、正義を全うするという名目の元、盗みは盗みとして厳しく取り締まり始めた。おかげで見る見る牢屋は一杯だ。牢屋に入れられている者はただ押し込められているだけで、それでも飯は食う。 「いいか、そいつらは何も働きやしねえ、けど、おまんまは食う。その食い物を誰が用立てると思う?」 食うや食わずの街の連中だよ。あっという間に餓死者が出た。街から逃げ去る者が出た。正義を貫いたら、屍と廃屋が増えた。 「そこでバルンゾは考えた。正義は正義、それを貫くのは間違っちゃいない。間違ってるのは、ロロトの在り方だ、と」 ならバルンゾは何をしたか。 「ベラ・ウゥルへ罪人を送り込み、そこで餓死させるのよ」 船長は低く笑った。 「何も食わせず、牢につないでいれば、罪人は減り、街は疲弊しない。死ぬ奴は罪人だ、元々ロロトに不要な奴らだ、そう考えた。ぎりぎりまではうまくいったさ、本物の悪い奴だけを片付けている間はな」 けれど、人間の差し上げるこの『正義』という看板ほど破れやすいものはない。バルンゾの中で、不要な奴は悪い奴、そういう考えにすり替わるのは、それほど時間がかからなかった。 「自分の方針に反論した奴は不要な奴だ。自分と違うやり方をする奴は不要な奴だ。そうやって次々と罪人を作っては、ベラ・ウゥルへ送り込んだ。だが、街はまだ餓えている。次にはどうしたか。過去の罪を暴いたのよ」 船長はひょいとリコを顎で示した。 「こいつの罪は何だと思う? 当ててみな、お嬢ちゃん」 「……盗み、ですか」 神無の答えにリコは低く唸った。 「殺人だよ」 「立派な犯罪じゃねえか」 劉が唇を尖らせるのに、リコは冷笑を返す。 「ああそうだ、もし俺が通りで男とぶつかったせいで、十年後そいつが死んだということならな」 「…何だ、そりゃ」 「船長室の外に立つフレッグは、五歳の時に隣の子どものおもちゃを隠した『窃盗罪』だ」 「そんな…」 「他にもあるぞ、友人の家で喉が渇いたから水を頼んだ『強盗罪』……ああ、バルンゾの家の庭に生えていた雑草を踏みつけた、それを靴から取ろうとした『窃盗罪』もあるか」 なるほど、街は風通しがよくなったよ。 船長は嗄れた声で笑った。 「人口は半分以下だ。皆罪を恐れて家からほとんど出ない。バルンゾに組するものだけが、街を歩き罪を見つけて回っている……ロロトはもう終わりだ」 「ベラ・ウゥルには、そうやって送られた俺の友人がいる……ベラ・ウゥルの実体については、そいつからの情報だ」 リコは目を細めた。 「調査船が来たら、船長を人質に、船員と囚人の交換をして逃げるつもりだ」 ロロトの男なら大抵船に乗れるからな、と苦い声で吐いた。 「俺も刑務所みてえな施設にいたから大体は想像できるが」 劉は言い澱み、やがて思い切る。 「てめえは自分のやってることが正しいって信じてるのか? 胸を張ってそう言えんのか」 「言える。俺は、俺の真実を一分たりともねじ曲げていない」 リコがきっぱりと言い放つ。その顔をしばらく眺めていた劉は、しばしばと瞬きして、少し肩を落とした。痩せぎすの体が沈黙を抱えかねたように揺れる。やがて、 「実際中入った方が話が早ェ。ベラ・ウゥルがどんなとこか体験してくる。そこで見聞きした事と次第によっちゃあ、あんたらに協力してもいい……計画に加担してやる」 「しかし、それは」 リコがたじろぐのに、船長が重い声で確認する。 「入れば、出られぬぞ。守りは固い……仲間を裏切ることになる」 「この仕事トチっても図書館の信用が落ちるだけだ……俺にゃどうでもいい」 くつくつと引き攣った笑いを漏らした。 「昔っから規則とか体制とかそういうのたあ反りが合わねーんだ」 「……まだ調査船は来ていないわね。これはあなたに預けるけれど」 神無は日本刀をリコに渡した。 「代わりに…と言っては何だけど、もう少し皆に話を聞いてもいいかしら」 「……存分に」 船長が鷹揚に頷いた。 『なーんか引っ掛かるなぁ? 船長はこの仕掛けを船員には話してねぇのか?』 『入ってみなきゃわからねえだろ』 『監獄にバルンゾの手下が居て、ロロトも彼に掌握されていて……でも、こういう方法しか取れなかったのかしら。あの人達、一時は仲間だった人間を、邪魔になるからって「減らした」のよ』 三人の思考はまだ探している、この状況の真実を。 神無が階段を下りていくと、一瞬は身構えた囚人達は、すぐに薄ら笑いを浮かべて迎えた。 「リコから聞いたぜ、仲間になってくれるんだってな」 「バルンゾの横暴に立ち上がったんだ、俺達は真っ当だぜ」 「あなたは何の罪で捕まったの?」 「隣のガキがしゃぶってた飴を落としたから拾ってやった『窃盗罪』さ」 「オレは通りの店で棚から落ちかけてた荷物を持ち上げて片付けようとした『強盗罪』だ」 「おれなんか、てめえのガキが着てた服を着替えさせてやった『強盗罪』だぜ」 がはは、と笑う囚人達に微笑みを返しながら、神無はゆっくりと船内を見て回る。ついでにロープや武器になりそうな棒や金具の類の場所も確認しておく。 船員達は怯えていた。仲間が目の前で二人殺されている。船長も捕まって脅されていると言われている。しかも、頼みとしていた護衛はなぜか囚人側に回ったようだ。混乱と不安、裏切りへの怒りを悟られまいと体を竦め、目を背ける。 「船長…」 無事なんだろうか、と心配そうに呟く声に、神無は歪みかける唇を堪える。では、船員は知らないのだ、この『暴動』が仕組まれたものであることを。だが、よくよく見ると、身を竦めながらも薄笑いをしている船員もいる。船員の中にも敵と味方が入り交じっているのかも知れない。 「……一人、足りないわね」 「ああ、ソラルか。気分が悪いって、あっちの部屋で寝てる。ちょうどいい、俺達はこいつらの見張りで動けねえから、食い物を持っていってやってくれ」 「わかったわ」 神無は固いパンのような塊と水の入ったコップを渡され、また目を止めた。 テーブルの上に食い散らかされた食べ物がある。確かロロトは餓えた街であり、ここにいる囚人達はほとんど食べるものもなく、牢に押し込められていたはずではなかったのか。そういう者達が食べ物をこんな風に粗末に食い散らかしたりするだろうか。そういえば、と神無は気づく。この船に乗ってから、彼等が餓えた様子は見なかった。 「何だ?」 「いえ、何でも……あそこね?」 神無が扉をそっと叩き、開いて入ると、びくりとベッドの上で身を竦ませた男がいる。まだ少年に近いような顔、驚いた様子でベッドの側にやってくる神無を見上げた。 「気分はどう? 少し食べられるなら、これを…っ」 差し出すまでもなく、ソラルは手を伸ばして掴み、一気にほうばった。固いだろうに必死に咀嚼し呑み込む。全てを食べ切り、指も舐めとってからようやく、勢いに思わずベッドの端に座り込んだ神無を見て、真っ赤になった。 「ご、め、お、れ……は、ら、へ、て」 「大丈夫。お腹空いてたの? 気分が悪かったのじゃないの?」 「ず、と、な、に、も……く、て、ね、か、ら」 その顎のあたり、ボロを着た腕や腹のあたりに内出血の痕があるのに、神無の目が吸い寄せられるのに、ソラルは慌てて毛布を引き寄せた。 「み、と、も、な、い…ご、め…」 「うまくしゃべれないの? 昔から?」 「ず、と」 「その傷はどうしたの?」 「……」 ソラルは無言で扉を見る。 「……あなたは何をしたの?」 「な、に、も」 少年は繰り返した。 「な、に、も……ふ、ね、の、る、か、と、い、わ、れ、た」 「船に乗るかと言われた? 囚人ではないの? 囚人ではないのに、この船に乗っているの?」 確か出港時はリコ達と一緒に固まっていた。だから囚人だとばかり思っていたのに、これはどういうことだろう。リコは知っているのか、知らないのか。船長はどうだろう。 神無は甲板の方を見上げた。 「どうも食い違ってんじゃん?」 一人ごちて、エイブラムは囚人の一人に忍び寄る。透明な彼に気づくわけもなく、小用を足そうと階段を上がり、甲板の端へ歩いていく背中にひたりと左手を当てる。 「あ、ぅ」 ぴくり、と上下同時に震えた体に入り込む電子の糸、脳内にハッキングを仕掛けるのはこういう世界だと簡単すぎて拍子抜けするが、 「はぁ…う……っ」 甘すぎる妄想と広がる快楽に蕩けていく顔はそれはそれで楽しみだ。ついでに頭の中身をチェックして十二分にわかる。こいつはリコが言うような、でっちあげた犯罪で牢屋に放り込まれたのではない、むしろさっさと街から追い出しておいた方が世のため人のため婦女子のためという輩だ。 「面白くなってきやがったぜ」 エイブラムの望みを叶えることこそ快楽という神経回路に仕立て上げ、下に戻るのにくっついて次々と囚人にハッキングをかけていく。結果わかったのは、 「どいつもこいつも、しっかり犯罪者じゃねえか」 強盗殺人放火婦女暴行。もっともソラルという子どもは別口のようだ。 エイブラムに対する条件付けをしてから解放してやる。この一件が終われば、エイブラムと関係がなくなり、永久に今味わったような快楽とはおさらばすることになる。さぞかしひどい餓えに苦しむだろうが、罪人には相応しい罰だろう。 「上もそうかな」 リコと船長はへたに接触するとややこしくなりそうだ。 甲板に戻っていく険しい顔の神無に、あれじゃあバレバレじゃんかよ、と苦笑しつつ、残る三人に近づきハッキングする。 「……こいつらは違うな」 上の三人は確かにリコの言った『でっちあげられた罪』系だ。 「来たぞ!」 リコが叫んだ。調査船が近づいてくる。 「レット!」「リコ!」 リコが大きく手を振ると、調査船の中に居た数人の内、一人が同じように手を振って応じ、側の男に制された。 「何だ? もう交換人員が乗ってるのか?」 いやに手回しがいいじゃねえか。いや、良すぎる、か。 エイブラムは薄く嗤う。 「そちらの要求は全て呑む」 間近に寄せられてきた船から、一人の男が呼びかけてきた。 「船員と囚人を交換する。船員一人につき、囚人一人だ」 降ろされた小舟にレットと呼ばれた男を先頭に薄汚いボロを纏った男達が乗り込み、こちらへ漕ぎ寄せてくる。 「こちらも約束は守る」 くい、とリコが顎で促し、下に居た男達が引きずり上げるように連れ出した船員達を甲板に並べた。漕ぎ寄せてきた小舟がこちらの降ろした縄梯子に辿りつき、男達がのろのろと梯子を上がってくる。 「リコ! リコ!」 一番最後に上がってきたのがリコの友人だというレット、痩せこけた顔に溢れるような笑みを浮かべてリコに駆け寄ってくる。 「ああすまない! 本当に助かった、あの島で死ぬのかと思ったよ!」 「長い間待たせたな。しかし、もう大丈夫だ!」 リコがしっかり抱き止めたとたん、レットがぎくっと硬直した。 「リ…コ……?」 「もう大丈夫だ、レット、もう餓えに苦しむことはないんだ、俺達は」 ばたばたっと派手な音を立てて甲板に散ったのは鮮血、レットの腹を突き抜けた剣は紅に濡れて背中から生える。 「ベラ・ウゥルを根城に、俺達は生き延びる」 そのためには、お前のような真っ正直な奴は邪魔なんだよ。 「リ…コ……」 崩れたレットの血に塗れ、まっすぐにリコがみやっているのは調査船、同時に甲板に並ばされた船員が次々と突き飛ばされて海に落ちる。慌てた調査船の連中が船員を助け上げるが、その船員が今度は逆に調査船の小舟の人員を海へと蹴落とした。そのまま落ちた仲間を引き上げて、調査船へと漕ぎ出す。 調査船の方にはおそらく、人質交換に出向いた小舟が落とされた船員を必死に回収して逃げてきていると見えるだろう。まさか、それが船を乗っ取る男達を運んで来ているとは思わないだろう。 しかも、今小舟から乗り移った囚人の幾人かにもリコが剣を揮おうとする。 「リコっ、てめええーっ!」 船員の中に紛れ込み、調査船に乗り込んでベラ・ウゥルへ行くはずの劉も突き飛ばされて海に落ちる。強い舌打ちは二重三重に欺いた相手への怒りか、見抜けなかった自分への悔しさか。 ……俺には正しいなんて胸張れる物一個もねー。そう言い切れる奴が鬱陶しくて 少し眩しくもあったんだ。 細い体が他の船員と同じようにどぶんっと海に呑まれると見えたその次の瞬間、劉の指先から銀の光が空中に走った。今しも調査船に向かって走り去ろうとした小舟に伸び、 「ぎゃああっ!」「ぐああっ!」「ひいいっ!」 血煙を上げて小舟の中が阿鼻叫喚の修羅場と化す。そのただ中に、銀糸に護られ導かれて転がり落ちた劉 が、どんよりとした顔で唸った。 「うぜー…」 屍体を踏みつけ、船から垂れた縄梯子をみやる。 「だりー……」 「うあっ!」 逃げる囚人を切り捨てかけたリコが首を押さえて転がった。いざという時のためと神無の日本刀を近くに置いていたのが仇になった。神無に遠隔操作された日本刀はリコの首を今にも断ち切りそうな位置で浮かんでいる。 「確かめたいわ」 神無は静かに近寄って、日本刀を掴んだ。両手首の手錠が無情な響きで鳴る。 「あなたは何をしようとしたの」 私はもしベラ・ウゥルの異常が真実なら、ロロトに告発して正当なやり方で正そうと思っていた。 「あなたと船長は何をしようとしたの」 「生き延びたかった、だけだ」 リコは苦い顔で嗤った。 「ロロトは貧しい。あそこにはもう何もない。だが、監獄ベラ・ウゥルは罪人が島の畑を耕し、いろんなものを作って豊かになった。何でだと思う?」 くくく、と歪んだ笑みを広げる。 「バルンゾが罪をでっちあげた奴らを送り込んで、あのくそ野郎がそいつらを仕切ったんだよ」 「レットね?」 「昔から嫌いだったんだよ、真っ正直でこうるさくて」 罪人よりも、単にバルンゾが不要だと思っただけの奴、つまりは真っ当な奴が増え、監獄島はロロトよりいい街になってしまった。それを知らなければよかった。街の住民を押さえつけるためにバルンゾが流した噂のままに、ベラ・ウゥルは恐ろしい所だ、生きて帰ってこれないところだと思っていられれば、それでもロロトで何とか暮らせた。 「本当のことを、知らなければ」 なのに、あいつが、レットが、ベラ・ウゥルから知らせて寄越した、ここはずいぶん住み良くなったけれど、それでも僕はお前の居るロロトに戻りたいよ、と。 「何も、わかっていないんだよ!」 「うぎゃあああっっ」 船長の絶叫が聞こえた。手に手に獲物をもって船長に襲いかかる囚人達、エイブラムが満足げにそれを眺めている。 「気持ちいいだろぉ? イッちまいな」「はああふ!」 声を上げて崩れる囚人達をくすくす笑いながら見たエイブラムがひょいと振り返る。 「アンタらは囚人護送を装って島に入り込もうとした。けど、レットが、いや、その他の真っ当な人間達が邪魔だったんだよな? そいつらだけを始末して、自分の仲間を島に運び込むためには『暴動』が必要だった。ロロトに帰りたがっている罪人と、こっちの仲間を交換すればいい。俺達には如何にもまともな話を聞かせておけばいい、うまくいけば利用できると踏んだ。事実、ロロトにはそういう噂が流れてた」 「ベラ・ウゥルにもあなた達の仲間が居たのね? だから、これほどうまく交換が進んだ……ひょっとして、今運び込まれてきた人達の中に居た…?」 鋭く神無が振り返り、残りの囚人達の中の一人が逃げ出そうとするのを、ひらりと翻った日本刀が押さえた。 「レットさえいなけりゃ、あそこは俺達の自由になったんだ!」 リコが悔しげに吠える。 「……そうして」 ようやく縄梯子から這い上がってきた劉が、俯いたまま呟く。 「あっちもまた、ロロトみたいに干涸びた街にするんじゃねぇの?」 爪を齧った指を伸ばす。 「街を殺したのはバルンゾじゃねえよ」 あんたらだ。 鋼の糸が陽に煌めいた。
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