ターミナルを歩いていると、様々な人、物にめぐり合う。だから神さまの世界、面白い。ルンは時折きょろきょろと辺りを見回しながら、歩いていた。 「……? 何だ、この匂い?」 ふと彼女の鼻腔をくすぐったのは未だかつてかいだことのない香り。美味しそうなのとも違う、獣の匂いとも違う、なんとも形容のしがたい香り。 「うーん?」 鼻をひくひくとさせてその匂いを辿っていく。未知のものは気になる。気になるなら確かめる。辿っていくうちに画廊街にほど近い商店街へと入った。飲食店の殆ど無い地域であるからか、その香りは一層際立っていた。ルンの嗅覚にかかれば文房具屋の紙やインクの匂いや化粧品屋のおしろいの匂い、洋服屋の生地の匂いも感じ取れるのだが、今はそのかいだことのない匂いが気になっている。嗅覚の指し示すままに足を進めていくとだんだんと香りは濃くなっていき、発信源が近いと感じられた。 「ここだ!」 顔を上げてみればそこは何かの店のようだった。戸は細い木を繋げたようなもので目隠しがされている。その隙間から問題の香りは漂い出ていた。だがその目隠しを除けて中に入ろうと押しても目隠しはミシ……と音を立ててたわんだだけで開きはしなかった。だからといって力任せに神さまたちの持ち物を壊してしまうのもいけないような気がして。横にずらそうと試みるが目隠しはルンの思い通りには動いてくれない。 「うー……」 自由にならない目隠しに対して思わず唸り声を上げたその時。 「!」 香りがほのかに変わった。ルンが目指してきた香りの中に少しだけ別の香りと神さま――ルンは覚醒後の世界を死後の神さまの世界だと思っている――の匂い。ゆっくりと近づいてくる衣擦れの音。ルンは目隠しの隙間から建物の中をじっと見つめた。誰か、近づいてくる。隙間から見える着衣は様々な色が使われていて色彩鮮やかだ。 「御用でございますか」 涼やかな声音で問われ、ルンは首を傾げた。声は女性のもののようだということはわかった。敵意は感じない。 「ルン、匂い、辿ってきた! この匂い、気になる!」 正直に告げる。すると目隠しの向こうで女性が小さく笑ったような気配がした。するすると近づいてきた女性が屈み込み、慣れた手つきでくるくると足元から目隠しを巻き上げていく。 「おお……おお」 ルンが口をあんぐりと開けて見ている間に目隠しは全て持ち上げられ、その向こうにいた女性の姿が顕になった。女性は様々な色の衣を何十にも重ねた格好をしており、ルンから見れば酷く重くて動きにくそうに見えた。けれども彼女からはとてもいい匂いがする。 「どうぞお入りくださいませ」 「入っていいのか!?」 笑顔で肯定した女性の勧めで建物内へと足を踏み入れると、ふわっと濃い香りがルンの鼻孔を突いた。外まで流れ出ていた香りだ。 それとは別に、草の香りがする。きょろりと室内を見渡すと、テーブルや椅子の他に床から一段高くなったスペースが有り、そこには草を編んだ敷物が敷かれていた。いい香りだ。なんとなく落ち着く気がする。 「ここ、乗ってもいいか?」 「畳がお気に召しましたか? どうぞ、おあがりください」 振り返って尋ねると、女性はやんわりとした笑顔で許可を出してくれた。パンパンと足の裏をはたいてから畳とやらの上に上がってみる。使われている草の匂いなのか、ゴロンと寝転ぶと草の香りに包まれている心地がした。 「寝心地がいいぞ!」 「ふふ……お気に召していただけたようで幸いでございます」 畳の上をごろごろごろごろ転がるルンを咎めることなく、盆を持って奥から戻ってきた女性は微笑む。一段高くなっている畳の上にゆっくりと腰を掛けるとお茶をどうぞと声を掛けてくれた。ルンは女性の側へと近寄って、あぐらをかいて座った。 「申し遅れました、わたくしは夢幻の宮と申します」 「ルンはルンだ!」 「ルン様でございますね」 差し出されたガラスのコップには黄緑色の液体と氷が入っている。身体に悪いものではなさそうだと判断してぐいっとあおった。すると口の中に苦味が広がる。 「にがいっ!」 思わず声を上げたがその後に広がったのはなんとも言えぬ清涼感で。不思議だ。ルンは目を丸くして首を傾げる。 「にがかった。でもさっぱりした!」 「緑茶を冷やしたものでございますからね。苦味の後、さっぱりとした口当たりが心地よいと思いまする」 「神さまの飲み物、面白い! ルンの知ってる薬草で作る汁、似てる。けどもっと苦い!」 もう一杯、とコップを差し出すルンを微笑ましげに見つめながら、夢幻の宮はピッチャーから冷たい緑茶を注いだ。再びぐいっとあおったルンはまた、苦いと口にしながらもコップを空にしたのだった。 *-*-* とてもとても甘いお菓子をたべて。お腹がだいぶ満たされた頃、ルンは不思議に思っていたことを思い出した。 「なんでこんな匂い、いっぱいする? 外まで匂い、流れてる」 「ああ……ここは香りに関するものを置いているお店だからでございます」 「??」 夢幻の宮はかんたんに説明したがルンにはよくわからない。夢幻の宮は優しく、もっと噛み砕いて説明を始めた。 「お料理を差し上げるお店は、そのお料理の香りが致しますでしょう? たとえるならば、それと同じでございます」 「何のために香りを買ってつける? 自分の匂いを消すためか? ルンは獲物に見つからないよう、泥を塗る」 「そうでございますね、匂い隠し――マスキングの意味もございますが、相手を不快にさせないように、心地よくなっていただくために、安らいでいただくためにという意味もございますよ」 「神さまの世界、面白い。みんな服にも匂いをつけるのか? どこに誰がいるか、ルンならすぐわかる!」 無邪気に瞳を輝かせるルンに夢幻の宮は頷いて。そうするとさらりと流れた彼女の長い黒髪からも香りが零れた。 「そうでございますね。わたくしのいました世界……先だって見つかりました夢浮橋では、貴族が日常的に香りを愛しておりまする。己の香りを決めて、自分で調合して。同じ種類の香りでも調合する方によって微妙に違うものになりますから、残り香でその方の存在を知ったり、愛する人の残り香で心を慰めたりなどすることもございます。素敵な香りは皆、調合法を知りたくございますし、香りの評価はその方の雅さの評価に繋がりました」 「うーんうーん」 夢幻の宮の流暢な説明をきちんと聞いていたが、ルンにはいまいちよくわからなくて。頭を抱えて唸ってしまう。 「分からない。分からないから見に行きたい! 見立ててくれ! 動きやすい、弓が引きやすい服!」 「まぁ、行かれるのですか?」 「うん!」 わからないなら実際に見てくる、真っ直ぐなその考えと行動力に目を丸くした夢幻の宮だったが、自らの故郷である世界を見に行きたいといわれて、適した格好を見立ててほしいといわれて無下に断ることはしない。寧ろ興味を持ってもらえたことを嬉しく思ったようで、少し考えてから彼女が用意したのは勢子の格好だった。狩猟の場にいる勢子ならば、弓を持っていても問題ないし弓を引く動きを阻害する格好でもないだろう。 「気をつけて行ってらっしゃいませね」 そう告げて夢幻の宮に送り出されたルンは、元気よく手を降ってまずは図書館を目指した。夢浮橋行きのチケットを貰うためだ。 その後、夢幻の宮はルンが無事に旅立ったという話を世界司書の紫上緋穂から聞いて胸をなでおろしていたのだが――。 *-*-* わたくしがその話を聞いたのは、ルン様が夢浮橋へ行かれてからだいぶ後のことでした。依頼で夢浮橋の暁王朝を訪れたロストナンバーが気になる噂を聞いたと、わたくしの元を訪れてくださったのです。 その噂とは、鬼が出現したというものでございます。 夢浮橋における鬼の定義とは、絵巻物でみかけるような筋骨隆々、赤や青の肌をして角を持ったものを差すこともあれば、得体の知れぬものを鬼と呼ぶこともありまする。また、自分達と容貌の違う異国人を、畏怖からか鬼と呼んで通ざけるふしもございます。 此度のことが如何様なものであったのか、断片的な話から想像することしか出来ません。 此度の鬼は、急ぎの商品を届けるために危険を承知で夜の山道を征くことを決断・実行した商人の夫婦に目撃されたとのことです。 山道で荷車や旅人を襲う野盗は、鬼の風貌を真似して第一に得体のしれないものに対する恐怖心を植え付け、怯えている最中に荷を奪う事もありまする。此度もそのような手段を用いた輩の仕業かと思いましたが、話を聞くところによるとどうやら違うようなのです。 鬼が現れたのは山賊が荷車を襲っている最中とのこと。下働きの男達がすべて斬られ、商人の男性が刀を持って野盗に立ち向かおうとしていた所だということです。 護衛にと雇った者達は初めから野盗と通じており、野盗達が現れると本性を表し荷を受け渡すよう迫ったとか。 明らかに多勢に無勢。荷ばかりか命までをも取られることを覚悟したその時、暗闇から飛来した矢が次々と野盗を射ったそうです。 御仏に祈りが通じたか――そう思った時、矢は商人の男の手も射抜いたらしいのです。 そして暗闇に現れたのは――木々の間から溢れる月の僅かな光に照らされて輝く、金の髪と金の瞳を持つ鬼――。 狡猾にも人の言葉を用いて取り入ろうとした……これは商人の男の言葉ですが、男が鬼に斬りかかろうとした所、到底人のものとは思えぬ怪力で張り倒されてしまったとか。 鬼はそのまま暗闇に紛れて消え去り、商人夫妻は命からがら山を降りたそうでございます。 果たしてこの鬼とは。 あの山は鬼の棲む山として恐れられるようになったそうでございますが……まことはいずこに。 *-*-* 「うーん」 ロストレイルから下車したルンは、大きく伸びをして空気を吸い込んだ。新鮮な空気だ。身体いっぱいに吸い込めば、元気いっぱいになれそうだった。 「山の匂い!」 そのまま暁京へは滞在せず、彼女が向かったのは都の外に位置する大きな山だ。青々とした葉が化粧を始めようとしている頃。ほぼ自然のままの山は、ルンをワクワクさせた。 獲物の気配と小さな音を拾い、駆ける、駆ける、駆ける。狙うは雉、そして猪! 慣れた手つきで弓を操り、やすやすと命中させていく。ルンの腕前ならば山ほど獲物を獲ることも可能だ。けれども彼女はそれをしない。狩るのは自分が食べる分だけだ。 あらかじめ見つけておいた木のそばで火をおこす。そして獲物の皮を剥ぎ、血抜きをして羽を毟る。手慣れたもので、その動きには無駄がない。 「この山良い山。ルン、この世界気に入った」 肉を焼いてかぶりつく。自分で獲った獲物の味は格別だった。山を走り回るのも楽しく、獲物との駆け引きすら嬉しい。久々に感じるこの感覚に満足しないわけがない。久しぶりにお腹がくちくなるまで獲物を堪能した。 腹がいっぱいになると当然のごとく眠くなる。辺りはもう闇に包まれていて、木々の枝葉の隙間から見える月だけが眩しく輝いていた。 ルンは木に登り、丈夫そうな枝の上へと身を預ける。不安定そうに見える枝の上も彼女にとっては良い寝床の一つだ。樹の幹に背中を預け、枝に足を伸ばしてうつらうつらとまどろみの中へ。 いつの間にか吐息は寝息へと変わり、ルンは充足感の中で眠りを受け入れていた。 キャァァァァァァァァァァっ!! 「!?」 遠くに聞こえる絹をつんざくような悲鳴で目が覚めた。夜半、山の中に響き渡る悲鳴。ただ事ではないはずだ。ルンは反射的に動いた。 樹の上、数十メートルを一挙に跳躍しながら声のした方向を目指す。方向が間違っていないことは、聞こえる低い声や怒声、剣戟の音が証明していた。 ルンは夜目が効く。ゆえに真夜中の闇の中の移動に困難はなかった。 夜空を飛ぶようにして現場へと駆けつける。着地した枝の上から見れば、荷車を囲む男たちの姿。荷車の周りの男達は全て刀を手にしていて、すでに倒れて動かなくなっている人の身体の下には血だまりが広がっていた。ルンの非常に良い嗅覚は、暗闇の中でも鼻を突く血の匂いを嗅ぎとっていた。 「お前たち、何をしている!?」 この中の誰かが動かなくなった男達を斬ったのだ。それだけは分かった。 シュンッ……シュン、シュンっ……!! 「ぐぁっ」 「うぁぁぁぁ!」 「うぐあっ!?」 ルンの大弓から次々と射られる矢は暗闇の中を疾走し、狙い過たず刀を持った男達を射抜いていく。 次々と上がる悲鳴、膝をつき、倒れ伏す男達。 刀を持つ者すべてを射抜いて息をついたその時、荷車の影にでも隠れていたのか、女が転がり出てきた。 「止めて止めて、あぁ、貴方様の手まで、なんという事」 女が縋ったのは荷車を背にして立っていた男。男は刀を握っていた手を射抜かれて、刀を取り落として膝をついていた。女はその血まみれの手に縋りつき、手にしていた手巾で何とか血を止めようと試みる。その姿を見てルンは、あの女が悲鳴を上げた女で、女が縋る男は女の味方であると知った。 「悪い、どっちが悪いか分からなかった」 しかし到着した時点ではどちらが悪人かわからず、刀を持った者全てを射抜いてしまったのだ。 「ひぃぃぃっ……」 音も無しに木から飛び降りたルンの背後には大きな満月が輝いている。 満月を背負って立つルンの金の髪は突如場を通り抜けた一陣の風によって恐ろしげに逆立ち、きらきらとこの世のものではないような光を発する。 金色の瞳は闇の中でもなおぎらりと輝いて。 「お、お前っ……」 その姿を見て女は気を失って男にもたれかかった。野盗に襲われてなお気を確かに持っていた女が、だ。男は血まみれの手で、痛みをこらえて刀を握り直す。女を庇うように立ち上がった。 「金髪金目……お前は山の鬼か、天狗か。何をしに来た」 明らかに歓迎されている雰囲気ではなかった。けれどもルンは正直に自分の気持ちを口にする。 「ルン、悲鳴を聞いた。助けに来……」 「俺を殺そうとした癖に」 ルンの言葉は聞き入れられなかった。 男は一歩踏み込んで刀を振るう。 「鬼め、鬼め、鬼め! 俺たちを喰らう気か!」 男の瞳は怒った獣の瞳に似ていた。何を言っても届かない――ルンは本能で悟った。問答無用で斬りつけてきたのがその証。 「やっ!」 刀を避け続けていたルンは、隙を見て男の腹部に蹴りを入れた。男は数メートル吹き飛んだが、ルンはそれを確認しなかった。蹴ってそのまま逃げ出したからだ。 (助けに行ったのになんでだ?) (ルン、間違えたのか?) (あの男、悪いやつだった?) わからない、わからない、わからない。 夜の山を駆けながら考えるが、とても難しくて。ルンには答えを見つけられそうになかった。 けれども、ただひとつわかることもあった。 いつの間にか辿り着いた崖の上で空に浮かぶ満月を見つめる。 「山の獲物、旨かった」 それだけが、ルンの真実だ。 【了】
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