晴天、続く。 山の肌を青き木々が染めはじめ。 生命の唄が盛んに響く頃合に。 麓に広がる人里の。いくつも広がる村々に。 今年の梅雨は、雨降らず。旱を予感さすばかり。 渇いた田には苗倒れ。村の民らは恐怖する。 過去の知恵はこの秋の、実りはあらじと告げるのみ。 中天に至る太陽の、最も長く在るその日。 常には人の立ち入らぬ、その地に娘、歩み入る。 それに気づくは人ならぬ、山の主とされたモノ。 ‡ 「面倒な」 舌打ちひとつし、玖郎は地へと降り立った。 森に陽の注ぐ時間の終わりは近い。 足取りもおぼつかぬ小娘一人では容易に獣に襲われかねず、約定の場所まで来るのも難渋すると思われた。 ならば、衰弱する前にさっさと攫うほうがよいだろう――そう考え、娘の前に姿を顕とする。 「――ひっ」 突如降り立った異形の姿に脅えたのだろう。布切れで顔の半ばを覆っている女が、棒を飲んだような姿勢で立ち止まる。 「連れ去るぞ」 肩をつかみ、そのまま小脇に抱えるようにして飛翔する玖郎。 突然その身に降りかかった状況に対応しきれぬ女は何事か叫ぶも、やがて沈黙――気絶したようだった。 ‡ 「さとへかえるか」 巣に運び入れた女は、水を与えられて目を醒ましていた。 やはり一瞥して悲鳴をあげかけたものの、ふと黙り込み、そのまま俯き続けていた。 何がしかの言葉を発することを待っていた玖郎であったが、やがて飽く。 そうして告げた、女の意思を確認する言葉。 その言葉に対して、返答の声はない。 ただ弱々しく、首が、横に振られた。 少しおいて、また強く。 ならば、一先ずは慣れてもらうこととしよう。 そう判断した玖郎。未だ落ち着かぬ娘の様子は、空腹が元にあると考え、行動に出た。 「獲物ぞ。おまえのものゆえ、好きにくらえ」 巣に持ち帰った兎の死体を女の目の前に置く玖郎。 空腹を満たせば落ち着くであろうし、害意は持たぬことの証左にもなろうと考えたからだが、そんな玖郎の予想に反して、女の動きは強張ったもの。むしろ、思考が停止しているようだった。 「はらがへってはいないのか」 問えば、しばし考えた末にまた首を振る。 「さらばなにゆえくらわぬ」 「生では、たべられませぬ……せめて、捌けねば――わたしには、山神様のように鋭き爪がございませぬゆえ、引き裂くこともかないませぬ」 しばしの思案。 「なるほど」 母も確かにそうであったと、思い至る。 人の女というものは、難しいものだと一羽つぶやく玖郎を横目で見ながら、女はまた俯いている。 しょげているのではないと、なんとなくだがわかってきた。 言葉ははっきりし、最初こそ驚き、畏怖していたもののある程度慣れているように見えた。 ならば何ゆえか――思案し、気づく。 女が俯くのは、常に右側に顔を傾けてのこと。 「そのあざがゆえにうつむくか」 びく、と女の肩が震える。 不可思議なことだと、思う。何ゆえ痣程度を憂える必要があろうか。 顔の痣等、固体の識別をしやすくこそなるだけである。五体が不満足ならば生きるに支障がでてこよう。 「子をはぐくむのに支障がなくば、問題はない」 それは玖郎にしてみれば素直な感想であったが、娘は、複雑な表情を浮かべてみせる。 不可解な――五体の健康な事を言祝いだというのに喜色を浮かべぬ人の心へと抱く思い。それはその後幾度も抱くものであり。 はじめの日は、そうして時が過ぎ去った。 ‡ 晴天、続く。 愈々ふもとは旱となり。 地の田はいまや、皹割れて。 河川は最早水乏し。 必然争い起こりだす。 約定果たす、刻来たり。 ‡ 川の水量は続く日照りで殆ど消えてなくなり、上流の村では流れを遮る堤を築いて己が村だけでも必要な水を得んとしていた。 そして下流の者らはその堤を切って自分達の村へと水を流させようとする。 諍いは日に日に激しさを増して入っており、玖郎も当然、その状況は把握している。 そして玖郎にとってその状況下においては、累々と伝わる義務を果たす必要があった。 しかし、どこにでも、では義理が立たない。玖郎としてはそれでも構わなかったが、それでは伝えられる事柄と異なってしまう。 故に、聞く。 「さとはいずこぞ」 女が答えることはなく、ただ俯くのみだった。 仕方なしに、玖郎は再び女を小脇に担ぎ、空を翔けた。 「あれか」 はるか上空から見下ろして問う。腕にしがみつくままに、無反応。 「あれか」 いましばし飛び、別の集落群の上で問う。やはり反応はない。 ようやく意識がはっきりとしてきたらしき女を連れて、別の村々の上へと場所を移す。 「このあたりか」 わずかながら、その身が固まった。 えたりとし村を見下ろす高台へ降り立った一羽と一人。 天候を操り、雨を齎す事が可能ゆえに、山神として崇められた化生の一族、天狗。 ゆえに人はこれを頼り、人柱を捧げる事を決意する。 本来ならば、自然に迷い込んだ女を攫い、その女の存在をとる代償にと、生まれた村へ雨を降らせただけのやりとり。 必ずしも生贄として捧ぐべしと告げたわけでもなければ、直接の約定を交わしたわけでもない。 だがいつしか、旱が続くにいたっては生贄を捧げる事が習慣として人の間に根付き始めた。 生贄に捧げられる者は覚悟を終えた者が多く、抵抗も少ない――特段望んだわけではないが、捧げられるものを断る理由もなく、かといって雨を与えずば牙を剥いてくることもありえる。 故に、いつしかこれは種の義務となった。 玖郎にしてみれば初の行いだが、父祖より伝う仕儀に、特段の感慨を抱く事はない。 巣を作り、妻を娶り、子を為し、子に餌を与え命をつなぐ。その過程の一事であれば、何ぞ感慨を抱くことがあろうか。 見下ろした先には小さな村。十数戸が寄せ集まる村では、今にも上流の村々へと攻めこまんとする者達が気勢を上げている。 賛同する近隣の村と集合し一定の数を得たそれはもはや一軍であり、水争いはいまや小競合いから合戦へと姿を変えんとしていた。 その様子を眺めながら、玖郎が空を見上げ、印を切る。 ゆっくりと行われるその作業がいかなる意味を持つのか、女も悟ったのだろう。 腰が抜けたようにへたり込んでいた身を起こし、玖郎の腕へと縋り付いてきた。 「あの村に雨など降らせないでくださいませ――」 見上げる顔に浮かぶ表情は、悲愴。 眉根は寄せられ、己の発言がいかなる結果をもたらすのかを分かっていながら尚それを望まざるを得ない業を認識しているが為に、浮かぶもの。 「あそこにいたくなかったのも事実です。戻りたいなど微塵も想いませぬ。されど、私が去ってあの村の者達が、父が、母が、兄が。彼らが幸せになる――それも、嫌なのです」 だから、どうか。 しかし、天狗がその心を理解することはない。 獣に近い性を持つ彼にとって――女の心情は、理解するには複雑に過ぎた。 ただその「感情」が彼の所業を厭うていることは理解した。されど、然様な「感情」で、連綿と続く暗黙の約定を違える事は、慮外の事であった。 腕にまとわりつかれている事など気にせず術を為す玖郎。 乾いた大地の下に眠る、水気を地上へと呼び覚ます。 ゆっくりと地面に伝わる木気は猛る土気を鎮め、土気に抑えられていた水気がにわかに勢いを取り戻す。 薄い雲しかなかった空が、にわかに黒味を帯びてくる。 立ち昇り始めるは、水気。 村の民の祈りでは、ここまで速やかには至らない。 農村の民の気質は土。あるいは火。 火は大地を豊かにするが、その故に水気を押しやる。 土は金を生ずるが、農村の金は即ち土と相克する「己」の質に寄る。 いずれの祈りも、水気を生ずる事はない。 故に民等は贄を捧げ、異なる気を持つモノに頭を垂れるのだ。 十分な水気が大地に揺蕩うのを感じ、玖郎がその掌を天へと向けた。 さながら、眠る竜を天へと誘うかのように突き上げられるその腕で。 地に横たわる水気が、天へと押し上げられる。 一滴。 落ちた雫が、地面を濡らす。 また一滴。 落ちた雫が、頬を濡らす。 二滴、三滴。いつしか無数。 猛っていた村々の民が、空を見て武器を放り出した。 高台から見下ろす村の大地は静かにそれらの水を受け入れるだろう。 地滑りが起きない程度の静かな雨は、大地よりしみだした水気を基とするがゆえ。 旱を弱める為には木行の雷では力が足りない。それで生まれた雨は地を制しかねない強さを持つものとなる。 大気を整えることで生まれたこの雨はゆっくりと地を潤し、二日以内には上がるだろう。 だが一度循環を取り戻した大気は、再び水気を巡らせる――この周辺において、旱の時は、去ったのだ。 静かに降りしきる雨をその身に受けながら、女は哭いていた。 声をあげることはなく。 雨に沸く村から目を背けることもなく。 ただただ静かに雫で頬を濡らすのみ。 それなのに、玖郎は女が哭いているのだと、感じる。 奇妙な感覚だった。 自然、言葉が口をつく。 「おまえにもなにかあたえよう」 ‡ 望むものを言うがいい。 雨を降らす以外に約定はなく、欲するならば幸せにしたくない者の命でもとってきてやろう。 そう告げる化生の言葉に、女は顔をあげ、傍らに立つモノを見上げてくる。 相変わらず、女は表情が乏しい。 流れる涙は雨の雫と混ざり、存在を主張しない。 だが、意思は見せた。 初めは弱く。それから強く。首を横にふり、天狗の言葉に否やと応じる。 ――難しいものだ、と玖郎は思う。 そのまま、女はただ村の様子を眺め、地に座り続けていた。 夕暮れ時――ひとやすみでも、とばかりに雨が上がる。 雲は未だ重く立ち込めており、これからまた降りだすことは明白だった。 これ以上、ここに居る要はない。 そう判断した玖郎は、未だ座り続ける女を抱き上げ、巣へと向かって飛翔した。 「なにかおまえがほかにのぞむものはあるか」 女の願いを断った。 その代償が必要だった。 女は、玖郎の腕の中でしばし考え込む。 「では、塩を」 女がそっと己を抱く玖郎をみあげて言う。 「畏れながら、今の食事では苦痛です」 ――そのようなものが要るとは、ひとはやはり、難しい。 そう心で呟く玖郎に、女が続ける。 「もう一つ」 ほんの少しだけ表情に現れていたのであろう玖郎の戸惑いを察知したのか、初めて微笑みを浮かべた女が言った。 「名を、呼んでくださいませ」 そう言い、つ、とより強く衣にしがみつく女の動きを感じながら、玖郎は行く先へと視線を移し、ひとりごちた。 ――ひとは、やはり難しい。
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