いつもの【夢現鏡】のいつものリビング。いつもの、愛しい相手が目の前にいて。 季節の和菓子だという紫陽花を模したゼリー風の和菓子が見目にも鮮やか。葉の部分と花の土台は練り切りでできていて、花弁を表しているゼリー部分との食感の違いも楽しい。 ちょっと早いかもしれないですけれど、と前置きして差し出された葛桜は、ひんやりとしていて口の中に広がる冷たさが心地よかった。 ニワトコは、いつものように夢幻の宮とお茶を楽しんでいた。 お店の邪魔にならないようにと毎日通うのは諦めていたのだが、やはり会いたいという思いは止まらなくて。ついつい足しげく通ってしまっている。彼女も迷惑そうな顔ひとつしないものだから、いいのかなと思いつつも店の奥の部屋へと導かれれば悪い気はしなかった。 「今日は、ここに来る前に寄り道してきたんだ」 「あら、どちらにですか?」 薩摩切子の美しいグラスにさらさらと水を注ぎながら夢幻の宮は問う。切子グラスは青と赤で、まるでめおとグラスのようだ。 「司書の黒さんのところだよ」 「まあ……」 珍しい、と思ったのか、夢幻の宮は青いグラスをニワトコに差し出して少しばかり目を見開いた。初めて会った頃は人形のように固かった彼女の表情が、自分のの前ではくるくると変わるようになったのに、ニワトコは気がついていた。嬉しさと嬉しさと嬉しさと、少しばかりの気恥ずかしさで心がぽっと暖かくなる。 「それでね、相談をしたんだ……帰属のことについて、霞子さんがこの間言ってたことについて」 「……!」 ためらいがちに紡がれた言葉に、夢幻の宮の表情が固まる。彼女は無理矢理、朱を引いた唇をこじ開けるようにして声を絞り出そうとしている。 「……あの時は、本当に……申し訳ありませんでした」 「……? なんであやまるの?」 「あんなことを申し上げてしまって、泣いてしまったからです」 不思議そうに首を傾げるニワトコに、彼女はぽつりぽつりと話し始めた。あの時――ニワトコとともに夢浮橋の桜の下、御所を眺めた時のこと。 夢幻の宮が望む世界なら、夢幻の宮の隣ならばどこでもいいといったニワトコに対し、どの世界でもいいと答えたこと。 自分のことは気にしなくてもいい、ついていくからと言ったニワトコに対して――。 『この世界は、ニワトコ様が馴染めるような世界でしょうか? わたくしは、無理を強いたくありません。ヒトが中心である世界が辛いのであれば、私は他の世界でも……』 「……あの時は、大切なあなた様を侮辱したとも取られかねぬ発言をしてしまい、本当に申し訳ありませんでした。……ただ、もしわたくしと共に帰属したとして、それが大きなストレスとなってあなた様に害を及ぼしたら……万が一あなた様に何かあったらと思うと……」 着物の袖を口元に持って行き、言葉に詰まる彼女。かとおもうとはっと何かに気がついたように顔を上げて。 「勿論、あなた様が不自由無いように、害を与えられる事のないように、わたくしも最善を尽くします。けれども、けれども……わたくしのわがままで無理をなさるあなた様を見たくはないのです……」 「ちょっとまって、霞子さん。おちついて」 募る想いがあるのだろう、夢幻の宮は瞳に涙をためている。ニワトコは思わず椅子から立ち上がって、慌てて彼女の言葉を止めた。黒の言葉が脳裏をよぎる。 『夢幻の宮は今のお前が好きで大切なんだろう。そんなお前を無理やりに変えたくないし、嫌な思いを極力してほしくないのだと思う』 ニワトコは人の形をしているが樹木で、夢幻の宮は人間だ。それは変えようのないこと。 きっと、彼女はニワトコよりずっと先を考えている。ニワトコは帰属するということを考えていた。けれども夢幻の宮は帰属してからずっと先、それから続く時間のことまで考え、憂えている。 「霞子さん、ぼくを心配してくれてありがとう。でもね、もしも、もしもだよ? 人間中心じゃなく、植物中心の世界――ぼく寄りの世界があったとするでしょう? そこに帰属するとなっても霞子さんはついてきてくれるって言うよね?」 「……勿論でございます」 「でも、霞子さんの言ったこと、角度を変えると、種の違う世界で生きるのは大変ってことだから、そうなると霞子さんがいろいろと大変な思いをして、いろいろとがまんすることになるよね。ぼくは、霞子さんが苦しむの、いやだよ」 「……!」 優しく告げるニワトコの言葉に、夢幻の宮は目を見開いた。 そう、同じなのだ。同じ思いなのだ。ニワトコも、ようやくそれがわかった。そして夢幻の宮も。互いに、自分は愛する人のために多少のことは我慢出来ると。自己犠牲の精神を発現していたと。愛する人と一緒なら、大丈夫だと軽く考えていたと。 けれども相手が苦しむのは嫌だ――それはふたり共同じ。そう、ふたり共同じなのだ。 「今なら、あの時の霞子さんの気持ちがわかる」 「ニワトコ様……」 「いっしょに悩もう? そしていっしょに結論を出そう?」 夢幻の宮の側に寄って、ニワトコは彼女の両手を包み込む。 「……はい」 彼女は泣きながら、笑ってくれた。 *-*-* 「帰属のこと、これからのこと、もう一度考えてみたんだ。それで、霞子さんと話し合いたいと思ったんだ」 落ち着いた夢幻の宮とふたり、場所をリビングのソファに移してニワトコは口を開いた。彼女が頷くと、さっきよりも近い距離であることを改めて感じて少しばかりのどきどきとたくさんの安堵がニワトコを包む。 「ぼくはひとつところに留まらない根無し草のような生き方をしてきたから、知らないことが山ほどあるんだ。例えば、樹がどんな想いで根を下ろしているのか、どんな日々を暮らしているのか。そんなことだって、ぼくはよくは知らない」 ニワトコには、他の植物にはない『足』がある。それゆえに他の植物が知らないことを知っている分、他の植物が知っているような定住することを知らない。 「けれど、根を下ろしたいというのなら、たくさんのことを知らないといけないと思う」 この間は、根を下ろすことに付随するいろいろなことを知らぬままにあんなことを言い出したから彼女を心配させたのだ、だから、知ろう、知りたい、そう思う。 「霞子さん」 ニワトコは隣に座る彼女をじっと見つめて。 「霞子さんから見て、ひとの世界で暮らすのは、どんな所が大変そう?」 彼女の意見を聞いてみたい。ニワトコは答えを待った。夢幻の宮は少しばかり考えるように視線を落とし、そして口を開く。 「例えば……ひとの世界で暮らすには、働かなくてはなりません。一箇所に定住するのでしたらなおのこと。人付き合いの機会も多くなるでしょう。ひとの世界にはひとの世界の常識やルールがあります。旅をしている状態でしたらある程度風土の違い、地域差などでごまかせるでしょうけれど、定住するとなるとそうはいきません。ひとであっても、新たな場所に溶けこむにはストレスがつきものなのです」 ひとであってもそのストレスで心身ともに疲労し、時には傷を負うもの。それがひとと違う常識の枠の中にあったニワトコにはどれほどのものとなるだろうか。夢幻の宮はそれを心配している。 「わたくしには『新たな場所での生活』でも、ニワトコ様にとってはそれに加え『ひと中心の世界での生活』という状況が加わるので、わたくしより大変だと思うのです。もちろん、あなた様が苦しい時、辛い時は支えましょう。一緒に悩みましょう。それでも、それでも。万が一あなた様が寝付いてしまわれでもしたら、わたくしは自分の無力さを嘆き、定住を選択したことを後悔せずにはいられないでしょう」 「霞子さん……」 根付いた植物は、その場で風雨を耐えしのぐ。強い日差しや水が不足しても耐えぬく強さが必要になる。耐え切れなかった植物は、その場で枯れていく運命だ。もちろん、上手く根付けなくても枯れていく。 夢幻の宮はニワトコが弱いと思っているわけではないだろう。万が一にでもそうなってほしくない、そう願うから、彼を心配しているからこそ不安の芽が出てきてしまうのだ。 「そっか……うん」 ニワトコは夢幻の宮の思いをかみしめるようにし、そして思う。自分が思っていた以上に、色々と大変なことが多そうだと。 「お仕事に人付き合い……やっぱり0世界とは違うんだろうね」 「はい。それに……毎日が刺激のある日々でなくなるかもしれません」 定住するということは、毎日を繰り返すということ。些細な違いはあれ、同じような日を積みかねていく。0世界のように刺激に満ちた毎日ではなくなるだろう。冒険に出ることがなくなれば、刺激も減るだろう。 「それは、ぼくは霞子さんさえいれば満足だよ」 彼女さえいれば、日々が美しく映る。彼女さえいれば、日々の疲れも癒えるだろう。彼女さえいれば、同じような毎日も違って見えるだろう、ニワトコは心からそう思った。 独りでなら、耐えられないかもしれない。けれども幸いにして、ニワトコは独りではない。ならばきっと、大丈夫だと考える。 そっと、壊れ物にするように夢幻の宮の肩を抱き寄せてそのぬくもりを確認する。 「ニワトコ様……」 キシ……とソファを鳴らして夢幻の宮がニワトコに寄り添った。ニワトコは彼女の髪にそっと触れ、撫でながら考える。 「……」 「……、……」 沈黙を誤魔化すかのように、ニワトコの長い指先が漆黒の髪を滑りゆく。 (お仕事をする、人付き合いをする……お仕事といっても今のように冒険じゃなくて。人付き合いといっても今と違って、きまった所できまった人達と付き合っていくということで……) 考えて考えて、想像して想像して。たくさん考えて。最初は毎日が目新しくて、きっと緊張もするし刺激になるだろうと思った。けれどもそれは次第に『あたりまえ』に変わっていって、慣れていく。慣れて『あたりまえ』の日々を送るということが、根を下ろすということなのかもしれない。時折小さな刺激はあるだろう。けれども、基本的には毎日は繰り返し。そんな日々を重ねて根付いていくのだろう、ニワトコは思う。 けれどもこれは想像でしかなくて。夢幻の宮の言った『仕事』と『人付き合い』は少し想像しづらくて。そんな時、黒の言葉を思い出した。 『試してみるのもいいかもな』 「試す……」 「?」 ぽつり呟いたニワトコの言葉を拾った夢幻の宮がゆるりと顔を動かした。あのね、と前置きしてニワトコはそっと告げる。 「実際に、長期滞在して体験してみるのもいいってアドバイスを貰ったんだけど……霞子さんはどう思う?」 「長期滞在、ですか……」 (そう、二人で話して、少しずつでも解決していけばいい。躓いても、手を取ってくれるひとがいるのだから) 視界の中、腕の中にいる彼女のぬくもりを実感しながら、ふたりいっしょであることの素晴らしさを実感する。ひとりじゃない、それだけで道は多岐に広がる。 「お店があるから、長いことは無理……かな?」 頷いてはくれないだろうか、不安でどきどきしているのが伝わってしまいそうで。恐る恐る口に出す。ふるふる、腕の中で彼女が頭を振る感触を感じられれば、目の前が開けて。 「お店のことは大丈夫でございます。もともと、しっかりした営業日を設けているわけではございませんから」 「じゃあ」 「ええ。わたくしも試してみることに賛成でございます」 よかった、と小さくつぶやいて安堵の息を漏らす。自分の表情が明るくなっているのをニワトコは感じた。 「行くのなら、ふたりでいったことのある場所の方がいいのかもって思うのだけれど……ねえ、霞子さんはどう思うかな?」 「そうですね……それも大切な要素かと思いますが、できれば帰属したいと少しでも考えている世界で長期滞在するほうがいいと思います」 彼女はさらりと漆黒の髪を揺らして、ニワトコの腕の中で身じろぎして彼の顔を見つめて口を開いた。普通に座って話すより、圧倒的に距離が近い。 「例えば、ヴォロスと夢浮橋では、それだけで文化や生活様式がだいぶ違います。国ごとの違いはもちろんあるでしょうけれど、それ以前に世界での違いが大きいわけです。長期滞在は予行練習のようなものですから、出来れば帰属したい世界に近い方で試してみるべきかと思います」 なるほど、夢幻の宮の言うことも尤もだ。世界単位で文化や生活様式が違うのならば、せっかく長期滞在してもいざ帰属した時にその経験が役に立たなくなることもある。せっかくの長期滞在を有益なものとするならば、希望に近い世界を選ぶのがいいだろう。 「なるほど、そうだね」 ニワトコは頷いて考える。ヴォロスのシャハル王国や壱番世界の京都、そして夢浮橋の暁王朝。浮かぶのは共に出かけたことのある世界。 「それに夢浮橋でしたら、わたくしの立場のせいで、少し特殊な立場となるやもしれませんから……」 夢幻の宮は苦笑する。自分が今上帝の妹ということもあってある程度立場は約束されるかもしれない。それに今上帝はロストナンバーのことを知っている。このまま信頼を得ていれば、便宜を図ってもらえるだろう。それ故、他の場所とはまた違ったことになるかもしれないのだ。 「霞子さんは、元の世界でなくてもいいの?」 それは確認だ。あの時夢浮橋で彼女は自分と一緒ならどこでもいいと言ってくれた。けれども彼女とて望郷の念はあるかもしれない。慣れ親しんだ世界のほうがいいかもしれない。 「はい、わたくしはニワトコ様と一緒ならば、どこの世界でも」 答えは一緒だった。けれども「でも」と彼女は付け加えた。 「夢浮橋でしたら、わたくしの持てる力や生まれ持った身分などのすべてを駆使することができまする。わたくしが、最大限の力であなた様をご支援することができまする」 彼女は夢浮橋の今上帝と面会した時に、自分の身分と待遇の復帰を願わなかったという。けれどももし夢浮橋に帰属することになれば、足りない部分は自分の持てるものすべてを利用してニワトコが暮らしやすいよう支援する、そういうことだろう。 「もちろん、ヴォロスでも壱番世界でも、わたくしはわたくしの命尽きるまで、あなた様をお支えし、共にありたいと思っておりまする」 ただ。夢幻の宮は口にはしないが、心配なのは寿命の違いがあるかどうか。成長速度に差があるかどうか。もし夢幻の宮が先に年をとって寿命がつきてしまった場合、その後ひとりになったニワトコが、異世界でひとりで苦しむ状況だけは作り出したくない、そう願っているのだ。 だが彼女は聞くことが出来ない。答えを聞くのが怖い。寿命や成長速度に差があるか、そう聞いて差があると言われた時、どんな顔をすればいいのかわからない。勿論覚悟はできている。覚悟ができているから、帰属した先の先まで考えているのだ。けれども答えを聞いて「そうですか」と笑えるのか、自信はなかった。 「ん、ありがとう、霞子さん」 彼女の恐れを知らないニワトコは、そっと彼女の唇に自分の唇を合わせた。自分のことをいっぱい考えてくれている彼女が愛おしかったし、嬉しかった。だから。 そっと唇を離して、熱を孕んだ瞳で見つめ合って、もう一度唇を合わせて。 「……」 「……、……」 再び唇を離すと、なんとも言えぬ沈黙が二人を支配した。ニワトコがそれを破る。 「ぼく、考えてみるね。長期滞在、どこにするか」 「……ええ、お願い致します」 ふたりの未来を見据えながら、夢幻の宮は再びニワトコに寄り添い、そしてニワトコは彼女の背に手を回してそっと抱きしめた。 花の香に似た優しい香りが、ふたりを包み込むように空間に満ちていた。 【了】
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