▼0世界、ターミナルの片隅にて 散歩が趣味というわけでもないが、特にすることもなかったヌマブチは一人、ターミナルを散策していた。行き交うのは顔見知りの冒険者、あるいは覚醒したばかりで初々しさがどこかまぶしい新顔たち。 そんな彼らを遠巻きに眺めながら、彼の足は賑やかな通りから遠ざかっていく。人で溢れる広場から離れた一角に、小さな公園のような場所があった。そこのベンチに腰掛ける少女の後ろ姿に、ヌマブチははっとなる。その背格好には覚えがあった。 (あれは、楽園殿か) 東野・楽園(ひがしの・えでん)。クリスマスに会って以来すっかりご無沙汰であったが、そのクラシカルな雰囲気の黒いドレスはよく覚えている。カツカツと歩み寄っていくと、少女はその軍靴(※)の足音に気が付いたのか、やんわりと振り向いた。彼女が座るベンチの傍まで近寄ると、ヌマブチは軍隊仕込みのきびきびとした動作で少女に敬礼をする。 「あら、あの時の軍人さん」 「楽園殿、久しいでありま――ヒィ!」 だが、ベンチに座る彼女の太腿(※)の上にいる動物を視界に捉えた瞬間、ヌマブチは素っ頓狂な悲鳴をあげて後退り(※)した。 「ななな、何でありますかソレは!」 「何って……ただの猫よ」 「そ、そうでありますな」 冷静な突っ込みを入れられて我に返り、崩れた姿勢をすぐさまピシャリと元に戻す。実はヌマブチは猫が大嫌いなのだ。表情は平静を装っているが、嫌な汗がだくだくと流れている。視線も猫には向けないようにしている。一方、彼女の太腿を寝床にするその黒い毛並みの猫は、すやすやと大人しかった。 「猫を飼っていたのでありますか」 「いえ、違うわ。私の猫ではないの。だから少し困っていて……」 「困っている、と言いますと如何なる事態でありますか」 「えぇ。首輪が付いてるから、たぶん迷子だと思うのだけど――」 楽園は腿の上の黒猫をさわさわと撫でながら口にし始めた。少し前に、この猫が助けを呼ぶように鳴いていたのを見つけたこと。先ほどからここで待っているのだが、一向に飼い主が姿を見せないこと。帰ろうにもあとを着いてこようとしていること。そして飼い主を探してあげるつもりだが、その間の世話をどうしようか悩んでいることなどを、彼女は話した。 「私、生き物を育てたことがないの。壊したり刻んだりすることは得意なのだけど……そんなの、動物のお世話には不要でしょう?」 楽園はそう言いながら苦笑する。けれど、猫を放っておくことはしたくないらしく、困った様子で溜息をついた。できれば猫のお世話をしてあげたいが、自分がどういった人間でどういったことが不得意なのかは自覚しているのだ。 ヌマブチは当惑した面持ちの少女と、その手の中で眠る自らの天敵とを何度も交互に見やる。そして頭の中で思考と思考がぶつかり合い、ある思考が勝利を収めた結果、ついこんな言葉を口走ってしまった。 「そ、某(※)なら数日、預かっても良いであります!」 言った後でヌマブチはしまったと思ったが、もはや後の祭り。少し驚いた様子で目を見開き、ぱちくりと瞬きしている楽園が、ベンチのそばで直立したままのヌマブチを意外そうに見上げている。 「本当に? でも……」 「いえ! 丁度、冒険依頼もこなした直後で時間を持て余し、悩んでいた所存(※)。問題は無いのであります」 一度口にしてしまった手前、もう引き下がるわけにもいかず、ヌマブチはひたすらその場の強がりだけで言葉を重ねる。 「――ありがとう」 楽園は、普段からどこか冷たく、妖しさのにじむ不敵な面持ちが特徴だ。そんな彼女が微笑んだ。例え口元を僅かに笑ませるだけの小さな笑みであっても、それはまるで瞬時に花畑が周囲に咲き乱れたかのように美しく、くらりと眩暈(※)がしてしまうほどだった。そうした笑顔が見れたなら別にいいか、と思ってしまうヌマブチであった。 ともあれ言い出してしまった責任を取るため、楽園が飼い主を探し出すまでの少しの間、ヌマブチは猫を預かることになった。 しかしヌマブチは、軍人としてのエキスパートではあっても飼育のエキスパートではない。サバイバル技術的な方面で、野生動物の習性を利用した捕獲方法や皮・肉の剥ぎ取り方などは心得ているが、それは役立ちそうもない。また動物を飼ったことなどは一度もなかった。 ましてや、今回の攻略目標は己の天敵・にゃんこ。ヌマブチの生活は、この猫を預かったことでとてつもない混沌にまみれていく。 † 「えぇい、だから壁を引っ掻くなとあれほど……ま、待て! カーテンに飛びつくな! くそ、これでは自宅がまるで化け物屋敷になってしまう……!」 0世界にある、今の彼の住居はもうめちゃくちゃになっている。猫は、棚の上に飛び乗ってはその上の置物を落として壊す。壁紙は爪とぎのためばりばりになり、カーテンもびびびと縦に切り裂かれていた。部屋の中はまるで嵐がやってきたかのように散らかって荒れた。 † 猫嫌いを克服するための特訓だと尾びれのついた噂を聞きつけて、たまに知り合いが顔を見せにも来た。 「……ううむ、どうすればよいのだ」 「どうしたんだよヌマブチ、顔がひっかき傷だらけだぜ」 「いや、猫のひげが伸びすぎているようなので、剃ってやろうかと思っているのだが、あまりにも抵抗され……」 「やめろ馬鹿!」 ヌマブチは乱暴に頭を引っぱたかれた。 † 楽園は楽園で飼い主を探すことに奔走しているとはいえ、預けっぱなしはさすがに恐縮だった。彼女が差し入れにお菓子を持ってやって来ている。 「猫のひげは、奴らにとっては重要なセンサーなのであります」 「せんさー、って?」 「置き換えによる検出器、では難しい解説でありますな。ようはこの長いひげで、周囲の状況をより明確に認識するのであります」 「つまり、私たちにとって目や耳と同じくらいに大事なもの、ということかしら」 「そうでありますな。それと猫は古来、財産を邪悪から退ける守り神として崇められていたそうであります」 「そうなの? ……でもそれ、猫を飼うにはあまり関係ない情報に思えるのだけど」 色々と詰め込んだ知識を話すヌマブチ。楽園はそんな彼をきょとんとした表情で眺めつつ、彼が出してくれたお茶を静かに飲んだ。 † 「猫はあごの下を触ると、気持ちよくてごろごろ鳴くんだぜ」 「本当でありますか。それは興味深い、早速調査であります――うぉ! な、何故、暫定飼い主である某に、攻撃行動を加えるのでありますか!」 「ぐ、軍人さん、傷の手当てをするわ。消毒しなくちゃ」 「だーめだこりゃ」 楽園はヌマブチから救急箱の場所を教えてもらい、それを早足で取りに行く。 一方ヌマブチの友人は、彼の様子を見て呆れた(※)ように肩をすくめるしかなかった。 † 「猫は別に、魚が好きと言うわけではないのか……ふつうの肉も食べる、と。ふむふむ。ならばドードー殿から分けて頂いたアレもあることだし、久々に作ってみるか」 猫のために料理に勤しむヌマブチ。そこへ友人がやって来る。 「ヌマブチ、お邪魔すんぞー。お、いい匂い。何作ってんの?」 「ハンバーグだ」 「そりゃ旨そう! ――ちょっと待て、なんだこのタマネギの山。まさかこのハンバーグ、猫に食わせてねぇよな」 「……? 食べさせるつもりだが何か」 「馬鹿、殺す気か!」 ヌマブチは乱暴に頭を引っぱたかれた。 † 「……なるほど。タマネギに含まれる成分は、猫にとっては有害なのでありますな」 ターミナルにあるカフェのテラスで、ヌマブチは『月刊ねっこねこ~かわいいにゃんこの育て方~』なんて本を読んでいる。でも、外見からして生粋の軍人らしさ溢れる彼が、ファンシーな表紙の冊子を気難しい顔で読んでいるのは不釣合いなようで、周囲の客がひそひそと何か呟いていた。 † 猫との生活が始まってから数日が経ち、ヌマブチも何とかお世話のコツを掴んではきた。でもやっぱり猫嫌いの性分は治らず、おっかなびっくり猫に触れて、ひーひー騒ぎながら共に暮らす毎日を過ごしている。 「なるほど、目から鱗でありますな。某は経験不足な故、そうした冒険依頼を体験したことはなく……」 楽園は忙しい冒険旅行の合間をぬって飼い主を探しているのだが、それでも頻繁にヌマブチと猫の様子を見に来てくれている。今日も顔出しに来た彼女をヌマブチは自宅の中に招くと、茶を差し出した。今は、過去にこなしたことのある冒険依頼について話をしていて、楽園の経験の豊かさにヌマブチは驚き、目を見張っていたところだ。 「ということは、楽園殿はロストナンバーになってから長いので?」 「えぇ、随分長いこと、ここにいるわ」 楽園は腿の上で大人しくしている猫をやんわりと撫でながら、そう口にする。ヌマブチはそんな猫の様子を見て(自分の時はそうやって撫でさせてもくれないのに……)と少しだけショックだ。でも表情は一見だと、気難しそうなままだ。 「もう何十年も経つかしら。ロストナンバーになったおかげで歳はとらないけれど、中身はもうおばあさんね」 くすり、と小さく彼女は自嘲するように笑う。そうしながら淡々と静かに、自らのことを語り出す。以前までは己のことを話そうとはしなかった楽園だが、ここ最近はぽつぽつと何かを話してくれるようになった。今回もそうだった。ヌマブチは黙って、彼女の話に耳を傾ける。 「でも何十年も経っている元の世界では、私が居なくなったことを悲しむひとはいない。もう誰も私のことを思い出さない。もともと、私は存在自体が否定されていたようなものだったもの。ただ存在していた、という過去が人知れず埋もれているだけ」 ヌマブチには、彼女がどれだけの重い過去と寂しさ、悲しみを背負っているかは想像もつかない。楽園の外見は十代半ばの可憐な少女に過ぎず、一見はそうした経験も薄いように見てとれる。だが実際はそうではなく、人知れぬ闇を抱えながら、もう何十年もの月日をここで過ごしているのだと知った。 ヌマブチは死に瀕した際に覚醒した。もとの世界ではMIA(戦闘中行方不明)の扱いになっているかもしれないが、共に戦線を支えていた戦友たちが己のことを少なからずは案じてくれているだろうと、そう信じている。ヌマブチには仲間がいたのだ。 だからこそ、己の存在自体を否定され絶望の果てに覚醒した彼女の気持ちを、とても痛々しく思っていた。彼女には仲間がいなかったのだろうかと思っていた。ヌマブチは気の利く言葉など思いつかず、静かに本音をこぼすしかできない。 「それは……寂しいことでありますな」 「寂しい、か――そんな気持ち忘れてしまったわ」 切ない言葉を口にしたが、緩く首を左右に振る楽園の表情は穏やかだった。 「でも、もう慣れたからいいの。……過去は色褪せていくわ。どんな思い出も赤茶けて酸化し、錆びて崩れて風化して、そして朽ち果てていく。時の流れは残酷だけれど、それが救いになることもあるの。だから今はもう、大丈夫」 彼女の手元にいた猫がふと顔をあげ、慰めるように小さく鳴いた。楽園は「ありがとう」と呟きながら微笑み、猫の体躯(※)を愛しげに撫でた。 楽園がそんなことをヌマブチに話すようになったのも、二人の心の距離が無意識に縮まっている証拠だった。 そうしながら軍人と少女、そっと交流を深めていく。 † それからさらに数日後、猫の飼い主が見つかった。待ち合わせたターミナルの一角にて、愛しいペットが見つかって嬉しそうな本来の飼い主の背中を、二人は見送っていた。 (これで、奴の毛玉の世話からもようやく解放されるな) 襟元を緩めつつ、ほっとひと安心の溜息をつくヌマブチ。だが横に佇む楽園は、寂しそうに目を細めていた。最後のお別れのときも、猫をぎゅっと抱きしめていた。名残惜しそうに飼い主へ手渡していた様子も、ヌマブチの脳裏に焼きついている。 「やっと懐いてくれたのに、な」 「……奴にも帰るべき場所があるのであります。十年以上もの月日を過ごした楽園殿が、この0世界を住処としているように」 ひとつ大きく咳き込んでから、ヌマブチはそんな言葉を紡ぎ始める。彼女の横に立ち、視線は真っ直ぐどこかを見つめて。背中は相変わらず、柱のように真っ直ぐに。 「奴は普段と違った〝世界〟を冒険するため、楽園殿のもとに現れたのでしょう。そして我々と僅かな時を過ごし、そして元の帰るべき場所に帰ったのであります」 「帰るべき場所があるのは、いいことね。……私にはもう、帰れるところはない」 口元では微笑を浮かべているも、楽園の紡ぐ言葉には悲しみがにじんでいるように、ヌマブチには感じられた。だからそれを何とか慰めてあげたかった。気の利く言葉を、と意識することなく、続く言葉が自然と口からこぼれた。 「そんなことはありません。新しく変わっただけ、なのであります」 「新しく、変わった――?」 楽園は、かみ締めるように言葉を反芻(※)する。隣でぴしゃりと立ったままのヌマブチを見やった。何かに気付いたような顔を向けた。ヌマブチはその視線を受けて、ゆっくりと顔を動かす。彼女を見下ろす。彼の顔立ちは、見知らぬ者であればプレッシャーを与えるほどの強面(※)だ。でも今のヌマブチの眼差しは、角のない柔らかな優しさをたたえている。 「そうであります。変化は失うだけではない。ひとは何かを失うと同時、別の何かを得ているとだと自分は考えます」 だけど、楽園の澄んだ瞳にじぃと見つめれ、視線が交錯しっ放しになることを気恥ずかしく感じてしまう。思わず顔を逸らしながらも、言葉だけは続ける。 「た、確かに、時が経てば思い出は風化してしまうやもしれません。……しかしながら、思い出は新しく作ることもできます。今の自分と楽園殿と、あの猫との出会いのように。それは帰る場所も同じであると、そう考えているのです」 時の流れと生命の法則から放逐された彷徨い人、ロストナンバー。老いることもなければ子を成すことも叶わない。生命でありながら生命らしさを失った生き物。得ることや生み出すことを奪われ、喪失と消滅を強制された哀れなものたち。 でも、そんな彼らであっても何かを作り出すことはできる。生きていくという意志を捨てない限りは生み出せる。人との絆を、そこから生まれる大切な思い出を、そしてもうひとつの故郷だって――。ヌマブチの言葉には、そういった想いが込められていた。 楽園は、強張った様子でいる彼の横顔をしばらく見つめていた。やがて己の足元に視線を落とし、何か考え込むようにしていた。そして胸元に静かに両手を添えて、そっと紡ぎ出すように呟いた。 「優しいのね、軍人さん」 穏やかさに満ちた、安堵の声音だった。 「……某は、ヌマブチであります」 ヌマブチは帽子の庇(※)を指でつまみ、下ろす。帽子を深く被り目元を隠す。彼にとっての、照れ隠しの仕草だ。 楽園から見ても、ヌマブチは仏頂面だ。ぎょろりとした目で見つめられれば、幼い子どもは泣き出すことも頻繁だそうで、彼の顔立ちにはそれにも納得できるくらいの威圧感がある。 軍人らしくきびきびとした動作も相まって、中身もそうした固い人物だと思っていた。けれど実際の彼はお茶目なところもあるし、女性や幼子にはめっぽう優しい。大抵、怖がられてしまうけど。 そうしたギャップの差が面白くもあり可愛らしくもある。そこから垣間見える彼の優しさには、心安らぐものがある――そう楽園は思うようになった。だから楽園は、自分のことも話すようになった。話せるようになった。このひとであれば、自分に潜む闇をさらけ出しても静かに見つめてくれるから。 「軍人さん――ううん、ヌマブチさん」 「な、なんでありましょうか」 弾むように顔を振り向けてくる彼女に、ヌマブチは戸惑った様子で返す。 「今回のことは、本当にありがとう。お礼をさせて頂戴。行きつけのいいお店があるの。一緒に行きましょう? ねっ」 「え、うお、あ――え、えでん殿っ」 にこりと笑う楽園は、ぱしりと彼の太い腕をつかむと、そのままやんわりと走り始める。いまの主導権は、訓練で鍛えた屈強な体を持つこの軍人よりも、棒切れのように華奢な四肢をした乙女が握っている。楽園は珍しくはしゃいでいる様子で、ヌマブチを先導してぐいぐいと引っ張っていく。ヌマブチは動揺を見せつつも、彼女に引っ張られながら足を動かす。歩幅を合わせる。自然と、気分は悪くない。 乙女と軍人が、舗装されたターミナルの街道をやんわりと駆けていく。 † ちなみにその行きつけのお店が『子猫がいっぱい! にゃんこカフェ』であって、ヌマブチはそこで悪夢を体感することになるなんて、思いもしていない。楽園から猫が好きって勘違いされているなんて、まだ気付くこともない。 少ししてからターミナルに、野太い男の悲鳴が響いたとか響かなかったとか。 <楽園とヌマブチの日常は、これからも続く>
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