イラスト/ほてやみつえ(ittx7683)
桃饅頭が落ち、銃声が弾けて、新婦の胸に朱の大輪が咲いた。 「あ、い、嫌、あと」 新郎の腕がマリオネットのように持ち上がり、 「あ、っあ、あと一人」 自らのこめかみを撃ち抜いた。あと一歩。瞬きあと一つ分で花嫁の手が届いただろう。 「……なんで」 ニコル・メイブは花嫁衣装姿のまま立ち尽くした。足元に転がる新郎新婦も婚礼衣装だ。二人分の血溜まりが緩慢に広がり、混じり合っていく。 空がしとしとと泣き出した。 「驚いた。凶兆の花嫁だ」 ニコルを事務所に招き入れ、探偵は肩をすくめた。ニコルは無視して桃饅頭にかぶりつく。先刻買った分は地べたに落としてしまった。 「あんた、“旅人”か」 探偵は何かを察したように口許を歪めた。 「ひとつ教えといてやる。この辺りじゃ白は喪と不吉の色だ」 「ウエディングドレスは白だもん」 カカオ色の指から餡を舐め取り、ニコルはようやく一息ついた。 インヤンガイを訪れたのは食べ歩きのためだ。 次から次へと店を巡り、ニコルの両腕は美味で満杯だった。泣き出しそうな空の色も彼女のご機嫌には敵わない。 そこへ静かなどよめきが聞こえてきた。 小さな会館から絹の袍に身を包んだ男女が出てくるところだった。ニコルの唇が微笑をこぼす。様式も衣装も見慣れぬが、婚礼の儀であると想像できたからだ。 (お幸せに) 祝福のシャワーが続く。参列者の列がトンネルを作り、新郎新婦がくすぐったそうに身を屈める。ニコルはますます相好を崩した。彼らはどんなに幸せだろう。彼らのように式を遂げられたなら……。 二人がトンネルをくぐり抜けんとした瞬間、新郎が不意に懐に手を忍ばせた。 「それで、嫌な予感がして」 ニコルは本能的に式のただ中へ飛び出した。しかしニコルの眼前で花嫁は撃たれ、花婿は自殺した。花嫁は笑顔と戸惑いのうちに絶命し、新郎のデスマスクは泣き笑いで引き攣れていた。 「やっぱりな。またか」 「またって?」 ひょいと眉を持ち上げる。探偵は襟足を掻きむしりながらファイルを差し出した。 「夫婦や恋人の無理心中が続いてる。男が女を殺して後を追うパターンばっかだ」 「憑かれたか、操られたかじゃないの? あの花婿さん、そんな感じだった」 ニコルは手慰みのように資料をめくりながら看破した。 「そう思うか。何せもう三件目でな。呪殺や連続殺人の線も追ってる」 「狙われたのは男? 女?」 「まだ分からん。両方かも知れん」 「ふうん。何か、やだな」 月餅を頬張りながら資料に目を落とす。ニコルは壱番世界のジューンブライドという言い伝えが好きだった。真偽はともかく、六月は花嫁の季節なのだ。 やがて、大鷲の面影を残す眦が険しくなる。 「……標的は女、かしら」 被害者たちが死んだのは婚約した瞬間であったり初夜の直前であったりした。 ひとたび決意したニコルは迅速だった。賞金稼ぎで培った捜査能力は伊達ではない。 「で」 ニコルは強引でもあった。 「詳しく教えてくれるよね?」 路地裏に引き込んだ男に笑いかける。一分前まで鼻の下を伸ばしていた男は銃を突きつけられて青ざめていた。 「い、いや。俺は関係な……」 「うん、だから」 男のこめかみに銃口をめり込ませる。 「関係ないって証明するために聞かせてほしいな」 男は小さな犯罪組織に属しているという。探偵が目を付けた呪術師の一人がこの組織と親密なのだ。 「俺はカネの調達を頼まれただけだ」 「誰に?」 「兄貴に。俺は下っ端なんだよ、無理心中なんざ知らねえ」 虹色の油膜がくねりながら足元を這う。換気扇が油のおくびを吐き出した。雨が、粗悪な油のように粘ついていく。 「お金集めは兄貴直々の命令なのかな」 「知らねえ。呪術師への依頼料だって聞いただけだ」 男の声が悲鳴のように裏返った。 「呪術師サンのこと、何か知らない?」 「だ、だから俺は下っ端で……命令通りに……ただ」 ビルから明かりが漏れている。黄ばんだ光はぼやけ、たわみ、亡霊のように揺らめいている。 「兄貴は知り合いのコレに頼まれたって言ってた」 男が意味ありげに小指を立て、ニコルの瞳孔が峻烈に収縮した。 「女が誰かまでは知らねえ。俺が話せるのはこれだけだ。も、もう勘弁してくれ」 小心な男はとうとう逃げ出してしまった。 どこかでガラスが割れる。どら声。悲鳴。ビルの谷底にニコルが一人きりだ。タール質の空の下、湿ったヴェールが物憂げに垂れていく。 主犯は女なのだろうか。 「やっぱり気に入らない」 ニコルには分かるのだ。女たちは幸福の頂点で、未来を信じて疑わぬ瞬間に殺されている。ならばニコルの意志は一つしかない。 「……急ご」 霧雨の中を、急降下する猛禽のようにひた走る。 空の歔欷は止まない。 壁を這うケーブルから青ざめた霊力が迸っている。ようやく繋がった公衆端末は雑音まみれだ。 「あ、探偵さん。何か分かった?」 ニコルは片手で耳を塞ぎ、もう片方の耳に端末を押し当てた。 「殺された女たちはみんな同窓らしい。こりゃいよいよ連続殺人だな」 「早く止めなきゃ」 ニコルはどこまでも勇敢で、素早かった。 「決めた。やっぱり今から踏み込む。実行犯さえ捕まえちゃえばいいよね?」 「居場所分かんのか」 「うん、例の組織の人たちを片っ端から当たった。結構荒っぽいこともしちゃったけど」 「待て待て待て、俺もすぐ向かう。俺が着くまでそこを動くな」 とうとう探偵が声を荒らげた。しかしニコルは頑なにかぶりを振る。 「待たない。これ以上花嫁が殺されるのは嫌」 「嬢ちゃん一人で行く気かよ」 「嬢ちゃんって? 私、人妻だよ」 ニコルは大人びたしぐさで肩をすくめて端末を切った。 呪術師が用いる術の傾向は事件と酷似している。捕まえてしまえば事件は終息だ。 (終わる?) 熾のような違和感に焦がされ、露骨に顔をしかめた。呪術師の背後には呪殺を依頼した主犯がいる筈だ。しかしニコルはかぶりを振って迷いを断ち切った。 「どっちにしろ捕まえないと」 呪術師さえ捕えれば呪殺は止む。 止まぬ雨の中、灰色の雑居ビルに辿り着いた。 外壁はじっとりと濡れ、黒ずんだ鉛色と化している。打ちっぱなしの壁はところどころ剥がれ落ち、死んだ骨のような鉄筋が覗いていた。蛇のようにビルの胎内を這う稲光は霊力だろうか。 呪術師の住処は四階の角だ。 玄関の呼び鈴は壊れていた。ノックの前に耳を澄ます。室内は墓場のように静まり返っている。ノブに手をかけると難なく回った。 ニコルは慎重に、ゆっくりとドアを開けた。真っ暗な室内が徐々に暴かれていく。 息を呑んだ。 むせ返るような血と肉の臭い。闇よりも濃密な血溜まりの中に男が倒れている。 「……殺されちゃったの?」 うつぶせになって血を吐いているのは呪術師だ。 ニコルは短く黙祷を捧げ、室内を手早く検め始めた。“仕事”用の資料はすぐに見つかった。男たちの顔写真が四枚。うち三人はこれまでの被害者たちだ。それから、睦まじげに肩を寄せ合う女学生たちの写真が混じっていた。 そこへ探偵が肩で息をしながら駆けつけた。 「呪いを返されたか」 探偵は死体を一目見て呟く。ニコルは探偵に一瞥もくれない。ニコルの視線は女学生の写真の上だ。女学生の数は五人。 「ああ、殺された女たちな。随分若いもんだ」 写真を覗き込んだ探偵はさらりと告げ、女学生の顔を指した。 「生きてるのはこいつとこいつ。一人は今日の昼間に挙式したらしいぜ。もう一人は行方不明」 「それを早く言ってよ!」 ニコルの眦が獲物を見つけた猛禽のように張り詰めた。 真っ黒な空が慟哭する。 女学生の一人は婚約者と共に飯店に泊まっていた。 彼女たちの部屋から悲鳴が聞こえてくる。ニコルがドアを蹴破った途端、丸太のように何かが倒れてきた。半裸の男だ。朱にまみれた男をどけ、ニコルは室内へと踏み込んだ。 女が二人。一方は裸体にバスタオルを巻き、もう一方は傷んだ髪を振り乱している。後者の手で出刃が凶悪に光った。ヴェールを翻してニコルが飛び出す。二丁の銃身が出刃を受け止め、弾いた。女の悲鳴。刃物が落ちる。 「邪魔するなああああ!」 加害者はすぐさま別の刃物を繰り出す。ニコルの後ろでは半裸の女が腰を抜かしてへたり込んでいる。打撃を繰り出す暇はない。距離およそ三十センチ。 銃声。額を撃ち抜かれ、犯人が崩れ落ちる。 探偵が嘆息した。 「……気に入らなかったからさ」 ニコルはのろのろと銃を下ろした。目の前でまた花嫁が殺されようとしていた。だから撃った。それだけだ。 「ふふ……ざまあ見ろ! こっちだって呪術師雇ったんだから!」 ニコルの背後で被害者が笑った。 「無様。無様ね! 呪い返しされたから自分が出てきたってわけ? あははは、グズ! 自業自得! 身の程わきまえないから――」 その時だった。 捨て置かれた男の死体がぐんと起き上がる。両手が蛇のような勢いで女の首を掴んだ。女の顔面がたちまち膨れ上がる。眼球が飛び出し、舌がはみ出す。男は絞首刑のように女の体を吊り上げた。 「『あはは、ブス。無様ね』」 暴霊に取り憑かれた男が嗤った。女の足がじたばたと空を掻いている。文字通りの足掻きだった。垂れ流された糞尿がぼたぼたと滴り落ちていく。 「『汚い。自業自得。ざまあ見ろ』」 男の片手が刃物を拾う。ニコルが飛び出すより早く女の胸が突き刺された。女の体はびくりと跳ねた。それきりだった。 「『お前がお前達が私を未来を殺した』」 女はもう死んだのに、丹念に、執拗にめった刺しにされていく。 「やめてよ!」 花嫁は激情のままに拳銃を振り上げた。脇腹を打ち据えられ、男が倒れる。ニコルが馬乗りになる。二度。三度。鈍器のように銃を振り下ろす。死体に発砲は効かない。殴打とて同じだろう。しかしニコルの手は止まらない。こうせずにはいられなかった。 「『人助けのつもり?』」 ぐずぐずの顔面とどろどろの目玉がニコルを嘲笑っている。 「『あんたがあの場にいたらこいつらを撃ってた?』」 タール質の血を流し、男の体から力が抜けた。 空は泣き疲れ、薄灰にまどろんでいた。 漂う紫煙で沈思から浮上する。ニコルが振り返ると探偵が立っていた。 「よう。邪魔かい」 「ん。別に」 ニコルの前には花嫁の墓があった。 「あー、まあ、例の事件だが」 探偵は天候の話でもするように口を開いた。 「分かったことがあったんで報告しとこうと思ってな」 主犯は貧しい家の出で、娼婦や情婦を繰り返して食い繋いでいた。しかし少女時代は頭脳に恵まれ、中流以上の階級が集まる学校に入ることができた。生い立ちを気にして友人たちの陰に隠れるばかりだったが、ある時、地位と金のある男を奇跡的に射止めた。玉の輿に舞い上がる彼女を級友は妬み、おぞましい私刑に処した。 「んで“キズもの”にされちまったわけさ。それが元で子宮も婚約者も失った」 彼女は幸福の頂点で殺されたも同然だった。級友も彼女も女だったから、女を傷付けるにはどうすれば良いか熟知していた。 「話は以上だが」 探偵は煙草の吸い口を噛み潰す。 「質問あるか?」 「ん。何も」 「じゃ、行くわ」 「うん」 ありがと、とニコルは言い添えた。 ニコルの手の中で花がしおれかけていた。きつく握り締めていたからだろう。路傍で摘んだ、名も知らぬ一輪の花だ。 『あんたがあの場にいたらこいつらを撃ってた?』 湿った風が耳朶を撫でる。細く果てしない歔欷のように。 小さな花を墓前に手向け、ニコルはしばし瞑目した。 「そんなこと言ったってさ」 そしていつまでも天を仰いだ。空は重く低く垂れ込めている。雨を孕む風が名もなき花をさらった。 (了)
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