「お前、俺が好きか」 ――その時感じた感情は、なんというべきだったろう。 ‡ 「あ~、だっりぃ」 薬屋へ向かう道すがら、あまりにも身体がだるく路傍のベンチに腰を下ろして唸る蒔也。 くだらない風邪などさっさと治そうと、よく効くと0世界でも評判の薬屋へ赴こうとした道中である。 普段は一人で楽しく過ごすことができるのだが、不調な身体は心までも蝕んでいるようで。 獣のようにごろごろと寝て回復を待つことも考えたが、このだるさがあと何日も続くのを許容するなど、クソ食らえだった。 「失敗したんじゃね……あ~やっぱ寝てるんだったかなー」 だりーうあーもういやだー。 陽の沈まないこの世界にいるというのに、不思議と視界がセピア色に染まるような錯覚にとらわれて。 ぼんやりとした思考が紡ぎだすのは、「一人」でなかったころのこと。 親父の、こと。 ‡ 『お前、俺が好きか』 実父が死んで一月が経った頃合いだった。 蒔也を引き取り、養い子として手元に置いてくれた「親父」が不意にそう尋ねてきた。 『――』 あの時なんと応えたか、ぼやけた頭ではよく思い出すこともできず。 ただ、満足そうに笑ったその養父の顔が、強く印象に残っている。 マフィアの首領として、一家の頭を張る男。 実父を失ったばかりの、「幼さ」という獣性を持つがゆえにある意味実父よりも危険な蒔也を引き取った、その男の笑顔。 『俺を壊したいか』 笑みのままに、親父は問いを重ねる。 この問いに対する答えは覚えていた。 『こわした、い、けど――まだいいよ』 親父は、確か目尻の皺をより深く刻み、重々しく俺の頭を撫でたんだっけかと記憶をたどる。 靄がかかったような記憶の向こうで、くしゃ、と笑う幼い自分。 そういやつい先日爆発させたっけなー。やっぱ可愛らしいなーお子様の頃の俺。さすが俺。 テンションは相変わらず最悪ながら、思わずけけけ、と声に出して笑った蒔也。居合わせた不幸な通行人が怪訝な顔をして足早に立ち去っていくが、気にはしない。 頭を撫でた養父の手の大きさと暖かさが思い出され、どうしようもなく懐かしくなるのは、きっと体調のせいだろう。 『なら、俺がいよいよくたばっちまうときは、お前が俺を壊しに来い』 マフィアなりの生活を送っていながら全くの健康体だったくせに、よくぞいうと少し想う。 だが、それは幼き蒔也の心を。身体を。不思議なまでに囚えた。 約定の、軛。 それは、不自由さを何一つ感じさせない暖かさによって包み隠された、鋼鉄の鎖。 獣の本性を幼い時分から目覚めさせ、愛するもの、愛おしい世界、その全てを爆発させたくてやまなかった蒔也を社会に結びつけるもの。 『その代わりな』 養父が笑って言う。面白そうに。実際蒔也の反応を楽しんでいたのだろう。 『その日までお前は俺の息子でいろ。お前がいいなら、その先もな』 幼き日に交わしたその契約が、その後の蒔也の生き方を、ぎりぎりの線で人たらしめた。 ‡ 養父がそんな事を言い出した理由はなんとなく、理解していた。 ちょうどその少し前のことだ。 たまさか共に遊んだ同年代の子が、とても好きになったことがある。 『ねぇねぇ、ぼくのこと、すき?』 『うん!』 その子も、おとうさんと同じようになれば、きっともっと大好きになれる。 だって、あの大好きだった人がもっとも「きれい」だったのは、はじけ飛ぶその瞬間だったから。 無垢な悪魔の純粋なる好意が為す行為。 大人が誰も見ていない場所に、二人でひっそりと隠れた。 隠れ鬼をしているようで、楽しげに笑う、その子の頬に、そっと触れる。 『ねぇねぇ、ぼくのこと、すき?』 また、問うた。 頷き、きっと『うん』と言ってくれようとしたその子の声が、結局紡がれることはなく。 ただ一度、小さく響く、火薬の爆ぜる音。 細い首から真っ赤に吹き上がる鮮血が、幼い蒔也の顔を、服を、身体を。 赤く、朱く、紅く染め。 花火のような音が、連続して鳴り響いた事で、大人たちがその音源の地へと駆け寄ってくる。 駆けつけた大人たちの叫び声。 養父の部下が駆けつけた時、残された相手の片足を抱いて、幼い蒔也は楽しそうに、笑っていた。 頬を染め、目の焦点はぼやけ、ただただ、楽しそうに。 愉しそうに。 ‡ ――本当は、知っていた。 養父が自分を引き取ったのは、実父の都合によるものだと。 伝説にすらなりかけた、かつての破壊狂の子を放置することで、その子が不安要素となることを恐れたのだということを。 そして組織の首領という立場がゆえに、あわよくばその力と衝動を自分の野望に利用しようとしていたことも。 それでも、蒔也はそれを知っていてなお、「親父」の為に、働いた。 あの日、約束とともに与えられたのは、小さな、黒い手袋。 年を重ね、大きさが合わなくなるたびに与えられていった、『親子の証』。 それは、実際には証ではなく、首輪だった。 獣の野生を封じ、意のままになるように躾けるための、頼りない、だがそれ以上のものはありえぬ、その『首輪』。 そうと知っていても、蒔也にとってそれは『親子の証』だったし、何より実父と同等かそれ以上に愛情を注いでくれた養父のことは、大好きだった。 愛していた。 人はそれを、刷り込みというのかもしれない。 かつて実父とくらしていたときは、その逃避行に無理やり付き添わされたが為に、蒔也にとって父が世界の全てだった。 それ以外の世界はなく、頼るべき道標をもたなかった自分を手中に迎え、繭でくるむようにして慈しみ育てた養父。 彼へ蒔也が感じる恩義はいかばかりのものだろうか。 蒔也自身でさえ、簡単には計りかねる、その想い。 ――それが愛なのか。それとも、愛と錯覚させられたものなのか。 先ほどまで、少しだけ上昇しつつあった気分が急速に落ち込んでいく。 躁鬱の境は曖昧で。一歩先が、深い水底のように、暗い色。 ‡ ぼんやりとした頭は未だに晴れず。 実父や養父との思い出が、波のように寄せては泡沫のように消えていく。 一歩、一歩。 立ち上がり、ふらふらと己だけであるく蒔也の足取りはおぼつかない。 歩くことを覚えた幼児のように、寄る辺を求め、左右に揺れる。 首輪は未だに両の手を包む。 ここには、実父も養父もいやしないのに。 それでも未練がましくそれをつけ続けているのは何故だと、自問の声が脳裏に響いてくる。 何を期待しているのか。 それすらも、よくはわからなかった。 自分が期待することは何か。何が、己にこれほどの渇きを覚えさせるのか。 もう、なんでもいい。 熱にうかされるまま、ぼんやりと想う。 なんでもよかった。 ただ爆ぜてくれればいい。 どんな醜いものだろうと、きっとその様は美しい。 己の手で、己の力で。 灼熱の炎に弾かれて飛び散るその姿は、きっと麗しい。 それは、一流の芸術品を見るかのような気持ちにさせてくれるから――だから、この世の全てがこの手の中で壊れてしまえばいい。 その一瞬の輝きが。 耳を震わす爆音が。 身体を揺らす爆風が。 歓喜も、快楽も、悦楽も。 ――喪失感も。ほんのりと掌に残る、ぬくもりも。 全てが、自分だけの、ものになる。 世界がそうなったなら。 自分はきっとこの上なく。 きっと、とても満たされて、幸福で、潤って。 そんな気持ちで、美しい灼熱の中へと共に消えて逝けるはずなのに――。 獣が、ゆるりと目を開ける。 ‡ お気に入りのコートが、朱に染まっていた。 ぼんやりとした視界に横たわっていたのは、上半身が消えた、見知らぬ人。 誰だっけな。 呟きながら、ぼんやりと蒔也は想う。 あぁ、きれい、だったなぁ……。
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