触れるだけで肌が赤くなりそうな程に床板が冷えきる季節を迎えていた壱番世界。 年の瀬も押し迫り、今年最期の稽古を数時間後に控える道場は、まだ人の気配が殆どない。 今現在道場に通う門下生の誰よりも早く訪れた優だけが、そこにいた。 ひと通りの掃除をし、師や他の弟子を待つ間の、精神統一の時間。 冷えきった空気は氷のような存在感と透明感をもって室内を満たし、優が己の身体と心の有り様へ集中していくにつれて、その静謐さを深めていく。 鳥の囀りが木の格子の隙間から、冷たい空気とともに忍び込んでくる。 庭木の葉の擦れる音、その葉を揺らす風の音。 更に精神の集中を続けていくにつれ、段々と少し離れたあたりの音を、耳が捉えだしていく。 間道を抜けた先にある国道を走る、トラックの音。 道場の隣家からもれる、包丁の音。 早朝から路上で遊ぶ、子供らの声。 優が生まれ育った地の、育った家の近くにあるこの道場には、優が大切に思ってやまない世界が間違いなく息衝いている。 正座をした足は既に床から立ち上る冷気でひやされ、痺れの感覚は通り越しているが、それを気にすることはない。 この冷気も、この空気も、格子の外から聞こえてくる数多の気配も、全てがこの世界の息吹であり、己という存在の一部を形作っているのだと、思えるようになっていく。 ――それは、あるいは強制的にこの世界から切り離された、あの期間があったからかもしれない。 様子を知ることもできず、赴くこともできず、親しい者らと言葉を交わすこともできない。 ひょっとしたら今この瞬間に、帰る世界が消えているかも――疑念がよぎらなかったといえば、嘘になるだろう。 だが今、世界は「ここ」にある。 ただその事に感謝し、ゆっくりと調息を行い続ける優。 深く吸い、ゆっくりと吐く――その繰り返し。 床から伝わる冷気はいつしか遮断される。 身体の裡、丹田の周囲に、じんわりとした熱が熾された時、片膝をたて衣擦れの音も囁かに、青年は立ち上がった。 数多の冒険や、コロシアムでのやり取りの中で、少しずつ鍛えられてきた身体。 その土台となったこの場所で、その基盤となっている動きを一つ一つ、確かめていく。 それは決まった所作。 だが、決まったとおりのそれを一人で為すのは、実は難しい。 ゆったりとした動きの中で、世界に溶け込んだ見えぬ相手と気を合わせ、押し引きの呼吸を図り、手指の先、足運びの一足にまで意を巡らせる。 それは、さながら古典の舞のよう。 殿中秘伝の御式内より派生した、神々の武技と云われる術を基盤とし、宗教的精神性の下に完成した和合の武術。 求めるは相手を滅するのではなく、相手と同化し、相手を内に取り込み、その対立を解消させるための術。 天土にその身を融け込ませ、相身互いに傷つけぬことを理念として打ち立てられたその術の深淵に、未だ至れるわけもない。 それでも、ただ優は繰り返す。 一つ一つの所作。 そこに込められた意の流れの妙味を読みとろうとするかのように。 伝授された型を一度、二度と繰り返し、三周を終えた後、息をつき、その場に正座する。 道場の中央に飾られた棚に礼をとり身を起こした時、視線を感じ振り向くと、その先には道着袴を身につけた四十にいたるかどうかという男。 総髪にした頭は適当に撫で付けられ、無精髭をそのままに、母屋へ通じる道場の入り口、その柱に半身を預け、面白そうに優の姿を眺めていた。 しばらく前から見られていたらしいと悟った優が、正座のままに向き直り、礼を取る。 「お久しぶりです、先生」 優が幼くして入門した頃丁度師範になったばかりの男も、今ではその父親の跡を継ぎ、この道場の主となっている。 「型はそこそこまともにこなせるようになったじゃねぇか」 ほんの少しの誂いを含んだ声をかけつつ、弟子の下へと近づいていく男――名を、槇誠司という。 顔をあげた青年の整った容貌に宿る微かな憂いを見てとりながら、その正面に胡座をかいた。 「ありがとうございます」 「ほめてねぇがな」 一刀の下に切り捨ててきた言葉に、下げかけた頭が思わず止まる。 「お前は昔っからそうだ。何か抱え込んだ時ほど動きが良くなる――真面目っつーか、雑念を振り払おうと思ったら無駄にそれだけに集中するっつーか」 おら、違うんだったらなんか言ってみろよ、という槇の言葉に、優が浮かべることができたのは、困ったようなほほ笑みだけ。 それでもその目に宿る意思の光を敏感に悟り、槇は笑う。 「――だが、お前変わったな」 右膝に肘をつき、その手に顎をのせるような格好で、下から舐めるように優を見上げる師へと返されたのは、真っ向からその視線を受け止める二つの瞳。 「道場に来ない間に、喧嘩でもしてたか?」 「なんでそうなるんですか」 いきなりの言いがかりに、参ったなと優が呟いた。 そんな青年を面白そうに眺める槇の表情に浮かぶのは、興味深いとでかでかと書かれた笑い顔。 「じゃあ女ができたか。なんだ、ふられでもしたか」 ピシ、と優の表情が固まる。そんな様子をみて、くつくつと笑いながら、槇は上半身を起こした。 「冗談だ。で、何を考えてた――ここに来たってことは、何か話したい事があるんだろう?」 高校に行って後、道場に足を運ぶ回数は減ってしまっている。 0番世界との行き来もしている日常生活の中では、どうしても足が遠のいてしまっているからだ。 けれど、小学生の頃から通い続けていたそこは、優にとって己を見つめる一つの場になっていた。 だからだろう。何かあると、こうして早朝の道場を訪れたくなる時がある。 ここへ来る時は、自然何かを抱えている事が多くなっていた。 奏を探し見つからず先行きが見通せなかった時。 楓と再会し、どのように言葉を交わしたらいいかわからなかった時。 はじめて真理に目覚めた時。 身体を動かし、稽古を付けてもらい、今の自分の有り様を見つめなおして。 これまではそれで十分だった。 けれど、今、それだけでは足りなかった。 思っていた。 自分が守りたいと思う誰もが幸せになれるために戦いたいと。 その為に、幾度もした決意。 この世界を、幼馴染の二人のある世界を、親しい人達が数多暮らす、この世界を。 守るためならば、誰かを手をかけることも厭わない――選別の果て、誰かに憎まれても構わない。 支給されたギア――剣という武器としての形状に、これが己の有り様なのだと思うことで、その想いはまた強くなっていった。 最近は、少し違う。 誰かを犠牲にしてでも守るということ。誰かに自分が憎まれても構わないということ。それは、己自身をも犠牲として他者を。守りたいと思う他者を守ることになるのだろうと、そう感じ始めた。 だが自分を犠牲にして後。 残された者達に、その後どんな想いを抱かせるのか。 守れれば、それでよかった。 けれど、それだけではいけないのだと、気付かされた。 心からその幸せを願った少女に。 気の遠くなるような長い年月、優と同じ想いを抱えてきたかの卿の想いに。 子を想い、神を信じ、守りたいという想いのままに生きる中で、いつしか引き返すことが出来なくなった友人に。 「強くなりたいと、思ってます」 「ほう、強く」 手の届かないところへあの少女が行こうとしたその時、優の胸は理性と感情の狭間で締め付けられた。 把握しきれなかった距離感に戸惑って、勇気を出して歩み寄って、そして少女が選択した進むべき道を祝福して。 けれど。少女の選択に、自分は苦しんで。 ただ一人、神を信じ、神を呪い、心を病んだ友人が自分たちの下へと帰ってきたその時、優は言葉をかけることすらできなかった。 「力だけじゃなくて、心も考え方も、もっともっと……もっと、強くなりたい」 揺るがない心。 正しいと思えることに、想いを委ねられる強さ。 自分が進むべきと決めた道を、まっすぐに歩き続けられる強さ。 その道を歩く時に、守りたい者達に心配をかけずにすむ強さ。 大切な人達を、十全に守ることができる、心の強さ。 傲慢に思われるかも、迷惑かも、結局は助けられないかも。 そんな事を気にせず、自分がやるべきと思えばそれを完遂できる、強さ。 それによって、残された人々を傷つけずにすむ結果を掴みとるだけの、強さ。 覚醒して数年。 いろいろな冒険の旅に出た。様々な世界を見、様々な人に会ってきた。 後悔することなんて、何度もあった。 ロストナンバーになって、幼い頃から共に育った二人のいる世界が危ないと知った。 そして壱番世界を救うためには歩めない道があった。 それを選ぶことができなかったのは、初めて抱いた決意ゆえ。 大切な人達に手を伸ばしたくとも伸ばせない事が、何度もあった。 大事な人は沢山いて、大事な物は沢山あって。けれど、自分は一人だけ。 結果、一人は異世界へと旅立ち、一人は永遠に会えぬ人となった。 助けたくても叶わなかった経験に、優の心が、優自身を責め立てる。 「迷わない、揺るがない――そんな強さが、欲しい」 絞りだすようにして言葉を紡ぐ優。 この手に触れられる人すらも救えない事をなくしたい。 救う為の手が一つなら、その手を大きく、長くしたい。 一人でも多く、一つでも多く、この手の中に抱え守ることができるように。 目を細め、ただ眺め、黙然と聞いていた槇が、不意に口元を緩めて見せた。 「――いくらでも説教はしてやれるんだが、な」 そう言うと、槇は「よっこらせ」と年寄りくさい掛け声とともに立ち上がり、座したままの優へと笑いかけ、手を伸ばす。 「だが優。そいつは、お前自身が見出すべきもんだ。だからな」 差し出された手を掴んだ優を、槇は強い力で、立ち上がらせる。 「お前は、お前の道を行け。望むまま、思うまま。心のままに、進みゃいい――そんで怪我して転げまわって、それでもいつかは立ち上がれ。それで初めて見えてくるものもあるだろうよ……今のお前が、数年前のお前では見えなかったものが見えているようにだ」 立ち上がった優の頭に片手をポンと載せ、朗らかな笑みを浮かべる師。 『どうした坊主――見てるだけじゃ強くなれねぇぞ。まずはやってみな』 幼き頃に、師範代として体験入門をしにきた優を相手にした槇が言った言葉。その時に浮かべていた笑みと、全く同じもの。 『合気は力を敵へと返す術。だが、合気道は敵そのものをなくすための、和の道だ。喧嘩の為の術じゃねぇ。喧嘩をなくすために、心を養うからこその"道"だ。相手を助け、自分を助け、周りを助け、皆とともに、皆で幸せになる為に必要な心を修める為の、道だ。友達と一緒に、歩む道さ。名前どおりの性格なお前には、ぴったりだろうよ――武の字義を体現するだけの男になれや』 それは、入門してしばらくした頃に槇がいった言葉。 拳を使う。投げ技を使う。蹴りも使えば、剣も使う。合気道と他の武道の違いってなんでしょう、と問いかけた優への言葉だった。 小学生の頃には意味不明な部分もあったが、今思い返すと少しだけまた、その意味が見えてくるような気がした。 優が修める武は相手を倒すためのものではない。味方を守るためだけのものでもない。 皆で世界の全てに手を差し伸べ、全ての干戈を止めるための、心を養う道なのだと師は言った。 その道の、なんと険しく、難しいことか。 幼い自分に無理難題を言うものだと、今更ながらに笑みが溢れる。 だが、自分が今欲している道は、確かにそうだった。 頭に置かれた手から伝えられる熱は、それ以上の何かがあったけれども、それは、まだ見えない。 だが、確かに伝えられている気はした。きっと、振り返ってみた時に初めて気づける何かなのだろうと、無根拠に感じられる、そんな何か。 「先生」 「おう」 ふっと笑って、優は一歩、身を引いた。 「稽古を、お願いします」 ゆっくりと頭を下げ、万感の想いを込めて言う。 「おうよ」 受ける相手の背は大きく、応じる声は頼もしい。 まだ自分は、その場所にすら至れていない――けれども、こうして前を歩いてくれている人がいる。 仲間達が、横にたって歩いてくれる。 そんな仲間たちが助けてくれるなら。そして自身がその仲間達を助けていけるなら。道は、少しだけなだらかになるのかも、しれない。
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