イラスト/クロジ(iauw9564)
ニューヨーク 天使の消えた街と同じ、いや、それ以上の摩天楼を備えながら広大な自然をも内包する人造の街。 海と、川と、離れ島。 それ以外の全てに人の手が入った、バビロンの塔。 自然と調和していた先住民を追い出し、数多の闘いを繰り広げ、個人を社会とする法典を生み出した賢者達の街。 幾度もの好況と恐慌を生み出し、マイノリティからマジョリティまでの文化が華咲く世界初のメガシティ。 だが、今ファルファレロの立つ地には、その街にふさわしい活況と喧騒は存在しない。 ただ、数多のレリーフが刻まれた墓が、この地に眠る人々の偉大さと、この地が抱く芸術性を示している。 そこは、ブルックリン地区とよばれる行政区の一角。 世界初の遊園地コニーアイランド――毎年ホットドッグの早食いが行われる場所といった方がわかりやすいかもしれない。 そこからオーシャンパークウェイをひたすら車で走り続け、リバティーアイランドが見えてきてもおかしくない辺りにたどり着く頃、その地はようやく見えてくる。 ピラミッドもあれば、パルテノン神殿風の墓があり、熊が乗っかっている墓石があったかと思えば、ウキヨエのレリーフがあったりする奇妙な風景の一角に、ファルファレロが目指す墓があった。 「よりによって肉屋の近くかよ」 目的の墓を見つけるなり彼は苦々しげに吐き捨てた。 やってらんねぇと言わんばかりに眉間に皺を寄せながら、煙草に火を灯す。 吐き出された紫煙が澄んだ空気に溶けていく。 「ここだけは、相変わらずだな」 ニューヨークという街はスクラップ・アンド・ビルドを繰り返してきた特異な街である。 1900年代前半の建物ですら、市街地には殆ど残っていない事が殆どだった。それなのに残すと決めた場所や建物は、執拗なまでに保存し続ける不可思議な土地だった。 そして今、ファルファレロが訪れている地もまた、覚醒する前と同じ景観を悠然と保持している。 変わったのは奇妙なレリーフ群が設置されている事くらいだろう。 生まれ育った地。 悪態をつき、後ろ足で砂をかけて出ていった土地だった。 皮肉にも、今その地に彼の足跡が、彼の意思によらず刻まれている。 ――大河に眠れ 名と共に刻まれた字句を見て、初めてファルファレロは唇を歪めた。 「居心地はどうよ――ファルファレロ」 石に刻まれた名を呼ぶ青年。それは、彼の死を示すために造られた墓碑。 空っぽの墓標だった。 次々とやってくる現実をくそったれと吐き捨てて、たまさかに出会った女との享楽を楽しんで、勝手に慕ってくる自称部下共を好き勝手に使い捨て。 「悪くねぇ人生じゃねぇか」 言葉とは裏腹に、自嘲するような笑みを浮かべると、ファルファレロは己の墓石に背を預け、その場へ座り込む。 視界に入るのは海と、マンハッタン。 そしてリバティーアイランドと、自由の女神。 彼が半ば手中にしかけながら、裏切りと言う名の銃に打たれ、取り落としたその石像が、こちらをじっと見つめていた。 やや後方にあるバトルヒル――かつて新大陸軍と大英帝国軍が争った地に立つミネルヴァの視線を背中に受けるのを感じながら、ゆっくりとその瞳を閉じた。 初めは原住民とオランダ人。そのうちにイギリス人が訪い、闘いの果てにこの地を手にすることとなる。 やがてアイデンティティとやらに目覚めたアメリカンが宗主に牙を剥いたかと思えば、南北戦争の時にはアイルランド系移民が興した暴動は一軍と相対するほどの規模にまで膨れ上がった。 外から訪う移民と戦乱。破壊と復興を繰り返したこの街にしてみれば、己が繰り広げていた抗争等小さなものでしかないのかもしれないと、ふと思う。 くそったれなこの世界に唾を履き続け、走り続け、他人を踏み台にして生きてきた。 その挙句、本拠地から遠く離れたこの地での争いの最中、自称腹心に背後から撃ち抜かれる失態を演じさせられた。 ロストナンバーになることがなかったならば、それで全ては終わり。 汚泥のつまった肉袋が一つできあがり、今尻に敷いている石の下に、名実ともに投げ込まれていたというわけだ。 「悪くねぇ人生じゃねぇか」 肺を満たす煙が胸にしみた。 閉じられた闇の中、あの映画館のように、瞼の裏に過去の記憶が朧な形となって去来する。 ここに来たのは、その為だった。 不意に、物の落ちる音がした。 半ば開かれた眼が捉えたのは、上等な仕立てのスーツ。その足の部分。 そういえば座っていたんだったよなと思い視線を上げてみれば、見慣れた人物の――それなりに年数を重ねた顔だった。 「――ファルファレロ」 幼い頃に、勝手に忠誠を誓ってきた男。 紹介した女が寝取られた事を知った瞬間、泣き笑いのような貌で唇を歪めていた男。 『よう、クソ野郎』 『なんだまだ生きてたのか』 『また浮気されてんのか?』 さて、なんと声をかけたものか。 半眼で見上げていたファルファレロの下へと、男が一歩歩み寄る。 「流石に魂では年をとらんのだな」 ぴく、とファルファレロの片眉が動いた。 「俺がお前を撃って、嵌めて……空っぽの組織を手にして――何年経ったかすら、覚えちゃいねぇ」 また一歩、男は足をだす。 「……いや、嘘だ。ああ、嘘だとも――忘れるものか。お前のあの笑みを夢に見るんだ――お前が、俺の世界だったのに」 また一歩。すでに二人の距離は、三歩程のものでしかない。 実体を保ったままのファルファレロ。 それでも男は墓の上に座るファルファレロを、彼の亡霊と断じて揺るがない。 生き延びられようのない状況で行方をくらました男が、その時となんら変わらない姿で墓に姿を表した。 幽体だと思う以外、納得できる理由がないのだろう。 或いは、ファルファレロに糾弾してほしいと、心のどこかで望み続けていたのか。 ――相変わらずとしかいえねぇな。 噛んだ煙草を味わいながら、目の前の男の独白を聞くともなしに聞いているファルファレロ。 対峙している男は、視線をファルファレロに合わせながらも、何処か遠くを見ているかのように、虚ろな目を向けている。 今なお殺した瞬間を夢に見ること。 そんな自身の気持ちの有り様を整理したいと思い立つ度に、こうして自ら建立した墓を訪れているのだということ。 どれも、ファルファレロにとって虫唾の走る内容でしかないというのに、目の前の男はさも告解室にでもいるかのように、次々と言葉を投げかけてくる。 「本当のダチだと思っていた」 「お前は俺のヒーローだった」 「それなのに、お前は俺を裏切ったんだ」 並べられる言葉の数々は、勝手に男が自分の中で偶像化したファルファレロの姿と、それを笑って踏みにじった実像のファルファレロを信頼しきっていた自分への、怒り。そして当惑。 彼にとって、子供の頃から共に走り続けてきたファルファレロこそが、世界を構成する重大な要素だった。 彼にとって、悲劇だったのはファルファレロの方が同じ勘定を抱いていないことだった。 寄る辺ない背中を預け合わせたと思っていたのは男だけ。 二人三脚ではなく、舌打ちしながら張り付いてくる男を引きずり回しただけ。 誰よりも親しくいると思っていたファルファレロという存在との間に、実は決して歩み寄る事のできない、深い深い川が横たわっていたのだと男が気づいたのは、ごまかしの笑みすら浮かべずファルファレロが言った瞬間だったのだと。 『あぁ、好みだったからな』 婚約者を寝とった事に激高し詰め寄った男に投げかけられた一言。 ――それが、男がファルファレロを嵌めた理由だった。 「俺はお前に感謝してるんだ。人ってのが糞の詰まった肉袋だってことを、丁寧に教えてくれた」 不意に、男の目が光を取り戻す。 「お陰で今の俺がある――俺がお前に会いに来てるのはな、ファルファレロ」 濡れたその目が、まだ肌寒い晩冬の日差しを照り返し、常緑の芝生を踏みしめる足が、物を踏み潰す、小さな音を立てた。 「お前への、憎悪を忘れねぇためさ」 あの日と同じように、男の手には黒い銃。 ファルファレロの銃とは、兄弟的位置づけにおかれるモデル。 似たようなフォルムでありながら、確かに違う部分を持つ、その銃の口が、ファルファレロの額に狙いを定めた。 憎しみという名の――それも、ファルファレロではなく己へのもので、いわば幼児の八つ当たりとも言える感情に染め上げられた男の目。 銃口越しに、死んだような目で男を見上げるファルファレロ。 銃の扱いに慣れているはずの男の手は震え、セーフティが外されないままの銃は、微かにその身を揺らしていた。 「引けよ。それで気が済むならな」 それは、男に対して初めて口にされた言葉だった。 その瞬間、男の膝が崩れ落ちる。 取り落とされた銃がファルファレロの足の間――墓石に当たり、少し離れた場所へと反動で飛んでいった。 「――donnicciola」 ゆっくりと立ち上がったファルファレロが、彼の足元。 崩れ落ち、頭を抱え、嗚咽する男に対して吐き捨てた。 くだらねぇ人生だ――舌打ちを一つ。 彼は男の脇を通り過ぎ、自らの墓を後にした。 壱番世界のこの地を彼が訪れた理由――それは、己の居場所の再確認のため。 いるべき場所の確認ではない。 己の生を振り返り、そうすることで、己の居場所等この世界にはないことを。 帰る場所等どこにも有りはしないのだということを。 ただそれだけを確認するための、旅程だった。 墓を前に思い出した様々な記憶。 遭遇した、かつての配下。 背後からは、未だ泣き続ける男の声が、背中越しに聞こえてきた。 それでも彼は振り返ることをしない。 最早苦々しさも消えた表情で、彼は煙草を肩越しに投げ捨てる。 消え落ちそうな火が灯ったままのそれは、真っ逆さまに地へと落ちた。 その様をファルファレロは見ようと思わない。 どうなるかなど、知りはしない。 ミネルヴァとマリアンヌの視線に挟まれながら、ゆっくりと彼はその地を後にした。 省みる必要など、最早ない。
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