インヤンガイ。 高級店が立ち並び、行き交う人々も貴顕のものばかり。 燦めくショーウィンドウの中にある品物が厳重な管理をされていないように見えるのは、恐らくこの街区の安全性を物語る。 人々はその神話を確固たるものと考えているかのように何等の警戒もせず、歩き、止まり、人と人が笑いあう。 路地路地にひっそりと立ち並ぶ管理者の下僕、密やかに設置された監視カメラ。 一つ一つの配置を興味深そうに眺めながら、古部利政もまた、その道を警戒感のかけらもない様子で歩いていた。 彼の目的はただひとつ。 依頼人が捕まえて欲しいと訴えかけてきた連続殺人犯――それも、ある種露悪的な性質をもつ、その犯人を確保することだ。 放火犯も、愉快犯も、その根幹は同じもの。 その犯行によって生み出された光景――それは火であったり、群衆であったりと様々だが――を見たい為。 そしてそれがゆえに、彼らは一定の痕跡を無意識なまま、残す事が多い。 場所の規則性。 時の規則性。 対象の規則性。 全てに基づく予測が指し示した場所が、ここだった。 かつ、と石畳を踏み鳴らした利政の視線が、一つの場所に吸い付けられる。 カフェテラスのすぐ近く。 その一部であると、普通なら思い込んでしまうかのようにさり気なく配置されたその椅子。 しばしその椅子を眺めていた利政は、ゆっくりと歩みを再開させていく。 ゆるゆると、景色がとけて、世界が再構築されていく。 「無事か?」 腕の中の少女を見て、利政は問いかけた。 その少女を襲った犯人の後ろ姿を明瞭に記憶しながら、彼は手の中の娘の無事を、まず第一とした。 こくり、と頷く少女の首には一筋の傷。 あと数センチ。 それでこの少女は彼岸へと旅立っていたことだろう。 その傷を覆う布を渡し、利政は暴漢の跡を追う。 その顔は、明瞭に記憶が済んでいた。 ゆるゆると世界が歪み、新たな情景を描き出す。 ――さあ、撃ち給え。 沈む水底から響くようなその声。 目の前で嗤う男の声は何かぶよぶよとした皮膜でもとおすかのように朧気に聞こえる。 「きみは何故そのような態度でいられるんだ?」 突きつけた銃越しに、利政は問いかけた。 その自分の声でさえ、どこか遠くのスピーカーから聞こえてくるかのような非現実感を伴っている。 ――なんで? なんでだと君が問うのかね? 驚いたような表情を浮かべ、男が両肩をすくめてみせる。 その剽げた動作のままに、再び笑みを浮かべていた。 それはここしばらく、探偵としての利政が探していた男。 探偵達の操作の網をくぐりぬけ、まるでその美しさを見せびらかすかのように、人目に立つ場所へと死体を放置しつづけてきた男だった。 ――瑞瑞しき若さ。丹麗なる容姿。高貴なる佇まい。 片手を翳し、言葉を操る男の瞳に宿るのは、狂気ではなく崇高な使命感にもにた熱情。 溢れだしているその情熱のほとばしりが利政の視線を惹きつけた。 一挙手一投足、平凡な容貌でありながら不思議と魅力に溢れ、聞いているものの心中にその言葉を溶けこませる。 これは、聞いてはいけない言葉だ。 自身の中で、盛大に警鐘が鳴り響く。 ――私はもう見たいものを見た。私のような者は檻の中にいるべきだ。 ゆっくりと、男が足を踏み出した。 見たいもの。 ああ、こいつはあれが見たいだけだったのか。 心に思い浮かべるのは何人もの若い娘の死体。 娘達はその骸に刻みつけられた致命傷、それを残したまま、人通りの多い場所に丁寧に座らされ、発見されていた。 生前その娘が好んで着ていた服を変え、丹念に死に化粧が施され、衣服のうちから滲み出す血すらも演出の一つであるかのように。 生者の頃よりなお美しく整えられた、骸達。 インヤンガイの街区の中でも、富裕層達が暮らす清潔な街区。その中でも人通りの多い繁華街をいくつか選んでいるかのように。 手作りの華美な装飾を施された木椅子に端座させられた彼女達は、確かに美しかった。 ――どうした、何故躊躇する。 向けられた銃口からその身を少し外すかのようにしながら、男が利政の懐に入り込んでくる。 ゆっくりと下から舐めるように見た男が、見下ろす利政と視線を交わらせ、愉しそうに微笑んだ。 その瞳は空洞。 情熱の焔が燃えていた形跡は跡形もない、虚。 だが、だからこそか。 利政の内心にある想いを吸い出そうとする不可思議な重力を有したそれが、瞬きのうちにぬらぬらと光った。 ――ああ。君は私が怖いのか。君を傷つけたのは誰? 瞬間。 情動のままに、利政の右腕が動き、銃把で男を殴り飛ばしていた。 盛大な音をたて、男が高級な家具にむけて吹き飛ばされる。 それは、娘達が座らせられていた椅子と類似の品。 粉々に砕けたその木製の椅子の上に横たわる男が、呵呵と哂い声をあげていた。 一度腕時計に視線を落とした利政が再び男へと視線を向けた時、そのすぐ向こうにあるチェストに置かれた写真立てが、目に入った。 端座する少女。少女。少女。 人混みの奥。 未だ死体と悟られぬうちの、その有り様は一つの世界の有り様を思わせる、不思議な雰囲気を漂わせていた。 だがそれは、どこか覚えのあるうそ寒さを湛えたもの。 虚構と、エゴと。 そしてそれ以上の何か。 利政は、これこそが彼の動機なのだと悟る。 この、得も言われぬ有り様、それこそが、彼の見たかったものなのだと。 呵呵! 呵呵! 倒れたまま、狂ったように笑い続ける男の声だけが、その家の中に響き渡る。 犯行を目論見、その場所を看破され、防がれて。そして追跡を受けて。 そうして今は家の中。 己をついにおいつめた探偵を前にして。 殴り飛ばされて。 それでもなお動じた様子を見せるどころか、笑い続ける男。 その様は普通なら狂気と著すことができたろう。 だが、不思議とそんな印象は抱かない。抱けない。 やりたいことをやりおえた男が、その満足感を十全に現しているだけなのだと、無理矢理に悟らせる、その声。 一瞬の激情を封じ込め冷静さを取り戻した利政が、その手足を撃ちぬいた。 ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ。 鳴り響く銃声は獣の咆哮のように。 それでも笑声は止まらない。 「見たいものを見るためだけに、彼女たちを殺したか」 かけた言葉に返ってくる言葉はない。 「――そうか」 ごり、と鈍い音をたて、銃口が男の頭に押し付けられる。 倒れたまま笑い続ける男に馬乗りになった利政が、男の瞳を覗きこむ。 艶に満ちた瞳が見返してきた。 ゆっくりと、銃爪に指が、かけられる。 急激に、その身が引き上げられる感覚を覚えた。 無秩序に世界が崩壊し、自身に向かってその破片が向かってくるような感覚を覚える。 その感覚に身を任せた瞬間、景色が明るく燦めいた。 そこは、小奇麗に誂えられたカフェテラス。 小さく纏りつつも、部分部分に精緻な趣向が凝らされた広場を見渡せる位置に造られたその座席。 「珍しいですね」 目の前の席に座り、おかわりらしき珈琲に口をつける助手の姿。 「眠る姿、初めて見ました」 「――そうだね」 それだけを応え、一度時計に目を落とした後、彼は再び広場に目をやった。 その繊細な意匠に宿る熱情が、不思議とあの男を想起させている。 己の見た夢の中。かつてインヤンガイに居た頃に、この手で捉えた男。 ――君を傷つけたのは誰? 呵呵と嗤う声とともに、脳裏に張り付いた声がする。 心中で強く目を瞑り、丁度運ばれてきたカップへと、ゆっくりと彼は手を伸ばした。 fin
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