「えええっ」 あまりの衝撃にディスは椅子から落ちそうになった。「マルボが骨折した?」「しばらく船は操れねえ」「そんな……」「それにブールが」「ブールが?」「かみさんが産後の肥立ちが悪くて面倒みなくちゃいけねえそうだ」「おい待て」「それにバックだが」「……なんだ」「昨日酒場で殴り合って、顔がぼこぼこで全身傷だらけで、船に乗れねえ」 ディスはがっくり項垂れた。「だめだ……3人も乗り手がいないなんて、俺達のチームはもう漁に出れねえ」 港町ガックの漁は一年に一度、『疾風レース』と呼ばれる沖合の島を回る船レースによって、その一年の漁域を決める。チームは4つあり、3回のレースで総合得点の高いものから順にいい漁域を取る。「どうしたらいいんだ…食い詰めちまう…」「あの…」 隣に居た見知らぬ男が、ぼそりと口を挟んだ。「ひょっとしたら、ツテがあるかもしれないんだが」「え?」「部外者は参加しちゃだめなのかな」「いや、そんなことはねえ!」 流れ者でも、とにかくチームに入ってさえいれば。「金を積んで乗り手を買うところもあるんだが……俺んところはそんな金ねえし」 ディスはすがるような目で男を見た。「たいした支払いはできねえ、せいぜい飯を食ってもらうぐらいだが……それでよければ頼まれてくれねえか?」「…ということで」 鳴海は珍しく楽しそうにチケットを差し出した。「『疾風レース』に参加して下さる方をお願いします」 参加者は3名、チケットは8枚。「他の5名の方は船の整備やメンバーのサポートをお願いします」 どちらにも終了後の宴会がありますよ。「楽しんで汗を流して来て下さい」 それから一つ。「島の向こうに『女神像』があるそうです。見える時、見えない時があるそうです。普段誰も近づかない聖域にあり、めったに見られないものなので、ご覧になった方は是非報告をお願いします」
「う、わーっっ!」 ばっしゃーん! 「太助!」 きらきら眩い空、輝く太陽、光の恵みを受けて穏やかにたゆとう波の上でさっきから何度も奇声が上がっている。 「がぼがぼがぼっ…」 「太助! こっち、手を出して!」 ホップの帆を操る舵(ヘイブ)をしっかり握って、風に帆を流されるな、そう指導を受けた矢先に、子ども姿の太助が見事にホップから放り出されたのだ。海中に沈みかけた太助の側に、繰り返しディスから指導を受けた相沢 優が巧みにホップを操って近づき、濡れネズミ(濡れタヌキ?)の太助を引っ張り上げる。 「おいおいおい、大丈夫なのかァ?」 マフ・タークスがその側に滑らかにホップで近寄ってきた。 「……つーかテメェら、船の乗り手出来ンのか??」 何とか優のホップ、ライジングサンダー号の上に引っ張り上げられた太助が、涙目になりつつ咳き込んでいるのに、マフは苦笑している。山猫の顔に長めの耳、二本の黒角を生やした獣人、鱗に覆われた竜尾の先には黒い棘、見た目はやはり太助より小柄な子どもだが、ヘイブには全く振り回されていない。 ディスに「あんたら、本当に大丈夫か?」と不安がられたのも太助同様だが、そのディスに薄笑いして、「疾風レースねぇ、ようは船乗って早くゴールすりゃいいのか?」と肩を竦め、「退屈凌ぎにゃーなりそうだな……つか、オイそこのガキ。奇遇だなァ、壱番世界のショウガツん時に会ったよな。お前もレースに出るのか……後の面子は、そこのタヌキ……と」と、早速に彼なりの方法で親交を深めていただけはある。 「ホップは慣れと勘だ」 三人の操船を見ながら、ディスは重い溜め息をついて、一旦皆を呼び寄せた。 「もうすぐレースが始まるから、準備しなくちゃならねえが」 一人一人の顔を見ながら続けた。 「海流を読む、流れに乗る、風を受け、帆を操って力を得る、それだけだからなあ……そっちの兄ちゃんはともかくとして」 優が、色鮮やかな黄色の帆を張った自分用のホップに、早々に『ライジングサンダー号』と名付けるのを許したのは、持ち主でもあるマルボが、優の操船技術に感服したからだ。 「大丈夫だよ、ディス! ユウならやってくれるぜ!」 マルボは嬉しそうに沖合の海流について解説を続けた。 「だから、ここんところで渦を巻いてる、こっから先に突っ込むと、一気にこっちまで流されっから」 「はい、わかりました。ってことは、こっちは、こういう方向で入っていけばいいのかなぁ?」 「わかりが早えよ! その通りだ! ほらな、ディス、ユウはもう絶対勝てるって! 俺、ユウが勝ったら、あの船をずっと『ライジングサンダー号』って呼ぶことにするぜ!」 「ありがとうございます」 くすぐったそうな顔で応じる優の背中を叩いてマルボは大笑いする。その胸元から零れたのはラブスプーンという英国伝統の木彫りのスプーンのお守り、仲間から安全と優勝の祈願を込めて渡された。太助もマフも身に着けている。その隣でバックが、腫れ上がり、青や赤や賑やかな色合いに染まった顔で、マフを振り向いた。 「ん? オレ様に出来ねェことなんざねーよ、元居た世界じゃ『冥府の河の渡し守』って言われてたンだぜ?」 マフの背後で竜尾がひょいひょいと揺れる。 「あーそうだ漁師サンよォ。もしオレが1位でゴールしたら、ここいらで一番の酒でも奢るんだな」 「それはいいけどよぉ」 バックはいささか不安そうだ。 「さっき、オール貸してくれっつったよな」 なるべく頑丈なのを頼む、あまり力入れすぎるとへし折れるって。 「まさか、レース中に妙なこと、やらかさねえよな?」 最近金目当てにレースに乗り込んでくるよそ者も増えた。 「へたなことしたら失格に…」 「あァ、金? ンなのよりメシの用意してやがれ」 マフはあっさりと応じ、なおも相手の目から不審そうな色が消えないのに、 「普段は誰も近寄らねェ聖域の、海の女神像……、ベタなトコでマーメイドの像だったりするのかねェ? それもとびっきりの美女のよォ、うちの拠点は野郎ばっかで、こちとら女に飢えてんだ……期待させてもらうぜ?」 「女神像?」 バックがほっとしたように肩の力を抜いた。 「あんたの目的はそれか……なら、あいつらとは違うな」 「あいつら?」 ディスが聞きとがめて眉を寄せる。 「ひょっとしてお前が殴り合ったっていうの」 「俺の名前を確かめて殴ってきやがったんだ」 バックは顔を歪めた。 「だから、俺はてっきり金目当てで、レースに出る奴らが仕掛けてきたんだと」 「マフさんはそんな人じゃないですよ」 優が眉を寄せた。 「ああ、悪かった、せっかく助けてくれようって言うのに、すまねえ」 ディスが間に入る。 「とにかく力強い助っ人が二人も居るんだし」 ブールが自分の青い帆の船を貸す太助を見下ろした。 「そう、だな」 自分に集まった視線に、太助がぐい、と顔を上げる。 「要はかっとばせばいいんだろ。うん。そんでいちばんとればいいんだろ?」 太助の濡れた服をいそいそと着替えさせているのは、ブールの妻、マンナだ。体調が悪いのは悪いのだが、応援に来てもらった他のロストナンバー達の世話を受け、滋養のあるものを準備してもらい、ずいぶん元気になった(さすがに『一口食べると胸と腹と頭に染み渡る』と評判のカレーは遠慮した)。 「あたしは、あんたを信じるよ」 優しい笑顔で太助の濡れた髪をしっかり拭く。 「あんたがあたしの赤ん坊をあやしてくれた時の顔、どんだけ力強かったことか。あたしらを大事に考えてくれてるって、よくわかった」 そのあんたが、負けるはずがないもの。 「…うん!」 太助が顔を輝かせた。 「応援してるからね、あそこから」 指差したのは沖合の島まで一望できる、村の高台。 今そこではロストナンバーの別の仲間によって刻々と宴会の準備、応援に駆けつけた村人達への食卓が整えられている。次々とどよめきがあがっているのは、並べられていく見たこともない料理への歓声、なぜか悲鳴らしきものが上がっているのが気になるところだが、それでも村人だけではできなかった準備が整っているのは間違いない。 そしてまた、停泊している船の補修や、万が一の負傷者のための備えなど次々と手が差し伸べられていくさまが、ディスやマルボ、バックやブール夫妻の気持ちを落ち着かせ、安心させているのは、その表情の活気でわかる。 「……負けるはずが、ねえ」 ディスが低くつぶやいた。 「全力を、尽くします」 優の声が応じる。 「やつらに目にもの見せてくれ」 バックが唇を噛む。 「オレ様を誰だと思ってンだ?」 マフが嗤った。 「頼む、この先の生活がかかってるんだ、子どもの未来も」 ブール夫妻に太助は胸を張る。 「わかった!」 高台で何かが煌めき始めた。それを合図にしたように、そちらから数人が港に戻ってきながら、手を振って教えてくれる。 「剣舞、だそうだ!」 客人達が俺達の無事を祈ってくれているらしい。 ディスが大きく頷き、前へ進み出た。沖合の島へ向かって一礼する。気がつけば、それぞれのチームからも1人ずつ、計4人が歩み出て、海に向かって居住まいを正した。大きく息を吸う。吐く。吸う。吐く。互いの呼吸と顔をはかりつつ、ゆっくり合わせていく。やがて同じ呼吸の深さと速度になった時、ふいに歌声が上がった。 『我ら、勇者 女神の下に 我ら、強者 女神の前に 我ら、聖者 女神の上に 運命よ、我らを、祝せ!』 「これより『疾風レース』を開始する!」 「うわああああああああ!!!!」 うねりのように上がった歓声に送られて、まず乗り込むのは相沢 優。 「注意しろよ」 乗り込む優にマルボが吊った手を揺らせ、脚を引きずりながら近寄ってきた。 「あいつ、『荒波のグルッグ』って呼ばれてる」 隣のホップの男を視線で示した。全身筋肉隆々、盛り上がった肩に首が埋まり、厚い胸に薄いシャツが張り裂けそう、がっちりした腰で両腕を振り回している。 「強そうですね」 「強いんじゃなくて、汚ねえんだ」 マルボが痛そうな顔で脚に視線を落とした。 「……まさか」 「ディスには言ってねえ。レース前に一杯やろうなんて手に乗った俺が馬鹿だったからよ。けど、知ったら、ディスはきっとただじゃおかねえし」 「なるほど……同じことをやってきそうですか?」 「たぶん。仕掛けて来るぜ」 「頑張ります」 まあ、まんざら覚えがないわけでもないし。 「お前が?」 そんな細っこいのに? 「そりゃ、ホップはたいしたもんだけどよ」 あんな短時間で覚えた奴を知らねえぜ。 「任せて下さい」 優は微笑んだ。 ゆっくり滑り出すホップの下で、海水が緩やかに裂かれていく。その感触を楽しみながら、スタート位置へと舳先を向ける。湾で数回円を描きつつ、白い旗が振り下ろされる時にスタート場所へ辿りつき、進み出さなくては失格になる。 「よう、ちっこいの」 優のすぐ間近に『荒波のグルッグ』が並んできた。 「海はアブナイぜえ、知ってるかぁ?」 薄笑いを浮かべつつ、円弧を描く優のホップにじりじりと寄せてくる。 「見えないところにいろんなものがありますからね」 軽く応じつつ優はするりと相手の押しやる航路から擦り抜ける。そのすぐ先に突き出した岩があるのを、水の流れで読み取っていた。 「意外に腕があるじゃねえか」 「腕があるから争わない……勝負はレースでつけるぜ」 「なにっ」 旗が振り下ろされた瞬間、優のホップは誰よりも早く抜け出した。寸前、舳先をぶつけてこようとした相手の鼻先を軽々と跳ね飛び、波を駆け、一気に沖合に走り出る。 「うーん…っ」 海が綺麗だし、風が気持ちいいな。 日差しはまっすぐに優の進む先を照らし出す。光の中を駆け抜ける、体に伝わる水の振動、風の震え、鼻をくすぐる潮の薫り、その何もかもが、体にしみ込み、全てを浄化してくれるようだ。 「待てーっ!」 背後から追い迫ってきたのは『荒波のグルッグ』、だが、遅い、遅すぎる。優のライジングサンダーの船尾に追いつくことさえできずにいる。残りの2艘はそのもっと後、ほとんど独走状態の優に岸辺から歓声が上がり、太助も跳ね飛んで大声で応援していたが、 「優ーっ! 後ろーっ!」 島を回り込もうとした矢先、太助の警告に優が振り返った瞬間、何か無数の細かなものが飛んでくるのに気づいた。 「何だっ」 とっさにヘイブを体で固定、トラベルギアの剣を抜く。周囲に発生した防御壁にばしばしっと当たって砕けたのは貝殻の塊。 「くそっ」 『荒波のグルッグ』の背後に見え隠れしていたもう1艘の乗り手が、いつの間にか『荒波のグルッグ』と並走、相手のホップに掴まりながら、手にした小さな道具から再び貝殻のつぶてを放ってくる。島を回って岸から見えないと考えてしかけてきたのだろう。命に別状はなくとも、つぶてを防ぎつつ、島を回る海流を読み切り逃げ切るのはかなり難しい。 「タイム!」 海流に流されて島の方へ巻き込まれ始めたホップを急いで立て直しつつ、優はセクタンを呼んだ。飛び出たセクタンが嬉しそうにはねるのに、 「狐火繰り!」 「う、わあっ」 放たれた眩い光で『荒波のグルッグ』がヘイブの操作を誤ったのだろう、2艘が絡み合うようにぶつかって向きを変える。すぐ後ろに迫っていた1艘が絡まった2艘と航路を外れた優のホップを抜いて、あっという間に島を回る。 「間に合うかっ……あ…っ」 急いで体勢を立て直した優は必死に追い始めたが、島の間近では海流が変わっていて、なかなか速度が出せない。ともすれば澱みに引き込まれてぐるぐる回るのを、必死に風を読み、帆に捉えてホップを操る。 「う、動けない…っ」 風が弱まり、岸へ見る見る引き寄せられていく。このままでは島に座礁しかねない……その時、切り立った崖が一カ所途切れた場所に、白いものが見えた。 「女神像だ…」 両手を組み、祈る姿で俯いている白い石像。風雨に晒され、長い髪が肩から跪いた地面にまで垂れていて、顔はよく見えない。流れがそこに吸い込まれているのだろう、みるみるホップが引き寄せられていって優は焦った。 「まずい!」 だが、その瞬間。 ふいと頭を掠めたのは出発前に歌われた歌詞。 「我ら、勇者……女神の下に……ひょっとして!」 あえてそちらにポップを向ける。勢いを増して近づいていくホップに鼓動が速まる。海流を読み、風を探る。きっと大切なポイントはただ一カ所のはず、歯を食い縛り、波に巻き込まれる恐怖に耐える。ホップは水に浮かぶ木の葉のようにどんどん女神像の真下に引き込まれていった。やがて。 「ああ……泣いてるんだ…」 そこまで入って気がついた。女神像は眉を寄せて泣いている。泣きながら何かを祈っている。その涙が落ちるポイント、そこで海水の色が僅かに変わる。 「っっっっっ!」 力の限りヘイブを跳ねた。風を断ち切るような無茶な動き、普通ならば推進力を失って倒れかねない状態、だが渦巻く海流がぐるりと舳先を外へ回す。突然吹き込んだ風が、優のホップを一気に沖合に放り出した。あっという間に速度を上げて、島から遠ざかっていく優の背中に、微かな啜り泣きが響いてくる。 「泣かないでくれ…」 女神が嘆くのは、聖なる海に欲望を持ち込む人の性。 「俺、勝つから」 正々堂々と、目の前を走るあいつを見事抜き去って見せる、だから。 「もう、泣かないでくれ」 きっと正面を見据えて、優は光の海を、より激しい閃光となって駆け抜ける。 「わああああっっっ!」 「優! 優!」 太助は跳ね飛び、歓声を上げた。 「次、俺!」 あわや同着と思われた最後の一瞬に港に飛び込んだ優の勝利に、誰もが興奮し、活気づく。その中で自分の青い帆のホップに駆け寄り、太助はその周囲に人が集まっているのに戸惑う。 「壊れてるんだ」 「えっ」 「今直してる」 「そんな、だって」 さっきまで大丈夫だったのに。 太助の困惑に怒りを浮かべた仲間が頷き、必死に作業を続ける。 「じゃあ、オレ様だな?」 マフがひんやりと嗤って緑の帆の船に乗り込んだ。 既に湾を周回している他のメンバーに冷ややかな視線を向ける。 「なかなか面白れェこと、してくれっじゃねェか?」 「お、おい、頼むぞ」 マフの殺気に気づいたバックが慌てるのに、肩を竦める。 「あー、魔術使えねーのはダリィが、これも勝利の美酒のためだ……っと」 マフは静かにホップで滑り出した。緩やかな旋回、一回、二回、三回。集まってくるホップがスタートへ辿りつき、白い旗が振り下ろされる。 「うわああああああ!」 「あ、あれ?」 息を切らしながら戻ってきた優が、首を傾げて湾を見る。 「どうしたんだ?」 「マフ! どうしたーっ!」 太助が声を上げる。 それもそのはず、次々と島へ向けて滑り出していくホップの中で1艘、緑の帆のホップがひどくゆっくりと全く離れた場所へ進んでいく。 「間違えた?」 「いや……あれは」 優がじっと海を眺めながら、大きく一つ頷いた。 「そうか、そういうことか」 「何? どういうこと?」 「おい」 ディスが驚いた顔でマルボを振り返る。 「あの流れを教えてたのか?」 「あ、いや、俺は教えてねえ」 「俺もだ」 「見つけたんだろ、あいつが」 首を振るブールにバックがつぶやいた。 「見ろ……加速するぞ」 「う…っわあああああ!」 太助が跳ねた。 「マフ! すごいぞ、マフ!」 残り3艘が見る見る島を回り込んでいく中、マフのホップは緩やかな海流に乗りながら、島からどんどん離れていたが、 「ここらか」 海の中を覗き込みつつ、気持ち良さそうにヘイブを揺らせていたマフは、耳に絡む潮風に目を細め、小さく息を吐いた。 「ぼちぼち行くかァ」 ゆらん、とホップが生き物のように身震いしたように見えた次の一瞬、ざぶん、と舳先で砕けた波が、まるでホップをひっくり返そうとでもするように盛り上がった。マフの爪でヘイブがまるでおもちゃのように操られる。盛り上がった波を待ち構えていたように乗り上がったホップが、次には深みに落ち込むように沈み、続いて弾けるように波を飛び出す。 「そォーらァ!」 空を飛び、波頭を渡り、見えない海流と風に押されて、マフはホップの速度を上げる。白い波を蹴立てて近寄るマフのホップに、先を行く3艘がうろたえたように走り出すが、あっという間に追いつかれる。 しかもマフはなぜか海の中を凝視しており、ヘイブを操りながら時折波を掻き分けるようにオールを海に突き刺して、目を凝らしている。 「あれは……」 実はその時、マフの目には、海底の揺らめく光の中におぼろに霞む奇妙な岩々が映っていた。海底を這い上がるように続く岩、何かの形を作るように寄り集まる塊。それらを追っていくと、彼方に見える切り立った岩が途切れた間に、白く光る小さな像。 「あれか? いや、ひょっとすると、こいつァ」 身を乗り出してなおも海の中を覗き込もうとしたマフの目の前を、突然速度を落としたホップの1艘が遮った。 「あンだテメェ、オレ様が気持ちよーく漕いでる時に邪魔しやがんな――よっ!」 とっさにヘイブを操って避ける、同時に突き出していたオールで目一杯相手のホップを突き放す。その船上で、にやにや笑いをしていた男が一転驚愕した顔で海に放り出された。同じように突っ込んできたもう1艘を、今度は自前の竜の尾で思いっきり弾き飛ばす。 「腕もねェのに邪魔しやがるからだ!」 「うわあああああっ」 「くっそおおおおおお!」 残った1艘は全速力で逃げにかかる。 「ちっ」 女神像に気を取られていたマフのホップが、ほんのわずか、鼻先の差でゴールが遅れた。 「おおおおおおおお!」 「最後か」 「最後だよな」 「……頑張れよ」 ぽん、とブールが太助の肩を叩く。どこか気の抜けた顔になっているのは、全ての勝負がかかっているのが太助だからか。 「どんな結果になっても、大丈夫だから」 「ちょっと」 まるで負けたような慰め顔の夫を、マンナが後ろから突く。 「頑張ってね、あたしは信じてるから」 「うん! とにかくかっとばすから!」 太助は気合い一発、額に肉球の紋章の入った鉢金を巻いた。唐草模様の余った布部分を閃かせ、青い帆のホップに乗り込む。 「おいおい、どこのガキンチョだ!」 「おむつ当てて、さっさと帰れ!」 最後のレースには荒くれ男ばかりだ。ごつい胸、ごつい腕、ごつい太腿。太助をからかう声も野太く容赦がない。 湾の中をゆっくりホップが回り出した。滑るように、踊るように、ゆったりと回るホップの中で、太助のホップはよたよたと危うく回る。 「太助…頑張れ」 優が祈る。 「海へ落っこちるなよ、タヌキ」 マフがつぶやく。 「頑張って、あんたならやれる」 マンナが繰り返し、心を決めたようにブールが叫んだ。 「我ら、勇者!」 「女神の下に!」 マルボが続けた。 「我ら、強者!」 「女神の前に!」 ディスが声を上げる。 「我ら、聖者!」 「めがみの、うえにーっ!」 太助が叫んでヘイブを引いた。 ホップが走り出す。白い旗が振られ、スタートラインを越え、白い波が砕け出し、荒れ始めたように見える海へ、翳り始めたように感じる光の中へ。青い帆のホップはすぐに残り3艘に囲まれて、団子状態で沖へと突進していく。 「太助ーーっ!」 優が堪えかねたように声を上げた。 太助のホップは周囲に追い回されていくようだ。島への巡回航路にも、教えられたラインを辿れない。振り回され、追い上げられ、絡まれ、それでも。 「……伸びてきた…?」 「ああ……伸びてきたぞ」 じりじりと、じりじりと、太助のホップが集団を抜け始めた。ホップの上で、小さな姿が踊るように跳ねている。翻る唐草模様の鉢巻き。ホップの動きがどんどん滑らかに鋭くなっていくのがはっきりわかる。 「タヌキーっ!」 マフの声に 「俺頑張ってるー!!」 太助が手を振り返すのさえ見えた。 「っ、抜けた!」 誰よりも速く、誰よりも鋭く、島の彼方から波の上を吹っ飛んでくるように、青い帆のホップが近づいてくる。 「あ、あああああ!」 「気をつけろ!」 その真後ろから、潰す覚悟満々で、1艘のホップが突っ込んできた。迫る、迫る、迫る、迫る、もう太助のホップの真後ろだ。 「太助ーっ!!」 おそらくは高台からも悲鳴と応援の声が沸き起こった。 「太助ええええっ!」 迫る迫る迫る、波が盛り上がり、太助のホップが波間に沈む、その上からのしかかる背後のホップ、だが。 「かっとばすっっっっ!」 甲高い声とともに、太助のホップが空中に舞い上がった。 青いホップの帆が雲を切った。光が溢れた。飛び散る水飛沫、煌めき弾け飛ぶ笑顔、額の鉢金の肉球が輝く。 「いちばんーーーーっっっっ!」 「や……ったああああああ!!!!」 大歓声の波に、太助は見事に舞い降りた。 「……そのカレーはやめたほーがいいですよー」 優が壮絶な顔で宴会の皿を示した。 「かなり来ます…」 「オレは酒で十分だ」 マフが杯を空けながら、 「それより、さっきあっちから聞いたんだが」 サポート側を指差した。 「女神、だろ?」 太助がむぐむぐと山盛りのお菓子をほうばりながら頷く。 「海の底から繋がってたんだろ」 最後にちらっと、顔を見たよ。 「俺が見たあれが、冠だったんだね」 優は懲りずに目新しい料理に手を伸ばす。 「だから、見える時、見えない時がある、か」 「……楽しんでくれてるか」 ディスが杯を手に近寄ってきた。 「女神像は見たか?」 「ええ、まあ」 「でっかかったぞ」 「なかなか豊満な女神様だな」 3人のことばに、ディスは頷き、杯を上げる。 「運命よ、我らを祝せ」 飲み干して、一人一人の顔を見下ろした。 「……実は、あんた達について、よくない噂も流れてる」 「……」 「けれど、俺達は、あんた達と一緒にレースしてみてわかった。あんた達が何ものであろうと、俺達を助けてくれたのは確かだ。だから」 この先何があろうと、俺達はずっとあんたの仲間だ。 「それだけは、覚えていてくれ」 ディスは改めて深く頭を下げ、新たな料理と酒を勧めた。
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