ひどく静かな惨劇だった。何もかも燃え上がり、壊れ落ちていく。そこで渦巻いている筈のもの――業火の雄叫び、哀願の泣き声、苦悶の呻き――は七十二人には届かない。彼らは飛行船の中にあり、窓越しに世界を俯瞰していた。寡黙で超然とした柱のように。 窓の外で惨劇が続く。いいや、柱たちにとっては惨くも恐ろしくもない。燃え落ちる紙屑に誰が心を動かそう? 「ああ、落ちたのかい」 ダンジャ・グイニは「いい天気だね」と話すような調子で言った。彼女は七十二人の中にいて、砂漠にまいた種のことを思い出していた。 「何をしている?」 迎えを待つ間、仲間の男がダンジャに問うた。ダンジャは玩具のようなジョウロを手にし、ミニチュアの虹を作り出しながら水を撒いていた。 「種をまいたんだよ」 「どういう意味だ。まさか、お前」 男の声色が変わる。ダンジャは眼鏡を直しながらからりと笑った。 「ただの花の種さ。平凡でちっぽけで、道端に咲いてるような」 乾いた風が黄ばんだ砂埃を巻き上げる。不毛の砂漠が地平線まで続いている。 「こんな所に花か」 「案外咲くかも知れないよ」 「無駄だな」 「希望は力になるものさね。事実、あたしたちは望みの一端を掴んだ」 男は無言で顎を引いた。 ダンジャは煙草に火をつけ、型紙を引くような手つきでジョウロを操った。水で描かれた図形はたちまち乾いて消えていく。手元にふと影が落ち、ダンジャは空を仰いだ。不思議な空模様だ。太陽が輝く蒼穹に鉛色の雲の欠片がこびりついている。 「遅いね。風でも出てなきゃいいが」 「任務に失敗したのかも知れない」 「失敗?」 ダンジャは男の憂鬱を笑い飛ばした。彼女の声はからっ風に似ていた。 「だったら何だっていうんだい。あたしたちは何度だってやり直せるんだ」 迎えはまだ来ない。 『博士団』。そんな存在を耳にしたのはいつだったろう。物質世界の外にある高階層意識とされる『博士団』の実在を本気にする者は少なかった。ダンジャ達を覗いては。 擦り切れるような時間と労力を経て『博士団』との接触がかない、『博士団』は一粒の種を彼らに下賜した。それをどう育て、咲かせるかはダンジャ達に委ねられた。 「踏み躙られるのはもう嫌だ。だから」 「懸命に足掻いて笑われるなんて馬鹿げてる。だから」 「世襲やコネでのさばる馬鹿にはうんざりだね。だから」 ――この世を、変えたい。 視界が暗くなる。影の投網を砂地に落とし、鯨のような飛行船が着陸した。ダンジャは携帯灰皿に煙草を押し付け、ジョウロの水を吐き切った。宝石の欠片のような雫が砂漠の上に虹をかける。 「時々ここに寄ってもいいかい。花を世話してやらないと」 「好きにしろ」 「ありがとう」 掌ほどの石を目印に残し、仲間の待つ飛行船に乗り込む。 途端にダンジャのおもてが険しくなった。飛行船は硝煙の臭気で浸され、談話室には襤褸雑巾のような女が横たわっている。 「どうしたんだい」 ダンジャが問うと、介抱をする仲間が暗い目を投げてよこした。 「内戦が勃発したんです」 「内戦」 ダンジャは鸚鵡返しに唱えた。目の前の女は大陸に渡り、独裁にあえぐ国家の改革に奮闘していたと聞いている。 「詳しいことは分かりませんが、国民の反発に遭ったとか……」 「一体どうして。だって彼女は」 「例えば、沼の濁りに慣れた魚を突然清流に放ったとしたら」 ダンジャと共に砂地にいた男が呻く。ダンジャは斜めに彼を振り返った。 「濁ったままの方がいいって言うのかい」 「変革には苦痛が伴う。彼らは目先の痛みに耐えられない」 「愚かだね」 「――そういう生き物だとしたら?」 疲弊した瞳がダンジャを凝視する。眼鏡の奥で、ダンジャは無言を貫いた。他の仲間たちも、また。 沈黙の緞帳が降りてくる。 「馬鹿馬鹿しい」 静寂を破ったのはダンジャだった。足音も高らかに虫の息の女を抱き上げる。力を失った彼女の体は丸太のように重い。しかしダンジャ達には種がある。 「もう一度頑張ろう。次に着るための服を仕立ててやるよ。いくらでも、何度でも」 腕の中の女を励ますように、あるいは己を鼓舞するように囁いた。 ダンジャは惜しみなく腕を振るった。仲間たちの身を包むとびきりの服を縫い上げ、共に戦い、走った。正義と公平、理想と秩序のために。 「ああ……今日も駄目か」 任務の合間に砂漠に赴いては淡い期待と小さな落胆を繰り返した。種は未だ芽吹かず、目印の石は砂に埋もれかけている。石を丹念に拭い、磨いてから水を与えるのが日課だった。 「いつまでやるつもりだ」 仲間の男は半ば呆れている。ダンジャはからりと笑った。 「芽が出るまでさ」 「その後は」 「葉が茂るまで。葉が増えたら花が咲くまで。花が咲いたら、種が実るまで」 「その後は」 からっ風が二人の間を吹きすさぶ。乱れる髪を直そうともせずダンジャはまた笑った。 「また種をまいて花を増やす。時々空想するんだ、ちっちゃな花でいっぱいの砂漠を。なかなか乙だろう?」 男は虚を突かれたように二、三度瞬きをし、そしてすぐに俯いた。 「美しいな。とても美しくて馬鹿馬鹿しい幻想だ」 「綺麗なものに惹かれるのが性で、業さ。……ババアの戯言と思いたいなら好きにおし。あたし達のやることに変わりはない」 からからの砂をジョウロの雨が慈しむ。 七十二人を呑んだ飛行船は箱舟のように雲海を漂った。死に、甦り、傷つき、立ち上がり、延々と似たようなことを繰り返しながら。 正義をもたらそうとした者は踏み躙られた。 公平を目指して足掻いた者は一笑され、顧みられなかった。 理想と秩序は世襲とコネの前で無力だった。 「さて、いつ芽が出るかな」 ダンジャは懲りずに砂漠に赴いた。ジョウロが煌めき、ミニチュアの虹が現れては消える。注がれた水はすぐに乾いて消えていく。呆気ないものだとダンジャは苦笑し、煙草に火をつけた。砂混じりの風が紫煙を引きちぎっていく。 相変わらずの、不毛と称するに相応しい砂漠だ。ダンジャは戯れに目を閉じてみた。そうすればこの地が花と緑で埋まるビジョンを幻視できるからだ。だが、閉じた瞼には真っ暗闇が広がるだけだった。 溜め息のように紫煙を吐き出し、目を開く。目の前が暗くなる。鯨のおくびのような風と共に飛行船が降りてくる。 「今日も時間切れか」 ダンジャは空っぽのジョウロを弄んだ。一回り小さくなった目印の石を砂の上に放り投げる。砂と、気の遠くなるような時間が石を目減りさせていた。 「芽が出るまで通う気だったけど、んん」 短くなった煙草を無造作に打ち捨て、砂漠を汚す。 「さすがにちょっと、ねえ」 目の前には乾いた砂と風だけが広がっていた。 「かみさま たすけて」 崩壊のただ中で誰かが乞う。名も無き人間は塵のように蹂躙されて失せていく。そう、七十二人に言わせればあくたと同義だ。愚かで卑しく矮小なモノ。七十二人は人間に絶望し、全て馬鹿馬鹿しくなった。 飛行船から降ってきた七十二の柱は人々にはどう見えただろう。神か。悪魔か。ドラスティックな変化をもたらすという意味ではどちらも似たようなものかも知れない。七十二人は次々と力を振るい、変革の大義の下に世界を蹂躙した。神の不在を証するために。あるいは神を呼ぶために。世界への復讐を叫ぶ者もいたし、自分が世界に支払った功績と努力の対価を貪る者もいた。正気を失った者も少なくなかった。 「うんざりさね」 ダンジャも出し惜しみはしなかった。邪魔者はファスナーで縫いつけ、封じ込めた。しかし人間は頑強に抵抗し、執拗に足掻いた。時にダンジャは不意打ちを食らい、血の海に沈み、焼き殺された。しかし次の日には何事もなかったように甦り、リッパーで世界を切り裂いた。糸を紡ぐように法を作り上げ、あらゆる悪徳を奨励した。七十二人は、政治も法も体制に都合の良いように存在するものであることを知っていた。 「馬鹿の戯言に貸す耳はない。受けた仕打ちを返すだけだ」 誰かが傲慢に言い放った。ダンジャは砂漠を思い出さなくなっていた。 残虐な蛮行――あらゆる独裁者や戦争が児戯に思えるような――は唐突に終結した。 大地が唐突に崩れたのだ。床が抜け落ちるように。七十二人はあっという間に、井戸のような暗闇に落ち込んだ。途端に何人かが嘔吐する。落下した筈なのに、肉体を苛むのは奇妙な浮上感なのだ。落ちているのか浮いているのかも分からない、まるで、この世の理の外側に放り出されたような心地がした。 「みんな。無事かい」 ダンジャの声が暗闇の底に響く。ぽつぽつと返事が上がるが、仲間の姿は見えない。ダンジャはぎょっとした。自分の手すら視認できないのだ。絶対的な暗闇の中に塗り込められたかのように。 『諸君。ごきげんよう』 声が降ってきた。ぼう、ぼうとそこここに光が灯り、仲間たちは押し殺した悲鳴を上げる。ダンジャの前にも柱状の光が現れた。『博士団』だ。 『諸君らはやりすぎた。よって拘束し、罰を与える』 「何だって」 ダンジャは声を荒らげた。光の柱は亡霊のようにはっきりしない。ふと、暗闇が密やかに震えた。『博士団』が笑ったのか。彼らがそんな人間臭いことをするのだろうか。 『よろしい。釈明は聞こう』 「踏み躙られるのはもう嫌だ。だから」 声が上がる。 「懸命に足掻いて笑われるなんて馬鹿げてる。だから」 次々と。種を下賜された時のように。 「世襲やコネでのさばる馬鹿にはうんざりだね。だから」 『だから?』 暗闇が嘲笑のように揺れた。 『それは諸君らの声であり、諸君らが蹂躙した者達の声である』 『こうしたから、こうされたからこうして良いなどとは』 『それこそ、諸君らが言う“馬鹿の戯言”』 ぱちん、と乾いた音が響く。指を鳴らす音に似ていた。 『諸君らも等しく人間である』 その声を最後に七十二人の意識は途絶えた。 次に気が付いた時、ダンジャは傷一つない姿で砂漠に立っていた。荒涼たる、不毛の地だった。 既視感を覚え、その場に膝をつく。砂の中から小石をすくい上げる。希望の標だったそれは砂礫と化し、淡雪のように掌中で散った。 地平線で何かが揺れている。ゆらゆらと、陽炎のように。ダンジャを手招きするように。 それは墓標に似ていた。いいや、人間の手足だ。七十二人が蹂躙した人々が砂地に突き立てられている。 湿った風が髪を嬲る。水の気配だった。視線を彷徨わせたダンジャは砂漠に茂る緑を見た。早回しのように背丈を増す木々は多雨林と化してダンジャを包囲する。濃密な緑の暗がりで猛獣の目がぎらついている。ダンジャは逃げた。どこかで仲間の悲鳴が上がる。七十二人は、蘇った世界に世界に打ち捨てられたのだ。 猛獣の爪がダンジャの背中を引き裂く。どうにか密林を抜けると容赦のない太陽が傷を焼いた。一面の不毛。陽炎のように揺れながら迫りくる人間の列。彼らはあらゆる凶器を手にゆらゆらとダンジャを取り囲む。 「あんた達――」 「受けた仕打ちを返すだけだ」 ダンジャの腕が吹っ飛び、墓標のように突き立った。 『博士団』がもたらした種の名は永遠の命という。細胞一片からでもたやすく蘇ることができる。よって七十二人は延々と殺され続けた。荒野の獣に。過酷な自然に。嘲笑った者どもに。無論抗いはしたが、特殊能力の他に何も持たぬ身では結果は知れていた。 「かみさま たすけて」 誰かが言う。殺した者たちの多くが乞うたように。 ダンジャは砂漠にまいた種のことを考えていた。花の姿を空想する前に心臓を抉られ、思考が途絶える。しかし翌日には蘇ってまた同じことを考えた。かつて踏み躙った世界に殺され、荒れ地に血の花を撒き散らしながら、ちっぽけな花を思い続けた。 (了)
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