ターミナルの一画に、『ジ・グローブ』という小さな看板のかかった店がある。 気まぐれに開いたり閉まったりしていて営業時間は判然としない。いつ行っても店には誰もおらず、ただ机の上に白黒のまだらの猫が眠っているだけだ。 猫を起こさぬように呼び鈴を鳴らせば、ようやく奥から店の女主人が姿を見せるだろう。 彼女がリリイ・ハムレット――「仕立屋リリイ」と呼ばれる女だ。 彼女はターミナルの住人の注文を受けて望みの服を仕立てる。驚異的な仕事の速さで、あっという間につくってしまうし、デザインを彼女に任せても必ず趣味のいい、着るものにふさわしいものを仕上げてくれる。ターミナルに暮らす人々にとって、なつかしい故郷の世界を思わせる服や、世界図書館の依頼で赴く異世界に溶け込むための服をつくってくれるリリイの店は、今やなくてはならないものになっていた。 そして、その日も、リリイの店に新たな客が訪れる。 新しい注文か、あるいは、仕上がりを受け取りに来たのだろう。 白黒のまだらの猫――リリイの飼猫・オセロが眠そうに薄目で客を見た。●ご案内このソロシナリオは、参加PCさんがリリイに服を発注したというシチュエーションで、ノベルでは「服が仕立て上がったという連絡を受けて店に行き、試着してみた場面」が描写されます。リリイは完璧にイメージどおりの服を仕立ててくれたはずです。このソロシナリオに参加する方は、プレイングで、・依頼した服はどんなものか・試着してみた反応や感想を必ず書いて下さい。!注意!魔法的な特殊な効能のある服をつくることはできません。
ある日の昼下がり。 『ジ・グローブ』の店主は早々に店を閉めようと扉を開けたところで、眼前に立つ男に気づいた。 男は桶を手に佇んでいる。 ターミナルではあまり見かけない、古めかしい木製の桶だ。 桶の用途にふさわしく、水をたたえている。 乱反射した光が男の顔を照らし、彼はまぶしそうに目を細めた。 しかし、声の調子は少しも動じることなく。 「浴衣を、頼みたい」 ゆっくりと口をひらいた。 客である、ということがわかれば、店主として取るべき態度は決まっている。 仕立屋の女主人はいつもと変わらぬ微笑を浮かべると、 「いらっしゃいませ、お客さま。ちょうどテラスで一息入れようと思っていたの。ご依頼は中で、お茶を飲みながらうかがいましょう」 「ここは、仕立て屋と聞いてきたのだが」 表情に大きな動きこそないものの、男の声には、わずかな疑惑の色がみえた。 年の頃はいくつなのだろう。 片眉をもちあげた様子は、どこかあどけなくも見える。 「あら。仕立屋はお茶を出さないなんて、そんな決まり事でもあるのかしら?」 店主はからかうように返し、扉を開けはなって客を手招いた。 男は手にした桶を抱き寄せ、しばし、その場に留まっている。 「……どうかしまして?」 不思議そうに問いかける女店主に、男が「いや」とつぶやく。 招かれるまま扉をくぐる。 店主とすれ違う際には、できるだけ、翠のドレスからのぞく脚が見えぬようにと、視界の端へ追いやるよう努めた。 その仕立屋には小さなテラスがある。 中庭とおぼしきそこには、白の丸テーブルに、そろいの椅子が据えられている。 テーブルまわりの芝生だけ、見目良く整えられているようだ。 周囲はというと、色とりどりの名も知らぬ花が咲き乱れていた。 「緑と、色に満ちている」 それと、光と。 まるで秘密の花園といった風情だが、リリイの飼い猫・オセロは出入り自由であるらしい。 主の姿をみてとり、いつのまにか姿を見せると、知らぬ客を前に威風堂々、テーブルの片隅を陣取った。 「リラックスしたいとき、気分転換をしたいときは、こうしてここでお茶をいただくの」 雪深終と名乗った客を椅子につかせ、壱番世界から取り寄せた緑茶をさしだす。 終は大事そうに抱えていた桶をテーブルの中央に置くと、小さく頭をさげて湯飲みに手を伸ばす。 一瞬触れて、すばやく指を引っ込めた。 爪先で弾くように遠ざける。 しばらく飲めそうにない。 「紅茶やコーヒーの方が良かったかしら?」 終の正面に腰掛けたリリイが、様子を見かねてたずねた。 終は小さくかぶりを振ると、 「少し置けば、飲める。問題ない」 短く応え、構わずに茶を楽しむよう勧める。 「それなら遠慮なく」 女主人は人好きのする笑顔を浮かべて、香り立つティーカップに口をつけた。 女の顔が湯気にかすむ。 見ているだけで、舌がただれそうだと思う。 思うだけで、口には出さない。 熱は、かの暑い季節を連想させる。 肌を焼く黄金の光。 照り返す大地。 はるかな青空。 わきあがる入道雲。 たちのぼる陽炎。 のぼせるほどの熱気をはらむ。 あの空気に、いつもめまいさえ覚えて――。 ぱしゃん。 水が跳ねた。 白と黒の毛皮をまとった猫が、終の桶に前足を差し入れている。 壱番世界の季節を思い出していた。 あのうだるような熱の季節は、0世界を訪れることはない。 「だめよ、オセロ」 たしなめるリリイの声に、意識を引きもどされる。 主の表情をうかがい、猫はにゃーんとひとこえ鳴いた。 さいわい、オセロの散らした水はリリイと終を避けて飛んでいる。 用意していた布巾でテーブルの水滴をぬぐい去ると、リリイが思い出したように問いかけた。 「そういえば、この桶はなにかしら?」 衣装の依頼に訪れた者で、桶を携えてやってきた者は初めてだ。 腕利きと賞される女店主にさえ、その意図は図りかねる。 桶の内には水がたたえられていた。 水は猫の手によって乱され、今なお波打ち、ゆらめいていている。 「水底は、こうして覗きこめば、たやすく見ることができる」 波が形を変えるたび、水面はきらきらと光を放ち、リリイはその輝きに眼をそばめた。 桶の中には白肌の石。 透けるように鮮やかな、碧い水草。 オセロも桶のそばに座って、今度は物珍しそうに桶の中を覗きこんでいる。 飲み水でないなら何であるのか。 猫の頭ではとうてい考えの及ばないところであった。 「けれど光の境界が、ときおり、俺と水底の世界をへだてる」 陽光が跳ね返る度に、水面は白く輝き、底の様子を隠した。 「中身を隠すように、どこか遠くへやってしまうのだ」と、つぶやく。 「こんな柄が良い」 水面を示しながら、仕立屋の主人を見やる。 リリイはしばらく桶を覗きこんでいたが、やがてふうと息を吐き、顔をあげて姿勢を正した。 「わかったわ」 したり顔の女店主の様子を、いぶかしむ。 リリイはくすりと笑うと、 「貴方、詩人なのね」 短く言い放った。 「……」 一抹の不安。 リリイはティーカップに残っていた紅茶を飲み干し、眉をひそめる。 「どうかしたのか」 依頼のことはひとまずおいて、声をかける。 「話に夢中になりすぎたわ」 問いかけられ、リリイは肩をすくめた。 「すっかりお茶が冷めてしまった」 言われて、終は湯飲みに手を伸ばした。 そっと触れ、何度か指先で撫でた後、手のひらに包み込む。 迷わず口元に引き寄せた。 「美味い」 飲み終えると、緑茶の香りがほのかに漂った。 数日の後。 「どうかしら?」 仕立てあがった浴衣に袖を通し、終は仕立屋の大鏡の前に立っていた。 白の麻生地に、水彩をにじませたような藍色で流水が描かれている。 裾には、碧の水草が無造作にならぶ。 肩からの上前には、灰とも銀ともつかない色が、茫洋とした模様を描きだしていた。 全体として抽象的な柄ではあったが、ぼんやりとした輪郭の模様が、水底の世界を垣間見ているようでもある。 「素材は、麻にしてみたの」 張りのある麻は肌と生地とのすきまに風を呼びこみ、そのひやりとした空気が心地良さを生む。 肌触りは和紙を思わせた。 凜としたたたずまいを見せながら、撫でればざらりと存在を主張する。 それは、『和』の持つ独特の美意識であるのかもしれない。 終は「可」とも「不可」とも告げることもなく、荷物の中から仕立ての代金を差しだした。 着の身着の羽織りにストールをまとい、足許はブーツだが、さして気にする様子もない。 「きっと……これは冬の空気にも似ている。夏を扱っていながら、どこか冬にも通じていて」 その言葉が何を意味するかは、リリイにもうかがい知ることができた。 冬を想起させる。だから安心感があるのだ、と終は告げた。 背を向け、来た時と同じように扉をくぐる。 その足下に、オセロがすり寄ってきた。 「また別の季節を感じたくなったら、世話になる」 軽く背を曲げて頭を撫でてやると、猫は心地よさそうに喉を鳴らしてしっぽを振った。 帰途につきながら思いかえす。 かの熱の季節。 肌を焼く黄金の光。 照り返す大地。 はるかな青空。 わきあがる入道雲。 たちのぼる陽炎。 のぼせるほどの熱気をはらむ。 あの空気に、いつもめまいさえ覚えて――。 やがて訪れる。 夏を待ちわびている。 了
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