『一里塚』は、しだりがしつらえたチェンバーだ。 緑濃い樹々の間を、鳥の囀りを聞きながら、枝分かれする細い道を歩めば、どこからか小川のせせらぎが聴こえる。 水の匂いに導かれていくと、目の前に小さな庵が現れる。 降り注ぐのは真夏の苛烈な陽射しではなく、初夏を思わせる爽やかで清冽な光。それでも、苔むした石灯籠や縁側の影がくっきりと足下に落ちる。 いつもなら座敷に卓が用意され、煎餅や金平糖などの茶菓を載せた盆に、寒ければ温かなほうじ茶や煎茶が、暑ければ冷えた麦茶が用意されているのだが、今は縁側にゆったりと大きくとぐろを巻いたアコル・エツケート・サルマが、その側にどこか甘えるように寄り添ったしだりの姿もあった。「……アコル、暑すぎない?」「むほほ、まあそれも楽しみじゃよ」 年中同じ気候ばかりでは、血の巡りが悪くなってしまうわい。 齢千年を軽く越えているように見える蛇竜の妖術師は、前翼の周囲を回っている純白の【八手珠】の一つに冷茶を持ってこさせて、満足そうに啜る。「こうして冷えた茶を飲む楽しみ、或いはまた暑い中で熱い茶を啜るのも格別じゃ」 不思議なことじゃの、齢を重ねるに従って楽しみの幅も広がるばかりじゃ、と楽しそうな老翁を見上げながら、しだりは少し首を傾げる。「何じゃ? 何か聞きたいことでもあるのかの」「……長く生きると…別れも増える」 しだりはゆっくり瞬いて、自分の鱗に弾ける光を追う。「……アコルは、好きになった人間と別れることは辛くないの?」「ほほう」 しだりの視線の先を眺め、それから再び幼い龍神を見下ろし、「何とな、大事だと思う人間ができたのじゃな」 どこか、からかう響きもあるが、しだりは苛立たない。 もう一度アコルを見上げ、真摯な口調で問いかける。「……アコルは、どういうことがあって、人間を好きになったの?」「ふうむ」 アコルは静かに茶を啜る。 それきりしばらく会話は途切れた。 遠いところで鳴いていた鳥が、鳴き交わしながら近づいてきたかと思うと、軒先に姿を見せる。 一羽が庭に、一羽が石灯籠に、お互いがお互いを呼ぶように交互に鳴き、ぱっと羽ばたいては場所を変えつつ、それでもつかず離れずにいたものが、何に驚いたのだろう、片方がふいに高く飛び上がった。「……」 じっと見つめるしだりの前で、残された鳥は忙しく庭を飛び回っていたが、やがて一羽が消えた空へ羽ばたき消えていく。「……縁があって出逢い、好ましいと思って縁を紡ぎ、いずれは再び別の縁に導かれる」 しだりはそういうものだと思っていたのだけど。「……命と同じように」 回り回る巡り巡る大きな円環の中に、共に回り続ければ良いと思っていたのだけれど。「別れが辛いかも知れないと思うのじゃな?」 アコルが優しく問いかける。「……」 しだりは空を見上げた。 鳥はもう、どこにも見えない。=========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>しだり(cryn4240)アコル・エツケート・サルマ(crwh1376)=========
「…何から話せばいいじゃろうのぉ…」 アコルは飛び去った鳥の行方を探すように空を見上げたままのしだりを、優しく見下ろす。 金の瞳が光を受けてきらきらと輝いている。青い鱗はまだつやつやと美しい。 まだ若い龍だ。いや、まだ幼い龍だ。 ようやく命の長さに気づき始めた同族に、さて何を語れることやら。 色々と教えてやらねばのぉ、そう思いつつも、とりあえずはしたいようにさせてやろうかのぉ、そう思っているが、本当は、教えられることなどないとわかっている。 「……そう、確かそれは、行き倒れておった時じゃ。物好きの人間が、蛇竜を介抱したんじゃよ。霊が視えたことに惹かれたのかもしれんのぉ」 遥か彼方の昔のことだ。それでも、鮮明に覚えているのは、覗き込んだ相手の眩い瞳のせいであっただろうか、ちょうど今のしだりのように。 「人は食えないし、襲ったら集団で殺される生き物という認識じゃったが。介抱されて認識が変わったんじゃよな」 しだりがゆっくりと目を動かした。アコルの顔を見上げてくる。 「始めは食住に困らない程度の認識じゃったが、やがて彼女のことばかり考えていることに気付いた。むほほ、いつの間になんじゃろうなぁ」 気持ちは不思議だ。どの瞬間から『好き』の範疇に心が滑り込んでいくのか。瞳からか指先からか、それとも触れたことからかや救われたことからか、あるいは好意を一身に受けたからか。 「ま、つまり好きになるのに理由なぞないんじゃ! 好きなら好きでええではないか!」 思い出した甘酸っぱさに急に気恥ずかしさが広がる。こんな歳になったというのに。突き放して放り投げたことばを、しだりは空を飛び離れた鳥の行方を追うように、じっと噛み締める顔だ。 …好きになるのに理由はない、か。 ……今は少し分る気がする。 促した視線に気づいたのだろう、アコルは小さく溜め息をついた。時に酷薄な色に変わる黄金の目が細められると、そこにひやりとするような沈思が満ちる。 「別れはのぉ……もう、わかっておったよ」 寿命の差は免れぬでのぉ。 「老衰して死ぬのを看取ったよ」 静かに優しく続いたことばに、しだりは密かに胸で頷く。 そうだ、その別離はしだりも予想している、考えている、つい先日も。 人の命は無法に断たれずとも短い。しだりよりもうんと遥かに。しだりにすれば、時に数日間しかもたぬような感覚をもたらすほどに。 それは、花々が種から育ち開花するその時間を、樹々の成長する時間で量るようなもの。すぐ側にいても、いやすぐ側でいるからこそ、自分には感じらぬ時間の流れが、相手の命を刻一刻と削り取っていくのが見える、もちろん、今のしだりにも。 「それから狂気のままに妖術を身に付け、編み出した。死体漁りも、死体作りもした」 「……」 無法に断たれなければ諦められるのか。いや、それでも、失うことは、同じ。 「彼女さえ、と。幾千もの罪と時間をかけて、奇跡的に魂を降ろせたんじゃよ」 思わずしだりはアコルの目を覗き込んだ。 それがどういうことなのか、わからぬはずがあるまい。ましてや、アコルほど長く生きていたならば、それがどんな結果を導くのか、わかっていなかったはずがない。 アコルは目を逸らさなかった。微笑みの気配さえ漂わせて、静かに続けた。 「もうやめて、と泣かれた。ワシの目を覚ますために転生せず、魂が消えつつあったのに、降ろされる時をずっと待っておったんじゃ」 「…………」 ふるり、と無意識に体が震えた。その結末は予想がつく。 「……直ぐに、彼女の魂は霧散したよ」 「…」 「大号泣したとも、ワシが、彼女を永遠に殺してしまった」 物知りだけどダラしないお爺さん。ずっとそんな印象だったが、その瞬間、アコルの姿が数千年の時を一気に戻ったように見えた。若くて愚かで無知で、押さえ切れない熱だけが体の中に満ちあふれている青年龍。他の誰が失敗しても、自分だけは失敗するはずがないと信じ、確かにその才能は奇跡を生み出したのだけど、天の摂理は遥かな高みに厳然としてあった。 そこに届かなかった自分を目の当たりにして、その代償を二度と失うまいと思った相手の消滅という形で支払って、茫然と竦む姿が、見えた。 …それは禁忌。それを侵せば大きな代償を迫られる。 ……因果応報、言葉にするなら簡単。 竦むアコルを彼女は恨んだろうか? いや、恨むぐらいなら、きっと待ってなどいなかっただろう。 「…その人は本当にアコルを想っていたんだね。自分の全てを対価にアコルを正気に戻したんだ」 「…じゃろうかのぉ…」 答えをきっとアコルは知っている。 だがそれを、しだりの思考に任せるようにそっと放り出してくる。 その柔らかさに引き出されるように、心がことばに零れた。 「…そこまで想い想われる関係は羨ましいな」 「けど、それでいいんじゃよ」 そうアコルが続けると、黙考に浸っていたしだりは、意外そうに目を見開いた。 「生き物は、誰しも間違いを犯す。大事なのはそれに気が付き、後に活かすことじゃ」 幼い龍は小首を傾げたように瞬きした。 「それに、彼女がいたという記憶は、死んでおらぬ。誰の記憶からもいなくなった時、生き物は本当の死を迎えるんじゃ」 ちちちっ、とどこかで鳥が鳴く。再び舞い戻って来たのだろうか。 思わず空を見上げると、心の底の小さな箱に、そっと沈めていた切なさが甦ってくるような気がした。 若かったのじゃろう、なあ、アコル・エツケート・サルマよ? 記憶などでは納得しておらぬ、ああそれもちゃあんとわかっておるよ。 本当ならば、彼女と再び暮らしたかった。この手で触れ、この体で寄り添い、また同じ時を、いやずっとずっと一緒にいたかった。 その通りじゃ、アコル。お前が本当に、本当に、どれほどそれを望んでいたか、ワシは今でもちゃあんと覚えておるよ。 老いた自分に重なる若き日の自分を感じる。側に寄り添う幼い龍が、自分そっくりだとはとても思えぬけれど、それでも今、胸に抱えようとして抱え損ねている煩悶が、どれほど身の内側を炙るものかはよくわかる。 「そう考えるようになってからは、まぁ、多少は辛いが……別れは、必然じゃから、なぁ……。仕方ないんじゃよ……」 「…違うよ」 黙って一緒に鳥の行方を探しているのかと思っていたしだりが、ぽつりと口を開いて見下ろした。 「それだけではない。アコルの言う通りなら、その人はアコルと一緒に生きて一緒に死ぬ。今度は寿命の差はないね」 しっかりとアコルを見上げていたしだりが言い放って、ぱしり、と体の中に電流が走ったような気がした。 しだりは、アコルに与えた衝撃に気づいていないようだ。 「…どれほど時を過ごしても別離の辛さは感じるものなんだね」 自分の中に次々生まれてくる見解を、どうしても口に出さずにはおられぬように、雄弁になる。 「……何者にも等しく訪れるのならば受け容れる。それは歪めれば悲劇を起こす」 無情ともとれることばの繋がり、アコルを糾弾しているようにも取れるそれを、しだりは淡々と口にしている。 なるほど、のぉ。 まっすぐできららかな瞳。 「…喜ばしき出会いなら別れも祝福したい。そう思うのに」 たじろがずにアコルを見上げて言い募る声に、感情が封じられているしだりの中で動き始めた嵐を見て取る。 「…アコルは凄いね。心を狂わす嘆きを知り、なおそう受け入れている」 ちちちち、ちちちち。 空で鳥が何度も鳴き交わす。 さっきまでそれを見上げていたのに。 さっきまでそれを追っていたのに。 「…しだりは知っているだけ」 なぜ、しだりは、今はそれを追わないのだろう、あの鳥達は出逢えたのかと。あの鳥達はどこへ行くのかと。 なるほどのぉ。 そうしてアコルは、その鳥達をもう追いかけることができるのだ、出逢おうとも、離れていこうとも。 それこそ、時間がくれた、ささやかな力。 「……ほ?」 ふいにしだりが姿を変えた。龍から人に、両腕を開いてアコルの頭部を抱え込む。 「…この姿の方が抱き締めやすい」 言い訳のようにも響く小さな声。 「……よしよし。辛さや寂しさが変わらないなら、アコルもこうすれば少しは落ち着く?」 それは、昔よく見たことのある、人が自らを慰めるために人形を抱く仕草にも似て。 「なるほどのぉ……」 可愛い孫にいたわられるのもまた、それなりに度量のいることだ。 アコルは大人しくしだりに抱きかかえられている。 …ありがとう。しだりはきっと以前のように心を狂わさない。 …こうして話せる相手がいるから。 本当はしだりはわかっている。 胸の中に渦巻いたものを『ことば』にできたことに。 あの時は、できなかった。 だから、あそこまで進んでしまった。 「…もしアコルが話したい時、しだりでよければ話を聞くよ」 同じことばが、耳の奥で響いている、しだりではない、別の誰かの静かな声で。 寄せた頬にひんやりとしたアコルの肌、こんなふうに触れることも、きっと今までならできなかった。 心の中で、その人のことも抱き締める。 まだ、すぐには無理だけど。 もう、まもなくはできるだろうから。 「…え?」 もごもごと腕の中から声が響いて、瞬きして目を開き、そっとアコルを覗き込んだ。 悪戯っぽい楽しげな目、若々しい生気に満ちた顔で、アコルはしだりを見上げる。 「まぁ、今じゃ綺麗ならば老若男女問わず交わりたいんじゃがな、むほほー!」 「……それだと、怒られても自業自得だね」 目を閉じて、再びアコルを抱き締めた。 頬が緩む。 背後で鳥が鳴き交わす。 繰り返し、繰り返し、遠く近く誘うように。 行こう行こうと呼びかける。 ああ行こう。 扉はもう、開いている。
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