「…!」 名前を呼ばれたような気もしたが、あり得ないので無視した。 海嶺府直属軍、海嶺七七五八幕僚監部対CANCER部隊所属、特務曹長、碧は現在、任務を帯びて疾走している。 薄暗い空間だ。さっきまで頭上に広がっていた空も、静かに凪いでいた海も消え失せた。何かの生物の肚の中のようにも思えるが、それにしては広すぎる。だが、四方を見渡す視界には、乾きの地で確認されているようなひょろひょろとした草木もなく、ぬめぬめとした奇妙な壁がそそり立って頭上を覆い尽くしている。 右前方からむくむくと湧き出た赤黒い肉塊、信じられない速度で育ち、あっという間に牙を備えた巨大なあぎとを開いて飛びかかってくる。 「待てっ!」 ああ、うるさい。碧の相棒兼上司、ついでに監視役でもあるヒト、この男は時々こんな風に執拗に碧の行動を規制したがる。 「黙ってろ」 聞こえるはずもない呟きだが返答はした。何せ状況は最悪だ。 疾駆していた地面を蹴り、飛び上がった碧の体は軽々と宙を舞う、さながら深海の中を泳ぎ進む『父』達のように。第十二肋骨の変形たる翅が空中を叩くように僅かに開く、飛行は幻影だが、跳躍力と瞬発力はヒトの視覚には飛ぶかのような錯覚を起こす。絶妙のバランス感覚、繰り出される拳は数瞬の間にあぎとと牙を乱打粉砕し、元の萎れた肉塊に叩き戻す。 「どこだ、ここは」 「止めろ!」 自分の舌打ちと相棒の声が重なったのを聞こえぬ振りで、正面から突っ込んで来たおよそヒトの数倍の直径がある異物を迎え撃つ。 「碧!」 ああ、やっぱり呼ばれてたのか。 心配げな苛立たしげなその声を背中に、碧は微かに唇の片端を上げる。もちろん、止まる気などない。上司だからと言って碧を制止できるなどと思ってもらっては困る。 がばああっ、と開いた口でばくりと丸呑みされたが、そんなもの子ども騙しの脅し絵でさえない。背後で閉じられた牙の向こうに一瞬顔を引き攣らせた相手を見やり、その不安に応えるべく一瞬溜めた気合いもろとも、周囲の肉壁を拳で撃ち抜いていく。弾力があり重量があり、厚さも十分な壁だったが、碧が拳を振るい蹴散らしていくならば、海底にそよぐ草よりもか弱く脆く、無数の破片となって飛び散っていく。 碧の視界を塞いでいた肉壁が気持ちよく雲散霧消すると同時に、目の前に突進してきていた相手にいきなり胸元を掴み上げられ、ちょっと驚いた。 「お前は、俺の話を聞け!」 「緋温」 真正面から睨みつける赤い瞳、見開いた碧の瞳の凝視に一瞬怯んだかのように見えたが、次にはより険しい顔で無茶をするんじゃない、と詰られる。 「いいのか、そんなことで」 「何っ」 「現場はまだ先だ。状況の改善は見られない。一刻を争う事態だ、急げと言ったはずだが」 「言った」 「この空間が何なのか不明だ。かなりの距離を進んできているはずだが、一向に空間から出られる気配がない。こんなところで得体の知れない化物どもに大人しく喰われてやってもいいという寛容さはどこから来ている」 「っ、俺はお前を心配してるんだ!」 「それは」 ふ、っと緋温の手から力が抜けた。すとんと地面に落とされながら、碧は緋温が使い慣れた銃を抜き放つのを横目に、すれ違うように地面を蹴り、緋温の背後に迫っていた粘液滴る赤黒くのたうつ口の前に飛び出す。 「私も同じだ」 呟きは緋温には聞こえなかっただろう。碧が目の前の敵に飛びかかると同時に、背中で立て続けに銃声が響く。 互いの背中に迫っていた敵を、互いに仕留め合って振り返った視界、銃撃に撃ち抜かれ散らされた異生物の彼方に、見慣れた空があった。 こんな生物が居たのか。 碧は感慨とともに緋温の背後に転がった巨大な肉の山を見上げる。 いつからこの生き物の中に呑み込まれていたのだろう。近道に見えたあの細道か。それとも岩の狭隘を進んでいるつもりで、既に喉頸を踏み込んでいたのか。 脳裏を掠めたのは深海をゆったりと泳ぐ『父』の姿。 海にはもっと巨大なものがいた。陸地を歩むことに縛られぬ世界では、漂うような薄膜の生き物であっても、広々と体を伸ばして生きていける。 ヒトの住まう陸地で巨大化するためには、これほどの重圧を与える体でなくてはならない。それはヒトの在り方そのものにも思える。他を圧し、喰らい、貪る。 「了解、これより帰投する」 連絡を終えた緋温は小さく溜め息をつく。 「上がり損ねたな」 「…」 碧の視線を感じてはいるだろうが、素知らぬ顔で緋温は戻るぞ、と声をかけてくる。 ヒト。 『父』達を建築資材として扱い、『母』達をどこへとも知らぬ場所に幽閉し、碧ら『戦士』達を自らの繁栄と領域の拡大保持に使い捨てる種。 共に生きたいと願う相手ではない、むしろ、同じ天の下で命永らえていることだけでも苦痛なのに。 『生き残れ。但し、弱きを守れ』 『父』の声が耳から消えない。吹き出す血に塗れながら笑う顔が脳裏から薄れない。そして、傷みだけを糧に生きて来た碧を隣に、ヒトである緋温は無防備な顔を晒す。 「どうした」 振り返る顔に碧は問いかける。 「なぜ、側に置く」 「そんなに手強かったか」 苦笑する緋温は、今の敵に、碧が自分の能力を疑ったのかと尋ねている。 「危なかったのはおまえだろう」 冗談じゃない、と言い返す。 「お前はもう少しできるヤツだと思ってたぞ」 作戦遂行までに脱出出来なかったのは痛手だ、昇進し損ねたと付け加えられ、むっとした。 「おまえの昇進を任された覚えはない」 「お前がいれば、できる」 あっさりと言い放たれて、瞬きした。 緋温は特別なことを言ったという顔はしていない。いつも通り平然としていて、いつも通り不敵な笑みが唇の端に漂っているだけだ。 「想像したことはないか」 「何を」 「『綺麗な翅だな』」 「っっ」 ふいに視線を落とされ、囁くように呟かれ、ことばを失う。被膜の張った伸びた翅が緋温の視線でじりりと焦がされたような気がした。たとえそんなことがあったとしても、一瞬にして治癒し回復するはずの体、だがその灼けついたような感覚が消えなくて思わず立ち止まる。 「何を言う」 「だから、おまえに向かって、そういうことが普通に言える世界になることを、想像したことはないか」 見返す緋温の目は揺らがない。 「貶めるのではなく、からかうのでもなく、ただ綺麗なものを綺麗だと言える、そういう世界を」 「……」 「俺はそういう世界が欲しい」 くるり、と緋温は顔を背けた。精悍な横顔は厳しかった。 「……ヒトだぞ」 無茶なのはお前じゃないのか。 ヒトと碧達がどれほど深い海溝に遮られているのか、わからない緋温ではないだろう。『父』が変容し、『母』が命を生み出して落ちていく、あの海溝よりも深く暗い谷が、両種族の間には厳然としてある。 「碧」 「何だ」 「生き残るぞ」 「っ」 そのことばを緋温は知っているのだろうか。 いや、知っているとは思えない。話したこともない。 だが、緋温は繰り返す。 「俺達は生き残るぞ」 「…どういう意味だ」 「…俺は」 振り返った緋温が眩しげな目をした、その次の瞬間。 空が割れた。 耳を聾する大音響、翅が引き裂かれるような衝撃、飛び込む情報量は感覚の許容域をあっさり越える。意識の空白に僅かに閃くのは、体を丸めつつ、それでも碧に手を伸ばそうとした緋温の姿、そして空をひび割れさせて駆ける巨大な光輝。 体がもみくちゃにされて吹っ飛ぶ、千切れ裂かれる体が次々と再生を繰り返す、とっさに頭を抱えて首を守ったのは、緋温の声が命じたからか。 『俺達は生き残るぞ』 ああもちろん私はできる。だがおまえは可能なのか。これほど高速で立て続けにあらゆる箇所で体を再生しなくては持ちこたえられないほどの衝撃に、緋温、おまえは本当に『生き残る』ことができるのか。 いや、『生き残る』と言った。 おまえはそう言ったんだ。 ヒトめ。 ヒトめ。 脆くて儚いヒトめ。 同じ世界に生きていること自体が疎ましいヒトめ。 永遠に碧達の敵でしかない、ヒトめ。 だが、これほど憎いのも、同じ世界に居るからこそ。 けれどもう。 一緒の世界には居られないんだ。 寒気のする確信。 意識を失う直前、碧は微かに歯を食いしばった。
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