「ぎゃああああっ」 喉を引き裂くような悲鳴。 別にインヤンガイでは珍しいことではない。特に花街で色を売ることさえできない男女が春をひさぐスラム街の路地裏では、商売以前に、目つきが気に入らなかった、声が不快だった、あげくにちょっと気分が乗らなかったという理由で殺される者が大半だ。 そのスラム街でも、探偵ラオ・シェンロンの仕事はある。ゆりかごから墓場まで、老人の請け負い範囲は広い、特に子どもが関わっている場合は。「…さて、あれはお前さんの母親じゃったのかな」 ラオはゆっくりと振り向き、背後の光景から遮るように覆い被さり、目の前の少女に尋ねた。 路地の隅で血の海に息絶えている屍体には粗末な布が被せられている。はみ出ている手足は数cm幅に切り裂かれている。中心部は押して知るべし、顔もご自慢だった体も、既に秤にかける方が早い。 ことさら物扱いしたのは、肩までの黒髪を乱し、茫然と灰色の瞳を見開いている少女から、母親の死という状況から切り離す意図だ。聞き込んだ限りは、周辺住民は何も見ていないし、聞いていない。殺害現場を見ているのは少女のみだ。情報を得るためには、波立つ感情を煽らない方がいい。「お前さんの名は?」「……っ」 少女は口を開くがことばが出ない。何度も話そうとするが駄目だ。必死にことばを紡ごうとするが果たせず、やがて身悶えして泣き出し始めた。「ああ、ああ、わかった……ん?」 おそらくは母親殺害のショックで話せなくなってしまったのだろう。泣きじゃくる少女を抱きかかえて宥めていたラオは、掌の違和感に少女の手足を改める。「……ふむ」 少女のやせこけた細い手足には殴打によると思われる無数の内出血と、焼けた金属の棒を押し当てられたような火傷の跡があった。破れた衣服の隙間から見える背中、腹のあたりにも。「これをやったのは、お前さんの母親かね」「…!!…!」「よしよし、もう泣かなくてもいい」 何があったにせよ、もう終わったんじゃよ。 ラオのことばに、少女は動きを止めた。のろのろと顔を上げる。次の瞬間、その涙と埃で汚れた顔に奇妙な表情が浮かんで、ラオは思わず息を呑んだ。 それは笑顔……それも、この上のない、至福の微笑だったのだ。 鳴海司書は『導きの書』に現れた文字を指で辿る。「ウーハイツは五番目の子。それ以外の九人の子どもはゾンに殺され暴霊となった。ゾンは白光会の殺人兵器として、ウーハイツを他の子どもの依り代とした。母親を目の前で惨殺することで、その力を発動させ、同時にウーハイツを恐怖で縛ろうとした。しかし、その力によってゾンは殺され、ウーハイツ自身も死を迎える……そう出ています」 小さく溜め息をついて、悲しそうに眉を寄せた。「現在、ウーハイツは行方不明です。捜査を進めるうちに、突然姿を消してしまいました。母親殺害の目撃証言をしなかったこと、それまでに母親から酷い虐待を受けていた事実なども考えて、ウーハイツが母親を殺した、あるいは殺すのに手を貸した、そう見る動きがでているようです」 厳しい運命に、どこへ逃れることもできなかった少女が一人、今殺人犯として追われており、その未来も暗く閉ざされていきつつある。「彼女を追っているのは、捜査の手だけではありません。白光会の依頼を受けたゾンも行方を探しているようです」 このままでは『導きの書』にあるような救いのない結末が待っているだけということだろう。「ほんの僅かなことでもいい、彼女の力になってやって頂けませんか」 鳴海はそっとチケットを差し出した。 早速、インヤンガイで探偵に話を聞こうとやってきたファルファレロ・ロッソとハクア・クロスフォードに茶を出しながら、ラオ・シェンロンは話し始める。「あれからもう少し聞き込んでみたが、あまり当てにはならん話ばかりでのお。この間連れていたのは赤ん坊だった、シハイツと呼ばれてたとか、女の子でアルハイツと呼ばれてた、いややっぱり男の子だったが、ジウハイツとか言う名前だったとか、もう無茶苦茶じゃ」 ちらりと視線を動かしたハクアに、ファルファレロは無言で顎をしゃくって先を促す。探偵はウーハイツの兄弟がゾンに殺されて暴霊となっていることは知らないらしい。「マオンは流れの娼婦で食い詰めておったと聞く。数年前にあまり性質のよくない男と出会っての、すぐに逃げ出して子連れでうろうろしておったらしい」 ウーハイツは母親が客をとっている間、地回りなどが来ないように見張りをしていた。今回はその最中に、母親が何者かに襲われた、それを目撃してしまったがためにウーハイツはことばを失った、そう考えられるのだが。「……どうも、あの顔が気になってのお」 母親の惨殺直後に浮かべた微笑。その前の恐怖から一転した気配。「母親が殺されて、あの子は哀しかったのか、それとも嬉しかったのか」 ラオは表情の読めない目をロストナンバーに向ける。「凶器は近くに捨ててあった精肉屋の包丁と思われておるが、その店はとっくに潰れておってな。マオンは空き屋になったそこでも客をとっていたらしい。襲う機会は誰にでもあるじゃろう…が、一つ気になることがあっての」 ウーハイツの行方を追っている者が当局以外に居る。「ゾンというマオンの客、そら、数年前にひっかかった性質のよくない男じゃ」 ゾンは一家繁栄や企業発展の占いや祈祷を生業にしていた男だが、裏では白光会という地回りと繋がりがあり、呪文の力で暴霊を封じて使役するようなやり方をしていたらしい。「なぜゾンが今更ウーハイツを追っている?」 ハクアの問いにラオは首を振る。「それがよくわからんのじゃ」「ひょっとすると、そいつがマオンを殺したんじゃねえのか」 ファルファレロが目を光らせる。「なぜ殺さなくてはならん? たかが行きずりの娼婦一人、殺すまでもなかろう」 探偵の目からはそう見えるのだろう。「白光会ってのが、裏で何かやってるかもしれねえよな?」 薄笑いしたファルファレロは銃を取り出し、愛おしそうに撫でる。地回り相手の大立ち回りができるかも知れないと考えているのだろう。「ゾンのことから調べるか」 ハクアが立ち上がるのに、ラオは思い出したように付け加えた。「ああ、もう一つ」「なんだ」「マオンの素行を聞いて、いなくなった子どもの魂を集めれば、何か手がかりがみつかるかもと考えた霊媒師がおっての」 ラオは奇妙な笑みを浮かべた。「優しく温かな母親の姿で子どもらを呼び寄せると言ったんじゃが」「…どうなった」 ハクアの問いに、ラオは笑みを深める。何かが欠けたような薄い笑みだ。「子どもらが来たと言ったその直後に、すぐに近くのビルから飛び降りて死んだそうじゃよ」 急いで急いで。「わかってる、ジウ」 負けたりしないよ、ねえ。だって、母さんだって一瞬で仕留めたもの。「たぶんね、アル」 闇の中を、街の影から影へ、ウーハイツは急いでいる。 やつがくる。一人じゃないよ、あいつらと一緒だ。「わかった、チー」 脳裏一杯に広がる紅の被膜。人の体が、あれほど切り開かれて広がるなんて思わなかった。満足そうなゾンの顔を、皆死ぬまで覚えているだろう。 悪いのは私、あの男のいいなりに、何もかもを受け入れてしまったから。 でもああなってしまっても、マオン母さんだけは入らなかった。やっぱり、母さんは私が嫌いだったのかな。毎日毎日ああやって叩いたり焼いたりしなくちゃならないほど、私は気持ち悪い子どもだったのかな。 みんな、おなじ、なかないで。かなしい、きもち、おとなに、わからない。「ありがと、ス。もうすぐ、終わるから」 あの優しそうなおじいさんが教えてくれた、何があったにせよ、もう終わらせていいんだと。 きれいごとはもうたくさん。わかったふりのことばも要らない。 誰も助けてくれなかったくせに、こんなことになってしまうまで。でも。「……ほんとは」 小さな声で呟いた。「……かあさんの笑った顔……見たかったな」 何がだめだったんだろう。何が足りなかったんだろう。それを聞くことはもうできないけれど。永遠にできなくなったけど。 今度はぼくらと行けるよね、ウー。「一緒に行こう、リィウ」 ウーハイツはついに零れ落ちた涙をこぶしで横なぐりにして走り出した。「もうすぐだ」 背後から、気配が迫る、あの男の、笑い声が。「あいつを殺して、全部全部終わらせよう」 ウーハイツの体がざわめく。 必死に生き延びてきた命は、今終末へとひた走る。=========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>ファルファレロ・ロッソ(cntx1799)ハクア・クロスフォード(cxxr7037)=========
薄汚れた雑居ビルの一階、出て来た三下がファルファレロをゆっくりと見上げ、見下ろして口を開く。 「んだ、てめえ、ここが白光会と知って……っ!」「がっ!」「ぐあっ!」 翻るスーツ、空中を躍るように舞う手足、飛びかかった男達が次々と床に壁に叩きつけられて白目を剥く中を歩み、乱れた髪の下、軽く眼鏡を押し上げながらファルファレロは奥まった席に居た男の前に立った。 「ここは白光会だな? お前がボスか」 冷たい金属音、相手は額にメフィストの銃口を押し当てられて、なお強がった。 「お…おうっ、それがどうしたっ」 「ゾンはどこに居る」 「けっ、誰がそんなこと教えるかよ、甘く見てもらっちゃ」 ドンッ。ぎゃあっっ! 背後でそろそろ近寄っていた男が、ボスを凝視したままのファルファレロに撃たれて悲鳴を上げて転げ回る。吹き零れた血が見る見る事務所を染める。ファルファレロが銃口を離した隙に反撃をしかけた相手は、こめかみすれすれにもう一発撃たれて凍った。 「ゾ、ゾンは、ウーハイツを追ってる。あんたがどこの組織のもんかは知らないが、ウーハイツはもう使えねえ。ゾンの術も効いてねえんだ。始末を言いつけたが、母親も殺したような奴だ、今頃ゾンも殺られてるかも知れねえっ」 「…契約はどうなる」 相手の誤解をいいことに、ファルファレロは先を促す。 「仕方ねえだろっ、ウーハイツほどの依り代は見つかってねえんだ、兄弟姉妹、全部の魂を引き受けられる『空っぽ』な奴は、他にいねえよ! 疑うならゾンを締め上げて吐かせろよ!」 所詮、自分の身が危なくなれば仲間を売り合う下っ端揃い、ゾンはウーハイツの始末を負わされて切り捨てられる寸前らしい。 「俺は止めとけって言ったんだ! いくら『空っぽ』な奴でも、自分で殺した母親の魂なんぞ呑み込めねえって! けど、ゾンは聞きやしねえっ、母親を呑み込みゃ、一度に数十人呪殺できるようになるって」 「……ウーハイツは上玉だったのか」 「ああなる前はな。二人三人相手にしても、ずっとにこにこ笑ってるおかしな娘だったけど、そりゃあ客の評判はよかったぜ、何でもするし、何でも食う…へ、へへ、客の、ほら」 ドン! そんな派手な音はしないはずだが、メフィストは重い音を響かせて男の額を打ち抜いた。飛び散る鮮血を背景に振り返るファルファレロに、のびてた一人が体を起こしかけて固まる。 「いい具合に目が覚めたな」 「ひいっ」 薄笑いをして近づくファルファレロに股間が薄黒く汚れる。そこに狙いをつけたファルファレロはいい笑顔で促した。 「Patti chiari amici cari.」 「は…?」 「俺の欲しいものをよこせってことさ」 ウーハイツはどんなやつだった? どこに行った? 冷笑に男は慌ててしゃべりだした。 「母親と暮らしたことがある家、か」 白光会を締め上げていたファルファレロからエアメールが届き、ハクアは足を速めた。伸ばし放題の白髪が乱れる。メールによれば、ウーハイツは白光会で酷い客の取らされ方をしていたらしい。母親マオンは、始めこそ自分で体を売って日銭を稼いでいたようだが、知り合ったゾンに娘を蹂躙されて逃げ出したものの、次第にマオンよりもウーハイツとの一夜を望む客が増え、娘も売りに出すようになった。 「母親の目の前で、男に抱かれ続けるとは」 それも一人の相手だけではなく、二人三人一度のこともあったという。しかも、そうして男達に娘を供しながら、自分は求められず、娘ばかりが求められていく状況に、マオンの折檻が酷くなっていった。 『この淫乱! 売女! お前は汚い、汚い子どもだ! 男なしではいられないなんて、最悪な女だ、さっさと死ねばいいんだ!』 そうののしったすぐ後では、かつての容色が衰えて、もうウーハイツなしでは食べていくことができなくなった自分に我に返り、あれやこれやと持ち上げる。 『ウー、ウーハイツ、可愛い可愛いあたしのウー。他の子も可愛いけど、母さんのために働いてくれるあんたが一番可愛いよ』 けれどいざ、男がマオンではなく、ウーハイツを指名するとにこやかに娘を売り渡しながら、男が去ってしまった後で、また酷く折檻することを繰り返した。 ファルファレロに知らされた場所へ急ぐ間、ハクアの動かない静かな表情の下ではウーハイツの傷みを思って感情が深く波立っている。 「母と娘ではなかった…か」 体を売ることで生きていくことは、母と娘をただの雌同士に貶めた。より多くの雄を引きつける娘、その娘の収入に頼って生きていくしかない苛立ちが、母親の理性を食い荒らしていったのだろう。 ただ悲しむべきことは、それでもウーハイツにとっては、母は母であったということだ。 「ひょっとして」 他の兄弟姉妹達もウーハイツが殺したのだろうか。殺して、その魂を呑み込んだのだろうか、母の愛を望むがあまり。そしてついにはゾンにそそのかされてだろうが、母親をも殺すことで、その魂を体に取り込み、愛してもらおうとしたのではなかったか。 「それほど一人だったのか」 重なるのは逃避行、生き延びるため護るため、少しでも安全な場所を求めて逃げ続けた、教会から。だが、ハクアには差し伸べられた手があった。今ウーハイツにあるのは、取り込んだ魂とゾンへの憎しみだけ。自分の命への恨みだけ。 そんなウーハイツに、優しい母などという偽りを演じても通じない。霊媒師はそれが理解できなかったのだろう。 「急ぐぞ」 言い聞かせたのはいつかの自分にだったかもしれない。 ゾンはウーハイツの行き先を知っている。自分が使役している暴霊どもからの情報だけではなく、ウーハイツのことなら足の裏の黒子まで熟知している。何度も虐げ、何度も味わい、何度もしゃぶり尽くした無垢な体を忘れるわけもない。 「へ、へへへ」 ぼさぼさの灰色の髪を振り乱し、確かに今は一張羅のスーツも汚れくたびれぼろぼろだが、何、ウーハイツさえ手に戻れば、すぐに白光会に返り咲ける、いや他の組織からだって仕事が戻ってくるはずだ。愚かな愚かな幼い娘。その愚かな娘を心配して、死んでもゾンに使役されている愚かな母親。 「マオンー? ウーハイツはどこだ? 探し出せたか?」 返事はないが、体が導かれる感覚、やはり一時マオンとゾンが暮らした家に戻っているらしい。 「ガキはガキだ」 たとえ9人の、それも身内の魂ばかり呑み込んだ貪欲な器であっても、子どもの発想はみんな同じ。さあお母さんの所へ連れていってあげようと誘えばついてき、お父さんの話を知ってるかいと囁けば目を輝かせて頷き、お兄ちゃんが待ってるから、お姉ちゃんが呼んでるから、妹が寂しがってるよ、弟が泣いてるよ、そう心配そうに呟けば、ことごとくゾンの掌に我が身を委ねる。 望んだものと違ったと気づいた顔を見下ろす快楽、受け入れ切れない痛みに呻く顔はゾンを幸福にする。 「さあ最後の仕上げに来てやったぜ、ウーハイツ!」 煤けて今にも崩れ落ちそうな家の前で佇む少女は振り返る、驚きに顔を引き攣らせて、けれど、ああ見るがいい、顔がぼこりぼこりと変形し、手足がむくむくとうねっている。その気配一つ一つをゾンは覚えている、自ら屠り、ウーハイツにその血肉を啜らせた魂達が、ゾンを見つけて戦いているのだ。 「ゾォン…っ!」 きしるような叫びを上げて走り寄ってくるウーハイツの瞳は血走って、真っ赤だ。 「さあ行け、マオン!」 「マオン…? 母さん?」 ゾンの声に一瞬怯んだウーハイツ、その隙にゾンの腕から黒色の霧が一気に伸びて人の顔になり、そこから口が裂け巨大な顎(あぎと)となってウーハイツに襲いかかるのを楽しげに見送った、その途端。 「ぐあっ!」 体が前に吹っ飛ばされた。背中を見舞った強烈な一撃、嘲笑するような声と高い笑い声に地面に這いつくばりながら必死に振り返る。 「ずいぶんと腰砕けだぜ、ゾン! それで何人ヤれたんだって?」 「ぎっああああっっ!」 相手は一人だった。黒ネクタイを閃かせ、爆笑している哄笑している、べったり地面に張り付かされたかと思うと掲げた銃から立て続けに放たれた弾丸から溢れる魔法陣、紫の電光が鞭のようにしなって捕縛され、空中に釣り上げられて身悶える。激痛に叫びながら、それでもマオンを始めとする暴霊達を使役しようとした矢先、今度は白い閃光がゾンの視界を遮った。 「がっがっがっ」 閃光は緑の瞳をした男、抜き放った白銀の銃が容赦なく手に撃ち込まれ、千切れ飛びそうな痛みに叫びながら空中で跳ね踊る。マオンはどうした、他の奴らは、と目を泳がせれば、それぞれにゾン同様、空中に描かれた紅の魔法陣によるのだろうか、まるで人間のように空中に縛されている。 「えらく上手に踊るじゃねえか」 黒いネクタイの男は冷ややかに嗤った。次の瞬間、ぼろぼろのゾンの体を業火が包む。 「うがあああああっっっ!」 それでも死ねない、いや、死なないように手加減されているのだと、痙攣する体で微かに気づいた。黒いネクタイの男がウーハイツに近づいていく。 「てめえの人生を滅茶苦茶にしたのはこいつだ」 冷たい声が清水のように焼け爛れた感覚に通ってきた。自分の銃をウーハイツに渡している。引き金を引けと促している。今だ、今ならウーハイツの中のガキどもを動かせるかも知れない。ウーハイツはためらっている、ゾンが連れてきたマオンを感じ驚き怯んでいる、黒ネクタイが叩きつけるような声音で尋ねる。 「俺のお袋も同じだ。アル中の売女でよ……強姦されて孕んで産んだ、それが俺だ。殺してくれって頼まれて、俺が殺したんだ。お前の母親はたった一度でも優しくしてくれた事があったのか?」 それでもためらうウーハイツの手から銃を奪い、ついにゾンを撃ち抜こうとした時、かろうじてウーハイツの中のスに届いた。スは大人を信じない。信じそうなことを言う大人も信じない。そいつに噛みつき、取り込め、ス、そう呼びかけて、手応えを感じる。ウーハイツが身悶えし、黒ネクタイの銃を掴む。 「かなしい、きもち、おとなに、わからない」 あれはスの叫び声、一人が動かせれば簡単だ、大人への不審を植えつけ、奴らをはね除け、ゾンを受け入れてくれと囁けばいい、そうだ、ほらマオン母さんも一緒にさ、と。 「マオン母さんも?」 「どうした…身体の中に自分以外の存在がいるのではないか」 「え?」 ウーハイツが怯えた顔で戸惑った。何を言い出すあの男。今まで誰も気づかなかったのに。急いで揺さぶる、誰がいい、アルか、アルなら強がりで卑怯者だ、アルそいつを殴ってみせろ、そいつはお前達を食い物にする大人、覚えてるだろう、何人も男にヤられたよな、兄弟が見てる前で、あいつらと同じだ。 「母さんだって一瞬で仕留めたもの。あんたにだって負けたりしない!」 いいぞアル、その調子だ、そいつらはお前を攻撃できない、さっさとやっつけて俺をお前達の中に受け入れてくれ、そうすれば俺はこのぼろぼろの体を捨てて、可愛い可愛いウーハイツの体の奥深くまで潜り込んで。 なのに、黒ネクタイが言い出した。 「躰が欲しいならくれてやるから俺に憑け」 自分の躰を憑代として提供すると言い出したファルファレロを、ハクアは制した。 「んだよ、あそこで死にかけてるあいつも、マオンとかいう腐れ女も全部、ガキどもの分まで憎悪を込めて殺してやるぜ」 「だが、それではウーハイツは救われない」 がたがたと震え、振り上げた片手をもう片手で握り、蹴りかけた足を踞って堪え、ウーハイツは涙を浮かべてハクアを見上げる。 「わた、私、汚い、子、なの」 「ウーハイツ」 「母さんも、愛したくない、ほど、汚いの、汚れて、ゴミ溜に、捨てられたの、叩かれて、焼かれて、いろんな人に、ああ、急いで、あいつらと、ずっと、抱かれて、喜んだ、汚い、母さんは、終わらせ、たいの、終わらせよう、ねえ、終わらせよう、何も、手に入らなかった、何も、何も、ここには、何も、ない、母さんさえも、ない!」 訴え続けながら、ウーハイツの体のあちこちが奇妙に伸びたり縮んだり、膨れ上がったり凹んだりする、それを身悶えながらウーハイツは抱き締めて、吹き零れる涙を振り払った。 「終わらせよう、そうしなくちゃ、皆、もう、苦しすぎるの、全部、何もかも!」 「お前の中に、皆、いるのだな?」 「い、いる、目の前で、死んで、それを、呑み込んで」 へらへら、とふいにウーハイツは笑った。 「吐いたけど、呑み込んで、母さんも、アルが、呑み込みやすい、ように、切ってくれた、けど、吐いちゃって、呑んだけど、母さんは、入らない、私が」 「屍体を食べたのだな」 笑顔のままウーハイツは頷き、弾けるように笑った。 「私が、汚い、からだ!」 ハクアは白銀の銃を取り上げ、引き金を引く。いつの間にか、空中の捕縛から抜け出そうとしていたゾンの足を立て続けに撃ち抜いた。続いて既に紫電で取り巻かれている体を、風の魔法でなお締め上げる。聞くに耐えない絶叫を背に、凍え切ったように踞ったウーハイツの側に跪いた。 「すまない。こうなってからでしか、お前の元に来れなくて」 深々と頭を下げるハクアに、ウーハイツの笑いが止まった。茫然とした顔、意識がどこかへ飛び退ったように瞬き、 「…違う…ス……この人は……謝ってるんだ……なぜ……シ? わからないよ…リィウ……汚い…私に……この人が……ジウ…謝ってる…?」 「そこに居る全ての魂よ、聞こえているか? 俺はハクア・クロスフォード」 引き抜いた短剣に竦むウーハイツの前で、指を切り、再び血の魔法陣を描く。血を使う魔法には限界がある。保って10回、だが今、ハクアは9つの魂のために9つの魔法陣を描く。 「お前達を封じていた呪文を、俺が今解除する。ゾンの名において縛られた鎖はお前達の名前によって作られている。だが、その名前は偽りだ」 さすがに息が上がる。体力ぎりぎりの術にファルファレロが苦笑し、この後白光会を潰すんだから、多少は残しとけよ、と詰る。頷きながら、ハクアはことばを重ねる。 「産まれた瞬間に呼ばれた名前があっただろう、ゾンが名付けた番号ではない、世界がお前を呼んだ名を、今なら思い出せるはずだ」 それはこの世に命を受けた時に、母親が漏らした吐息に含まれていた願い。 ああ、無事、生き延びた、私も、この子も……。ありがとう。 見えない力に捧げられた、ことばにならない、柔らかな感謝。 「あった…? チー、知ってるの…? ジウ…アル………皆……知ってるんだ…?」 おそらくは魂だけになっているが故に思い出せた記憶、ウーハイツの体がふわりふわりと頼りなげに揺れ出し、その度に何か微かな霧のようなものが離れていく。 「行っちゃうの…? 皆……行っちゃうんだ……? どうしよう…私……お、思い出せ、ない、よう……」 ぼろぼろと汚れた頬を涙が伝い落ちる。 「や……ぱり…『空っぽ』…なんだ…………終わらせ…たほ…が」 次々と浄化されていく仲間に体を震わせてウーハイツが泣き崩れる、その頭に、ふいにファルファレロがファウストを向けた。ハクアが制するより早く、自分の掌を挟んで撃ち込む。飛び散った血に染まったウーハイツの顔が一瞬に惚け、背後に崩れた。 「無茶をするな」 いささか呆れつつもハクアはファルファレロの掌、ウーハイツの頭を押さえた。多少無理を重ねるが、とにかく止血はしておく。傷は見かけほど深くない。 「強催眠用の弾丸だ。過去の記憶を消し去ってくれる」 倒れたウーハイツがのろのろと、ハクアに支えられて身を起こす。 「全部終わらせるだあ? 笑わせんな、てめえの人生まだ始まっちゃいねえよ。足枷になる過去なんざ捨てちまえ。永遠に持ってく価値のあるもんだけ持っていけ。愛してくれねえなら愛し返す価値もねえってことさ」 ぽかんとしているウーハイツの瞳は霧がかかったようにぼやけている。その彼女に自分の背広を脱いで覆ってやり、ほらよ、と背中を向けた。 「なに……?…」 「背負ってくれるというのだ、行け」 ハクアの促しに、戸惑いながらファルファレロの背に乗るウーハイツの体は哀しいほどに軽い。ファルファレロは一瞬唇を噛み、低い声で呟いた。 「これでお前は死んだ。もう一度生き直せ」 つっても、覚えちゃいねえだろうけどな。 「覚えて…ます……私には……名前が…ない……名前も…何も…誰も…いない」 ウーハイツがおどおどと返事し、再び涙を溢れさせる。 「ビアンカ・ウー」 「え?」 「それがお前の名前だ。イタリア語で白はビアンコ、女の名前にすりゃビアンカ。一からやり直すにゃうってつけだろ」 「いち、から、やりなおす…」 ウーハイツは小さな声で呟き、ためらい、やがて囁いた。 「誰か、愛して、くれる、でしょうか」 「もちろん」 ハクアは頷く。脳裏に浮かぶ、小さくて明るい笑顔を想う。 「もちろんだ」 「ハクア」 ファルファレロが不穏な声で唸った。 「あいつを殺してえ」 「だめだ」 ハクアは虫の息になっているゾンを風の魔法で運び始める。 「探偵の元へ送り、ウー…ビアンカの弁護と、後のことを頼む」 「じゃあ、白光会は潰させろよ」 「譲歩しよう」 お前がへたってなければな。 「ぬかせ」 ハクアの返事に、ファルファレロはくつくつ嗤った。 「お楽しみはこれからだろが」
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