「旅」 言いながら、両前肢に抱きかかえて居た地図を司書室の卓上に広げる。赤茶色の尻尾がふさふさと揺れる。「旅、好きですか」 広げられた地図には、ヴォロス世界の一角が描きこまれている。 竜刻の大地、ヴォロスは広大で豊かだ。世界図書館がヴォロス世界の情報を収集するにしても、単独で行うことが難しい程に。「『キャラバンの路』。ヴォロスの各地域を結ぶ。往来。ヴォロスの住人、旅するものは多く、キャラバンに混じらせてもらう」 人里を離れれば、危険も多い。野盗の類、獰猛な野生動物、獣よりも危険な、人に仇なす化物。それらから身を護るためにも、隊を成し、旅慣れた傭兵や商人を擁するキャラバンと共に進むことは有効とされる。『キャラバンの路』と呼ばれる道を、彼らは往く。「雑用を手伝う。用心棒となる。お金を対価に護ってもらう。キャラバンに混ぜてもらう方法、色々」 混ぜてもらって旅をして来てください。獣人の世界司書はそう言った。「そうして、ヴォロスの色々、見て来てください」 茶色の眼が、旅人達を見、瞬きする。「今回は、ここから、」 犬の司書が黒く硬い爪でまず示したのは、森に囲まれた小さな集落。集落の後ろには、広大な草原が広がっている。 古戦場の草原、と司書はほんの微かに三角耳の間に皺を寄せる。「戦士の怨霊、封じられている草原。集落の住人達、草原の管理人。封印の徒。けれど、今回、ここ、ただの出発地点」 集落で旅に必要なものを揃えてもいい、と付け足す。「ここまで」 地図上に描かれた不器用そうな線を辿って、別の森を指し示す。森の手前には小さな町、中心には古城の絵。「到着地点」 国も民も喪った、呪われし孤児の王の城。「出発地点の集落でキャラバンと合流。馬車二台、十二人。小さな小さな、キャラバン。名をルチルダ隊。荷は少ない。同行の旅人、ロストナンバーだけ。あなたたちだけ。急ぎの旅でない。狼の面を被った用心棒二人、目印」 キャラバンに用心棒として混ぜてもらう気ならば、と続ける。「その用心棒と手合わせ。その後、出発」 竜の墓場、と書き込まれた草原を横切り、「竜の墓場。大きな骨、たくさん。花、たくさん。草原歩く竜の幻。場所によって、濃霧。奥に遺跡、見えたりするかもしれない。何かの魔法? わからない。不思議。ヴォロス、不思議、たくさん。でも、竜に見惚れて、遺跡に気を取られて、路を外れないように。仲間とはぐれないように、注意してください」 名も無き村を過ぎ、「村で一休み」 みなしごの森と呼ばれる森を抜ける。「森の中、幻の湖。青い。蒼い。水だけど、水でない。触れられない。近付くと危険。毒、と言われている」 今回の旅の終着地点となる。「孤児の王の城のある、森の入り口。集落。キャラバンとはそこでお別れ。そこから先、また次の旅」 狼の面の彼は、と少し首を傾げる。「王の城、行くみたい。何か大事な用事? でも、きっと、傍から見れば、小さな用事」 時間が許すようなら同行してもいいかもしれない、と付け足す。「ヴォロスの住人達と一緒に、旅。ロストナンバーの仲間と、旅」 お願いできますか。 三角耳の頭をぺこりと下げ、獣人の世界司書はチケットを四枚、差し出した。
「旅の者か」 嗄れた老婆の声で問われ、ヌマブチは軍帽の下に隠れがちな鋭い紅の瞳を上げた。声は、翠の大地に根付いた白い巨石の上からする。眩しい程の蒼穹の元、巨石に黒く蹲る小さな人影。 「何を見ている」 思い出すものでもあるのか、と重ねて問われ、 「……自分の行く末を眺めていたのであります」 低く、呟く。 巨大な獣の白骨じみた巨石が転がる広大な草原は、元は戦場だったのだと言う。多くの戦士が殺し合い、血を流した。戦が終わり何千年と経った今も、大量の血を吸った大地には、死者の怨念が渦巻いている。魔法の息づくヴォロス故か、それは黒い影となって翠の大地を侵す。戦場に立ち入った者を殺め、取り込む。人の形を喪って尚、戦い続ける―― 「安息を知らぬ亡霊だ」 旅の共となるキャラバンが休息している集落の人々は、古戦場の怨霊を草原に封じる守り人の一族だ。 その一人である老婆は吐き捨てる。 「あれが行く末か」 「そうであります」 ヌマブチは風に紛れるような声で応える。土色した軍服の背筋を伸ばす。老婆は言葉を失う。 と。古びた石畳の道を走る、軽い足音が聞こえる。 「やっと追いついたよ」 明るい茶の毛並みを揺らし、ヌマブチと同じ背丈ほどの栗鼠の獣人が駆けてくる。ふさふさの尻尾をくるりと自らの足元に巻き、バナーはヌマブチの隣に並ぶ。 「ヌマブチさんは足が早いね」 サンバイザーの下、黒眼がちの大きな眼で草原を眺める。 「なんか、どきどきしてます」 旅のキャラバン、初めてだし、と風に透明な髭を震わせる。羽織った白いシャツをはためかせる風に、気持ちよさそうに眼を細める。無邪気な瞳の獣人の少年を横目に見、ヌマブチはああ、とも、うん、ともつかない小さな返事で応じた。 「冒険者になったばかりだったから」 元の世界で、冒険者となるため、その準備のための旅の途中。バナーはロストナンバーとなった。 「旅とか、いい感じだと思うんだ」 わくわくと振り返れば、仕立ての良さそうなトランクを片手に提げて、ヴィヴァーシュ・ソレイユが立っている。バナーの視線を受け、小さく頷き返す。日除けにと被った帽子を取り、守り人の老婆に流麗な会釈をする。柔らかな銀の髪が風に零れる。強い光を抱く翠の眼は、けれど片方、顔の右半分ごと白皮の眼帯で覆い尽くされている。 「旅の者か」 老婆が再び口を開く。問う、と言うよりは、確認。ヴォロス世界に於いて、獣人は珍しくないものの、シエラフィと呼ばれるこの地域には少ない。 黒衣の袖から、枯枝のような指先が持ち上がる。少し離れた森を指し示す。煮炊きの煙が幾本も上がっている。旅の出発地点となる、集落だ。 「この辺りの夜は冷える。必要ならば集落で旅の備えが用意出来よう」 それにしても、と付け足す。皺に埋れた眼が黒衣の肩越しに振り返り、自らの後ろの地平まで延びる石畳の道を見遣る。 「美しい馬を連れて居る」 草に埋もれかけた街道に、一頭の黒馬が悠然と佇んでいる。青空の光を浴びて、巨躯を覆う漆黒の毛皮が、たてがみが、艶々と風に煌く。老婆の言葉を受けてか、黄金の眼がゆらりと瞬いた。陽の光を反射してか、元々孕む光か。尖った耳に付けられたイヤーカフが仄かな光を撒く。 「シンイェさん。ボクらはシンさんって呼ぶよ」 仲間を褒められ、バナーが嬉しそうな声を上げた。 「馬なのかな? 馬っぽいけど」 こくりと首を傾げる。尻尾がくるりと動く。 「世界は広い」 老婆は僅かに笑む。 「この婆の知らぬ種族も多く居よう」 ヌマブチは、古戦場に蠢く影の形した亡霊達から眼を引き剥がした。馬っぽい生物と栗鼠の獣人を見る。暗闇から陽の元に突然移った時のように、紅の眼を瞬かせる。 思わずしみじみと一言、 「……まるで動物園でありますな」 口走った途端、駿足を駆って近付いたシンイェに前肢でハタかれた。 「共に行きたいのだが」 漆黒の馬の形したシンイェが言葉を話すと、キャラバンの隊長である旅装の女は眼を丸くした。それでも、驚いたのは束の間。 「そういう種族だ」 艶やかなたてがみを風に梳かせながら、澄ました顔で言うシンイェの言葉を、 「この辺りじゃ見ない種族ね」 あっさりと信じた。 「ボクはバナー。よろしくだよ」 シンイェの隣に立ち、バナーが元気よく挨拶する。ふさふさと揺れる尻尾を耳を、撫でたそうな目で一瞬だけ見て、女はバナーに応える。 「私はルチルダ。一応ね、キャラバンの代表をしてる」 用心棒と雑用。旅人達がキャラバンに同行する代償として申し出たのはその二つだった。 「人手も用心棒も足りないことが多くてね。ありがたいよ」 短く刈った髪を風に揺らし、ルチルダは視線を集落の半ばに作られた広場へと向ける。 「で、あっちで君たちのお仲間と手合わせしてもらってるのが、うちの用心棒二人」 風が踊る。ヴィヴァーシュの銀髪が柔らかく舞う。集落の半ば、杭で囲われた草の広場に立つのは四人。ヴィヴァーシュには白狼の仮面の少年、ヌマブチには黒狼の仮面の男。それぞれに対峙し、 初めに動いたのは白狼の少年。獲物の短槍を片手に、ヴィヴァーシュの懐に飛び込むべく、走る。陽の跳ねる槍穂は、けれど、ヴィヴァーシュに届く遥か手前で大きく跳ね上がった。凶暴な音立てて、風が暴れる。弾かれた槍の軌道に惑うように、少年の小柄な体が風に揺らぐ。泳ぐ。 方向性を持った風を操っているのは、草の上、静かに、動きもせずに立つヴィヴァーシュ。 短い悲鳴を上げて、少年が風に押されて転ぶ。白狼の仮面が顔から剥がれる。仮面の下には、十四、五の年の少年の顔があった。幼さを残した顔が悔しさに歪む。空を掻いて起き上がろうとする。槍穂を跳ね上げたのと同じ程の力持つ強風で、体を地面に押さえつけられる。握り締めたままだった短槍の柄が手から離れる。 「……負け。ちぇ」 敗北を宣言すれば、風の縛めが解かれた。不貞腐れた仕種で起き上がる。草地に座り込んだまま、ヌマブチと黒狼の男へと顔を向ける。 ヌマブチは黒狼の男を見据え、 「たまには体を動かさんと鈍る」 小さく呟いた。その手にきっちりと握った銃剣の刃が、陽光を弾く。狙うは黒狼の仮面と衣の隙間、僅かに覗く喉仏。急所を確実に潰そうとする刃を寸でのところで避け、飛び退る黒狼の仮面被った男を追うは、軽やかに翻った銃床。踏み込んだ軍靴が深く草地を抉る。 黒狼の男が振り下ろす短槍の刃を弾き飛ばし、続けて跳ね上げた銃床が仮面の顎を勢いよく弾く。呻いてよろける男の腕を掴み、素早く背後に捩じ上げる。 「痛ッて」 男は短槍を取り落とす。膝を突く。頸に腕を回され、参った、掠れた声で宣言する。 「すごいね、ヌマブチさん」 バナーが感嘆の声をあげる。焼杭で囲われた集落の広場の隅から駆け寄ってくる。途中、ヴィヴァーシュに負かされ、広場の真ん中で憮然と座り込む白狼の少年の傍らで足を止める。 「大丈夫?」 もふもふの毛皮付きの手を差し伸ばされ、少年は少しためらった後、バナーの手を借りて立ち上がった。ふかふかの手触りが気に入ったのか、掴んだまま離さなくなる。バナーとヴィヴァーシュを連れ、キャラバンの皆が待つ広場の外へと向かう。 男を解放し、ヌマブチは軍帽の縁を目深に被り直す。 「いや凄いな、あんた」 痺れる腕を擦り擦り、黒狼の男が立ち上がる。殺されるかと思った、笑みを含んだ声で言われ、無表情に首を横に振る。 集落の真ん中に位置する草地の広場は、本来は、住人達の鍛錬の場であったり、古戦場を何としてでも押し通ろうとする者達が、亡霊に打ち勝つほどの力持つ者か試す場であるらしい。 「前の急ぎの荷の時にあんたらが居てくれりゃあなあ」 ぼやきながら男は黒狼の仮面を外す。仮面の下には、髭面の壮年の男の顔があった。 「一対多数では手も足も出んがな」 「そんなもんか」 言葉を交わしながら、広場を出る。 「皆揃ったね」 集落の外れに停めてある馬車に案内しよう、とキャラバンの隊長ルチルダが笑う。 「旅の連れが増えるのはいいね。用心棒さんたちも、よろしく頼むよ」 森から森へ、風が渡る。筆で気紛れに描いたような白雲が青空に泳ぐ。草生した石畳の道を、馬車が二台、のんびりと進む。キャラバンの路、と呼ばれるその道は、日によっては何台もの馬車が行き交う。そんな日はすごく賑やかになるけどねえ、と先頭馬車の御者台で手綱を握るルチルダは笑う。 「今日は静かでいいね」 馬車の脇を歩くシンイェに顔を向ける。隆々とした漆黒の背に幾らかの荷を乗せながらも、足取りはまるで重みを感じていないかのように、軽い。 「馬車に乗らなくていいの?」 ルチルダの隣に座らせてもらい、バナーはご機嫌だ。先の景色がよく見える。草に白く浮き上がる石畳の轍をごとごとと馬車の車輪が跳ねる振動も、慣れてしまえば心地がいい。 「おれは疲れを知らん」 シンイェは陽光を吸った金眼を煌かせる。暖かな陽を存分に浴びて、漆黒の毛はますます艶々と光る。草原と森が入り混じる大地を、石畳の道がどこまでも延びていく。翠濃い森を眺め、道端に咲く色鮮やかな花々を見下ろし、シンイェは歩く。思わぬ危険が無いか、時折鋭い視線を周囲に巡らせはするが、足取りは、何処か楽しげだ。 後ろを行く馬車で、不意に歓声があがった。 「あっちは賑やかだね」 手綱を操りながら、ルチルダが振り返る。二台目の馬車の御者台に座る黒狼の男が、なんでもない、と片手を挙げる。 黒狼の男の背後では、荷の詰まった木箱の上に腰掛けたヴィヴァーシュが、わくわくきらきら光る幾人分もの目に囲まれている。 「魔法でありますか」 魔法であります凄いであります、と真顔で呟くヌマブチの両手には、水の入ったカップが大事そうに包まれている。 「魔法で出てきた水が某(それがし)の持つカップの中にあるのであります。この手の中のカップに魔法が為されたのであります。何と言う奇跡。何と言う僥倖」 平坦な低い声のまま、ヌマブチは呟く。 「おっさん実は興奮してる?」 ヴィヴァーシュが掌をかざし、カップに水が満ちた途端、歓声を上げた白狼の少年がヌマブチを覗き込む。 「これが興奮せずに居れるでありましょうか。魔法であります。某、魔法兵になりたかったのであります。ずっとずっと憧れているのであります」 「そりゃ凄いけどさ。そんな興奮することか?」 首を傾げる少年の肩を、同乗の商人が分かってやれよと叩く。 「男には憧れるもんの一つや二つはあるもんだ」 「それは大方手に入らない」 「欲しいと思えば思うほどなあ。切ないぞー」 「お前は分からんだろうが、分かってやれ」 キャラバン隊員のおっさん方に囲まれ説教され、少年は白狼の仮面の奥の目を白黒させる。 「少し、話を」 ヴィヴァーシュに呼ばれ、少年は救われたように顔を上げた。いそいそとヴィヴァーシュの隣の木箱の上に尻を押し込む。 護衛対象であるキャラバン隊員全員の名と特徴を教えて欲しいと丁寧に請われ、 「兄ちゃんは仕事熱心だな」 少年は笑った。 「兄ちゃんは、ええと、ヴィ……?」 「ヴィーとでも」 頷いた少年は、 「じゃ、おれはシロとでも」 ヴィヴァーシュの言葉を真似て、楽しそうにまた笑う。黒狼のはクロだよ、と続ける。本名を問われると、 「キャラバンの皆にはそう呼ばれてるし、別にシロでいいよ」 覚えやすいしさ、とはぐらかす。 「さあ、そろそろ竜の墓場だよ」 ヴィヴァーシュが少年から隊員達の名を聞きだしているうちに、前を行く馬車から、ルチルダの元気のいい声がした。カップの水を一息で飲み干し、ヌマブチはいそいそと御者席へと向かう。黒狼の男に頼み込み、隣に席を作ってもらう。 背中から見ても分かるうきうきと嬉しそうな様子に、白狼の少年は首を傾げる。 「霧と幻が見えるだけなのにな」 草原の道に霧が広がっていく。視界の先が白く濁る。気がつけば青空は白く覆い尽くされ、陽の光が薄く遠くなる。先を行く馬車とシンイェの姿が乳白色の霧に沈み、灰色に色を失う。 頭上を見仰げば、霧の中、樹の梢と見紛うほどに巨大な骨のようなものが、白い空に幾本も交差している。それはまるで、骨の隧道。草に埋れるばかりだった石畳の路は、いつしか色とりどりの花に包まれている。石畳を砕き、地面に落ちたまま白く固まった骨の欠片の隙を縫い、鮮やかな黄、艶やかな紅、明るい桃、様々な形した花が噴き出している。花々は大地を隠す。馬車の車輪が花を潰す。甘やかな香りが舞い上がる。 先を行く馬車に添っていたシンイェが、落ち着かぬ様子で後ろの馬車との間に入ってくる。光が薄く濃い霧の中で、漆黒の巨躯には薄い黒煙がまとわりついているようにも見えた。 「竜だ! 竜だよ!」 先を行く馬車から、バナーの興奮した声が聞こえてくる。 「竜であります」 次いで、ヌマブチが御者台に立ち上がる。慌てた黒狼の男に座るようにたしなめられる。が、ヌマブチは構わない。 「ここを見る為だけに来たようなものであります」 凛とした声と顔で背筋を伸ばす、魔法大好き三十二歳。いいから座れと叱られる御年三十二歳。 雲のように濃い霧が流れる。手を伸ばせば、冷たい霧の粒子が指先に触れる。骨の横切る空を、僅かな青空が覗く。ゆったりと、音も立てず、銀色した何かが路を横切る。一枚が人の頭ほどある銀色の鱗が、薄い陽の光を反射させてゆらゆらと光る。馬車何台分もある、巨大な脚が花々の上に下ろされる。けれど、花は潰れない。ふうわりと風になびいて揺れるだけ。 馬車は実体を持たない、幻の竜の腹の下を走り抜ける。足音も持たない竜が、風の音のような鳴き声をあげる。嘆きにも、歓びにも聞こえる、どこか懐かしい、不思議な竜の唄。 「あの竜は何でしょうか」 「大地の生む幻だよ」 ヴィヴァーシュに問われ、少年は事も無げに応える。 「あのでっかい骨も、竜の骨って言われてるけど、どうかな。わかんないけど、あの骨には何の魔力もないんだって」 言いながら、ヴィヴァーシュを馬車の後部へと招く。 「見て」 白くも蒼くも見える霧の奥を指し示す。眼を凝らし、霧が流れ薄まるのを辛抱強く待つ。行き交う幾体もの竜の幻の向こう、黒い影が見える。空へと伸びる、 「……塔、でしょうか」 「うん。塔。古代の遺跡」 その塔を囲んで、低い建造物群。 「竜の幻を作り出してるのは、あそこにある遺跡だって話もある。でも、あそこに辿り着けた人は居ない。居たとしても、帰って来た人の話は聞かない、――って! こら、おっさん!」 またヌマブチが御者台で立ち上がる。素晴らしい、行ってみるであります、そんな風なことを真顔で言いながら、御者台から身軽く飛び降りる。 「路外れたら危ないよー!」 前の馬車からバナーが慌てた声を上げる。狂喜乱舞する旅の仲間を止めるため、ヴィヴァーシュが続けて馬車から降りようとして、やめた。 「落ち着け」 シンイェが前肢でヌマブチをドツいている。 「……嬉しさの余り某少々錯乱したようであります」 ヌマブチは正気に戻った。 霧が渦巻き、遺跡を隠す。幻の竜を隠す。時折現れる幻の竜や遺跡を探している間に、いつか霧が青空に溶ける。空に伸びていた巨大な骨が唐突に絶える。石畳を覆っていた花々が青々とした夏草に取って代わられ、――竜の墓場と呼ばれる草原を、抜ける。 人里を離れてしまえば、キャラバンの他に路を行く者は皆無と言っていい。 「路は概ね安全だしね」 急ぎの荷の時は多少危険な路を通ってでも近道するけれど、とルチルダは笑う。 草原に陽が落ちる前に馬車を停め、火を熾す。ルチルダの命を受け、商人も用心棒も一緒になって薪用の木切れを探し、枯葉を集める。野営用の天幕を設置する。夕陽が空気を朱に染め上げる頃には、暖かすぎるほどだった空気が涼を帯びる。 火が熾れば、煮炊きの大鍋が掛けられる。眼をきらきらさせる白狼の少年とヌマブチに請われ、ヴィヴァーシュが鍋に水を満たす。元世界では城主の血筋だったこともあり、ヴィヴァーシュは食事の用意をしたことがないと言う。それでも、冒険者だったバナーや軍所属だったヌマブチに野営料理の仕方を教われば、持ち前の器用さと几帳面さで以って、 「出来るでありますな、ヴィー殿」 教えたはずのヌマブチにそう言わせる程の料理を作った。 腹を満たしたバナーが毛布に包まり丸くなる。夜の冷えから逃れるように、白狼の少年はふかふかの背中にくっついて眠る。 キャラバンの皆が寝静まり、草原に風の音が踊る。焚火のささやかな炎が時折爆ぜる。虫が鳴き、星が夜空を満たす。 「見張りなら、代わるぞ」 馬車と天幕に囲まれながら、直立不動で夜の見張りをしていたヌマブチに、焚火の傍に居たシンイェが声を掛ける。地に闇が落ちる度、シンイェは焚火の傍を離れなくなった。 「どうせおれは眠らん」 「これが仕事であります故」 生真面目な答えが返ってくる。軍帽の下の眼の紅が、闇に光って見えるのは、焚火が反射しているからだろうか。 「それにしても、星がよく見えるであります」 冷えた夜空へと、ヌマブチは僅かに視線を上げる。月の無い夜空には、満天の星。もしかすると、夜闇よりも星屑の重なる光の方が多い。 ヌマブチの視線を追って、シンイェは金色の眼を星空へと上げる。星のように煌く眼は、夜空をどこか懐かしげに親しげに、見詰める。 「これはおれの名だ」 「シンイェ、でありますか?」 「そうだ」 夜が深まり、ヌマブチが天幕に入っても、シンイェは星空を見仰ぎ続ける。空が白むまで。天に陽が昇るまで。 シンイェ。星夜、の意味持つ名を漆黒の馬に与えてくれた友人は、今はどうしているだろうか。 ひとりも良い。けれど、 (誰かと共に行くのも悪くないものだ) 地平を朱金に染めながら昇る陽の光と温もりを味わいながら、シンイェは思う。 ――旅の日々を幾らか共にするうち、分かってくることがある。 例えばルチルダは隊員達の母親的存在だとか、 例えば黒狼の男と白狼の少年は父子だとか、 例えば積まれた荷物の大方は古戦場の東にある職人街で作られた品だとか、その商品のほとんどは遥か西にある大きな町へと運ぶのだとか。そんな、なんでもないような情報。 「この辺は草原と森ばっかりだけどさ」 一族の印だと言う白狼の仮面を胸に抱いて、少年は草原の向こうに霞む大きな森へと、そのまだ向こうにある何処かへと眼を向かわせる。 「孤児の王の城のある森を過ぎれば、後は砂礫地帯なんだ。砂礫の海、って皆言うくらい、広いとこ。そこにもキャラバンの路はあるんだけど」 あんた達が居てくれたら、きっと砂礫の海の旅も楽だっただろうなあ。少年はそう言って笑う。 「砂礫の海の北には、シエラフィとはまた別の土地に続く、果て無しの山脈や黄金砂漠や、砂礫の海に呑まれて滅んだ古代都市の遺跡があるんだって。古代都市の場所は、もう誰も知らないんだ。南には、すんごい長い壁がある。壁の向こうには樹海がどこまでも広がってるって噂だけど、誰も行ったことないからそれが本当なのかもわかんないんだよな」 ルチルダ隊は、何ヶ月かの周期で以って、シエラフィ地方の一部を巡ったり、荷によっては行き来したりしている。大人になったら、と少年は眼を輝かせた。 「一旦、隊を離れてさ。色んなとこへ行くんだ。でも、また戻ってくるよ」 やらなきゃいけないことがあるから、と馬車の奥へと視線を戻す。視線の先には、多くの荷に埋もれて、小さな樹の苗が数本。 旅人達の知らない、奇妙な響きの樹の名を、少年は口にした。 「炎を沈める、って意味の樹」 少年が語るに任せて、父である黒狼の男は黙する。 馬車の外、樹々の隙間に、眩いほどの青が見える。木漏れ日が揺れる毎、鮮やかな海の青から夜空の青、花の青、染料の青、湖の青、様々な青が輝き、重なり、揺れる。 風に揺れる樹の葉も、キャラバンの路を辿る馬車も、馬車の脇を行くシンイェの漆黒の毛も、馬車から顔を覗かせる旅人達の顔も、何もかも全て、輝く青に斑に染まる。みなしごの森と呼ばれる小さな森の大半を占めるのは、冴えた青の湖。 「眼が痛くなりそうだね」 そう言いながらも、バナーは楽しそうだ。大きな黒眼を何度も瞬かせる。 「いろいろな風景が楽しめて、いい感じだね」 このまま、何もなければいいな、と青色に染まる森を眺める。このみなしごの森を抜ければ、到着地点である小さな町がある。 「長いようで短い旅だったね」 「……別れるの、嫌だな」 ふさふさの背中にもたれながら、白狼の少年が不機嫌に呟く。 「旅人なんだし、しょうがないんだけどさ」 樹々の向こう、深い湖に見える青は、けれど湖ではない。湖は幻であり、森の中心であるその幻に近付きすぎた者を殺すと言う。 「大昔の戦争の傷跡なんだって」 白狼の少年が旅人達に説明する。 「得体の知れない魔法が、湖の底にまだ残ってて、毒を生み出し続けてるんだ。近付かなきゃ、なんてことないけどさ」 「ヌマブチさん、行っちゃだめだよ」 バナーに釘を刺され、御者席のヌマブチは表情を変えずに黙って頷く。それでも、紅の眼は湖の青から離れない。馬車が進む。青の重なりが遠去かる。御者席から見えなくなってしまえば、今度は馬車の後部に移り、半身を突き出すようにして、遠くなる湖の青を見詰める。 「この世界らしいですね」 物珍しげに、けれどのんびりと幻の湖を眺めるヌマブチの様子を眼の端で確かめながら、ヴィヴァーシュは小さく呟く。竜の墓場も、幻の湖も。ヴォロスの大地は、不可思議な現象が当たり前のように起こる。 襲っては来ない、危険な物でないのならば、折角の旅、 (楽しみましょう) 感情を映し難い唇に、人知れず微かに微かに、柔らかな笑みが浮かぶ。 みなしごの森を抜けると、小さな集落に出る。緑鮮やかな田畑ばかりが目立つ集落には、どこか不似合いな、煉瓦造りの大きな宿屋が一軒。ルチルダ隊がこの集落を通る時は、必ずその一軒きりの宿屋に泊まるらしかった。 馬車や荷を置いた隊の商人達と共に、宿屋の一階にある食堂で一息吐く旅人達の傍を、白狼の少年が通りがかる。両腕に大切に抱えているのは、鎮火の意味持つ苗木の束。 「ちょっと、城まで用事」 あんたたちとはここまでの約束だけど、とどこか拗ねたように仮面の顔でそっぽ向く少年の肩を、バナーがもふもふ叩く。 「ついて行くよ」 「用心棒として名乗り出たからには、最後まで任務を全うするつもりでありますよ」 ヌマブチが椅子から立ち上がり、ヴィヴァーシュが少年に向けて頷いて見せる。 「ご一緒しましょう」 宿屋の庭を通り、外に出る。暖かな陽を浴びて微睡むように立っていたシンイェが、尾を一振りして、当然のように皆に続いた。 集落のすぐ傍にある森へ入る。下草の少ない、手入れされた森に、けれど路はない。孤児の王の城までの道なき路を知る少年の案内で、旅人達は森を歩く。 下枝が払われた木々の梢からは、陽がよく差し込む。森は明るかった。 「一族の使命だって父さんは言うけど」 少年の父親である黒狼の男は、今は宿屋でルチルダに使われ、雑用に追われているらしい。 「樹を植えることがか?」 苗木をその背に負ったシンイェに問われ、少年は小さく頷く。 「孤児の王の城をこの樹で満たすこと。何かよくわかんないけど、ずーっとずーっと昔からの仕事なんだって。遠くの地のこの樹を運んで、植えること」 見えてきた、と眼を上げる少年の視線を旅人達は追う。森の奥に人の手は入っていない。鬱蒼とした森の中、立ち上がるのは、巨石を重ねた城壁。その大半は崩れ、縦横に伸びる太い樹蔦に覆われている。元は白かった城壁は、今は苔生し、碧に染まっている。朽ち掛けているとは言え、遥か高い城壁の奥には、こちらも緑に呑まれ掛けて、古い城。 近付けば、城壁を覆い尽くそうとする樹蔦のあちこちに、深紅の花が咲いているのが見えた。城壁だけではない。その周囲を囲む深い堀さえ、樹蔦と花に埋められ、最早用を成さなくなっている。 堀を埋める花を踏み、樹蔦に絞められ樹々に踏み潰された城壁の前へと渡る。少年は、短槍の代わりに持って来た鍬で城壁の下の土を掘り返し始めた。 「城門のとこには怖い門番が居てさ、」 旅人達の手を借りて苗木を植えながら、少年はどこか楽しげに話し出す。 「魔法で動く人形みたいなもんなんだけど、……」 魔法、の言葉を聞いた途端、城門へと駆け出して行こうとするヌマブチの軍服の裾を、ヴィヴァーシュがしっかりと掴む。 「門番には近寄るなって父さんに言われてる」 シンイェの漆黒の背中に着いた苗木の泥を丁寧に払い、ありがとう、と少年は旅人達に頭を下げる。 「お蔭で仕事が楽だ」 苗木を植える作業が終わる頃には、陽が翳り、森に夕陽が当たり始めている。 「花が」 バナーが変化に気付き、首を傾げる。 陽が落ち行くと共、花は紅の色を失い、光を放つような白へと色を変え始める。血か炎を思わせもする、深紅に囲まれていた城が白く、静かに染まっていく。 「楽しかった」 また何処かの路で会えたらいいな、と。 少年は、薄闇に白くなる不思議の花を背に、白狼の仮面の奥の蒼眼を笑ませる。 終
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