『 直接会ひまみえて話したき事在れば、此の文を送す。 貴女に於いても某に伝えたい事が多しと察す次第。 明日、画廊街に待つ。 』 トラベラーズ・ノートに残されたそのエアメールに、東野楽園は思わず、金の瞳を見開いた。毒姫の羽を梳いていた手を止め、代わりにぎゅっと抱きしめる。 最も愛しくて、最も憎らしいひとからのメッセージ。無骨で、情緒なんて欠片も伴っていないような文面。 彼の意図は判らなくとも、無視をする事なんて、出来なかった。 ◇ いつもと変わらぬ晴れた空の下、画廊街の入り口で、その人は待っていた。 カーキ色の軍装。毅然と伸ばされた背筋。軍帽の下から覗く紅の目、そして――風に揺れる、虚ろの左袖。「ヌマブチさん」 男は楽園の呼び掛けにも言葉を返さず、ただ首肯を以って応えとする。吃と鎖された唇は岩のように堅く、何を語るつもりもないようだった。 軍靴を鳴らし、身を翻した男の背を慌てて追いかける。 決して振り返る事もなく、ヌマブチは彼女の五歩前を歩く。並び立つ事も声をかける事も躊躇われ、楽園はその後ろ姿をひたすら睨み据えるように見つめている事しか出来なかった。 戸惑う楽園の視線を空々しく受け流しながら、彼の足はとある場所へと向かっていた。 画廊街の隅にひっそりと佇む、小さな映画館『シネマ・ヴェリテ』。 たったひとりのためにフィルムを上映するその場所が、この日だけは、ふたりのために扉を開いた。 ◇「ああ、いらっしゃい」 柔らかい声が歓迎の意を表し、ヌマブチは仏頂面でそれに首肯で答える。シネマ・ヴェリテ専属の映写技師である男は招き入れるように手を開いて、彼と、彼の真意を汲めず困惑する楽園とを劇場の奥へといざなった。 館内では、ボリュームを絞られた音響と共にモノクロの映画が流されている。大写しになる俳優の顔、映写機からスクリーンへと続く光の帯を己の身体で踏み越えて、映写技師は問うた。「どんな映画を御望みかな?」 流れるサイレント・フィルムは、BGM代わりにその声を飾る。「お任せしたく。――某には、よく判らぬ故」 深く被った軍帽で表情を隠しながら、後半の言葉は声を顰めて伝えると、男は苦笑とも微笑ともつかない表情を浮かべそのまま立ち去った。 後に残されたのは、ふたりきり。 ほの暗い劇場の中、音響と映写機が回る音だけが響いている。「……ヌマブチさん」「僕は君の気持ちを何も知らない」 重い沈黙に居た堪れなくなった楽園が、息継ぎのように発した言葉を、ヌマブチの毅然とした声が切り裂く。目の前の男の、まっすぐに伸ばされた背筋が、ぐにゃり、歪んだような錯覚を覚えた。 否。 ――彼はその時初めて、彼女の方を振り返ったのだ。「話は全て人伝に聞いた。僕が君を傷付けたらしい事も知った」 情の籠らない声で、淡々と置かれていく言葉。紅の眼は真摯に、軍帽の下で爛々と煌めいている。「だが僕は君の口からは何一つ直接の言葉を聞いていない。察しろと言うかもしれない。だが、そんな曖昧なものを信じ、頼る心算は僕にはない」 空の左袖がひらり、と動きに合わせて翻り、楽園はその空虚さに毒姫を抱き締める腕の力を強くした。それを気にした風もなく、ヌマブチは帽子を深く深く被り直した。「暗闇の中なら、平素言えない何もかもを吐き出す事への抵抗も薄れるだろう」 まあ、女性を連れ立つ場など劇場ぐらいしか思いつかなかったというのもあるが。 朴念仁を鑑に映したようなこの男は、しかし確かに今、彼を追い続けた一人の少女に向き合おうとしている。帽子の影で光る紅眼と、普段とは違う言葉遣いからそれをはっきりと感じ取って、楽園もまた、その美しい金眼を逸らす事はなかった。「言いたい事があるならここで全て言え、僕も全てに答える。嘘は無しだ。建前も捨てよう。今度こそ、僕は逃げない」 五歩の距離で、視線が交わされる。 か細いイマジナリー・ラインで繋がれた二人は、どちらも一切の身動きを取れないでいた。「待たせたな」 そのラインを踏み越えぬように、そっと声が挟まれる。はた、と視線を外して振り返る二人を、映写技師は微笑を湛えて待っていた。ぱちん、と灯りを燈せば、銀幕に映っていた白黒の映像は霧のように溶ける。 彼がどこからか持ってきたのは、テーブルの上に並べられた、幾色のフィルム缶。「……それが、例の」「ああ。五色のフィルムだ」 青のフィルムは、《追憶》を。 赤のフィルムは、《断罪》を。 黒のフィルムは、《変革》を。 金のフィルムは、《希求》を。 そして、白のフィルムはどれでもない《何か》を。 フィルムに触れたものに纏わる、或る映像の断片を映し出すのだと、ヌマブチもまた噂には聞いていた。だが。「今日は客は一人ではないが」「そうだな。だが、だからこそ、と言う事もある」 男はヌマブチの言葉も受け流し、微笑んだ。 この大雑把な映写技師は、自らで決めたルールを気紛れで簡単に覆してしまう。元が休日の気紛れ営業だから構わないという話なのだろう。「御相手に見せたい、見てほしいものが在れば、遠慮なく利用してくれ。言葉では伝えきれないもの、映像にしなければ実感を抱いてもらえないであろうもの――そんなものが、君たちには沢山あるだろうから」 年寄りの節介だとでも思って、心の隅にでも捉えておいてほしい。 映写技師の言葉に、ふたりの観客は顔を合わせる事もなく黙り込んだ。 ◇ 暗くなる館内。 廻り始める映写機の音。 白い光に照らし出される銀幕。 ――そして、最後の舞台の幕が上がる。=========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>ヌマブチ(cwem1401)東野 楽園(cwbw1545)=========
フィルムが空回る。 小さく映像を結ぶ音が響いて、ゆっくりと、二人だけの舞台の幕が上がる。 穏やかな、暖かな赤みを帯びた黄金のノイズが、銀幕を覆い尽くした。 スクリーンが徐々に映像の焦点を合わせて行く内、黄金のノイズは柔らかな夕陽の光へと姿を変えた。銀幕の中、水平線に沈みゆく濃密な朱と黄金の融和を背景に、二つの影が長く伸びる。一面の黄金に染まった海と、砂浜の上を歩く恋人たち。 短く整えられた黒髪を靡かせて、恋人に寄り添って歩く娘はノイズと同じ黄金の瞳で微笑む。蕩ける笑みで隣を歩く男を見上げ、その腕を抱き締めて頬を寄せる。波音を纏う潮風に、清楚な白のワンピースがふわりと揺れた。 娘は悪戯な仕種で男の腕から離れ、白いサンダルを砂に塗れさせながら黄金の海へと駆けていく。その姿を、ただ恋人の穏やかな眼差しだけが静かに見守っている。 打ち寄せる波と戯れる娘。海岸の端で、海猫が歌う。 飛び岩の上に群れる鳥たちを見つけ、声を上げて娘はわらった。 そして、小さく息を吸い込む。 潮風に靡く黒髪。胸の前で組まれた両手。 華奢な唇から零れる、高くしなやかな歌声。黄金の光あふれる世界を、祝福の歌が優しく充たしていく。 ひとしきりフレーズを奏で終えた後、娘は黒い髪を翻して、恋人へと振り返った。羽織るストールの端が、翼のように膨らむ。 悪戯な黄金の瞳が期待に揺れているのを見、男はゆっくりと彼女の元へ歩み寄った。およそ砂浜には相応しくない、重厚な革靴の足許から、その姿が映し出されていく。常の軍装を脱ぎ棄てた、白いシャツが黄金の色に染まる。肩口で結ばれ、風に躍る空の左袖。 男の右手が、少女の頬に添えられる。白い肌は黄金の夕焼けに染められ、そして上気してほのかに赤い。 至近距離で覗く、紅の瞳が、優しく細められた。 黄金のノイズが重なりゆく二つの影を彩って、 そして、――。 「――これは銀幕の幻」 観客席にも溢れるような、夕陽の黄金に目を眇めて楽園は呟く。 二つ離れた席に座る彼がどんな表情でこの映像を見ているか、彼女には判らない。こんな暗い場所でも帽子を決して脱ごうとせず、あの引き絞られた紅い瞳を鍔の下に隠してしまっているから。 「そう、幻よ。知っているわ」 燦々と溢れる黄金のノイズは、いっそ残酷なほど美しく映画を飾り立てる。 「それでも私は望んでしまった。貴方と歩む未来を」 叶う事のない夢と判っていて、尚。 「……貴方の中に父の面影を見ていた事は否定しないわ」 落ち着いた物腰。迷い猫を引き受けてくれた時の、さりげない優しさ。数多の依頼を共に潜り抜けた。いつだって彼は自分を気に掛けてくれていた。 ――だから。 「……だから、裏切られて哀しかった」 あの日、必死で呼び止める己の声に応えてくれなかった彼へ、激しい憎悪が痛みと共に燃え上がった。 見捨てられた、と思った。彼の居ない日々に、たったひとりの日々に、生きる希望さえも失くした。 「孤独には慣れていたのに――貴方と出逢ってしまった所為で元のちっぽけな私に戻ってしまったの」 部屋に籠り、鋏を振り回して荒れていた日々を思い返す。己の細い肩を抱きしめて、苦しげに黄金の瞳を伏せる。 「貴方を手に入れるためには殺すしかないとまで思いつめて」 本当は、全て判っていたのかもしれない。 たとえ殺意を成就させた所で、彼の心を捉える事など永遠にできないと。 「……皮肉なものね」 掌に呼び出した、漆黒の鋏を見下ろして楽園は謳うように呟く。 「ようやく捕まえた――そう思った瞬間、貴方だけは殺せないとわかってしまったの」 何度もその鋏を突き立てようと思った。 しかし、出来なかった。そうするチャンスはいつでもあったのに。 「私は貴方に恋していた。――いえ、今もそう」 過去形で締めくくるには、あまりにも諦めが付いていない。面と向かった一度目の告白は、記憶の宮殿に眠った世界司書の過去と共に無かった事にされた。――ならば。 「誠司さん。……恋人として、共に歩んで行きたいの」 もう一度、最後の舞台で。 それを告げる事は、赦されるはずだ。 銀幕はまだ続いている。 艶やかな夕焼けに染まり、黄金の光が波打ち際に寄り添って立つ二人の影を切り取っている。 スクリーンから溢れた黄金の、《希求》のノイズが、少女のまっすぐな願いと共に男を飾る。 瞳を閉じたまま、無言で彼女の言葉を受け止め続けた男を。 少女の告白を聞き届け、男は静かに口を開いた。 「……それだけか?」 たった一言、返ってきたのは、凍り付くほどに冷たい声だった。 ◆ 銀幕が移り変わる。 夕陽の黄金を、希求の未来を、白いノイズが埋め尽くす。青が、赤が、黒が、ひとひらの金が、それを飾って、銀幕はさながら色彩をぶちまけたカンバスのような統一感に欠けた様相を呈した。 映写機の前に佇む沼淵の姿が、映像にシルエットとして焼き付く。銀幕へと届くのを遮られたノイズがその輪郭を彩る。 青。 夜の色。かがり火に照らされた濃紺の闇。 事を為すには絶好の天気だった。指先だけで部下に合図を送り、カーキ色の軍装が闇に融ける。この駐屯地でただ一人、闇と同じ色の軍装を着る事を許されたあの無能な男を、永遠に闇の中に葬り去るために。統率された動きで蟻たちが闇から闇へと渡り歩く。 何度繰り返しても同じ事だと判っていた。 だが為さねばならなかった。 ――生き延びるためには、無能な指揮官は取り除かなければならない。 暗闇の中に浮かぶモノローグ。 瞬間、赤のノイズが散った。 そして場面は目眩めく。 上官を“誤射”した新兵の自分。上官からの問い掛けにも頑なに口を閉ざし、紅の目を澄ませ続ける。 戦場。灰と紫の軍装。金の髪と蒼の瞳。女も男も関係ない。圧倒的な少数の力の前に、数のみで襲いかかる。卑劣な手段をも用いて、もぎ取った命。 倒れ伏す部下の姿。完膚なきまでの敗走の末、“隊の為”縋る腕を振り払い見捨てた男。 命を一つ奪う度、赤のノイズは銀幕を覆い尽くしていく。 赤。 血の色。全てを見逃し続けた、無力な自分の瞳。 狂おしいほどの哄笑。 舞い飛ぶ聖書の頁。 分厚い眼鏡の奥の、落ち窪み血走った眼。 世界樹旅団への出奔後、長く共に行動していた男の姿が映し出される。 すぐ傍に居ながら、ヌマブチは緩やかなその豹変に気付けなかった。否、気が付いていたとして、己には止める事など出来なかっただろう。 群青の宮の中、黒のノイズが走る。 面識がないとは言え元同胞に《変革》の針を穿ち、同僚を殺し、その身を異形へと変じさせてしまった。それは二人の罪だったが、実際に手を穢したのは彼だ。 妻子を愛し、それらを喪った過去を取り戻して狂い苦しむ彼は確かに、情深く信心深い一人の人間だった。 人を殺して罪を覚え、緩やかに狂っていけたのだから。 ――己とは違って。 己の迷いと、不明が、彼を狂わせた。 黒。 髪の色。この身を呈す意味が在る、そう思えたたった一人の男。 能面のような面。 端麗に整って、しかし表情を欠いたその青年の顔を前にして、そんな印象を抱いた。新たに派遣されてきた上官。彼もまた、今までの者たちと何も変わらぬと、初めはそう思っていた。 だが、衝突と不理解を繰り返した末、その考えは大きく改められた。 その志と、指揮を、部下として支えなければならない、と初めて想わされた男だった。 場面が戦場へと移り変わる。 カーキの中でただ一点の、濃紺の背に敵の矢が迫っていると気付いた時、沼淵は無意識に身を躍らせていた。 肩でその刃を受ける。続けざまに三条、突き立つ矢。 吹き出した血は、黒のノイズに蝕まれてまるで霧のようだった。 後悔はなかった。 ただ、己の行動に驚きだけが勝った。 己よりも彼が生き残るべきだと、そう思ったのかもしれない。 第七十二小隊の為に。 或いは、――の為に。 金色のノイズがざらざらと画面を襲う。ただ己が身を賭した彼の生だけを願う。 ブラックアウトする視界の中、名を呼ぶ声が遠く響いていた。 金。 光の色。暗いバーに溢れる賑やかな声。友が貫き通す眩いばかりの道。 暖かな黄金の光が氷を浮かべたグラスの中に融ける。杯を傾ける度ゆるゆると踊る色を見下ろす沼淵に、奇妙な装いの友が声を掛けた。肩を叩いて引き寄せる。 物静かなマスターが、語りあう彼らに苦笑にも似た微笑を浮かべた。 いつもの光景。日を変えても大して変わらぬ呆れた日常。 彼が左腕を喪って帰って来ても、友とその酒場とは今までと変わらず受け入れてくれた。眩いばかりの黄金の光が、酒場の入り口を潜った彼に降り注ぐ。紅の目を細める。 たくさんの罪を抱え、麻痺した心が訴える。 せめて、この場所ではひとでありたい、と。 眩い友の道に恥じることなく、隣合い、時には背中を合わせて立つことが出来るように。 酒場の中央からやってきた友が、ヌマブチに次の杯を勧める。呵々とした笑い声が騒がしいバーの中で一際響く。 乞われて差し出した、空になったグラスに注がれるエール。豪快に杯を打ちあわせれば当然の如くグラスから溢れる。 噫、その色もまた、《黄金》だ――。 目まぐるしく映像は転換する。 《追憶》、《断罪》、《変革》、《希求》、そのどれが欠けても存在し得なかったであろう、今の沼淵を構成する旅の道程。決して完璧ではない。失敗も、欠点も、罪も、後悔も、数多く在る。先の見えぬ道をもがき、悩み、間違いを繰り返しながらそれでも進むしかない盲目の旅人。 「これが僕だ」 《軌跡》のフィルムが映し出す、沼淵誠司と言う男の本性。 ――その何処にも、楽園の姿はない。 徐に、沼淵は軍帽を脱いだ。露わになった鮮やかな紅の瞳を初めて楽園へと向け、鋭い視線で射貫く。少女の肩が竦み、しかし彼女は逃げなかった。 「代替可能な都合のいい逃避先を求めるならくれてやる」 唇をいびつに曲げ、笑みを造る。 黄金のフィルムが見せた優しい恋人の微笑みに似て、しかし決定的に違う、歪んだ昏い笑み。 「ありきたりで優しい、常識的な言葉も吐いてやろう」 ぞっとするほど冷たい、嘲り――或いは蔑みをも含んだ言葉。楽園の求めるものを、嫌悪と拒絶とを滲ませながら婉曲な言葉で否定する。 「だが、君が真に僕と言う人間を求めるのなら」 紅の瞳が、ぞろりと煌めいた。 「君へくれてやれる物は何もない」 隻腕が己が胸を叩く。情を欠いた人でなしの中身が、がらんと音をたてたようだった。 「……貴方、は」 前言通り、人としての仮面を脱ぎ捨てた本音をぶつけられ、茫然と少女が声を震わせる。 「貴方は、私をどう想ってるの?」 その目尻に僅かな涙の気配が覗いても、男の視線は揺るがなかった。 「小娘は恋愛対象じゃない……?」 「無論」 頷いて応える。 「過去に依存し、求めてばかりの愚かな“小娘”に魅力など感じないな」 凍て付いた紅が静かに細められる。一片の情も与えずに、きりと引き絞られた鋭い矢のような視線が少女の脆さを貫く。 「もう一度言ってみせようか。――僕が居なければ立っていられないような、弱い女に興味はない」 「……それなら!」 男の言葉を遮るが如く、声を荒げて少女は貌を上げた。 風切り音を上げて、楽園の手の中に黒が現れる。大きな、ゴシックの装飾が為された鋏。彼女のトラベルギア。 「私が嫌いなら、いっそ殺して」 立ち上がり、踵が音を立てる。スカートがふわりと膨れ上がる。手の中で翻した鋏の刃を男へと差し出しながら、殺してと懇願する。 「生殺しは止して、貴方の中で私を永遠にして……」 殺意と失意が入り混じり、黄金の猫目を涙が彩った。振り乱した黒髪が幾筋か顔の前を横切る。 しかし、その鬼気迫った形相にも鉄面皮を崩す事無く、男は首を僅かに傾ける。 「僕がいつ“嫌い”などと言った?」 突き出された鋏の刃を握り、楽園の手から奪い取って、凍り付いた瞳で沼淵は彼女をとらえる。 言葉へ抱いた甘い期待が、その視線の鋭さに、抱いた端から砕け落ちる。 「正しくは“興味もない”だ。――殺す価値もないが、君がそれを望むのなら、良いだろう」 ぴたり、と、冷たい刃が白い首に触れる。少女の肩が大きく震える。 嫌うほどの関心も、殺すほどの疎ましさも抱けない相手。 それなのに。 ただ、頼まれたから、それだけで男は刃を翻した。 少女の、砂糖細工のようにあまやかな唇から、息が零れた。落胆と、諦念を滲ませた、魂そのもののように重たい呼気。 笑むような表情を造り、楽園は瞳を閉じる。拍子に眦から涙がひと雫零れ落ちるのをも、沼淵は鉄面皮で見送った。 暫しの間、どちらも身動きが取れなかった。 「悔しいか」 再び掛けられた声に、少女の長い睫毛が震える。光を反射する雫を纏い、美しく煌めく。零れんばかりの黄金を見開いて、少女は再び男を見遣った。 「悔しければ強い女に成れ」 そう言う男の背で、無名のエンドロールを流し続ける銀幕が静かに輝いている。白いスクリーンを蝕む白いノイズが、ちらちらと残像のように瞬いている。 「広い世界を知り、友を得て、健やかに凛と育て」 狭い狭い、嵐の鳥籠の中しか知らぬような少女ではなく。 「過去に囚われず、己の意志で己の命を生きろ」 黄金のフィルムが映し出した、恋人に寄り添う娘でもなく。 「――そして、いつか僕の事を見返し笑い飛ばせるようになれ」 楽園よ、と。 音に成らぬほど小さな声で、男はその日初めて少女の名を呼んだ。 「その時初めて、君の願いと復讐は成るだろう」 ◆ ざ、ザ―― 映像を止めたはずのフィルムが、唐突に回転した。 白いスクリーンに白いノイズが散る。淡く、空虚に、微かな濃淡が揺れ動いて――そして、銀幕の隅に、小さな花が咲いた。 カーブする細い花弁。白く可憐な花。――ダイヤモンド・リリー。 黄金の瞳が大きく見開かれる。 見覚えのある花が咲いたのも束の間、白いノイズが形を変える。歪み、残像を残して、一羽の白い鳩が顕れ、淡い金のノイズを散らせ、銀幕の奥へと飛び立ってゆく。 白のフィルムは気紛れな上映を終えて、ふつ、と音を立てて消えた。背を向けた沼淵の目には入らなかっただろう。“これが僕の全てだ”と言った彼は、気付いているのだろうか。 本当に情がないのならば捨ておけばいいだけの話だ。 こうして言葉を尽くして突き放す必要もない。 (こんな男一人、早くお忘れなさい) あの日の言葉の意味。もう、判っている。あの白い鳩は、自分なのだ。 ネリネ――二人の思い出と、歪んだ執着から解放され、遠くへと飛び立っていく事を彼は望んでいる。何にも囚われることなく、自由に。何処へでも。 全身の力が抜ける。 膝から崩れ落ちて、楽園は長い髪で顔を隠し俯いた。 「……馬鹿ね」 変化を掴みきれぬと言った目で、しかし冷酷な表情を崩さぬまま沼淵が彼女を見下ろす。まっすぐに伸ばされていた彼の手は、結局楽園の肌に掠り傷一つ与えなかった。 それが、彼の望みだと言うのなら。 猫のようなしなやかさで伸びあがった少女が、沼淵の手から鋏を奪い取った。踊るようなステップで踵を返し、彼から距離を取る。 長い髪を首の後ろで一つに掴み、彼へと見せつけるように鋏を開いた。 「これは覚悟の証」 金の眼が強い意志を孕んで煌めく。 刃と刃の擦れ合う、小気味好い音が響いた。 「……!」 その時初めて、沼淵は紅の目を見開いた。 硬質な乳白色の床に、長い漆黒の髪が散らばる。肩の上で切り揃えられた、短くなった濡れ羽色の髪が少女の白い頬を彩る。 「過去を清算し、新しい私に生まれ変わるための」 靴音を高く響かせて、楽園は再び彼へと歩み寄る。切り取った髪を一房差し出して、艶やかな赤の唇が言葉を紡いだ。 髪は女の命。それを惜しげもなく切り、差し出す行為に、言葉では顕せぬほどの決意を感じ取って、沼淵は粛々と受け取った。その面に先程までの、嘲るような色はない。 ザァ、ア――…… 再び、気紛れな銀幕が音を立てる。 黄金のノイズを鏤めて、振り返る事を忘れた男の輪郭を鮮やかに飾る。 スクリーンに映し出されるのは、黒髪の女の姿。 若い娘と呼ぶには年を経すぎている。今の沼淵と同じくらいか、或いは、それよりも上か。黄金の目を優しく細め、華奢な白い肌を黒い和服に包んでいる。そこに病的な儚さも、脆さもなく。歩んできた道の豊かさを感ぜられる、教養に充ちた笑みを浮かべていた。 包み込むような淑やかさと、悪戯な仔猫の面影を持ち合わせた、妙齢の婦人。 これもまた、楽園の《黄金》なのだろうか。 ――それとも。 「いつか、貴方が後悔するくらい美しい女になって見せる」 チェシャ猫のような悪戯な快活さを取り戻し、無限の可能性を秘めた少女はわらう。再び軍帽を被り直した軍人は苦笑し、しかし頷いた。 「楽しみだ」 「――そうしたら、今度こそ貴方の隣に立てるかしら」 紅の眼が見開かれる。 再び表情を引き締め、言葉を紡ごうとするのへ、白い人差し指をその唇に宛てて制した。その上から、指先越しに密やかなキスを送る。一層見開かれる瞳が可笑しくて仕方がない。 銀幕から溢れるノイズと同じ、黄金の瞳が煌めきを零す。 ただ健やかに、挑戦的に、猫の目で少女は微笑んだ。 「それが私の、復讐よ」
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