ブルーインブルーでしばらく過ごすと、潮の匂いや海鳥の声にはすぐに慣れてしまう。 意識の表層にはとどまらなくなったそれらに再び気づくのは、ふと気持ちをゆるめた瞬間だ。 希望の階・ジャンクヘヴン――。 ブルーインブルーの海上都市群の盟主であるこの都市を、旅人が訪れるのはたいていなんらかの冒険依頼にもとづいてのことだ。 だから意外と、落ち着いてこの街を歩いてみたものは少ないのかもしれない。 帰還の列車を待つまでの間、あるいは護衛する船の支度が整うまでの間、すこしだけジャンクヘヴンを歩いて見ようと誘いをかけてみた。 明るい日差しの下、密集した建物のあいだには洗濯物が翻り、活気ある人々の生活を見ることができるだろう。 市場では新鮮な海産物が取引され、ふと路地を曲がれば、荒くれ船乗り御用達の酒場や賭場もあるかもしれない。 ブルーインブルーに、人間が生活できる土地は少ない。 だからこそ、海上都市には実に濃密な人生が凝縮しているはずだ。 ジャンクヘヴンの街を歩けば、それに気づくことができるだろう。 そして、それはきっと彼女にとって、ちょっとした……あるいは素敵な刺激になってくれるんじゃないだろうか。 そう思ったハクアが穏やかな表情で、同居している少女に語りかけたのは少し前のこと。「ゼシカ、年が明けたら、ジャンクヘブンに行ってみないか?」 少し前まで父の墓標に出向いては、帰ってくると「信じているまま」泣きじゃくっていた幼い子。 どこで何をしているとは一言も漏らさなかったけれども、いつも目を腫らして帰ってきた小さな娘。 それでもほんの、少し前。 誰かの手製のオルゴールを手にして帰ってきてから、ほんの少し様子の変わったゼシカ。 その緩やかな変化を見守っていたハクアが、前々から考えていた事を実行に移す決心をしたのだった。「ジャンクヘブン……?」「そう――温かい海の街だ。そんなに大きくはないが、色んな人や、お店がある。二人で、一度じっくり見て回らないか?」 その場にしゃがみ、ゼシカと視線をあわせて問うハクア。 その緑水石の瞳をみつめ、ゆっくりと、ゼシカが微笑みを浮かべてみせる。「うん、ゼシね、魔法使いさんと一緒なら、楽しいと思うわ。一緒に楽しめるといいね」 かくてハクアは二人分のチケットを手配して、ブルーインブルーへと降り立った。 ジャンクヘブン――奇しくもそこは童女の父も、かつて訪れた街並で。 その地で少女は何を見、何を思うのか。 傍らの青年は、何を想い、何を語るのか。 これは、共に過ごし始めた二人の、二人だけでの初めての旅。=========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>ハクア・クロスフォード(cxxr7037)ゼシカ・ホーエンハイム(cahu8675)=========
「きれいな、空」 桟橋に降り立ち空を見上げたゼシカが、歌うように想いを紡ぐ。 空が綺麗に見えるのは、本当に空が綺麗なのもあるのだろうけれど。 でも、きっと魔法使いさんと一緒にこれたから。 「ゼシカ――どこへ行こうか?」 傍らに立って名前を読んできた青年が、手を差し伸べてゼシカへと笑いかけてくる。 「ゼシね、魔法使いさんと、いろんなお店を見てまわりたいわ」 ゼシカもまた、背の高い青年を見上げ、空の青さに、目を細めつつ笑みを浮かべた。 青く高い空。勇ましくも暖かい日差し。ゆるゆると響く波の音。 変化の少ない0世界にいては止まりがちに思えることもある時間が、ここでは確実に、着実に流れている。 魔法使いさんと話したいことはいっぱいあるわ。 でも、今は一緒に街を歩きたいの。 手をつないでくれて、こうして一緒に歩いていけること。 それを、ちゃんと感じていたいなって思うのよ。 ――とは、今は、一緒に歩くことができないんだもん。 ‡ 「魔法使いさん。これ、ゼシからのプレゼントよ」 ふと屋台に走り寄って何事か会話していたゼシカが、戻ってきて手渡してきたもの。 「帽子?」 「今日の記念に、ゼシから魔法使いさんへ。ゼシとお揃いなの」 受け取ったハクアに笑みを浮かべたゼシカもまた、その帽子――麦わら帽を、しっかりと被る。 ハクアもまた、一つ頷いて帽子を頭へとかぶせた。 「お揃い、だな」 「お揃いなのよ」 ふふ、と笑いあう二人。 「行きましょ」 そう言って、ハクアの手をとりたた、と駆け出すゼシカ。 「気をつけないとダメだぞ」 予想外に積極的な少女の動きに、硬い表情をいつもより崩しつつ、ハクアはついていく。 やはり、ここに連れてきたのは正解だったんだろうと思いながら。 ‡ 「わあ、すごい」 通称キャンパス・ウェイ。 名前のとおり、無数の絵かき達が集まる、修行と稼ぎの為の通りだった。 様々な技法、様々な紙、様々な道具で絵を書いてみせるそれぞれの絵師の姿に、ゼシカは「いろいろな人がいるのね」とハクアへ語りかけてきた。 「ゼシカ、似顔絵を書いてもらうか? その……俺と一緒の、とか」 「いいの?」 驚いたように問うゼシカに、ハクアは勿論だ、と頷く。 少女はほんの少しの逡巡を見せたものの、すぐさま笑顔で返してきた。 「お願いできるかな?」 最も興味深そうにゼシカが見ていたように思えた絵師へ、声をかける。 いくつかのやりとり。 ゼシカを座らせ、それを背後からかばうように、後ろに座って。 「兄妹かい?」 問いかけてくる言葉に、「ああ」とだけ返すハクア。 頭の上から聞こえた言葉に、ゼシカははにかんだ様子の笑みを浮かべ、絵師の筆の動きをただじっと眺めているのだった。 ‡ 出来上がった絵はニ枚。 一枚をゼシカに「記念だよ」、と渡してあげ、いくつかの画材を購入した後。二人が訪れたのは、小さなお店。 「ここは前来た時に見つけたところなんだ――気に入ってくれるといいんだけど」 それは、住宅街の中で、ぽつんと置き去りになったような、小さな隠れ家レストランとでもいうべき場所だった。 地元の常連が数名卓に座っている他に客はなく、狭い客席は旅館の食堂のように和気藹々とした雰囲気に包まれていた。 店員と客が楽しそうに会話を交わし、後からきた客に先客が親しげに話しかけてくる。 そんな、下町のレストラン。 「うるさくないか?」 人見知りがちなゼシカを気遣ってハクアは言うが、正面に座ったゼシカはふるふると首を横に振る。 「ゼシ、大丈夫よ。魔法使いさんのおすすめ、とってもすてき」 心からの言葉なのだろう。 全く肩に力の入っていない言葉。 柔らかな笑み。 やがて、食事が供されて。 「あふっ……れも、おいしい!」 ラザーニャのような料理に、塩味のパン、魚介類をふんだんにつかったシチューが、程良い量で。 粗挽きのお肉で作ったミートソースが芳しい匂いを漂わせている。 歩きまわってお腹が減っていたのだろう。 がっつくような様子ではないが、それでも待ちきれないとばかりに急ぎがちに口に入れたゼシカ。 少しだけ、口を火傷してしまったようだった。口を抑え、ろれつの回らないながらも感想を漏らしている。 浮かんでいるのは、痛みに眉をしかめてなお明るい表情。 「大丈夫か?」 「うん、ゼシへいきよ」 短い会話。けれども、二人にはそれだけで十分で。 「ゼシカ。口の横についてしまってる」 そう言うと、そっと綺麗な布で、ゼシカの口元を拭うハクア。 「あっ……あり、がとう」 照れたように笑う少女。 思わず見つめ合って、二人は互いにだけ聞こえる小さな笑い声を漏らし合った。 ただ、ほんの少しだけ間をおいてゼシカの瞳に揺らぎが見えたような気がしてハクアは問う。 「ゼシカ?」 「なぁに? 魔法使いさん」 不思議そうな顔で小首を傾げるゼシカに、見間違いか、と考える。 心配性になっているらしい自分に、思わず苦笑が浮かんでいた。 「いや、なんでもない。食べようか、冷めてしまう」 「うん! 美味しいのに、冷めたらかわいそう」 ‡ そこは、小高い丘の上。 街を一望できる地点として住民からも愛されているその場所に二人はいた。 「あの丘の上で、魔法使いさんを描いてみたいの」 そう言って、連れてきてもらった丘の上。 潮風を受けて髪をたなびかせつつ笑うハクアの姿を、ゼシカはお気に入りのクレヨンでスケッチブックに描き出していた。 指を動かすたびに、心をこめて。 目に見えない気持ちが、少しでも形作られるようにと祈りをこめて。 ずっと残しておきたい。いつまでもとっておきたい。この、素敵な景色。 素敵な町を背にした、魔法使いさんの素敵な笑顔。ずっとずっと、側にいてほしい。 片手に持って、胸に当てられた麦わら帽子。 「おそろいね」 聞こえないように、ぽつりとゼシカはつぶやいた。 とても、とても似合ってる。 ゼシと二人でお揃いの帽子。 おそろいの帽子で手をつないで歩いてたら、ホントの兄妹に見えるかな? そう思って、思い切って繋いでみたの。 心の中で語りかけながら、ゼシカがその手を動かしていく。 自身を優しく見つめるハクアの視線を感じながら、時折顔をあげて目を合わせ、にっこり笑ってまた描く。 ゼシ、知ってるわ。 本当は、その視線を独り占めしてたはずの人がいるってこと。 食堂でお口を吹いてくれたのも、ホントはゼシじゃなくて、その人がされてるんだってこと。 ごめんなさい、貴女のお兄さんをとっちゃって。そう、心の中で少女は懺悔する。 一緒に暮らそう――そう言ってくれた青年の手をとって。 悪夢にうなされる夜に、優しく声をかけ、抱きしめてくれる腕に安堵して。 もうすぐ迎える、誕生日。 孤児院に居た頃は他の子達と一緒に迎えた誕生日。ターミナルに来てからは、ずっと一人で寂しく過ごしていた誕生日。 今年は魔法使いさんと一緒に過ごせるのかしら? ゼシ、魔法使いさんと家族になりたい。 それは、少女の心に浮かぶ、強い想い。 同時に少女は知っている。それは、自分と同じ状況にある他の子を犠牲にしてのものだということを。 だから懺悔する。 ごめんなさい、貴女のお兄さんをとっちゃって。 魔法使いさんが故郷にホントの妹さんを残してきたの、知ってるの。 いつか、帰らなきゃいけないの。わかってるの。 でも、それまでは……ゼシだけの、優しくてかっこいい魔法使いさんでいてほしいって……わががまかな……? 大事な大事なお兄さん。 白い青年に映えるように、足元にはそこにないはずの白詰草。 遠くに見える海の碧と空の蒼は、市場で魔法使いさんが買ってくれた染料で、染め上げる。 その方が、きっとこの素敵な世界を一緒に絵にしてあげられるとおもうから。 ‡ 吹き付ける風に、強いはずなのにどことなく柔らかな日差し。 以前にも訪れたことのあるこの街だが、民人の気性が明るく、過ごすに良い街だと、再度実感する。 この街で過ごす生活というのも、もしかしたら穏やかで、暖かで、中々に素敵なものかもしれないと、そう思う。 異国から訪れる異邦の民を快く受け入れ、送り出す街。 流れ行く民達に優しくあろうとするかのように、この街の雰囲気――おおらかにあらゆる人を受け止める、その懐の大きさが、心地良い。 風にふかれ、目を細めながら物思いに入り込みかけていたハクアの耳に、幼い娘の声が飛び込んでくる。 「できたわ!」 満足そうな声に視線を向ければ、笑みを浮かべてハクアを見上げる少女。 描き終わるまでじっと姿勢を保ち続けていた青年は、ゆっくりと少女へ歩み寄っていく。 遠くから聞こえる鐘の音が、帰りの時が近づいていることを、告げていた。 「今日は楽しかったか?」 近づき、問いかける言葉に、ゼシカが「とっても」と応えて。 その様子に、ハクアは静かに微笑んだ。 そっと、スケッチブックを閉じ、立ち上がるゼシカ。 少しだけ座ってくれないかと、少女がハクアへ語りかけてきた。 「どうかしたか?」 しゃがみこんで膝立ちになった青年を見て、ゼシカが笑う。 「今日は、ありがとう。あの、その、ね……ゼシ、お礼がしたいの。目をつむって、くれる?」 二三度目をしばたき、青年はゆっくりと目を閉じる。 そんな青年のおでこに、幼い少女が、ゆっくりと口づけを落としてくる。 「あのね、おでこへのキスは祝福のしるしだって、先生が言ってたの。魔法使いさんに、この先たくさん幸せがおとずれますように。もう一度、神父さんや妹さんに会えますようにって、お祈りしているの。きっと叶いますようにって願いをこめて、ゼシからの祝福のしるしなのよ」 だから、きっと叶うと思うのよ。 そう言って微笑むゼシカ。少し照れくさそうに微笑んだハクアは、「こちらこそ、ありがとう」とだけ言い、その頭を撫でた。 くすぐったそうに首をすくめるゼシカだったが、ふとまた、その瞳がゆらぎを見せる。 やはり何かあるのだろうか――疑問に覚え、問いかけようとした、その時だった。 ‡ 「……ねぇ魔法使いさん」 少しだけ、迷ったように言い淀んで。 それでもゼシカは口にだす。 きゅ、と頭を撫でる手の袖を掴んで、視線は下を、むいたまま。 自分はこれからわがままを言うのだと、分かっているから、どうしてもハクアの顔を見れなかった。 「ひとつだけ、お願いがあるの」 ぽつり、と呟くその声は、弱く、儚い。 断られたらどうしようという想いからか。 或いは、自分と一緒にいてくれる優しいお兄さんを、縛り付けてしまうことになるのではと、無意識に畏れているからか。 それは、とうのゼシカですらわからない。 「おうちに帰ってもね、ゼシの事、わすれないでほしいの。ゼシと過ごした毎日だったり、今日、ジャンクヘブンに来たこと、忘れないで、ほしいの。ゼシね、ずっとね、魔法使いさんのこと、覚えてるわ。だから、魔法使いさんも……時々でいいから、この海の青さと一緒に、時々でいいのよ? ゼシのこと、思い出してほしいの」 袖口をつかむ手は微かに震え、たどたどしくそう「お願い」を告げる少女の頭を、肩を、そっとハクアが抱きしめる。 「ああ――約束だ」 心配するな、可能な限り、ゼシカが必要とする限り、ずっと一緒に傍にいるから――そんな想いがこめられた言葉のように思えたのは、少女の願望だろうか。 少女にとって、それはどちらかわからなかった。 けれど、うん、と言ってくれたから。 約束だと言ってくれたから。 それだけで、よかった。 「指きりげんまん。約束よ」 そっと身を離し、小指を絡めそう言うと、ゼシカは潤んだ目をしつつ、明るく微笑んだ。 「今度は、また他の世界を二人で旅しよう――いろいろなものを、一緒に見よう」 「ホント? ゼシ、楽しみにしているね」 ハクアの言葉が、ゼシカの笑みを大きくする。 絡めたままの指先を再度振って、二人はいくつもの約束を交わしていく。 海風だけが、そんな二人を優しくつつみ、空に輝く太陽と、足元に咲く無数の名も無き花達が、それを静かに見つめ続けてる。 ゆらゆらと。ゆらゆらと。 儚いその身を、優しい風に任せながら、ただただ静かに見つめてる。 ‡ 「そろそろ、行こうか」 帰りの刻限が、迫っている。 ゼシカの手を優しく握り、立ち上がらせると共に歩き出す、ハクア。 「うん」 頷くゼシカ。 二人の楽しい時間に、一つの区切りが打たれる。 今は楽しくて、切なくて、嬉しくて、怖くて、色んな想いが綯交ぜになったその時間。 いつしか思い出になる時がくるだろう。 その延長線の時間をずっと過ごしているのか、それとも、別々の道を歩んだ先で、そっと振り返る記憶なのか。 それは、誰にもわからない。 一緒に歩く、石畳。 心の中で、ゼシカは言う。 掌を伝って伝わってしまうかも。 そう思いながらも、口に出しては決して言わないその言葉。 ひっそりと胸にしまう、その言葉。 ありがとう、魔法使いさん。 ゼシも忘れないよ。 魔法使いさんと過ごした毎日を。 絶対に、忘れないの。 きらきら光る、心の宝石箱に、しっかりしまっておくからね。 いつもしっかり鍵をかけて、無くさないように持ってるの。 そうして時々取り出して、大事に大事に磨いていくの。 きっときっと、ゼシの素敵な宝物に、なってくれるから。 ――だから、もしいつかいなくなる日がきても……
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