深い深い闇が暁京を覆い尽くす。 今日は新月。 まあるい月を見ては狂気的だ、不吉だと怯えることのあるこの世界の人々ではあるが、暗闇は暗闇で人を心細くさせる。 月のない夜を狙うのは人ならざるものだけではなく、悪しき思いを抱く人々も加わるものだから。 今宵の闇に常ならぬ禍々しさを感じた古参の高名な陰陽師、帯刀賢陽(たてわきけんよう)は陰陽寮の陰陽師たちに待機を命じた。同時に香術寮筆頭を務める九頭竜詩紅(くずりゅうしぐれ)も香術師達を招集し、不吉な予感に備えた。 僧たちは陰陽師や香術師に比べれば、怨霊や物の怪に対抗する力が弱いとはいえ、まれに現れる生まれ持って能力の高い者や徳を積んだ僧の中には、この禍々しさを感じ取った者もいることだろう。各地の寺でも禍々しさを感じ取った者達が有事に備えて祈りを捧げていた。ただ、その中に妙弦寺の僧、栄照(えいしょう)の姿はなかった。 何も起こらずに夜が明けてくれればそれでいい、杞憂であればいい。 しかしその不安は現実のものとなる。 世界司書、紫上緋穂の導きの書に、暁京を襲う怨霊や物の怪の情報が浮かび上がったのだ。 *-*-* じゃらり、手にしていた勾玉を手の中で弄りつつ、歩みを進める。 手の中の勾玉はおどろおどろしいほどの漆黒。 人目を引かぬよう、さりげなく目的の場所に勾玉を落としてゆく。 昼間のうちに仕掛けておいたものは、手の中に最後に残る勾玉の呪力を発動させれば共に発動するはずだ。 勾玉を託した者達も、すでに設置を終えたことだろう。 後は、この手の中の勾玉をばらまき、そして呪力を発動させるだけ――。 都が混乱に陥る様子を見るがいい、――め。 *-*-* 世界司書の紫上緋穂が珍しく真剣な顔をして集まったロストナンバー達を見た。「夢浮橋で、結界で守られているはずの都を中心に、怨霊や物の怪の活動が活発になっているのはもしかしたら耳に挟んだことがあるかもしれないと思うんだけど」 導きの書を見つめ、緋穂は一旦言葉を切ってから、続きを紡ぐ。「多くの怨霊や物の怪が、都内や都付近の数カ所を一斉に襲うということが分かったよ」 これまで疑われていた通り、この手の一連の騒動は人為的なものであるという。「導きの書は、妙弦寺の僧、栄照(えいしょう)が黒い勾玉を使って妖かしたちを暴れさせるって出たよ」 都の各所で暴れまわる妖かしへの対処には、他のロストナンバー達が向かうことになっているという。ここに集まった者には栄照への対処をお願いしたいと緋穂は言う。「ただ、以前ジュリエッタ・凛・アヴェルリーノさんが帝に調査を頼んだ栄照の足取りだけど、後宮や内裏へ入った様子はないって。今回は内裏内は襲撃されていないし……何を狙っているかはわからないけど、混乱を狙うなら内裏の中を一番に狙いそうだけどね。まあ、狙えればだけど」 続けて緋穂は栄照について説明を始める。 栄照は美貌の僧で、幼い頃に妙弦寺に預けられた。4つの時に母親を亡くしたためだ。父親は、栄照が知るかぎり訪ねてきたことは一度もないという。寺で功徳を積んだ栄照は、元々あったらしい力を修行で伸ばし、妙弦寺では一番実力を持った僧になっていた。「彼がなぜ妖かしを使役して、国を混乱に陥れようとしているかはわからないよ。でも、放っておいたらこの先なんどでも同じことを繰り返して暁京を混乱に陥れるだろうね」 今回栄照にどう関わるかは接触するロストナンバーに委ねられているという。 捕らえて検非違使に突き出しても、その手で息の根を止めても、改心させても、遠くへ逃しても。 ただひとつ、暁京の不利益にならないようにしてほしいというのが緋穂からの願いだ。「栄照はね、大内裏へ入る入口である神楽門(かぐらもん)の付近に隠れて、神楽門から慌てて役人たちが出動するのを見ているみたい。自分を捕らえに来たとわかったら、抵抗するかもしれないし逃げるかもしれない、注意してね」 神楽門をくぐれば大内裏だ。普段、特別な召し出しがなければ栄照の歩み入ることの出来ぬ場所である。「情報が少なくてごめんね。でも、大事な役目だよ。私、みんなのこと、信頼しているからね」 緋穂は目尻を下げて申し訳無さそうにロストナンバー達を見つめた。 *-*-* ――貴方のお父様はね、とても身分の高い方なのよ。 ――ちちうえはなんであいにきてくれないの? ――お仕事がお忙しいのでしょうね。 ――あいたい! あいたい! ちちうえにあいたい! それは幼き日の記憶。 今思えば自分より母のほうがどれほど父に逢いたかったであろうことか。 駄々をこねる幼子をあやしながら、それでも母は幸せそうに自分を抱きしめてくれた。 ――ごめんなさいね……貴方を一人残して私は……。 涙を流して謝罪する母が最後につぶやいた言葉。声にならなかったがその口の動きを今でもはっきりと覚えている。 ――お逢いしたい――。※このシナリオは、同時公開のシナリオ『【【闇花繚乱】あかつきを呑み込む』と同じ時系列の出来事を扱っています。同一のキャラクターによる両シナリオへの複数参加(抽選へのエントリー含む)はご遠慮下さい。
その夜の暁京は大変騒がしかった。活気があるという意味での騒がしさならば歓迎できたものの、意味としては逆のものであったがゆえ、暁京に住まう者達としては安らかな眠りの得られぬ夜である。 * 「栄照様についてはジュリエッタ様がお詳しいと聞きました。彼について知り得ることを教えて頂けますか」 夢浮橋へ向かうロストレイルの中。四人がけの席に吉備 サクラと並んで座ったドルジェが、向かいに腰を掛けているジュリエッタ・凛・アヴェルリーノへと告げる。 「わたくしも、あまり多くは知らぬのじゃが……」 けれども明らかに他の二人よりは知っているといえる。だからジュリエッタは彼について知っていることを二人に語って聞かせた。 「恐らく、栄照様は御父上を探そうとしているのではないでしょうか。或いはもう居場所や素性を知っている可能性もありますね」 話を聞いたドルジェは静かな瞳はそのままに、顎に軽く指を当てて自身の考えを紡ぐ。 「やっぱり、逢いたいのでしょうか? でも、ただ逢いたいだけにしては……」 やっていることが大掛かりすぎる。サクラが口にしなかった部分を、ドルジェもジュリエッタも感じていた。 「普通に会うことが叶わないから、都を混乱させ、それに乗じて御父上を誘き出し、何か……ただ話をしたいのかもしれませんし、暗殺を目論んでいるのかもしれません」 後者ならば止めなければ、冷静に告げるドルジェ。黙って彼女たちの話を聞いていたジュリエッタは膝の上で拳をきゅっと握り、二人を正面から見て思い切って口を開いた。 「お願いがあるのじゃ」 一拍置いて、ゆっくりと言葉を吐き出す。 「二人が栄照殿を探している間、別行動をすることを許してほしい」 「……なにか、心あたりがあるんですか?」 サクラの問いにジュリエッタは小さく頷いた。 「じゃが、確かめたわけではないゆえ間違っていたら大きな問題になりうる。だからまだ話すわけにはいかぬのだ」 わかってくれ、頭を下げるジュリエッタを二人は責めはしない。 「わかりました。栄照様の捜索は私達に任せてください」 「栄照さんを見つけたら、ノートで連絡します!」 「かたじけない……!」 顔を上げたジュリエッタは二人の手を取り、そしてぎゅっと握りしめて感謝の意を示した。 程なく、列車は夢浮橋の『駅』へと到着するだろう。 * ロストレイルから降りたジュリエッタは花橘殿へと向かい、馬を借りた。都では妖かし共が跳梁跋扈しているが、そちらへの対処には多くのロストナンバー達が向かった。彼らが無事に事態を収束させてくれる事を祈り、ジュリエッタは今、自分にできることをするのみ。 急ぎ向かうは――大内裏。帝に面会を願うのが目的だ。 混乱を極める内裏内に入り込む。止められることもあったが「花橘殿から帝への急使じゃ!」と告げれば通してもらうことが出来た。今宵の騒ぎなれば、各所から急使が参ることは不思議ではなくて。それほど怪しまれることはなかった。皮肉にも、この混乱に乗じた形となったことに少しばかり心が痛むがこれも混乱を収めるために不可欠なこと。ジュリエッタは馬から降り、何度目かになる口上を述べる。他に手があいている者がいなかったのだろう、宿直の武官の一人と思しき男がジュリエッタを案内してくれた。 「お目通りの許可をいただき感謝するのじゃ。帝、早速じゃが人払いを願えぬだろうか?」 「……誰かと思えばあの時の娘か。この混乱のさなかにわざわざやってくるということは、さぞ重要な話なのだろうな?」 夜だというのにしっかりとした着衣に身を包んでいる帝。恐らくは都の異変に起こされて着衣を改めたか、あるいは何か起きそうな予兆があると聞いて昼間から待機しているのか。いかにしても暇をしていたとは考えにくい。 「わたくしは現在暁京を混乱に陥れている元凶を知っておる」 御簾は半分巻き上げられている。帝の顔は鼻から下が見えるだけであるが、ぴくり、身体が反応したのは見て取れた。 「ほう……聞こうではないか」 人払いが済んだのを確認して、ジュリエッタはまっすぐに帝を見つめる。今、持っている推測が間違っていたとしたら、不敬罪に問われるかもしれない。けれどもジュリエッタは自分の直感を信じる。 「元凶は妙弦寺の僧、栄照殿じゃ。栄照殿は黒い勾玉を使い、各所に妖かしを放って騒動を起こしておる」 「その栄照とやらは何のために? 私の御代を穢すには十分かもしれぬが……そのような大それたことをして、本人も無事では済むまいて」 言葉を返す帝の声はどこか他人事めいていた。自らの御代の汚点ともなりそうな出来事に、ここまで他人事のように構えられるのはなぜなのだろう。他人事ではないのじゃ、漏れ出そうになる言葉を抑えてジュリエッタはゆっくりと語る。 「栄照殿の目的は帝自身。彼は父がおらぬという、ただ死んだとは言わなかった……根拠はない、しかし以前見せた表情が帝殿と同じなのじゃ。まるですべてを諦めているような……」 あの時自分が感じたものが嘘だとは思えない。帝と栄照の持つ、どこか似通った雰囲気。栄照の見せた、帝の前にいるような威圧感。 「……お心あたりがあるまいか」 「……」 言葉を切って、ジュリエッタは待つ。視線は御簾の向こうの帝の瞳を捉えたまま、動かさない。 パシン、閉じた扇子を掌に軽く打ち付ける音が沈黙に響く。遠くに聞こえる怒号と喧騒が、まるで別世界の事のように思える。 「……夕星(ゆうづつ)」 「え?」 「……まだ東宮であった頃、忍んで出かけた星のよく見える場所で、共に夕星を眺めた女がいた」 それは昔を思い出した帝の独り言のように呟かれていった。決して多くの言葉が紡がれたわけではない。 数度、逢瀬を重ねたこと。 そののち、逢うことはなかったこと。 心あたりがあるとすれば、その夕星の君だけであること。 その時の自分の気持だとか、未練だとかは乗せずに淡々と事実のみが語られる。まるで、他人が帝の人生という年表を読み上げているようだった。 なぜ、逢うことが叶わなくなったのか。その時帝はどう思ったのか。今は夕星の君のことをどう思っているのか。聞きたいことはたくさんある。それが聞ければ栄照の心も動かせるかもしれない。だが、帝は言葉に、問うことを許さぬ冷気を纏わせていた。 「愛はなくとも、出向くことは適わずとも、せめて片袖なり言葉なり下さらぬか?」 「……」 立場上、栄照が自分の子だと公にすることが出来ないということはジュリエッタにもわかる。この願いに何の反応も返されなくとも、責めも否定もしない。だが、少しでも夕星の君への心が残っているのならば、何か、何か得られぬものかと思う。 「……そうか、死んだのか」 ぽつり、低い声で呟いた帝は突然立ち上がった。何か気に触ってしまっただろうか、腰を浮かせたジュリエッタに「しばし待て」と告げて帝は部屋を出て行った。 外の喧騒は未だ収まっていない。栄照は見つかっただろうか――ノートを見るとサクラからのメッセージがあった。急ぎ目を走らせ、帝が早く帰ってこぬものかと唇を噛む。 今か今かと思うほど、時間の流れは遅く感じて。実際は数分だったのかもしれないが、何倍もの時間に感じた頃、足音が近づいてきて帝が姿を現した。 「これを持って行くがいい」 開いた扇子の上に乗せられていたのは、ところどころ黄ばんでくたっとした和紙だった。丁寧にたたまれたそれはかなり古いもののようで、墨の鮮やかさはない。ただ、大切に大切に保管されていたように感じられた。それを手に取ったジュリエッタは、慎重に開く。 「それは、幾多の人の手を経て、夕星の君から唯一私の元に届いた文だ。いや、文にすら見えぬかも知れぬ。途中で散ってもただの覚書にしか見えぬだろう」 かさり……そこに現れたのは1首の歌。 ――夕星も 通ふ天道(あまぢ)を いつまでか 仰ぎて待たむ 月人壮士(つきひとをとこ) 「古い歌人の歌だ」 ――宵の明星も通う天の道をいつまで仰ぎ見て待てばいいのでしょうか、お月様。 解釈は色々とあるようだが、待っているのは彦星だと言われている。これが本当に栄照の母の書いた文ならば、待っているのは帝のことだろう。 「感謝するっ……! わたくしは急ぎ栄照殿の元へと行かねばならぬ。この文を――」 「持って行くがいい」 言外に「それ以外、渡すものも掛ける言葉も無い」と言われているも同然だった。けれども何も貰えないことも覚悟していた身には十分だった。挨拶もそこそこに、ジュリエッタは御前を辞する。 「……死んでしまったのか」 帝は誰もいなかった室内で、再び呟いた。 * ドルジェとサクラは『駅』でジュリエッタと別れ、緋穂の情報通りに神楽門へと向かった。道順はロストレイルの中で夢幻の宮に尋ね、頭に入れてあった。 途中、剣戟の音や悲鳴、妖かしたちの不気味な声が嫌でも耳に入ってくる。自分達が栄照を見つけて捕まえることで、この騒動が収束を見せるだろう事を祈って二人は走る。 常に街灯のような明かりが灯されているわけではないこの世界が、今日はあちらこちらで焚かれる篝火や松明のせいで薄明かりが照らしているところが多い。その分、闇はいっそう色濃くなっているのだが。 神楽門へ向かう道中、時折兵士たちの一団とすれ違った。急いでいるもののその表情からは国を、都を守ってみせるという意志が感じられる。すれ違った兵士たちが曲がってきた角を曲がると、ひときわ明るい通りに出た。大きな篝火が焚かれ、多数の人の気配がする。指揮官と思しき男性のせわしない声が空気を揺らす。 「神楽門ですね……」 行き交う兵士たちの邪魔にならないようにしつつ、門に近づく。二人は辺りを見回しながら栄照らしき人物を探した。近くでこの混乱の様子を見ているはずだった。だが二人が近づいたこちら側には姿が見えない。物陰にも視線を走らせたが、隠れている様子はなかった。 「サクラ様、向こう側も探してみましょう」 兵士たちの邪魔にならぬよう、門の前を通り抜ける。サクラを先導するドルジェ。篝火から離れた場所、濃くなった闇。瞳の端で何かが動いたように見えた。 「!」 素早くギアの弓を構えたドルジェは、暗闇に向けて矢を放つ。威嚇だ。彼女の放つ矢は魔法の矢ゆえ、ドルジェの意思一つで殺傷能力を持たせない屋を作り出すこともできるのだ。 ヒュンッ、ヒュンッ――。 闇を射抜く数本の矢。殺傷能力は持たせていないとはいえそれを知らぬ者からしてみれば、突如矢を射られて驚嘆するなという方が難しい。 ガタガタッ! ドサッ……。 矢を避けようとして体勢を崩したのだろうか、何かが倒れるような音がした。サクラが暗闇に向かって走る。 「栄照さんですか!? 私達は貴方を捕らえに来たのでは……」 走り寄って暗闇を覗きこもうとしながら声を上げるサクラ。だが。 ドンッ!! 何かが眼前に飛び出してきた。それを認識すると同時に激しい衝撃がサクラを襲う。 「きゃっ……!」 思い切り突き飛ばされたのだと、尻に走る痛みで理解し、視線を走らせる。闇に溶けるように墨染めの衣が遠のいてゆくのが見えた。ドルジェが弓を手に走り来る足音が聞こえる。人影はドルジェから見て左へ曲がる道へと入った。視界が届かなければ、ドルジェは矢を射ることは出来ない。 「待ってください!」 尻餅をついたままサクラが鋭い声を上げる。そして握りしめたのは鍵の形をしたネックレスのトップ。どうにかして走り去る人物を引き留めようかと考え、とっさの判断でその人物の向かう先に出現させたのは――妖かし達の幻影。 「なっ……!?」 突如出現した妖かしの群れに、逃げた人物の足も思わず止まる。 「ここにはアレを置いては……」 墨染めの衣は動きを止め、懐に手を入れて数珠を取り出した。彼はそれが幻影だと知らない。だが、多数の妖かしを一人で相手にしようという姿勢を見せている。都をただ混乱に陥れたいだけならばそのまま捨て置いてもいいものの。とっさに退治しようとするのは逃げ道を確保するためなのか、それとも別の理由があるのか。 だがその理由を推察している余裕はない。あれが幻影であることはすぐさまばれてしまうだろう。ドルジェはその背中を視界に捉えて弦を引く。続けざまに放たれたのは、先ほどと同じ殺傷能力を持たぬ魔法の矢。ただし痺れの効果を付与してある。 「つっ……!」 背後から飛来した矢はまず片足を貫いて。男――栄照はその場に膝をついた。肩に食い込む矢は即座に腕を痺れさせ、指先から数珠がこぼれ落ちる。 「なに、を……」 のろのろと首だけ振り返らせた栄照は、近づいてくるドルジェとサクラを睨みつけるように見つめている。 「安心してください、あの妖かし達は幻影です」 「幻影?」 再び首を巡らせた栄照。そこには先程まであった異形たちの姿はなく、薄暗闇が広がっていた。 「もう一度いいます。私達は栄照さんを捕らえに来たわけではありません」 「栄照様、貴方様の目的をお聞かせください」 「……」 「もしもそれがお父上に会うことであれば、私達がお手伝いをします」 「!?」 栄照の前に片膝をついて視線の高さを合わせて告げる。赤い瞳が困惑した表情の栄照を見つめる。 「……あなた方は一体?」 「私達は、ただ栄照さんを罰しようとは考えていません」 サクラもドルジェの隣に両膝をついて訴える。ドルジェはそっと左目の眼帯に触れ、それをずらしてみせる。 「……!」 現れたのは金色に光る眼。一瞬だけその存在を教えて、ドルジェは再び眼帯で金色を覆った。 「この金の目を使って人の記憶を読めば、きっと探し出せます。だから混乱を止めてください」 「な、ぜ……父が生きていることは、誰にも話していないはずなのに」 「誰にも話していないことを知っているという不思議を目の当たりにしたついでに、そんな私達を信じてはくれませんか?」 サクラは言葉柔らかに語りかける。一度強く目を閉じて、栄照は少し思案するように口をつぐんだ。情報を整理しているのか、彼はしばらくそのままだった。この間にも妖かしが暴れまわっていて、ロストナンバー達も頑張っているのだと思うと、少しでも早くという思いが抑えられなくなりそうだ。だがここで急かしては、何の解決にも導かない。だから彼がすう、と息を吸い込んで次の言葉を発するのを二人共待っていた。 「なぜ私に協力しようとするのです? 私は妖かしを操る外法に手を染め、国を混乱に陥れている罪人ですよ?」 父親の事が知られているならば、もはや自分がしたことは隠すだけ無駄だという結論に辿り着いたのだろう。その美貌に皮肉のこもった笑みを浮かべた彼は、静かに問う。 「何故手伝うか……羨ましいから、でしょうか」 その問いに静かに答えたのはドルジェだった。なぜ、ともどうして、とも語らない。その言葉のみにすべてを乗せて。 ドルジェは両親の存在を身近に感じたことはない。身分の高い両親は生まれたばかりの彼女を捨て、育ててくれた支障は両親のことを語らなかった。故に会ったこともない彼らへの感情など何も湧いてこないのもある意味当然で。だから、どういう形であれ栄照が父親に強い感情を持っているのは、母親の父親への思いを、両親の存在を身を持って感じてきたからに他ならないだろう――それが、少し羨ましい。 「羨ましい、ですか」 詳らかに語ろうとしないドルジェの言葉を彼がどう取ったのかわからない。けれども彼は寺に身を寄せる様々な境遇の人物を見てきたはずだ。だからこそ、ドルジェの言葉を否定したり馬鹿にしたりはしない。ただ、噛み締めただけ。 「栄照さん、ここだといつ兵士たちに見つかって不審がられるかわかりません。少し、ひと気のないところでお話しませんか?」 ノートを開いたサクラがまだ痺れの残る栄照に肩を貸す。彼から逃亡の意思が感じられなかったので、ドルジェは追加の矢を放つことはしなかったが、万が一の時の為にいつでも痺れの矢を放てるように彼らの後ろについた。 都はまだ暗闇をかき回しているような騒ぎだ。兵士たちに見つからないよう、坩堝の中を行く。 * 三人がたどり着いたのは、現在建設中の貴族の屋敷だ。無論、夜間であるため誰もいない。栄照は建設中の階(きざはし)に腰を掛け、サクラが近くの欄干に寄りかかる。ドルジェは少し距離を開けて栄照の正面に立った。 「お父さんを探すのであれば、私達の仲間が今、心当たりの一つをあたってくれています。もうすぐこちらへ来ますから」 ジュリエッタからの返信を受け取ったサクラがノートを閉じ、告げる。しかし栄照の横顔は全く反応を見せなかった。 「私の目的は、父を探すことではありません。父についてはすでに見つけてありますから」 「では、暗殺を目論んでおられるのですか?」 「……暗殺?」 その言葉をするりと吐き出したドルジェを見つめた栄照の瞳は、ドルジェではないどこか遠くを見つめているようだ。 「殺すだなんてそんな、楽にさせるつもりはありませんよ。死ぬ苦しみはいっときのもの。死で苦しむのは残された者の方ですから」 「じゃあ、何をするつもりなんですか?」 恐る恐る問いかけたサクラ。馬の駆ける音が近づいてきている気がする。 「何って……奪うのですよ」 どこまでも静かに告げる栄照の言葉に、駆ける足音が重なる。 「女一人守れぬ身分や肩書など、女を弄ぶだけの身分や肩書など奪って、そして全てを失って無力な自分を嘆くと……」 「栄照殿!」 バチンッ! 興奮気味に立ち上がった栄照の前に突如現れた影。サクラやドルジェはその接近に気づいていたが、己の内側にのみ意識を向けていた栄照には見えていなかったようだ。その影――ジュリエッタは思い切り栄照の頬を叩き、胸ぐらを掴み上げる。 「それは憎しみではない。結局、振り向いてくれぬ父御を求め適わぬもどかしさの余りに駄々をこねているのと同じじゃ!」 「……尼君? なぜここに……」 「わたくしは悔しい。栄照殿は母君のことを何も分かっておらぬと!」 胸ぐらをつかんだ手を揺らし、背伸びをしたジュリエッタはまっすぐに栄照の瞳を睨みつける。 「母君が憎しみを教えなかったのは何故か分からぬのか! そなたに慈しみの心を与えよき御仁となるよう願っておったからではないのか! 今行っていることは母君を裏切る行為じゃ!」 「ジュ、ジュリエッタさん、落ち着いてください」 慌てて間に入ったサクラに制され、ジュリエッタは手を離して肩で息をする。そして徐ろに取り出したのは、折りたたまれた紙。 「母君は身分違いだとわかっておるから、逢いたいと願うだけじゃったのじゃろう。想像するに、耐え切れずに唯一出したと思われるその文も、万が一のことを考えてただの覚書の体を装ったのじゃろう。母君は父君の迷惑にならぬよう、ただ愛するだけにとどめたというのにっ……憎みも恨みもしなかったというのにっ……!」 「これをどこで……この手蹟は母の形見の日記と同じ……」 カサカサ……紙を持つ栄照の手が震えている。彼は自分の問いの答えを知っている。だが、認めたくはないのだろう。 「おぬしの父君、今上帝が今も所持しておられた」 サクラもドルジェも、それを聞いてあまり驚きを見せなかった。都を混乱に陥れなければ会う隙を得られぬような人物は、自然、限られてくるからだ。 「御母上が御父上をただ待ち続けたのは、お二人の間に何がしかの約束のようなものがあったのかもしれませんね」 帝が手紙を持ち続けていたのも、もしかしたら――ドルジェの言外の言葉に、栄照は膝から崩れ落ちる。 「母の事を捨てた父の御代を混乱させ、全てを奪い去りたかった……そうすることで、母の復讐になればと……」 「わたくしの両親の過去の話をあんなにも真摯に聞いてくれたのに、なぜわからぬのじゃ。おぬしが一番母君に近い所におったのじゃろう?」 「私も、栄照さんのお母さんは、復讐なんて望んでいなかったと思います。本当に、ただ、もう一度逢いたかっただけなのではないでしょうか」 ジュリエッタとサクラの言葉に栄照は両手を地についてぽたり、涙を零す。その様子を見てもはや不要だろうと察したドルジェは弓をしまった。 * 「――それで」 「これが討伐の証拠品なのじゃ」 無事に朝を迎えた都。帝の前に座すのはジュリエッタとドルジェ。ジュリエッタの雷によって焦がした栄照の僧衣と、ドルジェの矢によって破壊された黒い勾玉を提出していた。 「この黒い勾玉を破壊することで、都中にばらまかれた勾玉からの妖かし達の出現を停止させました」 「勾玉に妖かしを封じて操る外法に手を染めた、か……」 懐紙の上に乗せられた勾玉の欠片を指でつまみ、帝はつまらなそうに呟く。 「都の郊外に雷が落ちたという話は、関係有るのか?」 「……」 その問いに、二人は一瞬黙り込んだ。 出頭し償うと言う栄照を連れて郊外へと逃れた三人は、ジュリエッタの雷撃によって栄照の顔と衣服を焼いた。火傷によるダメージを受けている栄照を、今はサクラが郊外の小屋で面倒見ている。 「そなたはこれで生まれ変わった。あの時真摯に答えてくださった栄照殿の優しい心もまた真実じゃとそう思うておるよ。罪を償い生きよ。それだけじゃ」 目覚めた栄照にジュリエッタが告げたのは、体調が戻り次第暁王朝を出て、二度と戻らぬこと。そして生きることで償うこと、その二つ。 「そうじゃな……これから『昭介』と名乗ってはどうかのう?」 母との想い出の残るこの国を離れるのは、栄照にとって辛いことだろう。他国で一からやり直すというのも過酷だ。だが都を混乱に陥れた罪は重い。ロストナンバーたちのおかげで壊滅的な被害は免れたが、多くの被害が出たのだ。 だがどうしても、殺すことで終わりにはしたくなかった。 「それと、一つ謝らなければならぬことがある。わたくしの両親だが……本当はどちらもすでにこの世にないのじゃ」 嘘をついてすまぬ、ジュリエッタが下げた頭を、栄照の手がそっと撫でた。 * 「帝は恐らくお気づきのことでしょう」 「そうじゃな」 それでも追求しなかったのは最初で最後の、子への愛情なのか。 わからない。だが、今日も暁京の空は高い――。 【了】
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