オープニング

 女はケイリー・チュンと名乗った。肩まで伸びた癖のある黒髪と、透けるような白い肌と色素の薄い双眸、二十代前半といった見目をもっている。俯き、眼前に集った六つの人影を時おり盗み見るようにしながら、一言二言、挨拶のような言葉を口にした。六人の来客は世界司書からの依頼を請けケイリーを訪ねてきたのだが、ケイリーにとっては彼らがどういった者で――例えばどんな場所から来たのか、どういった目的を持っているのか――あるのかは問題ではないようだ。
 ケイリーは両脚が不自由なのだという。普通に歩行する分にはなんら触りはないというのだが、大きなアクション――例えば走行したり飛び跳ねたりといった行動は、やはり難しいのだそうだ。
「それで皆さんにご助力をと思いまして……」
 低く、くぐもった話し方をする。ともすれば聞き取りにくい話し方でもあった。
 ケイリーはインヤンガイに多く存在する“探偵”と称される存在の中のひとりで、インヤンガイの一郭に建つ細長いアパートの一室に住んでいた。外界はまだ日中で、カーテンを開けば部屋の中は明るく照らされるのだろう。が、ケイリーの部屋のカーテンは閉ざされたままで、かろうじて薄く光が漏れ入ってくる程度だ。薄暗い部屋の中、天井から吊るされた飾りのない電球がひとつきり、隙間風をうけて小さな揺れを見せている。

 ケイリーは三つ子として生まれた。酒に酔っては暴れる父と、夫の暴力から逃れるためにドラッグに逃避した母。生活排水の悪臭のひどい一郭の粗末な小屋で育った。一番下の妹は六つの年に父親の暴力が元で死んだ。母は死体となった小さな娘を背負い家を出て行った。母とはそれきりになった。物乞いをしてようやく食いつなぎ、十三を迎えた年のある夜、ケイリーはおぞましい現場を目撃した。
 獣のような父親。それが覆い被さっている、その下に組みしだかれているのは妹だった。妹は感情も生気もないガラス玉のような目でケイリーを見ていた。助けを請うわけでもなく、そこにはただうろんな虚無があるだけだった。 
 気付けばケイリーは戸口を押さえるための棒を手に、父の変わり果てた姿を眼下に見ていた。赤いものが父の頭から止め処なく流れ出ていた。
 その場を逃げ出したふたりは、それからも物乞いをしたり小さな仕事をこなしたりして生き長らえてきた。が、あの夜の衝撃が大きかったのか、ケイリーの両脚は次第に用途をなさないようになってしまった。
 ろくに働けなくなってしまった姉の分までの生計を立てるために妹が選んだのは、娼婦となる道だった。夜な夜な路地に立ち客を呼び、一夜の恋人を演じて金を得る。
 そんな妹を救うため、ケイリーは探偵という職に就いた。けれどもそれなりに生計を立てられるようになったころには、妹の精神状態はひどく不安定なものとなってしまっていた。

「男が殺されているんです」
 俯きながら呟いたケイリーは、手元に置いてある杖を握りしめながら肩を震わせる。
「妹が……フェイがお客さんをとるために立ってた場所で……その……私たちが小さいころ住んでいた辺りを中心に、もう五件も……」
 
 どれも頭を割られ、脳漿をぶち撒いた状態で発見されているのだとケイリーは告げた。
 死体となっているのはいずれも三十代ほどの男。がっちりとした体躯で、さらにいずれもアルコール中毒と言っていい程の酒好きだったという。

「父さんに似ているんです。どれも……どの人も。……フェイが……殺しているのかどうかを調べていただきたいのです……」

 言いながら、ケイリーは俯き肩を震わせる。
 薄暗い部屋の中、電球の明かりだけがゆらゆらと揺れていた。

◇ ◇ ◇

 案外と簡単なものだった。覚えている、はっきりと。あの時の音も、この手に響いた感触も。

 腐りかけた瓜を食べたことがあった。小さいとき、野菜売りの老婆が売れ残りをくれたのだ。それを棒で割って食べた。そう、あの、瓜を棒で叩き割ったときの感触に似ていた。
 誰も助けてくれなかった。助けてくれるはずなどなかった。誰も皆、自分が生き延びることで精一杯なのだから。同じような境遇に置かれた子供も珍しくはなかったはずだ。ああ、そんなこと、今はもうどうだっていい。
 さっきまで自分の上で快楽を貪っていた酒臭い男が、次のときには頭を瓜のように割られて転がっている。初めは大きく、次第に小刻みになっていく痙攣。その傍に屈み座って、男がゆっくりと死んでいくのを眺めるのはとても楽しい。三人目ぐらいまでは、父に対する復讐なのだと思っていた。四人目からはただ単に楽しいからこうしているだけなのだと自覚した。見も知らぬ男を父と同じ姿にしてやるのは楽しい。何度も何度も、父の頭を割ったときの感触を実感できるのだ。これを快楽と呼ばずになんと呼ぼう。
 
 フェイは夕暮れていく路地の上を揚々と歩き進める。今日も客をとり、同じように頭をかち割ってやろう。――考えるだけでゾクゾクした。 
 肩まで伸びた癖のある黒髪が夕風をうけて小さく舞った。

品目シナリオ 管理番号260
クリエイター櫻井文規(wogu2578)
クリエイターコメントこんばんは。今回はインヤンガイでのシナリオのご案内にあがりました。お目を通してくださった皆さま、ありがとうございます。櫻井と申します。以後お見知りおきを。

さて、今回は皆さまに探偵ケイリーからの協力要請を請けていただく形となります。
ケイリーの妹フェイが殺人を繰り返しているのではないか。それを調べてほしい。といったものがケイリーからの依頼となります。

ただし、OPを読んでいただければお分かりいただけるかと思いますが、少しばかりひねらせていただいております。わりとシンプルに回答を見出すことができるのではと思います。

また、製作日数を多めに設定させていただいてます。ご承知くださいませ。
それでは、皆さまのご参加、心よりお待ちしております。

参加者
流鏑馬 明日(cepb3731)ツーリスト 女 26歳 刑事
灰燕(crzf2141)ツーリスト 男 28歳 刀匠
王狼・ヴィスラ・アートレータ(cdbb7242)ツーリスト 男 32歳 花法師の従僕、闇騎士
サーヴィランス(cuxt1491)ツーリスト 男 43歳 クライム・ファイター
闇姫(ceex7050)ツーリスト 女 13歳 真闇の姫
アルティラスカ(cwps2063)ツーリスト 女 24歳 世界樹の女神・現喫茶店従業員。

ノベル

 ケイリーの部屋を出て行った者たちの気配を背で送った後、流鏑馬明日は壁にもたれかかりながら腕を組んだ。飾り気のない黒のパンツスーツで細身の体躯を包み、腰まで伸びた艶やかな黒髪は背中でひとつに結んでいる。緩めにまかれた黒いネクタイとは対照的に、形の良い唇はきっちりとかたく結ばれ、黒衣と同様の色の双眸はまっすぐにケイリーの姿を捉えていた。
 アルティラスカは、肩を震わせるケイリーの膝に両手を置いて、顔を覆うケイリーの表情を覗きこむようにしながらやわらかな声を放つ。「だいじょうぶですよ」と繰り返して、陽光を映しとったような金色の眼光をふわりと細ませた。
「ケイリーさん、お顔をあげてください。私どもがお力をお貸しいたしますから」
 穏やかな、聞く者の心の澱を解かすような声音だ。けれどもケイリーはわずかに首を横に振るばかりで、小さな、嗚咽にも似た声を、顔を覆う指の隙間から漏れこぼすのみ。
 閉められたままのカーテンを細く開けて、眼前に広がるインヤンガイの街並みを眺めながら、闇姫はさほど興味もなさげにアクビをひとつついた。インヤンガイという世界は悪意に満ちた場所だと聞き及ぶ。どれほどに心地良い闇の渦に浸された場所なのだろうかとわずかながら関心を惹かれこそしたものの、その程度は未だ伺い知ることが出来ずにいる。ならば、あるいは、今眼前にいるこの女が内包する闇が、闇姫の心をひととき潤すことができるのか。
「ねえ、思うのだけど」
 口を開いた闇姫から発せられた声音は、せいぜい13、4といった齢だろうと思しき見目を持った少女のそれとは思い難いような、落ち着き払った、妖艶な女のそれを彷彿とさせるものだった。
「男に犯されている最中の、たかが娼婦ごときが、こう、組み敷かれた状態のままで相手の頭をかち割ることなんて、まず不可能よね」
 言いながら、闇姫は組み敷かれている状態にある女の格好を再現するかのように、両手を頭上に持ち上げて壁に当てた。口許には薄い笑みを浮かべている。
「コトの最中に男を殺すのなら、まず間違いなく、共犯がいるっていうことになるわ。……ねぇ、ケイリー。ケイリーはどう思う?」
 問われ、ケイリーの身体が小さく震えた。小さな嗚咽が途切れ、数瞬の間、静寂が場を支配する。
「だいじょうぶ、フェイさんのことは私たちが解決してさしあげますから」
 だから安心して、お顔をあげてくださいませ。そう続けて、アルティラスカは薄闇の中でもぼうやりと淡く輝く美しい緑色の長い髪をさらさらと揺らした。小首を傾けたのだ。左右のこめかみには七色に光る翼型の花が咲いている。心なしか、芳しい香が空気をふわりとやわらげているようだ。
 明日は壁に背をあずけたまま長く沈黙を守っていたが、ほどなくして小さくため息を吐き、ゆっくりとした歩みでケイリーの傍に近付いて手近の椅子を引いた。
「私もアルティラスカさんと同じく、できるかぎり力をお貸ししようと思う。でも、その前に、一つだけ訊いておきたいことがあるの」
「私も一つだけお訊きしておきたいことが」
 明日の言に声を続け、アルティラスカが顔を持ち上げた。金の双眸を明日に向け、何かを察したように、深くうなずく。
「もしも、あなたの妹……フェイが本当に犯人だったとしたら、あなたは一体どうしたいの?」
訊ねたのは明日だったが、アルティラスカもまったく同じことを訊ねたく思っていたようだ。再びうなずき、明日に向けていた目をケイリーへと戻した。けれど、明日に続けて口を開いたのはアルティラスカではなく、左右の双眸をそれぞれ金と銀とで閃かせた闇姫だった。闇姫は口許に薄く笑みをこそ浮かべてはいるが、金銀に閃かせている眼光は高圧的で、そしてひどく冷ややかなものだ。
「この街には探偵っていうのがたくさんいるのですってね? ケイリー、おまえもそうなのだったわよね。探偵は自らの力であらゆる情報を得るのでしょう? ケイリーもきっと、妹に関する情報はすでに掴んでいるのよね? だから私たちに声をかけたのだわ。“もしも妹が犯人だったとしたら”? 違うわ。ねえ、ケイリー。フェイは男たちを殺しているのだわ。そうよね?」
 それは質問ではなく、断定と言うに相応しい物言いだった。眼差しを細めて笑みを浮かべる闇姫に、明日とアルティラスカの視線が注がれる。闇姫はわずかに肩をすくめてみせたものの、悪びれる様子も皆無だ。
 ケイリーが、両手で覆い隠していた顔をそろそろと覗かせる。頭髪で隠されてはいるが、ようやくその表情を窺い知ることができるようになった。――感情などといったものの窺えない、虚ろな面がそこにある。
「妹さんの凶行を止めてほしいの?」
 訊ねたのは明日だ。ケイリーは両脚が不自由だという。それはケイリーのすぐ傍にある頑丈そうな二本の杖からも見てとれる。ケイリーが身につけているスカート、あるいは膝掛けで隠れた両脚は、きっと、筋力も衰えて痛々しいまでに細いのだろう。
 ケイリーは俯きながら、小さく首を縦に動かした。
「私では……彼女を止めることはできないんです」
 言って、下唇を噛む。
 アルティラスカはケイリーの身体を包み込むようにして抱きしめ、何度となく繰り返した言葉を口にする。
「だいじょうぶ、私たちがお力になりますから」
 花の芳香が薄闇を揺らした。

     ◇   

 ケイリーの部屋を後にしたサーヴィランスは、2M近い巨躯をアパートの影に潜ませ、息を潜める。
 隆々とした身体に屈強なボディアーマーをつけ、その上からフードのついたマントを羽織る。それだけでもずいぶんと厳ついイメージを与えてしまうであろう外貌なのだが、彼はこれに加え、目元を隠す大型のゴーグルと、表情を隠すための覆面とを身につけている。さらにフードを目深にかぶれば、大概の者にはサーヴィランスの感情や思考といったものを窺い知る術を与えることはないだろう。
 つい先ほど、共にケイリーの部屋を後にしてきたふたりの男と別れたばかりだ。ひとりはフェイが客をとっているという定位置を目指し去ったが、もうひとりは何を言い残すでもなく、ふらっと立ち去っていった。
 ケイリーには、フェイを探すと言い残してきた。それは嘘ではない。まずはフェイを見つけ出し、もしも事実フェイが殺人を犯しているのだとしたら、確たる証拠を押さえなくてはならない。できれば彼女が凶行に及ぶのを現行犯で押さえ、しかるべき場所――例えば当局などに引き渡すのが理想的だ。いかにインヤンガイが犯罪と悪とに染まった世界であろうと、しかるべき施設はきちんと存在しているはずだ。事実、そういう事例が過去にあったことも確認済だ。ならば、なぜ、サーヴィランスはケイリーのアパートで身を潜めているのか。
 ケイリーの言にはいくつか気になる点があった。どうやら先ほど行動を別にした男も同じことを思ったらしい。
 身を潜め、サーヴィランスはゴーグルの下の眼光を細める。そうして息を殺し、行動すべき時が来るのを待った。

     ◇

 気乗りなどしなかった。しょうじき、他人のことになど興味もないし、そもそも単身こうしてインヤンガイにまで足を運ぶつもりなど、毛頭なかったのだ。
 王狼・ヴィスラ・アートレータは深いため息を吐き出しながら、インヤンガイの猥雑とした路地をひとり歩く。建物の上に建物を積み上げたような造りのなされた建築物も、むき出しになったパイプや洗濯物や、あるいは路地の隅に腰をおろす人間たちから注がれるいくつもの視線。空気を満たし鼻先をかすめるのは生活排水の臭いやクセの強い食材を使って作る食事の匂いだ。それは大路であろうと裏路地であろうと、さほど大きな変化はみせない。裏路地に入ればいくぶんガラの悪い連中が息巻いているぐらいだろうか。もっとも、それも、そういった連中に遭遇する率が高まるだけの違いであって、大路にもそういった類の連中は存在しているのだが。
 とにかく、王狼はまったく乗り気ではなく、従事している主に尻を叩かれしぶしぶ足を運んだのだ。ケイリーの話にもさほど興味はなかったし、面倒事は自分以外の誰かがどうにかすればいいだけのことだとすら考えていた。だが、そんな王狼にすら感じ取れるほどに、ケイリーの言にはわずかな違和感が含まれていた。齟齬、とでも言うのだろうか。
 ――しかし、だ。
 王狼は視界の端に映りこんだ木端を手に取ると、小さく息を吹きかけた。一枚の板切れにすぎなかった木端は、王狼の息を受けると瞬く間に形を変える。二股に分かれ、上部からは細い枝先が二本伸び、細い木端は数瞬の後には人間の形を得たものへと変態したのだ。
 ――王狼の主は、王狼の尻を蹴り飛ばしインヤンガイによこしたが、しかし、依頼にかける時間が延び夕飯の時間がいつもよりも遅くなることを厭うだろう。手抜きだなんだと、まさに重箱の隅をつつくような勢いで責め立ててくるに違いない。
「さっさと終わらせるか……」
 小さく短いため息を吐き出した。

     ◇

 灰燕はケイリーの部屋を出てひとりふらりとインヤンガイの街中に足を踏み入れた。
 灰燕が足を踏み入れたインヤンガイという名の世界は、広がる空気にまで染み渡るほどに濃密な悪意で満ちた場所だ。足の下に列をなす蟻の群れを嬉々として踏み潰す稚児のそれのような、純粋な悪意と言っても過言ではないかもしれない。猥雑とした街中を歩き進めれば、そこここに剥き出された殺意のようなものを窺い知ることができる。
 短く整えられた銀色の髪、着流すように身にまとう質感の良い和服、その上にも一枚、鮮やかな紅色の袖を外套のようにかけている。腰には畳んだ番傘を差し、からりころりと軽妙な音色をたてて闊歩する彼の姿は、街の誰が見ても異邦の者であるだろう。くわえて、その怖ろしいまでの美貌をたたえた端正な顔立ちに、衣の上からでも窺い知ることのできる引き締まった体躯には、どこか鋭利な刃を彷彿とさせるものすら感じられるのだ。目を惹くのは無理からぬことといえる。
 灰燕はケイリーの部屋にいたとき、もっともケイリーから離れた場所に立っていた。出入り口近い壁に背をあずけ、ただ静かに煙管を口にしていた。アルティラスカがケイリーを宥めるように抱き包んでいるのを、その腕の中でケイリーが小さく肩を震わせていたのを、灰燕は一言をなすこともせず、ただ見つめていたのだ。
 輪を離れ、遠くに立つことで、初めて見えるものもある。そう、例えば、ケイリーはあのときなぜ肩を震わせていたのか。“妹”の凶行を嘆き悲しんでいるためなのか、あるいは畏れているためなのか。それとも。――それとも、そもそも、泣いてなどいなかったのか。
 紫煙を一筋吐き出して、灰燕はとある路地を前にして足を止めた。
 ケイリーが住んでいる一郭からはほどよく離れた位置にある、スラム街と呼んでも障りはないであろう、寂れた空気を放つ空間。汚水と生活排水と、あるいは糞尿の放つ臭いや、あらゆるものの入り混じった悪臭の濃いその場所こそが、おそらく、ケイリーが幼いころに身を置いていたという世界なのだろう。
 挑発的な出で立ちをした女たちがあちこちに立ち、通りかかる男たちを見境なく捉まえてはくねくねと身をしならせている。

     ◇

「思い込みは厳禁なの。決してしてはならないことなのよ」
 明日は顔にかかる髪を片手で払い除けながら目を細ませた。
「今回のこの案件、しょうじきにいえば、いろいろな可能性が考えられるわ。例えば、――ケイリー本人が犯人だというもの」
「あるいは、フェイさんがケイリーさんに成りすましているということもありますわ」
 アルティラスカが明日の言葉をうけて続ける。明日はそれにうなずき、右手にあるドアに視線を向けた。
 ひとしきり言葉を交わした後、ケイリーは突然ひどく咳き込み、苦しそうに喘ぎ始めた。座っていた姿勢を崩すほどに苦しげに咳き込むその様相に、明日とアルティラスカは揃って「少し横になっては」と勧めたのだ。
 闇姫は愉しげに頬を歪めあげて一連の流れを見ていたが、先のように言葉を差し込むような真似はしなかった。今も、ケイリーが休んでいる寝室の隣に位置する部屋のソファに足を組んで座り、テーブルの上に用意されていた月餅や餅乾などの菓子を手にとって口に運んでみたりしているだけだ。菓子に対する興味や感想といったものは特に持ち得てはいないらしい。時おり退屈を顕わにアクビしたりしている。
「フェイっていう女がいて、人を殺しているのだとしてよ。さっきも言ったわよね? 男に組み敷かれた格好のままじゃ、その男の頭をかち割るのは難しいんじゃないの?」
 組んだ足の上に頬杖をつき、闇姫は妖しく閃く宝石のような双眸をゆらりと糸のように細くした。「共犯でもいれば別なんだろうけど」
「……あなた……闇姫さん、と言ったかしら。あなたはまるでケイリーさんがフェイさんの犯行に関わっているんじゃないかって言いたげなようね」
 明日はまっすぐに闇姫を見据える。闇姫もまたまっすぐに明日を見つめ返し、そうして細い首をわずかに傾げ応えた。
「あなたたちだってそう思っているんでしょう? 流鏑馬明日、アルティラスカ。あの女、おあつらえ向きに具合の良さそうな杖を持っているじゃない。それに」
「?」
 闇姫が言葉を一度途切れさせたのに眉根をひそめた明日に、闇姫は月餅を一口かじった後に身を乗り出しささやくように続ける。
「目を離しても良かったの? 今ごろケイリーはもう街中を歩いているかもしれないわよ、ふふ」
 ニタリ、と、闇姫が笑みを浮かべる。明日は「まさか」と言いかけた口をつぐみ、弾かれたようにアルティラスカの顔を検めた。間を挟まず、闇姫が再び口を開けた。
「そうよね? アルティラスカ」
 アルティラスカは困ったような、やわらかな笑みを浮かべて立ち上がり、ケイリーがいるはずの寝室のドアに手をかける。
「私の魔力の種をひとつ、ケイリーの手に植えつけています」
 言って、ドアを静かに押し開けた。
 薄暗かった寝室の中は、夕暮れに向かう橙色の陽光で満たされている。
 引かれていたカーテンは開かれ、開け放たれたままの窓から流れこむ生温い風を受けて大きくはためいている。
「走ったりが出来ないなんて、よく言ったものよね」
 くつくつと笑いながら、闇姫がアルティラスカの横をすり抜けて寝室に足を踏み入れた。
「ああ、それともあれかしら。ケイリーは走ったり出来ないけど、フェイなら可能っていう」
 明日もまた寝室に駆け込み、開け放たれたままの窓の向こうに身を乗り出した。
 細長い建物の二階に相当する位置にある部屋。すぐ目の前には細くうねる路地があり、向かい側にはブロックを積み上げて作り出したような建物がひしめきあっている。路地までの距離は数メートルといったところだろうか。蔦のように外壁を伝うパイプを伝えば、難なく路地に降り立つことは出来そうだ。――健常な両脚をもってすれば。
 明日は再び、今度は弾かれたように窓枠に手をかけ、パイプを伝い路地を目指した。もとより、カポエラに系統する格闘術を身につけている明日の身体能力だ。するすると、難なく路地に辿り着くことができた。
「野蛮ね」
 くつくつと低く笑いながら、闇姫はアルティラスカに目を向ける。
「ケイリーの居場所はわかるんでしょう? さっさと向かうわよ」
 言って、アルティラスカの応えを待つこともせずに歩き出した。ケイリーのアパートの玄関へ。
 アルティラスカはひとり残され、わずかに目を細めてため息を落とす。
「……そうですわね……」

 アパートの陰に身を潜めてからしばらく。サーヴィランスが目にしたのは、ケイリーと思しき女がケイリーの部屋の窓からパイプを伝い路地に降りてくる場面だった。
 初めに杖を窓の外に放り投げ、それからするすると降りてきたその一連の様相から察するに、その行動をとるのは初めてではないのだろう。とても脚の自由を失っている者とは思えない――否、その面にある表情は、部屋で見たケイリーのそれとは思い難いものだった。薄い下着のようなワンピースを身にまとい、その上に外套をまとっている。艶やかな黒髪を風になびかせ、杖を脇に抱え持って迷いなく闊歩するその姿は、自分の力だけではどうすることも出来ないと嘆いている非力な女のそれとは思えなかったのだ。
 陽はだいぶ傾いてきた。空は端から赤黒く染まりつつある。
 覆面の下、唇をかたく結んで、サーヴィランスはケイリーらしき女の後を追った。
 もしもフェイという女がケイリーの別人格であるのならば、おそらく彼女はこの後再び凶行に及ぼうとするだろう。その現場をおさえるのが、ケイリーの望む“確実な解決”のはずだ。
 マントを翻し、サーヴィランスは陰から陰へと移りつつ、インヤンガイの街を進みだした。

「ああ、知っているわよ」
 灰燕の肩に両手を回してきた女は、そう言って艶やかに笑った。一郭を根城にしているのだろう娼婦たちの中でも飛びぬけた美貌をもった女だ。豊満な胸元に折れそうなほど華奢な腰まわり。反して、どこか幼さの残る顔立ち。たいていの男はきっと喜んで飛びつくだろう。その女が、いま、灰燕に媚を売るような目をしている。灰燕の、見るからに異邦の者と知れる風貌と、何よりもその整った姿態に惹かれたのだろう。あわよくば今日の客として迎えることが出来れば。そんなことを考えているのかもしれない。
 だが、灰燕は女には一向に関心を向けるでもなく、けれどもひどく穏やかな笑みを満面に浮かべたまま、低い、印象強い色をした声を放った。
「その女ァ、確かにフェイっちゅう名前なんかのう?」
「たぶんね。ああ、あんまり話したことないし、詳しくは知らないわよ? なぁに、フェイをご指名なの? あたしのほうがもっとサービスするけどなぁ」
 これみよがしに唇を舐め、鼻と鼻が触れるほどの距離にまで顔を近付ける。けれどそれでも灰燕はまるで関心なさげに表情ひとつ崩さない。
「この辺で男がよく殺されとるっちゅう話じゃの」
 そう口にした途端、女は表情を曇らせて距離を置いた。
「なぁに? あんた探偵?」
「いんや、違うがのう。ちぃと興味があるっちゅうかの」
 応えた灰燕に、女は腕を組みタバコを一本口に運んだ。
「客として来たわけじゃあないのね。あんたみたいな男前、ここらじゃ珍しいってのにさ。見てよ、女にも金にも縁のない生活しか知らないむさ苦しいのとか、あとははなっから殺し目的で来てるようなのとか、そんなのばっかりよ」
 言いながらアゴを動かし、そこここにいる男たちを指す。
「殺し目的っちゅうのは?」
「あんた、ここがどんなトコか知らないわけじゃないんでしょ? 女子供の身体っていうのはさ、高く売れんのよ。愉しむためにも使えるし、腹裂けば中のモンも売れる。あたしらは身寄りも何もあったもんじゃないゴミだしさ。ある日いきなりいなくなったって事件にもなりゃしない。探偵なんて近寄りゃしないしね」
「なるほど。それじゃあ訊くがの、逆ってのは? よくある事なんかいの?」
「逆?」
「客が殺されるっちゅうやつじゃ」
 訊ねた灰燕に、女は「ああ」と低くうなずいて煙を吐いた。
「ここはインヤンガイの吹き溜まりよ? 死体なんかちょっと探せばゴロゴロしてるわ」
「なるほどのう」
「なぁに? フェイが客を殺したっての?」
 女は半分笑いながら訊ねた。
「だとしても不思議じゃないかもね。あの女がとる客って、いつもここのイカレたようなのばっかりだもの」
 言って、女は自分のこめかみを指す。そうして灰燕の肩越しに遠くを見やり、「ほら、ああいう男」
 振り向いた灰燕の目に映ったのは、いかにも乱雑そうな、ゴツゴツとした風体の、酒に酔いふらふらとした足取りで歩く中年男だった。

 王狼が木端を使い作り出したのは、四十後半ほどの見目をした、とてもではないが冴えない風貌の、どこか神経質そうな中年の男だった。ケイリーから“父親”に関する詳細は聞かされてはいない。が、おそらくはイメージから遠く離れてはいないはずだ。
 男は深酒した後のように、ふらふらとおぼつかない足取りで路地を歩き始めた。王狼はその後を追った。
 同じような空気をまとう路地をいくつか折れ曲がり、陽が傾き周りが薄い闇の中に沈みかけた頃、王狼は男の向かう先に先ほどケイリーの部屋で顔を合わせたばかりの男の姿を見つけた。見慣れない衣を身につけた銀髪の男……名前は何と言っただろうか。とにかく、その男が娼婦らしい女と密着している。
 男はふらふらと娼婦がたむろしている一郭に向かう。木偶にはこう命じている。「フェイが客をとっていた辺りを目指せ」と。その結果、木偶はこの場所を目指した。眉をしかめたくなるような悪臭と穢れに満ちた空間を。
 周囲を検めてみる。今にも倒壊しそうな建物に四方を囲まれた、いわばちょっとした空き地のような空間になっている。が、そこここから奥に伸びる細い路地があるのは目についた。インヤンガイという街は、どこまでも入り組んだ迷路のような世界なのだろうか。
 ふと、建物の陰や路地の隅に、小さな子供たちが隠れてこちらを窺っているのが見えた。どの子も細く痩せていて、身につけているものも汚れている。目に覇気はない。何を窺っているのか――おそらくは娼婦たちが産んだ子供たちなのだろうが。
 ――そういえば、ケイリーもこの一郭で生まれ育ったと言っていたな。やはり、母親もまた娼婦だったのだろうか。そんなことを考えながら、王狼は再び木偶の……男の向かう先に目を向けた。
 銀髪の男がこちらを見ている。目が合った。銀髪の男の目が笑みの形を描いたのを見て、王狼は思わず表情を曇らせる。
「ここで何をしている?」
 問いかけようとした時、今まで銀髪の男にすり寄っていた娼婦が声高に口を開いた。
「フェイ!」
 弾かれたように、娼婦の視線の先に顔を向ける。

 サーヴィランスにとって“不正”は何よりも忌むべきものだ。殺人や汚職、詐欺行為、あるいは売春行為。そういったものはすべて正しいものではない。弱者が強者に食い物にされ潰れていくだけの世界など、存在していいはずがないのだ。
 ゆえに、サーヴィランスにとってはインヤンガイという、悪意に満ちた世界もまた、許し難いものではある。正義の名のもとに正していかなくてはならない世界だ。
 その穢れのひとつが、今、眼前を歩き進んでいく。ケイリーと同じ姿態をもった娼婦だ。
 彼女を、果たしてケイリーと呼んでよいものかどうかの判別が難しい。
 虐待を受ける子供は、自己防衛のために別の人格を作り出すこともあると聞いたことがある。虐待を受けているのは自分ではない。友人であったり兄弟姉妹であったり、そういった別個の人間が虐待を受けているのだ、と、そう考えることで自我を守るのだ。そうすることで、つまり、多重人格を形成するのだという。
 もしもフェイという女がケイリーが作り出した人格なのだとしたら。――否、そう考えたほうがしっくりとくる。
 父親に犯されたのはフェイだ。父親を殺したのはケイリーだ。その経緯を踏まえた結果、もしも仮に殺人を享楽する者が生じるならば、可能性が濃いのはケイリーだ。
 生まれ育ち、身を置いてきた環境がそうしたのか、サーヴィランスは対面している相手の言動に含まれる“偽り”の気配を鋭敏に感じ取ることができる。それは言ってみればふわふわとした“勘”に類されるものなのだろうが、ともかくも、それがサーヴィランスに告げたのだ。顔を覆い隠し肩を震わせ、一見泣いているようにも見受けられたケイリーは、その実、その手の下で笑いを押し殺そうとしているのだと。肩を震わせていたのは悲哀ゆえではなく、笑い出しそうになるのを堪えてのものだったのだ、と。
 サーヴィランスの視界の中、ケイリーと同じ姿態をした、けれどもケイリーとは逸した存在――きっとこれがフェイなのだろう。それもまた確信めいた勘によるものなのだけれども、そう思えてならない。その女がヒールを鳴らしながら歩き進んでいく。そして向こうで手をあげ「フェイ!」と口を開けた女を目にとめて、サーヴィランスは再び唇を噛んだ。手をあげた女の傍に、ケイリーの部屋で見た男が立っている。銀髪で、異国の衣服を身につけた男――灰燕だ。
 
 王狼の前を歩いていった男は、ほどなくしてひとりの女に反応を示した。遠目にも、その顔や体つきがケイリーと同一のものであることが窺える。しかし、放つ空気はケイリーのそれとはまるで違っている。気の強そうな、闊達とした印象だ。脇にはケイリーの杖を抱え持っていた。が、それらを使うことなく、女は平然と闊歩している。
 女は声をかけてきた別の女に向けてひらひらと手を振ってみせた後、王狼の前を歩いていた男――すなわち木端から創り出したそれに顔を向けて、華やいだ笑みを満面にのせた。その顔が一瞬だけ王狼に向けられたような気がしたが、ケイリーは気にとめた気配はまるで感じられない。
「ケイリーとは別人なのだろうな」
 ふとそう声をかけられ、王狼は声の主を振り向く。サーヴィランスの姿がそこにあった。
 王狼は眉をしかめただけで、それに対し応えを返そうとはしなかった。
 視界に映る男女は程なくして意味深げに顔を寄せ合い何事かを交わした後、まるで恋人同士であるかのように腕を組み、細い路地の中に足を向ける。
 灰燕は煙管を吹かしながら娼婦に向けて笑みを残し、そのまま、言葉を残すでもなく、場を去った。

「ケイリーが犯人だった場合、どうしてあたし達に犯人捜しの協力要請をしてきたのか。……気になってたのよ」
 ケイリーの後を追ってきた明日達が辿り着いたのは、薄汚れた、おそらくは貧民街にでもあたるのだろうと思しき場所だった。お世辞にも清潔とは言えないような空間に、娼婦と思しき女や客と思しき男、それに暗く沈んだ顔をした子供たちが多く確認できる。
 ケイリーの姿をした彼女が、中年男を連れ立って路地の向こうに消えていくのを、明日は歯痒い気持ちを押し殺しながら見送った。本当は声をかけようかとも思ったのだ。けれど、それを遮ったのは闇姫だった。
「あの子が犯人だと、まだ決まったわけではないでしょう? それに、あれがケイリーじゃなくてフェイだっていう保証もどこにもないのよ」
「……どういう意味?」
「ケイリーは、フェイっていう別人格を作り出したことにして、自覚しながら人を殺し続けているのかもしれない、っていうことよ。ありがちなことでしょう? まっとうな“正義”とやらがある世界では、狂者を演じることで罪科から逃れることができる。……まあ、この世界にそれがあるかどうか、わかんないけどね」
 睨むようにこちらを見つめる明日に肩をすくめ、闇姫は媚びるように笑う。
「……いいえ、あれはケイリーではなく、フェイという人格のはずです」
 言を交わすふたりの横でひとしきり目を閉じ何かを思考していたアルティラスカが、ふと目を開いた。こめかみに揺れている花が、羽のような動きを見せている。
「種はケイリーさんではなく、フェイさんを感知するようにと定め、植え付けさせていただきました。もしもケイリーさんがケイリーさんのままでいるなら、種のまま消失していくはずだったのです」
 言って、アルティラスカは躊躇を見せることもなく歩きだした。
 一郭に影を落とす女たちや男たちが窺い見ている。中には泥酔した勢いを借りて声をかけてこようとする者もいた。そういった男たちを蹴散らそうと明日が動いたとき、彼女が動くよりも先んじて、品を忘れた男たちを押さえつけ蹴散らしてくれた者がいた。
 サーヴィランスと王狼だった。
「……いずれにせよ、犯罪は現場でおさえるのが確実だろう」
 明日に向けて声を放ったサーヴィランスに、明日は口をつぐみ、サーヴィランスのゴーグルを見据えて応える。
「罪を犯す前に止めてあげることも必要だわ」
「もちろんだ」
 うなずいたサーヴィランスが歩き出したのをきっかけに、四人はアルティラスカの後を追った。  
  
 建物と建物との間にあいたわずかな隙間の中で睦みあっていたふたつの人影は、やがて言葉をなくし、そのままひとつに重なろうとしていた。
 一見すれば睦まじい恋人同士に見える――否、この一郭がどういった場所であるのかを把握している者であれば、それは娼婦と客にすぎないことを容易に知りえるだろう。細い路地をいくつも抱えている場所なのだ。彼らに限らず、同じようにコトを済ませている者たちも決して少なくない。彼らもそれらと違わず、ひとときの快楽を貪り離れていくのだろうと、見る者は誰しもがそう思ったに違いない。
 けれど、それは数瞬の後に異質なものへと変じた。
 女がか細い腕で男の首を締め上げ始めたのだ。
 体格の差異をものともせず、嬉々とした表情をたたえ男の首を締め上げる女の力は、そう、例えば、二人分の力をひとつにまとめたもののようにも思える。
 男はひゅうひゅうと細い音を発しながらよろめき、それでも懸命に女の手を押しのけようとしている。女の頭をどうにかして壁に叩きつけようとしたり、あるいは女の細い足を払って転倒させようとしたりもした。だが、どれも女はいとも簡単に逃れ、ますます喜色を色濃く染めていくのだ。まるで男が見せる反応を楽しんでいるかのように。
「ねえ、苦しい? 苦しい? 苦しいの? 助けてほしい? 助かりたい? わたしたちも助かりたかったのよ? やめてって言ったよね? 何度も何度も何度も何度も、ごめんなさいごめんなさいごめんなさいって謝ったよね? 苦しかったの、苦しかったのよ? ねえ? ねえ? ねえ? ねえ?」
 矢継ぎ早に言葉を吐き出しながら、女は引き攣ったように笑う。
 男はすでに口の端から白い泡を吐き、失禁さえしている。目は忙しなく泳ぎ、焦点を定めていない。おそらく女の声も届いてはいないだろう。それでも女は言葉を続ける。泣きながら断罪の言葉を続ける。
 やがて男が膝から崩れ落ち、汚れた路地の上に転がったときに初めて手を離した女は、けれども続けて傍に立て掛けておいた杖を両手で握りしめる。泣きながら、笑いながらそれを大きく振りかぶり、そうして男の頭をめがけ振り下ろそうとして、
「やめなさい!」
 凛と響いた女の声がそれを止め、同時に、振り下ろそうとした手がそのまま宙で固定されたままになっていることを自覚した。
 走り寄ってきたのは明日だった。明日は動きを封じられたままのフェイを押さえ込み、そのまま勢いを借りて壁に押しやる。杖が路地に落ちて転がる。転がった杖の先にあったのは死にかけの男ではなく、朽ちかけた木端だった。
「面倒くせえことやらすなよ」
 小さな舌打ちをひとつ落としながら歩いてきた王狼が指をならすと、フェイの身体はようやく自由を得た。息がはねあがる。
 王狼の後ろでは闇姫が興をそがれたような顔をしている。
「どうせなら殺させればよかったのに。どうせ木偶なんでしょう?」
 言いながら数歩を進め、フェイのすぐ目の前にまで近付き顔を覗きこんだ。
「殺したかったわよねえ、フェイ。いいえ、ケイリーなのかしら? どっちでも同じだからいいんだけど。ねえ? 実の父親が男になった姿を目の当たりにしたとき、どんな気持ちだった? 殺したいほどイヤだったの? ねえ?」
 矢継ぎ早に問いかけを口にする。まるでつい先ほどまでのフェイのように。
「よしなさい、闇姫」
 それを止めようとする明日の言葉に、闇姫は目を向けることもせずに吹き出した。
「妹が人殺しかどうかを調べてほしい、あんたそう言ったのよね、ケイリー。止めてほしいとも、更生させてほしいとかじゃなく。止める気はなかったんでしょう? ねえ? だってその手はもう血で染まっちゃってるんだもの。もう何をしたって戻れないんだもの。それを分かってるんだもの。だから」
「やめなさい、闇姫!」
 明日が闇姫を押さえ込む。同時にサーヴィランスもまた闇姫を抑止しようとして動いていた。二者の力によって押さえつけられ、闇姫は不快を顕わにした表情でそれらを振り切った。
「……先ほどお訊ねしましたが、もう一度、よろしいですか?」
 沈黙を守っていたアルティラスカが静かに口を開ける。
「妹さんは……あなたは殺人に手を染めていました。……残念な結果です。……貴方はどうしたいのですか?」
 まっすぐにフェイの――あるいはケイリーの顔を見つめたまま告げた。
「助けてほしい……そうなのですか?」
 続けて訊ねたアルティラスカのその言葉をうけたとき、ケイリーは力を失ったかのように、その場に崩れ落ちた。
「…………楽しかった。……苦しかった。でもやめようとも思えなかった。……私が何をしたいのか、私にも分からなかったのです」
 絞り出すようにそう告げて、ケイリーは初めのときのように顔を覆い俯いた。
 肩を震わせるその様は、泣いているようでもあり、笑っているようにも見えた。

     ◇

 数時間後、ケイリーは留置場の中にいた。
 冷たい鉄格子によって外界から区切り取られた狭い世界。高い位置にある小さな窓の向こうに覗く空は既に夜のものになっている。
 監守は定刻ごとに見回りに来るようだ。もっとも留置されてから数時間ほどしか経っていない現状では、まだこの場所がどういった流れによって区切られているのかが掴みきれない。
 壁に寄りかかり、聞くともなく耳を澄ませていると、カラコロと響く足音が近付いてくるのが分かった。監守のそれではない。――ケイリーはぼんやりとした視線を動かし、足音の主を探した。
 立っていたのは銀髪の男――灰燕だった。穏やかな笑みを浮かべている。
「……どうやって、この場所へ」
 訊ねようとしたが、それに先んじて灰燕が口を開けた。
「それで? あんた、結局、誰じゃ?」
 訊ねながら微笑む。冷ややかな、触れれば斬れそうな三日月を思わせるような空気がそこにある。「あんた、ケイリーなんか? それともフェイっちゅうんか? それともそのどっちでもないんかのう?」
 灰燕のその言葉に、ケイリーは初めこそ驚き目を見張っていたものの、灰燕から寄せられている視線がわずかほどにも揺るがないのを見てとると、少しずつ表情を変えていった。
「……“またとない”」
 応えたケイリーの声に、灰燕は口角を歪めあげて笑んだ。
「そうか」
 短く返すと、灰燕はケイリーに背を向け、それきり言葉を交わそうとするでもなく、再び、どこへともなくカラコロと音を鳴らしながら去っていく。その音が消えた頃、ケイリーのものとも、フェイのものとも思える、叫び声にも似た嬌声が響き渡り、澱んだ夜の空気を震わせた。
      

クリエイターコメントお待たせいたしました。シナリオ「朧」のお届けにあがりました。
当初予定していた文字数よりも少しばかり多めになってしまいました。その分、少しでも皆さまにお楽しみいただけるようなものになっていればと思います。
口調・設定等、イメージと異なる点がございましたら、遠慮なくお申し付けくださいませ。
ご参加、まことにありがとうございました。
次回シナリオもまたインヤンガイでのものになる予定となっております。
またのご縁、心よりお待ちしております。
公開日時2010-02-20(土) 11:40

 

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