むかしむかし、とある世界のとある独裁国家に、存在を隠されるようにして生きているお姫様がいました。 お姫様はもともと王家の一員だったわけではありません。 物心つかぬ内に実の家族の元から引き離され、城の奥深くに隠されたのです。 お姫様の住む部屋は広くて清潔な部屋でした。けれども窓だけはありません。 お姫様に潤沢に与えられたものは、本と紙とペンです。それ以外のものは必要最低限しかありませんでした。 お姫様には、生まれつき不思議な力があったのです。 一族の中で稀に生まれる特殊能力持ちの子ども、それがお姫様だったのです。 お姫様の書いた『お話』は、人に読まれて認識されることで、現実のものとなるのです。 たくさんの人が読んで認識すれば、それだけ大きな出来事を早く現実のものとすることができるのです。 お姫様の住む国は、お姫様と同じ能力を持って生まれた一族の者を囲っていました。そうすることで、独裁国家を保っていたのです。 この能力の持ち主は、生まれた時からお話を作る力を持っていました。 文字の書けぬうちは絵で、文字が書けるようになると文章も添えて、お姫様は王様に望まれるままにお話を作りました。 お姫様が7歳を過ぎた頃、王様から頼まれる回数が増えました。内容も複雑になっていきました。お姫様が生まれるずっと前から王様のために物語を書いてた同じ一族の能力者が死んだためでした。 お姫様には双子の遊び相手がつけられ、食事もきちんと与えられ、着るものも、ふかふかのベッドもありました。 ただひとつ、部屋の外に出られないということを除いて、お姫様の生活は保証されていたのです。 そんなお姫様はある日、手慰みに書いていた物語によって、世界から放逐されてしまいました。 言葉の通じない世界に突然放逐されたお姫様は、黒い服に身を包んだ貴婦人によって助けだされました。 貴婦人は自分の所属する『世界樹旅団』という組織にお姫様をつれていき、お姫様を保護することを約束したのでした。 *-*-* ある日、小さなカフェの日当たりのいい席で、優雅に紅茶を飲んでいる一人の少女がいた。 クローディア・シェル。元世界樹旅団員のツーリストだ。 今日も上品なドレスに身を包んでいる。テーブルの上に置かれているのは日記帳のようなノートと、万年筆。 にぎわいを見せるカフェの中で、その姿は静謐さを纏っていた。「申し訳ありません、クローディアさん。店内が混雑してきまして……少しの間、相席をお願いしてもいいですか?」 申し訳無さそうに近寄ってきたマスターに、彼女は静かに頷いて。「いつも長居させてもらっているから、お返しをしないとね」 少し、微笑んだ。 *-*-*「ねぇ」 向かいの席に座ったあなたに、クローディアは声を掛けてきた。彼女と親しい者からしてみれば、彼女から積極的に声をかけるのが珍しいことだと驚くだろう。「あなたもロストナンバーよね。お願いがあるの」 彼女の紫水晶の瞳があなたを見つめる。「よかったら、あなたの故郷のことを話してくれない……?」 どんなところだったのか、どんな生活をしていたのか、大切な人はいたのか、帰りたいと思うのか――話せる部分だけでいいという。 ワールズエンドステーションに到達できれば、ツーリスト達の故郷も見つかるだろう。いつか、壱番世界を救う手立ても見つかるかもしれない。 そうしたら、故郷に帰りたいと望むのか、それとも別の世界での新しい生活を選ぶのか――。「ごめんなさい、興味本位だけじゃないの。私は……迷わないといったら嘘になるから。少しでも他の人の話を聞きたくて」 お願いできるかしら、彼女は髪を揺らして軽く首を傾げた。*-*-*-*-*-*※このシナリオはロストレイル13号出発前の出来事として扱います(搭乗者の方も参加できます)。*-*-*-*-*-*
■ 心優しき霜の巨人と私 ■ 「話しても良いが迷宮の外の世界は俺もよく知らないからな。つまらないと思うぞ」 そう言ってクローディアの向かいの席に腰を掛けたのは、この店の給仕服に身を包んだ巨漢――ゲーヴィッツであった。サービスだと彼が差し出したプリンの入った器に手を触れると、とてもひんやりしている。どうやらこの器は氷で出来ているようだ。彼が作ったのだろうか。 「大丈夫よ、あなたが面白く感じないことが、私にも面白く無いとは限らないわ。それに、面白いか面白く無いかの問題じゃないもの」 「そうか」 即座にスラスラと言い返されたものだから、ゲーヴィッツもなんとなく納得して彼女の向かいに座る。仕事はいいのかと尋ねられたが、ついでに小休止だ。小遣い稼ぎの一日ウエイター。休憩も必要である。 * 俺はな、気がついたら迷宮の中に倒れていたんだ。 そこがあまりにも酷い有様だったから、訪れる旅人や魔物達の為に迷宮を回る毎日だったな。 「なぜ、皆迷宮を訪れるの?」 俺の世界には医療という物が存在していなくてな。魔法はあるがそれでも治す事が出来ない病気がある。 そんな病気に効果がある水が大雪原にぽつんとある深い迷宮の一番奥に湧いているわけだ。 「みんなその水を取りに来るのね」 ああ。 俺の存在は皆に喜ばれたもんだ。 「……? ゲーヴィッツはその水を守っていたとか、取りに来る人を追い払っていたとかじゃ……」 いや。 危険な魔物を追い払ったり、未熟な者を泉まで連れて行ったり、行き倒れを村まで運んでいたりしたんだ。 「……意外だけど、なんだか『らしい』気がするわ」 そうか? 「ええ」 それ以前の事は何をしていたのかどうしても思い出せない。 ただ迷宮の外の知識もあるという事は、俺が自分に関する記憶を無くしたのか、それともそういう存在なのか。 「……気になるの?」 気にならない訳ではないが、解らないのならそのままでもいいのかもしれない。不自由した事はなかったからな。 「割りきれているのね」 そうか? 全然割り切れていないこともあるぞ。心配事もあるしな。 「心配事……?」 俺がいなくなっても迷宮に挑む者はいるだろう。そのことだな。 「ああ……」 俺は現時点では帰るつもりでいる。 だが俺が居なくなっても迷宮の安全が保たれているようなら、どこか余所へ行くのもいいかもしれないな。 「もし、迷宮の安全が保たれていたら、自分は『不要』、だと……?」 * 目の前の彼女の瞳が揺れる。まるで自分が不安に襲われたかのように、頼りなく揺らめいている。その瞳を見て、ゲーヴィッツは少し考えて言葉を発した。 「安全を守るって意味なら不要なのかもしれないな」 「……不要となったらどうすればいいの? なぜそんなに落ち着いていられるの?」 頑張って抑えてはいるようだが、クローディアの声は幼子が何かに縋るときのような色合いを見せている。まるで、不要と判断された事があるよう。その絶望を味わったことがあるようだ。 「別に悲観しているわけじゃないからだな。迷宮にそのまま居続けるって手段も選べると思うし、余所に行くという選択もできる。道を絶たれたというよりも、選択の幅が広がったと俺は考える」 「……選択の幅が……そんなふうに考えたことはなかったわ」 不要と切り捨てられた時についた傷は深いのだろう。その時のことを思い出すように彼女は小さく身体を震わせたが、ゲーヴィッツの考え方が彼女の思考に何らかの刺激をもたらしたようでもあった。 「そうなっても良いように、世界を移動する方法が残されていると良いけどな」 「出身世界を見つけても、すぐに再帰属できるみたいじゃないようだから……考える時間はあると思うわ。一度様子を見に行って、それ次第では別の世界で生きるのも――」 ぽつりぽつりと彼女が語った言葉に思わず笑みが漏れた。 「その言葉、そのまま返す」 「え?」 「もし悩んでいるのなら、納得がいく答えを出せるまでこの世界で考えるのもいいだろう」 彼女は小首を傾げてゲーヴィッツの言葉の続きを待っている。 「いっそのこと定住するか、気になっている人がいるのなら、その人の世界についていくのもいいと思う」 「気になってる……人」 「いつまでも小さなお姫様じゃないだろう? 自分で生きる道を決めても問題無いと思う」 「そう……よね」 目からうろこが落ちる瞬間というのはこういう時を言うのだろうか。 最初はあまり面白くなさそうなすました顔をしていた彼女の表情が、変わっていく。驚きから、嬉しそうなはにかみに。 「自分で決めて、いいのよ……ね」 「ああ、そうしても誰も責めないだろう」 彼女の表情が目に見えて変わった。自分の言葉が何か影響を及ぼしたであろうことが、少し嬉しい。 「俺の話、少しでも役に立ったか?」 「ええ、ありがとう。……何かが見えた気がするわ」 薄く微笑むクローディア。ゲーヴィッツは安心してガタン、と立ち上がった。 「仕事に戻る。紅茶のおかわりがいるのならいれてくるぞ」 彼女の目の前のカップには冷めた紅茶が半分ほど残っている。クローディアはそれを飲み干して、頷いた。 「ええ、お願い」 ■ 誰よりも乙女な彼女と私 ■ 「相席の許可、ありがとうございますぅ☆」 クローディアよりもいくらか年上のその女性は、荷物をテーブルの足によりかからせて置くと、自分も椅子に座った。彼女の頭上には、カンダータの真理数が点滅して見える。帰属の兆候――彼女はもう、自分の行き先を決めているのだ。 「クローディアさんですよね?」 「え……」 名乗ってもいないのに名前を当てられ、驚いたように目の前の女性、川原 撫子を見つめる。だがクローディア自身が知らなくても図書館側の人間には彼女のことを知っている人は多いはずだ。そう思えば別段驚く必要もなかったかもしれない。 「……サクラちゃんから本好きで可愛らしい王女さまの話、聞いてましたぁ。お会いしたくて探してたんですぅ……これ、貰って頂けませんかぁ」 「……?」 コトリ。 撫子がテーブルの上に載せたのは、琥珀のブローチだった。窓から差し込む光を反射させて、キラリ、光る。 「ヴォロスで恋人や友達の幸せを願って、琥珀を探してブローチを作ったんですぅ。元気になって欲しくてサクラちゃんにも渡したんだけど……サクラちゃん、置いてっちゃったからぁ」 「……そうね」 クローディアの友人でもある吉備サクラは、世情に疎いクローディアから見ても様子のおかしい日々が続いていた。そしてある日、帰ってこなくなった。こんなことになるのなら、正月に沢山の手作り衣装を貰った時にもっと話しておくべきだった、そう、クローディアは思う。 「それも、サクラが?」 撫子がテーブルの足によりかからせて置いた、取っ手のついた箱。衣装を持ち運びする時に使う箱だ。 「はい☆ サクラちゃんに作ってもらっていたウエディングドレスですぅ」 「結婚、するのね。おめでとう。貴方のお話、聞かせてくれる?」 「私は壱番世界の人間なので面白い話あんまりないですよぉ?」 そう言いつつも撫子は語る。 山岳事故に遭遇して、山を嫌いになったこと。 けれども結局自分は山の人間だったと知ったこと。 地縁でも血縁でもない。 今居る人たちだけで手を取り合って乗り越えていくしかない。 そう思っていること。 中でも彼女が饒舌だったのは、やはり恋人との話。出会いからこれからに至るまで、流れるように彼女の言葉は止まらない。 時折飲み物で喉を潤しても、クローディアの相槌が間に合わぬほどに彼女は語る、語る。 それはそれは嬉しそうに語るものだから、クローディアも野暮なことは言わず、カップを傾けつつ耳を澄ましていた。 「カンダータに再帰属して、これからカンダータが私の新しい故郷ですぅ☆ マキーナが居なくなって地表探検も始まるだろうし、冒険いっぱいありそうで楽しみですぅ☆」 「あなたは故郷以外に帰属するのね。躊躇いはなかったの?」 「それは愚問ですぅ」 「……そうね」 撫子の様子を見ていれば、話を聞いていれば、彼女の心の推移は手に取るように分かった。だから、この質問は愚問だ。 「それに帰属したらコタロさんと結婚する予定なのでぇ☆」 バシバシと叩かれた机。振動がコップに伝わり中の液体を揺らす。思わずさっと、クローディアはテーブルを抑えた。 「ごめんなさいですぅ☆」 謝罪の言葉を述べつつも明るい彼女。幸せオーラがだだ漏れだ。 (別の世界で生まれ育った人と、新しい世界で、新しい人生を生きることを選んだのね) 勇気のある決断だ、今のクローディアにはそう思えてならない。一人ではない、それがやはり大きいのかもしれない。 「決断には勢いとタイミングが肝心ですぅ。でも、クローディアさんは、急いで道を決めなくてもいいと思いますぅ」 すっ、と、撫子はテーブルの上の琥珀のブローチを指で抑え、クローディアの方へと差し出す。 「サクラちゃんにあげたのを、私のにしましたぁ。これは最初から、自分用に作った分ですぅ。どうか貴女は元気になりますように」 サクラちゃんの分も――そんな言葉にならなかった声が聞こえるようで。 幸せを願った相手に何も出来ないのはもどかしいだろう。 結局何もしてあげられなかったというのは、さぞかし辛いことだろう。 その気持が少しでもわかるから、クローディアは琥珀のブローチに手を伸ばした。 「……ありがとう、大切にするわ」 一度抱きしめ、そして胸元につけてみせる。 撫子はそれを見て、満足そうに笑顔を浮かべた。 「伸ばした手から擦り抜けていくものはあっても、掴めるものもありますぅ」 それは彼女の体験から導き出した結論なのか。 「カロさんもヒロさんも彼氏さんも居ます、他の人もちゃんと貴女を見ていますぅ。貴女は手を伸ばして幸せになって下さいぃ」 「幸せに……なれるのかしら。……って彼氏?」 「いますよねぇ、彼氏さん」 「……」 クローディアの脳裏に浮かんだのは、一人の青年。彼と一緒にいると、段々と素直になれる気がしていた。 「結婚おめでとう。お祝いにおごるわ。ここのケーキセットは絶品なのよ」 「ありがとうございますぅ☆」 はぐらかすように話題を変えたが、撫子は別段気にしていないようだった。 クローディアは軽く手を上げ、店員を呼んだ。 ■ 若さと老いの同居する彼と私 ■ 有馬 春臣は頼んだコーヒーが届くと、ゆっくりと自らの人生を語り始めた。 「私は3歳から5年間、祖母に預けられていてね。そうなった理由は簡単にいえば父の愛人騒動が原因だ」 「……お祖母様はどんな方だったの?」 「甘えを許さず、礼儀作法に厳しかったね。幼子にははじめは近寄りがたかったが、やがて懐いた」 春臣の祖母、リツは元芸者だ。酸いも甘いも知り尽くしており、子どもであった春臣の目から見ても惚れ惚れするほど凛とした人だった。 椿油によって美しさを保たれた黒髪は常に固く一つにまとめられていて、それが、彼女がほどけてしまわぬように留めている楔のようにも思えた。 妻を亡くした医者の後妻に入り春臣の父を産んだ祖母は、妾上がりと心無い言葉を浴びせかけられても、陰口をたたかれても、常に毅然とした態度でいた。 ただ、同じ女として丁重に前妻を弔っていたのを春臣は知っている。 「厳しかったが、惜しまず世話を焼いてくれてね、参観日には必ず来てくれた」 かつての日々を思い返すように、春臣の瞳がが遠くを見る。 「一緒に落語や芝居なども観に行った。意外にそういったものに熱中する質でね、子どもながらに熱中するその可愛い面を指摘すると、お前も男としてはまだまだだね、なんて言われたよ」 『口にしないのが粋な男だよ』 祖母の声が耳に蘇る。色あせていた思い出に、鮮やかな色が蘇ってゆくようだ。 「聞いているだけで分かるわ、お祖母様は貴方にたくさんのことを教えてくれた……違う?」 「ああ、そのとおりだ。三味線や家事や教養、色々なことを教わったよ。一般的な、ではなく私が、生きていくのに必要なことをね」 祖父の夭折後は一人暮らしを続け、三味線の師匠をして生計を立てていた祖母。家庭を壊した息子を厳しく叱りもした。そして春臣には。 「『親を許さなくて良いが、いつか理解してやれ』そう言っていた。子どものうちはなぜそんなことを言うのか、承服できぬと思っていたが……」 「……そうね、深い言葉だと思うわ」 そっとコーヒーカップを持ち上げ、春臣は漂う香りを楽しむ。そして、ひとくち。 『正しいと思う時は孤独を怖れるな』 『然し一人で生きられると奢るな』 『自分に誇れる生き方をしろ』 『人を出し抜いたり弱さを笑えば己に返る』 祖母の言葉や生き方は、春臣に多大な影響を与えた。春臣がそれに気づいたのは、だいぶ歳を重ねてからだけれど。 祖母の家を出てからもよく訪ねたのがその証だろう。高校や大学も、春臣は祖母の家から通った。 その頃は祖母自慢の黒髪も、白いもののほうが多くなっていたけれど。けれども芯から滲み出る美しさは、以前から変わってはいなかった。 「……」 「……、……」 春臣が黙ったから、クローディアも何も言わなかった。アイスミルクティーの入ったコップの中で、氷がカラン……と音を立てる。 店員がお客に掛ける声が、酷く遠くに聞こえた。 * それは寒い寒い冬のことだった。骨まで染みるような寒さが、年寄りや子どもにはきついようで、風邪をこじらせたという声をよく聞いた。 気丈な春臣の祖母はそれまで病とは縁の遠い生活をしていたが、その年は違った。 歳を重ねたからか、寒さがひどかったからか、数日にわたって寝こむ日が続いていた。 縁側に面した和室に布団を敷き、火鉢に炭を焚いて部屋を温めて。 春臣は学校が終わると急いで帰宅し、祖母の看病をする日々が続いた。 面倒だとも億劫だとも思わなかった。ただ早く、元の祖母に戻って欲しかった。 寝付いている姿を見たくなかったのかもしれない。凛と立つあの姿が、祖母には一番似合っていたから。 「良い医者になりなさい、春臣さん」 ある朝そう告げた祖母は、春臣の看病を断った。 相変わらず寒い日だったけど、ここ数日のうちで一番元気なように見て取れたから、火鉢に炭をたくさん入れて学校へと向かった。 後ろ髪引かれないといえば嘘になったが、祖母のその言葉に応えようという一心で学校へと向かった。 だから。 「――――――――――っ!!!」 帰宅した春臣は一番に祖母のもとへと向かった。 尽きた火種、冷えきった室内、そして――祖母の穏やかな顔。 喉が引きつる。もちろん寒さゆえではない。手から滑り落ちた鞄の着地する音が、無機質に響く。 予感が、微塵もなかったといえば嘘になるだろう。朝のあの言葉は、今までも時折祖母が口にした言葉。 なぜ今、と僅かだが思った。その時に気づかなかった自分を呪う。 祖母は自分の死期を悟っていたのだろうか。 つきっきりで看病していれば、何らかの対応ができたのではないか。 たとえ気休めでも、死に抗うことが出来たのではないか。 そう問答する心の中に、一つの思いがあった。 祖母は、一人で静かに逝きたかったのではないか――。 混沌とする心とは裏腹に頭は理性的で。春臣は驚くほどスムーズにてきぱきと葬儀などの取り仕切るべきことの手配を行った。 永遠の眠りについた祖母の側で一人、寝ずの番をしている時――初めて涙がこぼれ出た。 その涙は止まること無く、嗚咽も相まって端から見たら見苦しいほどに、泣いた。 自分がいかに祖母の影響を受け、彼女を心の中に住まわせていたのか、実感するほどに。 * コーヒーのおかわりを注ぎに来たウエイトレスが去っていく。春臣はそっとカップを持ち上げた。 「祖母は私が津軽三味線に興味を持っても咎めなかったよ。三味線と歌は人の情が紡ぐもの。だから惹かれても仕方ない、と」 沈黙を破った春臣の言葉は、祖母との思い出を綴るものだった。思い出を深く染み込ませたその言葉は、クローディアの心をも揺さぶった。 「私も聞いてみたかったわ、お祖母様の三味線」 「そうだね、できれば聞かせたいものだ。どれだけの人間や男女を見て経験したろう祖母の新内節。あれほど情感のこもるものを、私は他に知らない」 遠い視線の向こうには、祖母の姿があるのだろう。耳元では、祖母の新内節が流れているのだろう。 そんな春臣を見て、クローディアは微笑みを浮かべた。 *-*-* 「個人的な話をして済まなかった」 「いえ、私が望んだのですもの」 誰かに、祖母の話を聞いてほしかったのだ。話すことで、祖母の記憶を共有して彼女の存在した足跡を確認できる。 「詫びに好きな物を奢ろう。何がいい?」 「あら、いいの?」 クローディアが選んだのは生クリームのたっぷり乗ったパンケーキ。なんでも壱番世界で人気なのだとか。 (――私の生き様を見たら) 祖母は何と言うだろうか。 春臣は一度強く、瞳を閉じた。 瞼の裏の祖母が、ゆっくりと口を開いた。 ■ 無垢でまっすぐな彼女と私 ■ 「この店、初めて。旨い店、満員。楽しみ楽しみ」 どさっとクローディアの前の椅子に座ったのはルンだった。彼女はクローディアの食べているストロベリーパフェを見ると目を丸くして、自分も同じものを頼んだ。 「ルンは、ルンだ。お前は?」 「私はクローディアよ。貴方は、とても楽しそう。ここでの生活は楽しい?」 「ルン、神さまの国、おもしろい!」 無邪気に笑うルンを見て、クローディアの表情も少し緩む。人と向き合って話をするということは、自分自身にも影響を及ぼす。彼女はそれを実感していた。 「ルンは、どんな所に住んでいたの? 良かったら話してくれない?」 「ルンが住んでたところ?」 クローディアの問いに、コップを両手で持ってオレンジジュースを飲んでいたルンは首をかしげたが、すぐに明るく口を開いてくれる。 「砂漠がち、雨降る! 獲物獲る、みんなで分ける! 物作る、みんなで分ける!」 「そうなの……」 貨幣価値がなく、皆で全てを分け合う。その集団がひとつの家族のようなものなのだろう。クローディアにとってはそういうシステムは新鮮である。 「長老いる。移動先、長老決める。ルンは狩人。村1番の狩人……多分! ……話す事、なくなった」 くす、ルンの様子にクローディアが思わず笑った。 「故郷に大切な人は残してきていないの?」 「大切な、人? ルン、狩人。狩り、1番大切。村一番、ルンの目標」 「……」 そういう意味ではないのだけど、思った言葉を飲み込むクローディア。だって何を一番大切に思うかは人それぞれなのだから。 「元いた世界……生まれ育った場所に帰りたいと思わないの?」 元の世界への帰属を望むロストナンバーが一定数居ることはクローディアも知っている。自分がどちらかと問われれば困ってしまうのだけれど。彼女は、どうなのだろうか。 「ルンは死んだ。死んで神さまの国に来た。だから神さまの役に立つ、願いを叶える。死人は帰らない、番いにならない。また死ぬまで、ルンはずっと、ここに居る!」 「……、……」 ルンの、無邪気な中に揺るぎない意志を感じさせる言葉の意味を理解するのに、クローディアには少しだけ時間が必要だった。 けれども理解してみればなるほど、彼女は自分は一度死んだと思っていて、ここは死後の世界――神さま達の住む世界だと思っているということか。 自分は死人。死人は帰らない。だからずっとこにいる――それはある意味理屈が通っていることのように思えた。けれど。 「自分のいた世界が見つかったら、一度様子を見に行ってみるといいわ。そうしたら、もしかして帰りたくなるかもしれないし。帰りたくなったら、再帰属するっていう手も……」 クローディアとしてみれば、道を一つ提示してあげたつもりだった。選択肢を増やしてあげたような、そんな感覚。だが、ルンの表情は曇ってしまった。 「……お前の話、難しい。良く分からない」 その言葉を皮切りに、恐らくルンの中に溜め込まれていたであろう疑問が次々と爆発していく。 「ルンが住んでいたところ、お金? ない。字もない。神さまの国、難しい。なんでお金いる? なんで字いる? 交換、何でだめ? 話す、何でだめ?」 「少し、落ち着きましょう」 言い募るルンに穏やかに声を掛けたクローディア。その時ちょうどウエイターがルンの分のストロベリーパフェを運んできた。クローディアにはその姿が見えていたのだ。 「甘くて、少し酸っぱくて、美味しいわ。甘いもの食べると、幸せな気持ちになれるわよ」 「食べる、いいか?」 「ええ」 柄の長いスプーンを握らせてそれですくうことを教えると、まずひとくち。すると味が気に入ったのか、がつがつと食べ始めるルン。それを眺めつつクローディアはゆっくり口を開く。 「お金が必要なのは、財産を貯めておくためというのもあるんじゃないかしら。後は価値の均一化をはかるためとか。字が必要なのは、記録としてそれを残しておくため、覚えておくため」 「確かに。貯める、ない。覚えとく、必要ない。だからか」 口の周りにクリームをたくさんつけて、長スプーンを握りしめて納得したようにルンは頷いた。クローディアはそっと手を伸ばして、紙ナプキンで口の周りをふいてやった。すると、ルンが金の瞳をじっとクローディアに向けている。何かを見透かすような、純真たからこそ見える何かを見ているような瞳。 「……なあに?」 「全部覚えとく、大変。お前、今、大変そう」 「……!!」 紡がれた言葉はまっすぐで、クローディアが意識していなかった部分を射抜いた。 「残さない、覚えておかない、悪いことじゃない。ルン元気! 覚えておけない事、全部忘れる! だから元気!」 「……私、そんなに元気ないようにみえるかしら?」 自覚がなかったわけではない。けれども普段からアンニュイな雰囲気を纏っている自分だから、誰にも気づかれないと思っていたし、そんなに大事だとも思っていなかった。でも。 「クローディア、元気ない。下向く、いくない!」 パフェの器を手で持って、口の中に残りを流しこむようにして食べたルンにとっては、クローディアが元気がないというのは些細な事ではないようだ。少なくとも、見過ごせない程度には。 「元気ない時、上向く! 元気出る! 行くぞ!」 「え?」 じゃらり、机の上に放られた代金。気がつけばクローディアは抱き上げられて店の外にでていた。 「え、ちょ、な……」 言葉を挟む暇もなく、すさまじい速さでルンはターミナル内をかけていく。下手に喋っては舌を噛みそうで、クローディアはルンにしがみついていた。 気がつけば上下がおかしくなっていて、もちろん左右もごっちゃに思えた。ルンが高い建物の壁を、連続跳躍しながら駆け上っているのだと気がついたのは、彼女の動きが止まってからだった。 「クローディア、ついた」 告げられ、ゆっくりと目を見開く。気付かぬうちに目を固く閉じ、ぎゅっとしがみついてしまっていたようだ。 「ここからターミナル、見たことあるか?」 「……わ……」 ゆっくりと降ろされて、辺りを見やる。周囲に遮るものが何もない、景色。 恐らくターミナルで一番高い建物の上に、二人はいた。 いつもは大きく見える建物や樹木が、とても小さく見える。樹海も、見えた。 「見たことのない景色だわ……」 その全景に圧倒されて、気の利いた言葉が出てこない。けれどもルンはそんなクローディアを嬉しそうに見つめて。 「お前が居ても行ってもルンここに居る、動かない! 何度でも連れてきてやる! 元気出せ! ……高い、平気か?」 「ふふ、高いのは平気よ。でもそういうことは初めに聞かないとね」 「そうか、ごめん。でもクローディア高い、平気、よかった!」 無邪気に笑うルンは今、クローディアのことを心配してくれて、全身で元気づけようとしてくれている。 その思いが暖かくて、嬉しくて。 「……ありがとう」 小さく告げる。小声であっても、彼女は聞き落とさないだろうと思ったから。 「また、連れてきてほしいわ」 変わらないもの、今、クローディアにはそれがとてもありがたい。言われて初めて気がついた。周りの変化に必死でついていこうとして、道に迷ってしまっていることに。 「急いで決めなくてもいいのよね……」 期限は切られていない。そして、他の誰でもなく自分で決めていいのだ。 *-*-* 後日、例の店で彼女の姿を見かけた。 陽の差し込むこの間の席に座っている彼女は心なしか、この前よりも穏やかな表情をしていた。 【了】
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