「話したでしょう? インヤンガイよ」「……」 思わずアリッサは、豪奢なドレスに身を包んで、ゆったりと肘掛け椅子に座ったヴァネッサをまじまじと見返した。「あの」「色街の、これからいよいよ店に出ようって言う娘達が胸に飾るらしいわ……ずいぶん見事なオレンジ・オパール……ファイヤー・オパールと呼ばれる宝石をあしらった蝶のペンダントだとか」「あの、ヴァネッサおばさま」 いくら何でもあんまりだろう。 奮然としてアリッサは相手を遮る。 ロストレイルが奪取され、ロストナンバーが捕らえられ、モフトピアにおいて、何とか列車を奪い返したものの、ロストナンバー二人が世界樹旅団に組することを選んだ、この時期に。皆心身ともに、様々な衝撃を必死に吸収しようとしている、この状態なのに。 自分の趣味を満たすことしか考えていないのか。「店の名前は『双子華(シュアンズーファ)』。リーラって娘一人よ。他の店からも新たに出る娘達が練り歩くらしいわ」「ヴァネッサ、おばさま」「何よ、さっきからうるわいわね」 ヴァネッサはようやく眉をしかめてアリッサを見返した。「聞こえてるわ。何なの」「今は世界図書館にとっても大変な時だと思いますけど」「ええそうよ」 ヴァネッサは心外だという顔で緑の瞳を瞬いた。「心配で心配で夜も眠れないわ」 嘘だ。絶対嘘に決まってる。 アリッサの胸の中の反論を聞いたように、ヴァネッサはくすくすと笑いながら扇を広げ、口元を仰いだ。「あまり心配だから、欲しがらなくてもいい宝石を欲しがってみせているのに、気遣いの伝わらない人ね」 ふふふ、と笑みを重ねて、囁くようにつぶやく。「店の名前は『双子華(シュアンズーファ)』、そこからリーラという娘が出る」「それはさっき聞きました」「じゃあ、あなたの耳は使い物にならないわね」 さくりと切り捨てると、目を細める。「どうして『双子華』(シュアンズーファ)なのに、一人の娘しか出ないのか、気にならないの?」「え…?」「『双子華』(シュアンズーファ)は床に二人を侍らせる悪趣味な店だわ。元々は二人居たそうよ、リーラとリオと言う女の子と男の子」 アリッサの頭に情報がしみ込むのを待って、続ける。「ろくでなしの母親が生み捨てた双子を店が拾って育て上げたのに、ある日、男の子の方が消えてしまった。リーラが逃がしたとひどく折檻されて、彼女は歩けなくなったけれど、他の情報によるとリオは姉想いだったから逃げるはずがないと」 ヴァネッサはゆったりと扇を揺らせる。香水の匂いが強く鼻を打つ。「人さらいか、何か別のものが攫ったか、それとも」 ヴァネッサは独り言のように、「真理に目覚めたのか」 アリッサは軽く息を呑んだ。「リオは少女の格好をさせられ、リーラと二人で売り出されるはずだった。けれど、そこに不思議な運命が働いたのかも知れないわね?」 さて。「改めて宝石探しをお願いしましょう。目的ははっきりしているわ。インヤンガイの花街行列に参加する、リーラという娘の胸に飾られる蝶の体にあしらわれたファイヤー・オパールよ」 簡単でしょう?「ああ、黄金の羽には興味がないわ。何なら蝶から羽根をむしって持ってきてちょうだい」 異世界のものを、と口を開きかけたアリッサに、微笑みを浮かべて遮る。「もちろん………研究のために、お借りする、のよ?」「………ごめんなさい」 アリッサは項垂れる。「本当に、ごめんなさい」 こんな時期に、またこんな依頼をしなくてはならないなんて。「『双子華』(シュアンズーファ)が加わる花街行列は数日後にあります。新たに売りに出る娘達が周囲を練り歩くために花街を出ますが、リーラは輿に乗って行列に加わります。その日ばかりは無礼講で、娘達に多少は近づけるそうです。ヴァネッサおばさまが必要とされている宝石は、リーラが胸に下げている蝶のペンダント、ファイヤー・オパールには魅力を高める力があるとされているそうで、娘達の繁盛を願って店が飾らせるそうです」 ただ、店は今回の行列に弟のリオが姿を現さないかと警戒もしているようで、衆人環視の中、ペンダントを手に入れるのは簡単ではないと思います。「………無理なお願いだってわかってるけど……お願い、します」 肩を落としつつ、チケットを差し出した。「翻る、月の陰、繋がる、命の糸」 小さな声で歌いながら、リーラは奥まった一室の床で、ころころと銀色の珠を転がしている。銀の糸で繋がった二つの珠は、転がるたびにきらきらと月光を部屋に撒き散らす。「リオ…どこにいるの…?」 大きな青い瞳はインヤンガイでは珍しかった。売り物になる身をもう嘆きはしないが、行方知れずになった弟のことは忘れたことがない。リーラにと、どこの誰かわからぬ男が贈ってよこしたのは『二つの月』と呼ばれる玩具、見るたび触れるたびに、自分そっくりの弟を思い出す。「幸せに…なっててね?」 ここで身を売るよりは幸せになっていてほしい。それなら、どんな下衆にも耐えられる、リオが無事で居てくれるだろうと思いさえすれば。 明後日は花街行列の日。 明日一日だけ、リーラはリーラで居られる。 その後は。 奥の行列衣装を振り返る。 胸に飾られた蝶の宝石は『胡蝶の石』と呼ばれている。古い昔話にまつわる名前、夢で蝶になり、目覚めて人であった自分に気づき、どちらがどちらの夢なのかわからなくなるという物語から、行列以降は今までの自分を脱ぎ捨てる、そういう意味だと聞かされた。 消えてしまったリオと自分、どちらが自分かわからない、二人でよく笑い合った、互いに額を合わせ掌を合わせながら。「り…お………幸せになっててね」 私の分まで、うんとうんと幸せになってて。 ぽろぽろ零れる涙が、転がる銀の珠を濡らして、なお光り輝かせた。
インヤンガイにもこんな空があったのか。 眩いほど鮮やかに明るく晴れ上がった青い空。一筋ニ筋渡る白い雲。 じっと真上を見上げていれば、今にもそこに、多重世界を渡るロストレイルが走っていく、その姿を見られそうな。 その青空の下で、今、日和坂 綾は、華やかな花街行列から連れ去られ、あちこちに雨上がりの後の水たまりのある味気ないコンクリートの上のベンチに座らされている、リーラの前に立っている。 その側には、昨日綾と一緒に、リーラの所へ客を装ってやってきた相沢 優、花街行列を襲って周囲の混乱に乗じ、不思議な力でここへ連れてきたコタロ・ムラタナ、そして、色鮮やかな紅の唇に薄笑みを浮かべて見守っている、どこかの店の娘のような姿のリエ・フー。 綾は、両手のこぶしを握り締めている。まっすぐに射抜くような視線は、リーラの、リオにそっくりの青い瞳に向けられている。 『私は日和坂 綾。リオくんって男の子に会って、キミの弟かもって思ったから、話を聞きに来たんだ』 昨日、リオが生きているかもと知らされて驚くリーラに投げられた、数々のことば。 『それって自分の不幸はリオくんのせいって言ってるのと同じだよ。…リオくんは確かに今、客をとる必要はないし、ご飯もちゃんと食べられるけど!』 御飯をちゃんと食べられている。 『身体に爆弾入れられて、好きでもないのに戦わされてる! 大事なヒトが居たって記憶もうろ覚えだ!』 爆弾とは何かわからないけれど、明日をも知れない命であるらしい。 『私はリオくんを助けたい! それなのに…姉さんかも知れないキミがそんなコト言うな!』 怒っている。怒ってくれている。 リーラのために。リオのために。 人の快楽の狭間に使い捨てられるような命なのに。 『この店じゃイイ旦那なんて夢物語だ。リオくんだって戻れない。ならキミがキミ自身のためにも抗うしかない』 差し出された、美しい短剣。昔、こういうものをコツカと呼んだ客があった気がする。 『選んで。明日私に攫われるか、私を刺して断るか』 命をかけて、道を示してくれている。 きっと、そんなことなどしなくていいのだ。この娘に、リーラの運命は関係がない。なのに、ここまで必死に。 吹き零れた涙を、相手はどうとったのか。 『世界は1つじゃない。覚醒したら世界を超える。迎えが来るまでは今より辛いかもしれないけど…必ず迎えにいくから』 意味はわからなかったけれど、ただ一つ伝わったのは。 ここに確かに、リーラとリオの未来を、守ろうとしてくれている人達がいる、ということ。 「綾さん」 今、改めて、渡されていたコツカを手にした。 示された選択肢は二つ。 それでもいつも、リーラが選ばなくてはならなかったのは、選べないものばかりだったから。 「リーラ!」 コツカを首に押し当てる。 とろり、とした雫を感じた。 行きの車中から、綾の様子は厳しかった。 「リオはアクアーリオの事、なんだろうな。……ヴァネッサさんは、まさか?」 険しい顔の綾にちらりと目をやって、優が首を傾げる。 インヤンガイでオレンジ・オパールに近いイミテーションを手に入れて、金持ちの客としてリーラに接触しようとしていたが、どうやらそちらは大丈夫そうだ。 「ヴァネッサが欲しがってんのは宝石だ。だったら肝心のブツだけ交換すりゃいい」 くくっ、と嗤うリエはヴァネッサを出し抜くつもり満々だ。 「昔の客の貢ぎ物だ。同じ石だから誤魔化しがきく」 出してみせたオレンジ・オパール、知らされたものよりは大きいかも知れないが、多少の細工はしてきた。スリで鍛えた早業で宝石をすり替えることぐらいはできるだろう。 「野次馬はお前が頑張って引きつけな?」 楊貴妃に火の玉芸を演じさせ、その隙にやってのけるつもりがある。言い含めると、楊貴妃もきらきら瞳を輝かせている。 ところで、と仲間を振り返る。 「報告書を見た。アクア―リオの本名はリオ……双子座を襲ったのと同一人物か?」 先のロストレイル襲撃事件、双子座号を襲った女装した少年の状況が、あまりにもリーラの弟と酷似している。インヤンガイで覚醒してディアスポラ現象でどこかへ飛ばされ、そこを世界樹旅団に保護された、そう考えるのが一番妥当だろう。 「……」 その横で沈黙を守りながら、周囲を眺めていたコタロにとっては、これが初めての依頼だった。 灰色と藤色の中世風の軍服、同色のマフラーで口元を隠し、褪せた金髪を後ろで少量束ねている。眉は無く、落ち窪んだ目の下には深いクマがある。終始無愛想な態度を貫いていたが、ロストレイルの乗り込む時にぎゅ、っと戸口を握ったり、誰かが呟く声に鋭く聞き耳を立てている。 「あっしは、博打でもしてみよーかナ」 ワイテは手にしていたカードを繰り返しシャッフルしていた。 「ひょっとしたらひょっとするよネ」 考えているのは、リーラを助け出しにリオが来る可能性だ。基本的には、壱番世界外では、自分達の居た世界の場所を覚えていないはずだが、世界樹旅団がこの世界群に関わっていたのなら、偶然訪れたということもありえるかも知れない。 カードでリオが来ているかどうか占ってみる。 出たカードは、『刑死者』の逆位置。 「ふうム」 『吊るされた男』とも呼ばれ、正位置なら修行、忍耐、奉仕、妥協。だが、逆位置となると徒労、痩せ我慢、欲望に負ける。カード番号は12、それはロストレイルの12本の姿も思わせる。吊った男はオーディンをモチーフにしているとされ、ルーン文字の解読方法を知るためイグドラシル(世界樹)の枝から首を吊ったと神話がある人物だ。また、「二人の女性に挟まれて身動きできない男」の意味もある。 「意味深だネ」 もう一枚を引いて見ると、『悪魔』の正位置だった。だが、一瞬珍しく指から離れ、拾い上げてみると今度は逆位置になっている。正位置では裏切り、拘束、堕落、逆位置では回復、覚醒、新たな出会い。 「これもまた……意味深イ」 『悪魔』の意味はよく知られているが、「意図の有る無しに関わらず、当人の望む望まぬに関わらず、結果的に起こる奇跡」まで注目する者は少ない。奇跡の逆転劇がそこに存在する、ということか。 「博打は成功するのかナ?」 「リーラはどんな形であれ人生に抗うべきだと思う」 ふいに、綾が呟いた。 「でもそれは私の独善で…それを強いた以上、私には取るべき責任がある」 言い放ったことばの不吉さに、ワイテはまたじっとカードを見下ろした。 しゃらん、しゃらん、と重ねられた金の花が、擦れ合って鳴る。 「花街行列が通るよ!」 ゆうらり、ゆうらり。 揺れる紅の日傘、艶やかな衣装を着た娘達が、高めの下駄を履き、あるいは朱塗りの輿に乗せられ、陰鬱でじめじめしたインヤンガイの街の通りを過ぎていく。 遥か上空しか照らさない日が、そこだけ突然差し込んだような眩さに、周囲の街並から慌てて人が飛び出してくる。 「綺麗だねえ」 「一生縁なんかねえよ」 「拝めるだけでもありがてえか」 下衆な嗤い声も、それぞれの店一番の気合いを込めて送り出された娘達に次第次第に憧れの嘆声に変わっていく。 「『双子華(シュアンズーファ)』のリーラだ!」 「リーラだ!」 「ああ…見事だ」 叫び声が上がって、コタロは目を光らせる。 前日、リーラの元へ向かった連中とは別行動で、行列の通る道や周辺を調査しておき、仕込みも済んでいる。後は仲間が動きやすいように、目立つように行列を襲い、打ち合わせておいた場所へリーラをワープさせればいい。今回は世界樹旅団絡みについては仲間に一任し、依頼されたことだけに集中するつもりだ。 リーラは真紅と真っ白の衣を重ね、金と銀の鎖を頭から肩から袖から流し落とし、その先に幾つもの宝石を煌めかせていた。中でも目を惹くのは、胸に下げられた金色の蝶、オレンジの宝玉を抱くように広げられた大きな羽の細工が、きらきら輝いている。 昨夜リーラに接触した仲間の話では、リオが生きていることを知らされると、信じ難いと言った表情から、やがて泣き濡れて、ほとんど会話にならなかったらしい。花街の娘を装ったリエが、リーラ姉さんのお世話を言い付かりました、と昔なじみと噂のある店の名前を出して気を逸らした隙に引き上げてきた綾の顔は、車中より一層厳しかった。 コタロには、特定の誰かが幸せになってくれれば、自分がどうなろうと構わない……という気持ちは痛いほど良く分かってしまう。だからきっと、自分はリーラに反論もできないし、しないだろう。 「……」 行列が近づく。ボウガンを構える。ひょろりとした長身の不健康そうな、明らかに花街の賑わいから浮く男が長時間居れば十分目立つ。 「え、おい、あんた……っ!」 側の男が不審げに見やってきたのを合図に矢を放った。薄水色の尾を引いて、屋はまっすぐリーラにかざされた紅の日傘に奔る。次の瞬間、日傘に砕けたのは白銀の霜、氷の花を散らせて日傘を吹っ飛ばす。 「きゃあああっっ!」「うわあああっっ!」 悲鳴が上がった。 「誰だ!」「こいつが!」「うわあっ!」 ボウガンを片手に無言で行列に走り寄る。リエが、如何にもリーラを案ずるように華やかな衣を引きずりながら投げ出された輿に近寄り、彼女をそっと抱えた。はっとしたように振り向くリーラの耳に何かを囁く。コタロの鋭い目には、リエがリーラを気遣いつつ、乱れ崩れた飾りを整えるような仕草で、一瞬のうちにペンダントトップをすり替えるのが見える。 同時に、ワイテが道端に脱ぎ捨てたローブがふわりと立ち上がった。中に仕込んだカードで人の形をとらせている、それがまるでコタロと示し合わせてリーラを襲うように動き、輿についていた男達がわらわらとやってきた。 「こいつ、何を!」「おいそっちへ行くぞ!」「あっちだ!」 次の瞬間、先にコタロに飛びかかった数人は何があったのかわからなかったに違いない。蒼国軍戦列歩兵隊第十八番隊隊員、主たる役割は戦線での白兵戦、コタロの動きはいくら暴力慣れしていようと、女子供相手の民間人とは一線を画する。一気に崩され倒れるその隙に、リエの手からワイテのローブの中へ宝石が渡った。続いて走り寄るコタロの手へ。ワイテのローブの中へ渡った宝石を見た男達が、ひょいひょいと慌てた風にうろつくローブを追いかける。 「エンエン!」「うわあああ何だ!」 楊貴妃の火の玉芸、綾のセクタンの狐火繰りも加わって、花街行列は混乱した。こっち、とリーラを背負った綾を隠すかのように、ワイテのローブがばさりばさりと走り抜けていき、人々の耳目を集めた瞬間、コタロが仕掛けたポイントまで綾とリーラを誘導、リエがそれと気づいて襲い掛かってきた男達を蹴り倒して追いかけてきたのを確認し、一気にワープする。 そして、今、青空の下。 「リーラ!」 渡した小柄を首に押し当てたリーラに綾は息を呑む。 ここで死ぬつもり? そんなこと。そんな選択なんて、考えていなかった。 逃げるんだろうか、そうやって。自分の辛くて苦しい運命から。リオをあんな状況に放っておいたまま。そんなの絶対許せない。 拳を握り締めて前へ出ようとする、その綾をリエが引き止めた。 細くて白い首に走った紅の血。流れ落ちる一筋に、本気で首をかき切ろうとしたわけではないことを、リエは見抜いていた。 「リーラ」 リーラとリオ。どこへも行くことができなくて、娼館で生きて死んでいく命。 「俺も同じだ。お袋は娼婦。俺は娼館で生まれ育って男娼になった。他に道がなかったって言やそれまでだが、自分で選んだって矜持を持てる」 本当はそれほどかっこよくもない。だが、流されたわけ、ではない。 「お袋は誇りを貫いた。体は売っても魂は売らなかった」 身に帯びている色鮮やかな衣装、華やかな匂いと快楽に魅かれて羽虫のように集まってくる男達を思い出す。夢を見させてくれ、一瞬でいい、一瞬でいいんだ、リエ。あの男もそう言った。 「リーラ、てめえもそう在れ。下衆どもに抱かれたから何だ、抱かせてやったんだ、胸を張れ。てめえの魂はこんなチンケな石っころなんか比べ物にならねえ上等の宝石だ」 リエが手にした蝶のペンダントに、リーラは自分の胸を見下ろす。血が滴ったそれが、僅かに意匠の違うものだとようやく気づいて、小さく驚いた。 「いつかきっと、弟に会わせてやる」 「っ」 はっとして顔を上げる相手に、リエはにやりと薄く微笑む。 「別々の道を生きるとしても……『再見』を言いてえだろ?」 「……ええ…」 「言わせてやる。信じろ」 リーラはそれでも首もとの小柄を離さない。 離さないまま、静かに綾へ目を戻した。 「綾さん」 「……なに」 「……私が今ここであなたと逃げたら、あなたはどうするつもりでした?」 「リーラに選ばせたのは私だよ。だから、帰らない」 言い切った綾に、優が少し息を引いた。 綾がブルーインブルーへの帰属を願っていることを、彼は知っている。それをどうする気なのか、と問いたくなる。 「リーラを背負ってロストレイルの駅舎に転がり込んで……リーラがロストナンバーになるか此処で自立出来るまで一緒に生活する」 ぐ、っと歯を食いしばった綾の目が大きく見開かれ、潤んでいる。 リーラには、やはり、ことばの意味はよくわからない。あやふやに滲んで聞こえない単語がある。それでも、そこに込められた気持ちは。 「綾さん」 リーラは微笑んだ。 「……私が帰らなければ、店の娘が私と同じ目にあいます」 「…」 「私を慕ってくれている、大事な大事な仲間が」 けれど今、どれほど嬉しいかわかりますか。 「誰も私達のことなど気にしていないと思ってた。おもちゃのように、人の都合で振り回されて使い捨てされる運命だと。なのに……私と一緒に、居てくれると」 どれほどの覚悟か。 「私には…よくわかる」 だからどうぞ。 「私を殺すか、さもなくば、戻して下さい」 リーラは頭を下げる。綾の顔から血の気が引いた。 「そ…んなこと…」 できない…よぉ。 どちらも選べない選択肢、二つ。それは、綾がリーラに示した選択そのものでもある。その狭間で綾はぼろぼろ涙を零す。 だがしかし、それでも人は、選ばなくてはならない時がある。 「いつかリオに会ったら……いつまでもずっと……愛している、と伝えて下さい」 小柄をそっと首から離し、リーラは両手で静かに、綾に捧げた。 「私は…あなた方のことばを胸に、きっとここで生きていける」 私をあなたは案じてくれている。リオも生きていてくれる。そのリオのこともまた、あなたは案じていてくれる。 「ね? どれほど嬉しいか……わかる?」 顔を上げたリーラが、リオそっくりの瞳で笑った。 「アクア君。アクアーくーん」 花街行列が大騒ぎになり混乱し、リーラが見事残りの仲間と姿を消したのを確認したワイテ・マーセイレは、少し外れた路地裏を呼びかけながら探している。マントを翻した竜人は、さすがにインヤンガイでも目立つ。花街行列に人が集まっている時こそが狙い目だと踏んでいた。 カードが示したのは針の先ほどの可能性、だが全くゼロではない。挑むことで翻る運命だってあるのだ。 「……ほうらネ」 路地裏の隅、まるで何かに呼ばれたように立ち竦んでいる青いワンピース姿を見いだしたのは、悪魔の囁きか、それとも。 「アクア君、みーっケ」 「……あれ?」 相手はワイテの声に振り返って目を見開いた。さっき見たリーラとそっくりな青い瞳に、胸に複雑なものが動く。 「なんで、こんな所にいるの?」 きょとんとした顔で尋ねてくる。 「……依頼?」 「……まあ、そんなとコ」 「……じゃあ……またやり合うのかな?」 両手を差し上げ、しゅるり、とその腕から指先にリボンを絡み付かせていく相手に、ワイテは肩を竦めてみせた。 「リーラ君を助け出したいって言うなら手伝うからサ」 「リーラ? ……誰それ? 新しい人?」 そういう情報はこっちにはなかったけどな。 答えながらアクアーリオは落ち着かなげに両手を揺らした。 「それとも陽動?」 「そりゃーこの間敵対していたわけだし信用できないかもだけど、あれ君が襲ってきたのが原因だからネー?」 「邪魔したのはそっちじゃないか」 「そっちが攻撃しなければこっちもしないヨ。あっし戦闘キャラじゃないし戦っても負けるシ」 「…おかしなやつ」 リオは小さく溜め息をついて、両手を降ろした。リボンが解かれて服の中に戻っていく。 「まあいいや。今はあなたの相手なんかしないよ。ここは苦手だ、早く帰りたい」 小さく呟くように付け足す。 「本当は……さんと同じ依頼に行ってもよかったけど……都合がつかなかったから、こっちに来ただけだし」 「エ?」 今一瞬、懐かしい名前を聞かなかったか。 それも、リオの口からという、信じられないシチュエーションで。 「リオ君?」 「っ!」 驚いたあまり、呼びかける名前を間違った。次の瞬間、相手は目一杯不愉快そうに顔を歪め、 「その名前は嫌いだって言ったろ!」 「あ!」 叫んで身を翻し、あっという間に路地の彼方へ消えてしまう。 「ちょっと待って、今なんテ」 もちろん、ワイテの問いは遅く。思わず見下ろした掌に愕然とする。 「……こういう時に、これが出るかナ」 手にしたカードの一番上は『星』の正位置だった。 「…それはそれは…」 リーラを『双子華』(シュアンズーファ)に戻したのは優だった。 豪奢な服装、襲われて放り出されていたところを助けたのだという彼に、店の主人は顔を綻ばせた。ましてや、その夜をリーラ一人と過ごしたいと言われ、真似マネーを握らされて、なお相好を崩す。 「ああいうことになっちまって…こりゃもう、リーラには客がつかねえと思ってたんですが」 旦那が買って下さるんなら、験直しにちょうどいい。 「ささ、こちらへどうぞ」 リーラ、お客だよ、有難くお迎えしな。 「……はい? ……あなたは…」 入った部屋で振り仰ぐように見上げてきた相手に、優は瞬きした。 「あれ…?」 同じ人物だろうか。 部屋に座ったリーラは、ずいぶん穏やかに見えた。昨日綾と向き合って泣き濡れていた娘は小さな困惑した少女だった。昼間、綾の前で小柄を押し当てた時も、世間の荒波に痛めつけられた、ただの娘だった。 だがしかし、今目の前で、紺色と金色の衣装に包まれたリーラは、いきなり大人びた風情、まるで優より遥かに年上の女性に見えた。 「いらっしゃいませ」 膝の上に指を揃えて頭を下げる。そこに銀色の珠が二つあるのに、優は思わずしゃがみ込んだ。 「このおもちゃをくれた人を覚えている?」 「……わかりません。でも……」 リーラはそっと優を見上げて目を細めた。 「きっと、リオに繋がるものね、そうでしょう?」 「…ひどく危険なものになるかも知れない。この糸を切っていい?」 「……どうぞ」 優が取り出したトラベルギアに、リーラは抵抗しなかった。ぎちり、ぎちりときしむような音をたて、引き延ばされるようにたわんだ糸が、ぶちりと切れる。 静かになった空間が苦しくて、優はことばを継いだ。 「……俺はリオに会ったことがある。綾が話した通り、とても厳しい状況で……パパ・ビランチャという男と一緒に居る」 「パパ・ビランチャ……」 その名前は聞いたことがありません、とリーラは首を振った。 「リオは……不幸なんですか?」 「……それほど幸せではないと思うよ」 たぶん自分の意図とは別に、したくないことを無理矢理にさせられている。 「……そう…ですか」 リーラはゆっくりと視線を上げて、小さな部屋の中を見回した。 隅に敷かれた布団、仄かな明かり、衣桁には花街行列の衣装がかかっている。だが、あれほど煌めいた装飾品も、蝶に仕立てられた宝玉もない。 「一瞬の幻なんですよ」 優が一緒に部屋の中を見回すのに、リーラは少し寂しそうに微笑んだ。 「花街行列は、この街に住む娘達のただ一度の晴れの日」 あの衣装はそれまで必死に働いた給金から作られ、装飾品は代々の娘が受け渡していく。そして、その晴れの日が終わった後は、再び夜明けを見ない街で、厳しい暮らしが続いていく。 「もう一人の私として、リオには幸せになっていてほしかった」 リーラはそっと膝の上の銀色の珠を取り上げた。 「ここに居ても、いずれは離ればなれになるから、どこか遠くでもいい、リオだけでも幸せになって欲しかった」 そうすれば、私も少し幸福になれる気がして。 くすり、と笑みをこぼした。 「狡い考えなんでしょうね、バチがあたった」 リーラの静かな横顔に、優は初めて彼女の側から見た自分達の姿に気づく。 昼間。 連れ攫われることを拒むリーラに無理じいなどできない。 かと言って、彼女を殺すことは、なおできない。 苦渋の果てに選んだ結論は『双子華』(シュアンズーファ)にリーラを戻すということ、いざその時に、リエが言った。 『リーラみてえな奴はどこにでもいる。インヤンガイでも壱番世界でも、どこにでも』 黄金色に輝く不敵な瞳、だが珍しくその瞳にまっすぐで強い意志を煌めかせて続けた。 『傍目にゃどんだけ不幸で可哀想だって、運命を呑んで生きる覚悟をした奴を助けて「あげたい」ってのは欺瞞じゃねえか』 今彼女の膝の上にある、『二つの月』が危険なものであるかもしれないからと、糸を切ったのとどこか似ている、と優は感じた。 どれほど厳しい状況であっても、リーラは自分一人で生きているのではないことを理解していた。しがらみから逃れられないその重さを、背負わなければならないことを受け入れていた。 だからこその、リオへの思いだったのだ。 「…私、綾さんのこと、忘れません」 リーラはころころと銀色の珠を転がしながら呟いた。 「この糸を切ってくれたあなたのことも」 二つの銀の珠を繋ぐ、たった一本の糸を切った、リーラを案じて。 その重くて厳しい意味。 「助けて下さったリエさん、コタロさん……それに、ワイテさん? のことも」 一本ずつ、小さな指を折って数え、微笑む。 「リオが不幸? ううん、きっと大丈夫です。だって……」 みなさんが、いらっしゃいます。 「リオにも伝わる」 自分がどれほど大事にしてもらっているのかが、いつかきっと。 「……不思議で奇妙なことだと思うかも知れないけど」 こうしていると、今は妙に安らかな気持ちになります、とリーラは優を見上げた。 「どうしてかしら……リオが、大切にされているって、わかるんです」 少し目を閉じて夢見るような声で呟く。 「……穏やかな優しい人が、リオのことを気遣ってくれているって……。今の私みたいに」 見開いた青い瞳が、花が咲き綻ぶように微笑んだ。 「……ありがとう」 リーラは優しい声で続けた。 「あなたの行く手にも、幸福が訪れますように」 リーラのことばを帰りのロストレイルで聞かされて。 誰しもそれぞれの思いにことばを失う中。 綾は、握りしめた拳を両目に押し当てて、泣いた。 「おばさま、『胡蝶の石』です」 アリッサが差し出した蝶のペンダントを、ヴァネッサは受け取ってしみじみと眺めた。 「これでよろしいのですよね?」 「ええそうよ、これに間違いないわ」 「……?」 ふと、その物言いにアリッサは引っ掛かった。 まるで、『胡蝶の石』を知っていたかのように聞こえたが。 「もう下がっていいわ」 「おばさま、あの」 「何?」 振り向いた瞳はいつものように傲慢な色をたたえた緑、けれど、ふと思いついたように尋ねてきた。 「ロストナンバー達は大丈夫?」 「え、ええ」 報告書には目を通したのだろう、ヴァネッサはくふん、と妙な笑いを返した。 「人が現実か、それとも蝶が現実か」 そんなことを呟いて、インヤンガイに姿を消したのが居たわね。 「インヤンガイに帰属した、そういうことですか」 「……さあ」 ただ、私のコレクションから、貴重な宝石を持ち去ったのは確かよ。 「え…」 アリッサは思わず瞬きして、ヴァネッサの手のペンダントを見つめた。 「おばさま、ひょっとして」 「そうそう」 アリッサのことばを遮って、ヴァネッサが立ち上がる。扇を翻らせながら、物欲しげな目で見下ろした。 「今度は壱番世界ね」 「は?」 「『ヌカ・タマ・ヒ(青空の涙)』というサファイヤ」 「……あの」 「胸痛むような青色、だそうよ」 見たいわねえ。 「おば……」 「そのうちにまた、お願いするわ」 おほほほ、とヴァネッサは高笑いした。
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