世の中のすべてを否定するような静寂が耳に痛い。物音一つ捉えられないと自分の耳がどうかしてしまったのではないかという錯覚に囚われる。物思いに耽るにはそのほうが丁度よいのかもしれないが、不自然な沈黙は集中とは全く別の不安を呼んだ。 自分の耳がおかしくなってしまったのではないか、自分の気が触れてしまったのではないか――。 ざっ。 そんな不安は自らの軍靴が立てた音によって払拭された。下草を踏みしだいたのだ。 そうだ、音はそこかしこにある。今まで自分が歩いてきた道はどうだ? 細い木が乱立する森の中、小さな小石を踏む音も下草を踏みしめる音もしていたはずだ。これだけの森の中、葉ずれの音がしないはずはないのだ。落ち着けば鳥の声も聞こえる。 それらが聞こえなくなる程に自分は自分の裡に意識を向けていたのかと、半ば自嘲的な思いを抱く。 ヴォロスの自然は不思議だ。すべてを赦すようなその雄大さのせいだろうか、事あるごとにひょっこりと顔を出して離れぬ悩みと向きあおうという気になる。 ヌマブチが今日ヴォロスを訪れたのは任務のためだ。生き残るために与することを決意した世界樹旅団。生きることを最重要事項として考え、動いたはずなのに――初めてナレンシフに乗り込んだその時から瞼に張り付いてはなれない光景がある。 烏の濡れ羽色の美しい髪。絹糸のごとく細く繊細なそれは、衝動に揺れて。 太陽の光が凝ったような金色の瞳。感情の動きによって深みを変えるそれは、慟哭に染まって。 月光石を繰り抜いたかのような涙の雫。はらはらと零れ落ちるそれは、想いを抱いて。 雪華の様に白く細いその指先。まっすぐとこちらへ伸ばされるそれは、ヌマブチを求めて。 『ヌマブチさん!』 金糸雀の求愛のごとく美しい声色は、今でも耳について離れない。 (某は、判断を誤ってしまったのでありましょうか?) これも何度も繰り返された自問。答えなど出るはずないのに、何度も何度も繰り返してしまう問い。軍靴でしっかりと下草を踏みしめながら、一歩一歩進みゆく。答えを求めるように。 (……答えなど) 答えなど出ても出なくても決まっているのだ。今更後悔なんてできない。それが己が選んだ道である以上、後悔するわけには行かないのだ。第一、今更後悔したところで何が変わるというのだろうか。ヌマブチが世界樹旅団に渡り、部品を埋め込まれて旅団の一員として活動しているという事実は何一つ揺らがない。だとしたら、後悔するだけ無駄なのだ。 だがそれでも、別れ際の彼女の姿が脳裏にちらついてはなれない。焼き付いてしまっている。 それは置き去りにせざるを得なかった娘を思うような感覚で、恋愛感情ではない。父親のように、彼女の幸せを願う感覚。 泣かせてしまった――彼女は幸せに過ごしているだろうか。 少し考えれば答えなど見えそうなものなのだが、藻の茂った水面を覗きこんだように向こう側にある答えが見えない。 否、藻を押しのけてまで見ようとしないのだろう――。 *-*-* ヴォロスでの依頼を終え、帰りのロストレイルが出るまでの時間を持て余してそぞろ歩く。 緑多いヴォロスの風景に癒される? そんな事はない。 東野 楽園の心の中はささくれだっているようで、茨の蔦が心を傷つけながら舐めるようにくまなく這い回っているようだった。まるで心の裡に荊の城を抱えているかのよう。 忘れられるはずがない。 思い出すのはあの時の別れ。 いつもと変わらない表情で。 いつもと変わらない硬さで。 いつもと変わらない鈍感さで。 紅涙を絞る楽園に、彼は背を向けた。 『ヌマブチさん!』 絞り出した声は彼に届いたのだろうか。 『ヌマブチさん!』 想いは届いてもきっと、受け止めてはもらえていないのだろう。 (だってあの人は、行ってしまったのだもの) 楽園の前から逃げるように消えてしまったのだもの……。 下草を踏みしめているはずなのに、華奢な楽園が歩くと不思議と草を踏みしめる音は立たなかった。全身を聴覚にして注意深く聞きとれば、あるいは動物ならば聞き止めたかもしれない。だが、普通にしていたら聞き止めることはないだろう。 滑るように滑らかに、ゴシックドレスの裾を揺らして楽園は細い木のまばらな森の中を歩いて行く。散歩と言うよりは徘徊といったほうがふさわしいかもしれない。あてどもなく、ふわりふわりと歩みゆくその姿は、闇を凝らせたように見えた。 楽園は自分の進みたい方へ進む。 「邪魔よ」 顔の前に飛び出て進路を塞ぐ枝や蔦はギアの鋏でちょっきん。 何人たりとも彼女の行く手を邪魔するものは許さない。 嗚呼。 目的などない。 考えなどない。 ただ沈んでは浮かんでくるのはあの人のことだけ。 嗚呼――。 *-*-* カサリ、カサリ……。 「!」 八時の方向に、段々とこちらに近づいてくる物音があった。散歩をしているだけの普通の人間だったら聞こえなかったかもしれない。だが、ヌマブチは軍人だ。いつどこであっても不審な物音を聞き止めるのは、最早習性と言っても過言ではない。 (ヴォロスの住民でありますか……) 立ち止まり、樹の影に身を隠して警戒を解かぬまま物音が近づいてくるのを待つ。この森に危険な動物がいるとは聞かない。だとすれば現地民だと考えるのが妥当だろう。だが、あまり関わりたくないというのが彼の心境。気付かれずにやり過ごせれば、それに越したことはない。 ひら……ひらり。 ふわ……ふわり。 ヌマブチの視界に木々の間を縫うようにして近づいてくるものが入った。 黒いものがひらり。黒いものがふわり。 (やはり人影でありますか) 現地民だ、やり過ごそう――そう考えたヌマブチの瞳が、遠く木々の間に見えた人物の顔を捉えた。 「……!?」 見間違いだろうか。瞬いてもう一度目を凝らす。 錯覚だろうか。考え込みすぎたせいで頭が見せた幻影だろうか。 ――否。 ふわりふわりと踊るように近づいてくる人影は、先程まで彼が思い悩んでいた彼女の姿をしていた。 「……、……」 彼女とてロストナンバーだ。ヴォロスに来ることももちろんあるだろう。 だが、同じ日同じ時間に。 同じ場所にいるなんて。 そんな偶然が、あってもいいものだろうか。 「……、……」 何故だろう、動けない、目が離せない。 このままでは彼女は自分の存在に気がついてしまう、分かっているのに。 脚が地面に縫い付けられてしまったようだ。ヴォロスの大地が育んだ蔦でも絡んでいるのだろうか。 ――ほら、目が合ってしまった。 *-*-* ひらり、ふわり……楽園はそのままあてどもなく森の中を彷徨っていた。帰り道がわからなくなる心配などしていなかった。いざとなったら毒姫と視界を共有して森の上から道を探ればいい――だがそんな事すら考えてはいない。 これからどうしようか――そんな事も考えはしない。 今はただ、誰もいないこの空間で。 緑の檻の中で一人でワルツを踊らせて――。 タッタッタッ……。 三拍子のステップを踏んで。 くるんっ……。 軽やかにターンをして。 「――」 楽園には相手が見える。それは自分を溺愛してくれた父親ではなく――。 「――!」 自らにしか見えぬ相手の姿が、なぜか木々の向こうに見えた気がして、楽園はステップを止めた。 ドレスの裾と長い黒髪が、止まりきれずに揺れている。 「嘘よ」 きっとあれも、自分の創りだした幻影。触れようとしても永遠に触れられぬ幻影。だから、否定してみた。 「……嘘よ」 一緒にワルツを踊っていた『彼』はすでに消えてしまっていた。けれども楽園の視界にいる、遠くの彼は薄れもしなければ消えもしない。 遠くてもわかる紅玉の瞳が、その視線が間違いなく楽園を捉えていて。 見間違えるはずなどない。 楽園が彼を見間違えるはずなどない。 「――……」 なんとなく、これ以上動けば、何か言葉を発すれば、消えてしまう気がした。 だから金色の瞳で、その姿を焼き付けるかのように彼を見つめた。 ――視線が絡み合う。 *-*-* どれほどそうしていただろうか。 一瞬だったかもしれないし、数十分だったかもしれない。 楽園にとっての甘い時間を破ったのはヌマブチだった。 地面に縫い止められた脚を、捕らえる見えない蔦を振りきるようにして楽園に背を向ける。そして駈け出した。 「待ちなさい!」 背後で彼女の叫ぶ声は、最後に聞いた時と同じ美しい金糸雀の声で。 けれどもヌマブチは足を止めない。 彼が動いた。 また、背を向けていってしまう。 そんなの耐えられない。 楽園は背を向けて遠ざかる彼を追いかけるべく、木々の間を縫って駈け出した。ドレスの裾も下草も、走りづらいなんて言っていられない。 けれども露の降りた下草は、無常にも楽園の足を滑らせた。 「きゃっ……!?」 バランスを崩した楽園は勢いそのままに倒れ伏す。咄嗟に身体を捻ってしまい、したたかに打ち付けた肩が痛い。足も下草で切ったのか、ピリッと痛みが走る。フリルの一つ一つまで丁寧にアイロンを掛けられたドレスは露と草の汁と泥で汚れたが、それよりも彼女の関心は別にあった。 「待って……」 懇願するように小さく呟いて、唇を噛み締めて立ち上がる。 きっとまだ追いつける、追いついてやる。 楽園は再び走りだした。 小さな悲鳴が聞こえた気がした。 次いで倒れ伏すような音が聞こえた気がした。 一瞬、走る足を緩めた。だがヌマブチは再び走りだす。 何処へ? 何処へともなく。 このまま引き離してしまえば、きっと彼女は自分など追ってはこないだろう――そう考えて。 自分の事など追わぬほうが、彼女は幸せになれる――そう考えて。 そのまま走り続けると、次第に向かう先が明るみを帯びていることに気がついた。木々がなく、開けているがゆえに陽が差し込んでいるのだろう。 そのまま走り、木々を抜けた先には――半ばがれきと化した教会があった。 下草を踏みしめる音が聞こえる。だが視界には彼の姿がない。 「毒姫!」 楽園はセクタンに命じ、音のする方へと先行させる。 視界を共有すると、程なく走る彼の姿が見えた。楽園はその情報を元に彼を追う。 逃がさないわ。 想いが執着という表情を表す。 楽園は息を乱しながら、必死で走った。 *-*-* 木々の間を抜けた楽園の瞳に、陽の光が降り注ぐ。思わず眩しさに目を閉じて、手で日差しを遮りながら瞳を開ける。 目の前にあったのは、一部天井が崩落し、壁にもひびが入って一部落ちている廃教会だった。 その、目の前の壁にはめられた曇ったステンドグラスに。 人の頭らしき影がある。 肩で息をしていた楽園は、息を整えながら一歩一歩その壁に近づいて。 向こう側で壁に寄りかかっているだろう彼を思い、手をついた。 「ヌマブチさん……」 壁の上部と天井の一部が崩落しているおかげで、彼女の声は中へと届いたはずだ。 「裏切り者。卑劣漢。信じてたのに」 次いで楽園の口から紡がれたのは、ヌマブチを糾弾する言葉。だがその言葉とは裏腹に、彼女は壁へと身を寄せて。まるで壁の向こうにいる彼へと身をあずけるようにしている。 「某の事など、信じるべきではなかったのであります」 「そんな! 私にはあんなに優しかったじゃないの!」 返ってきたのは何の感情も含まぬ声。楽園の想いを否定する言葉。 心臓を鷲掴みにされたような気がして、楽園は悲鳴のように叫んだ。だがヌマブチの声色は変わらない。 「貴女の思っている程、自分は優しい人間ではないのであります」 「嘘よ! ねえ、戻ってきて……」 ヒステリックに叫んだかと思えば弱々しく懇願するように。楽園の心の茨が容赦なく心の裡を荒らす。 愛しているのに。こんなにも愛しているのに――何故。 想いが渦を巻き、感情が激しいステップを踏んで踊る。 (どうして私の想いに応えてくれないの――?) 「戻ってきてくれないのなら……」 愛情が全て裏返っていくのを感じる。 憎い憎い憎い憎い憎い――。 憎悪の炎が舐めるように楽園の心の茨を燃やし、一体化する。 愛憎の念が、彼女を突き動かす。 楽園が取り出したのは、ギアの鋏。手を動かせばシャキンと澄んだ鋭い音が、静寂の中に響き渡るはずなのだが……。 (何故?) 手が動かない。いつものようにすればいいだけなのに。 ぐっ……唇を噛みしめて、暴れる心を抱いて返答を待つ。 酷く、長い時間が経った気がした。 「某は貴女の為に死ぬ事は出来ない」 「!」 返ってきたのは氷のように冷たい言葉。 その言葉はつららのように鋭く、楽園を貫く。 彼女には幸せになってほしい――ヌマブチは心からそう思っている。 自分になど執着しないほうが幸せになれるはずだ――心からそう思っている。 自身と共ににあることが彼女の幸せだなんて、思いもしていない。彼女が自分に向けるその思いは、自分に父親を重ねたためのものだろう、そう思ってさえいる。 「こんな男一人、早くお忘れなさい」 だから、自分の事は早く忘れた方がいい――本気でそう思っていた。 (どうか、貴女は幸せに) 自分の事を忘れれば、彼女は幸せになれるはずだから。 自分が離れれば、彼女も自分に父を重ねることはなくなるだろうから。 憎まれて憎まれて、嫌われてしまった方がいい。 彼女の幸せのためならば、どんなに憎まれても嫌われても、罵られても構わなかった。 (これ以上は……) もはや言うこともない。十分に彼女を傷つけた。だからきっと、彼女ももう自分を追わぬだろう。 そっと、足を動かす。 「!」 曇ったステンドグラスに寄りかかっていた影が小さくなっていく。 (行ってしまう――) 「また逃げるの!?」 咄嗟に口から出たのは、心とは正反対の言葉で。 (行かないで――) 心はこんなにも、彼を引き止めたがっているのに。 楽園はすがるように壁へと頬を寄せた。 返事はない。彼が遠ざかっていく気配だけが、彼女の肌に触れる。 追おうと思えば追うこともできるはずだ。でも――。 また追いかけて同じ問答を繰り返すというのか? 彼を殺そうとするのか? 答えは出ない。迷いだけが強くなっていく。 感情のせめぎあいが、楽園を襲う。 頬を寄せた石壁の冷たさを、段々と感じなくなる。 そうこうしているうちに、彼の気配は完全に消え失せてしまった。 「……」 そうなってみると不思議と心が落ち着いてきたように感じた。悔しい思いも哀しい思いも確かにあるのだが、感情の波は先程よりおとなしくなったような気がする。 楽園はまるで彼がそこにいた痕跡でも求めるかのように足を動かした。そして朽ちて役目を果たさなくなった木の扉を横目に、そっと内部へと足を進める。目指すのは彼が寄りかかっていた、あのステンドグラスのはまった壁。 「……、……」 片手を伸ばすようにして、夢遊病患者のようにふらふらと歩みを進める。 壁に手が触れる寸前。 「……?」 視界の下の方に入ってきたのは白い花弁。壁に立てかけるようにして置かれているのは、ネリネによく似た花だった。 ヴォロス産ゆえネリネそのものではないかもしれない。咲く時期も違うのかもしれない。 六枚の花弁からなる幻想的な花序が、楽園を黙って見つめている。 まるで手向けの様に置かれたそれを、彼女は衝動のままに乱暴につかみとり、鋏を構えた。 (こんなもの――) ちぎって捨ててしまおう、そう思った。けれども。 「……」 出来なかった。何故だろう。 彼が置いていった花だからか、それとも――。 「馬鹿な人……」 彼がこの花の名前や花言葉を知っていたとは思えない。だとしたら偶然だろうか。 楽園は愛しさとも悲しさともつかぬ声で呟いて、白い花を抱いた。 傷めぬように、そっと。 あの人を抱きしめるがごとく、そっと――。 【了】
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