ナレンシフが揺れ、ヌマブチは目を開いた。 ついうたた寝をしてしまったらしい。眼の下の隈を隠すように軍帽のつばを引く。円盤は濃い霧の底に、孤島のように着陸していた。 「お疲れのようだねえ」 ざりん。錆びてひずんだ鈴の音。霧の町にローブの老婆が立っている。 「そのなり……遠くから来た軍人だね。神託が欲しいのかい」 ヌマブチは答えず、紅の眼を慎重に眇めた。乳色の霧はあまりに密で、ともすれば老婆の姿を塗り潰してしまいそうだ。 あるいはこちらが霧に呑まれているのか。だから視界が曇っているのか。 「お疲れのようだねえ。長いこと戦っているんだねえ」 ローブの暗がりに醜悪な笑みが浮かんだ。 「少し休んだらどうだい?」 亡霊めいた背中が石造りの小屋に入っていく。入り口から寝台が覗いている。 「さあ……おいでえな」 木乃伊のような手がゆらゆらとヌマブチを招く。 ざりん。鈴の音。 「ヌマブチさん!」 心地良い声が降ってきた。 ヌマブチは眼を見開き、飛び起きた。ごちん。額をしたたかに打ちつける。慌てて視線を彷徨わせると、ふくよかな婦人が額を押さえていた。ヌマブチの肝が激しく収縮した。 「ショウ、」 「安心した。お元気そうね」 和装の婦人は腫れた額をさすりながら微笑んだ。 ヌマブチの体の下には布団が敷かれていた。見覚えのある壁と天井。婦人はいそいそと台所に入り、小さな鍋を持って戻って来る。 「食べられるかしら」 鍋には白く濃密な粥が詰まっていた。 ヌマブチは無言で粥を貪った。熱が喉を焼く。それごと飲み下すように咀嚼する。不覚にも鼻の奥がツンとした。粥とはこんなにも美味い物だったのか。 「うなされていたようだけど」 おかわりをよそいながら婦人が問う。ヌマブチは返事を濁しながら記憶を手繰ったが、すぐに放棄した。悪い夢を見た。それでいい。 婦人は物憂げに溜息をついた。 「やっぱり何も言わないのね。あの方と同じ」 ヌマブチの手がぴたりと止まった。 「私たちはいつも黙って待っているだけ」 婦人の視線はヌマブチから逸れて遊離する。違う。これはヌマブチの知る婦人ではない。 「あなたはいいわ、自分の意志を貫いたんだもの。さぞご納得でしょうね。お幸せでしょうね」 戻ってきた眼差しが猫のような金色に変わる。ヌマブチの手から椀が落ち、粥がどろりとこぼれた。蠱惑的な金眼は、婦人の目と入れ替わりながらとめどなく涙を流していた。 「あらあら……沼淵さん」 和服の袖がゆっくりと椀を拾う。 「自分だけの問題だとでも思っているのかしら。お馬鹿さん。本当にお馬鹿さん」 袖がゴシックドレスで覆われていく。ドレスはたちまち黒猫へと変ずる。 「結果が自分だけに帰するなら……自分だけが破滅して済むなら良かったのにね?」 んなあああああごおおおおお! ばくり。生臭い闇がヌマブチをひと呑みにする。 したたかに腰を打ち付けた。それでも軍人の性か、すぐさま跳ね起きて銃剣を構える。まだ生きている。まだ動ける。 真っ暗闇だ。眼が馴れない。しかし何者かの気配を感じる。戦わねばならぬ。 何のために? 生きるためだ。 「軍曹」 血まみれの手が足首を掴んだ。ヌマブチは軍帽の下で軽く眉を持ち上げた。部下が血を吐きながら這いずっている。 「沼淵軍曹」 部下は血の泡を吐いた。津波のような蒼色が迫っている。部下はもう歩けない。ヌマブチは逡巡の末に部下の腕を掴み上げた。 「今際の刻ぐらい、好きなことを言え」 部下の面が決定的にこわばった。 ここに残せば部下は死ぬ。連れて逃げればこちらまで狙い撃たれる。蟻の理は、ただ数だ。 「軍曹の眼、血の色だ」 部下の口から紅色が溢れる。ヌマブチは答えない。軍帽のつばで全てを隠し、刺すように部下を見つめている。 「好きなことを言え、って?」 血まみれの手がヌマブチに縋りついた。 「じゃあ聞かせて下さいよ。あんたは何のために生きてるんだ」 「某には生が全てだ」 ヌマブチの答えは揺らがない。声は些か震えたようだが。 「――本当に?」 部下は弱々しく俯いた。そして再び顔を上げた。 「あなたは何故旅団に渡ったのですか」 どろりと、廃人のような目がヌマブチを見上げる。曇り、ひび割れた眼鏡にヌマブチの面が写り込んでいる。 「……生きるためであります」 ややあってからヌマブチは呻いた。 「図書館か旅団かは問題にならん。どちらにも未練はない」 「ならば何故旅団への妨害を?」 青ざめた指がヌマブチに絡みつく。 「生が目的ならただ旅団に従えばいい。その方が生き残る確率が高いじゃありませんか。何故ジャンクヘヴンで――」 「やめろ!」 悲鳴じみた怒号がびりびりと闇を震わせた。 「偽者め。牧師は貴様のようなことは言わん」 「偽者?」 相手の唇が三日月形に歪み上がった。 「貴方が知る牧師は壊れました」 ゴッ――。 死神のような魔法が押し寄せ、二人を虫けらのように薙ぎ払う。 吹き飛ばされたヌマブチを剣が貫いた。 くれないの血が溢れ、逆流する。食いしばった歯の間からもだ。ヌマブチは膝をつき、獣じみた唸りを上げて剣を引き抜いた。刺さったままのほうが消耗が少ないというのに。 ただただ厭うた。この身に何かが刺さっているのは不快だった。ぼとりと、剣を泥の中に捨てる。ヌマブチの血もまた泥のようだ。両者は重たく、粘つきながら混じり合っていく。 霞む視界は薄闇に浸されていた。あちこちに剣が屹立している。ヌマブチは傷口を押さえながら懸命に目を凝らした。そして瞠目した。 剣ではない。卒塔婆だ。ヌマブチに突き刺さったのも卒塔婆だった。 陰気な霧が這い寄ってくる。 不可視の気配が蠢いている。 ヌマブチはすぐさま銃剣を向けた。戦うのだ。生きるのだ。傷口は泥のような血を排出し続けている。敵影は窺えない。ただ陽炎のような素振りだけがある。 霧の向こうを睨めつけながら慎重に後退した。同時に背後に気配を感じ、弾かれたように振り返る。一面の霧。ヌマブチは立て続けに発砲した。やみくもに銃剣を振り回した。気配は四肢に絡みついて離れない。 霧を振り切るように走り出す。 足取りが覚束ない。痛みが脳髄を貫く。下肢がもつれ、転倒した。たちまち血と泥にまみれる。銃を杖代わりに立ち上がる。走る。卒塔婆の群れがゆらゆらと追いかけてくる。 死者だ。ここにいるのは死者ばかりだ。 ヌマブチには彼らの重みが分からない。蟻は数のみを重視する。多を救うために少の犠牲はやむなしと――非情ではあるがそれが最善と――考えてきた。 ならば何故死者しかいないのだ。 卒塔婆に毛筆の文字がのたくっている。記された名はジャンクヘヴンの要人。牧師。いいや、牧師は生きている。しかし生きているといえるのか。あれは死んでいないだけだ。 ヌマブチはどこで間違った。何を間違えた? 間違いとは何だ。 間違いでさえなければ良かったのか。 目の前に広がるのはただ事実だけ。事実は絶対に覆らぬ。 知らず、左腕を庇っていた。世界樹旅団の部品が埋まっている箇所。今のヌマブチが生きるために必要な物。左腕はまだ無傷だ。しかしヌマブチは人としてフェータルな何かを欠いている。 冷静な自覚がヌマブチを軋ませ、歪ませる。 とうとう膝が折れた。獣のように、溺れる蟻のように泥を這いずる。しかしヌマブチは諦めなかった。二本の足で、人間として立って歩くのだ。たとえ真似事にすぎなくとも。 目の前には卒塔婆が建っていた。『沼淵康之丞』。 「父さん」 掠れた声と血まみれの指で縋りつく。これだけか。襤褸雑巾のようになりながら生きて、残ったのはたったこれだけか。父と親交のあった婦人は泣いていた。ヌマブチが泣かせた少女と同じように涙を流していた。 ヌマブチは生きている。生きて、こんな光景が見たかったのか。 灼かれるような疼痛で我に返った。血と、むき出しの肉に蟻がたかっていた。蟻は数をもってヌマブチを制圧しようとしていた。強靭な顎が肉を噛み砕く。おぞましい節足が神経を這いずる。ヌマブチは怒号を上げて蟻を振り払った。しかし蟻の軍隊は無尽蔵だ。ヌマブチを喰らい尽くさんと大波のごとく押し寄せる。 蟻はやがて人の手へ変ずる。死者のように蒼白な手だ。誰の手だ? (情けない) 懐かしい声にはっと顔を上げる。卒塔婆の前に陽炎のような父が立っている。 「父さん」 ヌマブチは血を吐きながら慟哭した。父は相変わらずだ。見えるのはいつだって背中だけなのだ。 (誠司) 霧が苦笑に似て揺れた。 (お前は生きているだろう) 振り返った父が銃剣を振り上げる。 (為すべきことを為せ) 父の顔を見る前に体が両断された。 ヌマブチは思わず呻いた。背中から床板に落ちたのだから無理もない。 「“ヌマブチ”で」 「あ、俺も俺も」 「“ヌマブチ”で!」 数多の声がヌマブチを呼ばわる。徐々に視界が開けていく。 酒場。カウンター。酔いどれの客。見知った顔たちがヌマブチのツケで飲んでいる。無愛想なマスターは黙々と酒を作り、ホールの中央ではなぜか筋肉自慢が始まっていた。 「皆」 ヌマブチの手は彼らに届かない。ヌマブチは陽炎と化して揺らめくばかりだ。 顔。顔。顔。客が帰り、また新しい客が来る。グラスも絶えず入れ替わり続ける。立ちすくんでいるのはヌマブチばかりだ。 動けない。旅団に戻らねばならぬのに。未練はないと吐き捨てたというのに。 ふと見覚えのある影が窓を掠めた。ゴシックドレスの少女が酒場を覗いている。少女は口許を歪め、黒髪の気配だけを残してその場を去った。 「飲め飲め。どうせツケだ」 「ヌマブチさん、破産するぞ」 陽気な宴会のただ中でヌマブチの頬が蠢動した。イレギュラーなその動きは苦笑に似ていた。 「……ツケは支払わねばなりませんな」 ぐん、と体が引き上げられた。 ざりん。いびつな鈴が鳴る。 乳色の天幕が水面のようにたゆたっていた。 「おぉかぁえぇりぃ」 ざりん。老婆が鈴を揺らす。ヌマブチは黙って体を起こした。乱れた裾を素早く直し、軍帽を引いて視界を遮る。 「何を見たんだい」 ぬうと老婆が視野に割り込んだ。 「誰を見たんだい?」 歯のない口が傷口のように裂けていく。黄色く濁った眼球から膿のような涙が溢れる。 「今更どうにもなりやしないよ。なしたことは取り消せも取り戻せもしない。望まぬ荷を負わされるのはいつだって周りさア。それでもあんたは生きるのかい。生きて、戦って、ええ? 何ができるんだい?」 ヌマブチは無言で、一直線に銃剣を閃かせた。 醜悪な老婆が真っ二つになって崩れ落ちていく。 「今の己に為せることを為す」 二本の足で立ち上がったヌマブチは決然と宣言した。 「如何に悔いようとこの道を選んだのは某だ。己が悔いは己が行動で晴らす。死は償いにはなり得ん」 「おお、おお。やってみるがいいさ」 黒ずんだ血に沈みながら老婆が嗤う。 「某は――」 擦り切れた軍服の襟を立てた時、意識がぐんと宙に浮いた。 ヌマブチは静かに目を開いた。 ついうたた寝をしていたらしい。ぬるい汗がじっとりと首筋を濡らしていた。ナレンシフはちょうどヴォロスに着陸したところであった。妙な夢を見たのは竜刻を抱く大地に干渉されたせいなのだろうか。 「着いたぞ」 旅団員がヌマブチを呼ぶ。ヌマブチは軍帽のつばを引き、霧の中へと降り立った。圧倒的な質量に一瞬たじろぐ。しかし寡黙に歩き出した。 生きるのだ。より多くを生かすために。 (了)
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