隊を束ねるに限らず、人の上に立ち指揮を執る者であれば、大半の場合において持っているべき要素がある。 下官の失態は己の失態だ。その責務を負うのはむろんのこと。そしてそれが戦地を舞台としたものであるならば、上官たる者の責務はことさらに色を強め意味なすことの重大さも深くなる。 沼淵が配属されたのは第七十二小隊。それが意味するのはすなわち、最前線への配属だ。百余年に渡り続く戦乱は収束に近付くどころか、戦火はさらに強固なものとなってきている。硝煙と生々しく漂う屍が放つ臭い。それらがない交ぜとなった戦場においては、わずかな油断が死へと繋がることとなるのだ。 今朝はまだ長らえていたとしても、夕刻を迎え、まだ長らえ続けていられるという保証はどこにもない。 しかし、それでも、配属される者達の大半が生きて再び故郷の土を踏みたいと願っている事も、また確かな事実なのだ。 ――貴様が教官を誤射したという沼淵新兵か 配属された沼淵の正面に立つなり、隊の指揮官であった将校は嘲笑を含めた表情でそう告げた。 ――味方を、上官を撃った時の気持ちはどうであった? 問われ、しかし、沼淵は口を閉ざしたまま、ただうっそりと将校の顔面を見つめるだけだった。問い掛けに対する正しい解が解らなかった。何を応えたところで正答でないような気がした。 誓ってもいい。あれは真実、誤射であったのだから。 上官からの問には言語をもち応えよ。将校は口をつぐんだままの新兵の、しかし頑なな眼光の鋭利さが不快であったのだろう。拳を作り、沼淵の顔を殴りつけたのだった。 この将校は下官達からの信頼を集める事には長けておらず、まして、指揮する手腕や判断力にすら長けてはいなかった。 むろん、初めの内こそ、当初抱いた印象が影響を及ぼしているのであろうと判じ、偏った判断を持つ事のないよう心掛けもした。しかしそれも数日も迎えれば誤りのない判断なのだと検める事も出来る。 最前線での戦いを覚え、ある程度の余裕も出てくれば、小隊の全容も見えてくる。 自隊での指揮を実質執っているのは将校ではなく、その下に就く軍曹職の者だった。隊長――将校は名ばかりの飾り、単なる木偶である。威張り散らし下官をいたぶる事より他に能の無い、すなわち戦地においては何の役にも立たぬ者であったのだ。 それを認識してからの沼淵の思考は一つきりだった。 「将校が居ない方が隊は上手く回るのではなかろうか」 ある夜、沼淵は同期にそう零してみた。同意を得られるとは思っていなかった。ただ、己の中に生じた疑問を吐き出したかっただけなのだ。 同期は沼淵の言葉を聞くとあからさまに表情を強ばらせ、周囲を検めた後に吐き捨てた。 ――沼淵、お前は何という事を言うのだ。指揮官の不在はすなわち我らの死ぞ。我らの死、それはすなわち我らが小隊の敗北を意味するのだ。それはすなわち、我らが軍の敗北にすら繋がりかねんのだ。 それもまた正答であると沼淵は思った。 我々は自軍のみでなく、背後にある本隊や家族、国を守らねばならぬのだ。我々の死は彼らの死にすら直結しかねない。 肯いた沼淵を叱責し、同期は足早に沼淵の傍を去って行った。 同期の背を送りながら、沼淵は暗い紅色を閃かせる。 そう。我らは生きねばならぬのだ。戦争に勝つために。背後にあるもの総ての安寧を守るために。 生きねばならないのだ。 明くる日、雨の様に飛び交う銃弾から身を隠しながら、沼淵は視界の端に将校の姿をみとめた。 廃墟に身を隠し、引けた腰のまま、将校は敵軍の様子ばかりを窺っている。 硝煙と屍が放つ臭いの中、沼淵はひっそりと将校に近付いた。 将校の意識は散漫としているようだった。乱戦の中、背後に構えるのは味方ばかりだと油断しているのだろうか。 銃剣を構え直し、沼淵は目を眇める。 油断するのが悪いのだ。ここは戦場だ。一つの慢心が十も百をも殺してしまう。 多くの命を守る最前線、そこにおいての最高責任者たる位置にいる者が、このような無様を晒す事はあってはならぬ。いつ如何なる時も広く意識を広げ、的確かつ迅速たる指揮を揮わねばならぬはずなのだ。 わずかに唇を噛みながら、沼淵は銃剣を握りしめ、それを将校の背に向けて突き出した。 その晩、小隊は静謐の中、”栄誉の死”を遂げた将校を初めとする同志達の屍体を土中に埋めた。 沼淵の言を責めた同期兵もまた、その日の戦火の中で没していた。 屍体を埋めるために土を掘れば、いつの者のものとも知れぬ骸が引き上げられる。それらも共に、屍体は土中深くに埋められるのだ。 同志の死を悼み涙する者は数少ない。 明日には己も土中に埋められるかもしれぬのだから。 指揮官であった将校の死により、新たな指揮官が配属されるまでの数日間、統括するのは軍曹が負う任務となった。 人望も厚く、幅広い視野を持ち、的確な判断を下し、迅速な命令を下す事の出来る軍曹が指揮を担う事で、命を落とす兵卒の数は格段に減った。 誰もが小隊の確たる強さを確信していた。むろん沼淵もまた、己の内にあった読みが正答であったのを確信した。 やはり軍曹が指揮を執るべきなのだ。そうする事で、第七十二小隊は確然たる働きをするだろう。 皆が生き存えていくために。 数日の後に新たに配属された将校は年若く、経験もろくに持たぬ頭ばかりの男だった。 机上でのみの知識を、さもそれが唯一最大の正答なのだと言わんばかりの彼の指揮は、小隊の命を再び多く削る事となった。 しかしこの年若い将校もまた、程なくして命を散らす事となる。 そもそも、人員の変動の多い隊であるがゆえに、誰もそれを不審に思う事はなく。上官の変動もまた以前に比べれば頻度の高いものとなっていた。 上官や同志達の屍体を土中に埋め処理する軍曹や隊員達は、何を言うでもなく、ただ粛々と土を掘る。 無能であった上官達が土中に埋められていくのを、沼淵は軍帽の下、赤燈のような眼光で見送った。 多くを生かすための少たる犠牲はやむ無し。その判断と行動が真っ当なものであるとは思っていなかった。しかし己の内にある正答であると信じた。 むろん、己の勝手な判断をもち、人を殺している。その結果は如何なる名分をもってしても変わらない。 しかし、そうして味方の背や胸に銃剣を突き立てる行為への罪悪感は、数を重ねるごとに次第に薄らいでいった。 軍帽の下の赤燈ばかりが日毎に暗い翳りを帯びていた。 やがて、沼淵は課せられた徴兵期間の終わりを迎える事となった。大概の者が期間内に命を散らす最前線にありながら、生きたままその日を迎えるという事は、素晴らしい快挙である。 国元への帰還を得る機会を手にしながら、しかし、沼淵は己の意思で戦地に留まる事を選択した。 上官や同志達は皆一様に首を傾げた。何故命を捨て置くような真似をするのか、と。 しかし沼淵は彼らよりの問に応えようとはしなかった。 他者を殺す事を厭わなくなった時点で、人が安寧の元に暮らす社会の中に、人の世に、戻れるとは思わなくなっていた。 自身は既に怪物なのだと。 そう考えつくのが妥当なのだと、そう思うがゆえに。 歳月を経て、沼淵は軍曹職を拝命するに至った。 変わらず硝煙と屍体の臭いに満ちた戦地の上、思考もまた変わらず”多を生かし少を殺す”のまま。する事も大きくは変わらず。 しかし、背に負う重責と、それに伴う覚悟の深さは理解していた。 多を生かすための責任。そして、今度は自分が少になったという、その意識。 新たな沼淵は第二、第三と生まれるだろう。 無能であると判ぜられれば、今度は自分が新たな自分に銃剣を突き立てられ、土中深くに沈むのだ。 そこから再びの歳月を経て、やがて第七十二小隊は新たな指揮官を迎える事となった。 沼淵軍曹は起立の姿勢で若い将校の顔を見る。 清原、と名乗るその将校は、沼淵軍曹の暗い視線に視線を重ね、小さく笑みを浮かべて、深々と意味ありげに首肯いた。
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