砂漠の風が、髪を撫でる。 その風はかつて初めてこの地を訪れた時と、何ら変わらないように思える、涼やかで、熱い風。 けれども今この風は例えようもない湿り気を帯びているように思える。 仮初の秩序が崩壊し、新たな秩序が構築される前に必要な要素が取り除かれたそこは、今、何者にも染まらぬ空白の地域となっていた。 時が巻き戻ることはない。もし、があれば――その思いは誰しもが尽きせぬものである。 だが、着実に前に進んでいるからこそ生まれるものがあるのも、また確かな事実。 ――祟り神みたい。 目の前に広がる荒涼たる砂漠を見て、撫子は不意にそう思う。 それはアルスラの支配域にあった、ちょっとした村である。 否、「あった」もの。 預言書の宣告によれば、神像を飾る宝石が竜刻であり、近々本格的な暴走が起きそうだというもの。 だが、そもそも廃村になった理由は――ロストナンバーであるように思えた。 † 「撫子さんと、カグイさんですね。お二人でしたら問題ないかと思います」 犬の司書がそう前置きし伝えてきた内容はこうだった。 アルスラの衛星オアシスであった村の一つが、この度廃村となった。 その村はアルスラの神官が定期的に派遣され、神殿の神像を世話し、祭祀を司る役目についていたのだという。 が、それが途絶えた。 途端村は災厄に見舞われるようになったという。 住まう者は不穏な幻影に悩まされ、夜な夜な幻影の兵が現れては家々を"巡回"する。 滾々と湧き出ていた水は赤黒く染まり、何者も飲めぬものとなったのだと。 「どうも神像が竜刻を加工した品で、一種の防衛装置の任を与えられていたそうでして」 それが、アルスラの崩壊により暴走を始め、ついには竜刻そのものの暴走を引き起こすまでになったのだと。 † 久々にアルヴァクの地に降り立った撫子と、初めて訪れるカグイ。 二人の目前に広がるのは、都市国家の目抜き通り、その市場だった。 探し求める人物はそこにいた。 「3リラン? 高すぎ! ぼってんじゃないよアンタ」 呆れたような声を上げて果実の樽を叩くのは、かつて見知ったる砂漠の女傑、その人で。 「きゃー、イリアさんお久しぶりですぅ☆ お元気でしたかぁ☆」 「なっ、なんだい!? っていたいいたいいたいいたいやめろこらやめなって!?」 楽しそうな声を上げて抱きつく撫子に、果たしてその声は聞こえたのだろうか。 アゴラ隊の番頭イリアが必死になって逃れようとするもむなしく、その背骨がいい音をたてたような、乾いた音が、市場へと響いた。 † 「すみません、すみません、いやほんとすみません」 シニヨンにまとめた髪を相手の腰よりも深く下げて謝るカグイ。そしてその前に立って腰を抑えながら苦笑するイリア。 そんな二人の様子など知らぬとばかりに、撫子は少し離れたところで隊の面々と再会のハグを――2人程入れ替わっている面子もいたため、その面々には初めましての握手を――交わしていた。 勿論、死体の山が築かれた事は当然。 そしてカグイがその人を助け、手当し謝るという循環が一巡するまでその行為は続いていた。 † アゴラ隊と合流してから3日が立つ。 「是非乗せてくださいぃ☆」「……好きにしな」そんな会話が交わされ、何故か同行を快諾してくれた彼女らとの旅を、撫子とカグイは手伝いをしながら、有意義に過ごした。 その過程でカグイの主な仕事がマッサージであるのは何故だろうと撫子が感じたのは事実だが、誰もその理由を彼女に教えはしなかったので、平和な旅のままでもあった。 そして、様々な話を聞く旅だった。 「オルドル王が亡くなったって聞きましたぁ……治安とか危なくないですぅ?」 治安ねぇ……イリアは苦笑するように言いながら、夕食後の焚き火に薪を継ぎ足した。 「治安なんてそもそもないような地域だからねぇ。だから私らのような奴が仕事にありつけるのさ――」 少し離れたところでは、カグイがグリンダ、そしてサヴォの二人の少年少女とともに、ウルフ老に教わりつつ細工物を学んでいる。どうやら輸送だけではなく制作販売まで請け負う総合運送屋を目指しているらしい。今一どの方向へ行こうとしているのかわからない。訪ねてみた際には、「ただのあたしの趣味さ」と返されたので、要はそういうことなのだろう。 「ま、それでも一定の秩序はあった。各国家の支配域では治安維持部隊が各地に駐屯してたし、砦もあった。それがまぁ、今や国家として体裁を保てているのはスレイマン王国とアルケミシュくらいのもの。それだって中々、ねぇ」 スレイマンはあんまりダメージを負ってないって聞いたですぅ。それにシュラクをこてんぱんに叩きのめしたとも。 「それなのにぃ、他地域に出てきたりとかしないんですかぁ?」 不思議そうに問いかける撫子にイリアが苦笑した。 「ま、国を運営するってこたあ色々あるんだろうさ。あたしら下々のもんにはわからんあれやこれやがね」 「そういうこった」 不意に男の声が割り込んだ。 アゴラが「よっこらしょ」と年寄りくさい声をあげて腰を下ろす。 「ちょっとあんた」 「ま、いいじゃねぇか」 片眉をしかめて見せるイリアに対し軽く笑いかけたアゴラが言う。 「嬢ちゃん、以前のこの国の姿を見たあんたなら分るだろうが、この辺りから人が少なくなってる」 「はいですぅ」 事実だった。 旅に同行した2日の間で訪れたオアシスは、潰れているか、あるいはそれに近い状況。わずかに残った面々も、よそに移っても生きる糧を得られない者達が取り残されただけの格好といえた。 「どこに行ったかっていやぁスレイマン王国を目指した奴もいる。そこらの奴らだけじゃねぇ。役人の類もだ。これがどういうことかわかるか?」 ふるふる、と首を横に降る撫子。 「統治機構が壊れちまったのさ。アルスラは上の連中がそろって戦乱のどさくさで死んじまった。同盟してた都市国家群にそれをまとめる器量のあるところはねぇ。何よりお互いに喰い合いを始めた。これはシュラクも同様だな。カリスマだった王の崩御で国が崩壊、今や小領主が隣の領主の土地を争って血みどろの戦国って奴だ」 軽く肩をすくめて話すアゴラだが、全然そんな態度で話していい内容でなく思えるのは気のせいだろうか。 「スレイマン王国もなんだかんだで新興国だからなぁ。そんな土地を収めて主君でございって乗り出していけば、結局持ち出しだけが大きくて利益は薄い。そんなら旧来の領土付近までとりあえず引き下がって、ある程度一段落がつくまで待とうって算段なわけだ」 仮にも覇権を狙ってるって国がまぁ情けねぇやなぁ。「もう一つある」と言い足したのは、イリアだった。 「あちらこちらで、アルスラの創りだした竜刻を利用した品物が暴走しはじめる事例が起きているのさ。これはアルスラが事実上消滅したことによる直接的な被害ってとこかねぇ。いずれにせよ、今この地域は王様たちが治めるには凄く大変なお土地柄ってわけさぁ。よくわからん形の連中や、どっから来たのかしらんけど、よそから入ってきた言葉をしゃべる猫の奴らがわさわさいる地域もあるしね」 ま、おかげであたしらの危険も増したけど、稼ぎは増えたねぇ。 そう言ってけらけらと笑うイリアに、砂漠を往く民の強さを感じつつ、撫子は「そうですかぁ」と返すしかなかった。 † 盛大なお別れ――ただし撫子のハグからは全員が逃げた――を済ませ、目的の村に立つ、撫子とカグイ。 時刻はそろそろ夕暮れを迎え、砂漠の風は、ややもすると冷たいそれへと移り変わろうとしていた。 夕日に照らされた撫子の横顔は、ほんの少し、影を持つ。 「何だか、物憂げですね」 カグイの言葉に、「えぇ~、そんなことないですよぉ☆」と返す撫子。 だが、しばらくしてぽつりと零した。 「祟り神みたいだなぁ、って思っちゃったですぅ」 「たたりがみ?」 ですぅ。返す撫子は、苦笑しながらもやもやと内心で渦巻く言葉を形にする。 時代の変わり目って確かにあると思うけど、私達はそれをより過激に拡大している気がするのだと。 もしこの地域を見つけなければ。私達が降り立たなければ。あるいはきっかけとなる時期に居なかったら。 そしたら、オルドルはまだシュラク公国の版図を拡大していたのだろう。 そうした歴史を変えてしまうこと、その結果起きること――そうしたことへの責任を、自分達は決断の際に考えてきたのだろうか。 それはこの地域だけではない。数多の世界群に及ぶこと。 柄にもなく沈みかける撫子の肩に、軽くカグイの手が添えられる。 「一人の肩に背負うものではないと思いますよ――それに、しばし思いまどう時間はなさそうです」 いつの間にか、日は落ちていた。 カグイが点火し、かざした松明に照らしだされたのは幻影の兵たち。 そして、動く死体。 それらはおそらく旅の者や、盗掘者、更にはそれを取り締まりに来た兵等で構成されているように思える。 「竜刻ってこんなことまでするのね……雑魚は私にまかせて貴方は本体を!」 目指す神像の場所は既に司書により示されていた。 そこに内包されている竜刻の暴走を止めてしまえばいい、目指すのは一先ずそれだけだ。 「いってきますぅ! カグイさんも気をつけてくださいぃ☆」 ギアを発動させつつ走りだす撫子。 その行く手を遮ろうとした鈍い死体が、幻影ごと水で弾き飛ばされた。 開けた道を駆け抜け、村の最奥にある神殿を目指し走る撫子。 そんな彼女を追おうとする屍兵達の前へ、カグイは言葉通り立ちふさがってみせた。 「ごめんなさい、ここから先は通せません」 うっそりと微笑みを浮かべたカグイが一つ、息を吸う。 吐出される、火塊。 白色のそれは、最上級の焔。赤い炎が青くなり、やがて色を失う。自然にはほぼありえぬ炎の先の炎。 それらは第一陣として飛びかかってきた者達を、跡形もなく消し去った。 「さぁ――踊りなさい」 † 走り続ける撫子。 時折現れる屍兵を水とバットで撃退しながら進む彼女は、ほんの少し、胸が締め付けられる。 廃村となった村。 その原因となった竜刻。 だが更にその原因となったのは――ならば、この村の滅びの原因は、自分たちにあるのだろう。 「貴方は寂しいから人をふやしたのかなぁ?」 歩みをとめ、息を荒くし、ようやくに彼女は村の最奥にある神殿、その深部に到達していた。 目前にあるのは、小さな少女を象った像。どうしてこれが神像として崇められているのかはわからない。 だがその像の表情に、寂しげなほほえみが浮かんでいるのを見て、撫子はそう問いかけてしまった。 無論、竜刻が、神像が、応えることはない。 「どうしたいのかな」 あなたはとも、わたしはともとれるつぶやき。 だが、やるべきことは、明白だった。 暴走する予定の竜刻が目の前にある。 それは今の段階でもなお害悪となる事象をまき散らしている。 だがこれを壊すことで――また別の災厄が巻き起こるのでは。 ちらと脳裏をかすめたその考えを、撫子は一瞬後に、振り払った。 自分達は――少なくとも自分は、その時点で最善と思えることをしてきた。 決断してきた。 その結果もし何かが起きたならば――その時は、責任をとってまたその問題に取り組むのだ。 振りかぶったバットが、等身大にやや足りないほどの神像に打ち付けられる。 乾いた音を立て、まろび出た小さな欠片。それが、神像の中核たる竜刻だと知った撫子は、取り出したタグを貼り付けた。 「ごめんね、一緒に行こうね?」 慈母のような笑みを浮かべ、その表面を撫ぜた少女は、ゆっくりと踵を返す。 その歩みを止めるものは、もういないだろう。 神殿の外に出た撫子を出迎えたのは、静寂と、満点の星。そして2つの月。 歩む先を見やれば、殆ど傷を負った様子のないカグイが、彼女の元へ向かってくる所だった。 向こうも気づいたのだろう、手を降ってくる。 それに応じて手を振り返しながら、彼女は空を見上げた。 待ち合わせの場所までは、徒歩で7日程かかるだろう。 それだけの日数、この星空を見上げて過ごす。 けれども、と撫子は考えた。 それ以上の日数を。その生の全てを。 この地で過ごす、人達がいる。 その人達のこれからに、何かできる存在であれるだろうか。 考えても詮無いことと思いながら、撫子は心中で祈りを捧げるべく、目を閉じた。 これからも、アゴラ隊の皆が元気でありますように。 そんな世界に、なりますように。
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