目の前にこの手を逃れられると思っている愚かな小鳥達が、必死に飛翔を続けているのを、パパ・ビランチャは不可思議な想いで眺めた。 どこまでいっても、自らの無力を認識しない。 知性や理性がないわけではないのに、なぜ無駄な足掻きを続けるのか。 ちらり、と背後を見やると、世界樹に食い入っていく輝く槍が光っていた。 あれはどこから現れたのだろう。 圧倒的な勝利を約束していた戦況が、どこでどうひっくり返ったのか、ゆっくり検証するのは楽しい刺激的な仕事だろう。 数々の手管で揺さぶり混乱を煽り疑心を招き、世界図書館の、言わば心身ともを侵し、互いへの不審と怒りで満たしていったはずなのに、なぜ彼らは再び寄り集まり、新たな力を得ているのだろう。「それはまだ、量れていないものだったな」 それが世界樹旅団の敗因だろうか。「ふむ」 ならば、今先を飛ぶ、あの小さな二つの存在が、今のこの状況を量るこの上ない試金石となるかも知れない。 パパ・ビランチャの頭の中には、追いすがってきたかつての恋人も、そこに所属し、その力の源に仕えて来た日々も、既にない。存在を武器化する自分の能力を元に、『存続する価値』を量り続けてきた生き方を、ただ進むのみだ。世界樹が滅びたらしい状況は、遠からずこの身を消滅させるのだろうが、ならば一層、全力をもって量らねばならない、この世界が『存続する価値』を。 距離を確認して瞬時に移動する、アクアーリオを抱えているペッシの真上へ。気配に気づいて見上げたアクアーリオの瞳が、いつもより真っ青な色で見開かれる。「こんなところで何をしているのかね。戦場放棄は悪くない決断だが、私の手から逃れられると思うのは間違いだ」 声をかけた瞬間、自らを霧化してペッシに叩きつけた。粒子一つ一つを超高速で振動させ、そのエネルギーを重さに変える。 ペッシの羽根が醜くたわみ、数本の支柱が砕かれ、体がぐしゅり、と不気味な音を響かせたのがわかった。次の瞬間、紅の飛沫を撒き散らしてアクアーリオを抱えたペッシが落ちる。「これだけかね」 世界を覆す力など幻なのか。「では壊そう」 樹海に突っ込んでいくペッシを追おうとした矢先、するすると四肢に絡み付いてくる白いリボンに拘束された。「愛しいあなた」「…ヴィルジネ」「心変わりは哀しいわ」「おや、君まで来てどうしたのだね」「世界樹は終わりよ、パパ・ビランチャ」 甘い声がリボンから零れた。「戦争は終わり。私達も偽物の親子からまた元の恋人同士に戻りましょう、『天秤』」 次々と流れ寄ってくるリボンはあちこち焦げ、千切れかけている。もう原型には戻れないのだ、傷つきすぎて。「それは残念だ。あれは本当に世界を量るに適していたのだが」 ぎりぎりとリボンにくるまれながら、パパ・ビランチャは低く嗤った。「しかし、時は過ぎたのだよ、君はもう恋人ではない、ただのリボンだ」「『天秤』…っ!」 次の一瞬で、パパ・ビランチャは細かな黒い霧となってリボンを振り解き、逆に相手を包み込むように覆った。そのまま発火し、一気にリボンを焼き尽くしていく。 彼女にかけた時間は一瞬だった。 だが、その一瞬が永遠に繋がったことを、パパ・ビランチャは知る、遠く、破壊された世界図書館の建物から、次々とこちらに向かって来る気配によって。「……世界図書館」 パパ・ビランチャは樹海に突っ込んだペッシ達と、近づく気配を見比べた。 天秤が大きく揺らぎ始める。「よろしい……量ってみよう」 パパ・ビランチャは薄く、極めて薄く笑った。「どちらが存続に価するのか」 ペッシ達の落ちた樹海の方向へ速度を上げる。自分が彼らを視認し、転移し、屠るのが早いか、それとも世界図書館がそれまでに自分を遮り、撃破するのが早いか。 「幾つかの目撃情報から、アクアーリオを抱えたペッシが、ナラゴニアを離脱したことがわかりました」 鳴海は難しい顔で『導きの書』を見下ろす。「彼らは樹海に逃げ込んだのですが、どうやらペッシがパパ・ビランチャの追撃を受けて負傷し、身動きとれなくなったようです」 そこに、今パパ・ビランチャが近づきつつあります。「パパ・ビランチャの目的は不要になって目障りになった『道具』の始末です」 鳴海は静かに顔を上げた。「言動から見て、アクアーリオとペッシは、世界図書館へ逃げ込もうとしているようです。パパ・ビランチャの追撃を退け、彼らを保護して頂けないでしょうか」 ようやく終わった戦争、傷が癒えていない者もまだ多い。なのに、再び戦いを依頼することに一瞬ためらうように口を噤み。 それでも、思い切ったように付け加えた。「パパ・ビランチャには旅団の残党が従っている恐れがあります。十分に注意をお願いいたします」=======================このシナリオは『樹海の虜』とセットになっております。片方にご参加頂いた場合、もう片方へのご参加はご遠慮お願いいたします。=======================
「奴には双子座の借りがある。熨斗を付けて返すには丁度良い頃合いだ」 百田十三は瞳険しく、防備を固める。ロストレイル襲撃からの因縁、並々ならぬ相手であるのはわかっている。護法童子の護符を取り出し、一枚ずつ同行者に渡した。 「これは護法だ、一度だけどんな攻撃も防いでくれる…良ければ持って行け」 「ガキを自分の私物と勘違いしてるような手合いは反吐がでんだよ、昔っから」 護符をポケットに捩じ込んだファルファレロ・ロッソは吐き捨てて歩き出す。恋人だったらしいママ・ヴィルジネの扱い、パパと呼ばせていたのなら息子同然だっただろうアクアーリオやペッシへの応対、どれを思ってもひたすらむかつく。 「逃げることは止めない。拙者は殺しをしに来たのではないのであるからな。 ただ、戦いは終わった。それでもビランチャが穏やかならぬ事を企てるというのならば…容赦はせぬ」 むん、と胸を張ってみせるのはガルバリュート・ブロンデリング・フォン・ウォーロード、鞭の傷跡が無数にある小麦色の筋肉は隆々と盛り上がっている。艶やかに光るその体を誇示しつつ、首から後頭部を覆うように金と銀に彩られた竜が彫られ、顔を覆う部分には息を吹き掛けるような顔が浮き彫りされた兜を撫でる。 「追う相手が空を飛ぶならば、これもまた必要だろう」 長い銀髪を後ろでまとめたフェリックス・ノイアルベールが、一時的に魔法で仲間に飛行能力を付加する。壱番世界の西洋貴族風の服装にはいささか異色な和風のチェーン・ブローチに軽く触れながら呟いた。 広大な樹海、その中に呑み込まれ身動きできない少年二人は、見えない檻に虜にされたようなものだ。ただ今回、パパ・ビランチャが彼らを追っていることが逆に捜索への手がかりとなり、追撃への導きとなる。 「火燕招来急急如律令、高高度からビランチャの居場所、進行方向を探れ!」 炎の翼を翻して燕が穏やかに晴れ渡った空に飛び、フェリックスがその背中に白い翼を羽ばたかせて舞い上がる。ガルバリュートもバーニアで上がって戦闘に備え、ファルファレロは樹海へと分け入っていく。パパ・ビランチャを見つけたはいいが、別働隊が辿り着く前に攻撃をしかけられたは防ぎ手がいなかったはでは話にならない。 「いた!」 始めにその姿を捉えたのは十三だった。火燕が知らせた方向を高速で飛ぶ禍々しい気配、しかもその先に別働隊が飛翔しているのが見える。速度を上げてはいるが、間もなく追いつかれそうだ。ビランチャに気づいたのだろう、別働隊が迎撃態勢に入る。二人が空中で迎え撃ち、残る二人が地上へ向かうようだ。 「いかん! 鳳王招来急急如律令!」 十三は素早く詠唱した。護符を巻き付けた串から閃くように現れる巨大な鳥の姿、荒々しい叫びを上げる猛禽は光を舞い散らせて色を変えていく。 「先にアクアーリオ達の所まで飛び、風陣で空から2人を守れ。ビランチャは風を使い八つ裂きにしろ!」 光の鳳王が翼を閉じて速度を上げる。 別働隊も向かっているのなら、その先にアクアーリオ達も居るのだろう。下手をすれば、救助に来た少年達を戦闘に巻き込みかねない。 「…軽身功。幻虎招来急急如律令! 俺を乗せてアクアーリオ達の所まで走れ、全速だ!」 現れた蜃気楼のように揺らめく虎に跨がり、十三自身も鳳王を追う。 その目の前でいきなり霧化したパパ・ビランチャが別働隊に襲いかかるのが見えた。次々放たれる光を弾くような防御壁、包み込もうとする霧を必死に跳ね飛ばそうとするが苦しげ、そこへ別の力が加わって霧を弾き飛ばす。 すぐさま再び範囲を広げようとする霧に、鳳王が間に合った。巨大な翼がたて続けに空中を叩き、別働隊を追おうとした霧をじりじりと押し戻す。 急いで霧から離れ、樹海に降りていく二人、となるとあそこにアクアーリオ達が居るに違いない。 幻虎の上に乗ったまま十三は次の術を放つ。 「飛鼠招来急急如律令! ビランチャの周囲を煩く飛び回れ、一瞬で良い、時を稼げ!」 現れた鼠は空中に広がった。霧と化したビランチャの周囲に散開して包み込むように動く。あっという間に数匹が押しつぶされたように姿を消す。だがそれ以上樹海へは近づけない。 「早速うざい姿になってやがるっ!」 セクタンを飛ばして位置を探り、木を隠れ蓑にして樹間を移動していたファルファレロが、地上から次々と炎・雷・氷の魔弾を放っている。十三の術に遮られた霧が不愉快そうな気配で後退する。炎、雷に関してはそれほど効果がないようだが、コキュートスの弾丸は周囲の温度を氷点下にする。細かな霧とはいえ凍りついて雹となり、動きが鈍った部分を次々と撃ち砕く。 「なるほど、これがビランチャか」 フェリックスがすぐにビランチャを中心とする一体に魔力の結界を張る。 ガルバリュートは殺しに来たわけではないと言っていたが、霧化し、際限なく広がっていくこの相手を止めるには、説得も寸止めも効かないだろう。結界は敵味方共々の封じ込め、威力よりは範囲の広さを優先したので破られる可能性は高いが、破ろうとする者を一時的に麻痺状態に陥らせることはできる。下手に逃げられて視界制限のある樹海戦になるよりは、このまま空中戦で決着をつけたいところだ。 樹海への逃亡を危ぶんだ者がもう一人居た。 「おらよっ!」 ファルファレロは樹海からフェリックスの魔法で飛翔し、やや後退した霧の真下の樹海をインフェルノの弾丸で焼き払う。撃ち込まれる弾丸に、樹海が燃え上がり、焼け焦げた空間が広がってもなお撃ち込んで、作り上げたのは灼熱の溶岩流が蠢く炎の大地、さすがのパパ・ビランチャもここへ突っ込みたくはないだろう。業火の熱で産まれた上昇気流で一気にパパ・ビランチャのところまで辿りつく。 「世界を量る、だあ?」 十三の術に押さえられ、ファルファレロの弾丸に削られ、塊となりつつある霧に向かって、ファルファレロは嘲笑した。 「てめえの女を使い捨てたクズがほざくな」 「知りたくはないのかね」 霧が緩やかに集まっていく。戦場とは思えない穏やかな声が空気に散る。 「自分の世界が守るに価するのか。『存続する価値』があるのか」 青の中の青の目が、唐突に霧の中に現れた。周囲の霧が薄くなり、三人の囲む中に黒づくめの長身の男として顕現する。 「量りもせずに、なぜ価値を定めるのかね」 青い瞳は空のようだ。曇りなく、鮮やかに、明らかに、澄み渡って見開かれている、一切の感情を含むことなく、純真なほどの問いだけを満たして。 「世界の在り方など、矮小な人一人が計算で推し量ることの出来るようなものではない」 ファルファレロの背中を守るようにフェリックスが浮かんだ。 「それが出来る世の中など、面白くもなんともない」 「私の世界は世界樹に食われた。それでよいと思っている。なくなるものは、存続する価値がなかったものなのだ。ならば、まず壊してみればよい。壊れなければ……『存続する価値』があったのだ」 フェリックスのことばに、自動人形が振り向くようにビランチャが首を回した。 「君は、自分の能力を量り損ねたのではないのかね」 くるり。十三を見る。 「故郷と愛しい者、どちらを残すべきか、本当にちゃんと量ったのかね」 くるり。ファルファレロを見る。 「母親の残り時間を正しく量ってやったのではないのかね」 がちっ、とファルファレロの奥歯が鈍い音をたて、微かに俯いた十三の頬の線が削がれたように鋭さを増し、フェリックスの目が細められる。 「形が違うだけで、君達もまた常に量り続けているのではないかね、価値があるのかないのか、『これ』は残すに価するのか否か、と」 それぞれの心の闇を黒い霧が楽しげに喰む。 「人を『道具』として使い捨てにしている割には、それに随分と執心しているものだな」 フェリックスが冷たく言い返した。 「思い違いしてんのはお前の方だ」 ファルファレロが食いしばった口を開き、吐き捨てた。無意識に掴んでいた、背広のポケットの指輪から手を放す。そこにはこう彫り込まれている。「step to "us"」……私達、へ。 「価値は量るもんじゃねえ、作るもんだ。俺はずっとそうしてきたしこれからもそうしてく」 「この前は名乗り損ねたな、ビランチャ」 十三がゆっくりと顔を上げた。息を吸い、一瞬目を閉じ、見開いた瞳は、ビランチャに負けず劣らずの青、薄く光を帯びているのは流せなかった涙か、それとも、自分が何者であるのかをついに決めた男の意志か。 「俺は魍魎夜界が符術師、百田十三!…人を守るが符術師の役目っ!」 朗々たる名乗りは天に届く。 「貴様が神だろうが悪魔だろうが落とし仔だろうが…人に仇なす者である以上、ここで討つ!」 響いているに違いない、きっと届いているに違いない、遠く離れた世界にある者にも、確かに今、ここに宣言した生き様が。 言い放つや否や、力溢れる腕が鉄串を構える、巻かれた呪符には充分な力が籠っている。 「炎王招来急急如律令、ビランチャを叩き潰し焼き尽くせ! 周囲が延焼しても構わん!」 身の丈六m、炎の猩々が立ち上がって咆哮し、火の息を吐きながらビランチャに躍りかかる。ビランチャの体に体当たりした、そう見えた次の瞬間、一瞬にして霧化した相手が空中に広がる。舌打ちして飛び退るファルファレロ、くるりと軽く身を翻して離れるフェリックス、からかうように霧はすぐに元の長身の男に戻る。 「同じ属性では分が悪いか…雹王招来急急如律令、ビランチャを引き裂き氷漬けにしろ!」 十三の攻撃は止まない。現れた巨大な氷の雪豹が飛びかかり、爪で引き裂いた、かのように見えた。だが、やはり一瞬にして霧化した相手が、今度は十三の背後、真後ろで実体化する。素早く構えたファルファレロの魔弾は空を駆け、フェリックスの風の魔法が重ねられるが一瞬遅く、十三は背後から張り付かれ、非情の重さに一気に地上へ追い落とされる。 「護法招来急急如律令、吹き飛べっ!」 続けた術はビランチャを吹き飛ばし、その隙に何とか体勢を建て直した十三、だがすぐ目の前にビランチャの顔が迫り息を呑んだ矢先、 「たありゃっっ!」 どっがん! 気合いとともに飛び込んできた肉々しい塊が、十三の前からビランチャをかっさらった。 「ふむんっ!」 突き放してすぐに追撃を叩き込むのかと思いきや、ガルバリュートは空中で両手を差し上げ、盛り上がった腕と肩、張り切った胸を輝く太陽に開いてみせる。兜の竜から流れた紅の房が風に流れ、竜のうろこを象った手甲を煌めかせながら、ガルバリュートはゆっくりとビランチャを振り返った。 「我が名はガルバリュート·ブロンデリング·フォン·ウォーロード! アルガニアの誇り高き騎士にして姫の忠実なる守護者!」 再び決めるポーズ、鍛え抜かれた傷だらけの肌が輝く。両手を緩やかに交差させ、一方でビランチャを指し、片方の手で天を示し、高らかに言い放つ。 「ビランチャ、貴様の身勝手な生き方、断じて認めるわけにはいかぬ! 恩を知らず慈しみを忘れた貴様を成敗してくれよう!」 ビランチャは青い瞳をゆっくりと瞬いた。その背中からじわじわと霧が広がっていく。姿形が少しずつ小さく薄くなっていくような錯覚、いや、錯覚ではない、実際にビランチャの姿がじりじりと減っている。 「逃げやがる気か」 ファルファレロが樹海への逃亡を阻止すべく、まだ熱を上げつつうねっている地面の熱を落とすまいと魔弾を撃ち込む。フェリックスが結界を強化、いつでも雷で撃てるように構え、十三は次なる護符を手に差し上げる。 だが。 「貴様が上か、拙者が上か、互いの技量を量りあおうではないか」 「面白い」 ガルバリュートのことばにビランチャが霧化を止めた。 「では」 「ぐっ!」 声と同時に霧化してのしかかってきたビランチャと、ガルバリュートのランス型ギアの発動が同時、霧が撹拌され一気に広がる。 「逃げるか、ビランチャぁ!」 霧の一粒一粒を殴りつけるような咆哮、 「拙者の力はパワーだ! 比類なきパワーで全てを打ち砕きぃ! 守る!」 実体化しようとする部分部分に繰り返し加えられる全力の殴打、しかもバーニア使用速度付加、急激に向きを変え、霧の中をランスごと全身で貫きまくる動きだ。合間合間に火薬の粉を空中散布、充分に撒き散らしたと思ったあたりで、ガルバリュートは叫ぶ。 「今ですぞ、百田殿! 形のないものには火で対処するに限る!」 炎はさきほども試している、だが今度は霧のすみずみに十分に火薬が撒かれている。 「炎王招来急急如律令! 全てを焼き払え!」 さすがに霧が激しく燃え上がった。ビランチャが再び体にまとまったところへ、ガルバリュートは重い拳を叩き込む。ぐわり、とビランチャの体が歪み、弾けるように飛び散ったとたん、反転してガルバリュートの体を包む。 「ぐお、おおおおお!」 瞬間に掛かった重圧はガルバリュートを唸らせた。たわむ筋肉、きしむ腱、ぎしぎしと鳴る骨に歪む顔、微かに漏れる声がなぜか楽しげにも聞こえるのは気のせいか。 「集団の力は……皆の想いと結束である……」 霧に下へ下へと押さえ込まれながら、ガルバリュートが唸った。 「どんな非力な者でも……集まることで力を得る……。……個人の力で世界を動かすなど……実に愚か。……また結束しても志が歪んでいれば………これも決して成功はせぬ」 滴る汗が裸の体を濡らす。眼下は炎の海、滾る溶岩流が波打ち泡立ち、周囲の樹海に遮られたかまどでぐつぐつと煮えたぎる。霧はガルバリュートをそこへ追い落としていくつもりのようだ。 「ガルバリュート! 雹王招来急急如律令!」 「待ってろ!」 十三が雹王で、ファルファレロがコキュートスで、熱に炙られるガルバリュートを押さえ込む霧を凍らせた瞬間、ぎらり、とガルバリュートが目を剥いた。 「己の力を……壊すことにしか使えないものには……光は指さぬ…っ。貴様は永遠に壊すための戦いをするがいいっ……!」 振り抜いた太い腕ががしゅん、と奇妙な音を立てた。確かに霧は凍りつき、殴りやすくはなっていた、だがそれよりももっと不思議なことに、ガルバリュートの腕が通り抜けた部分に一カ所、薄暗い穴が出現したように見えた。 「何だ、あれは?」 十三は訝る。同じものをファルファレロも見た。 だが、それを確かめる間もなく、霧が一気に寄り集まって上空へ逃れる。 その隙に、真下の炎に突っ込みそうになったガルバリュートをフェリックスが風の魔法とともに引き上げた。 互いに体勢を整えあう、だがその瞬間にビランチャが手を伸ばしたのは、いつの間にか樹海を脱出し、ターミナルへ向かって逃げ延びていく一行だ。 「させぬ!」 十三が吠えて幻虎で追う。 術は充分練り上げてある、だが万が一にも抜け出されては困る。 「天帝に伏して請い願う、人に仇なす悪鬼羅刹を封じる力を貸し与え給え…」 願いは祈りとなって十三の唇から零れ落ちる。護符を重ねる。術式を加えても効果が上がるとは限らない、だが、明るい空を煤けたものに変え、傷ついた二人の少年を胸や背中に負って樹海すれすれを飛ぶ仲間に這い寄っていく霧の不快さ、気づいてその行く手に立ち塞がろうとする年若い男の顔に、記憶が蘇り、胸が詰まる。 幾度、俺は。 幾度俺は、かけがえのない仲間をこの手の届くところで逝かせねばならないというのか。 喪った痛みに雨に穿たれ、野ざらしの骨となればよいと思ったこともあった。だがそれでも十三は今ここで、戦っている、人々の平穏のために。 「ここで逃がせば奴はまた人を蝕む!」 十三は叫んだ。 「お前が本当に悪鬼羅刹の類なら、こちらの方が効くかもしれん…臨兵闘者皆陣列在前…退魔行!」 瞬間、広がっていた霧の一部が突然停止する。まるで見えない何かがそこにあって、十三の術によってその部分が切り取られたような空間。 「あれは、さっきの」 脳裏に過ったのは、薄暗い穴。 「あれは…何だ?」 「結界に入り込んでいた……いや、無理に飛び込んできたのか」 フェリックスは別働隊に向かって広がっていく霧と、それに呼び寄せられるように上がってくる十数人の男に気づいた。 結界の外側領域、樹海上に点々と屍体のようにひっかかっている者がいる。結界を破り切れず、麻痺して落下した犠牲者か。 だがビランチャ側が払った犠牲にそれだけの効果はあったようだ。結界は保持できず、霧は全体量を増していくように青空を見る見る侵食していく。 男達の一部は別働隊に向かっている。これ以上の追撃をさせるわけには行かないだろう。 剣を引き抜き、襲いかかってくる部下達に応じた。 古めかしい装束で斬り掛かってくる相手の背中にも羽がある。フェリックスを切り捨てようと意気込む輩は奇声を上げて突っ込んでくるが、フェリックスと数回剣を交えた後に訝しげな顔になって互いを見やり、やがて見る見るお互いに切り結び始めた。 じつはフェリックスの刀身の青い長剣には、攻撃した相手に幻影を見せる効果がある。敵同士が互いを攻撃しあう混乱に乗じて戦場から身を引き、危うくこんがりローストされかけたガルバリュートの回復も行う。 さっきからの苦戦を思い出し、霧本体にも戦闘能力を弱体化させる魔法を放った。別働隊が必死に防いでいる、何とかビランチャを食い止め、無事に脱出させなくてはならない。雷を落とし、風で穿ち、霧を少しでも別働隊から遠ざけようとする時、妙な感覚が広がった。 「何だ、あれは?」 霧の彼方、弱体化魔法の反応が異常に強いところがある。揺れ動き、汚水のように滲む霧の動きが多少遅れる程度の効き目しかないはずなのに、一カ所、吸い込まれるように強く、力が呑み込まれた場所がある。 「あそこに何かあるのか?」 剣戟を続けながらフェリックスはその場所を特定しようとする。 「何か妙なものがあるぜ、十三」 「あのあたりだろう? 術が妙な利き方をする」 「魔法も同じだ、あのあたりで異常な反応がある」 三人は同時にその部分を凝視する。 そこには何もない、周囲と同じように黒い霧が漂うだけ、いやむしろ、別働隊に引き寄せられ引っ張られていくように移動する霧は、そこを含めどんどん薄くなっていき、向こうの空が透けるほどだ。 なのに、何かある、そこに。 その時、ガルバリュートが声を上げた。 「別働隊から連絡があったぞ! 霧はただの目くらましだ、と。本体は別にある、見えない空間に、だそうだ!」 「ひょっとしてそれは」「あれか」「たぶんそうだな」 三人の声が重なるや否や、 「のんびりしてられねえな」 別働隊はもうぎりぎりだ。ファルファレロは銃を構えた。溶鉱炉と化した地面の少し離れた場所に弾丸を撃ち込む。 「Caina、Antenora、Ptolomea、Judecca」 打ち込んだ弾丸に白い四つの五芒星が浮かび上がる。それらの中心に立ち、霧に向かって嘲笑する。 「昔お節介に言われたよ、お前のくそったれた人生にガキと女を巻き込むなって。その言葉、そっくりお前にやるぜ」 いい加減子離れしろよ、パパ? 霧の中心がゆるゆると止まったような気がした。 「来いよ、それとも俺みたいな人間は怖いのか?」 霧が寄り集まっていく部分を、ファルファレロは確信を持って見つめた。 間違いない、さっきからうっすらと見えている薄暗い穴、そこを中心として霧が集まり、蠢いている。見据えながら指輪を嵌めた。 「君は、愚かだ」 ふいに寄り集まって形を成し、皮膚一枚のところに出現したビランチャ、 「こきやがれっ、Cocytus!」 怯むことなく、ファルファレロはファウストの引き金を引く。響き渡る高く透明な音と同時に四つの五芒星が輝き、純白の光が一斉に走る。 その強く激しい光が消えた場所に出現したのは、体半分凍り付いたパパ・ビランチャ、ファルファレロはなお踏み込んで指輪を嵌めたこぶしで殴りつける。 狙いは目の前の男ではなく、その内側にある奇妙な空間そのものだ。 「っっ!」 腹部を抱え込むようにビランチャが崩れた。なおもファルファレロはファウストを撃ち、鎖状の結界で相手を束縛する、もちろん『見えない』中心を外さずに。 周囲の霧を必死に回収しようとするビランチャの目論みは潰えた。ガルバリュートが散らす、フェリックスが水でたたき落とす、そして十三が、のたうち体に戻ろうとする霧を凍らせ、燃やし、吹き飛ばす。 最愛の女性といるようにうっとりとした顔で、ファルファレロは落ち始めたビランチャに馬乗りになった。真下はマグマの煉獄、吹き上がる熱と光の中で相手の口をこじ開け、ファウストを突っ込む。狙いはもちろん『見えない』空間、結界から逃れようとするビランチャが体を揺らめかせるのに両脚で抱えながら囁く。 「一緒に地獄に堕ちようぜ」 ファウストが火を吹いた。突き抜けた弾丸が溶岩に呑まれる。脚で抱えたビランチャの大きく見開いた目が、次の瞬間真っ黒な穴となる。半分凍り、半分霧化した体が溶岩の熱で一気に炎となってファルファレロを包む。 「ファルファレロ!」 ビランチャが業火に呑み込まれるのに引きずられかけたファルファレロを、幻虎に跨がった十三が掬い上げた。燻り炭化しかけた両脚にフェリックスが回復魔法をかける。 「無茶をし過ぎだ」 「は、よく言うだろ? Bisogna far buon viso a cattivo gioco.」 さすがに痛みに耐えかねたのだろう、脂汗を浮かべたファルファレロが、それでも強がってにやりと笑った。 「雹王招来急急如律令! あの大地を凍らせてしまえ!」 ビランチャを呑み込んだ大地に、氷の雪豹が躍り、みるみる硬化させていく。 「とどめである!」 回復魔法を受けて元気一杯、ガルバリュートが、ランス型トラベルギアをビランチャを呑み込んだ地面に深々と突き立てた。 霧が消え去り、再びの青空の下、ガルバリュートは高々と手を振り上げ、腰を引き締めて背を反らせてポーズを決めている。 「勝利! 勝利!」 「かろうじて、だがな」 ファルファレロは回復した脚を休ませつつ、燃え尽きてしまったパンツに文句を言うだろう相手のことを思い浮かべて、指輪をそそくさと背広のポケットに片付ける。 「別働隊にも知らせておこう……少しでも早く安心して欲しいから」 フェリックスはトラベラーズノートに書き込む。 『パパ・ビランチャ撃破』 折り返し送られてきたのは、別働隊とアクアーリオ達の無事を告げる知らせ。 『ターミナル到着。二人とも無事だ、さっさと帰って来い!』 「無事か」 そうか。無事だったか。 繰り返してそのことばを噛み締める十三は、黒く焦げた大地に一つ、大きな息を吐いた。
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