インヤンガイの一街区であるリューシャンの奥に、その館はある。 十年ほど前、名のある建築家によって建てられたという、重厚にして荘厳、優美にして瀟洒な館だ。 この辺りに昔から強い権力を持つ一族の、カリスマあふれる若き当主に心酔していたという建築家は、彼に捧げるための館を広いリューシャン地区のあちこちに建てたそうなのだが、それらの中でもここはひときわ異彩を放つものとなっている。 それは、外観やつくりなどからではなく、館を取り巻く呪わしい出来事にあった。 廃墟と化した街をまっすぐに奥へと進むと、その館が見えてくる。 昔、といってもほんの十年前まで、この辺りは活気のある普通の街だったのだが、あの館が完成してから奇妙な事件が頻発し、ついにはたくさんの住民が命を落とすに至って、館ともども地域全体が打ち捨てられるに至ったという。 館は黒々とわだかまり、不気味で陰鬱な、呪いめいたオーラを発しているかのようだ。 金属製の、槍にも見える門を押して中に入ると、昔はさぞや鮮やかに映えただろうと思われる臙脂の色をした煉瓦づくりの、威厳あるたたずまいが目に入る。家紋だろうか、意匠化された赤い馬の絵、すっかりかすれて憐れな様相を呈したそれがちらほらと見受けられる。あちこちで、馬の彫像を目にすることも出来た。 在りし日には美しい花で満たされていたのであろう庭園は黒ずみ、荒れに荒れ果てて、今やその名残すらない。 運び出す暇すらなかったという、家財道具――もちろん超一流の職人がつくったおそろしく値の張るものばかりだ――や、それひとつで家が建つような芸術品美術品、一般人が一生遊んで暮らしてもおつりがくる財宝のたぐいは取り残されたまま、埃をかぶって沈黙している。 ――竣工から十年。 まだ、それだけしか経っていないはずなのだ。 それなのに、ここだけ百年も経過したかのように、館は古ぼけ、荒れて、完成当時の華やかさなど見る影もない。 この館が打ち捨てられるに至った最初の事件では九人が命を落とし、その後の大規模な災厄で犠牲者は二桁半ばにのぼった。さらに、噂を聞きつけて面白半分に入り込んだ人間が消息を絶つという事件が年に何件か起きており、館が犠牲者を招き寄せているのではないか、という噂まで聴かれるほどだ。 このままではあまりにも危険だからと取り壊す計画が持ち上がったこともあったが、計画の立案者たちが次々と不審な死を遂げたことで文字通り泡と消えた。館そのものに手を出そうというものはそこでいなくなった。 よって、手入れするものもいなくなった館は、あまたの財を内部に抱え込んだまま、朽ちるに任せて放置されている。ときおり、奇妙な物音や話し声がする、とは、遊び感覚で入り込み、驚いて逃げだしてきた人々の鬼気迫る証言だ。 館の辿った惨劇の過去を知るものたちは、決してその区画に近づこうとはしなくなった。あそこでは、無数の暴霊とその王が、新鮮な血肉を求めて次の犠牲を待っているのだと、まことしやかにささやかれた。 ――が、しかし。 ここにきて状況が一変する。 ある日、館に光が灯ったのだ。 それは唐突な出来事だった。 そこには、何ものかに呼び出された九人の男女と、誰とも判らぬ依頼者に多額の金で雇われたという使用人、管理人がいた。彼らは、実に十年の歳月を経て館へ踏み込み、手入れをして、滞在を始めたのである。 何か事情があるらしい彼らは、館の危険性を知る人々が言葉を尽くして説得しても頑として動かず、奇妙な共同生活を続けた。 ――そして、惨劇が繰り返される。 おどろおどろしく、むごたらしく、不気味な死が振り撒かれる。 それによってすでに三名が命を落とし、しかしそれぞれの事情ゆえに誰も出ていくことが出来ず、被害は拡大してゆく。 世界図書館の司書がそれを予見したのは必然だったのかもしれない。 放置すれば、そこに滞在するすべての命が失われ、さらに、何か得体のしれぬ、不吉で獰悪な、すさまじいばかりの悪意がよみがえるだろう、と。それは、この放棄された区画から瞬く間に溢れ出し、リューシャン街区のみならずインヤンガイ全体を巻き込む凄惨な事件に発展するだろう、とも。 図書館から派遣された人々は、そうして目にすることになるのだ。 美しくも古びた館で繰り広げられる、異様で残獄で不気味な、事件の顛末を。 それは、建築家ホンバオが心血を注いでつくりあげた、凱王家の緋之駒(ひのく)館。 しかし華やかな名はすでに忘れられて久しく、今やこの館を知る者たちは、声をひそめてこう呼ぶのだ。 ――すなわち、『人喰い館』と。 * * * じじ、じじじ、じじじじじ。 ごおん、ごん、ごん、ごおおおおおおぉんんん。 おぉ、おお、ぉおおおおおおぉぉおおぉ。 屋敷へ近づくと、奇妙な音が聞こえてくる。 空気を震わせるような、何かが揺れるような不思議な音だ。風か、地鳴りの一種なのかもしれない。――もちろん、悪しきものどもが立てる音ではないという保証もないが。それはずっと、ごくごく低音で響き続けている。 門をくぐり、屋敷へ踏み込む。 高い天井と分厚い壁の、十年放置されてなお美しいつくりだが、あちこちに意味深なしみが見受けられ、どうにも落ち着かない。 高い位置で、ろうそくをともされたシャンデリアがわずかに揺れている。 じんわりとした冷気は、気温によるものなのか、それとも。 この辺りはひどく湿度が高いようだ。気温が低くなっても凍るような寒さにはなりにくいが、半面、まとわりつくような不快さを感じる。重い、暗い、のしかかるような空気を感じて見上げても、埃を払われて少しばかり昔の姿を取り戻した天井があるばかりだ。「……?」 霊などに関する感覚や知識を買われて同行した神楽・プリギエーラが小首を傾げて周囲を見渡すのが見えた。 館内部は、それなりに手入れをされているが、古びて汚れていることに変わりはなかった。いかに、人の住まない家があっという間に荒れてしまうにしても、この荒廃は異様だった。やはり、ここだけ、百年もの月日が一気に過ぎ去ったかのようだ。 巫子が何かを口にするより早く、管理人と思しき男がこちらへ歩いてくるのが見えた。先導するシュエランが会釈をすると、滑稽なくらいぺこぺこしたお辞儀が返った。 管理人はシンテウと名乗った。 地味な服に身を包み、背中を丸めた、どうにも冴えない印象の中年男だ。顔立ちは整っていると言っていいくらいなのに、覇気のなさ、無気力さ、そしてちらちらと浮かぶ怯えが、彼の周辺の空気を薄いものに感じさせる。 彼は、お待ちしておりましたと探偵たちの到着を歓迎し、古ぼけた燭台に火をともすと、人々を『現場』へと案内した。 その道すがら、「……この館には、霊力が通っておりませんで。ええ、昔はさまざまな機器が使えたそうなのですが、今は不可能なのです。そのため、すべてのサービスは、お客さまにはご不便をおかけしますが、すべて手動、薪や石炭を使用してのものとなっております。どうぞご理解のほどをお願いいたします」 ぼそぼそと説明しながら、現在ここにいる人間の紹介を始める。 使用人は全部で五人。三人が男性で、ふたりが女性だ。 名前はそれぞれカオウェン、ツァンサ、ズゥイレン、ジュエワン、デウといった。彼らは怯えていたが、さまざまな事情で多額の金銭が必要らしく、恐怖を押し隠しながらも従順に仕事をこなしている。 『客』は全部で九人。六人が男性で、三人が女性だ。 青年実業家のススン、貿易を営むグウァイウ、不動産業者のジピン、偉大な霊能者を自称するファンス、新進気鋭の画家ディレエン、腕利きの医師ザンリ、女性実業家リュイウ、各方面から注目を集める音楽家ユンチ、女神のような美貌と艶めかしい肢体を持つモデルのタンユである。「被害者は誰だ?」 この界隈をテリトリーにする探偵、シュエランが尋ねる。 シンテウはびくりと身体を震わせ、恐る恐る言葉を口にした。「最初は、ジピンさまが。次にユンチさまが。一昨日にはグウァイウさまが亡くなられました」「どんなふうに? ……殺されたんだろう?」「それは……その。見ていただくほうが早いかと……」 その時、ちょうど傍らで黙々と掃除に精を出していた使用人の娘、デウが、吐き気をこらえる仕草をした。 その理由は、すぐに判った。 最初の犠牲者、ジピンは、大柄で恰幅のいい壮年の男だった。生前はさぞかしエネルギッシュで、おそらく強欲で、ものごとを自分の思い通りに運ぶためには手段を択ばない人間だったのだろうと思えるような、いかつく依怙地そうな顔をしていた。 彼は、客室としての体裁を取り戻した豪奢なそこの、大きな寝台で、脳天から股間までを真っ二つに断ち割られ、息絶えていたのだ。寝台は無論、血と脳漿と臓物と排泄物によってまみれ、この世の地獄の様相を呈している。 しかし、それらは寝台のみで展開され、広い客室のどこにも、血のあとなどはないのだった。 真っ二つになってなお判る、壮絶な恐怖と絶望の表情には、背筋を寒くするほど鬼気迫るものがあった。「なんだろう……両手足に、痕? 何かに抵抗したあと、なんだろうか……?」 死体を検分したシュエランが首を傾げる。 あちこちを見やり、見上げるが、そこには、品よくはめ込まれたタイル様の天井があるばかりだ。 次の犠牲者、ユンチは、小柄な女性だったそうだ。 そうだ、というのは、その遺体が性別の判断すらつかぬほどに灼かれ、無残に炭化してしまっていたからだ。 彼女はやはりベッドに横たわっていた。誰かがどこかで発見して安置したのではなく、最初からベッドで死んでいたのだという。シーツが焦げていることからして、発火現場はここで間違いなさそうだった。 奇妙なのは、彼女の遺体はもともとの姿かたちさえ判らないほど焼け焦げているのに、シーツは半ばまで燃えただけ、ベッドに至ってはほとんど焼けていないことだろう。つまるところ、彼女は、類焼する暇もないほどあっという間に焼き尽くされたということになる。「人間の仕業だとは思えない……!」 ガタガタ震えながらシンテウがつぶやく。 そうだな、と頷きつつも冷静なシュエランが部屋を検分してまわる。 この客間はもともと女性のためにしつらえられたものであるらしかった。 調度品には繊細にして優美なものが多く、その最たるものが寝室の壁に据え付けられた大きな鏡台だ。磨き抜かれた鏡面を、美しい彫刻が飾り、彩っている。刻み込まれている花は康乃馨……カーネーション、花言葉は『あなたを熱愛する』。「……この鏡、何だろう、ちょっとくぼんでいるような?」 鏡面をなぞりながらシュエランがまた首を傾げる。 三人目の犠牲者、グウァイウは、いかにもやり手そうな、理知的でスマートな男前だった。 生前はさぞかしもてただろうと思われる容貌だったが、彼の遺体は紙のように白くなっていて、出来のいい人形のようにも見えた。 医師・ザンリの見立てによると、その死因は凍死であるらしい。 凍死といっても、直腸温が三十五度以下に下がり、意識の混濁や心拍数の低下などを招いて死に至る、いわゆる『低体温症』によるものとは少し違うようだった。 発見された時、グウァイウの遺体は完全に凍りつき、弾力の一切を失っていたというのだ。彼がいったいどこで、身体の芯まで凍りつき、それによって命を落としたのか、殺害現場の糸口すらつかめない。 人をひとり、凍えさせ、命を奪い、さらに凍らせるような気候はこの辺りではありえず、また、暖炉には薪がくべられ、異変に気付いた人々が踏み込んだときにも、赤々と燃え続けていたという。「外で死んで運び込まれたのか……それとも、ここで? だが、凍死するような気温じゃないし、人体がかちこちに凍るなんてそもそもありえない」 キングサイズのベッド、がっしりとしたつくりのそれを検分しつつシュエランがつぶやく。その眼にはいぶかしげな光が揺れている。 ――しかも、だ。 犠牲者たちの部屋は、どれもドアにしっかりと鍵がかけられていたという。 こんな状況だ、ゆえあって滞在しているにしても、皆、おそろしくてたまらないはずだ。気を許せる相手もおらず、身を寄せ合って夜を超えることが出来ないなら、部屋に閉じこもり、時間が過ぎるのを待つしかない。 つまるところ、これらの殺人は――自然死ではありえないだろう――、いわゆる密室において行われたのだ。「いったい、何が起きている……?」 シュエランが難しい顔をして腕を組む。「あ、あの……」 そこへ、シンテウがおずおずと、何かの紙片を差し出した。「これは?」「ジピンさまが亡くなられた日の朝、大ホールのテーブルに置かれていたんです。何かの悪戯だと思ったのですが、それが……その」 言葉尻は、怖じたように消えてしまう。 紙片を確かめてみると、その理由にも納得がいった。『かの、貴きものを讃え崇め、畏れよ。 一の贄は見えぬ刃に断ち切られ、 二の供物は太陽に灼かれ、 三の祭具は凍土に眠り、 四の犠牲は赤き海より熱を失い、 五の聖宝は大地より解き放たれ、 六の供儀は雷神の抱擁に震え、 七の奉物は深き泉に沈み、 八の祭壇にて永遠の妙薬を呷り、 九の神餐にて天より鉄槌を叩きつけられる。 そして『運命』は繰り返され、 敬虔なる願いが成就するとき、 貴種なる神は再臨するだろう。』 それは、予言というのだろうか。「断ち切られ、灼かれ、凍土に眠り……?」 人間が、この言葉の通りに死んでいくとしたら、すべての死が成就した時、そこに立っているのは『貴種なる神』ということになる。しかし、人の命を糧として求める神が、世界を平和に導く善なる存在である可能性は低い。 『導きの書』が言っていたのは、このことなのだろう。「神……を、何ものかが復活させようとしている? 何かが、ここで、目覚めようとしているのでしょうか?」 シンテウは不安げだ。 目が、きょろきょろとせわしなく動いている。「では、この、一連の殺人は……邪悪で強大な暴霊の仕業、ということなんでしょうか……? 我々は、課された仕事を終えるまでここを離れることが出来ないのです。いったいどうすれば」 使用人たちにせよシンテウにせよ滞在客にせよ、切羽詰まった事情があってここにいるのだ。 ここから出て、一刻も早く遠くへ避難すべきだ、というまっとうかつもっともな意見は、おそらく受け入れられないに違いない。無理やり連れだしたところで、きっとここへ戻ってきてしまうだろう。「我々は、暴霊の餌食になるしかないと……!?」 がたがた震えながら、シンテウが顔を覆ってしまったその時だった。「……暴霊? ここに、そんなものはいない」 先ほどから周辺を観察していた神楽が、そう、きっぱり言ったのだ。 シンテウが眉をひそめる。「しかし……それにしては、この『死』はあまりにも異様です。あなたより強い力を持つ何かが、あなたの感覚を抑え込んでいるのでは?」 それも当然だろう。 これだけおどろおどろしくむごたらしい死を垣間見せられて、それが暴霊の――人智を超えた力を持つ存在の仕業ではないと言われても、感情は袋小路に迷い込むばかりだ。 しかし神楽は特に表情を変えるでもない。「強いとか弱いとか、そういうものでもない。ミコとは感じるモノだ。感覚を通じて世界とつながる存在だ。私には、ここに、人をむごたらしい方法で殺し、貪り食う凶悪な暴霊が存在するとは思えない」「なら、いったい何者が!」 シンテウが声を荒らげる。 恐怖のあまりだろうか、そこにはかすかな苛立ちが含まれている。 神楽はあっさりと肩をすくめ、首を振った。「私に見えるのは霊や魂や神に関するものごとだけだ。それ以外のことは、私には判らない」 そっちはきみたちで何とかしてくれ。 そう言い置いて、ほかに気になることがあるらしく、巫子はひとり、どこかへ歩き去ってしまった。 あとには何とも表現しがたい沈黙が残る。 じじじ、じじじじじ、と、何かの鳴き声のような、振動のような音がどこからか聞こえてくる。 その時だった。 どこかで壮絶な恐怖をはらんだ悲鳴が上がったのは。 シンテウがひっと息を飲み、身をすくませる。 シュエランとロストナンバーたちは顔を見合わせ、走り出した。 * * * そこは比喩ではなく血の海だった。 そして、むせ返るような血臭に満ちていた。 ドアをこじ開けたカオウェンとツァンサが、そろって嘔吐したほど猛烈な血の臭いだ。「時間になっても起きて来られないので、声をおかけしたんです。何も返事がなくて……あの、すごく嫌な予感がして、変なにおいがした気がして、カオウェンさんとツァンサさんに来てもらったら、こんな」 メイドの出で立ちをした娘、ジュエワンが啜り泣く。「もういや。もう帰りたい……帰りたいよ、お母さん……!」 切れ切れに漏れる切実な言葉に頷きながら、誰かが彼女の背中を撫でてやる。 シュエランの眼は厳しい。「『四の犠牲は、赤き海より熱を失い』……こういうことか」 酸鼻な光景だった。 犠牲となったのは、自称偉大な霊能者・ファンスだ。 彼は、どこにでもいるような、ひょろっとした身体つきの、額の広い――というか、頭髪が不足し始めている――、顔色のよくない中年の男だった。生前は、外連味あふれるパフォーマンスでもって、それなりの評価を得ていたというから、商売上手な男なのだろう。 ガラステーブルには、護符や数珠、鈴や小振りのナイフ、文房具、メモ帳、手紙、魔よけと思しきブレスレット、空っぽの酒瓶、銀のペンダントなどがごちゃっと放り出されている。 その横で、彼は、ベッドに横たわっていた。 ――首から下を、シーツを、ブランケットを、ベッド全体を真っ赤な血に染めて。眼を閉じた顔がなまじ安らかなだけに、かえって不気味さが増している。「失血死、ですね」 僕は検死官じゃないけど、と死体を確認していたザンリが、手を拭いながら息を吐く。彼は、やさしげで知性的な風貌の好青年だった。「失血死? それは、刃物で切られて、とか……?」「いえ。長い針のようなもので、全身を貫かれての失血死です。首から下を、まんべんなく刺されたのでしょう……ショック死とも言える」 むごい死に方だ。 例えばこれが何ものかの復讐であったとして、いかなる罪を犯せば、こんな死を押し付けられねばならないのか。「しかし……妙だな……」 ザンリは首を傾げながらファンスの遺体や、彼が横たわる寝台を調べていた。 誰かが問うと、「ファンスは、背面から表面に向かって刺されているんです。出血の状態からして、殺害現場がここであることに間違いはなさそうなのに、いったいどうやって? 針状の凶器を、これだけの回数、しかもこれだけ深く、背後からどうやって突き刺せばいいんだろう……?」 判らないことだらけです、と首が振られる。「……額に痕? 打撲痕……とは、少し違うような……?」 ザンリがなおもあちこちを調べる中、探偵たちも手分けをして部屋を調査する。おどおどしながら、シンテウもそれに従った。 くたびれてはいるが豪奢で、丁寧に清められたことが判る、最盛期の美しさはいかほどだったのかと思わせる部屋だ。十年ぶりの『客』の滞在にあたって、内部を整えた人たちの努力が垣間見える。 しかし、特に怪しいものはなにもない。凶器が落ちていることはなかったし、犯人の痕跡を示すものもなかった。 と、その時、部屋の外が騒がしくなった。 使用人たちを押しのけるように、身なりのいい人たちが踏み込んでくる。「また、死んだのか。くそっ、いったいどうなっているんだ、ここは!」 吐き捨てるのは青年実業家のススン、その腕にしがみつくのはモデルのタンユだそうだ。ふたりとも、目の覚めるような美男美女で、ふたりが寄り添っているさまはとても絵になった。こんな時でなければ、見惚れたかもしれない。「本当になんなんです? この屋敷には、本当に暴霊が巣食っているんですか? 鍵をかけていても殺されるなんて、ボクたちはいったいどうすれば……」 新進気鋭と評される画家ディレエンは、やわらかい雰囲気の優男だった。彼は、これまた美しい女性実業家リュイウと連れ立ってやってきて、青い顔でファンスを見ている。「シンテウが見つけたあの紙片の通りに、私たちは殺されるしかないっていうの。そんなのまっぴらだわ……誰か、どうにかしてちょうだい!」 リュイウがヒステリックに叫び、「おい探偵、お前たちはそういう仕事をしているんだろう。今すぐこれを解決しろ、そうしたらお前たちが雇われた倍の金をくれてやる。俺は、こんなところで死ぬわけにはいかないんだ」 ススンが尊大に命じる。 シュエランは呆れの溜息を吐いた。「だったら、今すぐこの館から出ていけばいい。人智を超えた何かなのか、それとも人間の意図によるものなのかは判らないが、その力が及ぶのはこの館だけだ」 彼の言はもっともだったが、「それが出来るなら最初からそうしているわよ!」 返るのは、悲鳴に近い金切り声だ。 ススンもタンユも、リュイウもディレエンも、そしてザンリでさえ、ここを出るという選択肢は最初から存在しないのだ。 ディレエンが、仕立てのよい上着のポケットの中で、何かをくしゃりと握りつぶす音が聞こえた。『何か』が、彼らをこの、得体のしれないモノたちが跋扈する狩場に縛りつけている。 その『何か』から解放してやらない限り、彼らはここから身動きも出来ないのだろう。「あ、あの……」 不意におどおどした声が上がり、皆がびくりとなる中、「ここ、なんだかおかしくないですか……?」 部屋をずっと調べていたらしいシンテウが、寝室の片隅を指さす。――壁の一部が、不自然に盛り上がっている。これだけ美しく整えられた館で、相当のこだわりを持って建築に携わったであろうホンバオなる男が、そんなミスを許すはずがない。 強く押すと、何と、ごごん、という音とともに分厚い壁がずれ、扉が現れた。開くと、それは、隣の部屋に続いているらしかった。「この隣に滞在しているのは……」 シュエランの言葉を受けて、視線がススンへ集中する。 ススンが美しい面立ちをゆがめた。「ススン……まさか……!?」 タンユがしがみついていた腕から手を放し、一歩後ずさる。「馬鹿な。俺は、こんな仕掛けがあることすらしらなかった」 苛立たしげに、ススンは首を振る。「ザンリ先生、彼の死亡時刻は?」「午前一時くらいでしょうか」「……ススンさん、その時間帯には、何を?」「答える必要があるとは思えないな」「ええと、昨日は、十二時前には全員自室に戻っていたよね。ボクはサロンを最後に出たから、皆が帰っていったのを確かめたよ」 記憶を確かめつつ証言するディレエンを、ススンが睨みつける。シュエランは難しい顔をした。「アリバイはない、ということか」「馬鹿を言え、アリバイがないという意味では全員が同じだろう。皆、自分の部屋にこもっていたんだからな。だいたい、その時間なら、俺は――……」 何かを言いかけ、ハッとなって口をつぐむ。 再度視線が集中すると、彼は苛立ちをあらわにし、踵を返した。「とにかく、俺は無関係だ。――いいか、探偵ども。さっさと事件を解決しろ。でないと、お偉方にかけあって、お前たちが一生仕事をできなくなるようにしてやるからな!」 吐き捨て、足早に部屋を出て行ってしまう。 その背を、いくつもの視線が疑念とともに見送った。「……いったい、なにがどうなっているんだ……?」 ススンは怪しいが、他にも疑うべきものはある。 何より、それが本当に人間によってなされたものなのかさえ、彼らに推し量るすべはないのだ。 ――こうして、探偵たちは、それぞれの頭脳と調査力、そして直感を駆使して事件に挑むこととなる。 その先に何が待ち受けているのか、まだ誰も知らない。 * * * 夜。 『彼』は笑っていた。 笑いながら地べたを這い、額づき、地面に口づける。「ああ、ああ、何という幸い。何という法悦。そうとも……ついに成就するのだ、この願いが!」 館は死んだように静まり返り、息を殺して朝の訪れを待っている。 探偵たちが乗り込んできてしまったが、それも大した問題ではない。 運命は『彼』の、『彼ら』の味方をするだろう。 大望が、ここにきてようやくかたちをなす。すべての流れが、『彼ら』を祝福していた。「どうぞ、愉しみにお待ちください、我が君、我が王、我が神よ。このわたくしめが、必ずや、あなたさまの再臨を成し遂げてみせます」 絶対的な支配者を持つ至福が、彼の唇に恍惚の笑みを浮かべさせる。 彼はうっとりと宣言するのだ。 熱狂的な愛と、ある種の信仰を持って。「このわたくしめに、すべてお任せを」 その、狂気さえ孕んだ――しかし一方で、我が身を削ることを厭わぬ真摯さも含んだ――笑い声は、館と外界を阻むような分厚い壁に阻まれて、誰に届くこともないのだった。
1.暗渠にて 「……出てこないな。怪しいものは特にない」 開口一番、シュエランが言い、ヴィエリ・サルヴァティーニはそうですかと返してかたちのいいおとがいに手をやった。 「シンテウ……星土、と書くようだ。リューシャンから少し離れた街区の出身で、小さな商店を細々と経営していたが、これが不況のあおりを受けて多額の借金とともに倒産。返済に追われる中、ここに雇われたようだ」 「ここから逃げ出せない事情というのは、金銭ですか」 「首をくくるしかないほど追いつめられていたらしい。他の、使用人として雇われた連中も似たり寄ったりだな」 「蔓延る何者かから逃げおおせたとしても、結局は死ぬしかない、ということですね」 「逆に言えば、どうにかやり過ごせればそののっぴきならない現状を打破できる程度の報酬が約束されているということだ」 探偵の言に、ヴィエリは考え込む。 それだけの金銭を用いてまでこの“人喰い館”に人を住まわせたい、そして犠牲を出したい者がいるということだ。そしてそれは、相当な財力や権力を持つ何者かだと考えるべきだろう。 「怪しいと言えば、間違いなくこの男なんですが……」 シュエランの調査報告書を見下ろし、紙面を軽く叩く。 流した視線の先に、血の気を失ったファンスの骸が映る。 紫の眼を哀しげな光がよぎった。 「……無残な死体は見慣れていますが、やはり死とは哀しいものですね。人々を救うことこそ、主が私に与え給うた責務。これ以上の災厄は避けなくては」 不気味な予言が書かれた紙片の写しへと視線を落とす。確かめるように文言を追ううち、片眉が何度かはねた。 「しかし、ずいぶんと図々しい……失礼、厚かましい文言ですね」 「図々しいも厚かましいも同じ意味だから、『失礼』で言い変えた意味があるのかは疑問だが、何がだ?」 「おや、そうでしたっけ? そんなことはどうでもいいんですが、神とは常に慈悲深く唯一である尊き存在です。それをこんな愚劣な行為の文言に掲げるなど……冒涜にもほどがある」 どこまでもやさしい笑顔を絶やさないヴィエリから滲む、ひやりとした鋭いものに、シュエランが苦笑する。 「ひとまず、もう一度館全体を調査してみましょう。何か、手がかりがあるはずです」 と、そこへ、陰鬱な雰囲気を漂わせた男が近づいてきた。 カメラマン、由良 久秀だ。 「頼みがある」 探偵が頷く。 「この館の主人について調べてほしい」 「主人? 建築家ではなく?」 「なら、建築家も。消息を含め、人となりや実績なんかを。――どうも気になるんだ」 「ではそれといっしょに、もう一度管理人に関することと、それから十年前に起きた事件についての調査をお願いしても?」 「判った、調べてみよう。遅くとも明日の朝には戻る」 その背中を見送って、ヴィエリも行動を開始する。 「さて、では私も行きましょうか……」 双眸を、鋭い光がよぎった。 * シューラはひととおり館を見て回ったのち、厨房で料理に勤しんでいた。 まだまだ判らないことが多すぎ、調べるべきことが多すぎて考えが錯綜してきたからだ。 精神統一を図ろうと思ったら、無心で料理をするに限る。 どうやら同じ結論に至ったらしいアキ・ニエメラもいっしょだ。 並んで精を出しながら、自分が得た情報の交換や、他面子の調査状況なども提示し合うが、皆、今のところ思わしくはないようだった。 「シューラ、あんたはなんで依頼を受けたんだ?」 「ん? そうだね、『祈り神子シューラ』の矜持かな?」 ただし自分以外の、と胸中に付け足しつつ、シューラは鶏肉をぶつ切りにする。 ――祈り神子は国を護るために闇の海へ投げ込まれる。 世界を護るための犠牲だ。 そんな祈り神子の魂の集合体であるシューラが、世界を護るために動くのはあまりにも当然のことだった。 「あとは、気に食わないから」 「何が?」 「見立て殺人ってやつが。殺すなら、ただ殺せばいいものを」 「そういうもんか。殺された人間にとっちゃ、死に変わりはない気はするが」 首を傾げつつ、アキは豚バラ肉の塊を包丁でたたき、粗いミンチをつくっている。 「それ、どうするんだい」 「餃子にしようと思って。豚バラから仕込んだほうが、肉汁がたんまり出てうまいんだよな」 「確かに。じゃあこっちは角煮にしようかな。老酒のいいのがあったんだよね」 「――あんたの予測は?」 「ん? 夕飯までには完成するはず……って、ああ、そっちか。そうだね」 料理に関するよもやま話と調査・推理の話が同一で語られることには、ふたりとも大して違和感がない。 「地道に館を調べてみたんだ。あの音、気になるだろう?」 「ああ」 「さっき見つけた仕掛けもあるわけだし、この屋敷、絡繰り屋敷じゃないだろうか。言い方を変えると、忍者屋敷。ふたつひと組でようやっと動く扉とかね。押してもダメなら引いてみなとか……一見、動かないように見えて実は動くモノとか、あったりしてね?」 ああいう仕掛けがひとつだけだと信じられる人間はいるまい。 おそらく今頃、他の面子は、あちこちの部屋を調査して、その有無を確かめているはずだ。 「そうだな、ここが全体的に怪しいってのは俺も賛成だ」 手早く餃子の皮を練り上げつつ、アキはまた首を傾げている。 「ただ、どうも妙……なんだよなぁ」 アキはずっと館全体を気にしていた。 彼は、外部から建物をぐるりと見まわって、帰って来たあとだという。 「何がだい?」 包丁を動かしながらシューラが問うと、彼は、自分も野菜を刻みながら首を傾げた。 「んー、なんての、あまりにも館が荒廃してること?」 「人が住まない建物はあっという間に傷むっていうよ?」 「や、そうなんだけどさ。なんだろうな……作為を感じるんだよな」 「作為?」 「神楽が言ってたろ、ここには暴霊なんていねぇって。俺はあいつの言を信じようと思ってるんだが、そうすると、館を荒廃させたのは暴霊以外の何ものかだ。でも、放置されたせいでこうなったにしちゃ、根本的な部分は傷んでなかったんだよな、さっき見回った限りじゃ。そうなると、この荒廃は何なのか? ってことになるだろ」 「……人為的に、こういう装飾がなされたってこと?」 「俺はそう踏んでる」 では、なぜそれをするのか。 「恐怖を演出するため、なんてのもありそう……?」 「あとは、パニックを誘発させて調査をしにくくする、暴霊以外の関与をうやむやにする、とかな」 浮き彫りになるのは、暴霊を装った何ものか――しかしそれは血の通った存在であるはずだ――の不気味な思惑だ。 「霊力もな……ここ、ホントに通ってねぇのかな? なんかこう、違和感を隠せねぇんだが……」 「どちらにせよまだ情報も調査も足りないね。これをつくり終わったら、もう一度調べに行こうか」 「だな」 ピーマンと筍を細く切り、下味をつけた豚ばら肉の薄切りといっしょに強火で炒めて一品仕上げる。その間にシューラは豚肉とキノコが入った中華風おこわと、ニンニクとわかめのスープを完成させている。 双方、素晴らしい手際のよさだった。 「そういえばアキさん、君確か人の『中』が見えるんじゃなかったのかい」 「それが、場の影響か不発気味なんだよな。不安とか恐怖みてぇな、表面上の感情しかなぞれねぇんだよ、今」 「犯人の思惑のせいもあるのかもしれないね。地道に調査して推理するしかないってことか」 いい匂いに惹かれてか、館の人々が顔を覗かせる。 温かい食事を摂ることは、元気を身体に取り込むことでもある。 「ひとまず、腹ごしらえといこう」 不安のにじむいくつもの顔に笑いかけ、ふたりは皿を次々に差し出すのだった。 * 「マスターキィがない? ふむ、それは困ったのう」 アコル・エツケート・サルマはシンテウと使用人たちを疑っていた。 それなら、密室はマスターキィで解決できる。 そして、マスターキィを自由に扱える管理人・使用人はもっとも容疑者として相応しい。 そう思っての推理だったが、 「そもそも、この館が建てられた時からマスターキィのようなものはなかったんじゃないかって。だから、ファンスさんの時も、扉を破らざるを得なかったみたいだね」 「それは、使用人たちにしてみれば大層やりにくいように思うのじゃが」 「不便だと思うよ。でも、室内の掃除やベッドメイクなんかは、その部屋の客が希望したときに、客がいる目の前で行っているんだって。お客さんたちの要望でそうなったみたいだから、彼らにも秘密があるってことかな。勝手に見られたり触られたりしちゃ困るものがある、とか」 おっとりとした早瀬 桂也乃の言は、アコルの推測を裏付けるものにはならなかった。 考え込むアコルの傍らで、桂也乃はメモ帳を繰っている。そこには、これまでに調べたこと、他面子の調査状況などが几帳面にしたためられている。ターミナルで寝惚けていたところを、暇なら手伝えと駆り出されたにしては、やる気は十分のようだ。 ――時おり欠伸をしたり、うとうとしていたり、寝惚けていたりするのも事実だが。 「なんだか、いろいろ錯綜しているね。判らないことだらけだな」 「そうじゃの……ワシは館で死んだ者の霊がおらぬことが不思議での。これでは聞き込みも出来ぬわ」 「そういうのって、普通のことなのかい?」 「まァ……一概には言えぬがのう。惨い方法で死んだからと言って必ずしも霊となり残るとは断言できぬ。幸せなまま死んだとて、霊にならぬとも言えぬ。じゃが……ここまで誰もおらぬのは、はて」 「それって、つまり」 「うむ、暴霊なり犯人なりの思惑ゆえかもしれぬ。霊に余計なことを聴きだされぬよう、即座に追い出すか、もしくは消し去るような結界が張られている可能性は否定できぬのう」 意見を交換しつつ館を歩く。 人々が息を潜めている様子が、ぴりりと張りつめた空気からも伝わってくる。 「桂也乃、お主はどう思う」 アコルが問うと、桂也乃はしばし沈黙し、 「……共通点があるのだと思う」 ぽつり、と答えた。 「館に集められた人たちは、その共通点のために生け贄に選ばれて、しかもここに縛りつけられているんだろうって」 「金銭……ということかの?」 「それ以外にもありそうだよね。お金なんか必要なさそうな人たちまで、どうしても出て行けないんだから。アコルさんのほうは?」 「そうじゃの……館のどこぞに、処刑室に類するものがあるのではないかと思っておる。あの、妙な音は、隠し扉、処刑室が動く音やもしれぬ。寝静まったあと、全員を拘束するか、睡眠薬で連れ出し……と思うておったが、合鍵がないのでは、これは無理じゃのう」 「でも、鍵の問題がクリアできれば、可能ではあるよね。さっきの隠し通路のようなものがどこかにあれば」 まだ、調べるべきことはたくさんある。 必要な情報を整理し合い、ふたりはそれぞれの疑問を解消すべく歩き出す。 ――その時だった。 どこかから、すさまじい悲鳴が聞こえてきたのは。 アコルと桂也乃は顔を見合わせ、それから同時に走り出した。 館が、また、狂おしい重さを伴ってざわざわと騒ぎ始める。 2.機械の哀歌 ヌマブチは誰にも見えない位置で小さな溜息をついた。 それから、首を奇妙に傾け、青黒い痕を残してこと切れているタンユの骸を見下ろす。 美しいモデルは、死してなお美しく、それがむしろ、寒々しかった。 柱時計は黄昏時を示している。 じきに夜が来て、この呪われた館は閉ざされてしまうことだろう。 「空っぽ……で、ありますな……」 独白は誰の耳にも入らない。 「何もない。ここには、何も」 軍服の上から胸を掴む。 ――惨殺死体を見れば、己の内心、情も揺らぐかと思ったのだ。 惨い、あんまりだ、ひどい、哀しい、そういった感情が生まれることを期待してこの依頼を受けた。 同じ人間という大きなカテゴリでくくられた彼らが無残な死を迎えることに対して、何かしらの情動を欲していたヌマブチは、しかし、嫌悪を含めたいかなる情も抱けず、その事実に内心でひどく落胆していた。 空虚だ。 人の皮をかぶり、人のふりをしているが、ヌマブチというヒトモドキの中に、実は人間らしい感情など存在しないのかもしれない。欲することは感情だが、しかしそれは人間以外にも持ち得るものだ。 「だが、義務にかわりはない」 そう、それは義務感にすぎない。 客の生死にも、殺人事件にも、『神』とやらにも、何の感慨も抱けぬヌマブチにとって、受けた以上は解決しなくてはならない、というmustの問題でしかないのだ。 被害者を減らし、邪神とやらの復活がなされる儀式の完遂を防がねばという意識はある。努力せねばとも思っている。 しかし、ひとりでも生き残れば問題ない、という数的思考を排せないのも事実だ。小の犠牲があっても、大多数が助かればいいという思考が常に頭をもたげている。 「……最後まで努めろ、沼淵誠司。それは貴様の理論に過ぎぬ」 低く己を叱咤し、タンユの遺骸を検分する。 特に不自然なところはない。 ――彼女が、大ホールの高い天井から下がる豪奢で巨大なシャンデリアに、いつの間にか下がっていた縄によって、首を吊らされて死んでいたという異様な状況以外には。 「管理人も使用人たちも、客も、それどころか我々も頻繁に行き来していた中、一瞬の空隙を縫うように犯行はなされている。最後にタンユ殿を見たのはカオウェン殿で、それは三十分ほど前だった、と」 状況を整理するためのつぶやきに頷いてみせたのはエク・シュヴァイスだった。彼もまた、鋭い眼で、骸となった女の死に顔を見つめている。 「大ホールが本当に無人だったのはわずかな時間だそうだ。おまけに、あんな高いところへ人を吊り下げたにしちゃ、争ったあともなく、物音もせず、必要な道具を出したり片づけたりしたって様子もない」 複数犯による犯行であれば、痕跡など容易に消去できてしまうのかもしれないが、違和感はぬぐえない。 「“五の聖宝は大地より解き放たれ”……これのことでありますな」 「ああ。いったい誰が、何の目的でやってるんだ?」 「エク殿はどう思われるでありますか」 「正直なところ、暴霊の仕業とは思えない。暴霊はこんな怪文書を残さないだろう。それに……この館に霊力は通ってないんだよな? 生憎、インヤンガイの事情には疎いが……霊力がないところで暴霊云々と言われてもピンと来なくてね」 「ああ、霊力とは我々の感覚で言うところの電力でありますよ」 「なんだ、そうだったのか。しかし、それでも、人為的な何かを感じずにはいられないんだよな」 エクは、今までに判ったことを律儀にメモしているようだった。 「同感であります。紙片を含め、暴霊が引き起こすにしては、あまりにも人間の理に則っている気がする」 「そうだな。ただ……根が深いことに変わりはなさそうだ。十年前にも九人が死んで、今回も同じ数の死を匂わせてやがる。それから『神』……そいつは、いったい何者なんだ?」 少なくとも、そこに性質のよいものの匂いはしない。 いかなる思惑がこれを引き起こしているにせよ、放置すれば必ずよくないことが起きる。 そんな、奇妙なほど強い確信、危惧のようなものは確かにあって、ヒトモドキのヌマブチとて、手を抜くわけにはいかないことが理解できる。 「最初の事件に関しては、シュエランが調べにいってるんだったな。そこで何が起きたか判れば、また変わってくる、か」 「それまで、まずは地道な捜索を続けるべきでありましょうな。何か、決定的な証拠や細工が見つかれば、そこからさらに調査が進むやもしれぬゆえ」 頷き合い、その場をあとにする。 * 「やれやれ……お付霊すら入れんとは、不便じゃのう」 アコルは館内をくまなく這い進み、床や壁に異常な振動、臭いがないかチェックしていた。 しかし、今のところ、大した成果は得られていない。 妙な振動はあるが、どちらかというと、どこからともなく、全体的に響いてくるような印象だ。 「ふむ、いったん戻るか。そろそろ飯が届いておるじゃろう」 いったいいかなる仕掛けがされているのか、アコルがいつも連れているお付霊は館には入れなかったのだ。そのため彼女は、外へアコルの食事を調達に行っている。 ゆったりと床を這い、考えごとをしながら進む。 「やはり……あの、シンテウという男、妙じゃ。彼奴が当主に心酔しておったという建築家だと考えると、辻褄が合うことも多い」 そのほかにも、使用人は客に人生を狂わされたものたちで、復讐のためにここへ来たのではないかとか、実はユンチが犯人で、あの焼け焦げた骸は何かとすり替えたものなのではとか、考え始めるときりがない。 「……まあ、まずは地道な調査じゃて」 仲間たちも、それぞれの視点で探索に精を出している。 アコルもそれに従うのみだ。 * 由良はここへ来たことを早々に後悔していた。 最初は多額の報酬につられて依頼を受けた。 しかし、それが、本格的に面倒くさそうな、身の危険を感じるほど凶悪な事件となれば話は別だ。しかも、事情が入り組んだ複雑怪奇な代物となればなおさらである。 「ムジカのやつがいれば、押し付けられたか。……いや、たぶんどっちにしても碌なことにはならなかったな」 ぶつぶつつぶやきながら、建物内部を撮影して歩く。 調査のためでもあるが、半分は「撮らずにはいられない」衝動のようなものだった。 古ぼけた館には、妙な凄み、荒廃ゆえの美があって、ちょっとした陰影や、家具やカーテン生地の重なりなどが、何とも言えない表情をつくりだすのだ。そういった光景は、たとえ内面に殺人鬼を飼っているにせよ、撮らずにいられるものではなかった。彼は、結局、心底写真家なのだ。 しかし、同時に、彼の脳内は「帰りたい」「巻き込まれたくない」でいっぱいだ。今のところ被害者は客ばかりだが、いつそのいびつな殺意の牙が、使用人や自分たちへ向かないとも限らない。 由良が、少なくともそれなりの真面目さで調査に加わっているのは、ほとんど自己都合、我が身かわいさのみである。 「妙……なのも、事実だが」 カメラのズーム機能を使い、壁のしみや汚れを観察しつつつぶやく。 血痕なら機械による仕掛け、違うのなら湿地帯や地下水源、不安定な立地であることを確認できるかと思ったのだが、どうも様子が違った。 壁には確かに得体のしれないしみがある。 しかし、よくよく見ても、それが何由来であるのか判らないのだ。 「アキが、作為的だと言っていたな……」 食事を摂りに厨房へ寄った際の、料理人ふたりとの――こいつらもたいがい神経が太すぎる、とは由良の偽らざる感想である――会話を思い出し、彼は二階へと脚を向けた。 当主の部屋を捜索するためである。 それは二階の奥まった位置にあり、鍵はかけられていなかったため好きなように見ることが出来た。 建築家がもっとも心血を注いでつくりあげたことが伺える、豪奢だが悪趣味ではないインテリアの、在りし日にはさぞかし美しく映えただろうと思わせる部屋だった。 ただ、ここで若当主本人が暮らした印象はどうしても受けない。 「そもそもこの館は、『主人が住むため』につくられたものなのか」 アキの物言いからも、それをひしひしと感じる。 十年前にも何がしかの惨劇が起きたとして、それもまた人為的に引き起こされたものであるなら、そしてそれが建築家の思惑によるものなら、いかなる仕掛け、仕組みがこの館に施されていたとしてもおかしくはない。 「“雷神の抱擁に震え”、か」 気になることはまだある。 見立てによる殺人を示唆したとして、六番目のそれは、感電死を連想させるものだ。 「なら……どこかに霊力が存在する可能性は高いな。発電機ならぬ、発霊機のようなものがあるのか……?」 ならば、被害者を連れ出すなりなんなりして、巨大な冷凍庫に放り込めばいい話だ。犯行自体は容易になる。 「当主の痕跡と、細工の有無と、あとは隠し部屋、か」 外観から想定される部屋の間取りなどを脳裏に描きつつ、ふかふかとした絨毯を踏みしめて二階を歩く。わざわざ敷き替えたのか、絨毯の風合いはまだ真新しい。 と、辺りをぶらぶらしている夕凪と行き逢った。 「お、由良のおっさん」 「誰がおっさんだ」 悪びれない呼称に溜息をつきつつ、視線だけで何をしていたのか問うと、夕凪は指の動きで部屋をあちこち渡り歩いていたことを説明した。手がかりを探していたらしい。 「ま、特に大したものは見つかんなかったけどな」 はーめんどくせ、と息を吐く。 「出ていけねー事情とかどうでもいーけど、このままじゃどんどん死ぬだろーな。誰だか知らねーけど、ほんと趣味ワリーやつ」 やだやだ、と言わんばかりのそれに同感だと返し、 「あんたはどう思う」 戯れに問うと、夕凪は肩をすくめた。 「暴霊じゃねーなら、あの紙切れに書いてある神? を復活させてーやつがやってて、はじめから客は生贄に決まってたってことだろ? あと、なんにも知らねー生贄の中に、進んで死ぬ信者が混じってるように思える」 「ほう」 「少なくとも祭具、祭壇はそうじゃね?」 「なるほど。だが、その説で行くと、聖宝も供物も怪しく思える。そもそも、生け贄や犠牲とは、本来、非常に名誉なものだったという説もあるが」 「あー、そっか」 由良の指摘に、夕凪が頭を掻く。 「まあでも、全体的に管理人のおっさんが怪しい気はする。情報も状況も、全部あいつから出てるんだもんよ」 「同じ意見だ。だが……証拠がない。密室の謎も残っているしな」 「けど、密室もクソも、もともと部屋に仕掛けがあったと仮定すりゃそんなもん無意味だよな? ただ、細工を動かすには動力が必要だから、霊力の代わりになるもんがあるんじゃねーの、どっかに」 「そうだな。その仕掛けを見つけるのが先決だ」 「やっぱ、もっと徹底的に調べるしかねーな。動力源も含めて。……あの音といい、壁のシミといい、この湿度といい、おれとしちゃ水力を推してーかな。地下にそーいう設備があるんじゃね?」 「地下か……アコルもそんなことを言っていたな。地下に至るための部屋か設備を見つけられればいいんだが」 「だよなー。にしちゃ、あんま怪しいもんは見つからねーし。他の隠し扉も見つかってねーしよー。どんだけ隠すのうまいんだ」 うむむと唸る夕凪を見つつ、由良は、隠しているのか、それとも、そんなものはそもそも存在しないのか、どちらなのだろうと考えていた。あのとき見つかった隠し通路は、客同士の疑心暗鬼を煽るための細工でしかないのかもしれない。 と、その時、目の覚めるような美男子が、絨毯を踏みしめ、廊下を横切って行った。 「お、ススンじゃねーか。ちょっと聞きてーことあんだけどよ」 片手を挙げた夕凪が、むっつりと押し黙ったススンをおそろしく気軽に呼び止めると、ススンがいいともよくないとも言わぬ間に、矢継ぎ早に質問を浴びせかける。 「部屋割りをしたのって誰? あと、三人目までの発見者は?」 「なぜそれを俺に訊く」 「や、疑惑を向けられてるからこそ、犯人だの協力者だのの可能性は低いかなーって。狙われる可能性に関しちゃ知らねーけど」 夕凪があっけらかんと言うと、ススンはひどく嫌そうな顔をしたが、犯人扱いされていないことに気をよくしたのか、質問には答えてくれた。 「部屋はほとんど早い者勝ちだったはずだ。皆、好きな部屋を選んでいた。整備された部屋は我々の客室だけだったから、それほど自由に選べたわけではないだろうが、特に気にするものはいなかった。発見者もばらばらだったぞ。ジピンのときはデウ、タンユのときはディレエン、グウァイウのときはファンスだったか。――もういいか? 気分がすぐれないから、休みたいんだが」 深々とため息をつき、ススンが部屋へ戻っていくのを見送る。 その背中は、妙に疲れて見えた。 ススンの言からは、管理人の怪しさを裏付ける事柄は出てこなかったが、 「……やはり、客は最初から狙われていたんだろうな。部屋が九つしか整備されていなかったということは、客が必ずそこに滞在するということだ。犯人に把握されていると考えていい」 仕掛けがあるにせよ、行動を把握され知らぬ間にコントロールされているにせよ、そこには間違いなく犯人の思惑がある。 「ああ……だが、そうか」 「何が?」 「いや、被害者は自室で死んでいたのに、皆が部屋に戻る意味を考えていた」 「へえ」 「……少なくとも、目の前の誰かに襲われる心配だけはない」 生きている人間のほうが怖い、とは、よく言われることだ。 「疑心暗鬼ってやつか」 「ああ。自己防衛に近――……ん?」 由良の言葉が途切れたのは、前方で、妙な動きをしている人影を見かけたからだ。 それは、あちこちの床や壁に耳をつけ、何かを聞いている川原撫子の姿だった。さらに、金属製の棒で、頻繁に――無心に床を叩いている。 「ねーちゃん、何やってんの?」 夕凪が問うと、撫子はようやくふたりに気づいたように顔を上げ、にっこり笑った。 「空洞がないか確かめてましたぁ」 「空洞?」 「……地下室に関することか」 「そうですぅ。あの妙な音は、大型機械の駆動音じゃないかって思いましてぇ」 「あんたも地下室を疑っているクチか。確かに、あの音は人工的なものである可能性が高いな」 「で、成果は?」 夕凪の重ねての問いに、撫子はそれがですねぇと小首を傾げた。 「あまり芳しくなくてですねぇ。空洞らしい空洞は確認できませんでしたぁ」 「壁や床が、分厚い素材で出来ている、ということだな。こういう館なら、不思議なことでもないか」 握った拳でコツコツと壁を叩いてみる。 壁は、硬い手ごたえを伝えるばかりで、その内側にあるかもしれない『何か』について語ってはくれない。 「私、暴霊の仕業じゃないと思うんですよねぇ。あの音が機械音だと仮定すると、なおさら。機械使うのは人間ですぅ、暴霊はそんなまどろっこしいことしませんからぁ」 「同感だ。暴霊は、おそらく隠れ蓑だろう」 「たぶんですけどぉ、ベッドをそのまま地下に降ろして殺害してるんじゃないでしょうかぁ? だから、殺害手段はもう各人のベッドの階下に仕掛けられてると思いますぅ。ただ、タンユさんの例もありますからぁ、それがすべてじゃないみたいですけどぉ」 一番簡単な回避方法は、部屋で寝ないことだと思ってたんですけど、そうも言えなくなりましたねぇ、と撫子は首を傾げた。 「逆に、館全体が危険だという事実がはっきりしたとも言える。暴霊の介在の有無にかかわらず、この件を企んだなにものかは、よほど九人の犠牲を出して『神』とやらを復活させたいんだろう」 と、不意に館のどこかからざわめきが聞こえ、由良はすわ次の殺人かと身構えたが、どうも違うらしかった。 ヴィエリとシューラ、アキの三人が、何ごとかを話しながらどこかへ消えていく。エクが誰かの部屋をノックするのも見えた。ヌマブチの姿は見えない。アコルと桂也乃は今も地下室や仕掛けを探しているようだ。 「おれはもーちょい隠し部屋でも探してみっかな」 「じゃあ、私はもう少し、殺害現場を調べてみますぅ。由良さんはどうするんですかぁ?」 「……管理人に話を聴いてみる。少し、気になることがある」 判ったことがあったら共有する旨を確認し、別々の方向へと歩き出す。 まだ、糸口は見えてこない。 しかし、何かが動き出したような感覚は確かにあった。 3.生け贄の悲哀 エクはディレエンのもとを訪れていた。 生きている客たちが、なぜこの館から逃げようとしないのか、探りを入れるためだ。 「命より大切なことがあるのか……しかし、それはなんだ?」 当人ではないエクには予測も出来ない。実際に調べてみるほうが早いと判断してのことだった。 ノックすると、ほんの少し扉が開き、ディレエンが顔を覗かせた。 「ああ、あなたですか。何か? ボクは気分がすぐれないので、ひとりにしてもらえると助かるんですが」 言いつつ、ドアを閉めようとする彼の、警戒心をむき出しにした様子にエクは苦笑する。 致しかたないこととも思いつつ、埒が明かないのも確かだと、ドアの間に足を突っ込み、扉が閉まるのを防ぐ。そのまま半ば強引に押し入ろうとしたが、そのとたんディレエンは血相を変えた。品のいい優男は、必死の形相で扉を閉めようと力を込める。 「何をするんだ! まさか……あんたが……!? くそっ、殺されてたまるか!」 そうじゃない、と言う前に、つま先を思い切り蹴飛ばされ、思わず退いたところでドアが閉まる。隙があれば、彼が上着に忍ばせた『何か』を掏り盗ろうとも思っていたが、果たせなかった。 ただでさえ疑心暗鬼に陥っているところで、強引にことを進めようとしたのがよくなかったようだ。 エクは深々とため息をつき、ドア越しに声をかける。 「……悪かったよ。話を聴きたかっただけなんだが……少し、強引すぎたようだ。だが、これだけ教えてくれないか。なぜこの館を知った? なぜここへ来た?」 応えはない。 完全に失敗したか、と、エクが別の方法を模索すべく部屋から離れようとしたところで、 「……招かれたんですよ、ボクたちは。それが誰だかも判らない相手から、有無を言わさずに。たぶん、皆そうだ。だけど、その誰だって信用できない。そういうことです」 硬い声が、エクの疑問に答えてくれる。 「それは……」 問いを重ねようとしたが、 「あの、“天啓の明媚”……あれを見つけるまでは、帰れない。おじい様……もう少し待っていてください、必ず……」 どこか悲壮な決意をにじませた独白を、エクの耳の片隅に届けたあと、もう声は聞こえなくなった。 * 夕凪は隠された部屋や仕掛け、その他の『怪しいもの』を探すことに専念していた。 犯人である可能性の高い管理人や、その共犯者であるかもしれない使用人たちの部屋も積極的に調査した。 彼が持っている透視能力は、強化兵士であるアキのESP能力が不調であるように、あまりうまく発動してくれなかったため、目視による地道な調査が基本である。怪しいと思った場所には触れ、違和感を探った。 その結果判ったのは、少なくとも客室に連なる隠し部屋はひとつしかないこと、使用人たちの部屋に細工がされている様子はないことだった。 管理人の部屋に関しては、ひどく怯えた様子のシンテウから、勝手なことをしたら雇主からお叱りを受けると拒否され、表面上しか調べられていない。 管理人室は、シンプルで機能重視といった印象の小規模な部屋だった。ここでさまざまな記録を取っていたらしく、重厚な造りの本棚には、たくさんの書物や紙類が詰め込まれていた。夕凪が目に出来たのはその程度のことだ。 しかし同時に、管理人の頑なさは、彼への疑惑を強くするものでもあった。 「命がかかってるかもしんねーのに、あそこまで頑なってのも妙な話だよな……?」 一度、隙をついて侵入してやろうと思いつつ進んだ先で、撫子と使用人のカオウェンがふたりでいるところへ行き逢った。 何を話しているのか、カオウェンは困惑顔だ。 「ですからぁ、このままだと名前から実行犯はカオウェンさんと言い張られても文句言えないのでぇ、頑張って自身の無実を証明して下さいぃ」 「名前? 何がでしょうか……?」 「だってぇ、カオウェンって、拷問って意味じゃないですかぁ?」 「ああ……」 悪気のない撫子の様子に、カオウェンが苦笑する。 「それを言ったらデウは毒という意味になりますよ。実際には、得霧と書きますが。ススン様は、獅生と書かれますが、死神という単語と同一ですし。私も、文字そのものは拷紋と書きます。拷という文字は打ち据えるという意味がありますから、もしかしたら、先祖の誰かはそういった仕事をしていたのかもしれません」 丁寧に返されて、さすがの撫子もばつが悪そうな表情をした。 「そうなんですかぁ……ごめんなさい、勘違いでしたぁ」 潔く謝罪し、頭を下げるのへ、カオウェンはいえいえと首を振る。 「探偵のかたがたが、ありとあらゆる角度から調査を行わねばならないことは判ります。どうかこの事件を解決して、私たちが無事に家へ帰れるよう、ご助力ください」 頭を下げられ、撫子が必ず助けますから心配しないでくださいと返すのを視界の隅に見つつ、夕凪は次の部屋を捜索に向かった。 * そのころヌマブチは隙をついてザンリの部屋へ潜入していた。 ザンリは今、女性使用人たちとともに、タンユの死に動転し気分を悪くしたリュイウに付き添っている。 勝手に部屋へ踏み込むことへの罪悪感など存在するはずもなかった。なにせ彼は、人の皮をかぶった、サル目ヒトデナシ科のヌマブチなのだから。 「ふむ……」 手際よく全体的に捜索し、罠や仕掛けなど怪しいものがないか調べたあと、ザンリの持ち物へ移る。ザンリの部屋は、所持品を含めて、当人の性質を伺わせ、きちんと整えられている。 それほど大きくもない旅行鞄から、手帳や身だしなみ用の小物類、着替え、暇つぶし用なのだろうか、難しそうな本を何冊か発掘した辺りで、じじじじじ、と、何かが震えるような音がした。 かすかだったが、錯覚ではない。 「やはり、妙な振動を感じる……これは、霊力ではないのか……?」 霊力が通っていないと言ったのはシンテウだ。 管理人がそう言えば、普通は信じる。 しかし、本当に霊力が通っていないのかどうか、試したものはいない。 発電機があるのでも、水力が使われているのでもなく、『霊力は使えない』という言葉に目をくらまされているだけなのではないか。ヌマブチの結論としては、それだった。 ならば、まずは証拠を見つけるしかあるまい。 思いつつ、鞄の中身を元通りにしようと手を突っ込んだ先で、何かがくしゃりと触れた。 引っ張り出すと、それは手紙だった。封筒も便箋も、何の変哲もない代物だが、 「……なるほど」 中身を確認したヌマブチの唇に、かすかな笑みが浮かんだ。 内容をメモし、手紙をもとの位置に戻す。 部屋を出て、進んだ先で、ファンスが滞在していた部屋の扉があいていることに気づき、踏み込めば、そこではアキが、ザンリの部屋で見たのと同じような手紙を握り締め、視線を落としている。 「アキ殿」 ヌマブチが呼ぶと、気の好い強化兵士はものがなしい笑みを浮かべて彼を見た。 「貴殿も手紙を?」 「も、ってことはあんたもか。……ああ、見た。あの人たちがここから出て行けねぇ理由も判った」 「ファンス殿の理由は何と?」 「ファンスには娘がいるみてぇだ。たちの悪い病気にかかってるらしくて、その治療薬はおそろしく希少なうえにとんでもなく高価なんだと」 「それを餌に、か。ザンリ殿も似たようなものだ。裏切られ没落した一族が理不尽に奪われた、至宝とも呼べる書物群。それが『餌』だった」 「たぶん、みんなそうなんだろうな」 己の命と天秤にかけて、どちらも同じか、もしくはそれよりも重い、そういうもので雁字搦めにして、犠牲者たちをここへおびき寄せた。 「しかし、なぜ彼らだったのか……いや、違うのでしょうな。おそらく、明確な餌があったからこそ、選ばれた。あの使用人たちも同じことでありましょう」 ヌマブチのつぶやきに頷き、アキが拳を握り締める。 「許せねぇとか、俺に言えたクチじゃねぇ。だが……これ以上は駄目だ。絶対に止める」 「……貴殿は熱い男でありますな」 かすかな羨望さえ込めてつぶやく。 その魂の熱、情動がまぶしいと、それが、己が胸の内にあったなら、いったいどんな心地がするものかと、本気で思った。 しかしアキは肩をすくめた。 「違ぇよ。俺にも、そういうもののためなら身の危険を顧みねぇような相棒がいるからだ」 「それを熱いというのでは……? いや、まあ、いい。さらに徹底した調査を行うべきでしょうな。見つけられないのは、存在しないのからなのかもしれないが、同時に探し方が足りない場合もある」 「俺はここのベッドを壊してみる。壁や天井もだ。怒られるかもしれねぇが、まあ、いざとなりゃ弁償するさ」 「では、某はユンチ殿の部屋を。荒っぽいやりかたなら、某どもの仕事でありましょう」 「はは、違いねぇや」 アキが腕まくりをするのを視界の端に見ながら、ヌマブチも同じ行動を取るために出て行く。 がつん、という大きな音が背後から聴こえた。 * 由良はシンテウと話をしていた。 館の図面に関することのほか、シンテウの近況や家族のことを尋ねると、彼は由良へ茶を出してくれ、それらにぽつぽつと答えてくれた。 シンテウは、相変わらず覇気のない、おどおどとした男だったが、しかし同時に、これだけの事件が起きたにしては妙に冷静なようにも思えた。こういうタイプは非常時にしばしばパニックを起こすものだが、怖い怖いと主張しつつも動じているようには見えない。 そう、総じて言えば、どうにも演技めいているのだ、何もかもが。 「はい、それで、妻子を親元へいったん帰らせまして……」 ぼそぼそと事情を話すシンテウをちらと見やり、 「……ホンバオ」 ためしに名を呼んでみる。 しかしシンテウは首を傾げただけだ。 ほんの一瞬、彼の眼を、喜悦に似た光がよぎったような気もするが、完全に捉えられる前にそれは姿を消してしまった。 「どなたですか、それは。……いや、ああ、この館をつくった建築家、でしたか……名前を聴いたことがあるような」 反応はごく普通のものだ。 そこへ、 「そうだ。この辺りに強い力を持つ、凱王家とやらの若当主に心酔していたんだとか。詳しい経緯は知らないが、こんな不気味な事件を引き起こす館の主人だ、どうせ悪趣味な夢想家だったんだろう」 わざと若当主を批判し、シンテウの反応を見る。 「はあ……私には、何とお答えしていいやら判りませんが……」 シンテウの反応は淡々としていて、困惑気味だった。しかしやはり、ほんの一瞬、彼の眼の奥を、マグマのように煮えたぎる激情がよぎったようにも見えた。 間違いない、と、半ば獣じみた直感で確信する。 彼は店をひとつ潰して路頭に迷いかけていた男ではない。何か他の目的があって、名前も身分も偽り、本来の性質を演技で押し隠してここにいる。館に翻弄される哀しい道化者たちではなく、それを愉しむ鑑賞者のがわに属する人間だ。 同時に気味が悪いとも思う。 贄を糧に復活する神など、にわかには信じがたい。 そんな荒唐無稽なもののために他者の人生を操り、人を殺す、その狂信盲信が不気味だと思う。――無論、生理的嫌悪感を引き金に殺人を犯す己のことは完全に棚上げしてのことだが。 * 同じころ、ヴィエリはススンを捕まえていた。 ヴィエリには、彼の怪しさはむしろ、無実の証明ではないかと思えてならない。 隠し通路が他には見つからなかったことも拍車をかけていた。 探し方が悪かった、隠し方が巧みすぎたのではなく、あれはそもそも滞在者同士の疑心暗鬼を誘うための罠ではないかというのが全員の一致した意見となりつつある。 それゆえに、ススンは、犯人役に仕立て上げられかけた被害者という認識だ。 「タンユさんが殺害された時、あなたはどちらへ?」 形式的な問いに、 「……館を歩いていた。詳しくは覚えていない」 ススンは嫌そうな表情で言葉を濁した。 少なくとも普通に話せることはしていなかったのだろうと、 「あなたが不審な様子で大ホールそばの西廊下を歩いていたのを見た、という人がいます」 適当にかまをかける。すると、 「馬鹿な、その時俺は当主の部屋で――……」 「おや、そうだったんですか? なぜ? そこで何を?」 ススンは見事に一本釣りされてくれた。 ヴィエリの微笑みが深くなる。 「取って食べようというのじゃありません。我々は、真実を明らかにしてこれ以上の犠牲を減らしたいだけです」 彼が滔々と説くと、ススンは深々とため息をついた。 観念した……というより、これ以上隠し通す意味もないと判断したのだろう、懐から手紙を取り出し、ヴィエリに突きつける。 「俺の一族は没落した貴族に連なるものだ。俺が事業を成功させたおかげでそれなりの繁栄は戻ったが、一族が命より大切にしていた宝の数々はあちこちに散らばったままだった。それが、ここにあると」 「競争者の存在と、身の危険をほのめかしていますね……なるほど、これでは誰にも心を開けない」 「俺の父も祖父も、曾祖父も、そのまた祖父も、一族を再興させることだけを夢見て懸命に働いてきた。彼らの夢を受け継いだ俺が、引き下がるわけにはいかなかった」 客たちの事情、命を天秤にかけても退けない『何か』を餌にして犠牲をおびき寄せる。そして、妙に手の込んだ方法で殺す。それが『神』をよみがえらせる力になるのだ、と嘯きながら。 薄気味の悪い情動だとヴィエリは思った。 そして、それに選ばれてしまった人々、命に代えてでも成し遂げたい、果たさねばならない、手に入れなくてはならないものを持ってしまった人々を、憐れだともいとしいとも、救わねばとも思うのだ。 * 探偵が戻って来たのは午後十時を過ぎたあたりだった。 かなり遠方まで足を延ばしたらしく、疲れた顔をしている彼を、ヴィエリと由良が出迎えた。 「お疲れさまでした。成果はどうでしたか?」 しかしシュエランはどこか上の空で、 「おい、シュエラン」 由良が呼ぶと、探偵はようやく、何とも言えない表情を向けた。 「どうした。何か判ったのか」 「ああ、いろいろなことが。妙な……そう、妙な、符合が……」 「……どういうことだ。ここの主人とは、いったい?」 「ホンバオ、本来の名を金紅宝(ジン・ホンバオ)という建築家がこの館を捧げた男は、もう死んでいる。正確には、殺された」 「殺された? いつ、だれに、なぜですか」 ヴィエリの矢継ぎ早の問いに、わずかな躊躇いの色を載せたあと、 「若当主の名は、ガイユン。凱雲、と書く。享年二十七歳。――おそらく、数年前、俺の助手が殺した男だ」 事件を知るものが、この場にいるかどうかは判らないが。 そう言って、疑念と不審のにじむ眼を、館の天井へと向ける。 「そして、これが十年前の事件に関する調査書、それから……これは、住民の証言から判ったことなんだが……」 伝えられたその内容は、驚くべきとも、想像通りとも言え、それが意味するものが何なのか、と、由良とヴィエリが顔を見合わせたとき、鋭い声が上がった。 「皆、あったぜ!」 「こちらも、見つけたであります」 アキとヌマブチのものだ。 同時に、ロストナンバー全員に、夕凪からエアメールが入る。 それを受けて、由良がとある提案をし、全員に了承された。 こうして、解決に向けて、『企み』が進む。 これ以上の犠牲者を出さぬために。 4.人喰い館の真実 午後十時。 人々は薄暗い大ホールへと集まっていた。 正確には、呼び出されたのだ。 何ごとかとざわめく人々の前には、シューラと桂也乃の姿がある。 さらに、その隣――ちょうどシャンデリアの真下に当たる位置には、等身大の人形が用意されていて、気づいた者がびくりとなった。 「あの……すみません、これはいったい……」 困惑気味のシンテウが問うと、桂也乃がおっとりとした笑みを浮かべた。 「この事件の犯人が判った」 きっぱりとした物言いに、場がざわめく。 「本当ですか! それは、暴霊ではなく……?」 「そうだよ、ザンリさん。まずは、実際に見てもらおうかな」 シューラが頷いた途端、ヒュッと何かが空を斬る音がした。 シャンデリアの蝋燭しか光源がないため、薄暗い部屋の中ではそれが何なのか確かめるのは難しかったが、 「えっ……」 「あ」 「そんな」 人々は、呆然とそれを見た。 その音が聞こえた瞬間、人形の首ががくんと揺れたかと思うと、身体が空高く跳ねあがったのだ。一瞬あとには、人形が、首を吊られた状態でシャンデリアからぶら下がっている。 「今のは……なんだ?」 信じがたいといった表情のススンは、 「有体に言うと、シャンデリアのパーツの一部分が伸びてきて、人形の首にロープを引っかけながら戻っていった、ってことかな」 シューラの説明にも、眉をひそめるばかりだ。 「はぁ? なんだって?」 実際、その文言だけで、いったい何が起きたか理解することは難しいだろう。 「整理して説明しよう。まずはアキの言、この館の荒廃に作為的なものを感じる、というところから。じっくり調べてみたら、ここ、荒廃どころか傷んですらいないことが判ったんだ」 シューラの拳が、コツコツ、としみの浮いた壁を叩く。 「実際には、館はよく手入れされていた。絨毯が真新しかったの、覚えてるかい? こんなところまで整えて大変だっただろうな、と思っていたら、誰も変えた覚えがないんだって。――つまり」 「この館には頻繁な人の出入りがあった。時々聞こえた声っていうのは、その人たちのものだろうね。おそらくだけど、こういうことの実験をしていたんじゃないだろうか」 シューラの言を継ぎ、桂也乃がシャンデリアからぶら下がる人形を指さす。 「それは、いったい誰が……?」 ディレエンが恐ろしげに人形を見上げ、問うものの、 「うん、それはまたあとで。ひとまず、シュエランさんに調べてもらったところ、十年前に起きた九つの殺人も、今回とまったく同じ内容だったことが判ったんだ」 桂也乃は調子を変えずに説明を続けた。 「つまり、斬死、焼死、凍死、失血死、縊死、感電死、溺死、服毒死、圧死。そのあと何かしらの災厄があって、二十数人が正体不明の死を遂げている。今回の、一連の事件は、十年前から『決められて』いたことなのかもしれない」 「とはいえ実物を見なくちゃ皆さん納得しないだろうし、まずはこちらへどうぞ」 ふたりに誘われ、辿り着いた先は、 「あ、ここは僕の」 医師・ザンリの部屋だ。 中へ踏み込むと、何かが弾けるような、ばちばちという音が聞こえた。 部屋の壁に据え付けられたランプの下で、あちこち焼け焦げた様子に人形がうずくまっている。 「これが、“雷神の抱擁に震え”。ランプの下に立ったらアームが伸びてきて被害者を拘束、電流にすれば一アンペア以上、電圧なら百万ボルト以上が流れ、被害者を死に至らしめる。アームはもちろん、目的を果たしたら引っ込む仕組みだね」 続いて向かった先は、画家・ディレエンの部屋。 据え付けの浴室は、完全に密封され、中で大量の水と人形がぐるぐる回っている。奇妙で不気味な水族館のようだ。 「これが“深き泉に沈み”。お風呂に入るとドアが閉まって出られなくなって、完全密封された室内に注ぎ込まれた水で溺死する仕掛けだね。実際にここで殺人が行われた場合は、朝になったら水は抜かれていていたんじゃないかな」 次は、リュイウの部屋だ。 「これは、ちょっと調べるのに苦労したんだけど。水道に薬剤が仕込まれていたり、飲み物を保管しておく棚に注入用の穴が見つかったり、部屋そのものに有毒ガスを発生させるためと思しき仕掛けがあったり、いろいろなものが見つかった。毒に関しては、隙さえつけばさまざまな犯行が可能だから、仕掛けはここだけじゃないかもしれない」 桂也乃の説明をシューラが引き取る。 「これが“永遠の妙薬を呷り”、だね。ちなみに、薬剤の注入や発生は、すべての部屋をモニタでチェックできるコントロールルームから、スイッチひとつで行えるみたいだった」 「コントロールルーム? そんなものが……?」 「ああ、その説明もあとでするよ。まずは、最後の部屋へどうぞ」 誘われ、ススンの部屋へ踏み込んだ人々は、今まさに天井が開き、そこから恐ろしい勢いで降下してきた、巨大な鉄板状の何かに人形が押しつぶされるさまを目撃した。 「そして、これが“天より鉄槌を叩きつけられる”。仕掛けは、ご覧のとおり」 皆、声もない。 「続いて、ひとつめから四つめまでの補足ですぅ。最初の犯行では、ベッドから伸びたアームが被害者の両手両足を拘束、天井のタイルが開いて電動のこぎりが出現、被害者を真っ二つにしましたぁ」 天井のタイルを壊してみたら、中からこんなものが。 撫子がそう言って、無理やり折り取って来たと思しき巨大な丸ノコを軽々と掲げてみせる。 「二番目は、あの鏡ですぅ。ヌマブチさんが鏡を壊してみたところ、内部に、凹面にかたちづくられた金属のネットが張られていましたぁ。これは、パラボラアンテナと同じ仕組みですぅ」 「パラボラ?」 「そうですぅ。最初は皆、収斂火災を想像していたんですがぁ、それには、壁の向こう側から強い光が射しこまないと不可能なのでぇ」 パラボラアンテナは、電波を凹面の焦点に集め、微弱な電波をキャッチできるようになっている。この鏡をパラボラと考えたときの焦点が、ユンチのベッド上だったというわけだ。 「電磁波を発生させる機械も見つかりましたぁ。パラボラに集束したマイクロウェーブが、その焦点であるユンチさんを瞬時に高温にし、炭化するまで燃焼させたものと思われますぅ」 それは、水分子に働きかけて運動を起こさせ、熱を発生させる、いわゆる電子レンジの仕組みである。 「グウァイウさんは、ベッドそのものが冷凍庫になっていましたぁ。時間になると内部に取り込まれてぇ、急速冷凍されてしまうんですぅ。ベッドを壊したアキさんによるとぉ、内部からはグウァイウさんのものと思われる毛髪などが発見されたそうですぅ」 「ベッドに仕掛け……まさか、ファンスさんも?」 「ザンリさん、ご明察ですぅ。由良さんが、シーツに均等な穴が空いていたのを見つけましてぇ、ベッドを壊してみたところ、中に針山のようなものが内包されていましたぁ。おでこの痕は、開いた天井から板のようなものを押し付けられてついたもののようですぅ」 「上から押さえつけて、動けないようにしたあと、下から貫いたということですか。……惨い」 すべての密室の答えがこれだった。 巧みに疑心暗鬼を誘い、ひとりで部屋に閉じこもるように仕向け、殺していく。 部屋が危ないと見せかけて、室外にもたくさんの罠がしかけられている。 ありとあらゆる手を用いて生け贄を殺すための巨大な狩場、それがこの人喰い館の真実だった。 「見てもらったように、この館は、古ぼけた外見とは裏腹に、とんでもないハイテクの塊だ。センサーで人間を感知しての全自動で、こまかな時間をセットしておけばアリバイづくりにすら使えてしまう優れものだね」 荒廃の大半は見せかけで、内部にはさまざまな死を演出するおどろおどろしい機能が収納されていたというわけだ。 「それは……いったい、だれが」 かすれた声でススンが問う。 これだけの仕掛けをつくり、希少な餌で生け贄たちが逃げられないよう罠を張り、実行に移す。 そこからは、おそるべき妄信、狂信、狂おしいばかりの執着が感じ取れる。 ススンの声に戸惑いと怯えが混じったのも当然のことだった。 「さて、その答えにはまず、これらをすべてモニタで確認でき、こまかな調整を行え、有事の際には手動で機械を動かすコントロールルームの場所を解き明かす必要がある。――夕凪さん、どうぞ?」 桂也乃が呼ぶと、夕凪がひょっこりと顔を覗かせた。 「さきほどまでの仕掛けは、彼が動かしていたんだ。コントロールルームを見つけたのも彼だよ。感想は?」 「おうよ。まあ……びっくりだよな。人は見かけによらねーっていうけど、建物もなのかってしみじみ思った」 飄々と言う夕凪に、それはいったいどこなのかという視線が集中する。 夕凪は肩をすくめた。 「管理人室の、あのでっかい本棚。すっげ判りにくいとこにボタンがあって、それ押したら隠し部屋に入れた。隠し部屋はハイテクのオンパレードでさ、あそこにいりゃ何でも思いのままだろーな」 客と使用人たちの視線が一気に集中する。 シューラが目を細めた。 「ねえ、シンテウさん。――いや、ホンバオさんと言ったほうがいいのかな」 「何のことです? 私には、さっぱり」 シンテウはもう、おどおどしてはいなかった。 うっすらと笑みを浮かべ、いつの間にかぴんと背筋を伸ばしている。 あの、気配の希薄な、冴えない、不幸そうな男の姿は、もうどこにもなかった。同じ野暮ったい服を着ているはずなのに、そこにいるのはもはや、強烈な願望とエネルギーに満ち溢れた、ホンバオという名の建築家だった。 「シュエランさんが調べ直してくれましたよ。本物のシンテウさんは、数か月前に妻子を親元へ行かせたあと、連絡が取れなくなっているって。身元を調べられることを見越して、住民を買収するなどの細工をしていたんですね。――彼を殺して乗っ取ったんですか?」 ヴィエリの言に、シンテウ、否、ホンバオは答えなかったが、否定もしなかった。 「そんなわけであんたの負けだ。おとなしくお縄を頂戴しろ」 夕凪が、撫子が、シューラが桂也乃が、ヴィエリが、一歩踏み出す。 しかし、ホンバオは余裕の表情を崩さない。 「負け?」 むしろ至福の表情とともに、場違いなほどに明るい笑みを浮かべ、 「違う……これからだ。私の願いは成就する」 パッと身を翻した。 驚くべき身のこなしで包囲網を抜け、走り出す。 「逃げる気か! 待て!」 そして、彼の向かった先は。 5.悪意のインク、にじむ アキは神楽の隣で周囲を見渡していた。 暴霊はいないといいながら、何かに気を取られている風情だった神楽の動向が気になって様子を見に行ったのだ。 「……なあ、何があるんだ?」 アキは強い精神感応の力を持つ強化兵士だが、霊魂などというものとは無縁の人間だ。だから、この巫子が見ているものが何なのか、予測もつかない。 問いには答えぬまま、 「――……来るぞ」 神楽がぽつりとつぶやき、指で宙に文字らしきものを書いた。それが光ると同時に同時にギアを構える。弦が音楽を奏でる。それは光る膜になって館を包み込んだ。 「む」 同行のアコルが気合とともに妖術のひとつを発動させ、鬼火で結界をつくりだしたのもほぼ同じだった。 瞬間、激しい衝撃が館を取り囲む空間を揺るがせた。 それは雷が十も二十も一時に落ちたようで、実際に攻撃を受けたわけでもないのに三人ともよろめく。 「なんだ、今のは……!?」 その時、館から複数の人々が走ってくるのが見えた。 管理人室からは由良とヌマブチ、そしてエクが。 玄関からはシンテウの皮を脱ぎ捨てたホンバオを先頭に、それを追うヴィエリたちが。 犯人と探偵が全員集合したところで、もう一度衝撃。 あまりの激しさに全員その場で転倒し、空を見上げ、そして息を飲む。 黒々とした空に、巨大な黄金の眼がふたつ、輝いている。 すさまじいエネルギーを内包していることが判る眼だった。 「あれは、いったい……!?」 「判らん。ただ、ずっと遠くからここを見て、何かを狙っていた。この辺りに霊が存在しないのも、おそらくアレのせいだ」 「もしかして、死んだ人たちの魂を食べた……?」 歪んだ喜悦を浮かべ、黄金の眼が人々を睨めおろす。すさまじい威圧感は、物理的な重ささえ伴って、旅人たちを地面へ磔にする。 しかし、ホンバオだけが歓喜の涙を流しながら立ち上がり、結界の外へふらふらと歩き出した。 「ああ……我が君、我が王、我が神よ。申し訳ございません、すべてを遂げること、叶いませんでした。しかし……」 眼は、傲慢な慈悲を浮かべて瞬いた。 『構わないよ。お前はいいものをたくさん集めてくれたからね。【中】に入ることを許そう。心配ない、足りないぶんも、すぐに集める』 声は、若い男のものだった。 その言葉に、ホンバオが全身を震わせる。それは歓喜の震えだった。 「おい、待て……!」 エクが手を伸ばすが、届かなかった。 彼は結界の外へ転び出て、黄金の双眸へと両手を伸ばす。 「この身すべてを捧げます。あなたが、今度こそ完全なる神となり、この世界を絶大なる力によって破壊してくださいますように……!」 それが、ホンバオの最期の言葉だった。 ぞるん、と蠢いた眼とエネルギーが、ホンバオを包み込み、一瞬で肉を融かし血を啜り骨を齧り、身の内へと収めてしまったからだ。 「な、ん……」 異様な展開に皆が言葉を失う中、眼は一層ぎらぎらと輝き、邪悪な笑みのかたちを取ったのち、 『まだ……もう少し、足りない。もう少し、遊ばなくては』 くすくすと、無邪気ですらある笑い声を響かせてから、唐突に消えた。 圧迫感が消え、結界が消える。 それでようやく、人々は身体を起こすことが出来た。 「……また、何かある、そういうことでありますな」 転がった軍帽を拾い上げ、砂を払いながらヌマブチが溜息をつく。 こうして、奇妙な、収まりの悪い感覚を残しつつも、人喰い館の事件は幕を閉じる。 次なる事件の予兆を、高らかに謳い上げながら。
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