>【桃源鏡】へようこそ>【桃源鏡】は真のあなたを探す手助けをいたします。>変えたい過去はありませんか?>なりたい未来はありませんか?>現実(いま)の自分に不満はありませんか?>そんなものはない? いいえ、あるはずです。>あなたのお言葉をお待ちしております。>さぁ、おいでませ。>【桃源鏡】はあなたの望みを叶えます。◆「今回の依頼は、暴霊の出現条件を確認するための囮捜査のようなもの。――実際に退治する事までは求めないもの。が、必要に応じて各自の判断による行動が要求されうる」 そう言うと、犬の獣人形態をした世界司書アインは、チケットをロストナンバー達に差し出した。 数は、3枚。丁度そこに呼ばれたロストナンバーの数だった。「実はこの暴霊にロストナンバーが関わるのは初めてではない。先だって暴霊に囚われた少年を助けだす事がインヤンガイの探偵に依頼され、その手助けとして5人のロストナンバーに旅立ってもらったことがある。後に二人のロストナンバーに依頼した際には、暴霊と接触に成功するも、今の所そこまでの大した情報は得られていない」 ゆえに、とアインは閉じられたままの予言書を小脇に抱えつつ言葉を重ねる。「私は君達に調査を依頼する」 ここからは私の想像。――そう言って、アインは精一杯に胸を反らして彼の目の前にいるロストナンバー達を見上げる。「暴霊は、必ずしも人を永劫に捕え続ける事を指向してはいないのではないか、と考える。体験した者達の報告を分析するにこの仮説は多分に正しい――そして暴霊が拠点としていた壺中天、つまりは壱番世界でいうインターネットを進歩させた仮想現実空間と思っていただければよいが、その中のサイトは未だ閉鎖されていない」 くりん、とした円らな瞳には、似合わないだけの冷徹な光が今日もきっちり宿っている。「だから君達に依頼したい。暴霊が宿っているであろう彼の場所へ接続し、君達の目と心で、彼の世界を体験してきてもらいたい――そして、可能ならば暴霊を引きずり出す条件を探ってもらいたい。そして暴霊がもし襲撃してくるような事があれば、これに抗してもらいたい。しかし現状では手がかりが殆どないも同然の状況である。ゆえに、囮捜査と表現している」「つまり、捕まらないようにしつつ、捕まりかねない綱渡りをしろ、と?」 こくり、とアインは問いに対して頷く。「不確定な状況、条件、そして今回も予言書に具体的に現れた事象があるわけではない。だが、このまま放置すればまた被害者が出るであろうという、その予言だけはなされた。これを私は重視する」「被害者が出る可能性が高いのなら、否やはない」 そういう声に、アインは微笑みらしきものを浮かべて見せた。「では、よろしくお願いする。――今回は私の判断で、君達三人。先に体験した者達の話やその際の予言書の記述によれば、彼のサイトでは君達は永劫に浸っていたくなるほどの夢を体験することになるだろう。君達の理想とする世界や、かつてやり直したかった過去をその通りにした先の未来など、様々な状況があり得る。誘惑にのりながら、深奥においてそれに抗う意志が必要とされる。そして拠り所となる何かが必要」 向こうではどうすればいい、との質問にアインは頷いて答える。「モウという探偵が機材の提供をしてくれる。忘れないで。今回の目的も暴霊を倒すことではない。あくまでも、入り込み、そこから脱出する過程で彼の暴霊がどのような挙動をするかを探る事が主眼。まずは潜り込み、そして帰ってくることに力を尽くして欲しい。暴霊と接触できなかったとしても、それはそれで一つの事例」◆ ロストナンバー達がモウ&メイ探偵事務所を訪れた丁度その時、メイが気怠そうに事務所から出てきた。「なにカ。あァ、お前達壺中天に入りたい、言ってるらしき人達ネ? モゥが万端整えてるヨ。ただネェ」「……ひょっとして、また何か?」「モウ、靴の中、毒の塗られたの画鋲あるの知らずに踏んづけたネ。さっきまで苦しんでたケド、いましがたお亡くなりヨ。私追悼ディナー行くところ。お前達も行くカ?」 インヤンガイは、今日もいつもどおりのインヤンガイであった。 否、或いはこの探偵事務所だけが「いつも通り」なのかもしれないが。「嘘ネ。ディナーの予約二人分ネ。私で食べる分しかないヨ――事務所は適当に使う、いいヨ」 飄々と去っていくメイの後ろ姿を見、その平然とした行動に、ロストナンバー達は顔を見合わせることしかできなかった。
ッザン…… ザザッ……ザンッ…… 頬に当たる砂の感触。 擦り傷でもできているのか、触れてくる水が沁み、ほのかの心を微睡の淵からゆっくりと引揚げてくる。 「おぉおおい、人倒れとるべぇや、こっちゃこぉ」 すぐ近くで聞こえる人の声。 万力を用いる心地でようやく開いた目に、粗末な草鞋を履いた足が見える。 何人かの足が見え、自分の身体に触れてくるのを感じた頃、再びほのかの意識は闇の中へと落ちて行った。 ‡ ‡ 「くそったれの最後の晩に!」 「ようやく来る俺達の時代に!!」 まだ空は明るく、夜の帳もおりきらぬ中。 村唯一の酒場で高らかに杯が打ち鳴らされた。 「君らひどいなぁ、こんないい男つかまえてくそったれとかどういうことさ」 五人の男が座る円卓で、一人抗議の声を上げるニコ。 「はっ、ぬかせこのボケ。今まで何人女渡り歩いてきやがった? 俺達が狙ってたやつがその中に何人いたと思ってんだこら」 軽く握ったこぶしを頬に押し付けてくる悪友ジョフル。そこに込められた祝福の想いを感じ、頬を歪めながらもへらへらと笑いを浮かべるニコに、正面に座っているトリストラムが詰め寄ってきた。 「てめぇが村の女独占しやがるからよ、俺らぜーんぜんもててこなかったんだぜ。それがお前、とあっさりカリアの奴と結婚たぁ、今にも大嵐が襲ってくるんじゃねぇか、いやいっそそれで世界よ滅びてしまえって村中の女が嘆いてらぁな」 おう、どう責任とるんじゃい。 そういってしかめっ面を作って見せるトリストラムだが、横から伸びる二つの腕に無理やりに笑みを作らされる。 「そーんなこと言っちゃってー」 「『チャンスじゃー!』って喚いてたのはどこのだーれだー」 「ひぇめぇひゃひゃひぇんひゃほは!?」 引っ張られた頬のまま情けない声を上げるトリストラムの様子に、実行犯の二人――アグロとパーシーの兄弟ががけらけらと笑った。 「もー、皆もっと素直に祝福してほしいよねー」 「ほう、してほしいか」 横合いからジョフルがそう問いかけてきた。 「だってほらー僕ってー、今まで働いてこなかったじゃない?」 「おう」 今更いきなり何を言い出すのか。ジョフルが頷きを返せば、ぎゃあぎゃあ喚いていた他三人もぴた、と動きをとめてニコを見る。 「だからほら! 就職祝いを! 是非! 女狩人の奥様の下へ主夫として永久就職さ! やったね!」 「死ね!」 「ちゃんと働け!」 「ああニコだわー」 「うん、ニコだなー」 椅子に片足をのせ、片腕をあげて陶然と宣言する美青年に、正面と横からはジョッキが投げつけられ、兄弟からは称賛と呆れの入り混じった声が投げかけられる。 ドン、と木製のジョッキが5つ、乱暴にテーブルに置かれた。 「俺からの祝いだ、とっとけ」 むっつりとした表情で喧しい五人を睥睨すると、それだけ言って酒場の主はカウンターの向こう側へと歩き去っていく。 「おお! マスター話わかるー!」 「いやきっと娘の貞操が守れた祝いだって」 「ちげぇねぇや」 「えー、まだ諦めてないよ僕?」 「いい加減にしやがれ!!」 普段どおりの喧噪がそこにはあった。 辺境の小さな村。 国境際の街道から少しの位置にあるその村は旅人の行き来こそ豊富だが、それ以外はただの農村とかわらない場所だった。 その農村で生まれ育った、ニコ・ライニオ。生まれてこの方ろくに働くということをせず、ただ女の子と楽しく過ごすことをモットーとする彼――人はろくでなし、と言う――が結婚するというのは、静かなその村にとっては正に椿事だった。 「ま、お前も年貢の納め時ってやつだ」 「……そう、だね。まぁしょうがないから? 喜んで納めてあげるんだー」 「けっ、言ってろ――子供、できたんだろ?」 生まれた頃から年代を同じくし、共に育った五人の青年。 農家、猟師、木工屋に石屋。そしてヒモ。 生きる道も歩む道も違ったけれど、住む場所は同じ。いる場所も一緒。 いつまでも悪戯小僧だった頃と同じように酒を酌み交わしていた友人の言葉に、ニコは照れたように笑った。 「だからってわけじゃないけど、ね――彼女が、僕なら帰る家になってあげてもいいって言ってくれて、僕も彼女と一緒に時を過ごしたいと思ったから」 ちゃんと働かないとねー、何したらいいかなー? 幸せそうに疑問を口の中で転がすニコの頭を、ジョフルが軽く小突く。 「おらよ」 「――うん」 差し出されたジョッキが、打ち鳴らされる音。 宴はまだ、終わりを見せない。 ‡ ‡ 摩天楼、と銘打たれて良い程度には林立するビル群。 そこにはポルシンウラの聖母の村と呼ばれた頃の面影は既になく。 虚構や幻想、野心、狂騒と希望に満ち溢れた魔都として西海岸随一座に君臨しているその都市の名は、ローサンジャラス。 カリフォルニア州随一どころか、全米でも二位に位置するその都市は学術都市、文化都市としての表向きの綺麗さに反比例するかのような闇も背負う。 そんな都市でも、神につながる為の教会は存在していた。 或いはそんな都市だからこそ、と言うべきか。 虚構塗れの現実に。或いは裏切りの銃声を聞く時に。絶望した人々の最期の幻想として、それらの聖所は存在を許されているのかもしれない。 度重なるマフィアの争乱や企業の地上げにおいても手出しされることなく都市の一隅にひっそりと存在するその小さな教会では今、普段酒を出すことを生業としている司祭が、まともな恰好をして壇上に待機している。 そのすぐ下、祭壇に向かう長椅子たちの最前列に足を投げ出して座るのは、まだ幼い少年。 「そうしてるとアンタも立派な司祭様に見えるってもんだな」 からかうように見上げてくる少年に、壮年の牧師も鼻で笑って答える。 「お前らが結婚ねぇ――ま、うちを面倒にまきこまなきゃそれでいいが。それよりもうちょっとマシな服装はなかったのか? そこらのパパラッチでも結婚式にゃあかっこつけるぜ」 てめぇ自身の結婚式なら尚更な。言外に告げられた言葉に、ファルファレロは嫌そうに答えた。 「生憎金がなくってよ。こんな馬鹿げた猿芝居に使う金があるほど、どっかの生臭坊主みてぇに稼いじゃいないのさ」 「言ってくれる――準備できたようだぜ、脇役はさっさとそこに立ちな」 促され、渋々立ち上がったファルファレロ。軋む扉の音に入口へ目を向ければ、「花嫁」が背後から差し込む陽光に照らされつつ姿を現すところだった。 少し膨れたお腹に合わせたドレスは、隣で一緒に歩く年嵩の友人のおさがりに手を入れたもの。 ドレスに施されたカスミ草とフリージアの刺繍。それに合わせた手作りのベールは嬉しそうな表情を隠すに至らない。 無垢の証の白いドレスも。乙女の証のマリアヴェールも。クラリッサ自身が、本当はその資格はないと知りつつ希望したもの。 それはいっそ可笑しくなるほどに自分達に不釣り合いで、ファルファレロは少し口の端を歪めた。 ‡ ‡ ずっしりと頑丈に作られた木の扉を開き、ニコは室内へと滑り込む。 「ただいま、カリア」 「――おかえり。思ったよりは早かったな」 落ち着いた口調で、手を止めず視線だけを向けてくる女性。 忙しく手を動かしていた彼女だが、ニコの顔を見て柔らかな笑みを浮かべる。 「独身最後の晩餐だろう? 朝までかと思ってたんだがな」 や、僕もさすがに結婚式前日にそこまでは……苦笑するニコに、「どうだかな」と肩を竦めてまた作業に戻るカリア。 日の下では蜂蜜色の髪が、今暖炉の火に照らされて淦金色の輝きを見せている。 ほっそりと引き締まった腕を振り上げては台に載せた動物の皮を棒でたたく作業を繰り返す様子を、椅子に座ったニコが、楽しそうに眺めていた。 共に同じ家に住むようになった後は、よくある風景。 「そろそろ遅いし、あんまり根を詰め過ぎるのもよくないよ? お腹の子にも障るでしょ?」 「そう、だな――」 ニコが柔らかな声をなげかけ、それに応じたカリアが手を休ませる。 普段はそれで終わりになるのだが、その日は違っていた。 「どうだ、ニコ。お前がやってみないか?」 悪戯っぽい笑みを浮かべ、そう語り掛けてくるカリアに、ニコが目を丸くした。 「僕がやるの?」 「そろそろ作業を憶えてくれないと、今はいいがもう少しすると本当にこういう作業もできなくなってしまうからな」 食えなくなってもいいなら別にかまわんが、ニコは私と自分の子を飢えさせるのか? 言外に伝えられるその言葉にニコは諸手を上げて降参した。 「わかったよー。明日から頑張る」 「今だ、今。お前の明日からは信用ならないからな」 「んもー、もっと信用してほしいよねー」 どの口がいうんだか、そう苦笑して零すカリアに、「これでいいかな?」と聞きながら道具を振るうニコ。 定期的に室内に響く、高く穏やかな音が響き、暖炉の薪の爆ぜる音がそれに唱和する。 ゆったりと流れる日々の時を象徴する音だと、ニコは思った。 穏やかで、温かな、この時間。 カリアと言葉を交わし、彼女の代わりに木槌を振るい、毛を削いでいく。 いつしか横に座ったカリアが眠りの淵に誘われ、自分の肩にその頭を預けている。 この「今」が、ニコには愛しい。 働くよりも、女性といる時を重ねる方が大事で、その一瞬一瞬を楽しむことが最優先。 その信念には今も変わりはない。 ただ、「女性」全般からカリア「だけ」に変わっただけの事だ。 彼女と二人、この時を重ね、生を積む。 これから先、幾層にも渡る想いと時間が二人の間に積み重ねられていくのだろう。 それだけなのに、こんなにも心が穏やかで、世界が輝いてみえるのは何故だろう。 ――まるで、それが本来はあり得ないものであるかのように、眩しく、嬉しい。 ‡ ‡ 「ほのかさんやぁ、飯んばすんでや」 海面から顔を出したところで、近くの船から声がかけられる。 それに動作だけで頷きを返したほのかが船へ上るのを待って、小さな漁り船は重りを引き上げ、陸へ向かって漕ぎ出された。 「ほんづら、ほのかさんはながーに潜りよぉし、よそから来たんに潮さ慣れるのもはえぇ。大きかぁもんばさよぉ取ってくるしのぉ」 艪を操りながら語り掛けてくる、海女の長老というべき女性の言葉に、「んだなぁ」「ほのかさんいてくれてよかばいなぁ」と、他の娘達からも声がかけらる。 寄せられる好意に、ほのかはどこか戸惑ったような様子を見せながらも、少し頬を赤くして「ありがとうございます……」、とだけ返した。 沖合へ漁に出てくる男衆達は夕刻にしか返ってこないので、海女達は家に帰る事なく、浜辺に建てられた海女小屋で少し遅い昼食に取り掛かった。 みなで持ち寄った芋を火にくべながら、獲物の一部を菜として、四方山話に花を咲かせている。 田舎の漁村でありながら、文字通り漂着したほのかを受け入れてくれる女性たちの明るさ。 それに救われて、当初幽鬼のように感情が虚ろであったほのかも、最近では少しだけ声をたてて笑えるようになっていた。 共に漁に赴くことを許される。 共に同じ場に座り、同じ物を食べ、同じ話題が交わされる――初めての経験は、やがていつもの経験となり。 そうなってなお、心から嬉しい。 「ほのかさんやぁ、そういえば太吉がお前さぁの事好いとぅようだが、どうさね」 囲炉裏の灰をかき混ぜながら、思い出したように問いかけてくるのは話題の主の母。 仮住まいとしてほのかが与えられた小屋からほど近い場所に家を構える一家だった。 「あんたも、行くとこなかばぁだら、こんままァこの村で過ごすのもよかんべ――息子ばぁこう言うのもなんだでどや、歳もちけぇし、話もあうようだかんな、考えてみちゃくんねが」 断ってもいい、けどもし少しでもいいと思うなら。それがあんたの為にもなるだろうから――言外の気遣いが、生来の能力によるものでなしに伝わってくる女の言葉は、唐突なものではあったが、ゆっくりとその暖かさをほのかの心へと沁みいらせてくる。 「はい……えぇ、少し……考えさせてください」 あんたはここにいていいのだ、と。 私達はあんたを受け入れるのだ、と。 壮年の女性の言葉が意味するところは、ほのかがかつて暮らした村で、どれだけ渇えても与えられなかった、人の温もり。 このまま、ここに暮らしていいのだろうか……海神様の下に投げ込まれたはずのこの身を生きながらえさせ、この地にて海に還る事を許されるのだろうか。 それは想像するに、甘美なものがあった。 ふと、視線を外へ向ける。 空気抜きの窓として少し高い位置につくりつけられた窓から見える空。 その遥か遠くから湧いてきた小さく黒い雲が、白く穏やかに塗り込められた空に、濁りを齎そうとしていた。 ‡ ‡ 晴れ渡る空。庭で遊ぶ娘を横目に見ながら、ニコは腰を下ろし、薪を細かく割っていく作業を続けていた。 コン、トーン。 コン、トーン。 コン、トーン。 定期的に響く心地よい音が、耳の横を抜けていく春の風と調和して緩やかな空気を醸し出す。 「あんまり遠くにいっちゃだめだよー?」 はぁい、と舌足らずな声で答える少女の声に満足そうに頷いたニコは、休憩しようと横に置いてあった水筒に手を伸ばす。 妻が要れたカミツレ茶は温くなってもなお爽やかな香りをもたらしてくれる。 その香りに癒され、ふぅ、と一つため息をついたニコの視界に入ったのは――蒼穹。 「何だろうなぁ」 ふと、口をついて出た疑問。地に足をつけ、妻と娘。時々悪友達と。 楽しく穏やかな生活を送っている自分。 この土地で、終生を過ごし、やがて土に還るであろう自分――その自分への違和感が、疑問を切欠に次々と沸き出でる。 何か。そう、何かを忘れているのではないか―― 「ニコ」 背後から、声がかけられた。 弓矢を脇に携え、穏やかな笑みを浮かべる妻が立っているのが容易に想像できる。 そこに浮かんでいる笑みも。 けれど、その声を聴いた瞬間、ニコは思い出していた。 その笑みは、かつて見たもの。 今そこにあるはずの無いもの。 羽を広げ、一つ所に留まる事を許さない永遠の生と不破の性。 異質な運命は人と長い歳月を共に重ねる事を許さず、魅了された人への想いが幾度もの旅へとその心を誘ってきた。 一人の人と、穏やかな歳月を重ねていくこの生はとても愛おしいものだけど。 「カリア」 振り返ったニコの表情に浮かぶのは、泣き笑いのような笑み。 そしてそれはすぐに、ちょっと困ったような、くすぐったそうな笑みへと変わる。 何故なら目前の女性が浮かべていた表情は、「しょうがないな」、と別離の時に肩を竦めて呟いた時と同じ、馬鹿な子供――けれど愛おしい子供を見るような、それだったから。 「しょうがないな」 紡がれる台詞も変わらない。 「まーま!」 走り寄ってきた娘を抱き上げ、カリアはニコに問いを投げかけた。 「共にいることは、やはりできないのか?」 それは、強烈な誘惑だった。 この女性とこの地で、共に終生の時を過ごせたら――たくさんの彼女達と過ごしてきた記憶の中、常に抱いていたその想い。 けれど、これは夢。これは幻。そう、わかってしまっている。 ここに落ち着くことはニコにはできない。 だって、まだ見ぬ人達との出会いが――こんなにも儚く、けれど愛おしいと思わせる人々との時間が、この先の現実にも待っているのだと、わけもなく確信しているから。 だから、この理想の世界はとても眩しく、暖かいのだけれど、安住するのは人に生まれ変わってからのお楽しみかな、と考えて。 「ここに、ずっといる事はできないから……ごめん、ね」 首を傾けて困ったように母娘を見るニコ。 かつて、現実の世界で別離を告げた彼女に、夢の世界で再度お別れの言葉を投げかける。 きっと彼女は言ってくれるだろう。 「しょうがない、な」 ほら、ね。 ‡ ‡ 近くまで来た17歳の花嫁に、13歳の花婿が手を伸ばす。 そっと手をとった花嫁の顔はほんのりと赤らんでおり、司祭に促されるままに、少年の横へその身を置いた。 年端もいかぬ少年少女。本来なら結婚できる年齢ではない彼らだからこそ、この式はお遊び程度の意味しかもたない。 けれど、少女にとっては何よりも大事で、何よりも嬉しい儀式だ。 それは、彼と彼女がこれから平穏な人生を歩むのだという――その一つの区切りとしての意味を持つものだから。 血と硝煙、仮初の愛と欲。 そうしたものを振り払い、真っ当な家族として生きていくという、宣言の場。 ――妊娠したの。 共に暮らして一年が経過したことを祝う席で言われたその一言。 この女になら、鎖の先を渡してもいいかもしれない――少年自身、魔がさしたようにしか思えないその想いが、今日の今を迎えさせた。 司祭の指図に従い、少年は少女の指に指輪を嵌める。 青い石の嵌められたそれは、かつて少年が少女に夜店で買い与えたもの。 新しい物がいいんじゃねぇのかと柄にもなく気を使って問うた少年に対し、少女は「これがいいの」と首を横に振って応えたから、「そんなものか」と頷いた。 自分の指に、急遽用意した安物の指輪が嵌められ、二人の指が、軽く絡められた。 出会った時より細くなった少女のその指で、偽りの青い石が光を放つ。 どちらからともなく解かれる指。 少年は自分よりも背の高い少女のベールをめくり上げた。 そっと身をかがめてくる少女。 ほんの少し、背を伸ばし近づける少年。 わずかずつの協力が、背丈の違う二人の唇を、静かに重ねあわせる。 離れた少女の顔に浮かぶのは、陶然とした心地と、慈愛の入り混じった笑み。 女性でもなく、子供でもない――少女の年頃だけが浮かべられる、過渡期の表情は温かで、普段突っ張っている少年の心を溶かす熱を持っていた。 思わず知らず、小さく微笑んだ少年の穏やかな視線を受けて、少女は笑みを深くする。 「これでやっと家族ができる……貴方に家族をあげられる」 その少女の台詞が耳に入った瞬間に、ファルファレロの表情が固まった。 同時に脳裡で響いたのは、太く力強い男の声。 『お前の血まみれの人生に彼女達を巻きこむな』 ――おい、この情けねぇ顔したくそったれな小僧は誰だ? 穏やかさに満ちようとした黒色の瞳に、底冷えのする光が入り混じった瞬間だった。 ‡ ‡ 「愛してるわファレロ。この子と私と貴方、幸せな家庭を作りましょうね」 そう言って、まだ背の低い自分を抱きしめるクラリッサ。 慈母の如く己を包み込もうとする少女から、ゆっくりと身を離そうとした。 「子供の名前考えたの」 少しだけ空いた空間は、互いの視線を容易に絡ませた。 目前のクラリッサの笑みは深く、表情には愛情が満ち、その瞳には希望が溢れてる。 馬鹿馬鹿しい。 我に返った瞬間、そんな想いが胸を満たす。 どす黒い澱が下っ腹に一気に降り積もった。 こんな反吐出そうに甘ったるい嘘っぱちの飴玉が俺の夢、ずっと欲しかった物? ――Che palle! 「どうかした? ファレロ。――ねぇ、子供の名前考えたの」 ファルファレロの様子を訝しく思いながらも、幸せな未来への希望が勝った少女が言葉を紡ぐ。 そう、あったかもしれない、シアワセナミライ。 ごくごく普通の、平凡な人生。 殺さず、殺されずに済む人生。 もしそんなものがあったとしたら? 自分を抱く温かな腕。 あの時銃を捨て、この手を掴んでいたら? 家族、ぬくもり、安らぎ。 ずっと背を向けて生きてきた。 生まれた時から知らなかった。 なのに今更、この俺に「それ」をくれてやるという。 そう、今更。 「女の子だったら――」 ぼろい教会に、銃声が一つ。 「何を――!」するんだと、最後までいう事なく二度目の銃声とともに司祭は地に伏せた。 「ファレ、ロ?」 純白のドレスの胸に、真っ赤に咲いた一輪の薔薇。 狂おしい熱情は雫となって溢れだし、穢れなき衣装を染め上げる。 ゆっくりと手を伸ばしてくる少女の額に、少年は容赦なくその銃を突きつけた。 冗談じゃねぇ。 少年――否、既に本来の彼の姿となったファルファレロは、高くなった視界の中で、稚い少女の虚像を見下ろす。 俺は何も後悔しちゃいねえ。やりてえようにやって死ぬ、それが俺の人生だ。 なによりも、だ。 「てめぇが笑顔を向ける相手は俺じゃねぇ。パイがお好きなpolizzottoだろ――なぁ、クラリッサ」 祝福の鐘にかわって、決別の銃声が教会に鳴り響いた。 ‡ ‡ 昼を過ぎてしばらく。 不意に湧き出してきた水平線の雲は忽ちにその存在感を強め、昼前までは穏やかだった海を大時化のそれへと変えてしまった。 男衆の船も慌てて沖から帰港したものの、何隻か、いまだに戻ってきていない。 その中には太吉の船も含まれており、太吉の母親と二人、ほのかは船溜まりにほど近い高台で、沖から船が戻ってくるのを今か今かと待ち続けていた。 雨こそまだ降っていないが、海から吹きあがる湿った風が、ほどない豪雨の訪れを予感させている。 わたしのせいだろうか――益体もない考えが、振り払いつづけてなお、心中にこびりつく。 ずっと感じていた違和感。 物心ついてからこの地に来るまでの間、周囲が静かな事も、霊の気配が――声も、姿もだ――存在せず、人の身体を包む命の陽炎を見る事もない。 感情がみえることもなければ、想いを悟ることもない。 違和感を覚えるたびに、忌み嫌われてきた感覚を手放したからこそこの幸せが手に入ったのだろうか……。 そんな想いに囚われる事も度々だった。 そして今日、この地へ落ち着く事を受け入れようとした瞬間に湧き上がったこの嵐。 ――海神様が怒っていらっしゃるのだ。 真っ先にほのかの心中に浮かんだのは、その想い。 だが、それだけではないのだと、ふと気づいた。 この地で、わたしは「異邦」ではあっても「異形」ではなかった。 そんなわたしだからこそ、この地の人々は受け入れ、必要としてくれ、わたしの行いに謝意を抱いてくれたのでしょう。 けれど、あの時。 海神様へ嫁ぐ事に頷いた時。 わたしの中に生まれた一つの想い。 己が身を捧げる事で波が鎮まったならば、村の人達は僅かだけでもわたしに謝意を抱いてくれるのではないか。 そんなささやかな想いを抱いたかつての自分と、今の自分は違うのだと、ほのかは思い出す。 還ろう。 ほのかの中で、自然と思いは固まった。 異形の「わたし」を、そのままで受け入れてくれる人々と地を、今のほのかは持っていた。 己を殺さずとも、受け入れてくれる人々のいるところ。 そしてその夢のような場所は、此処ではないのだ。 誰にも顧みられない場所で生きて行ける程……わたしは強くない。 けれども「わたし」のままのわたしの望みに応え、「わたし」が誰かの喜びになることができる。 「わたし」という存在を、肯定してくれる……故郷では終ぞ望んでも得られなかったこと。 だから、還るの……。 もう、海女の仲間達の声は何か幕を隔てたものであるかのように、遠くに聞こえるものでしかなかった。 ひた、ひたと海へ向かい浜を歩く。 静かに、その身を水に沈めていき……やがて、その全てを、水の世界へと預けきった頃――意識もまた、沈んでいく。 その狭間。 ……あなたも、そうなの? だから……ここにいるの? 海中に沈んでいく中で、知らず問うたその声に応えるものはいない。 ただ、面白そうにくすくすと微笑む声が聞こえてくるのみだった。
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