「鼻血はもう大丈夫ですか」「君も言うようになったな」 白髭園長は複雑な顔でそっと鼻を押さえた。「いきなり飛び退られるとは思っていなかったからね」「ちょっと近過ぎましたか。英里ちゃんに似てましたね」「……そうだな」 経理担当のことばに、白髭園長は窓の外へ視線を投げる。「生きていれば、今頃は孫が居たかな」 この遊園地には、観覧車、ジェットコースター、回転木馬、お化け屋敷、ミラーメイズ、コーヒーカップ、バイキング、ゴーカート、射的場、チェーンタワー……他に食堂、売店、花壇に囲まれた噴水がある。トイレも4カ所、休憩のためのベンチは20カ所、チケット売り場も各ブースの他に2カ所、入ってすぐのイベント会場ではキャラクター・ショーや手品、アクロバットなども見せていた。交通手段も駅から5分、バス停留所から3分と悪くない。 だが、ここはもう閉園が決まってしまった。 現在は、これまで当地で営業してきたお礼を込めて、残り時間を存分に楽しんでもらおうと、一日に一つ、アトラクションを無料にしている。「それにしても、驚きましたね」 経理担当は机に積み上げた紙を示す。「『エンド・オーヴァー』の職員から、こんなに延長希望が届くとは」「ああ、先日の無料開放は、いつもと違っていたと皆が話しているそうだな」「脅かしていてわくわくしていた……楽しかった……夢中になった……こんなやり方もあったのかと気づいた……一体感があった」 経理担当が一枚ずつ読み上げる。様々な用紙に書かれたそれは、お化け屋敷で働いていた職員達のコメントだ。 正直なところ、『エンド・オーヴァー』はぼつぼつ時代遅れになっていた。特別なシナリオがあるわけでもなし、最近のミッション型と言われる工夫があるわけでもない。昔ながらのウォークスルータイプ、しかも脅かし方もそれぞれに任され、だらだらやり続ける職員も居て、遊園地の中でも一番最初に閉じることを考えていたぐらいだ。 だが、先日の無料開放では何が違ったのか、職員達は是非もうしばらく続けたいと熱望していると言う。「こんなのもあります……恐怖の原点を見つめ直し、新たなイベントを作り上げていきたい」「うーむ」 閉園はもう決まっていることだ。なのに、ここで新たな試みを始めるのは役員達も納得しないかも知れない。だが。「……いいだろう」「は?」「望むだけ、やらせてやってくれ」 私も実は夢中だったよ。 白髭園長は小さく吐息をついた。「まるで違う世界に紛れ込んだようだった。英里や達夫や……瑞穂にも、会えるような気がした」「……園長」「いいじゃないか。ここが閉園したとしても、ここで培ったものを持って、彼らが他の遊園地で活躍するのなら……そうだ、それもまた、面白いじゃないか」 白髭園長は微笑む。「新しい試みがあるなら、是非企画してくれと伝えてくれ。資金は私が何とかしよう、何、この先は老人一人の暮らしだ、何とでもなる」「……わかりました、園長」 経理担当が笑み返す。「ところで、先日の『エンド・オーヴァー』には、液体のように姿を変える吸血鬼や牛そっくりの狼男、金属の鎧をつけたフランケンシュタインや胸に蜘蛛の刺青をいれたフランケンシュタインが居たそうですが……園長が雇われたんですか?」「いや、私は君が雇ったと思っていた……ひょっとすると、本当に別世界のものが紛れ込んでいたのかも知れないな」 くすりと笑った白髭園長は、一つ頷いた。「では次は『ミラーメイズ』を無料開放することにしよう」「……もしかしたら、奇跡が起こるかも知れないですね」 経理担当が瞳を翳らせて続けた。「英里ちゃんや、達夫くんの姿が見えるかも」「だから、私も参加するさ」 白髭園長は真面目な顔で振り向いた。「チケットを支払い、『ミラーメイズ』の樹々と柱の間をくぐり抜けて、見事『ドラゴンズ・ウィング』を捜し出してみせようじゃないか」 君も協力してくれるかね。「勿論です、園長」 天才迷路デザイナー、エイドリアン・フィッシャー氏を驚かせるようなイベントにしましょう。 経理担当は意気込んだ。「皆さん、いろいろとお疲れ様です」 鳴海はぺこりと頭を下げた。「世界の命運について悩まれている方、帰属を考えておられる方、いろいろおられると思います。館長からも皆さんのお疲れを少しでも減らせるようなことを考えて欲しいと言われてまして……」 先日から時々お願いしている依頼ですが、と微笑む。「壱番世界の、閉園間近の遊園地です。閉園までの時間を楽しんで頂こうと、一日に1つ、アトラクションを無料にしています。今回は『ミラーメイズ』だそうです。お知り合い同士、あるいはお一人ででも如何でしょうか」 今回はゆっくりご滞在頂けますよ。「開園早々から閉園までです」 どうぞ、楽しんで来て下さい、と鳴海はチケットを差し出した。
祝、初遊園地! 周囲を輝く金色の瞳で見回しながら、ナウラは誰も見ていないのを見計らって、やったぁ、と小さく飛び上がる。いろいろなアトラクションが一杯ある。『ミラーメイズ』以外にも入ってみたいものあるし、乗ってみたいものもある。惜しいなあ。笑う人々も行き交う。これだけの設備を管理し、しかも楽しませてくれるなんて凄い。興奮に思わず笑みが零れる。 疲れた時のために売店で飴を購入した。ゴミもきちんと持ち帰ろうと小袋準備、よし。 「さあ、みんなで元気にドラゴンズ・ウイング探しましょぉ☆ 大丈夫、もし答えが分からなかったらみんなとノートで相談すればいいですぅ☆ そのためにみんなで来てるんですからぁ☆」 川原 撫子はセクタンロボットフォームを抱え、他にもバスケットに、プリン、蜜柑味の鼠型菓子パン、冷たいお茶、レジャーシートを完備。プリンはゼロの好物だったし、ナウラも甘い物は好きだと聞いたし、ノラは蜜柑が好きだと聞いた。 『ミラーメイズ』だけではなく、遊園地の中も見て回るだろうし、好天気に恵まれている。熱中症にならないようにお茶をする時間ぐらいはあるだろう。せっかく遊ぶなら最後まで元気にゆっくり遊びたい。 バスケットの中を覗き込んで、うっわぁと嬉しそうな声を上げるナウラに微笑む。 「竜の羽ってユーウォンさんの羽に似てるんでしょぉかぁ☆」 壱番世界の謎かけだと異世界の皆には分からないかもしれない。けれど、答えを教えてしまうのはルール違反だし、楽しさが半減してしまう。答えを直接教えるのではなく、分かりやすいヒントにして役に立ちたい。皆で羽根を持ち帰りたい。 でも、実は1番賢くて皆の役に立つのはゼロちゃんだろうなぁ☆ ちらりと見やった真っ白な少女は渡された緑色のカードを見つめ、久々に見る真面目な顔で『ミラーメイズ』に入り込んでいく。 「後からお茶しましょうねぇ☆」 声をかけて撫子はチケットを渡し、黄色いカードをもらった。 「私の謎は…ふぇっ?」 思わず頓狂な声を出してしまったのは、書かれている内容のせいだ。 『拾い上げた掌の中にある』 「どういうことでしょぉかぁ……落ちてるんでしょぉかぁ★」 そんなもんどうやって探せというんじゃ。 口をへの字に曲げたものの、気を取り直して両手の拳をがっちりと握る。 「探し出すまで帰りませんからぁ☆」 ところで、ナウラちゃんは何ですかぁ☆と覗き込むと、ナウラのは赤いカードにこう書かれている。 『すぐ目の前にずっとある』 「何だか似たりよったりですねぇ☆」 一緒にいきましょぉかぁ、と二人で入るすぐ前を、茶トラ模様の毛並みと、藤色の瞳を持つ猫獣人、二本の尻尾を紫のジャケットの後ろでくねらせたノラ・グースが入っていく。渡されたのは青いカード、書かれているのは『星を見上げて立ち止まれ』。 『ミラーメイズ』の中を覗き込んだとたん、現れた沢山の自分に感嘆する。 「はーうー、ノラがいっぱいなのですー。ノラがいっぱいってことは、猫又さんがいっぱいなのです」 ……でもノラはやっぱり一匹なのです。 一瞬怯んだように見えたが、すぐに胸を張り、力強く『ミラーメイズ』の中へと歩き出す。 「ふふん、ノラはれーてつなのです、迷ったりなんてしないのでーす」 強がっているのがよくわかる。両肩を怒らせ、肘を張った後ろ姿にナウラと撫子はくすりと笑う。 その数分後、早くもノラはどっぷり迷い込み、困惑していた。 「あうあう、迷子なのですー。ノラがいっぱいで目が回るのですー」 人が一人通れるぐらいの通路の両側も鏡、出たホールも鏡で、幾つか通路が繋がっていたようだが、とにかくえいや、とまっすぐに突進して、いきなり鼻をぶつけた。 「Σにゃっ!?」 ならばこっちか、と右へ進んで通り抜けられたのもつかの間、右から来た誰かを避けようとして左の鏡にごつん。出て来た誰かが自分だったと気づいて、その隣へ擦り抜けようとしたら、作り物の樹々が枝を差し伸べているその通路は実は後ろの通路が映った鏡でごつん。思ったより中が薄暗いというのも禍いしている。遠くできらきら輝きながら動いていく光、あれが『虹色バタフライ』、そう見遣ってまたもやごつん。 「いっぱいのノラさんは、小さな羽根さんがどこだかわかりますかー?」 半泣きになって立ち止まり、周囲を見回すと、周囲からもノラがあらゆる角度から見返してくる。 「むむむ、たくさんのノラさんもわからないみたいなのです。ええと、ええと、困ったときは左の法則なのですー。ずっと、ずーっと左に曲がっていけば、いつか羽根さん見っけなのですー!」 それは迷路の抜け方であって、羽根の見つけ方ではないんじゃないか、そう突っ込む仲間は今のところノラの周囲にはいない。進んではごつん。あっちでごつん。こっちでもごつん。覆い被さってくるような樹々の枝を見上げているうちに、へたへたと座り込む。 「ふひー、疲れたのですー。小さな羽根さん、見つからないのです、困りました」 カードのヒントは『星を見上げて立ち止まれ』だが、そもそも頭上には木の枝を模したオブジェか、奇妙な形の幾つか吊り下がった実か、そういうものしかなく。 「ヒントさんは、羽根さんのある場所、分かりますかー?」 誰もいないのを良い事にごろごろ寝転がって溜め息をついた矢先、ぱぱぱあっと視界を緑や青の光が覆った。 「私が沢山いる!」 ナウラは興奮しながらどんどん奥へ進む。六角形に組まれた部屋や通路、ちょうど角角に配置された模造の樹々が太く豊かな枝を広げ頭上を覆う形、枝の間からは色とりどりの実が吊り下がっており、幾つかは中身が開けられ口が開いているようだ。時折、迷った人のためだろうか、レリーフの施された小さな石のベンチがあったから、頑張っているね、とねぎらってきた。 入って少しして、『虹色バタフライ』を見かけ、思わず追いかけてきてしまって撫子とはぐれてしまった。心細い反面、何だか少し楽しい気もする。たった一人というのではなく、同じように『ミラーメイズ』を楽しむ人も居て、安心する。 ふ、とこちらには誰もいないのに、正面の鏡を過る姿を何度か見た。小さな男の子の姿だったり、母親と手を繋いでいる少女だったり。けれど振り返っても覗き込んでも姿がない。人ではないのかも知れない。感知する能力はないけれど、過去に訪れた人々の思い出のようなものが残っているのかも知れないと思う。 「でも、怖くないよね」 それはきっと優しい思い出だろうし、楽しい記憶だろうし、つまりは愛情だろうし。 「さて……どういうところに隠されているのかな」 ヒントは『すぐ目の前にずっとある』。お年寄りや子供も見つけられ、持ち運びできるサイズの筈。高すぎる場所には無い? ちら、と視界の端を『虹色バタフライ』らしいきらきらした光が通り過ぎていく。我慢我慢。またついていったら、どんどんわからなくなっちゃうから。 「鳥の巣とか……鳥の人形とか。柱の裏とか、枝葉の中とか……んー、ないか」 確かに雛の模型が数羽入っている巣はあって、そこから、あったー!と紫の三角形のものを取り出している人は居た。聞いてみると、『ドラゴンズ・ウィング』はカードと同じ色らしい。とすると、ナウラの見つける『ドラゴンズ・ウィング』は赤いはず。 「こっちはさっき通ったし…じゃあ、こっち、おっと、鏡か!」 ぶつかりかけて身を翻し、持参の小石を置き直す。通過場所の目印、後で回収するつもりだ。 「ん、あれ……あんなところにも何かある」 見上げた鏡の隅、振り返ってみたが下からではよく見えない。正面の鏡でようやく見つけられる枝の隙間に、小箱が置かれてある。 「赤い…!」 どきんとして位置をもう一度確認する。あんなところ、あると知っていなければ見つけられないだろう。振り向いて、どうやって取ればいいんだろうと樹木のオブジェを回り込んで呆れてしまった。小さな階段が足下にある。そういえば、さっきこの階段を見た。たった三段ほど、何に使うんだろうと思っただけで通り過ぎてしまった。 「よい、しょ…っ」 階段を上がり、手を伸ばせば、確かに取れる。小箱は動かないが、中に掌程度の大きさの、つるりとした感触のものがある。 「ん……暗くてよく見えな……!」 突然灯ったのは青や緑の光。樹々の枝に釣り下がる実の間に灯って、ナウラの掌の中を明るく照らす。 薄い陶器のかけらのような半透明の赤い塊。裏返すとぎざぎざした鱗のようなものが刻まれている。 「見つけた! 『ドラゴンズ・ウィング』!…わっ!」 階段を下りようとして踏み外し、お尻をしたたか打った。 「おやおや、大丈夫かな」 すぐ側にやってきた初老の男が手を差し伸べてくれる。 「はい、大丈夫です、すみません」 「ああ、見つけたんだね、『ドラゴンズ・ウィング』」 「あ、じゃあやっぱりこれなんですね! やったあっ」 飛び上がって喜ぶナウラに、白髭の男はにこにこと笑い返す。 「よかったねえ。私はまだ見つからないよ」 「あ、そうなんだ……疲れていませんか? 飴、どうぞ」 「ああ、ありがとう」 一息つくか、と側のベンチに腰を降ろした相手の隣に、ナウラも座る。 「ずいぶん探し回ったんだがね……おかげでへとへとだ」 「ヒントは何ですか?」 男の手を覗き込むと、真っ白なカードに『あの角でなくしてしまったはず』とある。 「うーん、これは難しいや」 「だろう?」 もぐもぐと口を動かしながら、男は溜め息まじりに首を振る。 「この歳になると、なくさなかったものの方が少ない。どこかの角にあるんだということはわかるが、こんな状態で角も何もあったもんじゃない」 男はうんざりした顔で迷路に向かって片手を振る。 「ですよねー」 笑ってナウラも飴を口に放り込む。 「私も結構偶然見つけたって感じだから」 「こんなヒントらしくないヒントを出した奴はとっちめないとな」 「あ、そんなこと駄目ですよ」 ナウラは慌てて首を振る。 「私、凄く楽しんでるし、ここだって、ほら、凄く綺麗じゃないですか」 鏡が向き合い無数の道を作り出す世界をくるくると見渡す。他にも人が一杯いるはずだろうに、今ここにはナウラと男しかいないような奇妙な静けさを感じる。 「こんな場所、現実だったらなかなか味わえない。ヒントが悪くたって、ここでしばらくのんびりできるってことだから、それを楽しめばいいし」 けど、あの角、って言うんだからきっと、一度通り過ぎたかしてるんですよ。 「ここは迷路だろう? カードのヒントは誰が当たるかわからない。なのに、あの角なんて特定できないだろう」 「あ、でも一つだけ、皆が通る角がありますよ」 入り口を入ってすぐの、迷路に入り込む、あの角。 くすくす笑いながら教えると、男ははっとしたように瞬いた。 「そういえば、そこに真っ白なゴミ箱があったな!」 「ゴミ箱に捨てちゃってたってことですか。ひどいなあ」 笑ったナウラは男がふいと黙り込むのに口を噤んだ。 「あの…ごめんなさい、笑い過ぎました」 「いや……その通りだと思ってね。私は……思い出をゴミ箱に捨ててきたんだな」 「思い出を?」 「……昔、妻と二人の子どもを事故でなくしてね」 男は苦笑した。 「仕事仕事で遊園地に連れてくるという約束一つ、守らなかった。事故で失って、子ども達がどれほど私との約束を待ちこがれていたのか、知ってね」 静かな深い溜め息をついた。 「遊園地を作ったことで、逃げていたんだな」 一緒に遊んで欲しいというのが、あの子達の願いだっただろうに。 「失うまで……踏み込もうとしなかった」 「………でも」 ナウラは思わず口を開く。 「でも、今こうやって『ミラーメイズ』に入ってるもの! 探してるもの、『ドラゴンズ・ウィング』を!」 私、一緒に探そうか。 勢いよく立ち上がるナウラに男は首を振った。 「いや、ありがとう。時間がかかっても自分で探すことにしよう。……ああ、そうだ、あそこに私の仲間がいるよ」 ひょいと指差した先の男が、今しもがつんと鏡にぶつかって、初老の男が吹き出す。 「おいおい、派手だな」「……園長、こんな……」 駆け寄りかけた相手が棒を呑んだように立ち止まって目を見開く。 「その、人は」 「……お客さまだよ、さあ、私達も行こうか」 ありがとう、君、と初老の男は振り返って微笑んだ。 「楽しんでくれたまえ、本日は無料開放だ。何度でも、君の願いを探しに行くといい」 その赤い羽根は、君の情熱へのご褒美だ。 「どこまでも、ゼロなのです」 ターミナルでも有名な真っ白な少女は、いつものように誰かと同行したり、会話することもなく、次々と通路から通路へ、部屋から部屋へと歩き続けている。 鏡はゼロを映す。 映したゼロを、また鏡が映す。 角からひょいと覗き込むと、大きく枝を広げた模造の樹々の森から、ひょいと覗いたゼロの姿が見返してくる。角度を少し変えれば、その奥にただひたすらに延々と覗き込むゼロの姿がある。その横の鏡にゼロが映っている。覗き込むゼロとややずれて、けれども同じように延々と奥のほうまでゼロが続いて行く。 再び考えながら歩き出す。 今までターミナルでいろいろな依頼に参加し、神託の夢の中の経験を重ね、ギアの制限に触れたり越えたりする極端な巨大化を繰り返した。その結果、今では、ゼロの故郷の世界は単純な真空等ではないことを知っている。 ギアはゼロの巨大化を制限している。 ならば、故郷世界ではゼロはずっと巨大化していたのだろう。というより、何に邪魔されることなく、ただひたすらに巨大化し、まどろみ続ける存在がゼロだったのだろう。 つまり、ゼロは『外観的なもの以外にも時空間の次元数、概念的、内的、其の他様々な意味で常に矛盾を超え一瞬毎に絶対無限を超える増大率で巨大化し続けている』のだろう。 だからそのゼロを納めるためには、そのゼロを限りなく内包し続ける空間、カントールの絶対無限を超える増大率でゼロを包み続けるべく、あらゆる意味において広がり続ける空間であったのだろう。 再び鏡の通路を覗き込む。ゼロが並ぶ。一人のゼロに対して見返してくる果てしない数のゼロ。 もらったカードは緑色、『証明し難い次の世界への切符』というヒントを改めて見下ろす。 ある世界を超えるものは、その世界の公理においては証明できない。 ゼロはまどろみ続けていた。世界はそのゼロを内包し続けていた。 そこにどれほどの狂いもずれもなかったものを、あるとき、まどろみの中に、ゼロでないモノが存在するかも知れないという思考が浮かんだ。 微かな揺らぎ。 けれども、広がり続ける世界を破りかねない、巨大な波。 揺らぎは増し続けた。思索を深める中、やがて異世界群の存在する可能性がイメージされてくる。以前ターミナルで『わすれもの屋』に作ってもらった謎物体、人間に判るように翻訳するとああいうものか。 けれど、その可能性をイメージした時、それはゼロと故郷の世界の関係性が大きく転換する時でもあった。 ゼロは覚醒する。 「ゼロと…ゼロでないモノと」 周囲の鏡をゆっくりと見回す。模造の樹々の間に立つのは真っ白な少女だけだ。 「ゼロでないモノ」 周囲を見回すと、樹の根本に幾重にも重なり合った根っこの籠のような造形があった。そこに小さな鳥の巣と、中に作り付けられた緑の卵が一つある。卵には留め金がついているようだ。 ゼロは手を伸ばし、卵の留め金を開けた。 中に入っていたのは、蝙蝠の羽根を一部引きむしったような形の、鱗のようなものが浮き彫りされた、半透明の緑の塊。 「……見つけたのです」 瞬間、ゼロの脳裏に理解が広がった。 故郷は既にないのだ。 覚醒時、ゼロを包み続ける寝袋のようであった世界は、ゼロが世界の中に入れるまで自らを縮小・圧縮している力でもある「他を傷つけない力」となったのだ。 ゼロは『ドラゴンズ・ウィング』をしっかり握って立ち上がった。 さて、出口はどこだろう。 「……」 鏡に映るたくさんの自分を眺め、ノラはしょんぼりと尾をたれる。 やっぱり、一匹は寂しいのです。 ずっとずっと、皆さんと一緒に居たいのです。 でもでもそれは、ノラの、ノラだけのわがままだって、分かってるのです。 わがままだって分かってても、やっぱり皆さんと一緒がいいのです。 やっぱり皆さんと一緒がいいのですが、皆さんは元のおうちがあるのです。 胸の中で谺する、小さな本音。 「……やっぱり、ぐるぐるなのです。小さな羽根さん、ノラはどうしたらいいですか?」 星を見上げて立ち止まれ。 立ち止まるどころか、もう疲れ切って座り込んでしまった。 ついさっき、ベンチの下に落ちている黄色の実を見つけた。たまたま落ちていたのではなくて、ちゃんと床に作り付けられていた細工もの、留め金がついていてたから、何か入っているのだろうと開けてみたが、暗くてよく見えず、指先で弾いてしまってどこかへ消えた。 ひょっとしたらあれがそうだったのかも知れない。 なのに、どこかへ行ってしまった。 「羽根さんも、出口さんも、見つからないのです……」 このあたりもかなり何度もぐるぐるしている気がするけれど、それはひょっとするとあちこちでぶつけ続けたおでこのせいかも知れない。頭をさすりながらベンチにもたれて、ついうとうとしてきてしまう。 その矢先、朗らかな声が響いた。 「どうしましたぁ? お手伝い要りますぅ?」 「未来より過去が見えちゃう気がするのは…何ででしょぉ」 撫子はぽくぽくと『ミラーメイズ』を歩きながら、だんだん俯く。 見つめるのは掌、さっきから鏡を見ては過去のことばかり思い出して、何だか苦しくなって辛くなってきてしまった。 本当は未来や夢を映してほしいのに。 子どもの頃、『ミラーメイズ』は動物園にもあった。 初めて挑戦した時は、出口の親の姿を見て駆け出して、思い切り透明な仕切りにぶつかって、たんこぶを作った。 今も同じことをしているだろうか。 出口が見つかったと思い込んで、そこに大事な人を見つけて、まっすぐ一目散に駆け寄って、その実、辿らなくてはならない道のりに気づかず、一人したたかに見えない壁にぶつかってしまっているのだろうか。 「コタロさん…私、ボタン掛け違ってませんよねぇ?」 ほんの少しだけ声が湿った。 バスケットの中のおやつを思い出す。 『ミラーメイズ』から出たら、皆で一息ついて、おやつを食べよう。 今はこうしてばらばらだけど、あんなことがあった、こんなことがあったと話をしたり聞いたりするのも、また楽しいことだから。 今はこうして一人だけれど、お互いに違う経験を重ねているだけだと思おう。再び出逢った時に、飛び切り楽しくて面白い話をこの体に詰め込もう。 「うん……あ、ノラちゃん、見つけましたぁ☆」 疲れ果ててしまったのだろう、壁際のベンチに座るのではなく、その前にへたりこんでもたれかかっているノラに駆け寄る。 「どうしましたぁ? お手伝い要りますぅ?」 「……」 返事がない。まるで屍のようだ。 「違う違うぅ☆」 急いでしゃがみ込み、抱え起こすと、相手はくうくうと寝息をたてている。ほかほかに温まった体、なるほどお休みモードか。 「起きるまで、ちょっとこうしていましょぉか☆」 抱き上げて、ベンチに座ってふかふか膨らんだ毛並みを撫でて、揺れる尻尾に手を止める。 「あれ? ノラちゃん、何をくっつけて……あ☆」 尻尾の一本に引っ掛かったものをそっと取り外して気づいた。黄色の半透明の塊、平で三角形で表側(裏側?)に鱗のようなものが彫り込まれている。 「ひょっとしてぇ、これが『ドラゴンズ・ウイング』ですかぁ☆」 けれど、一体ノラちゃんは、これをどこでくっつけてきたんでしょぉか、と周囲を見回し、ベンチの下に作り付けられた木の実の容器に気がつく。 「なるほどぉ…『拾い上げた掌の中にある』ですかぁ☆」 でもそうすると、ノラちゃんの『ドラゴンズ・ウイング』はどこだろう、と撫子は首を捻った。どうも、ノラはかなりあちこち探し回った気配だし、今までに怪しそうな容器なり何なりは一通りあたってきたけれど、青い『ドラゴンズ・ウイング』はなかった。 「ノラちゃん? ノラちゃん、起きて下さい☆」 可哀想だと思ったけれど、実はこのもう少しで迷路は終わるのだ。『ドラゴンズ・ウイング』を手に入れたのかどうか、確認しておかなくてはならない。 「はぁい……あ、おはようございます、川原さん」 「おはようございますぅ…じゃないですって☆ もうすぐ迷路終わりですよぉ☆ 『ドラゴンズ・ウイング』は見つかりましたかぁ?」 「それが……」 見る見る青い瞳に涙が溜まった。 「ぜんぜん見つかりません。ノラはやっぱり一匹ではだめなのですー」 「泣かないで下さい、一緒に探しましょぉ☆ ヒントはこれですかぁ☆」 『星空を見上げて立ち止まる』。 撫子は膝から滑り降りたノラに、そういえば、と振り返った。 「さっき通った通路、他のところと違って、天井に枝が伸びていなくて綺麗な星空でしたよぉ☆ 他にもあるかも知れませんが、試してみる価値はありますぅ☆」 「…はい!」 立ち上がった撫子に、ノラがいそいそと付いてくる。と、そこへちょうどナウラがやってきた。 「で、ここの通路を……あ、川原さん、グースさん! 良かった、『ドラゴンズ・ウイング』は見つかった?」 「私は見つけましたぁ☆」 「ノラがまだです……」 「じゃ、一緒に探そう!」 ナウラもかなりあちらこちらと回ってきたのだけど、確かに星空になっているのはここの部分だけだと言う。 「じゃあ、ますますここが怪しい☆」 「見上げるってことは、天井か、その近くにあるってことかな」 ナウラは目を凝らしつつ、通路を行きつ戻りつする。このあたりは白いライトも混じっているから、星空を模した天井が逆に薄暗くてよく見えない。 「待って」 ナウラはぐうん、と体を伸ばした。天井を這うように確認していく。 「ないなあ…」 下から見上げる撫子とノラ、通路の向こうにゼロが現れた。手に緑の『ドラゴンズ・ウィング』を持っているのを見てほっとしたとたん、そのゼロの後ろにある道標のような立て札に気がついた。こちらの通路へ曲がり込んでくると、あの立て札は死角になる。けれども、『星空』を見上げて見下ろせば、ちょうど視界に入るのではないか。 「ひょっとして」「あの立て札、何が書いてあったんでしょぉか☆」 ナウラと同時に撫子も気づいた。ノラと三人、立て札に駆け寄る。ゼロが振り向き、立て札を覗き込む横から、撫子が読み上げる。 「針路よし、一旦休憩」 小さな青い箱がついている。開いてみると、そこに真っ青な半透明の塊、他の者と同じ『ドラゴンズ・ウィング』だ。 「ありました!」 ノラが跳ね上がって喜ぶのに、残り三人も思わず微笑んだ。 「ありがとうございました。これが『幸運のことば』です。またのおいでをお待ち致しております」 『ミラーメイズ』の出口で、四人は『ドラゴンズ・ウィング』とヒントのカードを差し出し、それぞれに『幸運のことば』を受け取った。 「私はぁ……『力よりもタイミング』……うぐ」 何だか複雑ですぅ、と撫子。 「ノラは『同じ時間を過ごすことが楽しい』です。うん、そうでした」 にこにこ笑うノラ・グース。 「ゼロは『お誕生日おめでとう』なのです」 再び何か考え込むようなゼロを気遣わしげに見て、ナウラははにかんで笑いながら頷く。 「私は『あなたの願いを支える』、うん、わかる気がする!」 ああ、楽しかったなあ! 皆さん、遊園地さん、有難う! 本当はまた来たい!! 胸一杯に溢れた喜び、感想と労りと感謝と閉園を惜しむ気持ちを紙にみっちり綴ったナウラは、帰る間際に事務室にまで届けに行くのだが、そこで誰と会うのか、今はまだ知らない。 「じゃあ、皆さん、一度おやつにしましょぉか☆」 「わーい!」「おやつ!」「おやつなのです!」 芝生に向かう一行を、出口で一人一人に『幸運のことば』を渡していた経理担当が、微笑んで見送っていた。
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