其にかけられたるは孤独の蠱毒。 配されたのは複数の人の欠片達。 寄り集まれば一体になるが、しかして其れは別の身体。 欠けたところを埋めたいと願う互いの念。 複数の暴霊は、己の身体を求めて訪問者を襲うだろう。 数多の暴霊を生み出して、それらを蠱毒に招き込み。 やがて孤独へ至るだろう。 死にきることもできぬまま。 既に術者もおらぬまま。 年の終わりと始まりを迎えたインヤンガイのとある街区。 程々に栄えている中層階級の町並みの中、一軒の廃屋同然とかしたホテルの前に、モウが一人立っている。「これが例のホテルか――さて、鬼が出るか、蛇が出るか……」 それはモウ&メイ探偵事務所に持ち込まれた依頼だった。 始まったのは五年ほど前。 当時この界隈でもっとも客層がよく、テナントも多数入っていたアミューズメントホテルだったこの建物に、怪異現象が起きだすようになったのだ。 深夜。昼間。朝。 時間を問わず、人が消える。 消えた者は、少しすれば見つかるのが通例だった。 しかし身体の一部が奪われた姿となり、息はとうに絶えた姿となってのことだ。 必然、人はいなくなる。 当然、オーナー側も手をこまねいていたわけではない。 幾度も暴霊、あるいは呪いを防ぐ術を持つ人間達を投入してきた。 だが仕掛けがわからない。故に、後手にまわり、死出の旅路を余儀なくされてきた。 幾重にも仕掛けられたその呪の仕組みが知れる頃、テナントは消え、人は寄り付かなくなり、物件としての価値は地に落ちた。 オーナーは無数の違約金の支払いに終われ、借金に塗れて首を吊る。 残されたビルは次々と変わっていったがホワイトナイトは現れず、人は皆、これが地上げなどを目的とせず、ただ恨みによる呪詛であろうと考えた。 しかるべき業を背負ったものが、しかるべき罰を与えられ、死んでいった。 それだけのこと。 ただ、それだけのこと。 そして恐るべきはそこからだった。 呪は目的を無したならば、本来はそこで収束する。 それは、一流の呪術師であればあるほど、当然至極の術だった。 術は呪う対象を限定することでこそ、初めてそのポテンシャルを最大限に発揮するのだから。 しかしこの呪は終わらない。 欠けた身体をよこせと声は言う。 共に苦しめと声は言う。 興味本位で立ち入った者らに襲うのは、そのものが最も恐れる物事、あるいは最も愛する者、あるいは最も欠けたる物。 仮初の姿を取る呪に囚われたが最期、立ち入った者は深淵の闇に引きずり込まれ、屍となって出てくることだろう。 新たな呪の礎とされた、その後に。 時は少し過ぎて、こちらはモウ&メイ探偵事務所。 要請を受けたロストナンバー達が事務所を訪うと、事務机に置かれている資料と、一枚のメモが一行を待っていた。『ロストナンバー達相変わらず遅いネ。モウは初心で純粋で白無垢なオトメの口では言えナイところが欠けて発見されたヨ。ミミズがまるっと行方不明ね。ロストナンバー達、きちんと資料に目を通して行くがいいネ。解決されることを期待してるヨ。であるからして私はさっさと万華楼の満漢全席コースを食べに行ってくるネ。帰ってくるまでに解決しておくがいいね、それでも奢らないけどネー』 ……突っ込みどころしかないメモをくしゃ、とつぶしながら、一行は渡された資料を手にするのだった。=========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>ほのか(cetr4711)永光 瑞貴(cesa1307)アキ・ニエメラ(cuyc4448)相沢 優(ctcn6216)=========
「できっかな?」 楽しげな笑みを湛えてと問いかけるのは、まだ線の細い少年、永光瑞貴。 「まぁなんとかなるだろう、任せてくれていいぜ」 応じたのはアキ・ニエメラだった。 アキの持つテレパシーで全員に精神的リンクを構築し、たとえ幻術世界に取り込まれても他参加者と会話することが可能にならないか。 その相談に対する応答は明確なもの。 だが、それには全員の同意が必要だった。 「優、ほのか、お前らはどうなんだ?」 精神的なリンクといっても本格的なそれを作るつもりはない。 アキを基点にある種のゲート的な形でつながりをつけておくことで、呼びかけや、それに応じることはできるだろう。 ただ、何かの拍子で完全なシンクロを起こす可能性は否定できない。その場合、心の奥、見られたくないものを見られる可能性もあった。 「俺は大丈夫――万が一の為の手段は、多い方がいいしね」 少し古めいた刀を腰に下げた青年、優はそう応じたものの、傍らに立つ色白の女は逡巡する様子をみせた。 「わたしは……わたしの力のせいで、もしかしたら容易に感情や思考を読み取れてしまうかも……皆様がそれでもよろしければ……」 静かな口調でそう告げてくるほのか。その深海の色のように昏い瞳を向けられ問いかけられた三人は一度顔を見合わせ、次いでアキが軽く肩を竦める。 「俺は構わないさ。俺だってその気になればできるし、そこはお互い様で信頼しあうしかないからな」 「そそ、やれることはやっとかないとってね。それにおれ見られて恥ずかしいことなんて……あるような気もするけど、でもま、そん時はそん時で」 「俺も大丈夫。ほのかさんなら、まぁきっとだいじょうぶだろうって気もするし」 瑞貴が明るく笑って応じれば、優もまた頷いてほのかを見やった。 しばしの沈黙。 それもすぐに打ち消され、「では、お願いします」とほのかはアキへ頭をさげて見せた。 「……ま、提案しててなんだけど、おれ、きっと手一杯で助ける余裕なさそうだな」 そんな様子を眺めながら、瑞貴が小さく独りごちる。 「大丈夫、その時はその時。お互いどうにかしよう」 そう言って、軽く瑞貴の背を叩くのは優。 さ、行こう――そう促す優の言葉とともに、一行は目の前にそびえ立つホテルの敷地内へと足を踏み入れた。 ‡ 「すげぇ……」 ホテル内に渦巻く雑多な暴霊の数々に、瑞貴が思わず言葉を漏らす。 「呪詛の核を探してあげたいのだけれど、これではどこが元になっているのか、わからないわ」 非力そうな身に似つかわしくない大ぶりの鶴橋を担いだほのかが言えば、アキと優も困ったな、という風情で頷いて。 「もう少し少なければ、念を辿って核のある場所を探せるのかもしれませんのに……」 頬に手をあて、無尽蔵に訴えかけてくる暴霊達の言葉に眉をひそめるほのか。 眉をひそめる理由は単純に、目的を達成するにあたっての邪魔な障害物であるという、其の一事によるものだった。 「なら、ひとまずはおれの出番かな?」 ほのかの言葉を受け、不敵なほほ笑みとともに二対の扇子を取り出した瑞貴。 正面玄関ホール――最早荒れ果てて往時の様子は留めていないが、その広さは瑞貴がその舞を披露するには十分なもの。 「建物全体ってなるとちょっと広いけど、ま、どうにかなんだろ」 それぞれ青龍と朱雀が描かれた一対の法術具を開き、瑞貴が見守る3人から少し離れた場所――中央階段を目の前にしたホールの中心へと歩を進めた。 その気配に気づいたのだろう。 ホール内に充満していた無秩序に浮遊していた暴霊のいくつかが、瑞貴へ向かって急降下を試みる。 憑依しようとしたのか、或いは何らかの気配を感じて先手をうちに来たか。 それは瑞貴の放った指弾によって撃ち落とされた。 「邪魔すんなって」 爪に彩られた緋色の紅が生み出した炎が、力の弱い暴霊達を浄化の炎で包み込む。 先陣をきったものがあえなく撃ち落された事で、ホールを舞う暴霊の唸りが一層増していくが、瑞貴がそれを気にする様子は微塵もない。 惹かれるように、他の区画に屯っていたらしい暴霊達も其の姿を見せ始めた。 侵入者たる者達への敵意と、己と同じ立場へ引き摺り込みたいという妄執が絡み合った無数の思念が一行の身体に物理的な影響さえ及ぼし始める。 それでも尚、光に愛されし神子は余裕を崩すことがない。 自身の周囲にギアより放たれた蝶を舞わせ、自らもまた扇を開く。 「渡りの舞師、永光瑞貴――ひと差し献じて仕る」 ‡ 伴奏もなく、鳴り物もないはずの空間に、鈴鳴りの音が響き始めるような錯覚を優は覚えた。 優の目に映る瑞貴の所作は滑らかなもの。 ゆったりとした動の中に一瞬の静を置き、周囲を乱舞するギアの蝶の羽ばたきも相まって、彼の周囲には不思議な空間が形成されていく。 「なんて綺麗で……強い気……」 ぽつりと優の側でほのかが漏らせば、アキもまた思うところがあるのか、小さく頷いて。 瑞貴の舞は法術を用いる際に舞われるもの。 それは手で織りなす印と同様の効果を持ち、なおかつそれ以上に効率的に彼の身に備わった力を運用できるものだとは当人の弁。 構成された術式は、いつしか一対の扇子の動きに応じ、限定された空間の中で幾重も重ねられた力を織り成した。 舞い踊る瑞貴。その無防備な肢体を奪わんと襲い来る暴霊達は、事前に配された五色の蝶が燃やし、雷を浴びせ、水流により弾き飛ばす。 「――結」 小さいながらも、凛として響く、その声。 舞の動きが収束へ向かうその瞬間、ホテル全体を包み込む。 「浄」 強い耳鳴りが襲い来る錯覚を覚え、優達は思わず耳を抑える――だが、それと同時にホテル内に充満していた雑多な気配が、粗方消え去っていた。 ふぅ、と息をついた瑞貴が三人に振り返って笑う。 「これで雑多な奴らは大体浄化できたんじゃねぇかな」 その笑みに、優もまたつられて笑みを浮かべ、そして拍手した。 凄いな――そう優が言いかけた瞬間、建物が、大きく揺れた。 ‡ 「アキ――いっしょにきてくれないか」 ――最も恐ろしいのは相棒に憎まれたり見限られたり軽蔑されたりすること。 ――最も愛する者は家族としての相棒。 ――最も欠けている者は、俺にないものを全部持ってるって意味で相棒。 アキを襲う、驚愕。 これが、現実ではなく幻術によるものだと理解するまでの時間はきっとそれほど長い時間ではなかったはずだ。 それでも、アキの身体には無数の傷が走り、穴が穿たれている。 目の前の人物の手には丈夫そうなワイヤー。その先端は錐形の器物が攻撃の要を担う。 アキより少しばかり背の低い20代前半の青年。耳には無数のピアス。左の目尻にある蓮華の刺青までそのままで、相変わらずの無表情でアキの姿を見据えていた。 発した言葉は端的なもの。自身と同じ位置までアキを引きずり込もうとする意思の発露、ただそれだけのもの。 応える事をせずに相棒の姿を睨み続けるアキに、再びその青年が手繰るワイヤーが迫ってきた。 「ちっ!」 すんでの所で、横合いに飛び退きそれを避ける――脇をすり抜けて行ったその錘が、所有者の僅かな手の動きで反転し、背後より襲い掛かってくるのを感じ取る。 振り向く暇すら与えてくれない。 間一髪、首を数十センチずらして避けるものの、そのままワイヤーが首を締めにくる。 それは数十秒の戦い。 それでも、無数のESP能力を有する二人の勝負だったが、特殊な能力は一切使われていない――否、使えないというのが正しかった。 だからこそ、アキは気づいたともいえるだろう。 今彼を襲う錐によって付けられた傷も、穿たれた傷も、電気により焼かれた皮膚もそのままであることの違和感に。 彼が本来持つ特殊能力の内の一つ、超回復、それが働いていないことに。 「ったく、あっさり幻術に引きずり込まれるだけならまだしも、それに気づくまでに時間かかりすぎだろうが」 それだけ、相棒と見ている人物が自身を見る目に宿る感情に、衝撃をうけたのかもしれない。 目に宿る、憎悪と侮蔑。 それはきっと、術の核とされた暴霊が、術者に抱く想いなのだろう。 機械的に操られ、ぼそぼそと何かをしゃべりながら攻撃してくる目の前の相棒の姿をしたものの有り様に。 何故そうなった――その感覚が先に来てしまい、アキは思わずアキ自身への攻撃を甘んじて受けるという時を、十数秒もつくりだしてしまったのだった。 そんな自分を省みると呆れるしかなく、自嘲の笑みを浮かべるアキ。だがその表情はそこはかとなく、楽しげとでも言うべき感情を含んでいる。 相棒の姿に衝撃を受ける自分。 どんな姿であれ敵意をもって向かってきているというのに、思わずその攻撃を受けてしまう自分。 相棒と再開した時――そう、その時もこの世界だった――相棒が暴霊につけこまれ、己の記憶を疑った事を思い出す。 その翌日に、プラットホームで言った言葉も。 「ここは戦場じゃないんだ」 そう告げた時のことを思い出す。 その後ベッドで眠る相棒に燃やされたことも。 寝ぼけた相棒の様子に笑みを零した時と、近い感情を今正に覚えていた。 「俺は、弱くなった」 そう言って、ワイヤーを操る相棒の姿をした者へと語りかける。 繰り出される攻撃は、最早当たることはない。 「でも、断然、今の俺の方がいい。今の俺を貴ぶからには、突き付けられるもんは全部受け止めなきゃ、贅沢すぎて罰が当たるってもんだ」 弱くなったからこそ、油断もする。 相棒の姿に同様もする。 それでもその全てを受け入れる。 それが、弱くなることの代価。あのくそったれな戦場を離れてえた安らぎの代価。 「そう思えば、この傷も、まぁしょうがないかって気になる、かな」 呪詛に縛られた主の姿に浮かぶ想いは、憐憫。 かつての自分達と同じように、戦う事――この場合は、人を傷つける事を強要される、手駒としてだけの意味しか持たない存在。 「このまま縛り付けられ続けるなんて、気の毒すぎる。自分に置き換えたってぞっとする」 目の前の存在を倒すための手段を取るべく行動に移そうとした瞬間、出鼻を挫くように、アキの頭に流れ込んでくる声があった。 ホテルに入る前につくった、精神のリンクを辿って届けられた、少年の声。 「ったく――任せたはないだろ、任せたは」 苦笑するように言いながら、軽く首をひねり、アキは襲い来る攻撃を再度避けた。 そして、相手に向かい、一歩足を踏み出して。 「俺は現実を確信できる。だから、お前を倒すことだって躊躇わねぇ」 行使されるのは、先ほどまで一切使えなかったはずの特異能力――これは現実の場ではないが、己は現実である。彼の悟性が、力の行使を可能とした。 「止まれ」 相手の時を静止させる、その異能。 止まったことさえ理解してはいないだろう。 敵意をむき出しにしてワイヤーを操ろうとした『主』の頭に、アキの手が置かれた。 「このまま倒してもいいんだけどさ――その前に、術のこと、しらべさせてもらうぜ」 それだけを言いおき、アキは力を行使した。 術の成り立ちを暴き、核の位置をさぐるべく。 同時に、未だ幻術にとらわれかけているらしき青年へとエールを送りながら。 楽しそうに静かな笑い声を響かせる女性の想いに触れながら。 彼は、術式の仕組みを暴き出す。 ‡ ――任せたはないだろ。 苦笑したような声が脳裏に響き、瑞貴も思わず苦笑する。 「うん、まぁ確かに『ない』よな……」 そう呟きながら、彼は目の前の――否、視線的にはかなり上にむけないといけない位置にいる人物へと目を向けた。 数十段の階段を隔てた先にある玉座に端座し、己を見下ろす女性へと。 「お久しぶりです、陛下。ご健勝そうで何よりでございます」 軽く手を合わせ叩頭する瑞貴の口調は、いつもの彼とは異なるもの。 涼やかで線の細い彼がそうした話し方をすると、本物の少女にしか見えない。 正面に対する女性の存在が、彼をそうさせた。 姫としての生き様を自身に強いた事は恐れにつながり、しかし同時に至上の女王たる存在の為、敬愛してやまぬ人物。 母子でありながら、その愛情はなく、触れ合いも深い深い溝の中に封じ込められていた、その女性。 最初に「主」が見せる幻術の話を聞いた瞬間に、真っ先に思い浮かんだのが彼女だった。 きっとそうだろう、と予想しながら、それでも外れてほしいと密かに期待していた。 精神的なリンクをつくらないかと提案したのも、もし彼女だった時の為だった。 何故なら――彼女の姿をとった時点で、自分は両手をあげて降参するだろうと、わかりきってしまっていたから。 「わたくしに抗しますか?」 見下ろし、問うて来る絶対者の声。 瑞貴の故郷、慶輝国の女王にして、彼の母たるものの声。 その声に、己の中の彼女のイメージはやはりあの時のままなのだと、瑞貴は思う。 そしてゆっくり、頭を横に振る。 彼女が本物だとは微塵も考えてはいない。 それでも、だ。 この女王を弑する事がこの術式を破壊するために必要だというのならば、それだけは、決してできないことだった。 女王を恐れる心も、その愛情を欲する心も、いずれ自分の中で、けりを付けなければならないことで、それは彼女と再度相対し、やりとりをすることでしかつけられないものだと思うから。 だから、この遭遇に、意味はない。 「陛下、今の貴方は私の心から生み出された幻にすぎません。ゆえに、どんなに言葉を重ねようとも真の貴方に届かず意味を成しません」 本物と向きあわなければ、どんな意思表明も、どんな抗弁も、意味はない。その信念が紡がせる言葉。 そして、それと矛盾する感情もまた、存在する。 「しかし、幻であろうとも陛下に、母上に手を上げることは致しません。それを成せば私は後悔します。そして、それは術師の呪いが、私の心に付け入る隙となることでしょう」 故に、と彼は再び叩頭し、言上する。 「私は陛下に一切手出しを致しません。もし陛下が私を殺したいと思し召しでしたら、力ずくで為されませ。私はもう何もできぬ幼子ではありません。意に添わぬ隷属を強いられるのであれば、その御心へ全力で刃向かうことといたしますゆえ、御覚悟を」 上げた顔に浮かぶ笑みは、今の瑞貴の笑み。 不敵で、目の前の障害に挑むことを楽しまんとする少年の笑み。 同時に女王が、手にしていた扇子を鳴らした。 途端、強烈な風の刃が襲い来る。 「くっ――!」 咄嗟に翳した一対の扇子で織りなす障壁が、どうにかそれを受け流す。 背後の壁が上げた轟音から想像できるその威力――怖くて見る気にもなれない――に、冷や汗一つ、背筋を伝う。 法術で織り成した光の結界が、いつまで持つかはわからない。 けれども、此処から先の長い戦いを瑞貴は耐えるしか無かった。 手を出さぬ、己でそう定めた戒律を守るべく。 だから心中で、他の仲間に再び語りかける。 御免、おれ無理だから、皆頑張って! ――非常に自分勝手だという意識はあったものの、だってしょうがないしーと割り切るだけの強さを身に着けていたことが、それを可能と為さしめた。 ‡ はじめに襲ってきたのは、絶望だった。 ――優! 両親が。幼馴染が。0世界ではじめてあった友人達が、最期に彼の名を叫び、死んでいく。 突発的なチャイ=ブレの目覚めと、それに伴う世界樹の能力を加味した壱番世界への侵食により、次々と無数のディラックの落とし子達が、壱番世界に侵入した。 天変地異と、それに伴う広汎な被害を引き起こすそれらの厄災に、優が抗う術はない。 地震による倒壊で下敷きになった友人が目の前で鼓動をとめるのを目にし打ちひしがれ、どこかの国が打ち上げたミサイルが雨のように降り注ぐ光景を、映画のスクリーンを眺めるかのように呆然と眺めていた。 そのどれも、優にどうにかできるレベルのものではない。 覚醒して、トラベルギアも得て、何度かの訓練と実戦を経て、心身ともにそれ以前に比べたら強くなった――はずだった。 けれど、それは優一人ではどうにもできない事象の連なり。 世界の崩壊は、優が望むと望まざるとに関わらず今目の前にあり、優に対して選択肢を与えてくれはしない。 それでも優は今必死に逃げていた。その手に握っているのは、女性の手。 かつて幼い頃からずっと側にいて、一度離れたものの、つい先年、ようやく再会することのできた、幼馴染の手だった。 「優、御免――私もう……!」 どれだけ走っていたのだろう。楓が、呼吸と足が限界だと訴えかけてくる。 「もう少し、もう少しだから頑張れ――!」 優自身、限界が近づいているのを感じていた。 倒壊し、燃えるビル群の間を、足を縺れさせる幼馴染をどうにか引っ張って走り抜けていく。 もう少し、もう少しで安全な場所に。 「楓、ほら着いた、ぞ……?」 喜びの声をあげようとした時、ドン、という大きな音が、優の声を遮った。 振り返った優の視界に入ったのは、人の十数倍はあろうかと思える質量を持った、黒い影の塊だった。 先ほどの音は、その影がこの場に降り立った音なのだろう――でも、楓はどこへ? 手は、握ったままだった。 その手は、ゆらりと揺れていた。 手首から少し先、肘の前。 そこで、切断された腕から流れるだした血が、優のズボンの生地を赤黒く染め上げていく。 目の前で捕食する音を立て、うねる黒い影。 その口中にあって最早悲鳴さえ上げることのない有機物が、先ほどまで会話していた幼馴染だなど――信じたくなかった。 急速に視界が黒く染まっていく。 現実と虚構が綯交ぜになった世界――そう心中で気づいていたが、同時に気づいた事がある。 この光景の根源にある、心中の不安。 己が何をどう足掻こうとも、一度崩壊が始まってしまえば、止めることができないのではないかという、不安。 そう考えた瞬間、絶望が心を支配した。自身の心に忍び入る暴霊に抗うことができない。 その為の気力が――湧いてこない。 否応なく揺り起こされる過去の思い出が、それを許さない。 仲違いし、傷つけ、そのまま姿を消した幼馴染との別離。審問にかけられた綾の姿。死を予感しながらニーズヘッグへと吶喊していった灰人。 どれもこれも、優の手では、救えないままだった。 ――どうせ誰も救えない。そんな貴方を、必要とする者などいやしない。私達だけが、貴方を必要としているの。 暴霊の言葉が、優しく心を包み込む。 何故ここにいるのか。当初の目的さえも忘れさせられそうになるなかで――不意に、胸が熱くなる。 闇に閉ざされた世界、その中で浮かび上がった輪郭は――竜の少年から貰った角。 冴え冴えとしたその光が、闇に引き摺り込まれそうだった優の心に、一筋の糸をなげかける。 貴方の歩んできた道は、そんなにも無意味なものだったのか、と。 『……優』 訥々と呼びかけてくるしだりの声が、聞こえたような気がした。 『優なら、きっと大丈夫……信じてる』 そう語りかけてくるしだりの声と共に、いくつもの声が脳裏に蘇る。 『そう思ってくれた時点で、僕はもう孤独ではないのだがね』 優の言葉に、少しの笑みとともにかけられた言葉。 『お前は、お前の道を行け。望むまま、思うまま。心のままに、進みゃいい――そんで怪我して転げまわって、それでもいつかは立ち上がれ』 頭に置かれた師の手の大きさが蘇る。 『これから何が起きても、ユウがそれを乗り越えられて……ユウの願いが叶いますように』 頬に触れた彼女の手の暖かさ。 いつもよりも、優しげに響いたその声が、脳裏に谺する。 きっと駄目で、何をやっても無駄で――そんな弱い心が、ゆっくりと払拭されていくのを感じる。 壱番世界を守りたい。 沸々と想いが湧いてくる。 やる前から諦めてしまえば、何事も成せはしない。わかっていたはずなのに、こうもあっさり囚われる。 隙を見せるとすぐさま湧いてくる自分の心の弱さが恨めしい。 が、それをありがたいと思う心もまたあった。 常に湧き上がる不安と弱さ、それこそが決意をより強くしてくれる。 襲い来る不安を乗り越えた時、きっとそこには新たな形で横たわる不安があるに違いない。 けれど一つ一つ乗り越えていくことでこそ。幾度でも転ばされて、それでもなお立ち上がるからこそ。 本当に危機が訪れたその時に、折れないでいられる心を手に入れる糧とすることができる。 不意に、脳裏に仲間の声がした。 『ごめんねー、おれ無理そうだから、任せた!』 『任せたはないだろ、任せたは』 苦笑するやりとりに、思わず頬が綻んだ。 「タイム!」 呼び寄せた相棒が、一面の闇に紅い炎を撒き散らす。 焼かれ、侵食された闇はやがて一つの影となり、優の前へとその姿を表した。 これが、主か。 目前に立つ術式の核たる存在。それに対したまま、優はゆっくりと鞘から刃を取り出した。 「俺は諦めないよ――だから、ここから脱出する。君も、もう自由になっていいはずだ!」 宣言とともに、太刀が、大上段から切り下ろされ――闇が、切り払われた。 ‡ 『化け物が』 『人間様と同じ顔して、中身は全然別物じゃねぇか。狐狸の類にちげぇねぇ、おお気味悪ぃや』 『見てご覧よあの気持ち悪い琥珀色の瞳』 『あんな目をしてるから、見えもしないものが見えると騒ぐのさ』 『生まれてくる場所を間違えたのか、紛れ込んだか――いっそ送り返してやるのがこの娘の為なんじゃないかい』 闇の中。 座り込むほのかの周囲を声が埋める。 それらはかつて、聞いた声。 せせら笑う声から、本気で怯えているヒステリックな声まで。 今でも心に刻まれた、声。 「やめて……それ以上わたしを……見ないで……」 目を瞑り、耳を塞ぎ、ただ懇願する。 話しかけてくる幽鬼は然程に恐怖を覚えない。所詮彼らは直接ほのかを害する事が殆どない。皆無とは言わないが、それは異質を排そうとする村人達や、被支配者層を同じ人と思うことのない武者達による横暴に比べれば如何程の事があろうか。 ほのかが本当に怖いと思うのは――同胞。 肉を持ち、血の通う人が怖い。 不意に、ほのかの背後より伸びてきた手が、彼女の細い首に絡みつく。 「ひっ……」 それはかつて幾度も味わった感覚。 実際に至った事は多くなくとも、周囲の人の、意思が彼女に首を絞められる感覚を与えることもあった。 そして今、物理的な感触で、ごつごつとした男の手が、ほのかの首を締め上げてくる。 そう、力強き男の手なら、自分自身の細首等あっさり手折られてしまうだろう。 そうでなくても、全ての生者は小さな刃物を手にするだけで、容易くわたしを害せるのだ。 ――わたしが怖いのは、人だ。 人の気配で埋められた周囲の闇が、それを明瞭に教えさとしてくる。 わたしはわたしが生きていることを許されたいと願った。 わたしがいていい場所なのだと彼らの円座を指して言ってくれる事を願った。 ――けれど、返ってくるのは排斥の意思だけ。 生来鋭い感覚がその意思を捉え、心に穴を穿つのだ。 だから、わたしは人を。人と接することを、何よりも恐れたのだ。 故に石になろうと考えた。 人の視線に、言葉に、挙動に。そこから伝わる嫌悪に、害意に、蔑みに。 怯え、逃れようとし、気配を殺した。 誰も通らぬ闇の道を行き、誰にも気づかれぬ、幽かな者であろうとした。 それが自分自身を生きながらにして殺していく作業であると、自覚しながら――いや、自覚していたからこそだろう。 いっそ肉を持たぬ霊になれたならば。 彼らの敵意から解放され、安らかになれるのではないか。 そんな想いにとりつかれ、引き返す道を失った。 でも、それは違っていたのだ。 誰の目にも映らず、誰からも気に留められない――その孤独にほのかは耐え切ることができなかった。 ――ならば、私達とともにあるといい。 首にかかった手の主が、耳元で囁いてくる。 その瞬間、諦めながらも闇に染まらぬ光に満ちた声が、脳裏に響いた。 苦笑しながらそれに応じる声が響いた。 強い意思の元に、道を歩み続ける事を決意する声も、聞こえてきた。 くす、と微かな笑みが浮かぶのをほのかは他人ごとのように感じ取る。 そうね、貴方達と在るのもいいのかもしれないわ。 まるで柵越しに一夜の恋を誘われた女郎のように、首に絡む冷たい手に、その指を触れさせ、優しく撫でる。 孤独は怖いわ。 だから、わたしは人とともにありたいの。 あなた達と、同じように。人で、ありたいと思うの。 「……だから、わたしはあなたになるの。そしてあなたは、わたしになるの……」 優しい声が、闇の中、静かに浸透していった。 ぞろり、と闇が蠢いたのは、異常を感じ取ったがためか。 獲物であったはずの女が、今確かに闇そのものを支配しようとしはじめているのを感じたせいか。 「向ける刃はその身に反してご覧なさい……縊る手は、あなたの首におかけなさい。ほら、痛いでしょう……苦しいでしょう……?」 いびつな存在であったはずの闇が、呻く声がする。 ほのかを蝕む意思は今、闇そのものを蝕む力となって返されていた。 「わたしの気持ちが分かるでしょう……? わたし、誰にもなれるのよ」 そう言うと、くすくすとほのかは笑い声をこぼす。 「誰もがわたしになれるのなら……きっと怖いものなど、ないのだわ……ねぇ、そうでしょう? その呼びかけと、闇の崩壊は同時だった。 捕らえた獲物を蝕む毒でその身を蝕まれた闇の主が、断末魔の悲鳴を上げて崩壊していく。 「また……いなくなってしまうのね……そしてまた、わたしはひとり……」 小さく呟くほのかは、表情に翳りを帯びながらも、ゆっくりとその手を前にだす。 まるで消えゆく闇を愛おしむかのように、彼女はその手で見えざる人物を抱きしめた。 哀惜の思いを闇へ向けて放ったその瞬間――闇は、静かに砕け散っていた。 ‡ 闇が切り払われ、砕け、アキによって突き止められた核の場所が露わにされていく。 高度な穏行の術に覆われ、その存在を完全に隠蔽されていた骸達が、ひび割れた壁からこぼれ落ちてくる。 「鶴橋……必要ありませんでしたね……」 足元に落としてしまっていたらしいそれを拾い上げながら、ほのかが呟いた。 巨大な揺れとともに闇に取り込まれた四人は今、別々の部屋に連れ込まれていたらしい。 彼らの目の前の壁がゆっくりと裂け、そこから転び出た骨が、そのまま砂となっていく。 その映像が、アキによって全員に共有されていた。 「そうだわ……お線香を」 思い出したようにほのかが言えば、瑞貴もまた、黙したまま、鎮魂の舞を舞い始める。 黙祷している優の心中に宿った強い決意を微かに感じつつ、アキもまた、目の前で砂となって散っていく骸に対し、祈りを捧げていた。 「せめて――もう、誰も苦しくないように」 祈りの言葉とともに、アキはまたここに来よう、と考える。 術式を暴く中で見た、骸達が受けた数々の苦痛。 漸く絶望から解き放たれた彼と、彼女らの魂が、少しでも良き場所へ向かえる事を祈りつつ――今度は、花を手向けにこようと、そう誓うのだった。
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