「ちょっと切り過ぎたかな…」 窓からの風にひや、と首を竦めたアクアーリオは、つい先日インヤンガイで切った髪に触れる。五分刈り、とまではいかないが、ベリーショートの短髪を見て、『フォーチュン・カフェ』のハオは目を丸くしてこう言った。『もうメイド服は無理そうだね』 まだずっとターミナルで暮らしてくれるのだと信じて疑わない顔に、インヤンガイで生きていく、と告げるのは辛かった。「……うん、これはもう、着ない」 渡されていたお仕着せを綺麗に洗濯してたたみ、小さな箱に入れる。他の服はまだあまり揃っていないから、インヤンガイで購入することになるだろう。「……全部何もかも、揃え直しだよね」 衣服と、日常品と、これからインヤンガイで暮らしていくためのあれこれ。 辞める、と幾人かできたなじみのお客様に伝えるのも辛かった。フェイやロンに、淋しくなっても迎えてやらないぞ、とツンデレ的に詰られて、それでもぽんぽんと叩かれた肩や背中が嬉しかった。 鏡を見ると、そこには鋭い青い瞳で見返す、伸びた手足の少年がいる。帰属すれば、時が流れ始める。もうこの姿で居続けることはない。脳裏を掠めるこれまでの日々、まるで夢のようだ。 インヤンガイに帰属するにあたって、アクアーリオは『弓張月』に住みはするが、基本は『月陰花園』の男衆、赤蟻に身柄を預けることになっている。そこで花街を保持し守る男の在り方を学び、ゆくゆくは『弓張月』の守りとして働く予定だが、先日のリエのように力でもって示せる役職はまだ手に入らない。 能力も、知識も、生き方も、まだまだ足りない。これから学ぶことばかりだ。「……一人で、始めるのか」 小さく溜め息をつく。 頑張るのに支えが欲しいなんて、ボクはガキだな、と呟いた。「アクアーリオがインヤンガイに帰属することになりました」 鳴海は少し頬を紅潮させ、緊張しながら続けた。「私があたるのは、初めてのケースです。真理数はかなりはっきりしており、彼はターミナルの部屋を引き払い、荷物をまとめて、以後インヤンガイに住むこととなります。つきましては」 『導きの書』を覗き、メモがぎっしり書き込まれたノートを辿り、鳴海は並ぶロストナンバーに依頼した。「彼がインヤンガイに住むための準備を手伝って頂けないでしょうか。実は『導きの書』に妙なちょっかいをかけてくる連中のことが書かれています」「また金夜叉組かよお?」「いえ……どうやら、クオ・バイルンの手の者のようです。買い物途中などに絡んでくる気かも知れませんね」 もっとも、今後アクアーリオが『月陰花園』で暮らしていくのには、避けて通れない関門ですが。「それから、戻られる時に、パスホルダーとトラベルギア、トラベラーズノートを受け取ってきて頂けますか」 あれから少しは調べたんですよ、と鳴海は微笑む。「それをもって、アクアーリオさんの帰属は成立し、図書館の登録が抹消されます」 もう、彼が私の依頼を受けて下さることもなくなりますね、と鳴海は眼を伏せた。「この先は、彼が私の年齢も越していくんでしょう……あ、けれど」 はっと我に返って、にっこりと笑った。「戻れる世界が見つかって本当によかった。僕も彼の帰還は心からお祝いしたいです」 チケットを手渡しながら、鳴海はそうそう、と思い出す。「アクアーリオさんの帰還を祝う宴が催されるようです。トレインウォーも無事済んだし、どうぞのんびりしてきて下さい」
「こんにちは☆フェイさん! 今度リオくんが帰属するんですよ☆知ってますよね☆」 「アリッサ館長☆これから帰属者を見送りに行ってきます☆だから、はい☆」 「鳴海さん☆これですかそうですかリオくんにプレゼント準備してたんですね☆いや絶対そのはずです頂きます☆」 「ハオさん☆これ、持って行くんですね、わかりました☆」 「ロンさん、もちろん掌サイズのプレゼントです☆えー一個ですか☆」 川原撫子はアクアーリオの知り合いのところを次々訪問中だ。フォーチュンカフェの常連客には色紙に寄せ書きをしてもらった。樹海からの帰還時に関わったり、ターミナルで暮らし始めてから関わったりした相手に、ほんのちょっとでも繋がりがあって喜ばしいと思ってるなら、それを怯まず手紙でもグッズでも形にしろや☆と笑顔で凄んで餞別を集めている。 「私だったら仲間と離れて1人になった時、見返して元気になったりくすって笑っちゃったり…そういうものが欲しいかなって思いましてぇ☆だから、みなさんの所へ強制的に強奪に参りましたぁ☆」 えへへ、と戸口に立たれてにっこりしながら敬礼されては、追い返すことはほぼ不可能、いや、追い返そうとした気配だけで背中のギアが水を噴きかねない気がする。 「か、川原さん、熱心ですねっ」 棚にあった酒類を物色され、自分用に準備していた真新しい手帳に何か一言書いて渡せと迫られた鳴海が引き攣りながらペンを走らせる。 「みなさん奥ゆかしすぎるからですぅ☆みなさん俺が贈って良いんだろぉかとか俺そんなに親しかったっけとか尻込みしそうな方ばかりなのでぇ☆良いんです、くっだらない物でも何でも、川原に強奪されたから仕方がないんですぅ☆お祝いで餞で…もしかしたらもう二度と会えないかもしれないんだからぁ、そこは派手にぶち当たって砕け散りましょうよぉ☆もしかしたらそれがぁ、寂しい夜を乗り越えるきっかけになってくれるかもしれないじゃないですかぁ☆」 「寂しい夜か…」 撫子に玄関口で一所懸命訴えられて、考え込んだフェイはごそごそと小さな毛布を取り出してくる。 アリッサからは「頑張って」のカードと薔薇の香油、ロンからは温めるとくるくる回る回転木馬のおもちゃと見事な紅の文鎮をせしめた。 「だって…想いの数が力になることもあるんですぅ…千羽鶴みたいにぃ」 呟かれて、ハオは焼き上がったマーラーカオにクッキーを添えて差し出す。 それらをしっかり抱えて撫子は走り回る。 彼女自身は、大きな木・ペッシ・アリエーテ・ハオに見える縫いぐるみを作った。アクアーリオにストレス解消用に渡してやるつもりだ。 「だって……だって★」 滲みそうになる視界をぶん、と顔を一振りして晴らし、今度はナラゴニアのペッシの所へ向かう。 「こんにちはぁ☆ペッシさん☆て、あれ☆」 「やあ……君も来たのか」 ペッシの所には既に先客が居た。相沢 優だ。穏やかな微笑を返してくる瞳、向かい合うように立っていたペッシが柔らかく笑う。 「ありがとう。今聞いた。リオがインヤンガイに帰属するんだってな」 本当に、いってきます、だったな。 子どもの旅立ちを知らされた親の口調に似て、どこか寂しげに続ける。 「ほんとに、最後んとこはあいつの方が思い切りがいいんだよな」 「優さんも知らせに来たんですかぁ☆」 「うん。伝えておくべきだろうと思ってね」 じゃあ、行こうか、見届けに。 「よろしく伝えてくれ」 ペッシが片手を上げる。 「幸せを、祈ると」 その後ろでぴゅるるるる、と高い声が響いたのに、撫子と優は笑い合った。 「おめでとー、リオ! 報告書で読んだことはあったけど、知り合いで再帰属者が出るのは初めてだからうれしいわ」 ターミナルの駅、インヤンガイ行きのロストレイルのホームで、リーリス・キャロンは笑いながらアクアーリオをハグする。 「ありがとう、リーリス」 手にしていた鞄を降ろして、アクアーリオはリーリスを抱き締め返す。帰属を決意してから、それほど時間がたったわけではないのに、ひどく大人びた仕草だ。 「一緒に来てくれるんだね、嬉しいよ」 ペッシに妬かれるかな、と苦笑してみせる顔も、もう止まっていた時が少しずつ動きだしてでもいるように変わってきている。確かにこれではもうメイド服は似合わないに違いない。 「何を買いに行くの? リーリス付き合ってあげる♪」 「うん、服はもうちょっと欲しいな。ターミナルのはどれも好きだけど、インヤンガイでは目立つだろうから」 「うんうん」 リーリスは嬉しそうに頷く。 「あっちこっち回ってもいいよね。だってリーリス、インヤンガイにはこの先何度も来るもの。少しは街の様子も覚えておきたいもん」 上機嫌で手を繋ぐが、吸精はしない。アクアーリオの方も振り払うことはない、危険なことはわかっているだろうに、見えない暗黙の約束が交わされてでもいるように。 「よう、ジュリエッタ!」 声をかけられて、アクアーリオの側に居たジュリエッタ・凛・アヴェルリーノは振り返る。赤に金の牡丹模様が入ったチャイナ服にお団子頭、提げているバスケットに詰めたものの中からトマトが覗いているところを見ると、宴席の料理の準備のようだ。 「何だ、今回もトマト中華か」 「リエ殿」 やってきたリエ・フーはバスケットを覗き込んで一言、今日はいつもの服ではなく、黒い糸で細かな模様が刺繍された艶やかな黒い長衫を着ている。一目で特別に仕立てたとわかる代物、やや大きめだが袖と裾を折り返して見える金が華やかだ。 「もちろんじゃ、今度はもっと腕によりをかけて作ってみせようぞ……しかし、背中の図柄、見事な虎じゃな」 「へへ…」 珍しく照れくさそうに笑ったリエが、リーリスの隣のアクアーリオに振り向く。 「俺も一緒に行く。用心棒の初仕事だ、あっちで世話んなる男衆にも挨拶してーしな」 ちら、と鋭い視線をリーリスに向けたが、 「一緒に買い物に行って、俺の分の日用品も買い揃えるか。部屋は貰えたが、まだ何もねえし」 楽しそうに付け加えた。 「……いいの?」 アクアーリオは、一瞬昔に逆戻りしてしまったように、おどおどと尋ねる。 リエが、目の前で『弓張月』の用心棒にと銀鳳に許可を求めたのも驚いたが、それでも帰属は大きな決断だ。リエの頭の上に浮かぶ真理数がかなりはっきりしてきている、だからリエは本気なのだ、そうわかってはいるが、やっぱり尋ね直さずにはいられない。 「ターミナルに戻れなくなるんだよ? 歳も取るし、ギアの力もなくなる。それに」 思わず口を噤んでしまったのは、自分も抱えている不安が滲むからだ。 「それに?」 「……世界と運命を共にする」 今までは階層世界が崩壊するようなことがあっても、ターミナルに戻れば生き延びられた。だが、帰属してしまえば、インヤンガイが崩壊、消失した時には、自分もまた同じ運命を甘受するしかない。 すぐ側でじっと二人の会話を聞いていた藤枝 竜は、小さく頬を膨らませながらリエの答えを待つ。いずれは自分の世界を見つけて再帰属したいと願っている。だからこそ、アクアーリオやリエの帰属がどうなっていくのかを見届けたい。 (再帰属者はどう見られるんでしょうか? 何年も経った世界は私を受け入れるのかな…?) リエに確認する形を取っているものの、それはアクアーリオ自身の不安、そしてそれは竜の不安でもある。力にはなってやりたい、けれどどこまで関わるべきなのか、アクアーリオの一生にまで責任を持てるのか……そんなことを考えると、わけのわからぬ妙な形のものが胸の奥から膨れ上がって、ぼうっ、と炎を吐いて燃やし尽くしてしまいたくなる。 「リエ殿に話は聞いたのじゃ。あの悲劇は忘れられぬものではないが…そなたの姉上もそなたも、自分の道を進まれるのは喜ばしいこと。体は成長したとしても、心は常に強くあれなのじゃ」 ジュリエッタがにっこりと笑った。過去の事件で、彼女もまたリーラとリオに関わった。弟を失い、両脚の力を失った悲劇、だが、リーラは、それから一つ一つ自らの道を選び、歩み続けていることに安堵している。アクアーリオにしても、数奇な運命に翻弄されつつも、今こうして自分のあるべき場所へ戻ろうとしていること、それを心から祝福したいと思う。 「…頑張るのに支えが要るのはちっとも可笑しいことじゃねえぜ、リオ」 リエはさらりと言い放った。 「俺だってそうだ。インヤンガイでやってくにゃお前やリーラ、皆の助けが必要だ……頼りにしてるぜ」 軽く片目をつぶってみせ、ひょいと彼方を振り返る。 「けど、珍しいな、後の二人が遅れるなんて……あ、来た」 その背中で、身をくねらせた虎がリオを見やる。 「お待たせですぅ☆」 「何だよ、その大荷物」 リエが呆れて声をかける。撫子は両手にどっさり袋を持っている。中から毛布やら酒やらが見えている。こっちも宴会の準備かと思ったが、それにしては手紙やカード、リボンのついた箱、クッキーやケーキの類もあるようだ。 「見た時にふと思い出して前に進む気力が湧くと良いなって思いましてぇ…貴方のこれからが幸せでありますように☆」 皆からのお餞別ですぅ☆ 「あ…ありがとう!」 撫子から山ほどのプレゼントを受け取り、顔をほころばせるアクアーリオに、優が話しかける。 「ナラゴニアへも行って来たよ。ペッシもアリエーテも元気にしていた」 「ほんとっ?」 やっぱり気にはなっていたのだろう、優のことばにアクアーリオはぱっと顔を明るませた。 「伝言を受け取った。幸せを祈るって」 「……うん」 じんわりと瞳を濡らしてアクアーリオは俯いた。 「……ありがとう……いつも、ほんとに、……ありがとう」 「んー!」 いきなり側でリーリスが頬を膨らませて唸った。 「リーリスだって何度もリオに会ってるんだから! 銀聖堂の時でしょ、弓張月でお芝居見た時でしょ、ペッシに置いてかれるって拗ねた時でしょ、それにこの前の花王妃巡礼! リオはリエと優の事ばっかり言うけど、リーリスだって友達なのに。それにリオがずっとリオで居てくれるようにって、胡蝶の石を渡したのはリーリスよ。リーリスだって頑張ってるのにー」 「あ……ごめんっ」 じたばたじたばたと軽く地団駄を踏んでみせるリーリスに、リエがやれやれと肩を竦めて優を見やり、優も苦笑を返す。謝ったアクアーリオはリーリスを覗き込むように身を屈め、 「わかってるよ、リーリス」 優しく宥めた。 「わかってる。僕が今生きてるのは、君が生かしてるからだ、そうだろ?」 そのことばに含まれているのは、リーリスが望めばいつでも自分を殺せたのだという理解に他ならない。世界を超えた目に見えない巨大な力、いつ何時であろうと、望む時に世界を侵し破壊する力が、厳然として存在することをアクアーリオはもう知ってしまった。 「だから、僕は思ってる。君は今すぐ世界を壊せるけれど、今日この世界が壊れなかったのは、ちょっぴりでも、君が僕を友達だって思ってくれた証拠だって」 リーリスの紅の瞳を見下ろす青い瞳。 「明日君がインヤンガイを滅ぼすとしても、今日、僕は君と友達でいられたことを喜ぶ」 甘い。 リーリスは思う。 アクアーリオがリーリスをインヤンガイに招く可能性は少ない。だが、今後のことを考えれば、インヤンガイの人間と友好関係を築いておくに越したことはない、リーリスはそう考えている。所詮塵族、所詮は食物。 「最近時々思うんだ」 アクアーリオは体を伸ばして、ゆっくりとターミナルを見回した。 「この世界はなくならない。時間も止まっているし、生きて行くのに困ることなんか、何一つない」 綺麗で穏やかでいい世界だよね、と笑った。 「僕がこの世界に加わっても、この世界は揺らがない。安心できる良い場所だ。けれど、ここに僕が居なくても、やっぱり、この世界は揺らがないんだ」 だから、贅沢な望みだけど、 「いつ壊れるかわからない世界の中で、目一杯頑張ってみたくなる」 それが竜への答えになるかはわからないけど、物問いたげな瞳に何かを応えられているといいと思う。 「でも、そう思わせてくれたのは……自分の力を試してみたいと思わせてくれたのは、ここだ」 一瞬口を噤み、アクアーリオは背筋を伸ばした。 「ありがとう、ターミナル」 世界図書館の方向に手を上げて、そっと呟く。 「さようなら」 「今日はお引越しをバリバリ手伝いますよ!」 インヤンガイの『弓張月』、リオに与えられた部屋で、ずっと不安そうだった竜は打って変わっていそいそと動き回っている。 「ほい! ほい! ほい! 搬入の次は家具の組立てですね!」 「ああ、その棚はそっちの部屋、リエの方だ」 「ほいほい! 一緒にやっちゃいますね!」 『弓張月』の入り口横には小さな離れがあり、そこに男衆と用心棒達が寝起きしている。そこに、隣り合わせでリエとリオの部屋は与えられていた。六畳一間程度、板張りで棚が一つ、敷物と布団と小机、灯を運び込み、持ち込んだものは棚と押し入れに片付けていく。引き戸一枚で隔てられているから、互いの行き来も楽にできるのは、異世界で暮らしていこうとする二人への銀鳳の気遣いと知れた。 「ここに衣装箱、置いとくぜ」 「……頼みがある」 部屋に小さな箱を持ち込んだジャグド・レンラをリエが引き止めた。 「俺に一から呪術を教えてくれ」 「? どうして。お前には立派な術があるだろうが」 「……ギアを返却したら只のガキだ……体術は勿論だが、呪術も覚えたい」 返されたことばに覚悟はしていたものの、一瞬リエは口を噤む。だが、すぐに気を取り直して相手の顔を見上げた。 「俺は非力なガキだ。でも……師について鍛えて、弓張月を背負って行ける男になる」 「……いい眼だ。そう言われたことあるだろ」「っ」 ジャグドが突然、掌でリエの頭を掴んだ。労るように確かめるように、その丸みをゆっくり包む。 「まだ小さなガキの体だな……けど、すぐに育つ」 ぽん、と優しく叩いて呼びかけた。 「リエ? 俺に教える器があるのかどうか、お前が見極めろ」 「俺……わかった」 一瞬何かを言いたげに口ごもり、やがてゆっくりと俯いたリエは瞬きを繰り返し、短く応じた。 「さあ、出来上がったぞ!」 「おお、これは旨そうな!」 「腕によりを掛けて作ったのじゃ! どうじゃ口に合うかのう?」 宴会準備に加わったジュリエッタは、早速トマトをベースに次々と料理を仕上げていっている。ピザまんは買い物へ出かけている連中が戻ってきたら蒸し上げよう。トマトの酸味を生かした酢豚は、緑と黄色のピーマンを散らしてより一層鮮やかになった。フカヒレのトマトスープは煮込みすぎないように、元の繊細な味わいとのバランスを考える。 ジュリエッタが作り出した料理の幾皿かが、宴会前に行方不明になっており、後々に金鳳の部屋で見つかるのだが、それもご愛嬌。減った分は作り足せばよい、とジュリエッタは大盤振る舞いだ。 ついさっき、リエとグレイズのことについて少し話した。 赤の王のトレインウォーでは切ないことや悲しいことも多かった。ダイアナにとどめを刺す形になってしまったのは、今も胸に引っ掛かっている。他に道はなかったのか、他にやり方はなかったのか、そう思わないかと言えば嘘になる。選びようがなかった、運命の分岐点というものがあるならば、あの時だったのかも知れないとも思う。しかし、グレイズの消滅は。 「残念、としかいいようがないのう…」 小さく掠れた声で呟いた。 『あの戦いでは、わたくしも辛いことをしてしもうた。お互い己の道を身を持って示すこと、それが彼への供養になるかもしれぬのう』 そう、リエに伝えた気持ちは、誰が正しいとか誰が間違っているとかではなくて、生きていくということは時にひどく厳しく虚しいことがある、という意味だ。そして、そこで揺らぐのも、きっとまた、必要なことで。 脳裏に掠めた、あの真夜中の祭りの夜の顔。 うん、と胸深くに呑み込み、気持ちを切り替える。 「どうじゃ、ホタテのあんかけトマトソースかけ、温野菜のトマトドレッシング添え…まだまだ作るぞ!」 おいしいものを作って、皆で食べよう。泣きたい時も、苦しい時も、そうやって一所懸命、命の味を楽しもう。 「師匠と呼ばせて下さい、ジュリエッタさん!」 「おう!」 輝くお玉を差し上げて笑う。 (きっと、自分は目的を果たすまで、どこかの世界へ帰属する事はないな) 宴会料理の準備に加わり、手際よく包丁を動かしながら優は考えている。 これからは帰属するロストナンバーが増えるだろう。別れも今まで以上に多く経験することになるだろう。 (別れは苦手だけれど、相手が幸福な別れがいい) これもまた、相手の新しい始まりに繋がっている、そう思えるような別れがいい。 来る途中のロストレイルの中で、パスホルダーやトラベラーズノート、トラベルギアを受け取る役目をさせて欲しいと皆に頼んだ。ジュリエッタは少し考え込んだが、よかろう、と同意してくれ、残りも頷いてくれた。 思い出していた。 『胡蝶の石』の回収依頼の帰り、沈んでいた綾のことを。一所懸命考えて、必死に立ち向かった依頼の中、傷つけてしまったリーラのことを、彼女はひどく悔やんでいた。自分達のしたことは、相手を悲しめ苦しめるだけだったんじゃないか、そう落ち込む綾に、まだ自分達にはできることがあると、優は繰り返し訴えた。 灰人はアクアーリオを気にかけていた。あんな子ども達がそれしか生きる道がなくて、戦わされて死に追いやられている。それを放っておくことができなかった心優しい彼も、今はもういない。 「……」 野菜に美しい飾り切りを施す。側で見ていた料理人達が溜め息を漏らす。微笑んで、今度教えるよ、と応じつつ、魚の煮付けの味を見る。 脳裏に浮かぶ二人の友人の顔に、ついさっき、部屋のことで話し合っていたリーラとリオの笑顔が重なった。 幸せそうだった。姉の指図に従って荷物を移動させているリオに、もう世界樹旅団の姿は重ならない。ロストレイルの双子座の車輌で、いつ死んでもいいような、破滅しか見えていないような表情をしていた少年はもういない。 引き裂かれ、遠ざけられた二人の姉妹を再会させようと頑張ってきた。とてもできるとは思えなかった。 でも、諦められなかった。 どうしても、諦められなかった。 「……うん」 綾も灰人も、もういないが、リオとリーラが再会できて二人が一緒に笑っている姿をみることが出来て。 「ここまで諦めずに頑張ってきて良かった…」 小さな呟きに周囲の料理人達は気づかない。優の作り上げた逸品に目を奪われ、褒めそやし、それを作り出した指先が何度無力感に震えて握りしめられたかには思い及ばない。どれほどの思いで、その指先を再び開いて、見えない明日を掴もうと伸ばされたのかも想像しない。 けれど、料理に込められた味わいの深さに、心ある者は気づくはずだ、優が噛み締めた哀しみと喜びの綾なした時間を。 (どうか、幸せになって欲しい。リオもリーラも、うんと幸せになって欲しい) 最後に添えたのは、結び合うように切られた野菜。人の絆への祈りを込める。 「こんな見事に切れるのか」 息を詰めて見守っていた料理人が吐息をついた。 「簡単だよ。慣れればすぐにできる」 「……練習を積もう」 「優! 買い物に行くぜ!」 「わかった!」 リエに呼ばれて包丁を置く。 「これもいいですよね!」 「でも、リーリス、あっちの青い方がいいと思う」 「……あのさ、ぼつぼつ一杯じゃないかな」 「いやいやこれも見事じゃぞ」 「えー☆絶対あの赤いのでしょう☆」 「おい、いい加減にし」 「こっちの紫可愛い!」 「ついでだから、これもいっちゃいませんか☆」 「いいのぅ」 「こんな柄もいいですよね!」 「そ、それは」 「……リオ」 女性陣があれやこれやと選び出してくる服に、既にリオは目眩寸前だ。見計らって優が耳打ちする。 「適当なところでお金がなくなったとか言っておけばいいから」 「それが」 こそこそとリオが囁き返す。 「さっき撫子さんに財布ごと奪われました」 「……終わったな」 リエが溜め息混じりに唸り、ふと視線を上げて優に目配せした。 「ややこしそうなのが来たぜ」 「ああ、賑やかにやってますもんね、俺達」 両手に袋、肩からも手提げをかけていた優が、ことさら丁寧な仕草で荷物を下ろす。 「ようようお姉ちゃん達ぃ」 「お金持ちだねえ、俺達に奢ってくんない?」 無精髭を伸ばし、だらだらと薄汚れた服を引っ掛けた数人が、互いに合図を送りつつ周囲に散る。はっとしたようにリオがリーリスと竜を庇った。気づいた撫子は既にぱきぱきと指先を鳴らしながら振り向き、ジュリエッタもギアに手をかけている。 「何者だ」 リエが前へ進み出た。 「僕達に用があるんだろ」 それを見たリオも、リエの隣に足を踏み出す。 入れ替わって撫子とジュリエッタがリーリスと竜の前に立ち、優は冷ややかに周囲を眺めて確認した。 「クオ・バイルンの手下か」 「どうしたの、おじちゃん? なんでそんなことするの?」 リーリスがきらきら輝く瞳で相手を見つめて精神感応を仕掛ける。 (さあ大声で叫べ、誰が何と命じたか。そして俺には出来ないと叫びながら命じた者の所へ逃げ帰れ) 「う、クオだ、いや、あの俺、俺には…っ、で、できねええっ」 まともに食らった一人が青ざめて後じさりし、いきなり背中を向けて走り出す。 「何だあいつ」 「知るかよ、それより」 「ああ、やっちまえ!」「ぎゃっっ!」「げっ!」 いきなり飛びかかった数人が、リエのギアが放つ結界の鎌鼬に吹っ飛んだ。店先に突っ込む者、天幕の上から転がり落ちる者、周囲の客が慌てて逃げる。 「何だこいつら!」「探偵の手下か!」「やっちまえやっちまえ!」 「ええいっ」 裂帛の気合いにはほど遠いが、リオが踏み出して殴りつける。相手が反撃して、見事に片頬を張り飛ばされてよろめいた。だが、すぐに振り返り、今度は飛び込んできた相手の腹を蹴りながら突っ込んでいく。 「う、う、う」 乱闘に巻き込まれていくリオを見ながら、竜は必死に堪えている。 ここはできる限りリオに任せておきたい。だって、この先彼だけで応対しなくてはならなくなる。手を出してしまうのは簡単だが、それでは何もならないと思う。 もちろん、どうしても危なくなったら、火を吐き、剣で応戦するつもりは十分にある。そして、それは優も同じだった。刃物を振りかざして死傷者が出そうならば割って入る、だが。 「こいつは、僕が、やるからっ、リエ!」「わかった、こいつは俺がやるぜ!」「た、のむっ!」「任しとけ!」 次々反撃されてぎりぎりなのを強がるリオに、リエも意図を察した。ギアから手を離し、飛んでくる拳をかい潜る。足を引っかけ、手近の店先の木箱で殴りつけ、すぐ逃げる。リオは果敢に殴り合っている。蹴られて吹っ飛び、すぐに起き上がって突っ込む。 「ははっ、愚連隊にいた頃を思い出すぜ!」 あの頃はよく仲間とこうして逃げたっけな。 顔に一発喰らったリエは生き生きと叫ぶ。天幕を支えている柱を蹴り倒す。崩れる下からリオを引っ張り出し、そのリオに背中を守られて、目の前の男に拳を突き出す。飛び散る汗、翻る一張羅、背中の虎は今己の生きる世界を見つけて、力の限り天を向く。 「リエ!」 一人倒したとたんに背後から突っ込まれかけたのをリオの叫びで避けた。振り返れば走り寄ってきたリオが両手を結んで男の首筋に落とす。崩れる男をリエが膝蹴りで終わらせる。 「リオ!」 背中合わせに息を弾ませながら二人立つと、後ろから互いの温もりがふわりと体を包む。 「畜生っ、こうなったら」 リオもリエも数発喰らって結構な顔、そこへ焦れた相手がぎらぎらした青龍刀まがいの刃物を取り出した矢先、優は落ち着き払ってギアを引き抜いた。 「こうなったら、何だって?」 こんな時に笑う自分が居るなんて、想像もしていなかったけれど、ターミナルでの日々は優に一筋縄ではいかない相手の扱い方も教えてくれた。 「ここで死ぬか、それとも」 クオ・バイルンに報告してくるか。 「今後リオ達に手を出したら、俺は容赦しない、と」 穏やかな声には凄みがある、修羅場を潜ってきた男だけが出せる、命の瀬戸際の響きが。 「どちらがいいんだ?」「どっちがいいですかぁ☆」「どうするのじゃ」 優の隣で、撫子が可愛らしく笑いながら仁王立ちし、ジュリエッタが抜き放った小脇差を差し上げる。構えた三人のギアは、それぞれに殺気を放って並べられ。 「く、くそっ」 じりじりと男達が引き下がり始める。 「お、覚えてろーっ!」「くっそおおっ!」 這々の体で逃げ去る相手に、リエとリオは構えを解いた。 「リオ! もう、顔ぼこぼこじゃない!」 リーリスが吹っ飛ぶようにリオにしがみついた。 「リーリス、怖かった」 「ごめん…」 「……これからリオ、ラオンに術を教わった方が良いかもしれないね…」 「そうだね……あたたっ」 見上げるリーリスにリオは苦笑し、顔を歪める。 「やるこた、多そうだ……ってか、何て顔だよ、リオ」 肩を竦めるリエの顔も結構あちこち色が変わって腫れている。 「そういうリエだって」 「ぬかせ」 リーリスの声に、リオとリエは顔を見合わせ苦笑した。 「それはそれは……とんだインヤンガイの挨拶だったな」 銀鳳は二人の顔を見て爆笑した。 「せっかくの美人が台無しじゃないか、リエ」 ジャグドがからかえば、 「術を教えるのはいいけど、まず体から作らないとねえ」 とラオンがリオの腕の貧弱さに顔をしかめる。 「…はい、直りましたよ」 「…すまねえ」 早々に綻びを作ってしまった長衫を、リーラが丁寧に繕ってくれた。元通り身につけたリエは、少しためらった後、そっと菊の簪を差し出した。 「もしよかったら、これ」 「え…? まあ……」 それは乳白色の石を重なり合う菊花の形に刻んだ簪だった。 「初恋の女に貰ったブローチも菊だったんだ。…なくしちまったけどよ」 「……いいの?」 リオと似たような仕草で首を傾げるリーラに、思わず微笑む。 「身につけてくれるか?」 「有難く」 押し頂いたリーラがさっそく髪に差して見せる。茶色がかった髪にほんのりと甘い色合いで簪は最初からそこにあったようにおさまっている。 「似合うぜ」 「…嬉しい」 「これもどうぞ。美味しそうだから買って来ました」 料理に加えて、あの後周囲の店で迷惑料半分、いろいろ買い物をしてきた優が湯気をたてる饅頭を皿に盛って出してきた。側にはジュリエッタのピザまんもある。 「ちゃんと呑んでくれてるのか? さっきから料理ばかり運ばせてねえか」 金鳳が気遣うのに、ちゃんと呑んでますよ、と優は応じた。 「インヤンガイは最も悪意の強い世界のひとつだと思います。でもリオ君には居場所があって、お仕事もあって、お姉さんもいる。だからきっと私達図書館がいなくてもやっていけますよね!」 竜は既にかなり出来上がっている。といっても、彼女が呑んでいるのは酒ではなく、インヤンガイのマニマニ酒という、名前は酒だがアルコール分はほとんどないという類の飲み物だ。香りは焼酎に近いから、雰囲気で酔っているのかもしれない。真っ赤な頬に笑みを浮かべ、 「乾杯! 続いて乾杯! この居場所を壊さないように自分をしっかりと保っていってください! 街の皆さんがいれば大丈夫ですよ! 帰る場所がある、っていうか帰れたっていうのはすごくすごく幸せなことだと思います!……うっ」 「おい、吐きそうなのか!」 赤蟻が酒も呑んでねえのに吐くのかよ、とうろたえるが、そうではなかった。大粒の涙が溢れ出し、見る見る竜の顔をびしょびしょにする。 「うわあああん」 「泣き上戸かよ!」 「ごめんなさいこの涙は感動じゃないんです不安なんです自分のことを心配しちゃったんです! 私も帰りたい! 帰りたいよう!! 帰れるのかなあ!!」 「おいおいとんだお嬢ちゃんだな、心配するな仲間がいるだろ、仲間も潰れたら俺でも送ってってやるからよう」 「うわあああああんん!!!」 見当違いな赤蟻の慰めは竜のつぼにはまったらしい。突っ伏して大泣きしてしまった竜をジュリエッタがよしよしと慰める。その隣で、リーリスは面白そうに指先をひらひらさせつつ、こっそりと別口のお食事中だ。 宴席はまだ続いている。 「主役が抜けてもお構いなしかよ」 「滅多にないらしいからね」 いいよ、皆が楽しんでるなら。 宴席から離れた縁側で、リエとリオは並んで座っている。斜め後ろでは、泣き寝入りしてしまった竜が掛け物をかけてもらって健やかな寝息をたてている。ジュリエッタとリーリス、優はまだ宴を楽しんでいるようだ。 昇った月は涼やかな色を満たしていた。 「不思議だな」 リオが呟いた。 「ターミナルに居るときは、ここへ戻ったら逆に落ち着かないんじゃないかと思ってた。ターミナルの店や画廊街や司書室がどこにもないから……でも」 ここに座っていると、ターミナルが夢のような気がしてくる。 「……夢…か」 リエは月を見上げて、小さく呟いた。 「ひでえ現実だぜ、いきなりぼこぼこに殴られてよ」 腫れた頬を摩り、くつくつ笑う。吊られたようにリオも笑った。 「それ、向こうの台詞だろ、いきなりやってきて、我が物顔に暴れ回ってさ」 明日っから厄介なことになるかも知れないよ? 「急いで鍛えなくちゃやられかねないぞ、リエ」 「ちげえねえ、歳取る前に時間を止めちまったりしてよ、永遠の十三歳のまんまだ、ターミナルでもねえのによ」 「冗談じゃないって」 笑い出すリオにもたれかかり、リエは大笑いする。笑い過ぎて滲んだ涙を擦るつもりで上げた手が、リオの胸に当たった。温かさととくとく弾く心臓の鼓動に、ふいに胸が苦しくなる。 こいつは生きてる。 だが、あいつは。 「……こないだのトレインウォーで」 「…うん」 何を話すつもりなのか、リオは察した。 「ダチが死んだ。助けられなかった」 「……うん」 「だから……少しの間、胸を貸してくれ」 背中合わせに戦いたかった、今日のリオのように。お互いの弱点を庇い合って、巨大な敵を見事討ち果たしてみたかった。 何でだ、何でだ、何でだ。 きっとこの問いは消えない。 でもきっと、これが生きてるってことなんだろう。 溢れ出す涙を唇を噛んで呑み込み、リエは眉をしかめて俯いた。 「謝謝」 「……リエ」 いいかな、と頃合いを見計らっていたのだろう、優が背後から声をかけてきて、リエは顔を上げた。行きがけの駄賃とばかりに、ぐい、とリオの新しいシャツで顔を拭いていき、おいぃ、とリオに唸られたのににやりと笑う。 「今日の飯、旨かったぜ」 「それはよかった」 優は小さなとっくりとぐい呑みを手にしている。 「歳から言えば、駄目なんだろうけど」 「……上海に居たときから解禁だったぜ?」 「……うん」 優はリエに渡したぐい呑みにとっくりの中身を満たす。 「…やっぱり、ここへ帰属するんだな?」 「ああ」 リエは頷き、軽く中身を飲み干す。 「実はさっき、固めの盃を受けてきた」 自分の器とリエの器、それにリオに渡したぐい呑みにも艶やかな液体を満たした優がゆっくりと視線を上げる。 月光が黒い瞳に宿っていた。 同じ光が自分の眼にも映っているだろう。 脳裏に浮かぶ銀杯金杯、それを満たした清冽な水にも、やはり月は映っていた。 『弓張月』に正式に入る時は誰でも、銀鳳金鳳から水盃を受ける。それまでの世界の縁を切り、新たな縁を結び直す意味があるらしい。 過去の自分を消せと言うんじゃない、と銀鳳は笑った。 『一旦我らに預けてくれ、ということだ。傷が癒え再び道を選ぶ時、預けた過去を返してやる。受け取るかどうかはお前の自由、そういうことだ』 「…銀鳳達に、俺の本名を明かした」 俺は楊 虎鋭。リエ・フーってのは字だ、そう伝えると、意味を察した銀鳳が静かに笑って眼を閉じ、虎鋭か、と噛み締めるように呟き、続けた。 『その名を、俺は墓場まで持っていくぞ、覚悟しろ』 「……身内になる人間には親に貰った名前を明かすのが筋ってもんだろ」 「…おめでとう」 優は微笑み、座り直した。ぐい呑みを置き、膝に両手を置く。改めてゆっくりと頭を下げた。 「リオとリーラの事、よろしく頼むよ」 「ああ」 「リオ」 「、はい」 自分が呼ばれるとは思ってもいなかったのだろう、慌ててリオが座り直して優に向き直る。それを和らげるように膝を崩して胡座を組んだ。 「自分の身体を大切に……無茶はするなよ」 これを、と優が取り出したのは、ラピスラズリのペンダントだった。 「え…え? え? えっ、そんな……」 もらえないよ、とリオが青ざめる。 「大事なものだよね? 僕がもらったりして、万が一なくしたりしたら」 「なくさないよ」 「だってここはインヤンガイだよ、さっきも見ただろ、いつ何時何があるか、それにここが崩壊したりしたら」 「なくさないでくれ」 「だって、そんなっ」 「……察してやれ、リオ」 リエが苦笑した。 「なくすなって言ってんだよ、こいつは。大事にしてくれ、なくさないでくれ。意味はわかるな?」 「大事にして、なくさない……なく、さない……あ」 リオがふいにぽかんとした顔で優を眺めた。昼間の腫れは引き切っていない。目元に切り傷と内出血、唇も少し切れている、その顔が、くしゃくしゃと歪んだ。 「……なくさない……うん……約束する……絶対、なくさない」 滲んだ声で必死に繰り返すが、堪え切れなくなったようにペンダントを握りしめた腕を顔に当てた。 「なくさないから……なくさない、から……だから……だから、だから……優、も、優も……っ」 う、わ、ああああああっっっ。 「っ…」 優は目を見開き、息を呑む、全身震わせて泣き伏してしまったアクアーリオに。 「…ガキが」 舌打ちしたリエがぐい呑みを舐めて、目元に光る何かに慌てたように顔を背ける。 片膝を立てて空を見上げるリエ、小さな子どものように体を丸めて泣くリオ、縁側の薄闇の中、それはようやく居場所である空に帰った、新たな二つの月のようで。 ふと気配に振り返れば、宴席を抜けた撫子が拳を握り、ジュリエッタが正座し、リーリスが紅の瞳を煌めかせながら見守っているのが見えた。眠っているはずの竜の寝息も静まっている。 ふいに、淡々とした声が耳元に響いた。 『掘られた穴に落ち、見つけ出され、抱き上げられる。私は未来である』 「……ああ、そうか…」 アリエーテのことばが胸に落ちる。 空から井戸の闇に落とされて、綾のコップに掬いとられ、灰人の指先で導かれて、優がいつか断ち切ったはずの銀の糸が、今、新たな二つの月を繋いでいる。 『埋められ、探され、見いだされる。意味を全うしている』 「……うん」 優は微笑んで眼を閉じ、残った酒を仰いで干した。 「もう、頭痛は治りましたかぁ☆」 帰りのロストレイル車中で撫子に覗き込まれ、 「竜ったら、帰りたい帰りたいって泣いて大変だったんだから」 リーリスに頷かれ、 「にしては、朝はけろっとしておったの」 ジュリエッタに首を傾げられて、竜はきょとんとする。 「え〜そんなこと言いました?」 本当は、と胸の中で声がする。 でもそれはまだ、そう思う。 不思議そうな竜にくすりと笑って、優はリオから受け取ったパスホルダーを眺める。 「後はこれを館長に渡して……帰属、終了だな」 「……そうだな」 同じようにパスホルダーを見つめていたリエが頷く。 その顔に、いずれリエからも、誰かがパスホルダーを受け取るんだ、と優は思った。 旅人達がその外套を脱ぎ捨て、それぞれの世界に戻っていく。 (俺は) いつ。 (誰に) 脳裏に過った顔に、優は少し眼を細めた。 ロストレイルは走り続ける。 それぞれの旅の終わりに向けて。
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