オープニング

 世界計を見下ろせる、吹き抜けのホールの上層。ひとの行き来を見下ろす事が出来、穏やかな光を一身に受ける事の出来る場所。
「――灯緒」
 定位置ともいえる場所に腰を降ろし、導きの書に顎を乗せて、怠惰に眠りを貪っていた巨躯の虎猫へ、階下から声がかかった。
「……ん?」
 顎を擡げ、声の主を探す虎猫の視界に、階段を上ってくる一人の青年の姿が目に入った。赤茶色の長い髪が歩く度に揺すれ、茫洋とした眼差しが、今は灯緒だけを捉えている。
「終さん。どうかした?」
「いや……一緒に、『白騙』に行って貰えないかと思って」
 雪深 終は僅かに言葉を濁しながら、世界司書の隣に立つ。彼にとってその骨董品屋の名は、今も尚、傷口に爪を立てるような悼みを覚えるものなのだろうか。
「龍燈祭の折、あの店の鍵は今、灯緒とガラが預かっている、と聞いたから」
「……そうだね。きみが行きたいと言うのなら、拒否する理由はない」
 たどたどしくも真摯な言葉を聞き届けて、虎猫は黄金の瞳を細めて応えた。嘗て、その店の主であった男は、この世界司書にとっても旧知の友人であった筈だ。獰猛な虎猫の眼差しに、懐かしむような悼みの色が伴うのを、終は視とめた。
「でも、態々何をしに?」
「……帰属前に、あの場所で過ごしたい」
 終の応えに、虎猫は軽く目を瞠り、やがてほどけるような笑みを浮かべた。
「そうか、とうとう。……おめでとう、と言ってもいいものなのかな」
 控えめな言祝ぎに、茫洋とした表情のまま小さく頷いた終は身を翻し、虎猫を伴ってホールの階段を下りていく。
「玖郎にも話をしてある。あちらにもその気があれば、合流するだろう」
「承知した。……ところで、それは?」
 終が手に提げているモノの香を、隣に立って初めて気取ったのか、虎猫の金目が僅かに閃いた。獲物を見る猛獣の貌を垣間見せた世界司書に、終は淡く苦笑を刷いていらえる。
「手土産だ。灯緒にも酒を呑ませたいと思って」
「おれは酒は呑まないよ」
 応えながら、ふらふらと黄金の火を燈した尾が揺れる。視線を終の手許に注いだまま、僅かに頭を低くした。
「そう、御察しの通り木天蓼(またたび)酒だ。開けるのは着いてからに」
「――む、わかった」
 不承不承頷いて、しかし獲物に狙いを定めたままの獣を従えながら、終は世界図書館を後にした。

 ◆

 太陽を持たずとも輝く蒼い空の下、一人と一匹が肩を並べて歩く。当て所ないようでいて、確りとした足取りで、通い慣れた路を進む。
「――昏ノ神?」
 のそりのそりと巨躯を揺るがせて歩きながら、灯緒は終の言葉に軽く首を傾げた。
「噫。以前、白騙を訪れた時に蔵で見かけた。槐はあのチェンバーの主であり、座敷童のようなもの、と言っていたが」
 終は頷いて、嘗て暗闇の中で見かけた後姿を脳裏に思い描く。濃密な闇の中に融けていくような、しなやかな黒の色彩を纏う娘だった。
「蔵の主……ああ、そらちゃんか」
「そらちゃん?」
 灯緒は終の説明を聞いて合点がいったのか、僅かに虚空に視線を向け、そう応えた。記憶を探るように、黄金の瞳が瞬く。
「朱昏出身のツーリストだ。何かの妖怪の化身だと聞いたけれど……おれも、あまり出遭ったことはないんだ。彼女は蔵の奥から出てこないから」
「能力、とか、槐との関係とか、灯緒は知っているか?」
「そうだな……おれの眼から見て、彼らの関係は友人や家族というより、共生に近いものがあったかな」
 虎猫はそこで言葉を切って、そうだな、とゆるり首を傾ける。
「白犬(レタルセタ)の事は、知っている?」
「……噫」
 終は頷いて、また、静かに目を細めた。眩いものを仰ぐように、憧憬と、追悼を秘めたような色彩が揺蕩う。
「彼女のように、あの店には付喪神や、意志を伴う器物も多い。それが暴れずにいられるのは、そらちゃんが居るからだと聞いたことがあるな」
 詰まる所、人の身である槐が恙無く骨董品屋を営んでいられた理由が、あの少女にあるのだという。
「素直ないい子だから、見かけたら声をかけてみればいいんじゃないかな」
「ああ……そうする。彼女にも聞きたい事が、あるし」
 虎猫の言葉に終があどけなく、何処かぼんやりとした様子で頷く。――その耳に、音が響いた。遠く、遠い空を穿つ、力強い翼の音が。
「ん……来たね」
 黄金の瞳を閃かせ、鋭い獣は天を仰ぐ。
 見上げた視界の奥、赤褐色の猛禽が、雲一つない青の中で羽撃いた。

 ◆

「文を受けとった」
 いつかと同じ言葉。
 いつかと同じ、鉢金の奥の黄金が終を窺っている。
「ああ。いきなり呼び立てて、すまない」
 控えめな終の言葉に頭を傾ける事でいらえ、天狗(あまきつね)は近くに聳える街路樹の枝に足を留めた。背から延びる翼が木陰から飛び出して、煉瓦の路に奇妙なシルエットの影を落とす。
「あの男が朱昏の循環にとりこまれし今、もはやおまえが知る『槐』は、かの店にしか残されていない……と、いうことか」
「……噫」
 二対の翼が作った影の中で、二人の妖は視線を交わす。
「ゆこう。もうひとりの『住人』にも、会うてみたい」
 ひとつ頷きを落とすと、天狗は木陰をざわめかせて煉瓦へと降り立った。羽撃いた拍子に抜け落ちた赤褐色の羽根が、終の眼前にひらりと落ちて、彼は思わずそれを摘み取る。突き刺さるように鋭い、その切っ先にふと、想いを馳せた。
 優雅に尾を揺らめかせる虎猫に先導されながら、二人は肩を並べて歩く。風の音もない停滞した街並みだけが続いている。
 静寂の下、終が耐え切れなくなったように、ぽつりと聲を零した。
「……帰属の際、取りに行きたいものがある」
 玖郎はただ首を傾け、静かに彼の言葉を聞く。先を歩く虎猫にそれは聞こえているのか否か判らないながらも、終は然して気にする事もなく話を続けた。虎猫の方も、特に何の反応を返す事もない。
「俺が、覚醒した時から――否。その前から、ずっと持っていた簪なんだが……あまり人に見せてもない、し。玖郎にも、云ってなかったか」
「おぼえのない話だ」
 朴訥に、天狗は顎を引く。終は何処かばつが悪いような、ただ茫としているだけのような貌をし、ぼそぼそと、歯切れの悪いまま言葉を繋げる。
「故郷に戻らないことを決めた今、あの簪も必要自体は、薄くなっている……のかもしれない、が、併し、新たに別の意味が出来ている気もして」
 緻密に編まれた織のような、複雑な心境を的確に表現する言葉を探して、赤茶色の瞳を彷徨わせる。隣を歩く玖郎は何も訊かず、前を行く灯緒は振り返りもしない。その乾いた配慮が終には心地好く、ゆっくりと、心の裡を毀す。
「そう云えば……槐は、我々はギアのツクモガミの様な存在にも思えるとか、そういう話を云い出してたりもしたな」
 以前、白騙の主たる鬼面の男から云われた言葉。口に登らせれば、それは実感という名の重みを伴って心に響く。
「……そのギアも、もうすぐ手放すわけだが」
 彼の不在と、己の帰属。
 男が築いた壁の内側へ踏み込もうとしながら、併し寸での所でその手を取る事は叶わなかった。二つに別たれた漆黒の鬼面。己が手に取ろうとしたのは、角持つ側ではなく――。
 頭(かぶり)を振る。
 己の裡に沈み込もうとする意識を引き摺り上げて、終は隣を歩く天狗を振り仰いだ。
「そうだ、ギアはともかく、玖郎もたまには鉢金を――」
「――着いたよ」
 言葉を遮り、響く聲。
 前方へと視線を向ければ、見慣れた店の軒先で、虎猫が此方を振り返っていた。

 ◆

 引き戸を開いたその先には、見覚えのある店の風景だけが広がっている。だが、それに続いて貌を出す筈の、黒い鬼の姿は待てど現れない。
 ――空虚だ。
 全ては依然と変わりなく存在しているのに、彼だけが、居ない。
 実感を求めるように、品に、内装にと手を触れる終を見守りながら、灯緒は尾を揺らめかせながら奥へと消える。玖郎は品が立ち並んで狭い店の中、所在無げに翼を畳み佇んでいた。
 古びた蔵の鍵と、漆黒の炎が燈る洋燈――主を喪って尚、炎は消える事もなく輝き続けていた――を手に、三人は店の庭に置かれた土蔵へと向かう。外から見ればそれは狭い庭に置かれた小さな、物置とも見紛うほどの小さな蔵に過ぎないが、その内部が恐ろしく広大である事を、浅くとはいえ足を踏み入れた事のある終と灯緒は知っていた。
 一歩、足を踏み入れれば、艶やかなまでの闇の気配が、彼らを包み込む。
 常に黄金の火を燈す虎猫の尾でさえ、此の蔵の中では輝きを放つことが出来ない。代わりに器用に洋燈を尾の先にぶら下げた灯緒を追って、二人は慎重に足を踏み出した。
 途端。

 りぃん――と、鈴が鳴る。

 音の方向へ視線を遣った終が目にしたのは、闇の深きへと走り去っていく、いざなうような少女の後姿だった。

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!注意!
企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。

この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。


<参加予定者>
雪深 終(cdwh7983)
玖郎(cfmr9797)
灯緒(cfun2369)
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品目企画シナリオ 管理番号3195
クリエイター玉響(weph3172)
クリエイターコメントリクエスト、ありがとうございました。玉響です。
主を喪った『白騙』での一日をお届けいたします。

お二人の、恐らく最後になるであろう0世界でのひととき。
心を籠めて執筆させていただきます。どうぞ、お好きなようにお過ごしくださいませ。
『【骨董品店白騙】黒は語る』にても申しました通り、白騙の庭に設けられた蔵『空啼』は小さいながらも独立したチェンバーとなっております。探索の際は、迷わぬようお気を付けくださいませ。
灯緒は放っておけば縁側でごろごろしておりますし、昏ノ神は逢おうと思えば簡単に出てきてくれます。彼らについてのプレイングも、何か御座いましたら、どうぞ。

それでは、怠惰な虎猫と座敷童と共に、黒暁の蔵の奥にてお二人のお越しをお待ちしております。

参加者
雪深 終(cdwh7983)ツーリスト 男 20歳 雪女半妖
玖郎(cfmr9797)ツーリスト 男 30歳 天狗(あまきつね)

ノベル

「如何した」
 玖郎の問い掛けに一瞥だけでいらえ、終は闇の深きへと駆けだしていた。一歩足を踏み出せば、艶やかで、どこか粘り気のある漆黒が全身を覆うような不快感に肌を粟立て、しかしその反応を敢えて無視する。
 棚と棚に囲まれ、まっすぐに伸びる通路を、紫黒の焔だけを頼りに走り抜ける。

 しりん。

 闇を祓うような、或いは更に領域を深めんとするかのような、美しくも妖しい音色が響き渡る。
 鼓膜を叩いた少女の気配に、終は足を止める。闇に覆われた蔵は何処までも似たような景色が続いていて、果たして自分がどの辺りまで来たかさえ定かではなかった。

 しりぃん――。

 また、あの鈴の音が鳴る。
「其処に、居る……のか?」
 音の響いた側を振り返る。躊躇いがちに放った聲に、今度は応える気配があった。
 黒い髪を眉の上と肩の高さで切り揃え、漆黒の振袖に身を包んだ、小柄な少女の姿が其処に在る。終の片手から下がる洋燈の内側に似て、燃え盛る焔を孕みながら、何処か冷徹さを感じさせる黒の瞳が、じっと彼を見上げている。
「……貴方、が」
 芒と、魅入られるように終は言葉を紡いだ。
 漆黒の炎の瞳から、目を逸らす事が出来ない。静かに、対峙する者の全てを暴き出すような眼差しが、己に注がれている。
 何から話せばいいか、と言葉を探る。彼女に邂逅して、問うてみたい事は幾つもあったはずだ。だがそれはこうして相対せば簡単に引っ込んでしまい、切欠となる言葉すら判らない。
 童女は静かにそれを眺めていたが、不意に踵を返して、闇の奥へとゆっくり歩いていった。
 ――ついて来い、と。
 そう云っているかのようだ、と終はぼんやりと理解し、常闇の奥へ消えていく後姿を追いかけた。
 迷宮のように入り組んだ棚の隙間を縫うようにして曲がる。進むほどに闇は濃くなり、最早終の存在を留めているのは、手に持った焔だけだ。少女が彼を何処へ誘おうとしているのかは判らない。或は、目的などなく散策を続けているだけなのかもしれない。終は無言で、鈴の跫の後を追う。
「――?」
 ふと、静謐に慣らされた鼓膜を何かが揺すった。
 耳を澄ませば、闇に消えてしまうほどにか細い、幾人ぶんかの聲が囁き合っている――ように、感じた。
 ともすれば闇のざわめきとも紛う雑談の中に槐、という言葉を聴きとって、はたと振り返るが、其処に人の気配はない。赤茶色の瞳を細め、洋燈を顔の前に掲げれば、その聲は幾分かはっきりと届いた。
 鈴を転がすような笑い声。女の歔欷。武者の呻き声。
 会話の他にも、棚に並ぶ幾つもの品々から聲が零れ落ちている。
 それは、妖の境に足を踏み込んだ今の終だからこそ聞き取れる囁き。人であった槐では気づかなかったであろう、些細な主張。好き勝手な噂をこぼす器物たちの間を抜けながら、ぼうやりとそれに聞き入った。
「此の蔵の中も、ターミナルも――記憶も同じようなものだと、俺は思う」
 少女からの応えがない事を承知で、終はそう独り言散る。
「多くのものが出入りする。内、一部は奥底に紛れ、二度と日の目を見ないかとすら思う」
 此の少女や――かつての槐のように、個人の領域に閉じ籠り旅を忘れるロストナンバーも多い。それは奥底に閉じ込めた記憶とも、何処へ仕舞ったのかも判らなくなった品とも似ている。
 忘却は“死”をも意味する。
 ならば、この蔵の奥深く、槐ですら出入りしない場所で生きている彼らは――。
「終よ」
 ――ふと、背後から聲がした。朴訥な、野鳥の鳴き声そのもののような、男の聲が。
「玖郎」
 振り返れば、入口にて待っていたであろう天狗の姿が其処に在る。闇の奥に呑まれながら、何故か終には翼を畳み棚の合間を歩いてくるその姿が視認できた。鉤爪を模した手甲の先に引っ掛けた、紫黒の炎によるものだろうか。
「何故、此処へ」
「半刻待ってもおまえが戻らぬゆえ」
 彼なりに、終の抱える不安定な妖気を気に掛けていたのだろう。よもや闇に呑まれたのではと、その様子を窺いに来たとの事らしい。
「そう、か」
 終はばつが悪そうにも、照れたようにも見える仕種で視線を俯かせ、しかし小さく礼を告げた。玖郎は一つ頷いて、鉢金の奥の眼差しを隣の少女へと向ける。
「おまえが昏ノ神とやらか」
 少女はひとつ瞬きをし、紫黒の炎を散らせてから、無垢な所作で頷いた。
「……この蔵に棲みつづける故は、遮蔽されし棲家が利であるのか」
 野生の禽獣の鳴き声そのもののような、素朴な聲で玖郎は問う。座敷童は首を傾げる仕種だけで、その言葉の意図を問い返した。
「陰に属す物怪か、と」
 陰陽五行の理の許生きてきた天狗には、闇に融け込むようにして生きる少女の姿は陰の象徴そのものに視えるのだろう。少女はそれに頷くでもなく、否定するでもなく、ただじっと炎孕む瞳で玖郎を見上げていた。
 やがて、天狗は無言で身を翻し、二人もそれを追う。
「……槐が、朱昏に帰属した事は聞いたか」
 意を決したように、終は問いを投げた。
 少女は頷き、終を真っ直ぐに見つめている。その眼差しは彼の惑う心を見透かしているようで、居心地が悪い。――己は彼を救えなかった。そんな、後悔ともつかぬ想いだけが、未だ此の胸に蟠る。
「朱昏へは、還ろうとは思わないのか」
 その事を謝るべきかと逡巡した末に、歯切れも悪く別の問いを重ねた。己が還る場所と定めた地から弾き出されたという彼女が如何に捉えているのか、知りたいと思った。
 深い闇が齎す静寂の中、炎宿す瞳を持つ少女は口を開く。
『“太陽は二つも要らぬ”と』
 ――爆ぜる火花のような、奇妙な聲だった。少女のものでもなく、男のものでもなく、老女のものでもなく、それでいてその全てのような、数多の思念を一つに綴じ込めたような聲で、妖はそれとだけ応えた。
「太陽?」
 陰そのものを体現するかのような妖の口にした言葉を訝しむ。
 少女は言葉少なに頷いて、ふと足を速めた。木履下駄が石床を叩く。静謐な闇の中にぽくぽくと音を残して、少女は自ら蔵の外へと歩んで行った。
「あ――」
 終が止める間もなく、チェンバーの境を潜る。
 ――その刹那、世界が反転した。
 目を焼く程の光が蔵の裡に溢れ出す。
 人よりも優れた眼を持つ玖郎は鉢金の奥で顔を顰め、片手で庇を作る。それほどの、唐突で急激な変化だった。
 そして、先程までターミナルの青い空が覗いていた“蔵の外側”は、不自然なまでの黒に塗り潰されていた。宵闇よりも暗く、艶やかな紫の光沢を纏う、絹の如き黒に。

「――昏ノ神?」

 終は茫然と、漆黒に魅入られるようにして声を掛けた。
 突如として訪れた暗闇、その中央に佇む少女が此方を振り返っているのが、何故かはっきりと見て取れる。よくよく目を凝らせば、彼女は紫黒の炎と同じ光を放っているのが解る。
 ――彼女は闇の中に棲むのではない。
 彼女自身が闇を作り出しているのだ。

『槐が還らぬと言うならば、妾が此の蔵と蔵の者たちの世話をしよう』

 揺らぐ炎に似たざわめきの聲で、黒き妖は囁く。

『それが彼奴との約定』
「昏ノ神、貴方と槐とは一体――」
 同胞を懐かしむような口振りに、問いを重ねようとした終を遮って、再び蔵に闇が戻る。

 しりん。

 紫黒の焔で以て彼らを一瞥し、少女は蔵の奥へと走り去っていった。

 ◇

 ――少女は蔵の奥へと還り、骨董品店には青い空と光とが還った。
 世界図書館より戻ってきた灯緒と共に、二人は縁側に面した一室で酒を交わす。
「世界図書館へ戻って、調べてきたんだけれど」
 云いながら、虎猫が前肢で転がすように畳の上へと広げたのは一枚の絵巻草子。風化して色を変じた巻紙の上で、首の無い馬に跨る妖に導かれながら、肢を、手を、顔を得た数多の器物たちが躍る。
「此れは?」
「朱昏で記された『百鬼夜行図』だ」
 きみたちの持つ知識とは差異があるだろうが細かい事は気にしないでくれと断りを入れ、虎猫は夜行の始まりから順に、前肢を動かしていった。
 賑やかな行列の終わり、巻物の端から禍々しく顔を見せるモノ。
 黒の光を纏い、朱の墨で描かれた光放つ球体。
「――これが、彼女だ」
 虎猫は視線を落とし、とんとん、と指し示した。
 夜行の最期に現れる太陽。
 全ての妖怪を器物に返す、絶対的な夜明け。
「だから、昏ノ神か」
 彼女は其処に在るだけで、周囲を黒い光で覆い尽くす。太陽の光とも、月のない夜とも違う、絶対的な色彩で塗り潰される世を忌んで、龍王は彼女を排斥したとの事だった。しかしその力は世界を違えた所で収まるものでもない。彼女を保護したロストナンバーの一人であった槐は、困り果てた世界司書にチェンバーの使用を助言したようだ。
「彼女の光の元では付喪神を初めとする器物は沈黙してしまうんだそうだ。だから、槐は彼女に蔵の管理を任せた」
 それこそが、共生の意。
 遥か過去に槐と、彼の少女の交わした約束の詳細は判らねど、彼女が此処に棲む限り、蔵も店も0世界に在り続けるだろう。灯緒も時折日向ぼっこにやってくると言う。
 密やかな安堵に目を細め、終は巨躯を伏せた虎猫を見つめた。
「灯緒は」
「うん?」
「何故……ロストメモリーとなった。何故、朱昏を選ばなかった」
 その問い掛けの端緒は、昏ノ神に朱昏への所感を問うたものと同じだった。
「そうだな……何と云えばいいだろうか」
 郷愁と、憧憬を綯交ぜにした色彩が、黄金の瞳に燈る。彼の虎猫が、朱昏の龍王に深い敬意を寄せていた事は終も聞き及んでいる。
「――槐を、憎んだか」
「いや、ちっとも」
 朱昏との断絶の元凶となった男の名を、慎重に終が口に出せば、しかし猫はあっけらかんと笑って首を振る。
「朱昏との交流が隔絶された後、おれは考えたんだ」
 浮かび始めていた真理数を抱えたまま、虎猫は取り残された。時間だけはたくさんあったから、と虎猫は懐かしむように語る。
「喪ったものに縋るのではなく、おれひとりが世界に還ることを望むのでもなく――皆が望む旅を遂げられるよう、支えようと思った」
 ――こうして、再び朱昏と交流を持つ事が出来るようになる事も、帰属を果たそうと言うツーリストが現れるようになる事も、予測はしていなかったけれど。
 虎猫は幽かに笑って、憧憬の眼差しを彼ら二人へと向けた。
「きみたちが、あの世界を選んでくれて――おれは、とてもうれしいよ」
 有難う、と、虎猫は静かに首を垂れた。その心に有るだけの敬愛と、よろこびを添えて。
「……ヌマブチにも云われたが」
 何度となく共に旅をした隻腕の軍人の名を上げ、玖郎はゆるりと首を傾ける。
「おまえの書へ、おれの討伐がうかばぬようにせねばな」
 そして、何処かずれた言葉を添えた。小さく笑いを零した虎猫を不思議そうに眺める様子からして、本人は至極真剣なのだろうと察せられる。
「それは……大丈夫じゃ、ないかな」
「基準などあるのか」
 笑みを引き摺りながら、灯緒は前肢を動かして、手元に導きの書を呼び出した。猫の手で器用に頁を繰る、その紙面には今な何の文字も浮かんではいない。
「基準か……そうだな」
 思案するように首を傾ける。黄金の燈火を抱く尾が、ふわりと揺れる。
「きみは“共生”する事を知っている」
 人の里の近くに暮らし、実りを与えながら、人の妻と共に暮らすやり方を。故郷で送ってきた生活を、そのまま続けていれば問題ないと、虎猫は云う。
「それに、豊穣神やコンルカムイの討伐を願う人もいないだろう。きみたちは何も気にせず、朱昏で暮らしていてくれればいい」
 怠惰な世界司書は瞳を細め、二人の旅人を眺めていた。
 慈愛の滲むその視線が居た堪れなく、終は更に酒を呷る。心の遣り場を据え兼ねて、普段は対等な友として接する虎猫の、首筋に手を伸ばした。朱金の襟首を揉むように撫ぜ、白い喉許へと向かう。
 ようやっと木天蓼酒を舐め始めた虎猫は、喉許を撫でられながらごろごろと上機嫌に啼く。空気を含んで膨らむ猫の毛並みを堪能しながら、幼い童のように終は目を眇めた。
「――ところで」
 徐々に身体が左右に揺らぎ始めた彼を視とめ、玖郎はふと聲を掛けた。
「彼の男だが」
 名を口にせずとも、彼は容易く理解する。途端に赤茶色の瞳を見開いて、しかしすぐに首を横に振り、眼差しを落とした。
「我らがギアの付喪神とは、面妖なことを云う」
 手甲を備えた指先で肉を僅かに抓み、禽が獲物へ嘴を捻じ込むように、その鋭い犬歯で齧り取る。野生の仕種の合間に、聡明な言葉と思考を繰る天狗の姿を終は静かに見つめていた。
「――彼の男こそ、物に憑かれし者のように映ったが」
「噫」
 確かにそうやもしれない、と緩く笑みを刷いて、茫洋とした所作で彼の鉢金を真っ向から見とめた。
「玖郎、は、如何思う」
 言葉を促せば、天狗はまた肉を一欠片食んで、鉢金の奥から終を見透かすように頭を傾けた。
「我が種は基本身ひとつゆえ、道具にたよるところはすくないが……わからぬものでもない」
 ――用為す道具以上の、形為す具象以上の意味を、物に視ることを。
 目元を覆う鉢金に手を宛て、猛禽は人が悼むのに似た仕種で視線を俯かせる。その覆いにどのような所以があるのか、終はついぞ聴いた覚えがなかった。己が彼に、簪の話をしなかったように。付き合いの長い旅の伴とて、踏み入る事のない領域はある。
「残骸に、ゆかりの品に、名を刻んだ碑に。生者はそれらを媒介に、眼前に現存せぬ何某かへ思いを馳せる」
 此処に来てより、それがわかった、と朴訥に天狗は云う。
 朱の群れる野に建てられた、或る女の碑。
 初めはそれが弔いになる事を解せず、ひととは面妖なものだ、と首を傾げていた。
 だが、0世界に設えられた墓所を訪れて、碑を建てる意味を悟った。
「それにこころを見る如く、こころを寄せる――其は見立ての一なのだろう」
 木や金で仏を彫り出すように。
 足繁く鳥居を潜るように。
 ひとは、其処に死者の魂があると、神があると見做している。
「主観にかたどられし意味は、客観の事物と同一であれ、同義一義とはならぬ」
 其れがいつしか本当の心を持ち、かくあれと人に望まれたように動き出す様は、信仰によって生まれる神とも似たものが在るのだろう。
「――彼の簪は、おまえの思惟に如何な意味をかたどる」
 ふと、玖郎の視線が再び終に向かう。肉をまた一欠片食んで、首を傾ける。
「噫……少しややこしい話になるから、詳しくは道中で話せたら……と思う、が」
 簪に纏わるものならず、“生前”の終の記憶は混濁し、砕かれ、また容を縒り合わせただけのようないびつな有様を呈している。それをここで一から説明するのは難しい、と酒の回った頭で終は思った。
「俺の拠り所だった、物だ」
 ――いつかその簪を失う事になったら、貴方は今の貴方では居られなくなる。
 嘗て黒の男にそう云われた事を思い出す。
 朱昏での経験を経、コンルカムイと呼ばれるようになって、自分は確かに変質してしまったのだろう。
「くろう、は……」
 酒が回る。ぐらり、と伏せる虎猫に抱き付けば、暖かな毛皮が頬にふれる。
「如何した」
「玖郎は、それを取る事……は、ないのか」
「自ずからという意味であれば、ない」
 鉢金の向こうから、黄金の瞳が訝しげに終を捉える。
 猛禽としての広い視野。茫洋と広がる視界を狭めれば、意識して周りを『視る』ようになる。対峙するものが、遠くの獲物が、這い寄る天敵が、何処にあるかを見極めるため、視とそれ以外の感覚を研ぎ澄まさねばならなくなる。野生の中で生きる彼には、鉢金を外し休む暇などなかった。
「噫、いや……」
 しかし、終は茫洋とした眼差しのまま、ゆるゆると首を横に振る。
「……さようなことではないのか」
 唸るようにそう呟いて、天狗は僅かに頭を捻る。そして、徐に鉢金を留める後頭部へと手を伸ばした。
「外すのは構わぬが、特におもしろきものはないぞ」
「良い。ただの俺の我儘だ」
 乞われるに応え、その目許を護り続けた鉢金が落ちる。
 露わになった黄金の瞳が、虎猫と、彼に懐く終を捉えた。右目に斜めに奔る裂傷に終は僅かに眉を顰めたが、其れ以上は何も問わず、小さく礼を言うに留める。
「本当は……無くなってしまった物を取り戻したい、とは思っていない」
 灯緒の毛並みに貌を埋めながら、不明瞭な声音で終は独り言散る。虎猫と天狗は酒に、干肉に手を伸ばしながら、その言葉をただ聞き届けた。
「けれども……」
 ちらり、と襖の向こうに覗く、主を喪った店内の様子を眺め、幕を張った瞳を更に細める。氷の欠片のような雫が目尻を伝うのを、虎猫の毛皮に押し付ける事で隠した。
「……否、俺も、朱昏で摂理を受容れよう、と思う」
 ――彼がそうであるように。
「あの世界に、俺がまだ失くしていない、見つけるべき物が在る」
 儀莱に消えた彼の後を追うのではない。
 彼の地より、新たな旅路を築くために。
 燈火を尾に纏う獣の、柔らかな毛並みは暖かく、心地が良い。
 微睡みに意識を絡め取られていきながら、終の瞳は茫洋と、しかし眠りに落ちるその瞬間まで、玖郎の素顔を捉え続けていた。躍起になる子供のように、その網膜に焼き付けんと。
 ――いま、このひとときでさえ、夢のようだと思う。

「人は死ぬ、容は無くなる……記憶はもっと、簡単に――」

 冬枯れの山のような、その瞳が閉じられるまでを、灯緒と玖郎は静かに見守っていた。

 <了>

クリエイターコメント大変お待たせいたしました!
お二人にとって最後となられる、白騙でのひとときを記録させていただきました。

(記録者でさえも若干忘れかけていた)昏ノ神へのアプローチ、ありがとうございました。
今の所彼女は外へ出る気がありませんので、お二人が朱昏に根付かれた後も、骨董品店は0世界の片隅にひっそりと残り続けるものと思います。

最後に再び終様と玖郎様を描く機会を頂けて、非常に光栄でした。
字数の関係上駆け足になってしまった部分も多くありますが、このひとときがお二人の記憶に残る事が出来たなら、幸いです。

それでは、お二人が朱昏で送られる新たな生に、光在りますように。
公開日時2014-03-18(火) 23:20

 

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