「……カフェに来たのは久しぶりだわ。ここなら条件に当てはまる人がいると思うのだけれど」 透き通った美声に振り返る者、置かれた品物に興味を覚えた者が近寄ってくる。右は菫、左は暗紅の瞳はいささか目つきは悪いが、浅黒い肌に踊子のような衣装で見回すY・テイルが首を傾げる。「Xmasプレゼント交換で私に届いたのだけど、これ……蓋が開かないの。残念ながら私はお酒を嗜まないし、中身はそれほど興味はないのだけれど、この蓋がどうしたら開けられるのか、それが知りたいのよね」 ほうほう、ふむふむ、と頷きながら、引き寄せられてくる者。「もし開いたら中身を教えて欲しいって、贈り主の鳴海司書が言っているの。一緒に詳しい話を聞きに行きたい人、いるかしら? 例えば、お酒に目がないひととか。あとは、これ……「1000歳を越えた者が開けられる」らしいのだけれど、もしかして1000歳以上の方、どなたか、いて?」 それはそれは、とまた近寄る者。「むほー…… 1000歳以上でお酒大好きなお爺ちゃんじゃよー」 現在はいささか縮小形、本来ならば隊長10mを越す蛇竜のアコル・エツケート・サルマが舌をシュルシュル出しながら、瓶を覗き込む。「ふーむ、空かない酒瓶とな。中身も気になるのぅ。ちーとワシ、その話に乗らせてもらっても構わんじゃろか?」「そういえばお爺ちゃん、1000歳超えてたのよね。つい、見かけで捉えてしまうのが、0世界の怖いところだわ」 頼りにしてるわ、とYは片目をつぶって見せる。「ごきげんよう。面白い話だね……よければ一枚噛ませてくれないだろうか」 続いてイルファーンが銀細工の腕輪や足環を鳴らしながら話しかけてきた。雪花石膏を思わせる色白、ピジョン・ブラッドの瞳を瞬かせて微笑む。「こう見えて齢は重ねてるんだ。千より後は倦んで数えるのをやめたけど……異郷の美酒もぜひ賞味したい」「ごきげんよう。ここにも1000歳以上のひとがいたのね……ひと……ひとかしら? まあいいわ、もちろん君も、興味があるなら一緒に行きましょ」 どんな味がするかしらね、とYは瓶を一撫でする。 その背後から猫に似たくろいいきものが寄ってきて、何かびょわびょわ鳴いている。「あら、可愛い子。前にも会ったわね?」 いきものを見やったYが、いきものの後ろからゆっくりと近づく姿に気づいた。「…千年の酒、か。聞いたことがなくもない。私が知るのは、一口で千年酔い続けることができる酒の話だ。この身は死してより酔えないが、興味はある。この舌は、味わうことを忘れたわけではないからな」 ボルツォーニ・アウグスト、銀に近い金髪に青い瞳、黒革のロングコートを纏う、齢1600歳の不死の君主だ。「……千年酔えるお酒なんてどうやって作るのかしら」 Yは別の不可思議な酒に興味を抱く。「呑みたいわ」 ひょい、と覗き込んだのは臼木 桂花、赤縁細眼鏡、夜会巻きに銀鳥の簪、白系チャイナドレス、黙って立てば牡丹もかくやだが、「私、お酒大好きだわ。千年も経ってると下手すると酢どころか中身もなくなってるんじゃないかって気がしたけど……へぇ、入ってるのね」 まじまじと瓶を眺めた。「呑みたいだけならもっと大きいツボの中にそれ入れて粉々にかち割って中身だけ飲んじゃえばって思うけど、みんな浪漫を求めてるのね。苦労して開けたお酒は美味しいかもしれないし、付き合ったげるわ」「そうね、壊してしまったら、かけられた術か何かまで、失われてしまうかもしれないじゃない? 私はそれが知りたいの」 Yは肩を竦めてみせる。「これでもいろいろ試しはしたのよ? 出来たらその浪漫に、付き合って頂けるかしら?」 見下ろす桂花に、軽く顎を上げて目を細める、そこへ、「きになるきになる! なるみんってあの毎日寝起きっぽい人でしょ?なかなかコジャレたものもってるじゃない!」 パンパンと自分の腕を叩きながら、青い髪の一つ目っ娘イテュセイが、悪戯っぽい紫の目で瞬きしつつ、口を挟んだ。「ここはひとつ80462万年の英知を駆使してあたしもチャレンジしたーい!あ、でもめっこさんは18歳だからその先はNGだかんね!」「…それで君、いったい何歳なの?」 Yは苦笑しながら見上げた。「って、聞いても無駄かしら。いいわ、君も一緒にね」 これでかなり望みが出て来たわね、と集まった仲間を眺めていると、「さすがに1000歳越えるほど生きちゃいないが、俺もその酒の蓋の開け方が気になるな」 のっそりと声をかけてきたのは、メルヒオールだ。右上半身が石化しており、無造作にまとめた寝ぐせヘア、魔法学校の教師用ローブを引っ掛けた姿で肩を竦めながら、「まぁ、これだけ人がいれば俺の出る幕はあんまりなさそうだけどな。良かったら参加させてくれ」「あら、君も不思議が気になるほう? 私はほぼ手を尽くしてしまったのよ。他の方法が在るなら試してみたいわ」 Yはメルヒオールのローブをちらりと見やって頷く。「…千年には満たぬ若造なれど…酒と聞いて素通りできぬ。儂も良いか?」 さきほどからあちらこちらを漂うように歩いていた業塵も、しばしためらった後、気合いを入れ直したように話しかけてきた。「『首酒』なる…珍妙愉快な酒の話は耳にした事あれど…千年開かぬもまた面白い…」「『首酒』……ね。私は飲もうとは思えないけれど。そんなものでないことを祈るわ」 一瞬ひくりと目元を引き攣らせたYが、それでも業塵の姿に興味を覚えた顔で頷く。「……それじゃあ、ちょっと司書室へ様子を見てくるわ。鳴海司書もあれで忙しいひとだから、アポイント入れておくべきよね?」 イテュセイの言うようにいつも寝起き状態には見えても、一時たて続けに司書の昏睡が続いたのだ、仕事は溢れかえっているだろう。「あ、瓶は置いておくけど、気をつけて。中に何かが見えるような見えないような、不思議な感じがするのよ。勘違いなら良いのだけれど」 Yが目を眇めて呟き、席を立つ。 返事が戻るまで、と一同は改めて瓶を眺めた。 人の前腕ほどの高さの緑色の半透明の瓶だ。口には陶器製らしい蓋が蜜蝋のようなもので封じられている。その上から、複雑に組まれた銀色の金属の留め具が嵌まっている。陶器の蓋には『千』と書かれているようだ。「面白いね……瓶の内側に精霊のような気配がある」 イルファーンが考え込みながら凝視した。「酒だけではなく、何かが封じられているのかな?」「うーん…中身に至る門は三層ってとこだな。金属の留め金、封蝋、陶器の蓋」 メルヒオールが目を細める。「留め金には何も掛かってないが、封蝋と陶器の蓋には術がかかってるようだ。開けられる者を制限してあるようだな」「中身が酒であるには違いない」 業塵がじっと瓶を見つめながら続ける。「しかし何を浸けておるのかな…今何やらと視線が合うたような…」「んじゃあまずはやってみちゃおうか!」 止める間もなくイテュセイが酒瓶を取り上げ、留め具に指を引っかけた。「何だかこれ複雑! 指が入らない! でも入れちゃうどうだ!」 びしっ!「待った!」 桂花が慌ててイテュセイから瓶を奪い取った。鋭い音が響いたあたりを調べ、「ばかばかばか! 80462万年の英知はどこ行ったの! 見てよヒビが入ってる!」「あえ?」「あえじゃないでしょこの一つ目単細胞が!」 ギアの銃を抜き放ちかねない桂花にイテュセオは唇を尖らせる。「何おー自分だってツボの中でかち割ってみろって言ったくせにー」「皆の浪漫に付き合うとも言ったわよ!」「お嬢ちゃん達がわいわいやるのは可愛ええのぉ」 アコルは二人のやりとりを嬉しげに眺めつつ、とりあえず二人から瓶を取り上げたボルツォーニを見やる。「どうやら力づくというのは、この瓶の作り手の意図とは違うらしいのぉ」 びゅあびゅあ、とくろいいきものがテーブルに乗って一所懸命に手を伸ばそうとしているのを見下ろし、届きそうで届かないあたりで瓶を確かめながらボルツォーニはゆっくりと浮き彫りをなぞる。「ここにヒントがありそうだ」「どれどれ……ほほう、この竜と遊ぶ娘は手に瓶を持っておる…この瓶と似ておるな……瓶の口から流れ落ちておるのはひょっとすると酒ではなく、封蝋、かの?」「それに、こちらの少年、左手に持っているのは本、右手に持っているのは細かな作りだが……留め具、か?」 ボルツォーニは眉を寄せる。びゅあああといきものが必死に伸び上がるのにひょいと瓶を持ち上げ、「そう言えば、組み方によって開けられる相手を限ることができる留め具のことを書いた本があったな」「ほほ?」「1000歳を越えた者が開けられるというのは、その制限の基準ではないか」 びゅいびゅいとどことなく泣いているような声を上げていたいきものが、びゅ、と瓶の底に伸び上がった。「何だ?」 ボルツォーニと桂花が覗き込み、瓶の底にあったぼろぼろの小さな紙を読む。『生魂花園(シェンフンガーデン) 平凡堂』「もし、僕の記憶が間違っていなければ、そこは確か、前館長捜索の時に捜索先として上げられたインヤンガイの場所だよ。怪しげな薬剤や治療法を売り物にしている界隈…とあったと思う」 イルファーンが記憶を辿って頷いた。「つまり、そこで売っていたというわけね」 桂花が大きく頷く。「そこを当たってみるのもいいわね」「でも、あそこはもう寂れてほとんど人が住んでいなかったはずだよ?」「確かめてみる価値はあるわ」 少々手荒いことをしても聞き出せる手段はあるし。 にっこり笑う桂花に、「そのような場所で売られていたということならば、これは薬酒ということであろうか」 業塵が舌なめずりをした。「さぞかし珍な味がするのであろうな」「お待たせ」 Yが笑顔とともに戻ってきた。「了解取れたわ。それと、新しい情報が一つ」 Yが差し出したのは今にも千切れて崩れそうな紙。「その瓶を入れていた棚に残っていたそうよ。元々張り付いていたラベルが落ちたのかも、ですって」 覗き込んだ紙には半裸姿の女性が薄い布を腕に飛ぶ絵とともに『天女酒』の文字が描かれている。「ってことは『天女』が入ってるんだ!」「違うでしょ!」 イテュセイのボケに桂花が突っ込み、アコルがラベルをしばらく眺めた後、楽しげに顔を上げた。「お爺ちゃんの老眼でかろうじて読めるのじゃが、効能書きにこうあるぞい」 『一口呑めば、絶対絶命を一度だけ回避』「凄い!」「せこいっ!」「面白いですね」「怪しいな」「旨いのであろうか」「何はともあれ」「始めようか」「びゅい!」 期待を胸に、それぞれ立ち上がる。 目指すは、幻の古酒の大酒盛り。=========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>アコル・エツケート・サルマ(crwh1376) イルファーン(ccvn5011) ボルツォーニ・アウグスト(cmmn7693) 臼木 桂花(catn1774) イテュセイ(cbhd9793) メルヒオール(cadf8794) 業塵(ctna3382) Y・テイル(cfzs5134)=========
さて、件の古酒を味わうためには如何なる手法が必要か。 「それじゃ私は生魂花園の平凡堂に行くわ。ついでに家に今日は遅くなりますって言ってこれるもの」 真っ先に表明したのは桂花だった。 「家?」 きょとんとした顔でYが首を傾げる。ここにいるのはロストナンバーかコンダクター、インヤンガイに自宅がある者などいないはずだ。 「私、陰陽街で押しかけ女房してるのよね。陰陽街絡みの事なら何でも興味あるわ…お酒じゃなくても」 桂花は悪戯っぽく眼鏡の奥からウィンクして見せた。その瞳に一瞬微かなかぎろいが過ったようだ。独り言のように、「そうね、陰陽街に再帰属する手がかりがついでに手に入れば素敵よね」と呟いて向けた背中が、どこか淋しそうに見えた。だが、それも一瞬、 「分かった事はノートで連絡、それでいいわよね?」 明るく肩越しに声をかけてくる。 「じゃあ、僕も一緒に行こう」 イルファーンが頷いた。 「封蝋の正体は龍涎香じゃないかと思う…だが、単にそれで固めただけとは思えない」 「龍涎香って、聞いたことあるある。変わった作り方する香料だね!」 イテュセイが大きな瞳をぐるんと回した。 「作り方、というか…鯨の体内で作られる結石かつ貴重な香料だよ」 イルファーンが穏やかに微笑む。 「その芳香と他の自然物には無い色と形から『龍のよだれが固まったもの』であると考えられて、この呼び名がついたんだ。僕の居た世界でも香を嗜む富裕層に好まれた……神経や心臓に効く漢方薬としても重宝されたから、薬師なら当然知ってる筈だ」 生魂花園でその手がかりが得られれば。 「俺も行こう」 さっきからためつすがめつ、瓶を眺めていたメルヒオールが振り向いた。 「中からいったい何が覗いてるんだ? 効能とやらも怪しいものだ」 それでも、幾重にもかけられた封印をどうやって解くのかには興味がある。 「まあ、インヤンガイだし…薬剤とか治療法とかは面白そうだが、怪しげな、というあたりが、なあ…」 がしがし、と頭を掻いたが、桂花のうずうずした気配を感じたのだろう、 「とりあえず、酒を呑む前に絶体絶命になったら笑えないぞ。余計なトラブルに巻き込まれないようにしよう」 「年齢制限を設けるとはなかなか酔狂なことじゃなぁ。しかしインヤンガイで作られたとなれば1000歳というのは開けられる者は存在するんじゃろか? 霊になってからも年をとる、ということならばいけるんじゃろうがなぁ」 アコルはちろちろと舌を出し入れしながら瓶を覗く。 「ま、何はともあれ本の捜索じゃな、『生魂花園 平凡堂』で情報収集した後、霊に心当たりが無いか聞いてみようかの」 「0世界に持ち込まれていない本なら一目でわかる…私もインヤンガイに行くわ」 でも…いくらやっても解けないはずだわ、とYは吐息を零した。 「ずいぶんいろいろ考えたのよ、竜伝説や言い伝えの類を調べたり思い出したり……竜は何を表してる? 龍脈? 王? 滝? 神? 仙人? 雨? …とかね」 蛇かしらとも思ったから、さっき、アコルお爺ちゃんに巻き付いてみる、って聞いたみたんだけど。 「まさかヴォロスの竜が来たわけではないでしょう? 竜刻が作用するか試すのも手だけど、さすがにそこまでは、ね」 遊ぶというのも意味深だし、とYは次々浮かぶ発想にいささか溺れそうになっている。 何はともあれ、インヤンガイへ向かおう。 鳴海が手配したチケットを手にターミナルの駅へ歩き出した一行の最後尾に、ふらりと業塵が付いていく。 そこだけぼんやりと薄暗がりが広がっている。 インヤンガイ、生魂花園はそういう気配だった。 細い路地が幾つも交差する。斜めに傾ぎ、崩れかけた屋根、軒下の看板には何が書かれてあったのか、どす黒い染みがついていて読めなかったり、外れかけていたり。煤けた店先のガラスケースの中には砕けた陶器の器や瓶、髪の毛の塊にも見える得体の知れないものが広がっていたり、古ぼけた骨や石が並んでいたり。 「生魂花園…マンファージ、フォン・ルゥ絡みの事件があった街区ね。報告書で読んだわ。マンファージは真理数がある、世界計に浸食された人間にも真理数がある…変な符号よね。世界計もディラックの落とし子を使ってるんじゃないかと疑いたくなるわ。今回は関係ないと思うけど。パパ・ビランチャが居なくなっても置き土産の1つや2つはありそうな街区でもある…気を付けましょう」 銃を確かめ、いつでも抜き出せるようにした桂花が厳しい顔で促す。 いつぞや、生皮本などという物騒な本が山積みされていたのはどのあたりか。フォン・ルゥが素知らぬ顔でロストナンバーを迎えた『万民招来』はどの筋に面していたのか。そしてまた、マン・ファージと化したフォン・ルゥが業火を広げたのはどの区域であったのか。 だが、生魂花園は報告書に語られたよりもなお、寂れくたびれ薄れ果てていた。数々の事件が街から全ての活気を奪い尽くしていった、そうも見える。 「誰もいないの? …あ、ちょっと!」 ふわり、と路地の彼方に揺れた人影に桂花はためらいもなく走り寄った。灰色の、ところどころ穴の空いた編み笠のようなものを被った曲がった背の男だ。 「平凡堂に薬酒を買いに行こうと思って。でも無駄足は踏みたくないの。どんな薬酒をメインに扱ってるか知らない?」 立ち止まったのをいいことに、桂花は話しかけた。 「…平凡堂? へいぼんどう…?」 「そう、平凡堂よ」 「どこの」 「え?」 「どこの、平凡堂なんだい?」 男はゆらゆらと細い体を揺らせ、俯いたまま繰り返す。 「生魂花園のよ!」 「だから、ここの、どこの」 「何よ、からかってるの!」 「からかってるのはおまえさんだ」 編み笠の男は肩を掴んだ桂花の手をそっと押さえた。氷のように冷たい感触に思わず手を引いた桂花に、相変わらず俯いたまま、 「平凡堂はここらあたりの薬屋の名前だ。そっちにも……そらあっちにもあるぞ」 男は細い指で通りの端、その向こうの角、そして遥か向こうの看板を指す。確かに『平凡堂』と書かれた看板や布が垂れ下がっているようだ。 「これは手分けするしかあるまいの」 アコルがしゅるしゅると音を立てながら移動し始める。 「……他にも多くあるということか」 業塵は陰鬱な気に紛れるように動き出す。どうせなら、フォン・ルゥが根城にしていた不老不死を研究した工場もついでに回ってみようという心算だ。 「これだけ寂れてるなら、もう潰れてる可能性もあるな」 メルヒオールは吹き寄せてきた風に顔をしかめて、向きを変えた。 「そいつみたいに多少情報をくれればいいが、とにかく人を捜して聞き回ってみるか」 「僕はあの店に行こう……今人影が動いたようだよ」 イルファーンが指差し、 「じゃあ、私はあっちね。あの道の先にも『平凡堂』があるようね」 Yも別方向へ歩き出す。 それぞれが散らばっていく中、桂花は振り返って編み笠の男に『平凡堂』が幾つあるのかを尋ねようとしたが、男の姿がいつの間にか消えている。 「ポチ、危険が迫ったら吠えてね」 セクタンが小さく尾を振り、暗く沈んで曇った空を見上げる。 「お邪魔するよ」 イルファーンは『平凡堂』と書かれた木の板が斜めにぶら下がった店に足を踏み入れた。薄暗い通りになぜこれだけの光が漏れないのかと思われるほどの明るい店内、戸口は開け放たれ、店の左右には無数のガラス瓶、中には液体に浸けられた蛇や昆虫、動物の臓物が浮かび、根本を括られた薬草が束になって壁から吊り下げられている。つんとした匂いは薬屋独特、彼が見知ったものも幾つかあるようだ。 まっすぐ奥の小さな一画に、朱色の座布団に座った少女が一人下を向き、きらきら光る石の数珠を両手で一つ一つ無心に繰りながら、高い声で応じた。 「いらっしゃいませ、お客様」 「懐かしいね、故郷のものと同じ薬草があるよ」 「いらっしゃいませ、お客様」 「ずいぶん品揃えがある……これだけのものを揃えた店主ならば、天女酒という薬酒のことも知っておられるだろう」 「いらっしゃいませ、お客様」 「………相談なんだが」 繰り返されるそっけない挨拶に、イルファーンは用心深く歩み寄った。 「これらを用いた新しい薬の処方を教えるから、その代わりに情報を話す…… というのはどうだい」 かこん、と少女の首が奇妙な揺れ方をした。より露になった首筋に、気のせいだろうか、継ぎ目のような線が入っている。しばらく少女は黙っている。イルファーンもまた、黙ったまま、ゆっくりと周囲の薬種を眺めた。 彼は治癒魔法の遣い手だ。だが、精霊の権能が成した業は人の運命を狂わせる。彼が起こす奇跡では、直接出会った者しか救えない。しかし、人の手が習い覚えた技能は子々孫々に受け継がれる。出会わぬ見知らぬ多くの人をも救済する。 治癒魔法が届かぬ時間の彼方の人々に向けられた救い、その有りようにイルファーンは深く心を動かされる。天女酒もまた、そういう類のものだろうか。 「こんな伝説を知ってるかい?」 少女の沈黙にイルファーンは語り出す。 「昔ある処に父から木の実を貰った娘がいた……」 木の実から出てきた虫を大事に育てた所、成長して龍になった。 娘は龍と共に島に渡り、また別の島に渡り住み、 「ついには龍の巣穴を通じて異界の丘へ至ったという」 封蝋を解く鍵はきっと龍と娘の絵にあるだろう。店主が天女酒の情報を持っているなら、この話に何かを感じ取り、知らせてくれるのではないか。 「……何をご所望、お客様」 少女はようやく違うことばを紡いだ。かこん、と再び妙な音をさせて顔を上げる。視野に入った真っ白な顔、両目に埋め込まれたのはぎらぎら輝く蒼い石、唇の端に入った線がすり合って顎が下にずれ、開いた四角い空間から声が響いた。 「永遠の命なら私を売ろう。傷まぬ体なら私と取り替えよう。こんな話を知ってるかい」 昔ある店に不満だらけの娘が居た。 もらったものを何一つ喜ばず、祖末にしては放り投げた。 娘が欲しがったものが何かわからず、身内は疲れ果てて娘を瓶に封じ込めた。 導師に頼んで術をかけ、千年たてば開けてやろうと約束した。 「だが、身内はとうに死に絶えた。導師もどこかへ旅立った。瓶は店から店を転々とし、開けられる日を待っている。天女酒をご所望かい、お客様」 呑むんなら、約束事を守るんだ。 かかか、と笑って少女はかこり、と俯いた。そのまま再び、石の数珠を繰り始める。 「……なるほど。なかなか物騒な代物だね」 では、約束事を守ろうか。 イルファーンは店の薬草と酒を数種使い、調合したものを小瓶に詰めた。少女の前にことりと置く。 「数珠を繰るのに疲れたら呑むといい」 ぴたりと数珠を繰る手が止まり、これは毒か、と高い声が聞いた。 「疲労回復剤だよ。転売するのはよした方がいい、君にしか効かないだろう」 イルファーンは微笑して背中を向ける。 「出来れば長生きしておる霊が良いか。霊で長生きというのもおかしなものじゃが。霊のコミュニティ……インヤンガイにあるんかのぉ。あれば年長者の場所も聞けそうなんじゃが」 インヤンガイで千年の年を経た者、それは霊であろうと考えて、アコルは繰り返し漂う霊、潜む霊に接触しようとしているが、この場所はよほど霊達にとって居心地が悪いらしい。行けども行けども廃屋が連なり、人の気配も霊の気配もしない。 「暴霊達を巻き込んだ大立ち回りがあったらしいわよね……そういう関係かしら」 幾つか『平凡堂』の看板のある建物を見て回り、ボルツォーニのことばを思い出して本屋らしいものも探してみていたYだったが、今のところ手がかりがない。彷徨い歩くうちにアコルと合流した。 「……イルファーンからメールが来てるわ。……うわぁう」 思わず素っ頓狂な声を漏らしてしまった。 「天女酒は、不満だらけの娘を導師が封じた瓶、ですって」 「そもそも酒じゃありゃせんがのう」 アコルが残念そうに舌を出し入れする。 「でも、鳴海は酒だって言ってたわ。それに中に入ってたのは確かに液体よ」 振るとちゃぷんと音がしたもの。 「確かに酒の香りもしていたようじゃが……千年たてば開けてやる、とは、また非情な身内も居たものじゃ」 千年生き延びることは生身の体には許されまい。かといって、ここはインヤンガイ、絶対あり得ないかと問われれば、あり得ないとも言い切れまい。蜘蛛の糸より細い希望、それに縋るしかない絶望、二度と開けてはやらないと言ってやった方が、惨さは僅かにましなようだが。 「でも、その『平凡堂』の店主もおかしな少女だったのよ? 本当かどうかはわからないわ。第一、竜と関係ないじゃない……あ、見て、お爺ちゃん」 Yは通り過ぎかけた細い路地を見やった。少し先に『平凡堂』の布がはためいている。その手前に無造作に並べた箱に本が積まれているようだ。 「あれも『平凡堂』じゃない?」 「ふむ、本屋、かの」 「本屋でお酒を売っているかはわからないけど」 でも、先の少女が店から店へと言ったのなら、留め具の解き方を記した本と一緒に瓶が転売された可能性もあるかも知れない。 「行ってみましょう」 「先に行こうかの」 アコルが体をやや伸び上がり気味にくねらせて路地を進む。その体の下に巻き込まれないように付き従ったYは、古びた木箱に積まれた本に目を丸くした。 「凄いわ…この本、どれも知らない!」 文字は様々、大きさも様々だ。Yは、ターミナルの『フォーチュン・ブックス』の本はほとんど読み尽くしつつあるが、それでもここにあるのは全くの異種、似たものを見たことさえない。 「う…開かない本もあるわね」 取り上げた本の一つは周囲をぎっちりと何かで固めてある、まるで内側にあるものが外へ逃げ出さないようにと警戒するように。そのでこぼこした表面を撫でてYははっとする。 「これ……あの瓶の封蝋そっくり!」 ひょっとして、ここにヒントがあるの? 「これ、お嬢ちゃん」 「入ってみるわ、アコルお爺ちゃん」 「お嬢ちゃん、待ちなされ!」 がらがらがらっ! いきなり崩れてきたのは、戸口の間近に積まれていた木箱だ。けたたましい音をたてて落ちてきた。下敷きになればただでは済まない、ひやりとして覗き込んだアコルの視界に巧みに木箱を避けたYの姿があった。 「大丈夫よ、お爺ちゃん、安心して」 ここに奇妙な感覚があるの。 Yはトラベルギアのレースの手袋で、戸口近くを軽く押すような仕草をした。 「見えている通りのお店じゃないのね。閉店しちゃった古書店、そんな感じだけど、ここは昔は薬屋さんだったのね」 くるりくるりと色の違う瞳を煌めかせて周囲を見回す。現実と霊界を同時に見る瞳には急場仕掛けの罠は効果がなかったようだ。 「その通りじゃよ、お嬢ちゃん」 ここから覗くと、あんたの正面に妙な霊がいるのが見える。 アコルの声は高みから響く。伸び上がって移動していたせいで、ちょうど店の二階から覗き込む格好になり、それで古書店の奥で寝そべっている男を見つけたのだと言う。 「おじさん? ちょっと聞いてもいいかしら」 奥に寝そべっているのは真っ黒な衣をまとった坊主頭の男だった。大きな目を見開いている、ただし、その目は三つ、どれも血走っていて今にも泣き出しそうなほど潤んでいる。 「この本を閉じている封蝋はどうやって作ってあるの」 『俺の涙だ』 「涙?」 『俺が泣き明かして、それを煮詰めて造った蝋だ』 「あなたはだあれ?」 『俺はうろん坊、それ、この通り』 「っ!」 男はふいに自分の眉毛を両手で掴んで、ぐいと顎まで引き下げた。ぴちりと伸びた皮が一気に顔中を塞いでしまい、残ったのは額に一個だけ開いた黒い瞳。そこからわらわらと涙が溢れてくる。 『涙の蝋は涙で溶かす。そんなことは当たり前だろああああ当たり前なんだ』 男はばしばしと血走った目を瞬いて、どんどん身を竦めていく。 「おいおいお前さん、ちょっと待ちなされ、天女酒の開け方を知らないか」 『知ってるさ知ってるからこそ泣いてるさ泣いてるからこそ開くのさああああ』 アコルの声にYが振り仰ぐ。 「お爺ちゃん、あの涙」 「試してみなされ、どうやらあのお人は千年越えているようだ」 「うん」 Yは店の中にそっと踏み込んだ。さすがにアコルは通れない、きしきしときしむ木箱の間を縫って、男が身を竦め竦めてどんどん小さく縮んでいく、その手前の涙溜まりにそっと本を触れさせる。 『開けてやってくれ開けてやってもう充分なのさ充分だったのさ……』 「溶けた!」 Yはぬるりと動いた本に歓声を上げた。急いで表に戻ってくる途中、棚を占めた本に目がいく。何だろう、何かの薬の調合書のようだ、それに見たことのない図鑑のようなものもある、あれはひょっとして。 「お嬢ちゃん、早く来なされ!」 「っっ!」 つい興味を惹かれて立ち止まりかけたYを、アコルが呼んだ。振り向くと、戸口の木箱がぐらぐらと揺れじりじり崩れ始めている。背後の男は小さく小さく小さくなり、今ではもう豆ほどに縮んでしまっている。 「きゃ、あっ!」 かろうじて擦り抜けたYの手から本が飛んだ。ばさばさと空中で開かれて、中身を散らし飛ばしそうになる。ここで粉々になってはせっかくの手がかりも水の泡だ。地面に叩きつけられる前にキャッチしようとしたYの指が、後一歩届かない、ところで、 「はぐっ」 アコルが体を捻って間一髪食いついた。 「お爺ちゃん、ありがとう!」 「……うむむむむ…」 喜んで駆け寄るYに、アコルはさすがにげんなりした顔で口を開く。 「一つわかったことがあるぞい……あの封蝋はとんでもなくまずいものじゃ。苦いとも渋いとももう口の中がぐしょぐしょするような…」 「ご愁傷さま」 Yは慰めた。 「後でおいしいお酒を呑みましょ?」 業塵はふい、と店から出る。 『天女酒』が首酒とは思っていない。効能にも興味はない。人数が揃っているから、誰となり開けてくれそうだが、珍しい酒は呑んでみたい。 生魂花園に幾つもある『平凡堂』のあらかたは回ったのではなかろうか。身内から妖蠱を放ち、他の者が回った場所は外して、関わりのありそうなところをことごとく漁った。資料の他、『天女酒』に似た匂いや気配、竜や娘の名がついた酒や油、薬や杯を探し、不老不死を研究した工場へも赴いた。 工場は跡形もなく崩れていた。焦げ爛れ、崩れ果てた瓦礫の塊、そこへ近隣のものがあれやこれや、身近に置いておきたくないものを投げ込み持ち込んだのだろう、腐臭漂い、地面はぬらぬらと汚れて黴のような奇妙な植物が生え、羽虫飛び交い、死骸も十や二十ではない。骨と化したものならまだしも、今腐り落ちていく最中のものも結構あり、汚穢に塗れたその一画から、それでも誰かが必要なものをかすめ取っていた様子もあり、人の欲望極まった場所だった。 もっとも、その中をふわりふわりと無気力に漂う業塵には、特別変わった状況とも思えなかった。もっと凄まじい修羅の世界も知っている、妖物が跳梁していないだけ清冽かもしれない。元から不老不死を願う心さえ、欲望の最たるもの、我が身に受け止めれば物狂おしいだけのものなのだが、満たされぬからこそ描ける夢想とも言える。 「さて…見つからぬのう」 『天女酒』の匂いは覚えている。華やかで柔らかな香り、確かに天女の名前を冠するに相応しいが、今まで呑んだ酒の中ではあのように生温かな肌の気配のものはなかった。首酒ではないが、それに極めて近しいものかと想像しつつ、それを引き受ける杯とは何かと考えてしまう。 工場跡で、既に中身はことごとく腐り落ちて虫が残りも喰んだのだろう、白くぽかりと開いた頭蓋を見下ろし、こういう杯こそが相応しいかとも思ったが、宴となると都合八つは必要だろうし、いささか大き過ぎてあの瓶の量では皆に渡らぬかも知れない。ここまで手分けして、酒を呑めぬものが居るのは口惜しかろう。たとえば竜の頭であるとか、そういう類の器も探してみたが、これも思うようなものはない。 封蝋や蓋には確かに術式がかかっていた。それを妖力で丁寧に慎重に読み取ろうとは試みた。熱して蝋を溶かしたり、熱した刃で蝋を削ぐのもあまりに無粋、あくまで最終手段とし、無理には外さぬことを心がけた。 「…女を手篭めにするかの如き真似は…好かぬ」 結果、業塵には封蝋も蓋も外す算段がつかないこととなった。 とらべらーずのーとに送られてきた情報からは、『天女酒』は娘を封じたものである可能性があるということ、開け方が書かれていそうな本を見つけたとのこと、とりあえず戻って宴会の支度でもしようか、と考える。 “酒その物”に飲まれる心算があれば、宴会の支度をすれば開くかも知れない、そうも思いついている。娘かどうかはわからぬが、何かが封じられているのなら、その何かが出て来たくなるように整えるのもまた必要だろう。 それにしても、杯だ。 もう一軒だけ『平凡堂』を当たってみるか。 放った蠱に誘われて、次に入った店はがらんとしていた。 「…ごめん」 一応訪いを告げてみる。寝転べそうな広々とした埃だらけの土間、周囲に薄く造られた腰掛けのような上がりがまち、壁を埋める棚と引き出しは方々開け放たれて放置され、中身は既に持ち出された後のようだ。零れ落ちた草を踏み、細かな種が弾けて散らばる。微かに香油と酒の匂いがする。ここでも薬酒を扱っていたのか。 それにしては瓶が一つもない、と不審に顔を上げた時、それが目に入った。 天井にべったりと男が張りついている。両手両脚を広げ、きつく目を閉じ、まるで何かの罪人のようだ。 しばらく眺めた。 何も起こらない。 静かな街の静かな店で、静かに男が天井に張りついているだけだ。 つまらぬ、と向きを変えた途端、背後でがしゃがしゃがしゃんと派手な音が鳴り響いた。振り向こうとした矢先、肩越しにさっきの男が満面の笑みで覗き込んできてけたたましく喚いた。 「瓶やでございます瓶や瓶や赤いの青いの黄色いの、何がお好み何をお望み!」 ぐるぐる回す大きな目は虚ろでとても業塵を見ているとは思えない。だが問われているのだし、何かを提供してくれるのだろう。『平凡堂』とあるからには、何か縁があるのかも知れない。 「杯が欲しい」 「杯杯瓶やに杯、それはそれはご無体な!」 「ないのか」 「ございますともありますともそりゃあもちろんほれこの通り!」 引っこ抜かれるように男が背後に顔を引っ込めたので、向きを変えた。目の前に男が両手を広げて立ちはだかったまま、大口を開いて笑っている。その頭の上、肩の上、腕の上、腹回り、足回り、色とりどりの瓶を載せたり巻きつけたりして、いつの間にかついた店の灯にじらじらした光を放っている。 「……杯が、ないが」 「瓶やですぜ旦那瓶や瓶や瓶やに杯など無体な!」 「ないのだな」 では用はない、他の者が瓶を開けるのを待つとしよう。 くるりと身を翻した業塵の肩をがしりと男の手が掴んだ。身内の蠱がざわめく。肩の形を崩して一気に男の手から這い上がり、食い散らかそうとするように蠢いた途端、男はもう片方の手で木箱を出した。 「…りぅはい」 上書きはそう読めた。 「瓶やにあるのはこれきりですぜ旦那瓶や瓶や瓶やはもう店じまいですぜ旦那!」 木箱を受け取ったとたんにどんと突き出され、ふよふよと前へ進んで振り返る。 背後は再びがらんとした店に戻っていた。天井に男が張りついているような気もしたが、戻って確かめれば、また騒がしい口上を聞かせられるのだろう。それはかなわないと業塵は歩き出す。 「竜杯、か」 呑めるかも知れないと期待した。 「天女酒ある? とっても美味な上に護身の霊験あらたかなお酒って聞いたけど」 桂花が入った『平凡堂』には男が一人座っていた。壁を埋める瓶と壺と甕、明らかに酒の匂いが漂う店と佇まい、狙っていた場所だろうと確信したが、近づくにつて嫌な予感がした。 目の前の男は、店の中でも編み笠を深く被って俯いている。土間に薄いむしろを敷き、周囲にうずたかく小箱を積み、その真ん中で背中を曲げて踞る、その背の曲がりかたに覚えがある気がする。 男は桂花の声にそっと片手を上げた。指差し方も、つい先ほど見たような気がする。不気味さに粟立つ皮膚を軽く撫で、桂花は男の指し示す方向へ近づいた。 棚の一つに白くて小さな甕が載せられている。コルクに似た蓋、銀色の封蝋でくっついているが、口のところを薄赤い紐で無造作に縛ってあるだけだ。 「こんなちゃちな甕じゃないわ。留め具と封蝋と蓋で厳重に封されてるって聞いたもの……」 桂花は振り返り、息を呑む。いつ立ち上がったのか、男が真後ろに居た。それでも編み笠を被って俯き加減に、やはり男の顔は見えない。低く曲げた背中がいきなり伸びたらどうしよう、そんな埒もない不安が過るのに、桂花は銃を確かめる。麻酔弾と氷結弾は仕込んでいる、それでもだめならダムダム弾と火炎弾に切り替える、だが果たしてそれで充分だろうか。男の接近になぜポチが吠えなかったのか、危険と見なさなかったのか、それとも? 男はもう一度、細い指を差し上げた。店の奥まった凹みの中、確かにそれらしき瓶が一本載せられているようだが、薄暗くてよく見えない。男はいつまでも顔を上げない、どんな表情をしているのか、ただうやうやしくお客の相手をしているのか、それとも薄笑いに唇を歪めているのかも。 「これがそうなの?」 桂花は大股に奥へ歩み入った。背後から付いてくる気配に瓶を掴んでくるりと振り返る。やはり居た。手をのばせばぶつかる距離に、編み笠の男は俯いている。銃を手に感触を確かめる。 「ところでこれを開けるにはどうしたら良いのかしら? まさか開けられない物売る気じゃないでしょうね。分かる範囲で教えなさいよ」 「……」 男はゆるゆる首を振った。ずい、と距離を詰めてくる。 「ちょっと」 「………だよ」 首を振りながらずいずいと男は桂花へと詰め寄ってくる。掠れた声を耳にしながら、何気なく男の背後を見やった桂花は銃を引き抜く。狙うのは間近の男ではなく、さっきまで座っていた場所に今も居る、薄ぼんやりとした影の方、そこから無数の絵姿が重なるように目の前の男に続いている、まるで折り畳まれた屏風のようだ。 「瓶は開けないのだよ娘を浸けるのだよ今お前をなあああああ!」 わんわんわん、と遠い場所でポチが鳴く。 がばりと後ろに倒れた編み笠の下、まるまる顔一面が大きな口と化した男の噛み鳴らされる牙に瓶を叩きつけ、怯んだ相手の隙を突いて桂花は擦り抜けた。もちろん火炎弾をお見舞いするのも忘れない。 「ぎゃあああああっ!」 「もっと早く吠えなさい、ポチ!」 セクタンを叱咤して、燃え上がる店から桂花は走り出す。あの瓶の開け方を聞き損ねてしまった。 「如何ですかいの、お気に入りはありましたかいの」 びたんびたん。 「あ、ああ」 メルヒオールは話しかけてきた『平凡堂』の店主、黒づくめの衣服の老婆の背後で大きく振られる濡れた尾を眺める。入った時から真っ白に濁った両目でもメルヒオールの出で立ちを言い当てたから、ただ者ではないとは思っていたが、店内を見て回るうちにびたんびたんと繰り返し鳴る音源を探って、さすがにちょっとたじろいだ。老婆の背後に伸びているのは、老婆の体ほどもある太くて黒い尾、ぬめぬめと濡れたそれは沼地に潜む蛇のようだ。だが、別にそれで何かを仕掛けてくる様子もなく、どちらかというと、メルヒオールに耳があるように、この老婆には尻尾がある、ただそれだけだと知ってからは落ち着いた。 「封印をした酒の封蝋を溶かす方法を知らないかな」 「封蝋ですかいの」 びたんびたんびたん。 「瓶には竜と遊ぶ娘が描かれているんだが」 「ほう、竜と遊ぶのですかいの」 びたんびたん。しかしお客さん、竜なぞとんと見もせんで。 「ああ、俺もだ。だから困ってる」 正直に打ち明けて、一瞬こういうやりとりはまずいかなとひやりとする。自分がいろいろつけ込まれやすい性質なのは先刻承知、魔女の類はとことん苦手だ。だが、この老婆は魔女というより動物の一種、そういう感覚がするのもまた確かなことで。 「わいら、竜と遊ぶとおっかさんが別の穴に突っ込まれる言うて叱られましたかいの」 げちゃげちゃげちゃ、と老婆は歯の無い口を大きく開けて笑った。 「瓶に封じられた娘が、その中で竜と出会い、どこか別の世界に抜け出てしまった、ってことはあるかな」 ぶつぶつ口に出してみる。いやそれよりも、と発想は形を変えて膨らんだ。むしろ、竜と遊ぶ、つまり交わってしまった娘を汚れと断じて、導師の力で瓶に封じたところ、娘は既にこの世ならぬ力を備えていたために瓶の中から抜け出てしまい、竜の棲む世界へ逃れ出た、そう読み解いてみるならば、あれほど厳重な封も頷ける。千年という期限は娘がこの世に繋がる道筋を完全に断つための期限ではないのか。あの瓶は開けるとそちらの世界へ通じてしまうのではないか。 「龍涎香のような封蝋らしいんだ」 びたんびたんびたん。 「ほんにお客さんはええ男ですかいの。わいらみたいな婆が放っておきますかいの」 「っ?」 耳に囁かれてぎょっとして振り向けば、奥の座席に尾を突っ張り、老婆が空中を飛んですぐ側に浮いていた。だれりと垂れた黒服の下、金銀、赤銅の鱗が光る。細めていた目を見開かれてみれば、爛々と輝く鮮やかな緑の瞳、立て割れした瞳孔がうっとりと細められている。 「残念ですかいの、他の女の手さえなければ、封蝋どころか、あんたさまを溶かして瓶に詰め、あの棚に並べて置きますかいの」 「っ……え」 金の尖った爪で摘まれた小瓶を、そっと差し出されてメルヒオールは瞬いた。全身逆立った毛はなかなか落ち着いてくれないが、どうやら石化した体が逆に『お手つきもの』として認識されたらしい。 「これは、何だ?」 受け取った小瓶は黒かった。ガラスの蓋に触れてぞくりとする。今まで知らなかった奇妙な術式、だが一つ一つは変形しているが自分の知識にもあるものだ。 「りぅむすめ、とありますかいの。その蓋を開けられたら、封蝋にかけてみられますかいの。娘は喜んで身を開きますかいの」 びたんびたんびたん。 尾の叩きつけられる音にはっとして顔を上げると、老婆は元通り店の奥に鎮座している。だがしかし、ふ、ふ、と周囲の灯が消え始めた。びたんびたんと鳴る音が次第次第に洞窟で鳴らされるそれのように深くなる。 「く…っ」 広がる術はメルヒオールにはわかる。灯が消えた瞬間に、ここに居たものは異界に連れ去られるはず、空間転移の術式だ。 「おいおいおいおい、おいっ!」 走るのは苦手なんだよ、ほんの少し手加減してくれ! 心の中でののしれば、老婆がげちゃげちゃ闇から嗤った。 ほんにええ男は役得ですかいの。二度はない架け橋を逃げ切りますかいの。 「う、わっ!」 最後の一足を飛び出した矢先、背後の闇がごそりと抜けた。寒気とともに振り返れば、そこにはただの空き地があるだけだ。 「とにかく酷い目にあったわ」 桂花が膝小僧にできたすり傷を摩れば、 「もう少しでもってかれるところだった」 メルヒオールが無意識に右肩を撫でる。 「あの子はどこから来たのかな」 そもそも生き物だったかどうか、とイルファーンは微笑み、 「……これを」 業塵がごそごそと木箱を取り出す。 「なかなか面白い人物だったぞい」 「手に入れたけど、読めないの。幾つか辞書も当たったけれど、該当するものがないわ」 アコルが促して、Yは残念そうに手に入れた本をボルツォーニに差し出した。 「皆さん、大変だったようですね」 集まった場所は鳴海の司書室、司書室とは名ばかりの酒場仕様なのは周知、慌てて片付けたらしいテーブルに、コップや別種の酒、小皿にピーナッツやチョコレート、ハムやチーズ、唐揚げやフライもの、寿司まであるのは誰かの手を借りたのか。 「では、始めようか」 「びゅい!」 黒い小動物は主が本を取り上げるのに、いそいそとテーブルに立ち上がった。両手風のものを差し伸べるが、相変わらず主はそっけなくページを捲る。 「これは、古語だな」 ボルツォーニは興味深いと言った表情で文面に目を走らせた。古語の理解には千歳以上の制限は有利になる。古語を実体験として理解しているからだ。そういう意味合いもあったかと含みつつ、 「『陰陽ノ境ヨリ酒気出ヅレバ解法自ヅカラ定マル』…留め具を解く鍵はこの一節だろう」 瓶の留め具をじっと眺めた。触れてみる。陰陽の境とは何だろうか思案しながら触っていくと、繋ぎ目がなく複雑に組み合わされただけに思える留め具に、二つの異なった気配が組み合わさっているのを感じ取った。 「ふむ」 これが陰と陽とすれば、その境目とは。 「これは封印した者からの、遊び心ある挑戦状のようなものだ」 単に禁を犯した何者かを処罰するために封をしたのではあるまい。情報収集してきた者の話を総合すると、この瓶は異界への入り口となることを恐れられて、これほど厳重な封をされたと考えられる。だが、わざわざ千歳以上の者と、謎を解く鍵を残した。いずれ時がくれば解かれてもよいと言うほのめかしではないのか。 五感に加え六感も駆使して探る。不死者の嗅覚は、留め具の一点から漏れる、幽かな酒の香りを嗅ぎ取る。 「ここか」 周囲の者がごくりと唾を呑み込み見守る中、ボルツォーニは親指を押し当て、容器の中へと至る道を探るように意識を集中させる。瞬間、黄金色の光が、複雑な幾何学模様を描いて留め具の面を走った。模様は目まぐるしく組み変わり、複雑なそれは徐々に単純で大きな塊と化す。 「…ああ」 Yの漏らした溜息と同時に、硝子の砕ける音をたて、留め具は真っ二つに割れた。ボルツォーニは満足げな顔で目を上げる。周囲の驚きの視線の中、齢1600歳の君主は微笑した。 「私の魔術武器を組み替える時の感覚とよく似ている」 第一の封は開かれた。 「特殊な力で力尽くだと割れるんじゃな」 留め具の下から現れた封蝋にアコルは待ち切れぬよう体を揺する。アコルは、留め具もこの封蝋も「霊」に開けさせるための仕掛けではないのかと思っていた。先祖代々の霊が家主を守るために作った酒、ならば清らかな心を持つ霊にちょいと開けさせてみてはどうか、と。 その側で業塵はのんびりと木箱の紐を解いている。 「それですか、りぅはい、というのは」 「うむ」 イルファーンに頷いて、木箱の蓋を開ければ、中には黄色がかった薄い紙に包まれた深緑の杯が入っている。たった一つの杯なのかと思っていたが、杯は薄く軽く、重ねられて包まれており、数えてみると八つある。 「八大龍王降臨さるか」 「ちょうど八つ、まるでこの酒に呼ばれたようですね」 イルファーンが杯を配る。 封蝋は如何にして解くか、そう皆が首を捻った時、メルヒオールが黒い小瓶を取り出した。 「謎掛けをされてこの小瓶を開ける術式は見つけ出した。同じ構造だと思うんだが、ただそっくりそのままじゃないだろう」 メルヒオールは同時に紙を取り出した。『りぅむすめ』を封じていた術式を反転させる魔法を構築して『力ある言葉』にしておいた。口にくわえ一気に破る。紙の切れ端が眩い光を放ちながら溶け崩れ、同時に封蝋にも小さなさざ波がたった。 「おお、溶ける」 「いや、まだだ」 この術式は鍵にしか過ぎない。門を開くのはもっと物理的な力、メルヒオールが続いて破った紙が今度は黒い小瓶の蓋を浮かせる。紙を吐き捨てた彼は小瓶の蓋を取り、ぶわりと膨らんだ虹色の中身を封蝋部に注ぎかける。むちゅり、と蓋が緩んだ。封蝋がとろとろと銀色の雫になって瓶の表を流れ落ちる。 「触れるなよ」 メルヒオールは手を伸ばそうとしたイテュセイに警告した。 「不安定な分解だ、へたに元に戻られると指から離せなくなる」 とろとろたらたらと封蝋は香気を発しつつ溶け落ち続けた。竜と遊ぶ娘に流れ落ち、きらきらと表面を輝かせる。やがて、全てが溶け落ちた後、メルヒオールは深く溜め息をついた。黒い小瓶の蓋を急いで閉める。なおも盛り上がり溢れようとした中身に、再び紙を破って術をかけ、きちんと封じた。 「もういいぞ」 「凄い…固まってしまってる」 Yはおそるおそる手を触れて感嘆した。 「蓋も今にも動きそう」 後は呪文か何かかしら、それとももう一度、本から情報を探さなくちゃならないのかしら。 蓋の文字をゆっくりと撫でながら、Yは『千』というキーワードで関連情報を脳内書籍から思いだしたが、膨大すぎて余計わからなくなってきた。千の文字の各部分がだんだんばらばらに見えてきて、その意味を失っていくようだ。思いつくままに口走る。 「千を十にすればいいのではなくて?」 「千を十に? どうやって?」 桂花がわけのわからない顔で首を傾げる。 「ほら、この上の棒を外してしまって」 「外すのも難しそうだけど、十になればどうなるのかがわからないわ」 「そ、そうよね」 違っていたのかしら。今にも開きそうな、でも触れるとどうにも浮いてくれそうにないこの蓋を、どうすれば開けられるのかしら。 「先ほどの考えで言うと、こちらは家主……生きている人間じゃな。そちらが開けることになるのじゃろうか」 アコルがシュルシュル舌を出した。留め具も封蝋も、生身の人間ではないものが開くヒントをくれている。となると、 「こちらも飲ませるに値する、心清らかな人物が開けるべきなのかのー」 後は一つ蓋だけだが、その蓋を開ける術が見つからない。 業塵がおそるおそる瓶に手を伸ばした。覗き込んでみるが、今は何も見えていない。そっと引いたり回したり、いっそ瓶の中に押し込むか、と力を込めたのは、同居人がワインが開かない時にやったのを見ていたからだ。だが、蓋は上が大きく下が小さくできている陶器、そういう具合にはいかないようだ。 ここまで粘って、後少しというところで、中身を呑むのに砕くしかない、そんな無粋を選ばなくてはならないのかと溜め息をつき、業塵は小さく呟いた。 「お前を愛で愉しみたいが…その気になってほしいものよ…」 肴もこうして揃っており、呑み手も杯を手に待ち構えており、宴はもうお前が揃うのみであるのになあ、と吐息を重ねた、その瞬間。 ぽぉんっ! 「何と」 業塵の腕に抱えられた瓶が、くすくすと小刻みに震えたような気がした。ボルツォーニとメルヒオールが、異界への扉を警戒して身構える。イルファーンが桂花とYをすぐに庇えるように立ち上がり、イテュセイが大きな一つ目を煌めかせて覗き込む、その中央で、瓶の口から跳ね飛んだ陶器の蓋がアコルの頭を軽く打ち、はああ、と甘い吐息が瓶の口から零れた。 「開いた!」「開いたわ!」「うむ、これは」「なるほどのう」「何て綺麗な」「酒、でいいのか」「びゅういいっっ」「ふむ」 それぞれの口から零れた歓声に包まれるように、瓶の口から立ちのぼった薄桃色の霧が、ふわふわふわりと広がって、見る見る密度を増してくる。 それは確かに天女の姿だった。甘い肌の色、紅の唇、細めた瞳に滲む笑み、豊かな胸を滑らかな腕で抱え、その腕から閃く桃色の布が見守るロストナンバーの鼻先をくすぐる。上半身がすっかり現れると天女は笑みを深めて両手を開いた。胸乳が零れて揺れる。半透明の布を翻して指先を杯の上に差し出すと、するりと蕩けた指先から淡い桜色の液体がそれぞれの杯に注がれた。八つの杯になみなみと注がれた酒を、真っ先にイテュセイがごくごく飲み干す。 「っぷ、っはーっ!」 何だかこれ、あの梅酒を思い出すわね! うっすら赤く染まった頬で、イテュセイが呟く。 「千の山脈から千個づつ石を採り、千の川から千種づつ苔を採り、それらを千人が千日かけて搾り、出てきた水を千日煮詰めると深い青緑色の結晶ができる。それで千年生きた梅の木の実を漬け込み作った梅酒! おいしかったなあ!」 そうそう、あれも思い出す、と指を振ってことばを継ぐ。 「北の地の養老の滝の注がれ泡立った所の水! この世のものとも思えない甘さと心地よさを味あわせてくれたわ!」 あれ以来二度と巡り合えなかったけど、本当に人間って愚かよねー。 呟いたことばの真意はわからないが、満足そうに杯を撫でる。 「ほんとはお酒はあまり得意ではないの」 Yは恥ずかしそうに呟いて、杯に唇をつけ、目を閉じた。 「ああ、私、あのお酒を思い出すわ」 教え子に無理に誘われて、盗み飲みしたことがある。まるで癖がなくてするする飲めて、ほんのり甘くて幾らでも飲めそうで。何のお酒か知らないけれど、一族の秘蔵の酒だとか。 「あの時、私、初めて笑ったかもしれないわ」 くすくすとくすぐったそうに頬を押さえてYは笑い、もう一口呑む。 その隣で桂花は珍しく無言で酒を含んでいる。酒豪でいろいろな酒を呑み慣れているはずの彼女が、何も言わずにこの不可思議な酒の杯を干している。伏せた瞼がやや蒼い。擦り傷のはずの膝を繰り返し撫でている。眼鏡を外して、目を擦り、 「おいしい……なぁ…」 小さく微かに呟いた。 「…懐かしい味がするね」 イルファーンが杯を傾ける。 「篝火に照らされ歌い躍る娘たち、肩を組んで笑い合う男達……彼等と車座になって呑んだ美酒、杯の水面に移る僕も、彼等と同じ顔で笑っていた、まるで人、であるかのように」 燃える炎の熱、差し伸べられた腕、澄んだ夜空に舞い上がっていく歌声の旋律、見交わす視線に人も精霊もなかった。 イルファーンの瞳が微かに潤んだ。一瞬口を噤み、やがて、 「今はもうない…遠い記憶だ。でも、胸を痛ませるだけじゃない……優しく愛しい思い出だ」 「これまで最も旨かった酒、か」 ボルツォーニもまた懐かしく思い出す。 彼の領地で最も盛んだったのは葡萄酒作りだった。豊かな陽射し、柔らかな風。なだらかな斜面一面に広がる葡萄畑のある景色を、彼は愛していた。そして、実りの秋ごとに作られる葡萄酒は、毎年の楽しみだった。膨らみのある香り、時に記憶を、時に想いを揺さぶる深い味わい、歳月を越えてまた、豊かさを増す収穫の宝玉。 「どの年も、私には当たり年だった」 この酒もまた、深い想いを注がれ育てられて来た逸品には違いない。 「びゅい? びゅーい?」 口許を僅かに笑ませる主を黒い小さな生き物は伸び上がり、首を傾げつつ何度も見やる。 「酒じゃ酒じゃ、どんな味なんじゃろうなぁ? 楽しみじゃなぁ。酒の効果はどうでもええ。味を楽しみたいんじゃよ」 アコルはYに支えられた杯にいそいそと舌を伸ばす。 「んーむ、これは神になった時に飲まされた御神酒にちょこっと似ておるかのぉ」 問わず語りに話し出す。 今までの自分から神へと存在を移すために必要な儀式の酒だった。一瞬魂がすっ飛んで生まれ変わった気分になった。 「まぁその1回だけしか飲んだことはないんじゃが。不思議ともう一度飲みたいとは思わんのじゃよな」 「ふう、む」 メルヒオールは目を閉じる。 杯の酒はいつかの酒よりは軽かった。舌触りはさらりとして、意識を奪うほど強くはないと思えた。なのに、数口含んだ後、目眩のように立ち上がるのは父が注ぐ蜂蜜酒、兄と賑やかな姉と囲んだ食卓、ああ、あの酒はなぜあれほど体の隅々まで温めたのか。 そこへはもう帰れない、いや今はまだ帰れない、そう言うべきだ、だってまだ、俺は話すべきことばをじっとこの胸に抱えてる……。 「……さても不可思議な」 業塵は揺らめく指先から落とされる雫を受けては飲み干し、飲み干しては受け、杯を重ねる。 思い出すのは昔、短い間一緒に居た人間達と飲んだ酒。何の力も無い平凡な身を厭う事なく、畑を耕し、糸を紡ぎ、慎ましく暮らす者達が、年に何度も無い祭で労い合い笑って飲む。侍も農民も猟師も共に。人間との酒などとは思ったが美味かった。皆死んだからそう思うのか。 「……」 再び干した杯に、もっと呑めとばかりに酒が新たに注がれる。周囲を見回せば、杯の行き渡らなかった鳴海にも、天女は寛大に雫を注いでいるようだ。だが、一口、口にした鳴海が、きゅうとかぽおとか呟いて崩れたのが目に入る。くるくる目を回し何と言う有り様、あれで世界司書なのだ、笑止千万。 そうやって眺め回せば、イテュセイは大蛇のようにがばりがばりと喰らってる。イルファーンは品よく味を確かめながら楽しみ、ボルツォーニと銘酒について語り合っているようだ。アコルは満たされた杯に満足せず、杯を底に沈めた大きな器でなみなみと、桂花はいささか沈んでいたようだが今は元気よく料理を平らげ、別の酒を鳴海の棚から探している。そうしてYは、 「ほんとっ、どうして気がつかなかったのかしら!」 竜と関わった娘が天女と呼ばれても不思議じゃないし、ただの危ないお酒にあそこまで厳重な封を施すはずもないじゃない! もっと早くに気づいてもよかったのよほんと! 悔しがりながら杯を干し、でも何て綺麗な天女様、これって幻なのかしら、それとも霊? アコルお爺ちゃんどう思う、と尋ねている。 霊でも人でも良いではないか。 業塵は杯を干す。またあえかな色の酒が注がれる。同居人達と飲むのもこの場も、決して悪くは無い。このような場に加われたのも、Yと鳴海司書のおかげだ。 「宴と縁、まさに重畳の極み」 天女の笑みに次の杯を差し出し、業塵は低く呟いてYに杯を差し上げ、干してみせた。 「美味しいわよね」 Yも笑み返し、溢れかけた杯を差し上げる。揺れて跳ねた飛沫から香気が弾けて金粉となり、司書室の空気をも酔いに染める。いつの間にか、天女は頭上に龍王の冠を戴き、微笑みながら八本に増えた腕を差し伸べて、それぞれの杯に無限に酒を注ぐようだ。どこからか花弁が散ってくる、ひらひらと舞い、見上げる視界を明るく彩る。Yは満たされた杯で落ちてくる花弁を受け止めた。 「縁と宴、か」 ひょっとして鳴海のプレゼントはこれだったのかしら、そこまで考えてくれたのかしら。誰も彼も好き勝手なことをしているのに、なんて皆のびのび楽しそう。 考え探る目を当人に向けるが、鳴海は既に床に伸びている状態、気持ち良さそうに爆睡しているところを見ると、そこまで考えていたとは思えない。 業塵の抱えていた瓶がふるりと揺れて、浮かび上がっていた天女がするすると瓶の中に戻っていく。気づいた業塵が瓶をテーブルに置いた。天女は見る見る薄まり消えていく。吸い込まれて消える寸前、最後にこちらを振り返った気がして、Yは微笑んだ。 「素敵なプレゼントになったわ……ありがとう」 ことばと同時に、天女を吸い込んだ瓶は薄白く煙ってぴしりとひびが入った。 千年の夢は、今、閉じた。
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